モンターレ:クセーニャII 5
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私は、お前に手を貸し、すくなくとも100万段を降りた
今はお前はおらず、一段ごとに空白だ。
こんな風でも、われわれの長い旅は短かった。
私のは、いまだに続いている、もう私には
乗り換えや、予約や、
罠(わな)や、見えるものだけが
現実だと信じるものが陥るへまも必要ない。
私は、お前に手を貸して、百万段を降りた
四つの眼だとよく見えるからというのではない。
お前と降りたのは、二人のうち、本当の眼(まなこ)は、
たとえ随分曇っていようとも、
お前のだと知っていたからだ。
(訳者妄言)
クセーニャのシリーズの中では珍しく、韻を踏んでいる。原文は以下の通り。
Ho sceso, dandoti il braccio, almeno un milione di scale
e ora che non ci sei e' il vuoto ad ogni gradino.
Anche cosi' e' stato breve il nostro lungo viaggio.
Il mio dura tuttora, ne' piu' mi occorrono
le coincidenze, le prenotazioni,
le trappole, gli scorni di chi crede
che la realta' sia quella che si vede.
Ho sceso milioni di scale dandoti il braccio
non gia' perche' con quattr'occhi forse si vede di piu'.
Con te le ho scese perche' sapevo che di noi due
le sole vere pupille, sebbene tanto offuscate,
erano le tue.
第一連の6行目と7行目がcrede とvede で韻を踏み、3行目末のviaggio と第二連最初の行(全体では8行目)末のbraccio も韻を踏んでいるが、これはさらに2行目のgradino とも母音が調和する関係にある。viaggio の母音は i a i o であり、gradino は a i o である。つまり、後半の a i o は重複している。
10行目due と12行目 tue も韻を踏む。
内容は、きわめてわかりやすいが、叙情性あふれる詩である。後半は、本当の眼を持っているのはモスカだった、強度の近視にもかかわらず、という物理的な眼と心の眼(現実のうわべを突き抜ける眼)の対比。
旅の記憶と、階段を降りる無限の繰り返し、旅の準備、視力の問題が絡みあっているのだが、適度な繰り返し(Ho sceso ...milioni di scale) と変化(第一連は7行で、第二連は5行、また各行の長さはばらばらである)が混じりあって、定型詩的要素と自由詩の要素の微妙な均衡の上になりたった叙情詩である。
かつて共にあるいた階段と、今空白を感じつつ一人で降りる階段の対比は、物理的な眼と心の眼の対比と響きあっている。長い旅が短かったという逆接も同様である。第一連末の、「見えるものだけが現実と信じる...」という一節は、見えない現実があるという前提があるわけで、こうした対比(眼に見えるものと、見えないもの)が繰り返されることで、思考のリズムが生まれ、それは最終的に近眼なのだが、よく見える眼(モスカの眼)に集約されていく。若者のそれとは異なる老夫婦、老カップルならではの愛の歌であり、二項対立のちりばめられたきわめて精巧に出来た詩と言えよう。
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