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2008年12月

2008年12月31日 (水)

Corazzini: Sonata in bianco minore (3)

        白い短調のソナタ

         III

ーああシスター、もし戻ってこなかったら、
どうしましょう?
ーもし戻って来なかったら、待ちましょう。
ー修道院は、なんて凍てつくこと。
ー私の心はもっと凍てつくわ。
ーああ、シスター、ところが、私の心は、
太陽を浴びているのです。
ー空に星、海に帆、
たくさんの星、たくさんの帆...
―祭壇に蠟燭の火を灯しましょう。
ー覚えておきましょう、シスター、
私たちは死すべき存在であると。

ー無原罪の御宿り...
ーどうしましょう、もし戻って来なかったら?
ーもしもう戻ってこなかったら、死にましょう。


(訳者妄言)
セルジョ・コラッツィーニの詩の第三連。最終連である。この詩も詩集 Piccolo libro inutile に収められたものである。

おわりから3行目の原文は、Regina sine labe originali...とこの部分だけラテン語である。第二ヴァティカン公会議より前は、ミサや祈りはラテン語であげられていた。聖母マリアに捧げる連祷の一部分である。

原文は、

-Oh, Sorelle, e, se non torna,
che faremo?
-Se non torna, aspetteremo.
-Come e' gelido il convento.
-E' piu' gelido il mio cuore.
-Oh, Sorelle, invece, io sento
tutto il sole nel mio cuore.
-Stelle in cielo e vele in mare,
tante vele e tante stelle...
-Accendiamo le candele sull'altare.
-Ricordiamoci, Sorelle,
che siamo mortali.

-Regina sine labe originali...
-Che faremo, se non torna?
-Se non torna piu' morremo.

太陽の訪れを待つしか他にすべのない修道女。能動的に動くこと、働きかけることは出来ない。それゆえ、動く星や帆に憧れるのであろうか? 星から祭壇の蠟燭への連想は、宇宙的な広がりと、修道院の祭壇の重ねあわせ、物理的な広大さと、精神的な深さの重ねあわせでもある。

生命の行方を、運命にゆだねるしかなかった若い病んだ詩人の心がよく現われた詩といえよう。

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2008年12月30日 (火)

Corazzini; Sonata in bianco minore (2)

          白い短調のソナタ

         II

ーシスター、手をあわせ、また明日
戻ってくるよう祈ってください!
ー戻ってきますとも、たとえわずかの時間でも、
毎日、戻ってきますわ!
ーなぜ戻って来ないことがありましょう?
私たちは死に瀕しているのですもの。
ーシスター、聖体拝受をいたしましょう、
星が出る前に。
ー私たちには、イエスとマリアだけで
ほかには何もありませんわ。
ースープ皿のわずかなお水と
独房のわずかな日差しね。
ー私、自分の髪に
花飾りをつくりましょう。
ー私、シスター、
鳥のために粟を作りますわ。

(訳者妄言)
Sergio Corazzini の詩の第二連。修道女の会話である。7行目の「聖体拝受をいたしましょう」は、原文は、Comunichiamocene で、太陽から聖体拝領しましょうということ。擬人化されている太陽と交流する、交わることであり、さらには、宗教的意味合いを帯びて、太陽から聖体を授かるということになる。陽光が命のみなもとという感覚から来ているのであろう。

おしまいの二つの会話は、太陽の光によって、花がさけばそれで花輪、花飾りが作れるし、鳥のえさとなる粟やキビを栽培できるということである。

原文は、

-Sorelle, pregatelo a mani
giunte che' torni domani!
-Che torni, per poco, che torni,
pero', tutti i giorni!
-Perhce' non dovrebbe venire?
Noi stiamo per morire.
-Comunichiamocene, sorelle,
prima che vengano le stelle.
-Noi non abbiamo che Gesu',
Maria e niente piu'.
-Un po' d'acqua nella scodella
e un po' di sole nella cella.
-Io mi faro' una ghirlandetta
per i miei poveri capelli.
-Io, sorella benedetta,
avro' il miglio per gli uccelli.

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2008年12月29日 (月)

Corazzini: Sonata in bianco minore (1)

   白い短調のソナタ

      I

ーシスター、来てご覧なさい!
ー菜園に太陽が、太陽がでてますわ!
ーかわいそうに、太陽、風邪をひいてますわね?
ー過ぎた春を嘆いていますわ...
ー病み上がりの太陽。
ーシスター・アンナはこんな風に微笑むわね。
ー海の彼方のおとぎ話を
語りたいのよ!
ー太陽はやってきて
ぽつんと離れた私たちを見つける、
たぶん、病人が
自分の家の敷居で太陽が来るのを
むなしく待っていたかもしれないけれど。
ーその人は、私の角頭巾より白いわ...
ーシスター、太陽が行ってしまう前に
菜園に降りていきましょう。

(訳者妄言)
セルジョ・コラッツィーニの詩の第一連。修道女たちの修道院における会話。修道院や修道女を、黄昏派の詩人たち(Crepuscolari) は比較的しばしばとりあげている。修道院も、20世紀はじめには、古くさい、忘れ去られるべき存在として見る人も少なくなかったので、コラッツィーニらは、社会のなかでしかるべき位置を占められなくなった詩人と通じるところがあると考えたのではなかろうか。

太陽は、極端なまでに擬人化されている。

原文は、

-Sorelle, venite a vedere!
-C'e' il sole nell'orto, c'e' il sole!
-E' un povero sole che ha freddo, non senti?
-Che piange le sue primavere...
-Sole di convalescenti.
-Suor  Anna sorride cosi'.
-Che ci voglia raaccontare
una fiaba d'oltre mare!
-E' venuto a trovare
noi, povere sperdute,
e, forse un malato lo aspetta
invano al limitare
della sua casa per la sua salute.
-E' piu' bianco della mia cornetta...
-Sorelle, scendiamo nell'orto
prima che se ne vada.

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2008年12月28日 (日)

Corazzini: Dialogo di marionette

               マリオネットの対話

ー 可憐な女王よ、なぜ
わたしを寒さで死なせるのですか?
王は眠っておられる。おそらくは、
あなたに歌をお聞かせできるでしょう
王がお聞きにならずに!ああ、どうか
バルコニーにあがらせてください!
― 典雅な友よ、バルコニーは
張り子です、
二人を支えきれませんわ!
わたしを、頭なしで
死なせたいとお考えですの?
ー おお可憐な女王よ、黄金の
長い御髪(おぐし)を解いてください!
ー 詩人よ!わたしの髪は
屑繊維なのを
ご存じないか?
ー ああ、お許しください!
ー 許す。
ー これほど?
ー これほど...?
ー もうなにもおっしゃいますな、
私は死にます...
ー なんですと?たったこれだけの
ために?
ー 皮肉をおっしゃる...さらば!
ー そう見えて?
ー 厚紙の森での
僕らの最後の逢い引きを
惜しむ気持ちはありませぬか?
ー わたくし、覚えていませんの、
いとしいお方...行っておしまいになるの?
永遠に? ああ、どれほど
泣きたいことでしょう!でもどうして出来ましょう、
わたくしの小さな心は
木で出来ているのですもの。
   
    
(訳者妄言)
セルジョ・コラッツィーニの詩。自由詩で、一行の長さは自在に変化している。"cosi'?"のように2音節しかない行もある。詩集Libro per la sera della domenica に収められている。

マリオネット、手遣い人形(burattini)、道化は、象徴主義や耽美主義(デカダンス文学)によく登場するテーマである。自分自身を皮肉化するものとして、表象される。

この詩では、詩人の人形は、夢を追求し、女王の人形は現実に引き戻し、幻想のむなしさ、無効性を露わにする。語り手(コラッツィーニ)は、自分の夢の追求とその限界とを、同時に描いているのである。

原文は、

-- Perche', mia piccola regina,
mi fate morire di freddo?
Il re dorme: potrei, quasi,
cantarvi una canzone,
che non udrebbe! Oh, fatemi
salire sul balcone!
-- Mio grazioso amico
il balcone e' di cartapesta,
non ci sopporterebbe!
Volete farmi morire
senza testa?
-- Oh, piccola regina, sciogliete
i lunghi capelli d'oro!
-- Poeta! non vedete
che i miei capelli sono
di stoppa?
-- Oh, perdonate!
-- Cosi'?
-- Cosi'...?
Non mi dite una parola,
io moriro'...
-- Come? per questa sola
ragione?
-- Siete ironica...Addio!
-- Vi sembra?
-- Oh, non avete rimpianti
per l'ultimo nostro convegno
nella foresta di cartone?
-- Io non ricordo, mio
dolce amore... Ve ne andate?
Per sempre? Oh, come
vorrei piangere! ma che posso farci,
se il mio piccolo cuore
e' di legno?

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2008年12月27日 (土)

Corazzini: Per un organo di Barberia (2)

                 手回しオルガンのために

           II

ほら、だれも聞いてない。
君の単調な悲しみを脱ぎ捨てて
それが眠る
地方の小さな
家のまえで。
あの君の祝杯を
瀕死の人の群れをすすり泣け
もう一度、
君の涙へ戻れ
あわれな不満な
子供のとまらぬ涙へ、
誰も君を聞いていない。

(訳者妄言)
セルジョ・コラッツィーニの詩の第二連。第二連は、語り手が直接、手回しオルガンに呼びかけている。しかし、ここでも、誰にも聞いてもらえぬオルガネットは、詩人およびその作品の謂に他ならない。

6-7行目は、いくつかの註釈によれば、ヴェルディのオペラ《椿姫》の乾杯の歌への言及。陽気なはずの乾杯の歌も、手回しオルガンにかかると、すすり泣くように聞こえるということか。そう聞こえるのは、詩人の心理状態が反映しているのも一因だろう。

コラッツィーニは、詩集のタイトルも Piccolo libro inutile (無益な小さな本)としているが、詩人という存在の無意味さや、詩の存在意義のなさにこだわって詩を書いている。

原文は、

Vedi: nessuno ascolta.
Sfogli la tua tristezza
monotona davanti
alla piccola casa
provinciale che dorme;
singhiozzi quel tuo brindisi
folle di agonizzanti
una seconda volta,
ritorni su' tuoi pianti
ostinati di povero
fanciullo incontentato,
e nessuno ti ascolta.

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2008年12月26日 (金)

Corazzini: Per un organo di Barberia (1)

       手回しオルガンのために

         I

散らばった古いアリアの
悲しい施しは、
虚しい捧げもの
誰も受け取らない!
人のいない通りの
春の葉だ!
あわれなリフレインが
通り、また通り、
まるで、音楽の天を駆けめぐる
鳥のようだ!
救貧院の小アリアは、
施しに反響を
求めているよう!

(訳者妄言)
セルジョ・コラッツィーニの詩の第一連。前にとりあげた「感傷的なあわれな詩人の悲嘆」(Desolazione del povero poeta sentimentale) と同様、詩集 Piccolo libro inutile (ちいさな無益な本、1906)に収められている。

註釈によれば、この手回しオルガンを詩に用いたのは、ヴェルレーヌの『土星の子の歌』(Poe'mes Saturniens)で、ジュール・ラフォルグの詩によってフランスに広まった。

イタリアでは、コッラード・ゴヴォーニによって広まったこの手回しオルガンは、庶民的な楽器であるが、どこか物悲しさを漂わせており、諦め、失望などの象徴となっている。

誰も聞いてくれぬ手回しオルガンのアリアは、誰も聞いてくれぬ詩人の嘆きの暗喩であろう。

organo di barberia という言い方は、手回しオルガンを発明したモデナの弦楽器製作者バルベリから来ている。

原文は、

Elemosina triste
di vecchie  arie sperdute,
vanita' di un'offerta
che nessuno raccoglie!
Primavera di foglie
in una via diserta!
Poveri ritornelli
che passano e ripassano
e sono come uccelli
di un cielo musicale!
Ariette d'ospedale
che ci sembra domandino
un'eco in elemosina!

七音節詩行(settenari) .

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2008年12月25日 (木)

Corazzini: Desolazione del povero poeta sentimentale (8)

           感傷的なあわれな詩人の悲嘆

           VIII

ああ、僕は、本当に、病んでいる!
毎日、少しずつ、死んでいく。
ほら、すべての事物と同じだ。
だから、僕は詩人じゃない。
僕は知っている。詩人と言われるためには、
もっと別の人生を送らなきゃいけないんだ!
僕には、ああ神よ、死ぬしかない。
アーメン。

(訳者妄言)
セルジョ・コラッツィーニ(1886−1907)の詩の第8連。最終連である。1行目の病んでいる、というのは、彼が肺を病んでいることに言及しており、彼はそのために若くして死んだ。それと同時に、徐々に生起する死は、(すべての)事物と同じだというのは、前の連であったように、自分の病気を読者に告げると同時に、それが普遍的事象でもあると言っているのだ。

5、6行目の詩人と言われるためには、異なった人生を送らねばならないというのは、ダンヌンツィオ的な特権的、超越的な生を指しているが、彼には死ぬしかないのである。

最終行のアーメンは、周知のように、祈りの言葉を締めくくる言葉で、かくあれかし(cosi' sia)という意味を持っているが、自分の死ぬよりほかない生き方の善し悪しは、神にゆだねるしかないという意味合いを持っているだろうし、詩全体に散りばめられた宗教への言及(天使、大聖堂、十字など)とあいまって、詩全体が一種の祈りともなっている。

それと同時に、詩人とは何か、という形の詩論にもなっていることは言うまでもない。

原文は、

Oh, io sono, veramente malato!
E muoio, un poco, ogni giorno.
Vedi: come le cose.
Non sono, dunque, un poeta:
io so che per esser detto: poeta conviene
viver ben altra vita!
Io non so, Dio mio, che morire.
Amen.

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2008年12月24日 (水)

Corazzini: Desolazione del povero poeta sentimentale (7)

          感傷的なあわれな詩人の悲嘆

           VII

僕は、単純な生活が好きだ。
どれだけの情熱が、少しずつ、葉が落ちていくようになるのを見たことか
過ぎ去っていくもの全てに!
でも君は理解せず、微笑んでいる。
そして僕が病気だと思っている。

(訳者妄言)
セルジョ・コラッツィーニの詩の第7連。情熱のはかなさを、葉が散ることに喩え、その普遍性を歌うが、同時に君(読者)がそれを理解せず、ただ詩人が病気ゆえにそのようなことを思うのだ、と解釈されるだろうと言っている。
終わりの2行は巧みな告白でもある。つまり、自分が病気であることを明示しつつ、そのことを知ったときの読者のバイアスをも予め規制しようとしているのだ。自分の真意を判ってもらうためのアクロバティックなレトリックである。

原文は、

Io amo la vita semplice delle cose.
Quante passioni vidi sfogliarsi, a poco a poco,
per ogni cosa che se ne andava!
Ma tu non mi comprendi e sorridi.
E pensi che io sia malato.

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2008年12月23日 (火)

Corazzini: Desolazione del povero poeta sentimentale (6)

     感傷的なあわれな詩人の悲嘆

       VI

今晩、僕は手を十字にして眠った。
自分が小さなやさしい、すべての人間から
忘れられた子供のようだった。
最初に来たもののあわれな華奢な餌食のよう。
僕は、売られて、
打ちのめされ、
絶食させられて、
ただ一人涙にくれ、
暗い片隅で、
絶望的に悲しんでいたい。

(訳者妄言)
Sergio Corazzini の詩の第6連。1行目は手を胸のうえで十字にするのであろう。4−6行目の売られて、打ちのめされ、絶食させられて、というのも、不条理とも見える形で犠牲となるイエスに重ね合わされている。その部分は、韻も venuto, venduto, battuto と3行連続で、明らかに宗教的な数を意識している。

原文は、

Questa notte ho dormito con le mani in croce.
Mi sembro' di essere un piccolo e dolce fanciullo.
dimenticato da tutti gli umani,
povera tenera preda del primo venuto;
e desiderai di essere venduto,
di essere battuto
di essere costretto a digiunare
per potermi mettere a piangere tutto solo,
disperatamente triste,
in un angolo oscuro.

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2008年12月22日 (月)

Corazzini: Desolazione del povero poeta sentimentale (5)

          あわれな感傷的詩人の悲嘆

          V

ぼくは沈黙と通じあう、毎日、イエスと通じあうように
沈黙の祭司は物音で、
それなしでは、僕は神を探しもとめ見いだすことはできないだろう。

(訳者妄言)
コラッツィーニの詩の第5連。

原文は、

Io mi comunico del silenzio, cotidianamente, come di Gesu',
E i sacerdoti del silenzio sono i romori,
poi che senza di essi io non avrei cercato e trovato il Dio.

1行目の mi comunico は再帰動詞で、伝わるという意味であるが、同時に聖体を拝領するという意味がある。聖体拝領(comunione または Eucaristia) とは、カトリックの秘蹟(sacramento) の一つで、ミサの時に、聖体と呼ばれるウェハースのようなもの(ostia) とワインを分ちあう(ともに食べたり、飲んだりする)ことで、信者は、イエスの肉体と血を分ちあったことになる。神父の儀式により、パン(ostia) とワインが、イエスの肉体と血に聖変化したとされるからである。こうして、信者はキリスト自身と交流し(聖体拝領し)、イエスの福音に参加することになる。

cotidianamente は quotidianamente の文語的な形。2行目のromori は rumori の別形。
沈黙は第一連でも涙を捧げる対象となっていたが、ここでも沈黙の祭司という言い方で、神に相当する聖なる存在とされている。

思うに、沈黙の世界とは、死の世界であり、つまり、彼岸、あの世を意味し、それゆえに聖なる世界なのだろう。それに対して、騒音を立てるのは、生者であり、世俗の生活、俗なる世界を象徴しているのだろう。

聖と俗は、一方が存在することで、他方が成り立つのである。俗なるものがなくては、聖なるものを発見することが出来ないのだ。

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2008年12月21日 (日)

Corazzini: Desolazione del povero poeta sentimentale (4)

     あわれな感傷的詩人の悲嘆

         IV

ああ、僕の悲しみに驚かないでくれ!
聞かないでくれ
僕は、こんな虚しい言葉で、
ああ神よ、これほど虚しい言葉でしか答えられず、
死なんとするように、涙が出てくる。
僕の涙は、悲しみのロザリオを
繰っているよう
七たび苦しむ僕の魂の前で
でも僕は詩人ではあるまい
むしろ、単に、優しく物思いにふけり
こうして、歌うように、眠るように祈る子供なのだろう。

(訳者妄言) 
コラッツィーニの詩の第四連。

6行目のロザリオは写真にあるようなカトリックの数珠である。小さな珠が50個あり、等間隔(小さい珠10個ごと)に4つの大きな珠がある。はじには、十字架がついている。sgranare il rosario と言えば、数珠の珠を繰りながら、ロザリオの祈りをあげることを意味する。小さい珠一つにつきアヴェマリアを1回となえ、大きな珠(または異なる色の珠、あるいは珠と珠の距離が他とは違った珠)では主の祈りを唱える。

この詩では、sgranare un rosario di tristezza となっているので、流れ出る涙の一粒一粒をロザリオの数珠一粒に喩えているのである。また、通常は、神または聖母の前で祈るのだが、この場合は、詩人の魂の前で祈って(涙を流して)いるのだ。

コラッツィーニは、祖父、父ともに教皇庁の掌璽院(しょうじいん、聖職志望者の適格審査にあたる部局、今日では廃止されている、dataria)に勤めていた。この詩でも宗教色(宗教的な比喩、発想)はいたるところに見られる。

 

原文は、

Oh non maravigliarti della mia tristezza!
E non domandarmi;
io non saprei dirti che parole cosi' vane,
Dio mio, cosi' vane,
che mi verrebbe di piangere come se fossi per morire.
Le mie lagrime avrebbero l'aria
sgranare un rosario di tristezza
davanti alla mia anima sette volte dolente
ma io non sarei un poeta;
sarei, semplicemente, un dolce e pensoso fanciullo
cui avvenisse di pregare, cosi', dome canta e come dorme.0kblqp6n180x140

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2008年12月20日 (土)

Corazzini: Desolazione del povero poeta sentimentale (3)

          あわれな感傷的詩人の悲嘆

                     III
僕は、ただもう、死にたい、疲れたから。
ただ、大聖堂のステンドグラスの
大天使たちが
僕を愛と苦悩で震わせるから。
ただ、僕は、いまや、
鏡のように、
あわれな憂鬱な鏡のようにあきらめている。

ほら、僕は詩人じゃない。
死にたいと思っている悲しい子供なんだ。

(訳者妄言)
コラッツィーニの詩の第三連。語り手が「鏡のよう」という直喩(similitudine)は、受け身であるという心的状態を表している。それはそう新しいものではないが、その鏡が、「あわれ」(povero)で、「憂鬱 」という擬人法は珍しい。

原文は、

Io voglio morire, solamente, perche' sono stanco;
solamente perche' i grandi angioli
su le vetrate delle catedrali
mi fanno tremare d'amore e di angoscia;
solamente perche', io sono, oramai,
rassegnato come uno specchio,
come un povero specchio melanconico.

Vedi che io non sono un poeta:
sono un fanciullo triste che ha voglia di morire.

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2008年12月19日 (金)

Corazzini: Desolazione del povero poeta sentimentale (2)

       あわれな感傷的詩人の悲嘆

                 II
僕の悲しみは、あわれなありふれた悲しみだ。
僕の歓びは、単純だった、
あまりに単純で、君にそれを告白しなければならないなら、顔が赤くなるだろう。
今日、僕は死を考えている。

(訳者妄言)
コラッツィーニの詩の第二連。
語り手の悲しみは、ありふれている。ロマン派的な発想でいえば、詩人の悲しみ、歓びは、特別なものになるはずだ。第一連と同様に、詩人の特別性を、戦略的と言ってもよいほど、さまざまな角度から否定している。

原文は、

Le mie trestezze sono povere tristezze comuni.
Le mie gioie furono semplici,
semplici cosi', che se io dovessi confesssarle a te arrossirei.
Oggi io penso a morire.

この詩が、ロマン派的な詩人像へのアンチテーゼを示し、ありふれた悲しみ、単純な歓びを歌っているが、それときれいに照応して、ここで用いられている語彙は、きわめて日常的で、「ありふれた」、「単純な」言葉である。
1行目と2行目は、sono (現在形) と furono (遠過去形)、 triestezza (悲しみ)と gioie (歓び)が対比されている。

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2008年12月18日 (木)

Corazzini: Desolazione del povero poeta sentimentale (1)

    あわれな感傷的詩人の悲嘆

       I
なぜ僕のことを詩人と呼ぶの?
ぼくは詩人なんかじゃない。
僕は泣いている幼な子にすぎない。
ほら、僕は「沈黙」に捧げるものは涙しかないんだ。
なぜ僕のことを詩人と呼ぶの?

(訳者妄言)
セルジョ・コラッツィーニ(1886−1907)の代表的詩の第一連。
詩人というものの存在についての疑問を投げかける詩である。詩人という存在が、ロマン派的な天才でインスピレーションを得て書く人であるとか、あるいはシェリーのように立法者として現世を超越的に支配する存在であることが信じられなくなった時代を敏感に反映した詩と言えよう。
しかし逆説的なことに、詩人であることを否定しつつ一連5行のなかに3度も「詩人」(poeta)という言葉を繰り返しており、なみなみならぬこだわりが感じられる。つまり、詩人とは何かということに関して、世間が考えている詩人像とは異なるのだ、という宣言にもなっているわけである。

原文は、

Perche' tu mi dici: poeta?
Io non sono un poeta.
Io non sono che un piccolo fanciullo che piange.
Vedi: non ho che le lagrime da offrire al Silenzio.
Perche' tu mi dici: poeta?

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2008年12月16日 (火)

Cardarelli: Rimorso

      悔い

  お前は僕のなかに沈んでいる、
海に財宝が沈んでいるように。
お前は、僕のあらゆる過ちの、原因であり
秘密、あるいは僕が信じない愛だ。
僕をつけまわす愛、
あらゆる境界を越えて、どこまでも、
まるで忠実な犬が
不実な主人を追うように。
お前から逃げるが無駄だ。
お前のことを考えないと、お前が迫ってくる、
悔いが、隠れた喘ぎが。
お前はきっとある日僕に追いつくだろう
死において。
そこでは、静かに休息して、お前の守護神が
僕の面倒をみてくれるだろう。
僕はその途方もない微笑みの
影で眠りたい。

(訳者妄言)
ヴィンチェンツォ・カルダレッリの詩。一見さらっと読むよりも、複雑な詩である。その複雑さは、彼の人生に対するアンビヴァレントな感情に由来するのであろう。

つまり、「お前」と呼ばれるものは、彼の心の奥深くに宿っているのだが、それを愛と呼びもするのだが、彼はそれを信じないと同時に言うのである。だから、悔いなのであろう。

悔い多き人生に対する入り組んだ、屈折した愛。しかし、その人生への愛から逃れることは出来ないのだ。死に達した時点では、自分と愛(悔い)が和解できるのだ、と詩の後半部分は解釈した。

原文は、

  Ti porto in me come il mare
un tesoro affondato.
Sei il lievito, il segreto
d'ogni mio male, o amore a cui non credo.
Amore che mi segui
oltre ogni limite, ovunque,
come un cane fedele
segue un padrone ingrato.
Ti fuggo invano.
Poi che meno ti penso piu' mi opprimi,
rimorso, celato affanno.
Tu certo un girno mi raggiungerai
nella morte.
La', riposato e cheto, il tuo buon Genio
mi assistera'.
Voglio dormire all'ombra
del suo tremendo sorriso.

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2008年12月14日 (日)

Cardarelli: Gabbiani

        かもめ

かもめはどこに巣があるのか、どこで
平安をえるのか、知らない。
僕は彼らに似ている、
いつまでも飛びつづける。
彼らが、食料を捕まえるために水をかすめるように
僕は生命をかすめる。
おそらくは彼らもそうであるように、僕は静けさ、
大いなる海の静けさを愛すが、
僕の運命は、
烈風のなかをよろけつつ生きることなのだ。

(訳者妄言)
Vincenzo Cardarelli の詩。1934年の Giorni in piena におさめられた。
詩人の、安定を求めつつも、それを得ることなく彷徨する人生が、カモメの生きように喩えられている。

原文は、

Non so dove i gabbiani abbiano il nido,
ove trovino pace,
Io son come loro,
in perpetuo volo,
La vita la sfioro
com'essi l'acqua ad acciuffare il cibo.
E come forse anch'essi amo la quiete,
la gran quiete marina,
ma il mio destino e' vivere
balenando in burrasca.

3行目loro と5行目sfioro は韻を踏んでいるが、同時にそれらは、4行目の volo と assonannza (母音韻、母音のみ同じで子音を異にする)となっている。
1行目の nido と6行目の cibo もassonanza となっている。
後半の4行(7−10行)は、行末で韻を踏んでいないが、7行目のessi は6行目のessi を繰り返しているし、7行目のquiete は8行目の半ばで繰り返されている。
最終行では、balenanndo と burrasca という長めの単語が二つあって、リズムがゆっくりとなって重厚に終わる。

(追記)
最終行の balenando (原形はbalenare) は、稲光が光るという意味と、よろめく、千鳥足で歩く、という意味がある。balenare の意味上の主語を語り手と取れば、拙訳のようになるし、嵐で烈風が吹きすさぶなか、稲妻も光っているという壮絶な光景ともとれる。

風吹き荒れ、雷の落ちる中を生きていくのが僕の運命だ、ということになる。どちらにもとれるように、双方の意味を響かせて、詩人は書いているのではないだろうか。

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2008年12月12日 (金)

Cardarelli: Autunno

      秋

秋。すでにその訪れを
八月の風に、
どしゃ降りやそぼ降る
九月の雨に感じ、
おののきが、今や
裸で悲しい大地、
迷える太陽を迎える大地を走った。
われわれの人生の最上の時は
言い表しがたくのろのろと
進みゆくこの秋に、
いまや過ぎいき傾いていき、
そしてゆっくりと我らに別れを告げる。


(訳者妄言)
ヴィンチェンツォ・カルダレッリの詩。1931年に雑誌に発表され、1934年に詩集 Giorni in piena に収められた。

時の過ぎ行くさだめを、季節の移ろいにのせて歌い、それは必然的に、人生の若さとの別れへと重ね合わせられていく、というのがこの詩の組み立てである。

秋の気配を、八月の風のなかにも感じ取るとするところは味わい深い。

原文は、

Autunno. Gia' lo sentimento venire
nel vento d'agosto,
nelle piogge di settembre
torrenziali e piangenti,
e un brivido percorse la terra
che ora, nuda e triste,
accoglie un sole smarrito.
Ora passa e declina,
in quest'autunno che incede
con lentezza indicibile,
il miglior tempo della nostra vita
e lungamente ci dice addio.

原文10行目の 'con lentezza indicibile' は意味だけをとれば、抽象的な言い方で、冴えないようにも思えるが、リズムを考えると、一行が3語だけで出来ており、遅さをまさに、言葉のリズムで表しているのである。つまり、lentezza と indicibile という長い単語が連続して、この一行全部が副詞句となり、passa e declina という動詞と il miglior tempo della nostra vita という主語との結合を、「遅い」ものにしているのだ。(Simona Costa の註を参照した)。

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2008年12月11日 (木)

Cardarelli: Ottobre

      十月
   
ずっと以前、夏のことだった、
あの火に、あの熱に、
僕の想像力は目覚めた。
今、僕は秋の気配を帯びる
陶酔させる色の
収穫をすでに終えた
ものうい季節が好きだ。
もはや僕に似るものはない、
もはや僕をなぐさめるものはない、
ブドウの絞り汁やワインを
嗅ぎつけるこの空気以上に、
略奪された葡萄畑の上に輝く
10月の年老いた太陽以上に。
秋の思いがけぬ太陽は、
彼岸のそれのように輝き、
やわらかな破滅と
流浪の幸福を持ち、
お前は消耗した私たちを見いだす、
ひどい様相と魂の死を見いだす。
だからお前が気に入るんだ
残照のみやびな太陽よ、
お前はさよならの言葉を知らず、
毎朝戻ってくる
まるで新たな奇蹟のように、
進んだだけより美しくなる、
お前は、そこで息づいている。
この信じがたい日々で
お前は季節を形成するが、
それは一つの甘美な苦悩にほかならない。

(訳者妄言)
ヴィンチェンツォ・カルダレッリの詩。カルダレッリの姓は母方から来ている。父親が認知しなかったためである。しかし、鉄道の駅のバールを経営したいた父と過ごしていた時期がむしろ長い。

小学校終了後は、独学で、レオパルディやボードレールを愛読した。19歳でローマに出た後は、様々な職業を転々とした後、社会党の機関紙《Avanti!》をはじめ、雑誌《La Voce》, 《Malzocco》, 《Lirica》で働き、バッケッリやチェッキとともに《La Ronda》(1919−1923)を創刊した。

10月の太陽は、日々、日照時間が短くなっていく。そこに、自然と、人の一生の後半生が重ね合わせられている。

原文は、

Un tempo, era d'estate,
era a quel fuoco, a quegli ardori,
che si destava la mia fantasia.
Inclino adesso all'autunno
dal colore che inebria,
amo la stanca stagione
che ha gia' vendemmiato,
Niente piu' mi somiglia,
nulla piu' mi consola,
di quest'aria che odora
di mosto e di vino,
di questo vecchio sole ottobrino
che splende sulle vigne saccheggiate.
Sole d'autunno inatteso,
che splendi come in un di la',
con tenera perdizione
e vagabonda felicita',
tu ci trovi fiaccati,
volti al peggio e la morte nell'anima.
Ecco perche' ci piaci,
vago sole superstite
che non sai dirci addio,
tornando ogni mattina
come un nuovo miracolo,
tanto piu' bello quanto piu' t'inoltri
e sei li' per spirare.
E di queste incredibili giornate
vai componendo la tua stagione
ch'e' tutta una dolcissima agonia.

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2008年12月 9日 (火)

Cardarelli: Estiva

Vincenzo20cardarelli     夏の

横たわった夏、
濃密な気候の季節、
大いなる朝の、
騒音のない夜明けのーー
水槽のなかでのように、目覚めるーー
すっかり同じ日々、星のように
かげりや危機という
悲痛さの少ない季節
広がりの幸福、
何の現世の約束もないことが
僕の心に平安をもたらす
君の空からあふれる
太陽の確かさと同様に
極に達した季節、大いなる休息の中へと
挫かれ、ひれ伏し、
巨大な夢を金色に染め、
一日の境界の向こうへと
時を拡げるべく
君が光を運ぶ季節、
ぐずぐずして永遠に終わらぬカデンツァを
時折、君が、普通に進む
秩序の中に、入れ込んでいるように見える。

(訳者妄言)
ヴィンチェンツォ・カルダレッリ(1887-1959)の詩。独学で、19歳でローマに出て、ジャーナリズムに関わった。

タイトルのEstivo は estate (夏)の形容詞である。

原文は、

Distesa estate,
stagione dei densi climi,
dei grandi mattini,
dell'albe senza rumore--
ci si risveglia come in un acquario--
dei giorni identici, astrali,
stagione la meno dolente
d'oscuramenti e di crisi,
felicita' degli spazi,
nessuna promessa terrena
puo' dare pace al mio cuore
quanto la certezza di sole
che dal tuo cielo trabocca,
stagione estrema, che cadi
prostrata in riposi enormi,
dai oro ai piu' vasti sogni,
stagione che porti la luce
a distendere il tempo
di la' dai confini del giorno,
e sembri mettere a volte
nell'ordine che procede
qualche cadenza dell'indugio eterno.

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2008年12月 8日 (月)

Cardarelli: Passato

        過去

思い出、われわれの短い身躯の
あまりにも長いこの影、
生きながら、残す
死の引きずり跡、
痛ましく永続的な思い出、
ほら現れる。
暗い風につき動かされた
陰鬱で、おし黙った亡霊。
君はもう思い出にすぎない。
僕の記憶のなかへと移っていったんだ。
そうだ、だから今は
君は僕のもの
僕らの間に起こったことは
取り消せないものなのだ。
すべては終わった、あっという間に!
落ちるがごとく、軽やかに、
その時はやってきた。
つかの間に話は
すっかり閉じ、悲しい結末をむかえた。
僕たちは、愛が
生命を燃やし、時を飛翔させるのを知っているべきだった。


(訳者妄言)
カルダレッリの詩。1931年雑誌《Il Selvaggio》に掲載され、のちに詩集Giorni in piena (1934) に収められた。
過去の愛を、思い出、記憶、死というものと連関させつつ呼び起こしている。過去のものになってしまったがゆえに、自分のものとなった過去であり、「君」である。
愛が続くのはつかの間であり、別れのときは、「落ちるがごとく、軽やかに」、つまり、まっしぐらに、気がつかぬまにやってきたのだった。

原文は、

I ricordi, queste cmbre troppo lunghe
del nostro breve corpo,
questo strascico di morte
che noi lasciamo vivendo,
i lugubri e durevoli ricordi,
eccoli gia' apparire:
melanconici e muti
fantasmi agitati da un vento funebre.
E tu non sei piu' che un ricordo.
Sei trapassata nella mia memoria.
Ora si', posso dire
che m'appartieni
e qualche cosa fra di noi e' accaduto
irrevocabilmente.
Tutto fini', cosi' rapido!
Precipitoso e lieve
il tempo ci raggiunse.
Di fuggevoli istanti ordi' una storia
ben chiusa e triste.
Dovevamo saperlo che l'amore
brucia la vita e fa volare il tempo.

自由詩ではあるが、endecasillabo (11音詩行)と settenario (7音詩行)の使用が目立つ。

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2008年12月 7日 (日)

Vincenzo Cardarelli: Ritratto

    肖像

彫刻された口があり、
天使のように明快で曖昧な顔、
青白く、豊かな人
真珠の歯、
敏速な歩み、
彼女の微笑みは、
空気のようで、謎めいて、輝かしく
言い表しがたい光の現象のようだ。

(訳者妄言)
Vincenzo Cardarelli の詩。カルダレッリは本名をNazareno Caldarelli といい、1877年にCorneto Tarquiniaで生まれた。
この詩は、最初1916年6月に雑誌Voce に掲載され、のち彼の詩集Viaggi nel tempo (1920) に収められた。
ある女性の美を描いているが、2行目の「明快で曖昧」であるとか、「青白く、豊か」といった ossimoro (撞着語法)を駆使している。

原文は、

Esiste una bocca scolpita,
un volto d'angiolo chiaro e ambiguo,
una opulenta creatura pallida
dai denti di perla,
dal passo spedito,
esiste il suo sorriso,
aereo, dubbio, lampante,
come un indicibile evento di luce.

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