Valduga, Patrizia (ヴァルドゥーガ)

2008年6月21日 (土)

レクイエム 3

V.

一粒の涙で、あなたは屈した、
平穏と悲哀の慰め...
知っていた、たぶん、知っていて、望みを持っていた。
「もうこれ以上はだめだったんだ、パトリツィア」
大きな威厳を持って、あなたは
あんなに腫れて、黄疸の足を運んでいた。
あの涙に免じて、父よ、許してください、
ただ一度の放棄の瞬間に免じて。

VI.
座って、あなたの苦しみに説いていた、
私たちに介護の苦しみを与えないようにと
あなたの苦しみはすべて心の中
あなたが祝福したわずかな人生を
あなたは名誉をもって、
一日、一日と失った、私たちはこんなに
死者の夏に、黄金の太陽をあびて生きているのに。
たぶん彼らにあなたの苦痛を語っていたのだ。

VII.

あなたは、きっと遠いいとおしい歳月に向かって走っていた
死者とともに、別の心を持って、
そして黙り、手を見つめていた。
日々を数え、時間を数えていた、
遠い日々の別の時間でもって、
きっと鼓動を数えていたのだ、
そしてわたしにショパンや第九に
つきあわせるべく語った。

VIII

ああ父よ、今わかりました
今やっと多くの人生をへて、
お願いしゃべって、もっとしゃべって。
私は堕落した娘、ある日
遠くに逃げ出し、その時から遠く
あなたのこと、あなたの人生は何も知らず、
あなたの喜び、苦悩も、まったく知らず、
私は40になりました、父よ、40歳に!

ヴァルドゥーガ(Patrizia Valduga)の『レクイエム』から。
(訳者妄言)この詩では、韻の関係もあるが、それ以上に、訴えかける行為のために繰り返しが多い。最後のVIIIを原文で記してみる。

Oh padre padre che conosco ora
soltanto ora dopo tanta vita
ti prego parlami, parlami ancora:
io fallita come figlia, fuggita
lontano un giorno, e lontana da allora,
non so niente di te, della tua vita,
niente delle tue gioie e degli affanni,
e ho quarant'anni, padre, quarant'anni!

実に平易な言葉で語られている。韻は、abababcc である。それでいて、彼女の父への痛切な想いが伝わる。型のための型、技巧のための技巧を越えた技である。

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2008年6月14日 (土)

レクイエム 2

IV.

食べるという途方もない責め苦
来る日も来る日も、一日二回
あえて口には出さない災厄とともに、
来る日も来る日も、慈悲を求め、
倒れるまで慈悲を期待し、
骨と皮だけで倒れ、ある日
屈服し、病院に行く...
父よ、あなたは災厄が何であったか知っていたのでしょうか?

ヴァルドゥーガの『レクイエム』から。
(訳者妄言)
父は具合が悪いと知りつつ、ぎりぎりまで医者に行かなかったらしい。

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レクイエム

I.

魂よ、迷える魂よ、
私はお前にどう赦しを求めてよいのか判らない、
精神は沈黙し、とても明晰で
私をとても明晰に見ているので、
もう言葉を知らないのだ、魂よ、
赦しに値しない精神、
私は命の縁で沈黙する

お前にそれを与え、命のなかにお前を保つために。

II.

おお父よ、父よ、私の心の祖国、
長い間、あなたの不運とともにいて
何日も、何日も、恐怖の夜、
脳の輪切りの連続のように
あなたを見る、一人、一人で愛もなく
黙って、あなたの不運に溺れ、
知り、理解し、愛さない人と、
理解せず、愛さない人の間で。

III

なんという闇の時間をあなたは過ごしたことでしょう、
何年も、一生にも匹敵する時間、
ついにはこの11月、冷たい風に、
黄ばんだ葉叢(はむら)に絶望し、
葉叢(はむら)のように黄ばんだ父は吹かれる、
命の冷たい風のすべてに、
誤解され、消散した愛に、
あなたには与えられなかった愛に。

ヴァルドゥーガのの長編詩『レクイエム』の冒頭3編。

(訳者妄言)

一連8行のottava rima.

I の行末は、

        cara,
      perdono,
        chiara,

         sono,

         cara,

       perdono,

         vita

         vita

となっている。韻としては、abababcc という形である。II, III も同様である。

愛の詩人のヴァルドゥーガが、異性間のエロスではなく、父と娘の命の瀬戸際での愛を歌いあげている。父の人生、女性関係も波乱に富んだものであったかと想像させられる。それまでは父に反発していた娘であったが、父が危篤に陥ったことを機に反発が解け、愛がほとばしり出たのであろうか。

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2008年6月 9日 (月)

苦悩する女

ああこんなはずでは!わたしが、ここで滴に?
溶けていくナメクジ・・・わたしが?
溶けていき、私をすすぐ心、
内蔵、腿(もも)...すべてが水に...
こうして続いていくのだとしたら、疑うことなどできるの?
少しずつ、少しずつ、この肉も
穿(うが)たれ、去っていく。
ああ、まだ、いやよ、いや、私のはやめて、
まだ、時間があるの、いってるでしょ、時間が、
でも、どの時間、飢えた骨、肉の
時間!ほら、すべてが、私を流れていく、
何年も、何年も、何年も、噛みついて、
私の脳みそを一皮、一皮囓(かじ)って。
少しの力も無く、内蔵の
動かぬ力で、足に服をまとう。
でも、これではないし、これでもない、
ひょっとして、私もう、足も、腕もない...
だったら、頭もない?顔もない?
何が残ってるの?何も残ってないの?
私に残ったのは、精神。意外なことに、
精神が残った。精神だけじゃない。
ちょろちょろドブみたいに流れるのも、
私から?まさか、脳みそじゃ?
私はいまや、屠殺場で皮を剥がれた
獣のよう、四つ裂きにされ、水抜きに釣らされているのか、
ドアが釘付けになっていても、
まだ私は歩けるかのように?ああ、お願い、
私の姿は見えず、ひょっとして、
私を見た人は、虚脱状態に陥るのか。
何もわからない、私には関係ない、
でも私の眼、ああ、私の眼、
私の眼が見たもの、たとえ恐ろしいものでも!
そして闇、ドアが間に入った。

ヴァルドゥーガの『苦悩する女(Donna di dolori)』(1991) から。

(訳者妄言)語り手の女は、死んでいるが、そのことを自覚していない。この状況は、彼女の肉体への執着、焦燥をかきたてる。

詩型は、endacasillabo(11音節)で、対韻(rima baciata)である。
即ち、行末だけしめすと、
    sgorcciolio?
              io?
             sciacqua
              acqua...
             dubitarne?
              carne
と、2行ずつ、同じ韻で進んでいく。

この詩にいたってヴァルドゥーガの詩は、演劇性を強く帯びる。舞台でパフォーマンス(独白)をするのにふさわしい。実際、この作品は、ルカ・ロンコーニの演出で舞台にかけられた。

お断り
 訳者としては、読み方が複数あったり、読みを指定したい時に、振り仮名(ルビ)をつけたいのですが、ルビは特殊文字になって文字化けを起こしやすいので、(  )の中に読みを挿入しています。お見苦しいですが、頭の中で、ルビに転換してお読みいただければ幸いです。

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パトリツィア・ヴァルドゥーガ 2

わたしは、ある日、二匹の蠅を見た。
一分間に百突きと、人は言う。
彼女の手が、あなたの周りにあるのを見た。
あなたの腰を、嬉しげに、締めつけていた。
種をまけ、呪われた山羊座の人よ、
たまたま、イクところへ...ベッドへ、
そう、双翅目のあそびのプロよ!
ああ神よ、私は、たしかに地獄よ!

ヴァルドゥーガ(1953-)のMedicamentaから。

(訳者妄言)
激しい嫉妬の詩であるが、ここでもヴァルドゥーガは、きわめて古典的な詩形を用いている。8行詩、ottava rima である。この詩形は、ボッカッチョも短詩(poemetto)に用いており、その後、アリオストの『狂えるオルランド』やタッソの作品で使用された。

トスカナ地方での ottava rima の脚韻はabababcc であり、シチリアではabababab であった。ヴァルドゥーガはトスカナの脚韻をきわめてオーソドックスに踏襲している。行末は、
       giorno:
               detto.
               dattorno,
               diletto.
               capricorno,
                A letto,
                l'esperto!
                 certo!
となっている。最初の6行は、脚韻がababab となる交差韻(rima alterna)で、最後の2行は、対韻(rima baciata, 英語でいう couplet )である。

激しい嫉妬の感情と、裏切った(?)男を蠅に見立てる機智、奇想(concetto)と、それを盛る伝統的な詩型が、三つ巴になっている。

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2008年6月 8日 (日)

パトリツィア・ヴァルドゥーガ

来て、入って、私を摘んで、味見して、試して...
私を圧し、解かし、苛んで...
私を燃やし、プログラム化し、更新して、
加速し...減速し...迷わせて。

私を焼いて、茹でて、噛みついて...だっこして。
そして私を解かし、混ぜ合わせ...驚かして...
私を傷つけ、破滅させ、私を見いだし、尽くして。
私を穴から追い出し...灼いて、燃やして、赤くして。

私を締めつけ、ゆるめ、減らし、増やして。
私を飼い慣らし、打ち破り、狼狽させて...
私を分離し、むさぼり喰い...私を立証して。

私を縛り、溺れさせ、そして無にして。
私を眠らせ、そしてまた入って...もう一度試して。
私に冠をかぶせて。不滅にして。銀色にして。


パトリツィア・ヴァルドゥーガのMedicamenta(1982)から。

(訳者の妄言)
改訳しました(2009年6月7日)。
激しく燃える愛の詩であるが、怒濤のように押し寄せる動詞+私(comprimimi, discioglimi tormentami.../infiammami programmami rinnovami) の連続で押し切る力業と、にもかかわらず、形式的にはまったく古典的なソネットであるのに驚きを禁じえない。

周知のごとく、イタリア式ソネット(sonetto)は14行詩で、4+4+3+3の4連に区切れるが、 ヴァルドゥーガ(Valduga)のこの詩の場合、脚韻は、たとえば第一連が(provami, tormentami, rinnovami disorientami)と全部の行がami で終わっているのだが、つぶさにみると1行目と3行目はovami が共通し、2行目と4行目は entami が共通していることがわかる。以下3連もすべてこの2つの韻だけで構成しており、韻の種類の少なさ、繰り返し、はこのソネットの際だった特徴であり、リズムの力強さ、詩行のスピード感を醸成している。

ちなみに、詩の行末だけを示すと以下のようになる。
       provami...
               tormentami...
               rinnovami.
               disorientami.

               covami.
              spaventami...
              giovami.
               arroventami.

               aumentami.
               sgomentami...
              comprovami.

              annientami.
              riprovami.
              Inargentami.

さらに詩の形式的なことを言えば、この詩はイタリア詩のもっとも伝統的な詩行である endecasillabo でできている。endecasillabo は11音節と訳され、原則はそれでよいのだが、実は、第10音節目にアクセントがあるということが約束事で、12音節になっても 第10音節目にアクセントがあればendecasillabo である。この詩は、provami の o , tormentami の e にアクセントがあり、12音節の endecasillabo  の詩である。

という形式的なことと同時に、そしてそれ以上に、女性が自由に愛を謳歌できるようになった時代の、高らかな宣言でもあるだろう。

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