Magrelli, Valerio (マグレッリ)

2008年8月14日 (木)

マグレッリ:《G.Berkeley》

G.バークレイ
人知原理論、
第一部、第30,31,32節

経験の教えるところでは、あらゆる観念には、
ものごとの通常の流れのなかで
もう1つの観念がともなっている、
だから予見する力は、
われわれの行動に、
生活の必要に応じた規則を与える。
さもなくば、即ち、われわれに
感覚の痛みを与えたり、取り除いたり
するような方法を何も知らないというのは
当惑することだろう。
あらゆる手段は、
その結果へと
自然によって確立された法則にしたがって導いていく。
それ無しでは、我々は不確かで、混乱し、
大人も、生まれたばかりの赤ん坊より
うまく生きることができないだろう。
しかしながら、魂の知恵を示す
この統一的な機構は、
別の理性を求めてさまよう
われわれの精神を彼へとは導かない。

(訳者妄言)
タイトル通り、非常に高度に哲学的な詩である。バークレーはアイルランドの聖職者だった哲学者(1685-1753)で、Esse est precipi , 存在することは、知覚されることである、という哲学を開陳した。誰かに見られたり、触られたりしていないと、そのものは存在しないのである。では、誰もいないときには、どうなのですか?というと神が見ている、という答えが返ってくるわけである。

この詩は、特にバークレーの『人知原理論』第一部第30,31,32節を、詩のタイトルにかかげている。ここでバークレーは、感覚による観念は、想像力による観念よりも強いこと、また1つの観念はもう1つの観念とむすびついていること(現代風にいえば、原因と結果ということです)などを論じている。

この詩だけでなく、マグレッリのこの詩集での一連の詩は、見ること、知覚することと存在、あるいは書くこととの関係を問うた詩であると言えよう。

原文は、

G.Berkey,
Trattato sui principi della conoscenza umana,
Parte prima, paragrafi 30, 31, 32

ここまでがタイトル、以下、本文です。

L'esperienza c'insegna che ogni idea
s'accompagna a un'idea
nel corso ordinario delle cose,
e che quindi poter prevedere
da' regola alle nostre azioni
secondo le necessita' della vita.
Altrimenti sarebbe il dubbio,
non saper nulla in modo
che ci desse o levasse
il dolore dei sensi.
E ogni mezzo conduce
ad un suo risultato
secondo leggi stabilite di natura.
E senza, saremmo incerti e confusi
ne' un adulto saprebbe vivere
meglio d'un bambino appena nato.
Tuttavia questa meccanica uniforme
che indica la saggezza dello spirito
non guida verso lui la nostra mente
che vaga in cerca d'altre ragioni.

極端なことを言う哲学は詩的であり、考えを煮詰める詩は哲学的なのだ。

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2008年8月13日 (水)

マグレッリ:《A quest'ora l'occhio》

この時間、眼は
自分自身に帰る。
身体は、眠るために、脳に
閉じこもりたいようだ。
手も足も、帰宅する。
もう遅いのだ。電車の座席に座る
この二人の若い女は
眠りこけ互いに頭を傾けあい
正体もなく休んでいる。
牧場の動物である。

(訳者妄言)
これも、以前に登場した詩だが、ここで再登場してもらった。マグレッリの詩集 Ora serrata retinae (網膜の閉じた時間、1980)のなかの最初のセクション Rima palpebralis (まぶたの詩)を、今回は詩集の中の順番通りに訳している。これは11番目の詩である。

原文は、

A quest'ora l'occhio
rientra in se stesso.
Il corpo vorrebbe chiudersi nel cervello
per dormire.
Tutte le membra rincasano:
e' tardi. E queste due ragazze
sul sedile

del

treno
s'inclinano col sonno nella testa
stordite dal riposo.
Sono animali al pascolo.

眼が、眼のあるべき位置、まぶたのなかに再び入る(rientra). 四肢が、本来のところに帰る(rincasano). 一日の終わり、身体は、仕事を終えて、勤め人が自宅に帰るように、自分の居場所、居所に帰るという見立てである。

それを体現している二人の若い女。その屈託のない様子が、牧場の動物のようなのだろうか。

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2008年8月12日 (火)

マグレッリ:《La penna non dovrebbe mai lasciare》

ペンは、書く人の手を
離れるべきではない。
もう、その骨であり、指なのだ。
指のように、引っ掻き、つかみ、指し示す。
思考の枝であり
その果実を与え、
遮蔽物となり、影を与える。

       
       
(訳者妄言)
ペンと詩人と詩は、三位一体で切り離せない、という詩論である。
ペンが、現実を引っ掻き、つかみ、指し示すのである。
「思考の枝」(un ramo del pensiero) というのも、メタフィジカルな比喩としての美しさと、ペンと枝の物理的な相似によるわかりやすさを兼ね備えている。

その枝が、offre riparo ed ombra というのは、枝に豊かに葉がはえて、日差しや雨をよけ、日陰を提供するというのは、ペンによって、現実を表現する(比喩やアイロニーなどのレトリックを用いて)ことにより、現実の暴力的な力から、自分(の心)を守るということだろう。

原文は、

La penna non dovrebbe mai lasciare
la mano di chi scrive.
Ormai ne e' un osso, un dito.
Come un dito gratta, afferra ed indica.
E' un ramo del pensiero
e da' i suoi frutti:
offre riparo ed ombra.

おしまいの3行は、ramo, pensiero, frutti, offre, riparo, ombra と r 音が支配している。イタリア語の r は巻き舌なので、英語の r とは異なり、独特の勢いがある。

それに対し、前半の鍵となる単語 penna, dito は、p, d という破裂音ではじまっている。

前半と後半をつなぐ4行目は、 dito と gratta, afferra  で、破裂音と r 音が共存、拮抗している。

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2008年8月11日 (月)

マグレッリ:《Dieci poesie scritte in un mese》

1月(ひとつき)に10篇の詩というのは、
これが11篇目だとしても、
多くはない。
それにテーマも多様でない、
どころか、ただ1つのテーマで
テーマとしては、今、扱っているものだ。
これは言わば、ここのページに
留まる限り、
ドアをノックしても、入れないし、
そうすべきでないということ。書くことは、
鏡ではない、むしろ
シャワーのぎざぎざ模様の入ったガラス、
そこで身体は、粉々になり
その影だけが、不確かだが
現実のものとして、現れる。
誰が身体を洗っているのかは判らないが、
そのしぐさだけは判る。
だから、細工の後ろを
見るのは重要だ、
仮に僕が贋造者でも
こまかい細工だけが僕の仕事だから。

           
          
(訳者妄言)
1ヶ月に10篇の詩だと、3日に1つの詩をつくっている勘定となる。それが全部同じテーマだというが、結局それは詩論であろう。詩をどう書くかを論じている詩。詩を書くことがテーマとなっている。

マグレッリによれば、書くことは現実を映し出す鏡ではない。風呂場の曇りガラスのようなもので、現実の影をうつすもの。

現実を生のまま写すのではなくて、加工され、屈折した姿で表すのである。

現代詩には、詩を書くことについての詩が少なからずある。

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2008年8月10日 (日)

マグレッリ:《Domani mattina mi faro' una doccia》

明日の朝は、シャワーをする
これ以外は、何も決まっていない。
水とタルカムパウダーの将来には
何も起こらないし、誰も
このドアをたたきはしない。川が
湯気と僕の間を斜めに走り
僕は隠者のように、ぬるい
雨に打たれて座るが、
幻覚も、誘惑も
曇った鏡を横切ることはあるまい。
動かず、静かに、尽きないせせらぎを
浴びて、僕は流れのなかにあり、
切り株か死んだ馬のよう、
しまいには、魂の孤独な三角州
に沿った思考に座礁する、
女性の性器のようにもつれて。

(訳者妄言)
シャワーを浴びることが、隠者の修行の水浴びと重ね合わされる。「聖アントニウスの誘惑」などにあるように、修行する聖者には、悪魔が様々な誘惑をしかけるが、それはないだろうというのである。
悪魔に誘惑はされないが、様々な思い(それはどんな思いなのだろう?女性に関わりがありそうだ)に絡みとられて座礁する。

原文は

Domani mattina mi faro' una doccia
nient'altro e' certo che questo.
Un futuro d'acqua e di talco
in cui non succedera' nulla e nessuno
bussera' a questa porta. Il fiume
obliquo corrrera' tra i vapori ed io
come un eremita siedero'
sotto la pioggia tiepida,
ma ne' miraggi ne' tentazioni
traverseranno lo specchio opaco.
Immobile e silenzioso, percorso
da infiniti ruscelli,
staro' nella corrente
come un tronco o un cavallo morto,
e finiro' incagliato nei pensieri
lungo il delta solitario dello spirito
intricato come il sesso d'una donna.

1行目の Domani, doccia, 最終行の donna 、その前の行の delta が詩の枠組みとなっており、そこに 終わりの2行の solitario, spirito, sesso が絡みつく仕組みである。シャワーを浴びて、頭の中もさっぱりしようとするが、孤独な魂は、女性を求めてやまないのだろう。

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2008年8月 9日 (土)

マグレッリ:《Essere matita e' segreta ambizione》

鉛筆になることは、秘かな野心。
紙の上でゆっくり燃えて
紙の中に、新たな形を
抽き出して、残る。
こうして肉体から痕跡に、
道具から、思考のほっそりした
構造となる。
肉体のまま、消滅するものもいて、
するとなおさら別離がつらい。
          
          
(訳者妄言)
どこかで読んだぞ、と思った方は、記憶の良い方です。このブログの最初にあげた詩ですが、今回は詩集の順序通りに訳しているので、配置上、再登場させてみました。

原文は、

Essere matita e' segreta ambizione.
Bruciare sulla carta lentamente
e nella carta restare
in altra nuova forma suscitato.
Diventare cosi' da carne segno,
da strumento ossatura
esile del pensiero.
Ma questa dolce
eclissi della materia
non sempre e' concessa.
C'e' chi tramonta solo col suo corpo:
allora piu' doloroso ne e' il distacco.

鉛筆という素材は、前の詩の4行目「石化した森」(un bosco pietrificato)と響き合っている。この詩は、単独で読むことも出来るのだが、連作として前後の詩との関係を見ていくのも興味深い詩である。

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2008年8月 8日 (金)

マグレッリ:《Questa piazza e' un orologio vasto》

この広場は広大な時計、
時のなかで自らをゆっくり測定し
調整する機械だ。
石化した森であり
岩礁であり、
精神の無音の日時計である。
       
       
(訳者妄言)
広場全体が時計で、そこに森や岩礁を見る。
ルカーチの言う物象化の反対の精神的営みにチャレンジしているのだろうか。

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2008年8月 7日 (木)

マグレッリ:《Cosi' si percorre la vita》

こんな風に人生は過ぎていく
やってこない一品と一品の間の
会食者の不安をかかえて。
パンをたくさん食べ、ワインを飲み、
おとぎ話のような食べ物の話をたっぷりする、
オレガノの宇宙、前代未聞の風味の
森林。すでに夜も更けた
食事をセーブしたうえで、
秘密の形のパンくずの砂漠で
(これは、左足だと判るでしょう)
アラビアの黒い死がわれわれを帰す。
            
          
(訳者妄言)
おしまいの4行半は
   
         E’ gia' tardi
e sul limitare del pasto
in un deserto di molliche dalle segrete forme
(e questo e' un piede sinistro, si vede),
la nera morte araba ci congeda.

レストランで、次の皿がなかなか出てこない不安。最終行の la nera morte araba は直訳すれば「アラブの黒い死」であるが、黒いインクでアラビア数字で書かれた勘定書きであろう。さらには、もう外は真っ暗になっていた、ということと二重になっているかもしれない。

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2008年8月 6日 (水)

マグレッリ:《Preferisco venire dal silenzio》

話すのは、沈黙からやってくるのが
好きだ。言葉をじっくり準備する、
小舟がしずしずと
岸辺に着くように、
一方、思考の航跡は、
カーブを描く。
書くことは晴朗な死だ。
世界は光に満ち、拡がり、
永遠にその一角を燃やすのだ。
        
         
(訳者妄言)
沈黙の中から、滲み出すように言葉が届く。書くことで、死ぬ、捨象するものもあるが、同時に、書かれたことには光があたる。

マグレッリの場合、厳密に韻を踏んでいることは少ないが、この詩ではかなり配慮があるように思う。


原文は
Preferisco venire dal silenzio
per parlare. Preparare la parola
con cura, perche’ arrivi alla sua sponda
scivolando sommessa come una barca,
mentre la scia del pensiero
ne disegna la curva.
La scrittura e’ una morte serena:
il mondo diventato luminoso si allarga
e brucia per sempre un suo angolo.


音としては r a の組み合わせが目立つ。2行目は parlare, Preparare に続き、行末がparola, 3行冒頭 cura, 3行目末はa のみで sponda, 4行目末はbarca,  5行目末は r のみで pensiero , 6行目はcurva, 7行目は serena, 8行目は allarga, 9行目冒頭が brucia となっている。

つまり、話すこと parlare, 言葉 parola, 書くこと(文章)scrittura に共通する音が r と a なのであり、この詩はまさにそのことがテーマの詩であるわけで、単に理窟だけでなく、音もその組み合わせで有機的に連携しているのだ。  

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2008年8月 5日 (火)

マグレッリ:《Prima dell'ultima curva del giorno》

一日の最後のカーブの前に
僕は言葉を摘みとり、ともに寝る、
夜中に、彼らは重く、
気を配った衣装をまとう。
彼らの足取りは、規則正しく
ページの白い漆喰に
一列に並んだレンガをはめ込んでいくよう。
高みから降りてくる壁は
ゆっくりと通過する記号。
窓も通風孔もないが、
丁寧かつみっちり
入念な高密度結合。
ただ一つの像として、
庭師がはがして、授かった
まだ硬くて、曇った宝石があるとよいのに。
 
     
(訳者妄言)
マグレッリの『網膜の閉じた時』(1980)から。眠り、夢のなかで、その直前まで、ああでもない、こうでもないといじり回されていた言葉たちは、自ずから整列し、きちんとした形をとりはじめる。意識と無意識の仕事を語っているのだろう。

            
             

 

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