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2008年8月

2008年8月31日 (日)

コピオーリ:《Andiamo senza capire》

           理解せずに行こう

理解せずに行こう
人生を開きすぎてしまおう。
測りがたいほどに
生き生きすることは、あらかじめ与えられてはいない。
あらゆる光は燃やし、殺す。
でも月と太陽、
愛するものと愛されるものは、
あなたを永遠に
閉じ、開く
あなたはあらゆる光を
曇らせる光。

         
(訳者妄言)
Rosita Copioli の詩集 Il postino fedele (忠実な郵便配達人)(2008)の冒頭の詩。この詩集は Mondadori 社の Lo Specchio という詩のシリーズの1冊として刊行された(14ユーロ)。

コピオーリはリッチョーネ(リミニ県、アドリア海側のリゾート地)の出身。W.B.イェイツ、ゲーテ、フローベールの翻訳をものし、レオパルディに関する著作がある。

光が主人公の詩。原文は、

Andiamo senza capire
apriamo troppo la vita.
Smisuratamente
essere vivi non e' dato.
Tutta la luce brucia e uccide.
Ma luna e sole,
amante e amato,
chiudono aprono
te in eterno
luce che ottenebra
ogni luce.

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2008年8月30日 (土)

ザンゾット:《)(   ()》

    )(      ()

そして今私は入り込む
君の黄金に飛び込む
月私のただ一つの傑作
  
君だけの森
花盛りの月
黄金の黒い群(むれ)
森傑作

準備の出来た瞳       (ショーウィンドウの中で)
骨折りの準備
だが見張りが意気を挫く
地平線の
地平線へ落ちる        (顕微鏡のスライドガラスの中で)

全てを飾る花
沈む些事
些事ただ一つの傑作。

    
(訳者妄言)
タイトルからお判りのように昨日の詩とペアになる作品で、タイトルは外向きのカッコと内向きのカッコが、昨日の詩とは逆に並んでいる。

oro (黄金)は月の光の形容であるが、この詩は音韻からも oro に満ちている。原文は

E mi addntro ora
mi tuffo nel tuo oro
luna mio unico capolavoro

Bosco di te sola
luna fiorito
nera orda d'oro
bosco capolavoro

Pupilla pronta           (in vetrina)
e sforzo pronto
ma le guardia smonta
e di orizzonte
cade in orizzonte      (in vetrino)

Fiore di cui tutto infioro
inezie che tramonta
inezie unico kapolavoro.

2,3, 6,7, 13,15 行目の行末が oro となっている。1行目の ora も近似の音である。また6行目のorda ,  9行目のsforzo, pronto , 11行、12行のorizzonte 13行のfiore には、oro かそれに近い音(or a, ore )が、ばらばらにされて埋め込まれている。

原文では8行目末と12行目末のカッコの中はa と o が入れ替わるだけで、極めてよく似たものになっているのだが、訳文では残念ながらほど遠いものとなっている。ザンゾット自身の説明では、月は美であるが、美がショーウィンドウの中の商品のように消費の対象となることもあり(8行)、科学の探究の対象となることもある(12行)。

現在でも、森にかかる月の風情はあやしく人の心を動かすだろうが、人の生きる世界は大きく昔とは変わってしまったのである。

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2008年8月29日 (金)

ザンゾット:《()  )(》

     ( )      )(

O脚とX脚の樹々/ラテン語化すらされず/権利もなく/宗教も
なく/行き先もなしで/金貨も/天職もない

     樹木の成長、現段階では、
しばしば、現在の森の木々の生長に
垣間見る

       O脚 と X脚
         )   (
       君の小人の
         (    )
         脚とともに
        私に毒を盛り
       手の上で私を踊る

              
 (訳者妄言)
ザンゾットの詩集 Il Galateo in Bosco (森の作法)(1978)のなかの詩‘() )(’ 。誤植ではなくて、内向きのカッコと外向きのカッコが並んでいるのがタイトルなのである。

詩人自身がこの詩を説明している。散文集の Prospezioni e consuntivi のなかの‘Intervento' の中でこの詩をとりあげているが、‘Intervento'自体は、ザンゾットと中学生および高校生との2回の対話(1980年3月)を収録したもので、彼の詩がいくつかとりあげられている。(Mondadori 社のシリーズMeridiani のAndrea Zanzottoには‘Intervento'が収められている)。

それによると、ザンゾットは近年の(  )の多用を皮肉る意味を持ってこのようなタイトルをつけたとのこと。また、この(   )の形は三日月の形でもある。さらには、詩をよめば明らかなように、脚の内反、外反をも表現しているわけである。

月はいつも森のうえにあって、近くて遠い存在なのである。この二つのカッコは同時に内反、外反の脚を示していて、これは歩行の困難を示しているのだという。われわれは、多かれ少なかれ、現実というものに対し、身体障害者である(手足が不自由である)というイメージを表しているのだ。

詩人によれば、世界が一種の小人化し、脚を開き、手の上で踊りを踊って、死に挑んでいる、という構図のミニドラマだという。

原文は、

Alberi vari e valghi/nemmeno latinizzati/senza diritti/senza
religioni/privi di destini/e di zecchini/privi di vocazioni

       L'Arborescenza, nella sua fase attuale,
intravista sovente nelle arborescenze
del Bosco attuale

                  Varo e Valgo
                     )        (
                   con le tue gambe
                     (       )
                     di nano
                   avvelenandomi
                  ballami sulla mano

不思議な詩と記号と現実の交わりである。

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2008年8月28日 (木)

ザンゾット:《La perfezione della neve》

   雪の完璧さ

なんという完璧さ、なんたる
なんたる完全さ。刺しつつ、加える。
そして抽出作用、星の生成作用、星々の公式
凍傷、星と空を通じて
完成物のなかを僕は進もう
もう少しそちらへ、まぶしい輝きの、充足の、空虚の
進み方を追求しよう
もういちど跳ねてみて、怪しげな
闇を避けながら、というところかな。
しかし、雪がこれほど豊穣では、どうやってわれわれを支えるのか
どう等しくなるのか。早朝の谷へ、谷へ
複数の光源の山へ
この根源的な運動ー欠如のただ中に私は入った
あ痛っ、登る、理解する最初の戦慄(おののき)、
順番通り出発し、挑む。さあ、そろった、
君の慰謝、日照、そして僕の、この
冬の果実、鍛えられ、協定して、
いつものガラスの頂上へ、雪に覆われた縁へ
決してー立ち去らせーなかった、
そのハリネズミのなかで燃える星
氷から抽出された栗
すべて、すべてエロス、すべて自由、わなのなかの自由
抱擁の中に私はいる、いるにまかせる、
招きに同意し、計画のなか、出来事のなかにいる。
本当の、微笑み?人(生)(観ー視)。
何もできない、仮説を立てられないところのもの
なすこと(愛撫する?)の限界で。
おお、氷は長く、色の培養
黄金の保証された仕事
用意はできた。誰に話そう?もう一度かける。
準備はいい、不滅の相で、
雪のスケッチー観念、その揺らめき。
準備OK.
完全へ、完全の。

「話は終わりました。お帰りになって結構です。」


(訳者妄言)
ザンゾットの La Belta' の巻頭2番目の詩。

ザンゾットの言葉の連結、接続は、いつも意味内容によるものではない。14行目、movimento-mancamento 、17行目、consolazione insolazione 18行目 allenate, alleate などは、明らかに音の類似、近似で片方がもう一方を呼び寄せてしまうのである。

雪の世界を外から描いているわけだが、同時に言語世界の磁場が働いていて、言語世界は必ずしも、現実世界を分節化する(散文であれば、それが主要な働きになるのだが)ために機能しないのである。

たとえば4-5行目は、assideramento, attraverso sidera e coelos / assideramenti assimilazioni-  であるが、assideramento (凍傷)という言葉のなかに sidera (星)が埋まっている。assideramenti と assimilazioni はアリタレーション(頭韻)である。

原文を途中まで引くと、

Quante perfezioni, quante
quante totalita'. Pungendo aggiunge.
E poi astrazioni astrificazioni formulazione d'astri
assideramento, attraverso sidera e coelos
assideramenti assimilazioni-
nel perfezionato procederei
resaltando, evitando
dubbiose tenebrose; saprei direi.
Ma come ci soffolce, quanta e' l'uberta' nivale
come vale: a valle del mattino a valle
a monte della luce plurifonte.
Mi sono messo di mezzo a questo movimento-mancamento radiale
ahi il primo brivido del salire, del capire,
partono in ordine, sfidano:ecco tutto.
...

ザンゾットの詩集でもっとも簡単に入手できるのは、Oscar Mondadori のペーパーバックの選詩集で Andorea Zanzotto Poesie (1938-1986)  である。これは Poesia del '900 というシリーズの中の一冊。より本格的なのは Meridiani の Andrea Zanzotto: Le poesie e prose scelte となり、こちらには散文も含まれている。

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2008年8月27日 (水)

ザンゾット:《Ma che grandi nevi》

なんたる大雪
何メートルも何メートルもの輝きをお前は予見し、先立っていた、
満足して、乳のような雪を夜明けに測っていた。
だが、穏やかな食べ物、葉を取り払って、だが、断食として。

クリスマスのイヴ
ミソサザイまで断食する。

 
(訳者妄言)
ザンゾットの詩集 La Belta' の連作 Progezie o memorie o giornali murali のIV. 

原文は、

Ma che grandi nevi
che metri e metri di splendore prevedevi, precedevi,
e contento le misuravi nell'alba latteneve.
Ma cibo pacato ma come denudato ma come un digiuno.

E la vigilia di Natale
digiuna persino lo sgricciolo.

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2008年8月26日 (火)

ザンゾット:《Le profezie di Nino》

ニーノの預言。
(なんてことを書かせるんだ、ニーノ!)
(今日、こうしたことがーたとえ最小たりともー
意味を持つことが可能なのかは判らない!)
ニーノ、最も美しい預言は
ドッレの移動面につぼみを置くことにほかならない
そこでお前は、神権により
普遍的な聖職禄により公爵で
時と自然の謎を探しまわる
ーより重要なのはー天からお前のワインを引き出すこと
だってお前の葡萄畑は、ただ星空のみと
隣接し、きらめくキジが密集しているからだ。
お前はここで、明日の嵐や雪を予想する
ここで乳や麦のパーセント
ここで貧困と支配を予想する。
しかしいつもリンゴの波が
お前の庭に最良のものを置く、
四つ葉のクローバの飼料が干し草置き場
お前の葡萄、葡萄の葉、若枝にのしかかり、
人生には、それに打ち勝つ光もなければ、風も、大地の気質もない。
不純物や骨折りは禁止!
お前の霊感により、期待されていた、
この地方で最も高く売れる収穫が
飛び出す。早朝のはだかの
斜面では、
すでに12月の霜が、かゆい、かゆ、かゆ
(冗長、冗長、層を重ね
存在せぬものに鏡)
露でしめる封土へペダルをこぎ、
才能と驚異
お前は、70歳と80歳の間をノンシャランとペダルをこぐ、
お前のワイン貯蔵庫で
もうじき一緒になるだろうーなんというサミット!-
良く選ばれ、100の100の《影》とともに
よりいっそう深く知るだろう
お前の価値の深さを
夕べは伝統家で朝(あした)には革新家
これがおまえのあらゆる預言の頂点だ。

(訳者妄言)
ザンゾットの詩集 La Belta' の連作 Profezie o memorie o giornali murali (預言または記憶または壁新聞)のIII. この詩はのちに詩集 Idioma のなかの Nino negli anni ottanta で主人公のニーノが再び取り上げられることになる。当ブログでは、‘Nino negli anni ottanta' を先に紹介した。

6行目の移動面としたのは、clinami であるが、クリナメンは垂直に落ちるときのアトムのずれのことなので、実際には斜面のことである。普通の斜面という言葉を用いていないので、訳者も通常使用しない表現を使ってみた。

ニーノは農民であるのだが、公爵に見立てられている。終わりから2行目は、tradizionalista a sera all'alba novatore: など格言のような簡潔で対称性を持った言い回しである。

 

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2008年8月25日 (月)

ザンゾット;《Alla stagione》3

すでに幸福に満ち、そこで幸福に満ちて、
慎重で、あるいはもう一つの
拡大中の至福、真珠を生む
壺や丘の中の至福
真珠をもっぱらつくる沈黙の中の至福。
この倹約、この夢を
解釈すること。哀れな堆積に、
リンゴに、イチジクに、スモモに、言及すること。
多くのことを、季節について、不定法を用いて言うこと。
多くの甘美さ。
しかし、幸福なくちばし、清潔な翼
眼、鳥の資質は、長持ちするのか?
あの針穴、あの小鉤(かぎ)、あの巻き上げ機を守ること。
君は良かった、君は良い。が、むなしい主題
むなしい愛、どこで私は償い、どうやって?
君の髪の密生した織物から
熱い共生から、助けから、食べ物から。
至福であることー私の意に反しーは私を規定していた
たとえ、至福と言うことが悪評であっても、
離れて、お、お話をどもり
季節はずれて、狂ったようにお話
歴史、歴史、クジャク、
極めて雄弁なる歴史を、つくって、くずす。
しかし、彷徨(さまよ)える騎士よ、馬に乗れ、
しっかりとした香料、秘密の科学作用
失敗、太陽光線、優越、生成から離れて、
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
あなたがたは不滅だから
わたしは不滅だから
率直に言って、君は不滅だから

不定法の使用

             
         
(訳者妄言)
Andrea Zanzotto (1921-  )の詩集La Belta'の‘Alla stagione'の3.季節が拡大中(盛りにむかう)、実りがもたらされる。

この詩では、作者自ら言及しているように、不定法が多用されている。原文は、

Gia' fu beato, la' fu beato,
grande beatitudeine in circospezione
o in un'altra espansione
piu' accorta e difficile in vasi e valli perlifere
in silenzio esclusivo perlifero.
Interpretare questa parsimonia
questo sonno. Riferirsi alla grama
deiezione, ad un pomo ad un fico a uno spino,
Dire, molte cose, di stagione, usando l'infinito:
tante dolcezze.
Ma durano al becco felice all'ala pulita
all'occhio all'ingegno dell'augello?
Difendere quella cruna quel grimaldello quel mulinello.
Bene fosti e ben sei: ma il proposito
vano e il vano amore dove compenso e come?
Dal tessuto foglioso delle tue chiome
dalle calde simbiosi dagli aiuti dai cibi.
Essere beato-contro me-mi prescrivi
anche se e' malfamato cio' che dice beato,
se la fa-favola in disparte s'imbalba,
se, fuori stagione, mattamente la storia
clio clio pavoncella fa su e disfa
l'opus maxime oratorium,
Ma cavalchi, bel cavaliere errante:
armi sodi, chimismi riposti
lungi dal fallire, raggi, preminenze, nascenze,
------------------------------------
Perche' siete immortali
perche' sono immortale perche'
francamente immortale tu sei
         
e l'uso dell'infinito

また、ザンゾットの詩の世界では、通常は , (ヴィルゴラ、カンマ)で切れるであろうところが、それなしで続いてしまうので、どこで切れるのか、つながるのかを読者が判断しなければならない。

これは単に読者を困惑させているのではなく、分節化以前の、未分化な世界を提示するための工夫なのだろう。

22行目の clio clio はムーサの中の歴史をつかさどる女神であると同時に、鳥の鳴き声の擬音語ともなっている。

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2008年8月24日 (日)

ザンゾット:《Alla stagione》2

君は、大きな色の中に閉じこもる
色は、大きな影の中に閉じこもる
そして君自身と
僕と、僕でないものを、後退の最盛期に運び去る
沈黙の尊重、
そこに極めて脆い音の
熱気が加わる、あるいはダリアと菊の
間の母ーママの歩み
わずかに欠けたり、不揃いで、私は
四輪馬車やシストラムとともに、じだんだを踏む
ほとんど思い違いから波及効果が出たばかり。
君は人を引きつけ、魅惑的な
招き、私や私でないもの、私たちでないものに従う。
あそこの斜面のママー母は、銀のハサミを持っている。
反対の斜面では、私は
紋章化したがらくたを決めることが
許されているー何という友情ー
本当の帰りに、体験者、該当者に登録する。
品位、そこから、さあ、さあ、出よう
息と招き
貧弱な昼顔へ、カボチャへ、イチゴへ
消費する量へ、好きな布へ
布と後退する緊張
大人は後退へと放置する
私自身、私でないものおよびあなたがた自身
最高に生きー何たるペンギン、何たる静けさー
最高に死に、ミイラーミイラーコケ
私と、私でないものとあなたがたは、
大きな色と大きな至福の影のなかの色に包含され


すでに、この後退は至福だった

(訳者妄言)
アンドレア・ザンゾットの La Belta' (1968)の Alla stagione の2.季節の移り変わりを、地球規模で捉えている詩かと思う。季節が拡張し、収縮する、盛んになり、衰えていく、その衰退過程にわれわれも否応なしに巻き込まれる。細部の比喩、描写には理解困難なものも多い(訳者自身が誤解、誤訳に気付いたときには訂正を出します)。

註釈によると、「銀のハサミ」は月への言及。

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2008年8月23日 (土)

ザンゾット:《Alla stagione》1

   季節に

輪状に、純粋に一点集中なのが
季節という事実だ。この真珠をつくる真珠、
システムであり論拠である
ここだ、すべてこれを巡る、最高。
そして、狂ったように、物語ー小話のように
お、お話のように、女どもり、姉妹のように、合図をする。
それは立ち去る、君は立ち去る。ああ、季節。
君は季節じゃない、知らなかった。

      
(訳者妄言)
ザンゾットの詩集 La Belta' (1968) から。

原文は

Inanellatamente e in convergenza pura
e' il fatto stagionale. Questa perla perlifera,
sistema ed argomento
qui, tutto intorno al qui, ottimo.
E poi fare cenno alla matta, alla storia-storiella
e alla fa-favola, femmine balbe, sorelle.
Se ne va, te ne vai; oh stagione.
Non sei la stagione, non sapevo.

季節は、輪をなして一巡すると同時に、それが一点に収束していく。円錐形のようなイメージだろうか。

6行目のfemmine balbe は註釈によると、ダンテの煉獄篇XIX, 7からの引用である。おしまいの2行は、stagione の語源が、ラテン語の statio でじっと立っていること、なのに対し、立ち去ってしまうんだね、という洒落であろう。

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2008年8月22日 (金)

ザンゾット:《Cosi' siamo》

     そんなものさ

パドヴァで人が言う、「私も」
友人「彼を知っていました」。
すぐそばの汚水の音、
汚い工場のだ。
静けさのなかで、驚き。
夜だった。「私も
彼を知っていました。」
生命をもって、僕は
あなたのことを考えた。
あなたはもう主体でも客体でもない
通常の言葉でも、専門語でもない
静止でも、動きでもない
否定する ne' ですらない
私の眼をその針穴に
沈める限りでは
あなたを十分否定はしないのだ。

それでよい。だが
私は同様jに、
私の非実在性を信じる、
だから、あなたを失ったわけではない、
あるいは、私があなたを失うほど、あなたがあなたを失うほど、
あなたは私に似、私に近づくのだ。

           
(訳者妄言)
Meridiani 版の註釈によると、これは詩人の父の葬式を素材とした詩である。会話と、語り手の瞑想のリズムが、親しみやすさを形成している。

原文は、2つの連からなり、第一連は、

   Cosi' siamo

Dicevano, a Padova, 《anch'io》
gli amici 《l'ho conosiuto》.
E c'era il romorio d'un'acqua sporca
prossima, e d'una sporca fabbrica:
stupende nel silenzio.
Perche' era notte. 《Anch'io
l'ho conosciuto.》
Vitalmente ho pensato
a te che ora
non sei ne' soggetto ne' oggetto
ne' lingua usuale ne' gergo
ne' quiete ne' movimento
neppure il ne' che negava
e che per quanto s'affondino
gli occhi miei dentro la sua cruna
mai ti nega abbastanza.

タイトルの Cosi' siamo は、われわれは死すべき存在だ、ということへの諦観、あるいはそれに対する軽い皮肉をふくんだフレーズ。

葬式での決まりきった挨拶。そこから、語り手の瞑想は、形而上学的な瞑想へとシフトする。死者が主体でも客体でもない、というのは冷厳な事実であるが、否定の時に使う単語 ne' ですらない、というのはザンゾット一流の言語世界と現実世界の交錯である。

おしまいの3行は、私の眼を閉じている限り、十分にはあなたを否定することのない ne' すらない、ということ。ne' にかかる関係節が、二つあって、二つ目は複雑になっている。目を閉じれば、まぶたの裏にあなたの姿は浮かぶのだから、すっかり否定はされないということだろう。

第二連、すなわち短めの後半は

E cosi' sia: ma io
credo con altrettanta
forza in tutto il mio nulla,
percio' non ti ho perduto
o, piu' ti perdo e piu' ti perdi,
piu' mi sei simile, piu' m'avvicini.

これは言葉遣いこそ平易だが、認識は逆説的である。1行目のcosi' sia はアーメン(こうありますように)の訳語でもある。生きている自分のなかに nulla (無、非実在)を感じ、だから生者と死者が離れた存在ではないのだ。

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2008年8月21日 (木)

ザンゾット:《Oltranza oltraggio》

   過度過大

跳ねる、跳ね跳び、純粋にジュージューと、
虚空へと   押され   押しやられ
君はもっとそちらへ行く
触(さわ)れないー結局ー
結局のところ

君はもっとそっちにいる
君を、ぼくの夜闇閉鎖の底に見る
君を、ノーとそのママとふーっの間に位置づける
ただノー、ただイエス、ただ
残酷で冷淡な点が一杯
君はもっとそちらへ行く
落ちていき、やり過ぎ、君はもっと君のなかに入る
ずらかり
死ぬ
君の深淵で
君は、残忍で縫い目のない無価値を爆発させる
炸裂する、色鮮やかに、そして何も感じない
何も
いや    君はもっとそちらへ跳ぶ
豊かな跳びはね    そちら

行き過ぎ

          
        
(訳者妄言)

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2008年8月20日 (水)

フランチェスコ・ブッローニ:《Happy Palio...》

  ハッピー・パリオ...

専門家の予想
(...Canale3のハッピー・パリオから)
トッレは、すでに勝ったジャを手にいれた
でもセルヴァ...あるいはパンテーラは...
夕べの逃げっぷりを見たか?
俺の見方は...ブルーコもいいぞ...
そしてドラーゴも...今のところ、スパートしていないが...
タルトゥーカはブルスケッリと...何を期待しろと言うんだ...
だがオーカは独自の走りをみせるだろう
ニッキオ?...一位...二位...三位...五位...
アクィラとモントーネは蚊帳の外...
でも最初のサンマルティーノでは
もうもうたる砂塵が舞い上がるかもしれない...
あるいは誰かがあまりに内側を回るかも...
要するにだれがゴールの旗に最初に着くか
誰も言われてないし、言えないのだ!

(訳者妄言)
シエナの8月のパリオが終わったところなので、パリオにまつわるソネットを1つとりあげよう。このソネットは、8月16日、パリオ当日の Corriere di siena 紙に掲載されたもの。

原文は、

    Happy Palio...

Le previsioni degli esperti
(...dell' Happy Palio su Canale 3)
La Torre cia' quel Gia' che ha digia' vinto...
pero' anche la Selva...o la Pantera...
ha' visto com'e' scappata ieri sera?
ma ti diro'...anche 'l Bru'o m'ha convinto...
poi c'e 'l Drago...anche se pe'ora 'un ha spinto...
la Tartuca col Bruschelli...chevvo'i ci spera...
ma anche l'Oca fara' la su' carriera...
l'Nicchio?...primo...secondo...terzo...quinto...
rimane fo'ri l'Aquila e 'l Montone...
pero' puo' dassi che al primo San Martino
ci possa esse' un bel polverone...
o che qualquno giri troppo stretto...
'nsomma chiunque sia primo al bandierino
'un si puo' di' che noi 'un s'era detto!

      
      
(訳者妄言)
作者は Francesco Burroni. 彼は 'laboratorio del sonetto in vernacolo senese' を主催している (www.sonetto.org で見ることができる)。シエナの土地言葉でソネットを作ろうというわけである。そのため、この詩は、形としては典型的なソネットであるが、内容に関してはパリオを理解し、シエナ方言を知らないと判りにくいと思う。

トッレ、セルヴァ、パンテーラ、ブルーコ、ドラーゴ、タルトゥーカ、オーカ、ニッキオ、アクィラ、モントーネは、今回のパリオに出場するコントラーダ(地区)の名前である。パリオは、シエナの地区対抗の競馬の祝祭なのである。

本文一行目、La Torre cia' quel Gia' che ha digia' vinto...
これは、cia', Gia', digia' の音の連なりが楽しいのである。cia は ci ha, c'ha である。Gia' は馬の名前Gia de Menhir の省略形。
4行目のBru'o は Bruco であるが、シエナの発音では、ブルーコというよりブルーホに近い。それをさらにつづめて、c が落ちた形である。
6行目の 'l は il . pe'ora は per ora.  'un は non.
7行目の chevvo'i は che cosa vuoi, che vuoi.
10行目の fo'ri は fuori.
11行目の puo' dassi は puo' darsi
12行目の esse' は essere
13行目の 'nsomma は insomma 
14行目の 'un はnon , di' は dire

9行目のサンマルティーノは、カンポ広場がコースとなるパリオでは、カーブの難所が二つあり、最初のカーブの名前。もう1つの難所のカーブはカザート。

内容的には、いろいろ専門家は予想をたてるが、まだ判らないという詩。韻はabba, abba, cdc ede となっている。

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2008年8月19日 (火)

ザンゾット:《Nino negli anni Ottanta》

  80年代のニーノ
                     1983年1月25日、サン・パオロ

夏の間、夏至のあいまいな
汗をかき、足を引きずる、
ニーノ、どうやって、この世の岸辺で
自らを支えるのか、
お前の封土、いまや葡萄の木の生えた
土地が頭皮を剥いだよう、
そのぼけた斜面をお前は登る、
重い七面鳥が、畑を荒らす、
野ウサギも、雉(キジ)もおらず、奇異な光景
 お前は苦労し、黒い服を着て、息を切らす、
お前のすでに非現実の存在は、
優れて巧みにとはいえ、
固さや細かさと結びつき
刷り込みの要素と結びつき
すべてのところから、われわれから逃れていく。
 今は違う。今は輝く一月
一月の栄光をお前は身に
            引き受けるー
病気にかからず
服を、重いコートを
着たまま起きる。
たしかに、お前の額につららが
まるで日常性とあの世への抜け目なさ
を表すように、きらめくこともありうる、
90歳と100歳の間をノンシャランと
ペダルを踏み、
お前は、いつもの丘、際限なく悪化する
丘々の神秘に食い込んでいく。

       
         
(訳者妄言)
アンドレア・ザンゾット(1921ー )の詩集 Idioma (地域語)
(1986) から。ニーノは、農民の一人だが、ザンゾットは約20年前の詩集 La Belta' (1969) でニーノに捧げる詩 'Le profezie di Nino' を書いている。本篇は言わば、その続篇にあたる詩である。

単にニーノが年をとっただけでなく、田園は荒れている。

原文は

                        25 gennaio 1983, S.Paolo
Durante l'estate sotto l'equivoco sudore
del solstizio arrancavi
Nino, come reggendoti a malapena
sulla sponda dell'aldiqua
salivi le chine incretinite
del tuo feudo ormai scalpato
                         d'ogni vite,
dai grevi tacchini sbeccuzzato
vedovo di lepri e fagiani, strampalato.
  Tu faticavi, vestito di nero, ansimavi
la tua gia' irreale presenza
anche se egregiamente
raccordato a fermazze finezze
imprinting elementi
per ogni dove a noi da sempre sfuggenti.
  Ora no: splende ora gennaio
e la gloria di gennaio ti assume
                                 a se'-
immune da malattie
svelto del tuo costume,
del defedanti soprabiti.
E certo la tua fronte puo' di ghiaccioli
farsi scintillante com'e' di quotidianita'
  e di furbizia contro l'aldila',
quando, pedalando
tra i novanta e i cento anni quasi volage,
ti addentri nel mistero delle colline
per te ricanticchiato, riacutizzato senza fine.

4行目の aldiqua は aldila' (あの世)の反対語。5行目の incretinite はぼける。土地が擬人化されて形容されている。6行目の scalpato も頭皮を剥ぐという意味なので、土地の荒廃したようすを、人間の状態が正常から逸脱していく様にたとえていることは明白だ。

その結果、ニーノの方が、irreale presenza (11行目)(非現実の存在)となってしまう。しかし、それでもニーノは高齢にもかかわらず、巧みに死をかいくぐりぬけて、90歳と100歳の間を進んでいるのだ。

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2008年8月18日 (月)

ザンゾット:《Al mondo》 

    世界に

世界よ、良い子にせよ、
善良に存在せよ、
なるように、もとめて、ねらって、全部言ってみな、
ほら、僕はひっくり返し、裏をかき、
全ての包含は、全ての
排除と同様に有効だ、
さあ、存在するのだ、
お前自身に包み込まれず、僕自身に包み込まれるな。

僕は、こんな風に念じられた世界が
これほど超没し、超死に、
こんな風に作り上げられた世界は、
単に繭から出た悪の僕に過ぎず
空想する退屈な悪の僕で、
むくわれず想像された悪で、
お前は、「聖なる」ものでも、「聖化」されたものでもない。
そこにもう少しいろ、脇に、脇に

(存ー非ー抗、その他)在せよ
既知の、未知の前置詞すべてを越えて、
すこしチャンスを持て、
善良に何かせよ、
機構が働くように、
さあ、そら。

   さあ、ミュンハウゼン男爵よ。

               
               
(訳者妄言)
詩人が世界に呼びかけている詩である。
3つの連からなる自由詩で、まず第一連の原文

Mondo, sii, e buono;
esisti buonamente,
fa' che, cerca di, tendi a, dimmi tutto,
ed ecco che io ribaltavo eludevo
e ogni inclusione era fattiva
non meno che ogni esclusione;
su bravo, esisti,
non accartocciarti in te stesso in me stesso

2行目のbuonamente は造語である。また3行目のfai che, cerca di, tendi a は次にそれぞれなんらかのフレーズが来ることが期待されることばだが、dimmi tutto とそれらの期待をずらすフレーズが来ている。
世界に呼びかけ、世界に存在せよ、という詩なのだから、一筋縄でいくはずもないのだが、すでにある世界に呼びかけているとも、自分の望む世界をこれから存在させているともとれる。

第二連は、

Io pensavo che il mondo cosi' concepito
con questo super-cadere super-morire
il mondo cosi' fatturato
fosse soltanto un io male sbozzolato
fossi io indigesto male fantasticante
male fantasticato mal pagato
e non tu, bello, non tu 《santo》 e 《santificato》
un po' piu' in la', da lato, da lato

(第二連の)1行目に il mondo cosi' concepito とあるので、世界は現に存在している世界そのものではなくて、詩人により認識されている、あるいはこう存在しろと願望されている世界であるとわかる。

しかし、その先を読むと、世界は詩人の思い通りには存在していないことがわかる。

第三連は、

Fa' di (ex-de-ob etc)-sistere
e oltre tutte le preposizioni note e ignote,
abbi qualche chance,
fa' buonamente un po';
il congegno abbia gioco.
Su, bello, su.
                     Su, munchhausen.

最終行のmunchのu はウムラウトがつく。(ex-de-ob etc)-sistere は、因数分解のような表記で、 exsistere(esistere), desistere, obsistere, etc ということになる。自分の望む世界が存在することの不可能性を認識しつつの、働きかけが最後のミュンハウゼン男爵、ほら男爵への呼びかけということだろう。

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2008年8月16日 (土)

ザンゾット:《Colle di Giano》

   ヤヌスの丘

       
怠惰な軸がすでに、虚空へと傾く。
子供たちのおだやかな吐息、
数歩のところだが、最果ての境界の太陽、
壁で再び凍結した花とアスター。
ほとんど、土の眠りのなかで
ーたっぷりとした朝の落ち葉の中でー
裸になったように湿っている、
黴(かび)や苔(こけ)や小さな
鳥のざわめきとともに。
そこでは仕事が闇に包まれる。
墓と鐘が姿を現し、
墓碑やつるつるした
ファサードは、平安と狼狽を氾濫させる。
たぶん、子供たちのあえぎと大声のみが
山々を越えるラッパの音のみが、
たぶん愛だけが。

ああ、どうやって、どうやって君たちに語ろう?
だが、心に頑張らせ、眼に火をともさせ、
命に火をつけさせよう。

      
(訳者妄言)
ザンゾットの詩集Vocativo(呼格)(1957)から。

原文は、

Pigro l'asse gia' s'inclina al vuoto.
Il fiato mite dei bambini,
il sole a pochi passi ma agli ultimi confini,
i fiori e gli astri raggelati ai muri.
E umido quasi messo a nudo
d'entro un sonno d'argilla
-d'entro larghe mattine di fogliame-
gia' con brusio di muffe e muschi e minimi
uccelli
laggiu' s'intenebra il lavoro.
Spuntano tombe e campane, dilaga
da lapidi e fronti troppo lisce
pace e sgomento. Forse
solo l'affanno e il gridio dei bambini
e la trombetta che scavalca i monti,
forse solo l'amore.

Oh come, come vi parlero?
Ma forzo il cuore, forzo gli occhi a accendersi,
ad accendere vita.

ザンゾットの詩は不思議である。不思議さの1つは、通常、前衛的な芸術、前衛的な詩が都会的なもの、都市的なものを素材としていることが多いのだが、彼の場合は、田園に根ざしているので、牧歌的な風景の中での前衛的表現になるのだ。

一行目からして、太陽が傾いて、日が暮れるということだが、野にでて、大地、太陽という大きなキャンバスで書かれる表現主義的な絵画とでも言おうか。三行目も、太陽はすぐそこに見え、かつ無限の彼方にある、ということだが、身近なテーマであり、それがシュールレアリスティックな感覚で描かれているわけである。

田園に押し寄せる現代化のなかで、何が歌えるのか?おしまいの3行はリズムが変わる。Oh come, come vi parlero'?  1音節の単語が三つ連続する。続く二行も、accendersi を除いては1音節か2音節の単語のみで出来ている。おっとりと構えてばかりは居られない詩人の困難、それに立ち向かう決意がリズムに刻まれている。

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2008年8月15日 (金)

ザンゾット:《A questo ponte》

この橋で
牧場の冷たさが終わる
空の、盲目の光の
冷たさが終わる、
君の顔の、十字架に似た君の心の
冷たさが終わる、
棘のある太陽が終わる。

手なずけられた太陽のまわりの
水と木々の
秘密のダンスを
橋の下に埋没する
牧場の冷たさに感じる。

1942

(訳者妄言)
アンドレア・ザンゾット(1921- )の初期の詩集《A che valse?》(1938-1942)から。20代前半の作である。繰り返される finische il freddo (冷たさが終わる)というフレーズがリズムをつくり、牧歌的な要素と前衛的な鋭さが不思議な両立を見せている。

原文は、

A questo ponte
finisce il freddo del prato
finisce il freddo del cielo
e della cieca luce,
finisce il freddo del tuo volto
e del tuo cuore simile a una croce,
finisce il sole con spine.

Le danze segrete delle acque
e degli alberi
intorno al sole domato
io sento nel freddo del prato
che affonda sotto il ponte.

この詩が書かれた1942年は、第二次大戦中である。橋のこちらと向こうには、越えがたい断絶がある、という状況は、戦争中にはしばしば生じたであろうし、1943年以降は、イタリア国内で内戦という極めて厳しい状況が出現することになる。

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2008年8月14日 (木)

マグレッリ:《G.Berkeley》

G.バークレイ
人知原理論、
第一部、第30,31,32節

経験の教えるところでは、あらゆる観念には、
ものごとの通常の流れのなかで
もう1つの観念がともなっている、
だから予見する力は、
われわれの行動に、
生活の必要に応じた規則を与える。
さもなくば、即ち、われわれに
感覚の痛みを与えたり、取り除いたり
するような方法を何も知らないというのは
当惑することだろう。
あらゆる手段は、
その結果へと
自然によって確立された法則にしたがって導いていく。
それ無しでは、我々は不確かで、混乱し、
大人も、生まれたばかりの赤ん坊より
うまく生きることができないだろう。
しかしながら、魂の知恵を示す
この統一的な機構は、
別の理性を求めてさまよう
われわれの精神を彼へとは導かない。

(訳者妄言)
タイトル通り、非常に高度に哲学的な詩である。バークレーはアイルランドの聖職者だった哲学者(1685-1753)で、Esse est precipi , 存在することは、知覚されることである、という哲学を開陳した。誰かに見られたり、触られたりしていないと、そのものは存在しないのである。では、誰もいないときには、どうなのですか?というと神が見ている、という答えが返ってくるわけである。

この詩は、特にバークレーの『人知原理論』第一部第30,31,32節を、詩のタイトルにかかげている。ここでバークレーは、感覚による観念は、想像力による観念よりも強いこと、また1つの観念はもう1つの観念とむすびついていること(現代風にいえば、原因と結果ということです)などを論じている。

この詩だけでなく、マグレッリのこの詩集での一連の詩は、見ること、知覚することと存在、あるいは書くこととの関係を問うた詩であると言えよう。

原文は、

G.Berkey,
Trattato sui principi della conoscenza umana,
Parte prima, paragrafi 30, 31, 32

ここまでがタイトル、以下、本文です。

L'esperienza c'insegna che ogni idea
s'accompagna a un'idea
nel corso ordinario delle cose,
e che quindi poter prevedere
da' regola alle nostre azioni
secondo le necessita' della vita.
Altrimenti sarebbe il dubbio,
non saper nulla in modo
che ci desse o levasse
il dolore dei sensi.
E ogni mezzo conduce
ad un suo risultato
secondo leggi stabilite di natura.
E senza, saremmo incerti e confusi
ne' un adulto saprebbe vivere
meglio d'un bambino appena nato.
Tuttavia questa meccanica uniforme
che indica la saggezza dello spirito
non guida verso lui la nostra mente
che vaga in cerca d'altre ragioni.

極端なことを言う哲学は詩的であり、考えを煮詰める詩は哲学的なのだ。

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2008年8月13日 (水)

マグレッリ:《A quest'ora l'occhio》

この時間、眼は
自分自身に帰る。
身体は、眠るために、脳に
閉じこもりたいようだ。
手も足も、帰宅する。
もう遅いのだ。電車の座席に座る
この二人の若い女は
眠りこけ互いに頭を傾けあい
正体もなく休んでいる。
牧場の動物である。

(訳者妄言)
これも、以前に登場した詩だが、ここで再登場してもらった。マグレッリの詩集 Ora serrata retinae (網膜の閉じた時間、1980)のなかの最初のセクション Rima palpebralis (まぶたの詩)を、今回は詩集の中の順番通りに訳している。これは11番目の詩である。

原文は、

A quest'ora l'occhio
rientra in se stesso.
Il corpo vorrebbe chiudersi nel cervello
per dormire.
Tutte le membra rincasano:
e' tardi. E queste due ragazze
sul sedile

del

treno
s'inclinano col sonno nella testa
stordite dal riposo.
Sono animali al pascolo.

眼が、眼のあるべき位置、まぶたのなかに再び入る(rientra). 四肢が、本来のところに帰る(rincasano). 一日の終わり、身体は、仕事を終えて、勤め人が自宅に帰るように、自分の居場所、居所に帰るという見立てである。

それを体現している二人の若い女。その屈託のない様子が、牧場の動物のようなのだろうか。

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2008年8月12日 (火)

マグレッリ:《La penna non dovrebbe mai lasciare》

ペンは、書く人の手を
離れるべきではない。
もう、その骨であり、指なのだ。
指のように、引っ掻き、つかみ、指し示す。
思考の枝であり
その果実を与え、
遮蔽物となり、影を与える。

       
       
(訳者妄言)
ペンと詩人と詩は、三位一体で切り離せない、という詩論である。
ペンが、現実を引っ掻き、つかみ、指し示すのである。
「思考の枝」(un ramo del pensiero) というのも、メタフィジカルな比喩としての美しさと、ペンと枝の物理的な相似によるわかりやすさを兼ね備えている。

その枝が、offre riparo ed ombra というのは、枝に豊かに葉がはえて、日差しや雨をよけ、日陰を提供するというのは、ペンによって、現実を表現する(比喩やアイロニーなどのレトリックを用いて)ことにより、現実の暴力的な力から、自分(の心)を守るということだろう。

原文は、

La penna non dovrebbe mai lasciare
la mano di chi scrive.
Ormai ne e' un osso, un dito.
Come un dito gratta, afferra ed indica.
E' un ramo del pensiero
e da' i suoi frutti:
offre riparo ed ombra.

おしまいの3行は、ramo, pensiero, frutti, offre, riparo, ombra と r 音が支配している。イタリア語の r は巻き舌なので、英語の r とは異なり、独特の勢いがある。

それに対し、前半の鍵となる単語 penna, dito は、p, d という破裂音ではじまっている。

前半と後半をつなぐ4行目は、 dito と gratta, afferra  で、破裂音と r 音が共存、拮抗している。

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2008年8月11日 (月)

マグレッリ:《Dieci poesie scritte in un mese》

1月(ひとつき)に10篇の詩というのは、
これが11篇目だとしても、
多くはない。
それにテーマも多様でない、
どころか、ただ1つのテーマで
テーマとしては、今、扱っているものだ。
これは言わば、ここのページに
留まる限り、
ドアをノックしても、入れないし、
そうすべきでないということ。書くことは、
鏡ではない、むしろ
シャワーのぎざぎざ模様の入ったガラス、
そこで身体は、粉々になり
その影だけが、不確かだが
現実のものとして、現れる。
誰が身体を洗っているのかは判らないが、
そのしぐさだけは判る。
だから、細工の後ろを
見るのは重要だ、
仮に僕が贋造者でも
こまかい細工だけが僕の仕事だから。

           
          
(訳者妄言)
1ヶ月に10篇の詩だと、3日に1つの詩をつくっている勘定となる。それが全部同じテーマだというが、結局それは詩論であろう。詩をどう書くかを論じている詩。詩を書くことがテーマとなっている。

マグレッリによれば、書くことは現実を映し出す鏡ではない。風呂場の曇りガラスのようなもので、現実の影をうつすもの。

現実を生のまま写すのではなくて、加工され、屈折した姿で表すのである。

現代詩には、詩を書くことについての詩が少なからずある。

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2008年8月10日 (日)

マグレッリ:《Domani mattina mi faro' una doccia》

明日の朝は、シャワーをする
これ以外は、何も決まっていない。
水とタルカムパウダーの将来には
何も起こらないし、誰も
このドアをたたきはしない。川が
湯気と僕の間を斜めに走り
僕は隠者のように、ぬるい
雨に打たれて座るが、
幻覚も、誘惑も
曇った鏡を横切ることはあるまい。
動かず、静かに、尽きないせせらぎを
浴びて、僕は流れのなかにあり、
切り株か死んだ馬のよう、
しまいには、魂の孤独な三角州
に沿った思考に座礁する、
女性の性器のようにもつれて。

(訳者妄言)
シャワーを浴びることが、隠者の修行の水浴びと重ね合わされる。「聖アントニウスの誘惑」などにあるように、修行する聖者には、悪魔が様々な誘惑をしかけるが、それはないだろうというのである。
悪魔に誘惑はされないが、様々な思い(それはどんな思いなのだろう?女性に関わりがありそうだ)に絡みとられて座礁する。

原文は

Domani mattina mi faro' una doccia
nient'altro e' certo che questo.
Un futuro d'acqua e di talco
in cui non succedera' nulla e nessuno
bussera' a questa porta. Il fiume
obliquo corrrera' tra i vapori ed io
come un eremita siedero'
sotto la pioggia tiepida,
ma ne' miraggi ne' tentazioni
traverseranno lo specchio opaco.
Immobile e silenzioso, percorso
da infiniti ruscelli,
staro' nella corrente
come un tronco o un cavallo morto,
e finiro' incagliato nei pensieri
lungo il delta solitario dello spirito
intricato come il sesso d'una donna.

1行目の Domani, doccia, 最終行の donna 、その前の行の delta が詩の枠組みとなっており、そこに 終わりの2行の solitario, spirito, sesso が絡みつく仕組みである。シャワーを浴びて、頭の中もさっぱりしようとするが、孤独な魂は、女性を求めてやまないのだろう。

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2008年8月 9日 (土)

マグレッリ:《Essere matita e' segreta ambizione》

鉛筆になることは、秘かな野心。
紙の上でゆっくり燃えて
紙の中に、新たな形を
抽き出して、残る。
こうして肉体から痕跡に、
道具から、思考のほっそりした
構造となる。
肉体のまま、消滅するものもいて、
するとなおさら別離がつらい。
          
          
(訳者妄言)
どこかで読んだぞ、と思った方は、記憶の良い方です。このブログの最初にあげた詩ですが、今回は詩集の順序通りに訳しているので、配置上、再登場させてみました。

原文は、

Essere matita e' segreta ambizione.
Bruciare sulla carta lentamente
e nella carta restare
in altra nuova forma suscitato.
Diventare cosi' da carne segno,
da strumento ossatura
esile del pensiero.
Ma questa dolce
eclissi della materia
non sempre e' concessa.
C'e' chi tramonta solo col suo corpo:
allora piu' doloroso ne e' il distacco.

鉛筆という素材は、前の詩の4行目「石化した森」(un bosco pietrificato)と響き合っている。この詩は、単独で読むことも出来るのだが、連作として前後の詩との関係を見ていくのも興味深い詩である。

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2008年8月 8日 (金)

マグレッリ:《Questa piazza e' un orologio vasto》

この広場は広大な時計、
時のなかで自らをゆっくり測定し
調整する機械だ。
石化した森であり
岩礁であり、
精神の無音の日時計である。
       
       
(訳者妄言)
広場全体が時計で、そこに森や岩礁を見る。
ルカーチの言う物象化の反対の精神的営みにチャレンジしているのだろうか。

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2008年8月 7日 (木)

マグレッリ:《Cosi' si percorre la vita》

こんな風に人生は過ぎていく
やってこない一品と一品の間の
会食者の不安をかかえて。
パンをたくさん食べ、ワインを飲み、
おとぎ話のような食べ物の話をたっぷりする、
オレガノの宇宙、前代未聞の風味の
森林。すでに夜も更けた
食事をセーブしたうえで、
秘密の形のパンくずの砂漠で
(これは、左足だと判るでしょう)
アラビアの黒い死がわれわれを帰す。
            
          
(訳者妄言)
おしまいの4行半は
   
         E’ gia' tardi
e sul limitare del pasto
in un deserto di molliche dalle segrete forme
(e questo e' un piede sinistro, si vede),
la nera morte araba ci congeda.

レストランで、次の皿がなかなか出てこない不安。最終行の la nera morte araba は直訳すれば「アラブの黒い死」であるが、黒いインクでアラビア数字で書かれた勘定書きであろう。さらには、もう外は真っ暗になっていた、ということと二重になっているかもしれない。

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2008年8月 6日 (水)

マグレッリ:《Preferisco venire dal silenzio》

話すのは、沈黙からやってくるのが
好きだ。言葉をじっくり準備する、
小舟がしずしずと
岸辺に着くように、
一方、思考の航跡は、
カーブを描く。
書くことは晴朗な死だ。
世界は光に満ち、拡がり、
永遠にその一角を燃やすのだ。
        
         
(訳者妄言)
沈黙の中から、滲み出すように言葉が届く。書くことで、死ぬ、捨象するものもあるが、同時に、書かれたことには光があたる。

マグレッリの場合、厳密に韻を踏んでいることは少ないが、この詩ではかなり配慮があるように思う。


原文は
Preferisco venire dal silenzio
per parlare. Preparare la parola
con cura, perche’ arrivi alla sua sponda
scivolando sommessa come una barca,
mentre la scia del pensiero
ne disegna la curva.
La scrittura e’ una morte serena:
il mondo diventato luminoso si allarga
e brucia per sempre un suo angolo.


音としては r a の組み合わせが目立つ。2行目は parlare, Preparare に続き、行末がparola, 3行冒頭 cura, 3行目末はa のみで sponda, 4行目末はbarca,  5行目末は r のみで pensiero , 6行目はcurva, 7行目は serena, 8行目は allarga, 9行目冒頭が brucia となっている。

つまり、話すこと parlare, 言葉 parola, 書くこと(文章)scrittura に共通する音が r と a なのであり、この詩はまさにそのことがテーマの詩であるわけで、単に理窟だけでなく、音もその組み合わせで有機的に連携しているのだ。  

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2008年8月 5日 (火)

マグレッリ:《Prima dell'ultima curva del giorno》

一日の最後のカーブの前に
僕は言葉を摘みとり、ともに寝る、
夜中に、彼らは重く、
気を配った衣装をまとう。
彼らの足取りは、規則正しく
ページの白い漆喰に
一列に並んだレンガをはめ込んでいくよう。
高みから降りてくる壁は
ゆっくりと通過する記号。
窓も通風孔もないが、
丁寧かつみっちり
入念な高密度結合。
ただ一つの像として、
庭師がはがして、授かった
まだ硬くて、曇った宝石があるとよいのに。
 
     
(訳者妄言)
マグレッリの『網膜の閉じた時』(1980)から。眠り、夢のなかで、その直前まで、ああでもない、こうでもないといじり回されていた言葉たちは、自ずから整列し、きちんとした形をとりはじめる。意識と無意識の仕事を語っているのだろう。

            
             

 

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2008年8月 4日 (月)

マグレッリ:《Ammirevole e' la vita delle cose》

賞賛すべきはモノの生涯。
唯一の、変わらぬ思考のような
彼らの動じぬ、予期し、選びぬかれた
仕草からは、何も漏れてこない。
彼らは没頭する司祭だ、
この部屋を神秘の
大聖堂参事会室にあてている。

    
(訳者妄言)
マグレッリの Ora serrata retinae の第二の詩。おしまいの3行は、
Sono sacerdoti assorti
che occupano questa sala
per un misterioso capitolo.

で、capitolo の複数の意味が、原文では効いているのである。つまり、本の章や節、あるいはルネサンスの諷刺詩という意味と、大聖堂(司教座聖堂)の参事会の集会場という意味に用いている。
モノ(cose)の、何ものにも、何事にも動じぬ様子(当たり前と言えば当たり前だが)を、司祭にたとえているので、このオチが成り立つわけだ。

      
             
            
                  

 

 

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2008年8月 3日 (日)

マグレッリ:《Molto sottrae il sonno alla vita》

多くを眠りが人生から取り去る。
作品は一日の隅に追いやられ、
沈黙へとゆっくりすべりこむ。
それ自身へと解放された精神は
目蓋に包まれる。
眠りは、眠りのなかで拡がる、
第二の耐えがたい身体として。

     
(訳者妄言)
Valerio Magrelli の第一詩集 Ora serrata retinae(Feltrinelli, 1980)の巻頭詩。Ora serrata retinae (網膜の閉ざされた時)は、詩人23歳の時に出版されているが、完成度の高さには舌を巻くほかはない。

この詩集の詩にはほとんどタイトルがなく、エイナウディ書店の Poesie (1980-1992) の索引では、一行目に《》をつけたものをタイトルの代わりとしているので、それに倣った。

原文は
Molto sottrae il sonno alla vita.
L’opera sospinta al margine del giorno
scivola lenta nel silenzio.
La mente sottrata a se stessa
si ricopre di palpebre.
E il sonno si allarga nel sonno
come un secondo corpo intollerabile.

Sonno には眠りという意味(日常的に使用)と、夢という意味(詩や文章語)があり、この詩、特に6行目では二つの意味をかけているだろう。日常語では夢は sogno だが、ここでは用いられていない。

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2008年8月 2日 (土)

モンターレ:クセーニャII 14

           14
    
洪水が、家具、書類、絵画を
水没させた。それらは、地下室に
二重に南京錠をかけて詰め込まれていた。
たぶんモロッコの赤皮は、必死で
戦ったろう、デュ・ボアの破壊された献辞、
エズラ・パウンドの鬚つきの封蝋、
アランのヴァレリー論、『オルフェオの歌』
の初版、そして鬚そり用の
ブラシ、何千ものがらくた、
お前の兄シルヴィオの楽譜。
10日、12日、軽油と糞尿の残忍な
腐食のもとで。きっと彼らはアイデンティティを
失う前に苦しんだに違いない。
私も、初めから、戸籍上の身分が不確かで
首まで沈殿物で覆われていた。
泥炭が私を閉じこめていたのではない、信じがたく
一度も信じられなかった現実の出来事が閉じこめていたのだ。
それらに直面する私の勇気は、お前に最初に
貸し与えられたものだが、たぶん、お前は知らなかった。

     
(訳者妄言)
エウジェニオ・モンターレ(1896-1981)の詩集 Satura 1962-1970 (1971) の中の連作  Xenia II の14.Xenia は長年連れ添ったパートナー、モスカに捧げる連作詩で、シリーズIとシリーズIIがあり、どちらも14の詩から構成されるが、この詩はXenia II の掉尾を飾る詩である。

洪水というのは、1966年にフィレンツェでアルノ河が氾濫し、町中が飲み込まれた災害のことである。地下室は、当然水浸しになってしまうわけで、そこに汚泥も流れ込む。高級な装丁のモロッコ皮の本も台無しになったが、彼らは必死に抵抗したろう、と語り手は想像する。

そこから、自分のアイデンティティにも言及しているが、戸籍上の身分というのは独身とか結婚しているということで、モンターレの場合、モスカが元人妻であったためか、同棲はしているが、モスカが死ぬ前年まで結婚はしていない。1933年から39年まではアメリカ人イルマ・ブランダイス(Irma Brandeis) との交際もあり、モンターレとモスカの関係が常にほのぼのと平穏だったわけでは決してない。

おしまいの4行の原文が、

Non torba m'ha assediato, ma gli eventi
di una realta' incredibile e mai creduta.
Di fronte ad essi il mio coraggio fu il primo
dei tuoi prestiti e forse non l'hai saputo.

とあるように、モンターレは現実が確かな手応えを持って感じられなかったようだ。このシリーズ、クセーニャII 7でも同じような現実感覚の欠如を語っている。しかし、その不確かな現実に立ち向かっていく勇気を貸し与えてくれたのはモスカであったのだ。

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2008年8月 1日 (金)

モンターレ:クセーニャII 13

      13

私は、部屋にお前の父が子供の頃の
銀板写真を掛けた。一世紀以上も前のものだ。
私の父のはなくて、混乱した状態で、
お前の系図を作ろうとしたが、無駄だった。
私たちは馬ではなかった、我々の祖先のデータは
年鑑にはない。知っているとうそぶく連中は
彼ら自身がいないも同然で、
われわれは、彼らにとっていないも同然なのだった。それでも
何かは生じたのだし、たぶん、何でもないことが、
すべてなのだ。
         
         
(訳者妄言)
われわれの祖先のことを知っていると、うそぶく人たちは実際には知らないのであり、記憶のなかにすら、避難場所はないのだった。

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