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2009年3月

2009年3月30日 (月)

Luciano Erba: La Grande Jeanne

             グランデ・ジャンヌ

グランデ・ジャンヌはイギリス人と
フランス人の区別をしなかった
彼女の言い方では
手入れの行き届いた手をしている限り
港に住み、兄は
僕と働いていた
1943年。
僕にローザンヌで会ったとき
僕は夏服だったが
僕は彼女を救えるのだと言い
彼女の世界はそこにあり、僕の手の中
高い山で野兎を食べた僕の歯の中にあると言った。

結局
グランデ・ジャンヌは
良家の奥様になりたかったんだろう
すでに青い、大きな、ベールが三重の
帽子は持っていたけれど。


(訳者妄言)
ルチャーノ・エルバの詩。詩集 Il male minore  (1960)から。ルチャーノ・エルバは1922年、ミラノ生まれ。第二次大戦中はスイスに、1950年代はフランスに、1960年代はアメリカに滞在したのを除き、ミラノで暮らす。

文学部を卒業後、ヴェローナ大学およびミラノ大学でフランス語・フランス文学の教鞭をとる。専攻は17世紀、象徴主義、20世紀初頭の文学。

彼の詩は、アポリネールからトゥーレにいたるシュールレアリスムの影響を受けている。1954年、ピエロ・キアーラとともにアンソロジー Quarta generazione を出版した。

この詩は、エルバがスイスで過ごした時期の経験がもとになっており、主人公のグランデ・ジャンヌは娼婦である。彼女の描写は服装が基本になり、その上に、台詞がかぶさっている。

原文は、

La Grande Jeanne non faceva distinzioni
tra inglesi e francesi
purché avessero le mani fatte
come diceva lei
abitava il porto, suo fratello
lavorava con me
nel 1943.
Quando mi vide a Losanna
dove passavo in abito estivo
disse che io potevo salvarla
e che il suo mondo era lì, nelle mie mani
e nei miei denti che avevano mangiato lepre
                             〔in alta montagna.
In fondo
avrebbe voluto la Grande Jeanne
diventare una signora per bene
aveva già un cappello
blu, largo, e con tre giri di tulle.

(追記)
訳文4行目(原文3行目)を、「手入れの行き届いた手をしている限り」と改訳した。le mani fatte は次の行にある通り、Grande Jeanne の口癖だったようだが、fare le mani にマニキュアをするという意味があるので、男でも比較的経済的に豊かで、床屋で爪の手入れをしてもらっている男なら、という意味に解釈しなおした。

ジャンヌは、良家の奥様におさまりたいわけだから、相手はフランス人でもイギリス人でも身なりがよい、金回りの良い男性を求めているということなのだろう。

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2009年3月29日 (日)

Giorgio Orelli: A mia moglie, in montagna

      妻へ、山にて

広大な窪地の奥で
古い氷河から離れたがる
水のもとであおむけになり、
今は腕に刺青をした旅人は
ふたたび峠へ歩きはじめたが、
われらは雌牛をながめられる。
ほんの数匹は急勾配をてっぺんまで登りしがみつく
空腹も喉の渇きもなく
他の牛は中腹でもたもたし
たしかな草を
いがみ合うことなく、せっせとむしり、
かじりとる。ついに一頭が
木の如き頭を天にもたげ
汽船のように停まる雲にむかって鳴く。
牧童たちが使わぬ飼い葉をもってやってくる、
避けられぬ大騒ぎの天の使い、
すぐに二頭の雌牛が走りだす
悲しげで憔悴した目をして
われわれに近づいてくる。
でも君は余所の人だから、驚かないで、
君が内にはぐくむ子を驚かさないで。


(訳者妄言)
ジョルジョ・オレッリの詩。詩集 L'ora del tempo  (1962) から。オレッリは、1921年、カントン・ティチーノ(スイスのイタリアと接した州)のアイローロ生まれ。スイスで勉強し、フリブール大学を卒業した。大学では、ジャンフランコ・コンティーニのもとで学んだが、コンティーニは彼をスイスのイタリア語で書くもっともすぐれた詩人と定義した。

1945年にベッリンゾーナに移りそこで教職につく。ゲーテの詩を翻訳する。

ヴィットリオ・セレーニらとともにリネア・ロンバルダ(Linea Lombarda, ロンバルディア風)に含められる。Linea Lombarda はルチャーノ・アンチェスキが1952年に編んだアンソロジーで、そこにはヴィットリオ・セレーニ、ロベルト・レボラ、ルチャーノ・エルバ、ネーロ・リージ、ジョルジョ・オレッリ、レンツォ・モデスティが含まれていた。

リネア・ロンバルダの特徴は、単にロンバルディア州の風景を詠むとか、ロンバルディア出身あるいは在住の人というのではなく、具象への傾向、レアリズモ、倫理的、市民的社会参加への感性などが共通して見られるグループである。

オレッリの場合、パスコリやモンターレの影響を受け、自分の身近な事物を具体的に描写する。

この詩は、若妻とともに牧場にあって、牛が牧童の動きで騒ぎ出すが、彼女の心を静めようとする語り手の呼びかけで終わっている。

原文は、

Dal fondo del vasto catino,
supini presso un'acqua impaziente
d'allontanarsi dal vecchio ghiacciaio,
ora che i viandanti dalle braccia tatuate
han ripreso il cammino verso il passo,
possiamo guardare le vacche.
Poche sono salite in cima all'erta e pendono
senza fame né sete,
l'altre indugiano a mezza costa
dov'è certezza d'erba
e senza urtarsi, con industri strappi,
brucano; finché una
leva la testa a ciocco verso il cielo,
muggisce ad una nube ferma come un battello.
E giungono fanciulli con frasche che non usano,
angeli del trambusto inevitabile,
e subito due vacche si mettono a correre
con tutto il triste languore degli occhi
che ci crescono incontro.
Ma tu di fuorivia, non spaventarti,
non spaventare il figlio che maturi.

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2009年3月28日 (土)

Vittorio Sereni: Altro compleanno

       もう一つの誕生日

7月の終わり
サン・シーロ・スタジアムのバールの日除けの下
鉄柵と丸天井の間に
日に照らされた三日月形のスダジアム
巨大な空のたらいが唖然とし
浪費された時を映し、まさに
そこで一年がやって来て死ぬように見える
さらなる一年が何をもたらすかは知らず
この敷居をもう一度通過しよう
町の大波にお前の心が耐えるなら
スレートが夏の色を広めるなら。


(訳者妄言)
ヴィットリオ・セレーニの詩。詩集 Stella variabile (1981) から。詩人の誕生日は7月27日。誕生日は死への一里塚でもある。詩人は、ミラノで、バールからサンシーロ・スタジアムを見ている。セレーニはサンシーロに足繁く通ったのだという。

町の大波(10行目)は日常生活の生きにくさのもろもろであろう。

原文は、

A fine luglio quando
da sotto le pergole di un bar di San Siro
tra cancellate e fornici si intravede
un qualche spicchio dello stadio assolato
quando trasecola il gran catino vuoto
a specchio del tempo sperperato e pare
che proprio lì venga a morire un anno
e non si sa che altro un altro anno prepari
passiamoloa questa soglia una volta di più
sol che regga a quei marosi di città il tuo cuore
e un'ardesia propaghi il colore dell'estate.

ほとんど句読点がなく、長いひとかたまりの詩行になっている。

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2009年3月27日 (金)

Vittorio Sereni: Non sa più nulla, è alto sulle ali

           もはや何も知らず、翼にのって高く

         野戦病院127,1944年6月

もはや何も知らず、翼にのって高くにいる
ノルマンディーの浜辺で倒れた最初の者は。
それゆえ誰かが、今晩
ヨーロッパのための祈りを
つぶやきながら私の肩に触れた
その間新たなアルマーダ艦隊は
フランス沿岸に現れつつあった。

私は眠りのなかで答えた:ーそれは風だ、
風が妙な音楽を奏でたのだ。
もし君が本当に
ノルマンディーの浜辺で倒れた最初の者だったら
可能なら祈ってくれ、僕は、
戦争にも、平和にも、死んでいる
これはいまや音楽だ:
支柱にたたきつけるテントの。
天使の音楽ではない、わたしの
唯一の音楽で、それで十分だ。ーー

(訳者妄言)
ヴィットリオ・セレーニの詩。詩集 Diario d'Algeria  (1947)から。セレーニはアルジェリアで捕虜となっている時に、連合軍がノルマンディー上陸するのを予感した。

一行目は、ノルマンディー上陸作戦での最初の死者が、飛行機に乗せられて上空(高いところ)を飛んでいる、ということである。

語り手の肩をたたいたのは、その最初の死者であろうか。

語り手は、捕虜になっていたため、戦争からも、平和のための戦い(パルチザン)からも、離れ、疎外された状況におかれていた(12-13行)。その苦悩が、この表現になっている。つまり、ノルマンディー上陸作戦で死んだものより、自分の方がもっと死んでいるのである、無益で、虚しい状態に置かれていたのである。

原文は、

      Campo Ospedale 127, giugno 1944

Non sa più nulla, è alto sulle ali
il primo caduto bocconi sulla spiaggia normanna.
Per questo qualcuno stanotte
mi toccava la spalla mormorando
di pregar per l'Europa
mentre la Nuova Armada
si presentava alla costa di Francia.

Ho risposto nel sonno:-E' il vento,
il vento che fa musiche bizzare.
Ma se tu fossi davvero
il primo caduto bocconi sulla spiaggia normanna
prega tu se lo puoi, io sono morto
all guerra e alla pace.
Questa è la musica ora:
delle tende che sbattono sui pali.
Non è musica d'angeli, è la mia
sola musica e mi basta.-Vittorio_sereni-

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2009年3月26日 (木)

Vittorio Sereni: Terrazza

          テラス

突如わたしたちを夜がとらえる。
               そして君は
どこで湖が果てるかわからなくなる、
囁きのみが
空中テラスの下にいる
僕らの人生をかすめる。
われわれはみな今晩
物音のしない出来事につるされて
そこへ哨戒艇の光
われわれを詮索し旋回し去る。

(訳者妄言)
ヴィットリオ・セレーニの詩。詩集 Frontiera  (1941) から。セレーニは1913年マッジョーレ湖のほとりのルイーニに生まれた。ブレーシャおよびミラノ大で学び、グイド・ゴッツァーノで卒論を書いた。その間、文学者アントニア・ポッツィ、ルチャーノ・アンチェスキ、ダリア・メニカンティや哲学者エンツォ・パーチ、ラッファエーレ・デ・グラーダ、レーモ・カントーニ、ジュリオ・プレーティに出会った。彼らはアントニオ・バンフィの美学に影響されていた。

詩人として強い影響があったのは、ウンガレッティ、モンターレ、サーバ、クヮジーモドやシニスガッリ、ベルトルッチである。特にモンターレは重要で、ジルベルト・ロナルディによれば、1960年代までは一方通行の影響であったが、後には、散文的、日記的な詩を書くモンターレにセレーニが影響を与えた。

ガットやヴィゴレッリを通じてフィレンツェのグループともコンタクトを持つようになった。ミラノで1938年に若き日のエルネスト・トレッカーニによって創刊された《Corrente》に協力したが、反ファシスト的傾向のため弾圧をうける。1941年 Corrente から初の詩集 Frontiera を出版。

第二次大戦で捕虜となり、二年間、アルジェリアとモロッコで虜囚生活を送る。そこから生まれた本が Diario d'Algeria (1947) である。1956年ピレッリの広報、58年出版社のモンダドーリ社に入り、75年まで文学担当の責任者を勤める。1983年ミラノで死去。

この詩では、冒頭の 'Improvvisa' (突然の)は、受ける名詞がなく、宙に浮くが、それはこの夕べ、待ち受けられている出来事と、彷徨う感覚が同時に表出されているのだろう。そうした前景化をここで訳すのは困難だったので、変わりに、私たちに相当する言葉にヴァリエーションを与えてみた。

夜が訪れて、湖の対岸が見えなくなる。囁きというのは、湖水のさざなみのたてる波音である。

われわれは、何らかの出来事を待っており、光が当たってそれかと思うが、哨戒艇は、こちらを照らしたあと、向きをかえて、去っていってしまう。最終行は、動詞三つがカンマもなしにつながれ(asindeto, 連辞省略)、たたみかけるように終わる。

原文は、

Improvvisa ci coglie la sera.
                            Più non sai
dove il lavo finisca;
un murmure soltanto
sfiora la nostra vita
sotto una pensile terrazza.
Siamo tutti sospesi
a un tacito evento questa sera
entro quel raggio di torpediniera
che ci scruta poi gira se ne va.

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2009年3月25日 (水)

Edoardo Sanguineti: Questo è il gatto con gli stivali...

        これは長靴をはいた猫で...

これは長靴をはいた猫、こっちはカルロ5世とクレメンテ7世の
バルセロナの和睦、これは蒸気機関車、花咲く
桃の木、タツノオトシゴ、ページをめくると、アレッサンドロ
金が見えるんだよ:
            これは木星の衛星、これは太陽道路
方眼状になった黒板、カール大帝時代の
ラテン詩人集第一巻、靴、うそ、アテネの学堂、バター
今日フィンランドから届いた葉書、咬筋、
出産:がページをめくると、アレッサンドロ、見えるのは
金だ。
    これは金だ、
これは機関銃をもった将軍、彼らの墓のある
墓場、彼らの貸し金庫のある貯蓄金庫
彼らの歴史が書いてある歴史の本:
でもページをめくると、アレッサンドロ、何も見えないんだ:

(訳者妄言)
エドアルド・サングイネーティの詩。詩集 Purgatorio de l'Inferno (地獄の煉獄)(1964)から。

サングイネーティは1930年ジェノヴァ生まれ。1956年トリノ大学の文学部を卒業。トリノ大学、サレルノ大学、ジェノヴァ大学で教鞭をとる。1956年詩人として Laborintus でデビュー。

1961年、アルフレード・ジュリアーニ編纂のアンソロジー I Novissimi  に作品が収められる。2年後、Gruppo '63 の創設に加わり、理論家としても中心的役割を果たす。

サングイネーティは現代を言語の危機と人格の危機に相同関係があり、言語の「再発明」により、現実を「再発明」する戦略をとっている。

この詩は、語り手(詩人)が息子アレッサンドロに、眼の前の机の上に散らばっているモノを説明している詩である。

ただし、そのモノの羅列のなかに、「金」という資本主義社会の至上の存在が挿入される。これは何、これは何という反復の後に、金が見える、という形がガツンと投入される。

2行目の皇帝カルロ5世と教皇クレメンテ7世の和睦は、1529年5月に結ばれたもので、その前にローマ劫掠があった。

原文は、

questo è il gatto con gli stivali, questa è la pace di Barcellona
fra Carlo V e Clemente VII, è la locomotiva, è il pesco
fiorito, è il cavalluccio marino: ma se volti il foglio, Alessandro
ci vedi il denaro:
              questi sono i satelliti di Giove, questa è l'autostrada
del Sole, è la lavagna quadrettata, è il primo volume dei Poetae
Latini Aevi Carolini, sono le scarpe, sono le bugie, è la Scuola
                                               〔 d'Atene , è il burro,
è una cartolina che mi è arrivata oggi dalla Finlandia, è il
                                                〔muscolo massetere,
è il parto: ma se volti il foglio, Alessandro, ci vedi
il denaro:
           e questo è il denaro,
e questi sono i generali con le loro mitragliatrici, e sono i
                                                〔cimiteri
con le loro tombe, e sono le casse di risparimi con le loro
                                                 〔cassette
di sicurezza, e sono i libri di storia con le loro storie:

ma se volti il foglio, Alessandro, no ci vedi niente:

        

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2009年3月23日 (月)

Elio Pagliarani: I goliardi delle serali

            夜学の学生

夜学の学生たちがこの霧の中
冗談を言いたがる、まだ夜中にはなっていない
彼らは学校を終えたばかり
            「今年あった
新しいすてきなこと」が最新の作文の宿題で、
でも彼らは気にしてないし、いつも冗談を言いたがる。
なぜ警官が来ないんだろう、何してるのかしら?
でも、学生たちの声はかすれ、さまざまで、笑いのうちにも悲しげで、
あるいは深刻、あるいは不安げ、成長過程や、変容過程にあり、
異なって、対立し、きしってはいるが
理由無く、必然性なく、正当化なく、
むしろ暗さゆえに合わされた声で、ネオンは抱擁し、兄弟愛で結び
                  つけ、吸収し、飲み込む霧で
ごった煮にする
      そして彼らは音のしぶきを上げ、不作法だが満足している
ー私は、二人の軍曹がもっとも態度のよい学生だと申し上げます
 特に禿げたほう、彼も理解はわずかですが、軍人的やる気はあります。もう、トロリーバスに乗ったでしょう。

なんという十全たる人生と豊かな経験!
日中は働き、夜間学校、夜は大騒ぎし
(二つの言語は二つの人生を生きると誰が知ろう)
昼は仕事、夜は学校ーでも毎晩宿題をやるわけではないし
詩を暗誦するわけではないし、夜はガヤガヤやりたがり、
友達の定規を隠したがり
            宿題をやらず
ーでもだれも学校をさぼりません
          みなケチですから
みなもうケチで、金、金がかかっているのを知ってますからね。

(訳者妄言)
エリオ・パリアラーニの詩。詩集 Cronache  (1954)から。

エリオ・パリアラーニは、リミニ県のヴィセルバに1927年に生まれた。1951年パドヴァ大の政治学部卒業、ミラノに移り、会社や中学および職業学校の教師を務め、ジャーナリストとなる。1960年ローマに移る。

パリアリーニは Gruppo '63の創設者の一人。理論的文章を書いたり、言語実験に重きをおいた詩集 Lezione di fisica e Fecaloro を1968年に出版した。またグイド・グリエルミと共編で Manuale di poesia sperimentale を1966年モンダドーリ社から出版した。

彼のスタイルは、際だって物語り性に富み、客観性が強い。サングイネーティは彼の1969年のアンソロジー Poesia italiana del Novecento の中で、彼を《nuova avanguardia》(新たな前衛)には分類せず、《sperimentalismo realistico》(レアリスティックな実験主義)に入れている。ここには、パヴェーゼやパゾリーニが分類されている。

ヴァルター・シーティのように、《realismo dell'avanguardia》(前衛のレアリズモ)という区分をたてて、そこに入れる人もいる。

この詩は、夜間学校にまなぶ勤労学生たちの生態である。一般学生との類似と違いが、ユーモラスに、時に皮肉をまじえて描かれる。

原文は、

I goliardi delle serali in questa nebbia
hanno voglia di scherzare: non è ancora mezzanotte
e sono appena usciti da scuola
                  “Le cose nuove e belle
che ho appreso quest'anno” è l'ultimo tema da fare,
ma loro non si danno pensiero, vogliono sempre scherzare.
E' vero però che le voci sono fioche e diverse, querule anche nel riso,
o gravi, o incerte, in formazione e in trasformazione,
disparate, discordi, in stridente contrasto aqccomunate
senza ragione senza necessità senza giustificazione,
ma come per il buio e il neon è la nebbia che abbraccia
                                    affratella assorbe inghiotte
e fa il minestrone
          e loro ci sguazzano dentro, sguaiati e contenti
-il attesto il miglior portamento dei due allievi sergenti,
il calvo in ispecie, che se capisce poco ha una forza di volontà
militare, e forse ha già preso il filobus.

Quanta pianezza di vita e ricchezza di esperinze!
di giorno il lavoro, la scuola di sera, di notte schiamazzi
(chi sa due lingue vive due vite)
di giorno il lavoro la scuola di sera,-non tutti la notte però
                                                          fanno i compiti
e non imparano le poesie a memoria, di notte preferiscono
                                                       fare schiamazzi,
nascondere il righello a una compagna
                       e non fanno i compiti
-ma non c'è nessuno che bigi la scuola
                           sono avari
tutti avari di già, e sanno che costa denari denari.   
            

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2009年3月22日 (日)

Nanni Balestrini: Frammenti del sasso appeso

             吊された岩の断片

兵隊たちは戦争をしていたあるいは
   もっと急いでするために
不本意で連続的に非常な高度でしていた
   外から見られ衣装を身にまといしていた
しかしながら           煙は登る
   生き延びながら同意された
をのぞいて過剰なもうひとつ   地べたに座っていた
   (つねに岩から見られて)

名を出すことなく、とりわけ摂取し、事実を口に出さず
(一方     問題はとけた
 乾かすために降りた  薄められた眼
 車)     新たなデータはもう提供せず
   人種、房     壁の上の夜明けの縞
 そして夜は黄昏のわずかな印で変わる!
           あるいは電話が沈黙して、

(訳者妄言)
ナンニ・バレストリーニの詩。詩集 Come si agisce  (1963) から。

Balestrini バレストリーニは1935年ミラノ生まれ。ジャーナリストでエッセイストで、政治的には左翼に与し、ネオアヴァングァルディアの創設者の一人。

実験的な詩として「視覚詩」(poesia visiva) 、「テープ上の詩」(poesia su nastro)、「電子詩」(poesia elettronica電子計算機を用いた詩)に挑んだ。新しい世界、新しい時代の精神や技術的可能性を追求した。ミラノとパリを往来している。

1961年に Il sasso appeso で詩人としてデビューしたが、それは1963年フェルトリネッリ社から出版された詩集 Come si agisce に収められた。

バレストリーニによって、ネオアヴァングァルディアはもっとも理論的一貫性を持ち、挑発的な成果に到達した。彼はGruppo '63 の言語的実験の中心で、言語的要素への集中は絶対的なものとなり、読者への客観的伝達の意思は消えてしまうところまで行った。

バレストリーニは、さまざまな異なるテクストからの言葉を並置し、古典からの引用を、新聞記事からの引用と混ぜた。そうした断片を、偶然により、あるいは機械的に混ぜて並べるので、出来上がったテクストを一義的に決まった意味に解釈することは出来ないし、それを要請してもいない。「開かれた」テクストなのである。

バレストリーニは、伝統的な詩、ありふれた言い回しの沈殿物から言語を解放することを目指している。それは、支配的な政治社会的なシステムの論理を拒絶することであり、資本主義社会を攻撃することにもつながるのだ。

この詩も、首尾一貫した意味を持つというよりは、断片が、偶然によって、連なっている詩である。

原文は、

I soldati faceva la guerra oppure
     per fare più in fretta
involontario e continuo facevano a grande altezza
     vista da fuori facevano in costume
tuttavia                             sale fumo
     sopravvivendo è stato convenuto
un altro di troppo a meno che    si sedette per terra
            (visto sempre dal sasso)

senza far nomi, si nutrono sopratutto, non nominando i fatti
(mentre        i problemi si risolvono
era sceso per asciugare    l'occhio rarefatto
la macchina)     non già fornendo nuovi dati
      razzi, frange      sul muro strisce albe
e notti variano per pochi segni crepuscolare!
                                o il telefono tace,

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2009年3月21日 (土)

Tonino Guerra: A gli óchi dla Chèca

Toninoguerra

     おかまの鵞鳥

僕が鼻ちょうちんをふくらませ
猫のしっぽを引っ張っていた頃、
僕は「ちっちゃく」、とっても「ちっこかった」ので
一目見ただけでは、人は僕に気がつかなかった。

が、ある朝、僕は成長しているのに気がつき、
あたりをこっそり見てドアにすべり込む
今度は出てく、運命に従うぞ
みんなバイバイ、命令はもう沢山。

外では鵞鳥が気に入った。
僕は彼らを追いかけた、おどかしたかったんだ
でもそいつらは、いきなりぱっと翼を開きながら向きを変えた。
僕はどうしたらよかったろう?で、泣いた。


(訳者妄言)
トニーノ・グェッラ(1920ー )の方言詩。詩集 I scarabócc (1946)から。トニーノ・グェッラは、エミリア・ロマーニャ州フォルリ県の近郊サンタルカンジェロ・ディ・ロマーニャに生まれた。

教職についた後、ローマに移り、映画界で脚本家(soggettista および sceneggiatore)として、デ・サンティス、ペトリ、ダミアーニ、ロージ、フェッリーニ、とりわけアントニオーニと共に映画づくりに関わってきた。

小説家としては、1952年にエイナウディ社のヴィットリーニが監修したシリーズ《I Gettoni》から La storia di Fortunato でデビューした。

最初の詩集は1946年の I scarabócc (なぐり書き)で、カルロ・ボの序文が付されていた。映画ではネオレアリズモの季節であったが、それと歩調を合わせるように、詩集でも恵まれない人々、村の貧乏人、老人、狂人を、村の動物や事物になぞらえて描いた。

サンタルカンジェロ村からは、ニーノ・ペドレッティ(1923-1981)とラッファエッロ・バルディーニ(1924- )という同世代の二人の詩人がでている。

グェッラの文体は、生の装飾を排したしたもので、現実に直接迫っていくものだ。

この詩では、幼い頃の思い出が、鮮やかなイメージとともに描出されているが、大人になったつもりで、家からでていくと、鵞鳥に出会い、追いかけ回すが、思いがけない逆襲にあって泣き出してしまった、というエピソードが繰りひろげられる。

タイトルの Chéca (イタリア語版ではChecca) が、ひねったもののように思える。というのも、checca はイタリア語では、女性役の男性同性愛者を意味するのである。しかし、ここでは大文字ではじまっていることから、地名とも、固有名詞とも解釈することが可能となっている。地名や固有名詞だとすると、どうしてわざわざこういう名前を選んだのか。なんらかの意味がありそうだが、イタリア語で言えば、oche, checca と言う音つながり、オリジナルでも óchi, chèca でカ、キ、ケとカ行の音を連ねていることはあるだろうが、同時に、同性愛者という当時、社会的に差別をうけていた存在に何らかの形で言及することにも詩人の意図はあったのではないか、と思う。

オリジナルとイタリア語版をあげる。

まず、オリジナルから。

Quand ch'a faséva i palunzéin me nès
e ch'a tiréva la còuda mé gatt,
a s'era pécal,  mo pécal da fatt
che a préima vésta t'a m' u n'févi chès.

Mo una matéina am so séntéi d'es gand,
ò guèrs in zèir e pu a i ò ciap la pórta:
-Sta vólta a vag, a vag par la mi sórta
e s-ciao a tòtt, e basta sa sti cmand.-

'D fura da chèsa a gli ochi a 'l m'à piséu!
e alòura dri ch'a vléva spavéntèli;
mo lòu a s' vólta ad bòtt e al slèrga a gli èli
e mè, sa vléiv ch'a faza? A i ò pianzéu.

つぎに、Roberto Roversi によるイタリア語版をあげる。

Quando facevo i palloncini al naso
quando tiravo la coda al gatto
ero piccino ma così piccino
che all prima occhiata nessuno mi vedeva.

Una mattina però ho sentito d'essere cresciuto
ho sbirciato in giro ho infilato la porta
stavolta me ne vado, vado al mio destino
saluti a tutti basta con i comandi.

Fuori mi sono piaciute le oche.
Le rincorrevo perché volevo spaventarle
ma quelle di botto si girano di botto spalancando le ali,
e io che cosa dovevo fare? io allora ho pianto.

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2009年3月20日 (金)

Albino Pierro: T'aspette

      君を待つ

泣いているの?
僕が死んだなんて誰が言った、
愛しい人よ?
僕はまだこの世にいて
君を待っている。

君が
足に翼を付けなければいけないんだ。
僕はたくさん歩き
風を超え、
今は熱を感じる。

君の前にあるすべてのものを
飛び越えるのに何をためらっているの?
死を笑わせるこの涙は、
行くにまかせよう。
急いで、さあ、
愛しい人、
この喪を僕から取りはらって、
たとえ君がそれが濃密になるのを感じても、
僕は、家々を倒すことなく
揺らす地震に、耐えられない。


(訳者妄言)
アルビーノ・ピエッロの詩。詩集 I'nnammurète  (1963)から。ピエッロは1916年バジリカータ州マテーラ県トゥルシで生まれたが、生後数ヶ月で母が亡くなり、伯母たちに育てられる。このトラウマティックな事件が彼の詩に影を落とし、死のテーマが彼の作品には浸透している。

1944年にローマ大学を卒業し、その地の高校で歴史と哲学を教えつつ詩作を続けた。1995年、ローマで死去。

1946年にイタリア語による詩集 Liriche でデビューする。1960年の詩集 'A terra d'u ricorde から方言による詩集に転換する。

トゥルシの方言が文学に表現されたのは初めてのことで、書かれた伝統は無かった。そこにピエッロの言語表現のオリジナリティーがある。手つかずの話し言葉により、原始的世界に降りていくことを可能になっているのだ。

こうした新たな言語の発見に伴い、ピエッロの詩は、じょじょに民俗的な要素から解放されて、より内的な深みをもったものに変容していった。

この詩では、語り手は死んでしまったように見えるが、実は死んでいない、だから悲しまないで、自分のところに早く来てくれと、愛する人に呼びかけている。語り手は愛する女性に語りかけている。足に翼をつけてというのは、想像力ではばたくということであろう。

愛と死、喪失(「喪」)と想像力による悲しみの超越がテーマの詩。最後の地震のイメージは、存在の実存的不安を表象するものだろう。

オリジナルと詩人自身によるイタリア語訳を以下にあげる。

まず、オリジナルから。

Chiangese?
E chi t'ha ditte c'agghie morte,
amore?
Ci sùu ancore a lu munne
e t'aspette.

               Si' tu
ca l'ha' 'a mitte i scille a lu pére:
ié caminèje tante,
l'agghie varchète u vente
e mo mi sente 'a fréva.

Cché aspèttese e nuit lle zùmpese
tutt'i cose ca tròvese cchinnante?
Làssele l' stu chiante
ca le fè rire 'a morte;
e po fa' preste, amore,
curre,
levammille stu lutte:
si pure tu le sèntese ca 'nfàllete
lé nun risiste cchiù nd'u terramote
ca trincuulte i chése e nun lle sciàllete.

次に作者自身によるイタリア語版:

Piangi?
E chi ti ha detto che sono morto,
amore?
Ci sono ancora al mondo
e ti aspetto.

Sei tu
che devi mettere le ali al piede:
io ho camminato tanto,
ho superato il vento
e adesso mi sento la febbre.

Che aspetti a saltare
tutte le cose che trovi davanti?
Lascialo andare questo pianto
che fa ridere la morte:
e fa presto, amore,
corri,
toglimi questo lutto:
se pure tu lo senti che infittische,
io non resisto più nel terremoto
che scuote le case senza farle crollare.

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2009年3月19日 (木)

Giacomo Noventa: Dove i me versi

     私の詩はどこに私を...

私の詩はどこに私を連れて行くのだろう、
君たちのように、詩を撫でまわしていたら、
僕には判らない、兄弟たちよ。
僕の価値観の限界に触れ、
きっと僕自身、自らを欺き、
芸術を神聖と信じ、栄光を
名誉より重んじる。

ああきっとそうすると判るのだ、
今よりも、私のより深くで、
詩が決して与えられぬものを。
聖人がどんなかは知らないが、
聖人たちの前に頭(こうべ)を垂れ、
私の魂のために祈るだろう、
私の祈りのなかに、自分の声は聞かずに。

(訳者妄言)
ジャーコモ・ノヴェンタの詩。詩集Versi e posie  (1956)から。

ジャーコモ・ノヴェンタは1898年生まれ。本名は Giacomo Ca' Zorzi だが、生まれ故郷の Noventa di Piave (ヴェネツィア県)からペンネームをつけた。

第一次大戦に志願兵として参戦し、1923年トリノ大学を卒業。トリノで、ピエロ・ゴベッティや雑誌《Rivoluzione liberale》に関わり、ジャーコモ・デベネデッティやマリオ・ソルダーティと親交を結んだ。

1925年から1935年ヨーロッパ各地に滞在したが、特にパリに長くいた。1935年帰国すると、ピエモンテに留まることを禁じられた。

1936年フィレンツェで、雑誌《ソラリア》の編集長だったアルベルト・カロッチとともに、雑誌《La Riforma letteraria》(文学改革)を創刊した。レアリズモやモラリズモをかかげたノヴェンタの姿勢は、フランコ・フォルティーニやジェーノ・パンパローニを引きつけた。

しかし、雑誌はファシスト政権により発売禁止となり、1939年に逮捕され、大学のある町には住むことを禁じられた。

戦後も他の雑誌を創刊し、カトリック、自由主義、社会主義を総合した独自の立場を貫いた。1960年にミラノで亡くなった。

彼の詩は1936年から雑誌《Riforma letteraria》にエミリオ・サルピのペンネームで掲載されはじめた。1956年、詩集 Versi e poesie
を出版した。

ノヴェンタは、同時代の詩の傾向にあらがい、エルメティズモから距離を置き、さらにはあらゆる20世紀の傾向にも与せず、18,19世紀のゲーテやハイネの影響を受けた。

というわけで、彼の方言の選択は、自分が認めない文学言語の拒絶と結びついている。彼は自分の方言と、ヴェネツィア方言、パドヴァ方言を混ぜ、イタリア語も方言化して取り入れている。

この詩は、彼の反エルメティズモ、彼の詩法の宣言となっている。芸術を神聖(sacro, scralità)で栄光にみちたものとみるエルメティズムから距離を取っている。彼にとっては聖人(santità)のほうが価値があるという態度をとっている。

ヴェネト方言とイタリアが混在するオリジナルと、メンガルドによるイタリア語訳をあげる。

まずオリジナルから。

Dove i me versi me portarìa,
Acarezandoli come voialtri,
No' so fradeli.
Tacodi i limiti del me valor,
Forse mi stesso me inganarìa,
Crederìa sacra l'arte, e la gloria,
Più che l'onor.

O forse alora mi capirìa,
Megio d'ancùo, più dentro in mi,
Quelo che i versi no' pol mai dar.
Pur no' savendo esser un santo,
A testa bassa de fronte ai santi,
Par la me ànema mi pregarìa,
No' più ascoltandome nel mio pregar.

つぎに、P.V.メンガルドのイタリア語訳(Poeti italiani del Novecento, Mondadori, Milano, 1978)。

Dove i miei versi mi porterebbero,
accarezzandoli come voi,
non so, fratelli.
Toccati i limiti del mio valore,
forse io stesso m'ingannerei,
crederei sacra l'arte, e la gloria,
più che l'onore.

O forse allora capirei,
meglio di oggi, più dentro in me stesso,
quello che i versi non possono mai dare.
Pur non sapendo essere un santo,
a testa bassa di fronte ai santi,
io pregherei per la mia anima,
non più ascoltandomi nel mio pregare.

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2009年3月18日 (水)

Antonio Porta: Quale porzione di universo

     宇宙のどんな部分

葉に貼りついたカタツムリ
陣痛の始まった女たち

限界で魂は満足し
傷をうけ腕を組む

客が分別の無いことを言い
壊れた真実は便所で果てる

裏側でも表でも見ることに変わりはなく
葉一枚、理解するのにも金が必要

白い窓敷居に指一本で吊され
朽ちても判らぬ至高の真理

(訳者妄言)
アントニオ・ポルタの詩。詩集 Week-end (1974)から。ポルタは本名をレオ・パオラッツィという。1935年ヴィチェンツァに生まれたが、336年からはミラノに暮らす。

編集の仕事をし、文学批評家としても活動した。1989年ローマで死去。

ネオアヴァングァルディアのもと詩を発表し始める。作品は、I Novissimi  というアンソロジーに収められ、ポルタは Gruppo '63 の作家、詩人と活動を共にした。

原文は、

lumache appiccicate alle foglie
donne in limitare di doglie

ai confini lo spirito si appaga
braccia incrociate sulla piaga

l'ospite pronuncia la frase insensata
nel cesso vien finita la verità guastata

di rovescio o di diritto non muta il guardare
per capire anche una foglia è necessario pagare

al davanzale bianco appeso con un dito
la verità suprema neppure da marcio

冒頭から小文字で始まっている。Simona Costa の註によれば、小文字で書くことにより、ここに並べられたモノやイメージの順序が単にまったくの偶然に過ぎないことを表している。

第二連の 'braccia incrociate sulla piaga' は社会に存在する悪、苦痛を前にして、何も出来ず腕組みをしているのだろう。

第三連では、真実が壊れている、というのが特徴的表現で、伝統的価値の崩壊を前面に打ち出したネオアヴァングァルディアらしい。

最終連は、絞首刑にあったかのように、指一本で吊されている。吊されているのは、至高の真実だが、それは死に際しても、まだ理解されないだろうと、考えている。これも、絞首刑と、指一本、至高の真実の組み合わせがシュールレアリスティックである。

内容的には「前衛的」な詩であるが、韻はきれいにカプレット(2行ごと foglie, doglie のように), rima baciata となっているのが興味深い。

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2009年3月17日 (火)

Biagio Marin: Comò 'l popolo mio

     私の回りの人々のように

私の回りの人々のように
私は海の離れ小島に生まれた
海へ向かって飛ぶ鳥
水すれすれに、白いユリカモメ。

はるか海のむこうの土地は
水平線で青みを帯び
山の上に輝く
至高の雲を冠のごとくいただく。

その向こうには何もなく、ただ太陽と風のみ
空想がよみがえらせる
あの岸辺に囁きをもたらす
貨物船もない。

海は大きく、空はもっと大きい、
多くの雲がヴェールとなる、
僕は島の縁、
海と黄金の空の間に生きている。

もう暮らしてはいないが、僕は
あの沈黙に、あの光に、
すべての青さが溶け込み
「永遠」の川が過ぎゆくところに没入している。

(訳者妄言)
ビアジョ・マリンの詩。詩集 Nel silenzio più teso  (1980)から。

マリンは1891年グラード生まれ。グラードはヴェネツィアのようにラグーナの街で、フリウリ・ヴェネツィア・ジュリア州にある。ヴェネツィアとトリエステの間にあり、海に突き出した半島の先端の街である。

マリンは、1911年にフィレンツェに移り、雑誌《ヴォーチェ》のグループと接触し、そこで他のフリウリ出身のサーバ、ジョッティ、シピオ・ズラタペルと会い、「シピオの影」というあだ名さえつくようになる。

1912年ヴィーン大学哲学部に入るが、1918年ローマ大学を卒業する。第一次大戦には、志願兵として参加。ゴリツィアとトリエステで教職についた後、グラードとトリエステで様々な職につく。

1968年、グラードに引退し、1985年に亡くなるまで旺盛な執筆活動を続けた。

最初の詩集は Fiuri de tapo (1912) だが、1950年代から亡くなる年まで詩を書き続けた。

彼の詩は、生まれ故郷のグラードが中心で、そのミクロコスモスであるグラードを中心に回っている。彼に影響を与えたのは、パスコリ、スペインのヒメネス、そして同郷のサーバである。実験主義から遠く、伝統的な韻律やなめらかな音韻に身をゆだねた詩である。

この詩では、グラードの島が海と空の境界にある情景を描写しつつ、それが、海のはて、この世の彼方と、こちら側の形而上学的な比喩になっていく。物理的な時空が、現世と彼岸への思いへと自然に重なっていく詩である。

オリジナルと、E.セッラによるイタリア語版をあげる。

まず、オリジナルから。

Comò 'l popolo mio
son nato in sulitudini marine:
garghe oselo che svola verso 'l mar
a fior de l'aqua, bianche corcaline.

Un biavisâ a l'urizonte
de tere d'oltremar lontane
incoronae de nuvole sovrane
splindinti sora 'l monte.

E dopo ninte, solo sol e vento
e granche un bastimento
che porta sito a quele riva
che fantasia raviva.

Xe grando 'l mar, più grando el sielo
e tante nuvole va a velo:
me vivo qua su l'òro
de l'isola tra mar e sielo d'oro.

No vivo più, ma son surbìo
in quel silensio, in quela luse,
là che dute le biavitae xe fuse
e de l'Eterno passa el rio.

次に、E.セッラによるイタリア語版。

Come il popolo mio
son nato in solitudini marine:
qualche uccello che vola verso il mare
a fior dell'acqua, bianche gabbianelle.

Un azzurreggiare all'orizzonte
di terre d'oltremare lontane,
incoronate di nuvole sovrane
splendenti sopra il monte.

E dopo nulla, solo sole e vento
e neanche un bastimento
che porti zitto a quella riva
che fantasia ravviva.

E' grande il mare, più grande il cielo
e tante nuvole che vanno a velo:
io vivo qua sull'orlo
dell'isola tra mare e cielo d'oro.

Non vivo più, ma sono assorto
in quel silenzio, in quella luce,
là che tutte le azzurrità sono fuse
e passa il fiume dell'Eterno.

タイトルにあるpopolo mio は私の人民、私と同じ街、村にすむ住民の意であるが、なかなかぴったりくる日本語がない。拙訳も、なんだか自分が含まれているのか、いないのか判らぬ感じで、popolo mio の所有形容詞が失われてしまった感じである。

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2009年3月16日 (月)

Delio Tessa: La pobbia de cà Colonetta

    コロンネッティ家のポプラ

コロンネッティ家のポプラが
死んだ。ほら。きっと7月の
嵐のせいだ。
ピシッ、ボキッ、ドシン。

わたしの元に長々と横たわっている、
200年はゆうにそこにあったのに!
お終いだ!でも...そこで身動きできなく

なっているが、まだ芽が出てくる、死にたく
ないのだ、今春が来るので...

行こう...気の毒に...見ないでおこう!


(訳者妄言)
デリオ・テッサの詩。詩集 L'è el dì Mort, alegher! (1932) から。テッサは1886年ミラノ生まれ。パドヴァ大学法学部を出て、法廷で働く。1939年ミラノで死去。

生前に出した唯一の詩集は L'è el dì Mort, alegher! (1932) で、友人の強い勧めで出版した。1947年には、フランコ・アントニチェッリとフォルトゥナート・ロスティの編纂による1909年から1939年の選詩集 Poesie nuove e ultime  が出た。

テッサは、大先輩のミラノ方言の詩人カルロ・ポルタ(1776-1821)に影響をうけ、また彼に詩を捧げている。

死のテーマはテッサが常に集中的に扱っているテーマである。

ミラノ方言によるオリジナルとダンテ・イゼッラによるイタリア語訳をあげる。

まずオリジナルから。

L'è creppada la pobbia de cà
Colonetta: té chí : la tormenta
in sto Luj se Dio voeur l'à incriccada
e crich crach, pataslonfeta-là

me l'à trada chí longa e tirenta,
dopo ben dusent ann che la gh'era!
L'è finida! eppur...bell'e inciodada

lì, la casica ancamò, la voeur nò
morì, adess che gh'è chí Primavera...

andemm...nà...la fà sens...guardegh nó!


次に、ダンテ・イゼッラによるイタリア語訳。

E' morto il poppio di casa
Colonnetti: ecco: l'uragano
di questo luglio se Dio vuole ce l'ha fatta
e cric crac, pataslanfeta-là

me lo ha scaraventato qui lungo e disteso,
dopo ben duecento anni che c'era!
E' finito! eppure...anche inchiodato

lì, germoglia ancora, non vuol
morire adesso che viene primavera...

andiamo...via...fa pena...non guardarlo!

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2009年3月15日 (日)

Virgilio Giotti: Figura de putela

     若い女の姿

朝の澄んだ
様々な色が映る
ショーウィンドウの前に、
若い見習いの女、箱を
脇の下に抱え、額をガラスにつけて。

一本足で立っている、
もう一方の足は
ぶらぶらと
揺らしている。彼女の履いている靴は、
女主人のあてがいぶち。

顔はわずかに見えて、
ほのかに赤く、
耳、首、リボンが見える。
ふたの上には、子供の
手、そこに置かれたのは彼女の手。

絵描きが、人物を
描くとき、他のことは
しない。だから今度は
僕もそうする。ソックスに
少しピンクを加え、

一瞬、髪のリボンを
より濃い色にする、
そして筆を置く。
他にすること、言うことはない、
愛している、互いにそれを理解できる以外には。

彼女にしゃべらせよう、
一人で、あのガラスの中に
見たもの、
考えたこと、いまやそこで、
永遠に止まり、心の中にあるものを。

(訳者妄言)
ヴィルジリオ・ジョッティの詩。詩集 Caprizzi, canzonete e storie  (1928)から。

ジョッティは1885年トリエステ生まれ。本名は、Virgilio Schönbeck (ジョッティは母方の姓Ghiotto から)。1907年、セールスマンとしてフィレンツェに移住。そこで、雑誌《ヴォーチェ》の作家や、ヴェネツィア・ジュリア地方の作家(サーバ、ズラタペル、マリン)と知り合う。

1914年、フィレンツェで、最初の詩集 Piccolo canzoniere in dialetto triestino (トリエステ方言による小さな抒情詩集)を出すが、パスコリや黄昏派の影響を受けたものだった。

1920年トリエステに戻り、新聞雑誌売店、ついで様々な役所で働く。ここでは孤立して暮らし、フィレンツェとのコンタクト、特に雑誌《ソラリア》との連絡を保つ。そこから、1928年 Caprizzi, canzonete e storie, 1931年 Liriche e idilli  を出した。

第二次大戦中、息子2人をロシア戦線で亡くし、その結果、妻も精神を病んだ。トリエステで1957年に亡くなった。

ジョッティは、日常的に使われない方言を、「詩の言語」と定義した。批評家は、彼の方言の扱いを知的な、非・土地言葉的な扱いと考えている。

この詩は詩集 Caprizzi, caozonete e storie (1928) から。画家が、人物を描くように、言葉でもって、多少の色づけを加えながらある若い女の姿を描いている。

以下、トリエステ方言によるオリジナルと、メンガルドによるイタリア語訳をあげる。

まずトリエステ方言のオリジナルから。

Davanti una vetrina,
che se spècià i colori
ciari de la matita,
'na garzona ghe xe, col scatolon
sul brazzo, co la fronte sul lastron.

Sun una gamba sola
la sta; e el pie de l'altra,
lassada cascar mola,
la lo nina. Le scarpe che la ga
xe quele che la mistra ghe ga dà.

Del viso solo un poco
se ghe vedi, un rosseto;
'na rècia, el colo, un fioco.
Sora el covèrcio, bela, xe una man
de pìcia, là pozada, una sua man.

Un pitor, co 'l ga ciolta
zo 'na figura, altro
no' 'l fa. Cussì stavolta
fazzo anca mi. Meto ancora un fiatin
de rossa su le calze, un cincinin

quel nastro d'i cavei
fazzo ancora più scuro;
e meto zo i penei.
Altro de far, altro no' go de dir::
che ben ghe vòio, 'nidun pol capir.

La lasso parlar ela;
che sola la ve conti
quel che la varda in quela
vetrina, quel che la pensa, ormai là
ferma par sempre, quel che in cuor la ga.

各連は、3行の7音詩句と2行の11音節(語尾音の削除、欠如がある)からなる。音韻のパターンは abacc.

次に P.V.メンガルドによるイタリア語訳(Poeti italiani del Novecento, Mondadori, Milano, 1987)をあげる。

Davanti a una vetrina,
dove si specchiano i colori
chiari della mattina,
c'è una apprendista, con lo scatolone
sotto il braccio, con la fronte sul vetro.

Sta su una gamba sola;
e il piede dell'altra,
che ha lasciato cadere mollemente,
lo dondola. Le scarpe che ha
sono quelle che le ha dato la padrona.

Del viso se ne vede sono un poco,
un po' di rosso;
un'orecchia, il collo, un fiocco.
Sopra il coperchio, bella, c'è una mano
di bambina, là posata, una sua mano.

Un pittore, quando ha tirato
giù una figura, non fa altro.
Così questa volta
faccio anch'io. Metto ancora un pochino
di rosa sulle calze,

faccio un attimo più scuro ancora
quel nastro dei capelli;
e poso giù i pennelli.
Altro da fare, altro da dire
non ho: che le voglio bene, ognuno lo può capire.

La lascio parlar lei;
che vi racconti da sola
quello che guarda in quella
vetrina, quello che pensa, ferma ormai là
per sempre, quello che ha in cuore.

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2009年3月13日 (金)

Franco Loi: Se vègn la mort ghe disarù surela

   もし死が来たら、妹と呼ぼう

もし死が来たら、妹と呼ぼう
空気の中にも死を呼吸しているのだし、
死は隠れ、宙に浮かんだみたいに
疲労や夢とともに私たちについてくる、
そして突然ぱっと、再び目覚め、
魂を魅惑し、肉体から離れさせる、
考えなおして、死を敵と呼ぼう
泥棒のように、われわれの呼吸を奪うのだし、
肉体に入り込み、話そうとすれば
つねに病気となる、
もし一人で来たら、女友達と呼ぼう、
彼女に恋をして、
倦怠や苦痛、われわれが人生と呼び
実はたんに毒に過ぎない衰退を離れるのは容易だ。
やって来たら、皆と同じようにするだろう、
黙って、世界の沈黙のうちに。

(訳者妄言)
フランコ・ロイのミラノ方言による詩。フランコ・ロイは1930年、サルデーニャ出身の父、エミリア出身の母のもとジェノヴァで生まれた。1937年、一家はミラノに移住。民衆の中に溶け込み、言語的にもミラノ方言を表現手段として選ぶ。

戦後、共産党系の政治活動に関わるが、1962年共産党を脱退する。1970年代まで左翼の活動は続ける。1962年から1983年までモンダドーリの出版局で働く。

彼の方言詩は1960年代に生まれたが、書き直しを繰り返し、出版までには長い時間がかかった。1973年最初の詩集 I cart ('le carte')が出た。

彼の方言詩は、表現主義的で、その語彙には、ミラノ方言以外の他の方言の語彙も入り込んでいる。また外国語やラテン語、伝統的なイタリア文学の表現も侵入している。

この詩は、詩集Bach (1986)から。死を擬人化して、妹と呼んだり、敵と呼んだり、苦痛にみちた人生からの解放者に見立てたりという詩である。最後は死への瞑想で終わる。

原文(ミラノ方言)と、ロイ自身によるイタリア語訳を記す。日本語訳は、イタリア語訳からのものである。

まずミラノ方言による原文

Se vègn la mort ghe disarù surela,
perchè ne l'aria respiri anca la mort,
che la se scund, la sta cume suspesa,
la ghe cumpagna cun la stracca e 'l sònn,
pö d'impruìs la fiada, la se svelia
e l'a'nema inamura a lassà 'l corp,
e se ghe pensi la ciamarù nemisa,
perchè 'me 'n lader la ghe roba el fiâ
e la s'intana in corp e malattia
semper deventa se la vör parlà,
se sula pö la vègn dirù amisa,
perchè l'è facil inamura'ss de lé,
se pèrd slöja e dulur, 'sta grama lesa
che ciàmum vita e l'è duma' velen.
Quan' pö la vegnarà farù 'me tücc,
sensa paro'l, nel tàs che vègn del mund.

次にフランコ・ロイ自身によるイタリア語版。

Se viene la morte gli dirò sorella,
perché nell'aria respiro anche la morte,
che si nasconde, sta come sospesa,
ci accompagna con la stanchezza e il sonno,
poi d'improvviso dà un fiato, si risveglia
e innamora l'anima a lasciare il corpo,
e se ci penso la chiamero' nemica,
perché come un ladro ci ruba il respiro
e s'intana nel corpo e malattia
sempre diventa se vuole parlare,
se poi viene sola dirò amica,
perché è facile innamorarsi di lei,
si lasciano noia e dolore, questo malo disfacimento
che chiamiamo vita ed e' soltanto veleno.
Quando poi verrà farò come tutti,
senza parole, nel silenzio che viene del mondo.

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2009年3月12日 (木)

Caproni: Indicazione

       指示

―悩むのを止めよ。
もし私に会いたくば
私のおらぬ所を捜せ。

他に指示するところは無い。

(訳者妄言)
カプローニの詩集 Il franco cacciatore (1982)から。詩集のタイトルはヴェーバーのオペラ《魔弾の射手》のイタリア語訳と同じである。狩のテーマは1986年の詩集 Il conte  di Kevenhuller にも継続している。

ここでは、狩といっても、神を探し求める狩であり、神は隠れた存在である。到達しえない神を求める読者に、どこを捜せばよいかを神が指示するのだが、その指示は禅問答のようでもある。

捜し出せるあてはないが、捜すのを止めることもできない現代人を象徴する詩とも言えよう。信仰に確信は持てないが、無関心ではいられないという現代のイタリア人と信仰の一つの典型的な関係を示している。

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2009年3月11日 (水)

Caproni: Anch'io

       私も

私も試してみた。
まったく爪の
戦いだった。今はそれが判る。誰も
地の壁に
穴をあけることはないだろうと。

(訳者妄言)
カプローニの詩集 Il muro della terra (1975) から。詩集のタイトルがこの詩の一部(地の壁)となっているが、そもそもダンテの『神曲』の地獄篇第10歌2行からの引用である。地の壁とは、地獄の最下層のルチーフェロ(悪魔)が墜ちた場所である。

運命と比する時、人間の力は爪にもたとえるべき小ささだ、ということだろう。

原文は、

Ho provato anch'io.
E' stata tutta una guerra
d'unghie. Ma ora so. Nessuno
potra' mai perforare
il muro della terra.

2行目は a の母音、そして ta が支配的な音になっている。4行目は p の音が allitterazione となり、また ra の音が繰り返され、それは2行目の guerra, 3行目の ora, さらに5行目でも terra となって現れている。

短い詩だが、ダンテの引用、濃密な音のテクスチャーが味わいを深めている。

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2009年3月10日 (火)

Caproni: Congedo del viaggiatore cerimonioso

 旅人の礼儀正しい暇乞い

                  アキッレ・ミッロに

友よ、私はまず荷物を
降ろしたほうが
よいと思う。
出発時間はよく知らないが、
自分の駅で降りる前に
どこの駅に停まるかも
知らないが、
たしかな印が私に告げる、
そうした場所についた時、
私の耳にとどくのだ、
あなたたちともうすぐお別れだと。

すこしばかりお邪魔したことを
お許しいただきたい。
あなたがたと出発から
ご一緒で幸せでしたし、
感謝しています、本当に、
いい旅のお伴を得られました。

もっとずっとお話していたいのですが。
まあ仕方がない。
移転先は、知らない場所です。
しかしあなたがたのことは、
何度も思い出すでしょう、
新たな場所で、
一方私の眼には、はや
車窓から、われらを覆う
濃霧のしめった
もやを越えて、私の駅の
赤信号が見える。

あなたがたにお暇申し上げます、
軽い、悲嘆を
隠しおおせはしませんが。
一緒に、真向かいに座って
お話しするのは、とても楽しかった。
誰が誰やら判らぬなかで
(タバコを交換しながら
もくもく吸い)、
自分のことをあれこれ
語り(でっちあげるのも
簡単だ、他人に語る時には)
はては、ついつい本当のことも。
窮地に追い込まれても、
(うかうかと)ここまで
打ち明けるとは思ってもみなかったのに。

(失礼。たいした物は入っていないのに
重いカバンで。
なぜ持ってきたのか
自問するほどです。
持っていて
どんな役に立つのか、
でも、持ってこなければならない、
慣習に従っているだけかもしれないが。
すみません、通してください。
ほら。カバンを通路に
置いたので、気が
楽になった。失礼しました。)

そうそう、一緒にいるのは
楽しかったと言ってたんでした。おしゃべりも。
いくらか口論も
しましたが、当然です。
われわれは―これもまた
自然なこと―一度ならず
憎み合ったけれど、礼儀のために
抑えたものです。
が、それがどうしたというのか。
何であれ、もう一度
心から、最上の旅の友であった
ことを感謝いたします。

お暇ごいをいたします、先生と、
その雄弁な学識に。
あなたにもお暇します、ほっそりした
お嬢さん、スポーツをしたり、野を
走り回ってうっすらと顔に浮かんだ
汗の匂いとも。顔の色は
穏やかだが、かるく紅潮していた。
お暇します、軍人さん
(そして水兵さん!地にも
空や海にも)
平和と戦争にお暇します。
そしてあなたにも、司祭さん、
お暇します、私にお尋ねになりました
(ご冗談でしょう!)私が
「本当」の神を信じる能力があるかと。

知にお別れし、
愛にお別れします。
宗教にもお別れします。
もう目的地につきました。

さて、いよいよブレーキの
きしむ音が強くなりました、本当に
みなさま、失礼します。さようなら。
これだけは確かです。私は
まさに静かな絶望にあり、
狼狽はしていません。

降ります。どうぞそのまま良いご旅行を。

(訳者妄言)
カプローニの詩集Congedo del viaggiatore cerimonioso & altre prosopopee (1965)から。語り手は、旅の終着点に近いところにいて、旅をともにした人々に暇(いとま)ごいをしている。

旅の来し方を振り返ることが、これまでの人生を振り返ることと重ね合わせられている。つまり人生=旅で、旅の終わりは、人生の終わりの隠喩となっている。

この詩が捧げられているアキッレ・ミッロは1950年代、60年代に活躍した俳優。

この詩では、わざと平凡な、ありふれた挨拶の言葉、言い回しが用いられ、しかしそれは、人生との別れの挨拶でもあるという二重の意味を帯びるように構成されている。つまり、わざと地味な言葉づかい、決まり文句を利用して、そこに象徴的な意味合い(人生への別れの挨拶)を付与しているのである。

第5連の旅行鞄は、Simona Costa の註によると、人生で犯した悪、罪の象徴で、宗教的伝統によると、各人はその旅行鞄をあの世まで持っていくことになるのだという。

第6連の「地にも/空や海にも」の前後は、祈りの文句のもじりであろう。

各連の長さは異なるが、韻や母音韻(assonanza)は頻出する。

原文は、

Amici, credo che sia
meglio per me cominciare
a tirare giu' la valigia.
Anche se non so bene l'ora
d'arrivo, e neppure
conosca quali stazioni
precedano la mia,
sicuri segni mi dicono,
da quanto m'e' giunto all'orecchio
di questi luoghi, ch'io
vi dovro' presto lasciare.

Vogliatemi perdonare
quel po' di disturbo che reco.
Con voi sono stato lieto
dalla partenza, e molto
vi sono grato, credetemi,
per l'ottima compagnia.

Ancora vorrei conversare
a lungo con voi. Ma sia.
Il luogo del trasferimento
lo ignoro. Sento
pero' che vi dovro' ricordare
spesso, nella nuova sede,
mentre il mio occhio gia' vede
dal finestrino, oltre il fumo
umido del nebbione
che ci avvolge, rosso
il disco della mia stazione.

Chiedo congedo a voi
senza potervi nascondere,
lieve, una costernazione.
Era cosi' bello parlare
insieme, seduti di fronte;
cosi' bello confondere
i volti (fumare,
scambiandoci le sigarette),
e tutto quel raccontare
di noi (quell'inventare
facile, nel dire agli altri),
fino a poter confessare
quanto, anche messi alle strette,
mai avremmo osato un istante
(per sbaglio) confidare.

(Scusate. E' una valigia pesante
anche se non contiene gran che:
tanto ch'io mi domando perche'
l'ho recata, e quale
aiuto mi potra' dare
poi, quando l'avro' con me.
Ma pur la debbo portare,
non fosse che per seguire l'uso.
Lasciatemi, vi prego, passare.
Ecco. Ora ch'essa e'
nel corridoio, mi sento
piu' sciolto. Vogliate scusare).

Dicevo, ch'era bello stare
insieme. Chiacchierare.
Abbiamo avuto qualche
diverbio, e' naturale.
Ci siamo--ed e' normale
anche questo--odiati
su piu' d'un punto, e frenati
soltanto per cortesia.
Ma, cos'importa. Sia
come sia, torno
a dirvi, e di cuore, grazie
per l'ottima compagnia.

Congedo a lei, dottore,
e alla sua faconda dottrina.
Congedo a te, ragazzina
smilza, e al tuo lieve affore
di ricreatorio e di prato
sul volto, la cui tinta
mite, e' si' lieve spinta.
Congedo, o militare
(o marinaio! In terra
come in cielo ed in mare)
alla pace e alla guerra.
Ed anche a lei, sacerdote,
congedo, che m'ha chiesto s'io
(scherzava!) ho avuto in dote
di credere al vero Dio.

Congedo alla sapienza
e congedo all'amore.
Congedo anche alla religione.
Ormai sono a destinazione.

Ora che piu' forte sento
stridere il freno, vi lascio
davvero, amici. Addio.
Di questo, sono certo: io
son guisto alla disperazione
calma, senza sgomento.

Scendo. Buon proseguimento.

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2009年3月 9日 (月)

Caproni: Preghiera

         祈り

僕の、軽やかな魂よ
お願いだ、リヴォルノに行ってくれ。
お前の内気な
蝋燭で、夜中に
一回りしてくれ。時間があれば、
巡回し、精査して、
ひょっとしてアンナ・ピッキがまだ
生者の間で生きているかどうか書き知らせてくれ。

まさに今日、失望して
僕はリヴォルノから帰る。
しかしお前、僕よりずっと純粋なお前は
憶えているだろう、ブラウスや
真っ赤なルビーが、金の蛇の上にのり
彼女が胸につけ、そこで曇っていたのを。

僕の魂よ、聞き分けよく
彼女を捜しに行ってくれ。
もし道で会ったら、
何でもあげるから。

(訳者妄言)
カプローニの詩。詩集 Il seme del piangere  (涙の種、1959)に収められた詩。母アンナ・ピッキの死を嘆く歌だが、自らの魂に、母の住む街に行くよう懇願し、彼女と街で出会うこと(彼女がまだ生きている)ことを願う詩。

冒頭は、ダンテの同時代人Cavalcantiのballata 'Per'i' no spero' を模したもの。カヴァルカンティの冒頭は、‘Perch'i' no spero di tornar giammai,/ ballatetta, in Toscana,/ va' tu, leggera e piana,/ dritt'a la donna mia' となっており、呼びかけと‘leggera'という形容詞が共通している。

原文は

Anima mia, leggera
va' a Livorno, ti prego.
E con la tua candela
timida, di nottetempo
fa' un giro; e, se n'hai il tempo,
perlustra e scruta, e scrivi
se per caso Anna Picchi
e' ancor viva tra i vivi.

Proprio quest'oggi torno,
deluso, da Livorno.
Ma tu, tanto piu' netta
di me, la camicetta
ricorderai, e il rubino
di sangue, sul serpentino
d'oro che lei portava
sul petto, doce s'appannava.

Anima mia, sii brava
e va' in cerca di lei.
Tu sai cosa darei
se la incontrassi per strada.

7音節句(settenari)が多いが、第二連は rima baciata (連押韻、同じ押韻が2行続くこと)のみで出来ている。tornoと Livorno, netta と camicetta, rubino と serpentino, portava と s'appannava である。rima baciata は素朴な韻であり、それを積み重ねることで、語り手の飾りのない、純粋な悲しみを、気取りなくストレートに表現しようとしているのだと思う。とはいえ、同時に、その素朴さは、カヴァルカンティのバッラータを踏まえたものでもあるのだ。

単純で複雑、素朴で洗練されているという文学的な逆接が成立している詩といえよう。

第二連は、母が胸につけていたプローチは、金の蛇の形をしたルビーのブローチだったが、そのルビーが胸の体温で曇ったということになるが、s'appannava には「記憶がうすれる」という意味もあり、3行前の ricorderai (憶えているだろう)と縁語にもなっている。

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2009年3月 8日 (日)

Giorgio Caproni:Donna che apre riviere

     海岸を開く女

君は海辺の女、
海岸を開く女。
白い朝の
空気は、君の塩の
空気--それは風をうける
帆、広がる旗、これほど
明るいたっぷりとした君の服。

(訳者妄言)
ジョルジョ・カプローニの詩。(ゴッツァーノの詩は、いったんお休みします。後日、ふたたび扱う予定です)。以下、シモーナ・コスタの La poesia italiana del novecento (Arnoldo Mondadori Scuola) にしたがってカプローニの略歴を記す。

カプローニは、1912年トスカーナの港町リヴォルノ生まれ、1990年にローマで死去。10歳で両親とともにジェノヴァに引っ越し、ジェノヴァが「心の街」(citta' dell'anima)となった。

コンセルヴァトリオに通いヴァイオリンや作曲を学んだが、家庭の経済状況が不安定であったため、ヴァイオリニストから店員まで様々な職業をへて、小学校教員をアルタ・ヴァル・トリッビアで務めた際に、将来夫人となるリーナと出会い、2人の子供をもうけた。

その後、ローマに移り、第二次大戦中は抵抗運動に参加。1945年にはローマに居をかまえ、教職と並行して新聞、雑誌の記事を書き、フランス文学、プルースト、シャール、セリーヌ、モーパッサン、ジュネの翻訳をものした。

カプローニは詩人として、Come un 'allegoria (1936)、Ballo a Fontanigorda (1938) でデビューした。カプローニの詩は canzonetta や sonetto という形式を採用したこと、美しい調べに欠けてはいないこと、また物語性を持っていることからサーバの詩と並べて評されるようになった。

実際、彼の詩を批評するものはカルドゥッチに言及したり、同郷のリグーリアの詩人ボイネやスバルバロに言及したりした。

その後1959年にはIl seme del piangere 、1965年には Congedo del viaggiatore cerimonioso & altre prosopopee を出版した。

彼の詩のテーマは、都市、母、旅に集中し、それが相互に絡み合っている。

さて、'Donna che apre riviere' は、1941年の詩集 Frizioni (摩擦)に収められた詩である。

詩は、わかりやすい語を用いながら、女性と海の持つ始原性を相互に照らしだしている。

原文は

Sei donna di marine,
donna che apre riviere.
L'aria della mattina
bianca e' la tua aria
di sale--e sono vele
al vento, sono bandiere
spiegate a bordo l'ampie
vesti tue cosi' chiare.

海辺の女性が、その光景の広がりの大きさのなかで外形の細部が描かれるというよりは、むしろ寓意的に開かれた、開放的な雰囲気と、陽光の明るさによって、光る海と重なる存在として浮かび上がるような詩である。

形式的には7音節詩句(settenari)が多く、また enjambement (行跨り)が多い。

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