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2008年8月22日 (金)

ザンゾット:《Cosi' siamo》

     そんなものさ

パドヴァで人が言う、「私も」
友人「彼を知っていました」。
すぐそばの汚水の音、
汚い工場のだ。
静けさのなかで、驚き。
夜だった。「私も
彼を知っていました。」
生命をもって、僕は
あなたのことを考えた。
あなたはもう主体でも客体でもない
通常の言葉でも、専門語でもない
静止でも、動きでもない
否定する ne' ですらない
私の眼をその針穴に
沈める限りでは
あなたを十分否定はしないのだ。

それでよい。だが
私は同様jに、
私の非実在性を信じる、
だから、あなたを失ったわけではない、
あるいは、私があなたを失うほど、あなたがあなたを失うほど、
あなたは私に似、私に近づくのだ。

           
(訳者妄言)
Meridiani 版の註釈によると、これは詩人の父の葬式を素材とした詩である。会話と、語り手の瞑想のリズムが、親しみやすさを形成している。

原文は、2つの連からなり、第一連は、

   Cosi' siamo

Dicevano, a Padova, 《anch'io》
gli amici 《l'ho conosiuto》.
E c'era il romorio d'un'acqua sporca
prossima, e d'una sporca fabbrica:
stupende nel silenzio.
Perche' era notte. 《Anch'io
l'ho conosciuto.》
Vitalmente ho pensato
a te che ora
non sei ne' soggetto ne' oggetto
ne' lingua usuale ne' gergo
ne' quiete ne' movimento
neppure il ne' che negava
e che per quanto s'affondino
gli occhi miei dentro la sua cruna
mai ti nega abbastanza.

タイトルの Cosi' siamo は、われわれは死すべき存在だ、ということへの諦観、あるいはそれに対する軽い皮肉をふくんだフレーズ。

葬式での決まりきった挨拶。そこから、語り手の瞑想は、形而上学的な瞑想へとシフトする。死者が主体でも客体でもない、というのは冷厳な事実であるが、否定の時に使う単語 ne' ですらない、というのはザンゾット一流の言語世界と現実世界の交錯である。

おしまいの3行は、私の眼を閉じている限り、十分にはあなたを否定することのない ne' すらない、ということ。ne' にかかる関係節が、二つあって、二つ目は複雑になっている。目を閉じれば、まぶたの裏にあなたの姿は浮かぶのだから、すっかり否定はされないということだろう。

第二連、すなわち短めの後半は

E cosi' sia: ma io
credo con altrettanta
forza in tutto il mio nulla,
percio' non ti ho perduto
o, piu' ti perdo e piu' ti perdi,
piu' mi sei simile, piu' m'avvicini.

これは言葉遣いこそ平易だが、認識は逆説的である。1行目のcosi' sia はアーメン(こうありますように)の訳語でもある。生きている自分のなかに nulla (無、非実在)を感じ、だから生者と死者が離れた存在ではないのだ。

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