2017年3月24日 (金)

『図解雑学 バロック音楽の名曲』

宮崎晴代著『図解雑学 バロック音楽の名曲』(ナツメ社、1650円)を読んだ。
良い本だと思うが、残念ながら古書でしか入手できない。本来CDが2枚付属しているのだが、古書のためCDが欠けているものもあるので、購入の際には注意が必要だ。
こういった音楽の本にCDがついているのはとても便利で親切だと思うし、この本の場合、CDにはいっている楽曲が必ず本文で紹介されているので対照する甲斐がある。
欧文の本で僕が経験したものだと、テクストは古楽器を紹介しており、CDも古楽器演奏なのだが、その両者の間にタグ付けがなくて、CDを聞いていてこの楽器の記述はどこにあるのかなと思ってもとても探しにくい構造になってしまっているというものがあった。
幸い、この本はまったくそういうことはない。見開きで、左側に曲の背景や解説、右側には、作曲家はこんな人というコンセプトのもとに写真や肖像画、簡略な年表と地図が掲載されている。この地図が親切で良い。ドイツの作曲家なら1つにまとめてしまうのではなく、各作曲家ごとに必ず出てくるので、左のページでリューベックがでてきて、どこだっけと思ったら、必ず右ページに地図がのっているのである。この親切さは、受験参考書に似ているような気がする。
第一部の名曲および作曲家紹介がメインなのだが、第二部以降でバロック期の楽器の紹介や、時代背景の解説もあり、構成としてしっかりしていると思う。普段は、通史的性格のものは読まない(必要な部分だけ拾い読みすることはあるが)ので、たまにこういうものを読むと、ふだん親しみのない作曲家、たとえばヴァイスがリュート曲の作曲家としては重要なのだとわかったりするのだった。

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2017年3月20日 (月)

寺西肇著『古楽再入門』

寺西肇著『古楽再入門』(春秋社、2800円)を読んでいる。

個人的に、ここ数年来、バロックオペラを熱心に観たり、聴いたりするようになって、その時のオーケストラは古楽器が比較的多く、しかし時にはモダン楽器のこともあって、自分の中の感性の何かが変わった気がする。
1980年代にアーノンクールやピノックやホグウッドをCDで聞いた時は器楽曲中心で、バロックの演奏法も昔と変わったし、音の感じもシャカシャカ軽いなあという受け止めであった。
しかし、バロックオペラを聴き出して、まずは歌手の唱法がヴェルディ、プッチーニを歌う人たちの典型的な歌い方と、ヘンデルやヴィヴァルディの歌う人たちの典型的な歌い方では異なることに気がつく。無論、中にはレパートリーが広い人もいて、両方歌っている歌手もいるわけだが、概ね住み分けがあって、一方のレパートリーに他方を専門とする人が混じっていると違和感を生じる場合もある。カウンターテナーでバロックレパートリーをメインとする歌手にヴェルディ、プッチーニを歌う女性歌手が唱法を調整しないで混じった場合には、様式感が合わない。歌舞伎に新劇の役者がたとえ衣装だけ身につけても溶け込めないのと同様だ。
やがて声だけでなく、楽器の音の響き方やフレージングの違いも気になってくる。古楽器やピリオド楽器とモダン楽器が違うというのは昔から知っていたのだが、細かいところは判らない。例えば、ストラディバリウスは何百年も前に製作されたのだから古楽器なのになんでモダン楽器として演奏されているのか?この本はそんな疑問に明快に答えてくれる。ヴァイオリンはバロック時代と現代ではネック(棹)の角度が浅く、魂柱は華奢にできている。それは演奏会場が貴族の館などであり、聴衆の数は少なく、大音量が必要とされていなかったからだ。また、標準ピッチも低かった。それが時代が下るにつれて、ガット弦に遅い銀線が巻かれ(知らなかった!)ついにはスチール弦も使われるようになった。大きな弦の張力に耐えられるように本体も改造された。ストラディヴァリやグァルネリも大抵の場合、改造されて表いたと裏板が別の楽器のものになってしまったケースもあるとのこと。
さらにはバロックヴァイオリンといっても地域差があって、バッハ時代のライプツィヒはネックの角度が浅いが、ヴィヴァルディ時代のヴェネツィアのピエタ修道院で使われていた楽器はネックの角度がモダン楽器と大差がなかったというのだ。
このほか弦に関してガット(羊の腸)弦では、地域によって羊が食する資料や生育環境の違いで腸の品質に影響し、音が変わるという。
弓についての記述も極めて興味深い。単に聞いているだけでもモダン楽器の奏者は均質さを重視し、どこで弓がかえったかわからないような弾き方をするが、バロックではダウンボウでは重みがかかり多く圧がかかり、アップボウでは解放されて軽くなり、両者の対比が明確、呼吸するようなフレージングとなる。
モダン楽器は、音の均質さを追求していることがわかりやすいのはピアノだろう。鍵盤楽器の中でもそれまでは撥弦楽器だったのに、打楽器的性格になってしまったわけで、これは楽器だけの問題ではなく、西洋近代というのが目指した方向性を象徴的に現れていると思う。
本書はもちろん、ヴァイオリン系列とヴィオラ系列の違いも明快に説明してくれるし、フォルテピアノやチェンバロについての話もある。
最初に楽器についての章を紹介したが、実は第1章はメンデルスゾーン以降の古楽復興の歴史であり、第2章は概ね20世紀以降の各国での古楽復興に際して活躍した人・団体の紹介である。
それぞれの章に「読む・聞く・観る」という参考文献・ディスクのコーナーが註釈つきであるのも大変親切だ。

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2016年7月28日 (木)

『愉しき夜』

ストラパローラ著長野徹訳『愉しき夜』(平凡社、3456円)を読んでいる。副題にヨーロッパ最古の昔話集とあるが、たしかに、そうなのだが、大変に面白い。

昔話の中には、話の採集の仕方にもよるのだろうが、1つの話がとても短いものもあるが、この『愉しき夜』では、1つの話が十数ぺージで程よい長さである。
ここに収められた話は、子供向けではなく、次々に盗みを働く若者の話、妻が死ぬ直前に再婚するなら自分のしていた指輪のサイズが合う人とと言い残すのだが、サイズが合うのが我が娘で、父は娘を我がものにしようと外国まで追いかけていき、悪事の限りをつくすという恐ろしい話も入っているのだが、あまりにストレートな悪(人)なので、妙に読後感が爽やかである。人物が寓意的だからだろうか。
訳文も良い意味で読みやすく、どんどん読める。

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2016年3月27日 (日)

武田好著『これならわかるイタリア語文法』

武田好著『これならわかるイタリア語文法ー入門から上級まで』(NHK出版、3200円)を読んだ。

とてもわかりやすい。説明が明快であるし、例文がいかにも日常的に使われそうなものだ。基本的なものだけでなく中級以上の注意ポイントにもかゆいところに手がとどくよう。たとえば、
 Forese ce l'ha con me (たぶん私に腹を立てている)p.69
 Ci sei? (わかる?) p.71
  Bambini, togliete i gomiti dal tavolo! (子どもたち、テーブルにひじをつかないようにしなさい!)p.99
  かと思うと、オペラ(ドニゼッティの『愛の妙薬』)から
 Udite, udite, o rustici attenti non fiatate.(村の皆様、お耳を拝借、おしゃべりなさらずご注目)。p.99
  Mio padre si fa fare la barba dal barbiere. (私の父は理髪師にひげを剃ってもらいます)
 さらには、擬音語、擬態語も載っている。p215.
  新聞などを読む人にも役立つ。
 la tutela del lavoratore nelle norme vigenti (現行法における労働者の保護)
これは現在分詞 vigenti が問題になるところだが、
 norma vigente 現行法←norma che vige ancora 現在も効力ある規定
という説明があり、納得。
 現代における通常の会話や散文で文法に疑問を感じた場合にはとても便利な一冊だと思う。中級を終えた段階であまりに詳しい文法書だと(つまり歴史的な経緯、変化が詳述してあると)人によっては混乱してしまうことがあるので、情報を適度に整理してあったほうが、ああこう言う、書くのが標準なのだと教えてくれる本が便利である。
 活字が適度に大きく、行間が詰まりすぎていないのもフレンドリーで良いと思う。
 

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2015年12月 9日 (水)

『兵士になったクマ ヴォイテク』

ビビ・デュモン・タック著、長野徹訳『兵士になったクマ ヴォイテク』(汐文社)を読んだ。

 

不思議と言えば不思議な話である。第二次大戦は周知のごとくドイツ軍のポーランド侵攻で始まるが、この話は、ポーランド軍兵士達がイランに逃げて、そこでクマの子を拾い、そのクマを飼いながら行軍を続けていくというもので、舞台は、南イタリアやスコットランドへと展開する。

奇妙な話に思えるが、これは実話に基づいているとのことだ。

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2015年6月14日 (日)

『死者との邂逅ー西欧文学は《死》をどうとらえたか』

道家英穂著『死者との邂逅ー西欧文学は《死》をどうとらえたか』(作品社、2400円)を読んだ。

美しい本である。美しいのはフラ・アンジェリコの『最後の審判』による装丁ばかりではない。1つのテーマが繰り返し論じられていく様が美しい。ホメロスやウェルギリウスのなかで登場人物が死者と出会う場面、肉体がなくて抱こうとしても手が空回りする(しかもその行為は3回繰り返される)ところが、ダンテやそれ以降の書き手にも受け継がれていく。
こういったトポス(この場合、死者との出会いの場面)が、主題と変奏のように繰り返される様を具体的にたどってみると、まるで美術史で、受胎告知がさまざまな画家によって描かれており、先行作品を踏まえる部分と自分のオリジナリティを加える部分があるといった関係に似ていると思えてくる。
この本で扱われているのは、ホメロス、ウェルギリウス、ダンテ、ボッカッチョ、シェイクスピアの『ハムレット』、ディケンズの『クリスマス・キャロル』、そしてウルフ、ジョイス、プルーストである。強いていえば、英文学中心であるが、著者の視座は英文学にとどまらずむしろヨーロッパ文学のなかで死者との邂逅というトポスの起源がどこにあり、それがどう繰り返され、変化を被っているかということにある。
近代になれば、当然だが、死者や死への観念は変化する。たとえばヴァージニア・ウルフの『灯台へ』ではウルフの父レズリー・スティーヴンと母がモデルになった人物が登場する。ウルフの父は、敬虔な福音主義派の家に生まれた。両親が毎日イエスに話しかけているので、イエスは生きているのだと信じていた。そして聖職者になるのだが、イギリス経験論者の著作を読み、深刻な疑問を持つようになり、職を辞して不可知論者となってしまう。彼は2度結婚するが2度とも妻に先立たれる。著者によれば、不可知論者は死を受け入れることがきわめて困難だと言う。ヴィクトリア朝の後半では、信仰を持った人々は、たとえば妻や子が先に死んでも天国で再会できると信じており、そこに救いがもとめられたが、レズリー・スティーヴンは肉体を離れた霊魂の存在に疑問を抱いているためそのような考えに慰めをもとめることが出来ないのである。
一方で、死や死者との出会いが繰り返し描かれるが、近代に入り、特に第一次大戦後は多くの人がさらに上述の天国での再会という考えも信じられなくなってしまう。そこで最後に取り上げられているプルーストの独特の対処法?がとりあげられる。別離の経験により死への耐性が形成されるのだが、詳しくは本書を読んでいただければ幸いである。
叙述は、平易で読みやすい。何か新しい理論を振りかざしたり、派手な言い回しで人目をひこうというところもなく、作品のテクストによりそってテーマが実に具体的に叙述されていく。パースペクティブが広い論考というのはともすれば、むずかしい理屈をこねまわして、むやみに難解になりがちだが、本書はそういったところは微塵もない。実のある本である。

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2015年5月24日 (日)

『マキァヴェッリ』

北田葉子著『マキァヴェッリ』(山川出版社、800円)を読んだ。

一気に読めた。この本は、世界史リブレットの1冊で、本文は79ページ。この長さはなかなか良い、と思った。つまり、ウィキペディアよりは詳しいが、分厚い専門書よりは、はるかに気軽に読める。
気軽に読めると言っても、中身は濃い。マキァヴェッリの著作を、彼と同時代人ではあるが、出自の異なるグイッチャルディーニの著作と比較して、マキァヴェッリの時代における彼の偏差を明らかにしている。
また、彼の実際の職業生活もメディチ家との関わりを中心につぶさに語られる。そのなかで、マキァヴェッリが一方で『君主論』を書きながら、共和政を支持していた理由が明らかになる。彼の理想は古代ローマの共和政なのだ。
マキァヴェッリの思想だけでなく、個人としてのキャラクターを示すエピソードも豊富で、賭け事が好きであったり、宗教心がきわめて薄かったり、同性愛に対してまったく嫌悪感をしめしていないなどといったことがわかる。
ルネサンスというと美術に関心が偏りがちだが、美術にだけ焦点をあてるとその時代にイタリア(半島の諸国)が政治的な危機の時代だったということが見えにくい。本書はマキァヴェッリの思想・生涯を通じてその危機的な状況もすっと理解が深まる仕組みとなっている。
こうした記述がすっきりとした文体で語られるから読みやすいのだが、読後の充実感はそれだけでは説明できない。北田氏が歴史家であることからくる美点だと思うが、彼女はマキァヴェッリの行動や思想を語るときに、絶対に現代の価値観で裁断しない。その時代にはどういった考え方が流通していたのか、その中でマキァヴェッリはどれくらい独自であったのか(どの程度の偏差があったのか)を、丁寧にときほぐしてくれる。
だから、マキァヴェッリや『君主論』が虚空の中にぽつんと浮かびあがるのではなく、厚みをもった人間として、さらには周りの情景もふくめて描かれているという感じになる。
マキァヴェッリは、メディチ家の人々に仕えただけでなく、チェーザレ・ボルジアのもとに使者として派遣されている。登場人物には不足はない。しかし、ちょっとした工夫だと思うが、北田氏はあえて、マキァヴェッリ没後のフィレンツェにも筆をのばしている。それによってマキァヴェッリは遠近感をともなった情景におさまっている印象をうけた。
写真、図版が豊富なのも大いに読解を助ける。メディチ家の人だけをとってもファースト・ネームがロレンツォとかジョヴァンニとか複数いるので、画像があるのはとてもよい。また、註が同じページの上にある(頭注)なのもいちいちページをめくらなくて快適である。

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2014年12月13日 (土)

ロベルト・ピウミーニ『逃げてゆく水平線』

ロベルト・ピウミーニ著長野徹訳『逃げてゆく水平線』(東宣出版)を読んだ。

25の短篇集である。いわばショート・ショートで、1つ1つは独立した話で、オチもついている。寓意的な物語が多い。
たとえば、「沈黙大会」では、単に沈黙の長さを競うのではない。どんな沈黙にも特別な音が混じっているというのだ。アブルッツォの羊飼いの沈黙に耳を傾ければ、羊の鳴き声や風の音が聞こえてくる、といった具合だ。超高感度の電子装置で、沈黙の中に潜むかすかな物音を検知するのだ。チベット僧侶の沈黙の中には、アーモンドの芽がほころぶときに立てる、かすかで繊細な音が検知され、彼は敗退する。このように、寓話的な枠組みの中に、細部には詩的な叙情も香り立つ。
「メガネをかけた足」では、メガネをかけるとかっこ悪いと信じている男がいて、あちこちにぶつかるものだから、足(擬人化されている)が腹をたて、痛くてたまらんからメガネを買ってくれという。顔ではなくて、足にメガネをかけることになるのだが、右足と左足がまったく性格が異なる。右足は活動的で外が好きなのだが、左足は、静かで、家で本を読んだり、図鑑をながめたりしているのが好きなのである。こうして右足と左足の齟齬に悩む男が、色弱の女性と出会う。そこで何が起こるかがユーモラスに語られる。
凝った詩的な言い回し、比喩と、寓意的なストーリー展開がうまく組み合わされた短篇のつらなりで、とても面白くよめる。読者の年齢を選ばない童話集といえるかもしれない。

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2014年7月14日 (月)

『オペラは手ごわい』

image岸純信著『オペラは手ごわい』(春秋社、2800円)を読んだ。

なかなか複雑で、かつ、独特の味わいに富んだオペラ本である。一番大きな特徴は、これまで、あまり論じられることのなかったフランスオペラを中心にとりあげ、その魅力を著者が全力で伝えようとしていることだろう。
フランスオペラという中には、フランス人作曲家がフランス語の台本に作曲したものばかりでなく、ドニゼッティやベッリー二、ヴェルディといったイタリアを代表するオペラ作曲家がパリで発表した作品も含まれる。ロッシーニ晩年の傑作《ギヨーム・テル(ウィリアム・テル)》もそうだが、ドニゼッティの《連隊の娘》、ヴェルディの《ドン・カルロス》はオリジナルがフランス語台本なのである。
しかし、なんといっても、この本で熱がこもっているのはマイヤーベーアやトマやグノーといったフランスの作曲家、およびその作品を紹介する筆致だろう。著者が愛してやまない作品であるにもかかわらず、世の中での上演頻度は少ないからだ。なんとかその魅力を多くの人に伝え、上演の機会を増やしたいという熱い思いが伝わってくる。
そういう思いと深く関わっているのだろうが、この本のもう一つの特徴は、著者が、個々のオペラの上演でどの場面にどう感動したかが詳細に語られていることだ。個人的なエピソードは、案外豊富に語られていて、11歳の著者がバスの中で老人に席を譲ったところ、あなたに席を譲っていただいたのは二度目です、という驚くべき返事をもらい、実はその人が旧華族であったということなのだが、この話は、ヴェルディの《椿姫(ラ・トラヴィアータ)》の貴族たちを語る際に出てくる。彼の個人的な経験が、オペラを観るさいにどう活かされているのかがうかがえる仕組みの叙述である。
もう一つ著者には執念といえる楽譜へのこだわりがある。たしかに、オペラであれ、文学作品であれ、本格的に調べたり研究対象にしようとすれば、版(エディション)の違いに無関心でいるわけにはいかない。そのことへの認識が共有されるようになったからこそ、重要な作曲家の批評校訂版(クリティカル・エディション)が出版されるようになったわけだ。そういう意味で、岸氏の楽譜へのこだわりは批評の王道なのである。
しかしながら、先に述べた個人的な経験や歌手とのインタビューのエピソードが惜しげもなく紹介されるので、学術書にともすればありがちな無味乾燥とは無縁の書である。むしろ、著者の静かな情熱に圧倒される思いがするのは私ばかりではあるまい。
《カルメン》、《タイス》などのように既に観たオペラもあったが、まったく一度も観たことのないオペラもあり、しかもその魅力を詳細に語ってくれ、こちらの好奇心と探求心を大いに刺激される一冊であった。

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2014年3月26日 (水)

『オペラは脚本(リブレット)から』

辻昌宏著『オペラは脚本(リブレット)から』(明治大学出版会、2940円)が出版された。

 著者は、管理人ときわめて近い人物なので、論評は避けて、構成を紹介します。
まず序章「脚本(リブレット)が先か、音楽が先か」で、オペラにおいて、通常は作曲家や上演時における歌手の出来、演出についてが論じられることが多いのに、なぜリブレットに着目するかが語られる。
第1章「脚本に介入するプッチーニ   《ラ・ボエーム》とイッリカ、ジャコーザ」では、《ラ・ボエーム》のリブレットには最初の案では中庭の幕とよばれる幕があったが、せっかく書いたリブレットのその部分をプッチーニがそっくり削除させてしまったことが明らかにされる。
第2章は「検閲と闘うヴェルディ   《リゴレット》とピアーヴェ」。《リゴレット》は、原作やリブレットの最初の案では、フランス王が若い女性をもてあそぶ話だった。それが当時の検閲にひっかかって、王が主人公ではまかりならぬということになり、ピアーヴェが改作する。改作してフランス貴族に変えると今度はヴェルディが納得しない。最終的には周知のごとく、マントヴァの公爵になるが、それはいかなるプロセスで、また何故それならばヴェルディが納得したのかが明らかにされる。
第3章は「ロマン派を予言するドニゼッティ  《愛の妙薬》とロマーニ」。愛の妙薬のなかでは2つの恋愛観が示される。アディーナは18世紀的な駆け引きのある恋愛ゲーム的恋愛観の持ち主。一方、ネモリーノは一途なロマン主義的な恋愛観の持ち主。このオペラでは、この2つの恋愛観があらがい、最後にロマンティックな恋愛が勝利する物語なのだ。それを媒介するのが、詐欺師的なドゥルカマーラのいんちきな愛の妙薬というのが楽しい。著者は、このオペラが個人的にとても好きらしい。
第4章は、「性別を超えるロッシーニ   《チェネレントラ》とフェッレッティ」。原作のシンデレラでは、まま母が出てくるのに、なぜロッシーニではまま父が出てくるのか。ロッシーニの楽しさはどこにあるのかが語られる。
第5章は「挑発を愉しむモーツァルト  《フィガロの結婚》とダ・ポンテ」。ダ・ポンテの数奇な生涯がモーツァルトと交差したときに傑作が生まれた。モーツァルトが実はリブレットに対して大きなこだわりを持っていたことが明らかにされ、また、それが楽曲のなかでどう活かされているのか、重唱における押韻の活かし方が示されている。
終章は「こうしてオペラは始まった」で、フィレンツェのカメラータやモンテヴェルディといったオペラの草創期において、どんな人がどういうリブレットを書いたのか、その時にモデルになったのは、単に古代ギリシア劇だけではなく、16世紀の牧歌劇やインテルメッゾの詩形だったことが、具体的に例示される。
3月27日より大手書店やアマゾンでの取り扱いが始まるとのこと。一度、手にとっていただければ幸いです(と著者が申しております)。

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