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2008年7月 5日 (土)

モンターレ:クセーニャ 14

人は、私のは
どこにも属さない詩だという。
が、もし誰かのだとしたら、お前のだ、
もう形をなさず、本質だけになったお前の。
人は、詩はその絶頂では
「全て」を褒め殺すといい、
ウミガメが稲光より
速いのを否定する。
お前だけが、動きは
静止にほかならず、
空虚は満たされており、晴天にこそ
もっとも雲が広がっていると、知っていた。
同様にして、お前の包帯とギプスの間に
閉じこめられた長い旅をよりよく私は理解できる。
だが、一人でも、二人でも、われわれはたった一つのものだと
知ったところで、安らぎはえられないのだ

(訳者妄言)
モスカは、詩人と暮らしているだけあって、詩の逆説を知っていた。モスカが包帯とギプスに閉じこめられていても、心ははるか遠くを往来することが出来たのだろう。「「全て」を褒め殺す」の前後の原文は、Dicono che la poesia al suo culmine/ magnifica il Tutto in fuga, であるが、なぜ Tutto が大文字なのか不明。辞書、たとえば De Mauro のGrande Dizionario Italiano Dell'Usoを引くと、tutto が大文字の場合、哲学で totalita' dell'essere を意味するとあるが、存在の全体性、全存在と言っても、このフレーズの難解さが解消されるわけではない。

一応、magnifica il Tutto in fuga は、すべてのものを讃えて、それがあまりに過剰なので、それらが逃げ出してしまうくらいだ、との意にとったが、率直に言って訳者として自信がない。ダンヌンツィオ風の詩風(たとえば、現実を神話化して、美化する)に対する皮肉なのだろうか。 

あるいは、また超越者として全てを創造した神をイメージして、シェリーがその詩論で展開したように、詩人を創造者と捉え、詩人はその絶頂においては、超越者の顔色なからしむるもの、というような意味なのだろうか。

その後を読むと、詩や文学の世界においては、現実における不可能が可能になり、可能が不可能になるという逆接性が説かれている。しかし、その後で、さらに、そうはいっても一人ではなぐさめは得られないという散文的認識が訪れるのだ。

モンターレのクセーニャ(Xenia)には2つの連作がありIが14編、IIが14編ある。ここまで訳出してご覧いただいたのはクセーニャIの14編である。                                                                                                              

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Montale, Eugenio (モンターレ)」カテゴリの記事

コメント

 Montaleのことば、魅力的。Magrelliも個性的。なにか、なにか、うっとりさせる世界の展開。イタリア語と日本語、御訳、世界の捉え難さをじつに表現していて・・・楽しいです、楽しみです。促しとしての詩。

投稿: figliagiglia | 2008年7月 5日 (土) 10時25分

figliagigliaさん

お楽しみいただけて、嬉しいです。
ハンドル・ネームが、行中韻というか語中韻で、詩的ですね。

クセーニャのシリーズは、詩が若者だけのものではなく、老境に入れば、またそこに独特の世界があり、詩も成り立つのだと実感させてくれますね。
日本的なわび、さび、とも異なるもので、ユーモア、皮肉があり、もの悲しさ、実存へのまなざしを感じます。

投稿: panterino | 2008年7月 5日 (土) 16時09分

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