2020年1月26日 (日)

江村洋著『ハプスブルク家』

江村洋著『ハプスブルク家』(現代新書、1990年)を読んだ。

新書ではあるが、新刊ではない。30年も前に発刊された本である。しかし同じ著者の『ハプスブルク家の女たち』と併せて読むことで、

ハプスブルク家の歴史のあらましと、王や王妃のキャラクターが少しずつ飲み込めてきた。

オペラのことを調べていると、王朝や宮廷が関わっていることは多い。彼らが発注者であったり、作曲家やリブレッティスタが宮廷作曲家や宮廷詩人であることも稀ではないからだ。

例えばモーツァルトに関してはヨーゼフ2世と弟のレオポルト2世が関わっているが、音楽ファンであればヨーゼフ2世に肩入れしたくなる。しかし、この本を読むと、君主としては、ヨーゼフ2世はやや頭でっかちで、世の実情をわきまえずに改革案を出し、反対にあってそれを引っ込めるというようなところがあり、改革の志は挫折するものが多かった。レオポルト2世は兄の後を継ぐ前にトスカナ公国で啓蒙的改革を成し遂げ、オーストリアでも期待されていたのだが、皇帝になって数年で無くなってしまう。

1冊の中に何人もの君主が扱われているので、詳細が語られるわけではないが、江村氏はそれぞれの人柄や個性をくっきりと描き出している。画素数の多い写真が得られない時には、メリハリのきいた似顔絵が意味があるように、まずは、個々の君主の大まかな特徴をつかめるような書物はありがたい。細部に関しては、より詳しい伝記などを読んだ時に修正すればよい。君主の名前が単に記号でずらずらと並んでいるという感じが一番具合が悪いのだ。そうなってしまうと、大量の情報が記されていても、少し時間が経つと、その事件なり政策なりは、どの君主と結びついているのかが全く分からなくなってしまう(単に評者の記憶力が悪いだけかもしれないが)。

印象的だったのはマリア・テレジアや最後の皇帝フランツ・ヨーゼフで、ハプスブルクの皇帝は概ねどちらかといえば質実剛健で、大変に勤勉だ。マリア・テレジアの場合は、自らの即位の際に、オーストリア継承戦争が起こり、プロシアにシュレージエン地方が奪われたことが許せなかった。

20年の間に16人の子供を妊娠・出産しながら第一線で国の改革を指揮し、かつ継承戦争と7年戦争を戦い抜いているのである。決して優美な宮廷生活で贅沢三昧にふけっていたのではない。むしろ息子や娘にも浪費をつつしむように教え諭している。

最後の皇帝フランツ・ヨーゼフは帝国内の12の民族の融和をはかり、極めて勤勉に仕事に励んだのだが、時に利あらず、彼の帝国は崩壊してしまう。

ハプスブルクがある時点までは長子相続ではなく、兄弟で領地を分割していたのを知り、おそらくそれが、なぜチロル公という存在があり、インスブルックにも宮廷があったのかといったことに繋がっているのだと思った。

 

 

 

 

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2019年12月31日 (火)

ブッツァーティ『怪物』

ブッツァーティ著、長野徹訳『怪物』(東宣出版)を読んだ。

短編集で18の短編が収められている。原著では1942年から1966年にわたる複数の短編集から訳者が編んだもの。訳者が編んだブッツァーティ短編集としては3冊目である。

ブッツァーティは、日刊紙コッリエーレ・デッラ・セーラの記者を勤めており、それが彼の文体とも深い関係を持つと言われている。すなわち、不条理な状況を描き出す時にも、日常的な平易な語彙を用いて淡々とその異常な事態を描出していくのである。時折、挟まれる情景描写はスケッチ風でありながらシャープな叙情性を持つ。また、比喩表現を重ねていく際も、一見かけ離れたものに喩えながら透明な詩情が生まれている。

1篇の長さは10ページちょっとだから、本格的な展開は望むべくもないのだが、ブッツァーティ独特の不条理なストーリーを堪能することができる。短いのでどこででも、いつでも、ちょっとした時間の隙間に別世界に飛べる醍醐味がある。

 

 

 

 

 

 

 

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2019年12月29日 (日)

『レオナルド・ダ・ヴィンチーミラノ宮廷のエンターテイナー』

斎藤泰弘著『レオナルド・ダ・ヴィンチーミラノ宮廷のエンターテイナー』(集英社新書)を読んだ。

本書はレオナルド・ダ・ヴィンチのミラノ時代について、レオナルドの多角的な活動を生き生きと描き出している。レオナルドだけでなく、レオナルドが活躍したロドヴィコ・イル・モーロの宮廷、その人間関係、権力構造をきわめて具体的に語る。ルドヴィーコの甥とその結婚、ルドヴィーコ自身の結婚、ロドヴィーコの庶子の結婚、そうした際のスペクタクルにレオナルドが卓抜なアイデアを出して関わったことが語られる。

中でもルドヴィーコの甥でミラノ公ジャン・ガレアッツォの結婚の際のスペクタクル『天国の祭典』(1490年)は詩人ベッリンチョーニによる脚本と、この祝祭劇を観たフェラーラの大使の報告書が残っているので細部まで分かるのだ。この劇、そして台詞の細部まで実力者ロドヴィーコの意向を汲んだものであることがよく分かる。宮廷で書かれる詩も、演じられるスペクタクルも基本的にはプロパガンダ的要素を濃厚に持っているのである。

評者は、オペラが生まれる前の宮廷でのスペクタルの一端をうかがい知ることができて非常に面白かった。

さらに、本書ではレオナルドの手稿から彼の人生観を探っているが、彼が宮廷人に出したと思われる謎々も複数紹介している。謎々が特徴的で、彼の世界観や宗教観を反映していると思われるのだ。

口絵にはカラーで『ビアンカ・セヴェリーノの肖像』(別名『美しき姫君』)や『白貂を抱く貴婦人』が掲載されているが、ビアンカはロドヴィーコとベルナルディーナ・コラーディスの娘であるし、後者の貴婦人はロドヴィーコの愛人チェチリア・ガレラーニである。この白貂はロドヴィーコ自身を表しているというのだがその理由も本書では解き明かされている。

 最後の晩餐についての論述も興味深い。聖書の記述の意味を時代に沿って解釈すれば、15世紀の画家たちが描いたようにテーブルがあって着席しているのではなく、横臥して食事をしていたらしいのだ。そう言われてみれば、古代ローマやエトルリア人は横たわって食事をしていたと聞いたことがあった。

レオナルドの幅広い才能が宮廷でどう生かされていたのかが納得いく本であった。

 

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2019年11月30日 (土)

『誰も知らないレオナルド・ダ・ヴィンチ』

斎藤泰弘著『誰も知らないレオナルド・ダ・ヴィンチ』(NHK出版新書)を読んだ。

今年は、ダ・ヴィンチ没後500年の記念年なので、NHKでもいくつか特集番組があった。

レオナルドがルネサンス人として画業だけでなく、様々な研究をし、それを手稿に書き留めていたという事実は知っていたが、手稿の中身を深く考えたことはなかったし、どういう点が傑出していたのかも知らず、人体解剖図や水の流れを書いたものがある、くらいの漠然とした知識した評者にはなかった。

本書はその手稿の中身とその特徴に深く分け入りながら、その過程でレオナルドの生涯が紹介されていくものである。

275ページの新書なのだが、実に豊富なカラー図版が掲載されているので、本文の叙述が具体的に何のことを指しているのかに戸惑うことは皆無である。必要に応じて、レオナルド以外の人の絵画もこれまたカラーで掲載されているので、叙述の論理をフォローしやすい。

第1章では、レオナルドがどんな服を着ていたか、そしてそれは同時代の中でどういう意味を帯びていたか、ひいてはレオナルドは自分を誰に擬していたか、などが語られる。第2章では、レオナルドとマキャヴェッリが同時代人でどちらも軍事的な作戦として水攻めを考えたのだが、その作戦の違いが、マキャヴェッリの著作やレオナルドの手稿が引用された上で示される。第4章は、飛行する機械について。第5章では、《岩窟の聖母》がなぜロンドンとルーブルに1点ずつあるのか、この2点の関係はどうなっているのかが、同時代の慣習、注文主の問題から解き明かされる。ここにミラノ公国の実力者ロドヴィーコ・スフォルツァの姪ビアンカ・マリアと神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の結婚が絡んでいるのでは、という視点は評者には新鮮だった。また、ルーブル版の天使の身体が衣の下には獣の身体が隠されている、というのも驚きだった。

7章、8章、9章は、身体や宇宙についてレオナルドが手稿の中でどのような考えを巡らしていたと考えられるかが語られる。レオナルドは学者ではないので論文として書いているわけではない。そこにはメモ的な言葉と、図や絵が書かれている。著者は当時の科学史的水準とレオナルドの探求を比較しながら、レオナルドの斬新さを明らかにしていく。一例をあげれば、レオナルドは太陽は動かないと考えていたのではないか、と。

評者は、美術史やレオナルドに関して全く素人であるので、本書で語られていることのオリジナリティや妥当性について評価することは毛頭できない。しかし、素人として読んだ感想としては、レオナルドについて生涯や手稿について多くのことを新たに知ることができた満足感が大きかった。

 

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2019年4月25日 (木)

北村暁夫著『イタリア史10講』

北村暁夫著『イタリア史10講』(岩波新書、900円)を読んだ。

 

イタリア史は近年、通史や近現代史をまとめたものや現代史を扱ったものが中公新書や岩波新書、ミネルヴァ書房や明石書店から出版されており、以前と較べるとイタリアに興味を抱いた人が歴史を知ろうとした場合に適している本が増えてきたと思う。

本書は、新書で286ページという相対的にはコンパクトな器に、古代ローマから2010年代前半までを盛り込んだイタリアの通史である。

特徴としては、筆者が述べているように、イタリアが置かれた地理的な位置を考慮に入れ、「ヨーロッパ・地中海世界の歴史の一部として、イタリアの歴史を見る」点がある。イタリアという近代国家が成立したのは1861年になってからのことなので、イタリアの各地域の歴史をバランスよく叙述するということにも目配りがなされている。

美術や音楽に関心を持ってイタリアに接した場合には、例えばルネサンス期に対する知識と中世に対する知識・情報量が著しく偏ってしまうことがある。テレビや雑誌で扱われる特集なども同様だ。

この本は自分の中にある偏りに気づかせてくれるし、扱われることがまれな時代にも、それぞれに興味深い問題、課題があったのだということを教えてくれる。

エトルスキ(トスカナに古代住んでいた人々)のルーツは謎とされていたのだが、近年の研究ではイタリアで様々な集団が混交して形成されたという説が有力だというーー知らなかった!シチリアにムスリムが稲やサトウキビ、ピスタチオおよび灌漑技術をもたらしたことなども書かれており、狭義の政治・経済に話が限定されているのではない。思いのほか充実しているのは、カトリック教会に関する叙述である。これはイタリア史において、あるいは現在のイタリアを理解する上でもカトリック教会の役割がいかに大きいかを示すものであると言えよう。

巻末には参考文献もあり(ただし章ごとではないのだが)、さらに詳しく知りたいと思えば次に読むべき本をたぐっていくことが出来る。

著者の専門のゆえか、近現代がより叙述が詳しいのだが、それは現代からの時間的距離の差のゆえに現代に近いほうが相対的に詳しく、古代は長い時代をコンパクトにまとめるのは当然といえば当然のことだろう。新書で古代から現代までを一人で書くというのはなかなか大胆なことだと思うが、読み進めた実感として中身は大変充実しているし、自分が詳しくないところ、無知なところは大いに参考になった。

 

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2018年12月 3日 (月)

『音楽祭の社会史ーザルツブルク・フェスティヴァル』

スティーヴン・ギャラップ著城戸朋子・小木曾俊夫訳『音楽祭の社会史ーザルツブルク・フェスティヴァル』(法政大学出版局)を読んだ。

新刊ではない。1993年に出た本だから25年ほど前の本ということになる。原著は A History of the Salzburg Festival  で1987年に出たもの。日本版のために終章とエピローグが書き加えられた。
だから、この本で扱っているのは、ザルツブルク音楽祭(これは通称であって、Salzburger Festspiele は、音楽だけでなく、演劇も盛んに上演されている)が1920年に誕生するまでの経緯から、1989年にザルツブルク音楽祭を取り仕切っていたカラヤンが死んで、ジェラール・モルティエに受け継がれるところまでを扱っている。
社会史というタイトルだが、実際に読んだ印象としては、個人的には伝記を読んだ感じに近い。対象が個人ではなくて、フェスティヴァルであるということ、また、そのフェスティヴァルは一生を終えたわけではなくて、現在進行中というところが大きく異なってはいるけれども。
ザルツブルク音楽祭は、創設者に演出家のマックス・ラインハルトや劇作家のフーゴー・フォン・ホフマンスタールがいることからわかるように最初から演劇と音楽の両方を上演・演奏することを考えて創設されたのである。また、実際に始まった1920年を考えて見ると想像できようが、オーストリアが第一次大戦によって帝国ではなくなり相対的に小さな領土となったが文化的な誇りを示す狙いがあった。
実際面では、この音楽祭だけではないのだが、ヴィーンとザルツブルクの主導権争いがしばしば事態を複雑化させる。
初期の音楽祭では、ヴィーン国立歌劇場の出し物を持ってくることはあったし、オケはヴィーンフィルであった。初期の頃から課題はいくつかあった。
演劇も重要な柱なのだが、外国からくる観客には言葉の壁がある。言葉がわからなくても受けるような演出にすると地元の評論家には不評となる。1920年代から、すでにアメリカの金持ちが重要なお客であったのだ。
オペラや管弦楽のコンサートにおいても課題はあった。モーツァルトのポピュラーなオペラはすぐにチケットが売り切れとなるが、20世紀オペラは切符が売れ残り、赤字となる。ザルツブルクの観客の保守性である。
1930年代になると、隣国ドイツのナチの脅威が迫ってきて、ザルツブルク音楽祭がオーストリア独立のシンボル、自由のシンボルとみなされ、逆にナチから目の敵視される。
その対立は、1938年のアンシュロス、オーストリア併合で終わる。オーストリアは併合された訳だが、ナチ歓迎派も驚くほど多かった。ザルツブルクで併合に関する住民投票が実施された時、反対票は1%に満たなかったのだ。
このあたり、オーストリアの政党事情や、州知事がどう振る舞ったかなど詳細な叙述があり興味深い。州知事レールはこのフェスティバルにずっと大いに貢献してきたのだが、併合後は逮捕され、終戦時、ベルリンの監獄から出てきたのである。
現在とは違ってこの時代は、指揮者が音楽祭で君臨している。
トスカニーニが君臨した時期、フルトヴェングラーが君臨した時期、カラヤンが君臨した時代、それぞれの専制君主ぶりがどのようなもので、ライバル関係がどうなっていたかも詳述され、なるほどなるほどである。
理論的な本としてではなく、英米人が得意な伝記の対象がフェスティヴァルになったと思って読むと、興味深いところが尽きない、というか読む人の興味によって面白い部分が変わってくるだろう。昔は、どこのバール、レストランが劇場関係者の溜まり場であったとか、誰々の屋敷が社交の場であったといったことも具体的かつ詳しく書かれている。
ずっと読んでいくと、ドイツ人とオーストリア人の気質というか振る舞い方の違いもうかがえてくる。ドイツ人は良くも悪くも徹底的で、オーストリア人は対立を解決するときに、臭いものには蓋的なパターンもありなのだ。
最近でもなぜ『イェーダーマン』というお芝居を毎年上演するかがわかった。創設者ゆかりの作品であったのだ。
オペラ上演に関しても、興味深い情報は沢山あったが、1つだけあげると、1951年の『ヴォツェック』上演が物議をかもした点だ。州議会でも激しい論争が爆発したというのである。『ヴォツェック』の初演が1925年であったことを思うと実に意外であったが、結局4回の上演がなされ、評論家の支持は受けたが、座席は40%の売れ行きで大赤字だったという。ベームの指揮だったにもかかわらず、である。

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2018年11月22日 (木)

『宗教改革とその時代』その3

『宗教改革とその時代』の続き(3)です。

宗教改革の広がり
フランスではカトリックとカルヴァン派の争いが内乱に。カルヴァン派はアンリ4世のもとで「ナントの勅令」により宗教上の寛容を獲得するが、17世紀後半にはルイ14世のもとで再び信仰の自由を失う。
北欧の宗教改革
 スウェーデンとデンマークの宗教改革は国家形成と密接。デンマークとスウェーデン、ノルウェーはもともとカルマル同盟のもとで同一の君主をいただく連合王国だった。16世紀に強力な王権をめざすデンマークのクリスティアン2世(在1513-23)が即位。スウェーデンの貴族層の反発を招き、スウェーデンは1523年有力貴族グスタフ・ヴァーサのもとで独立。クリスティアン2世の王権強化の努力は、地元でも反発を招き、叔父のシュレスヴィヒ・ホルスタイン公フリードリヒがデンマーク王に。
シュレスヴィヒ・ホルスタインの教会はすでにルター派だったので、ルター派はデンマーク全体をルター派にしようとする。しかしフリードリヒの死後、カトリック教会が巻き返しをはかり内乱に。フリードリヒの子フリードリヒ3世(在1534−59)は司教制度を廃止、教会財産没収。こうしてデンマークの教会はルター派の国家教会となる。
一方スウェーデンの王グスタフは国庫が空っぽであることに気づく。教会財産を狙う。貴族層の反感かうが、1560年代までにルター派の支配下に。30年戦争の際も、グスタフは領土的野心をもちつつ、プロテスタンティズムの旗をかかげ参戦。
東欧の宗教改革
東欧の貴族はグーツヘルシャフトという農奴制にもとづく大農場を持っていた。
ベーメン(ボヘミア)ではフス派教会の影響力が強く、反カトリック的であったが、宗教改革がドイツ人の手によってもたらされたため、民族主義的抵抗を引き起こした。
ハンガリーを例外として東欧では宗教改革はあまり進まず。
ベーメンの王位をめぐるハプスブルク家とプロテスタント君主の争いが30年戦争。
カトリック宗教改革
教皇パウルス3世(在1534-49)は改革派。1537年「教会改革に関する勧告」
トレント公会議ではトマス・アクィナスを中心としてさまざまな知的伝統が論争を繰り広げた。教皇パウルス4世(在1550−55)は異端に対する呵責ない戦いを開始。
イグナティウス・ロヨラは1527年パリでルターの思想にふれたが感じず。1540年改革派枢機卿コンタリーニの支持を得て、イエズス会の創建が認められる。イエズス会の活動は海外が有名だが、ヨーロッパこそ戦いの本拠地で、ポーランドや南ドイツは彼らの活躍によりカトリック支配下に戻った。
まとめ
プロテスタンティズムを生き延びさせたのは、主権国家の出現という世俗的契機であり、神学的要素ではない。むしろ、主権国家を1つの宗教によって統合する国家教会を作り出す結果になった。だからプロテスタンティズムと進歩とは何の関係もない。
北米ではプロテスタントはネイティブ・アメリカンを人間として認めず殺戮を、神の摂理のもとに正当化した。アパルトヘイトの南アフリカ共和国はカルヴァン派の子孫たち。現在はカトリックとプロテスタント諸教会の間に敵意はない。めでたし。

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2018年11月19日 (月)

『宗教改革とその時代」その2

小泉徹著『宗教改革とその時代』の続きです。

ルターの95箇条に先立つ40年間に主権国家が出現した。イギリスではバラ戦争ののちテューダー朝(1485-1603)が成立。ドイツでは領邦単位の統合が進んだ。

 主権国家や領邦と、普遍的(国家を横断した組織である)教会が対立することはままあった。だからルターをザクセン選帝侯フリードリヒがかくまったのは偶然ではない。

 イングランドのヘンリ8世もプロテスタンティズムの神学の細部 には何の関心もなかった。エリザベスもそうで、自国内にローマ・カトリック教会から独立した国家教会を作ることが目的だった。

 カトリック教会から離れると、王権と教皇の権威が離れるので、王権神授説が必要になる。

 イギリスにおけるカトリックの差別は、統治の問題。カトリック神学を信じているのがいけないのではなく、国家教会の儀式に参加しないのがいけないとされた。イギリスではカトリックは1829年まで市民権を剥奪されていた。

 イングランドには1530年には800の修道院があったが1540年には全て解散して(させられて)しまった。修道院の解散は修道院の土地・財産を目当てにしているわけだが、主権国家は恒常的に財政難だったので、ここに目をつけたのはイングランドだけではなく大陸でも同様だった。

 宗教改革以前、民衆は異教に起源を持つ祭り(クリスマスやイースター)も楽しんでいた。が、プロテスタントはそれを攻撃。イングランドでは17世紀には宗教的演劇も絶えた。プロテスタントの一部には「安息日厳守主義」があって、教会での宴会や社交を禁じ、さらには居酒屋の営業も禁じたのでイングランドには「陰鬱な日曜日」が到来した。

(以下続く)

 

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2018年11月12日 (月)

『宗教改革とその時代』

小泉徹著『宗教改革とその時代』(山川出版社、世界史リブレット)を読んだ。

非常に面白かった。面白かったし、蒙を啓かれたのは、われわれは(あるいはわれわれが中高で受けた教育は)ある種の進歩史観に支配されたものだったということに気付かされたことだ。この点は後述する。
教科書では、宗教改革はルターの「95ヶ条の論題」(1517年)からアウクスブルクの宗教和議(1555年)やイギリスのエリザベス1世の「礼拝統一法」で終わる。
しかし小泉によれば、これは宗教改革の入り口に過ぎず、宗教改革はずっと長く続くのだ。
またプロテスタントというとルターとなりがちだが、実際にはカルヴァンやその後継者テオドール・ベーズの影響力が及ぶ領域の方が広かった。
宗教改革の時期は短くとっても1517ー1648年。その政治的背景としてはハプスブルク帝国の興亡がある。ハプスブルク家にとって最大の敵はフランス王のヴァロワ家。
30年戦争には2つの対立項がある。1つはカトリック対プロテスタントで、もう1つはハプスブルク家とフランス王位を継承したブルボン家の対立である。
宗教的対立の背景には思想的対立がある。救済に関する伝統的考え方の1つが「
積善説」で善行を積むと天国に行ける。それに対しルターは、救済は人間の善行や功徳ではなくて、「神の愛」であるとした。カルヴァンはそれを一歩進め、裁く神によって救済があるかどうかは神があらかじめ決める予定説をとった。
プロテスタントの立場に立ちながら、人間には神の救済を拒絶する自由があると説いたのがアルミニウス。アルミニウス主義は、イギリスではカトリック的なものとして受け取られたが、本来は人文主義的伝統がプロテスタンティズムの中に再来したものと考えられる。
(以下次項)

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ナタリア・ギンズブルグ著『小さな徳』

ナタリア・ギンズブルグ著白崎容子訳『小さな徳』(河出書房新社)を読んだ。

この本は「須賀敦子の本棚」(池澤夏樹監修)の1冊だ。つまり須賀敦子にとって、とても重要な本であったということ。
それは一旦置いておくとして、この本は1部と2部に分かれているのだが、1部は無条件に面白い。冒頭の「アブルッツォの冬」ではファシズム時代に一家が流刑にあい、流刑者の家族の日常が淡々と描かれ、しかし流刑の実情を知らなかった評者は、流刑というのは普通に家族で暮らしていること、それどころかお手伝いさんを雇ったりもしていることに驚いた。無論、トリノという大都会からアブルッツォの小さな村にやってくればかつてあったもので無いものだらけになって不自由もするのだが、住めば都で土地の人の風習や料理にも慣れて行く。それが描かれたあとで、「あの頃こそが、私の人生の、何ものにも代えがたい最高の時だったのだ」とくる。アブルッツォからローマに出た夫はレジスタンス活動で逮捕され獄死してしまうからだ。淡々とした筆致が逆に、読者に迫ってくる。
ギンズブルク独特のユーモアというかアイロニーもふんだんにあり、それは彼女のイギリス人観察に現れている。
イギリスの民度の高さ、隣人への敬意を讃えながら、女性店員は Can I help you? と言っても口先だけで、「客が買いたいものを探すために、視線を鼻先2センチ以上先には伸ばそうともしないのだ」といった調子。
パヴェーゼがいつまでも大きな子どもだったという愛情に満ちた苦言も味わい深い。
第二部は、複雑な味わいである。ギンズブルグは自分の価値観、世界観を明らかにして親の世代を否定し、独特の金銭感覚や、文筆業という仕事についての考え、経験を開陳する。貴重な証言であるが、その考え、感覚は、極めてリアリズムに傾斜しており、たとえば19世紀のオペラのような大言壮語的レトリックは大嫌いなのだ。多分そのストイックな感じが須賀敦子のエッセイにも通じる気がする。
訳者と池澤夏樹の解説付き。丁寧な訳注が付されており、時代背景やギンズブルグの家族関係を理解する助けになる。

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