オスカー・ワイルド著富士川義之訳『幸福の王子 他8篇』(岩波文庫)を読んだ。
オスカー・ワイルドの童話、2冊分を全て収録したものである。いくつかは読んだ記憶があり、読んだ記憶のないものもあった。僕の記憶はあてにならないので、遥か昔に The Happy Prince は別としてどれを読んでどれを読んでなかったのか。。。
しかし今回、どれも興味深く読んだ。「漁師とその魂」などは、違いがあるのは重々承知しつつ村上春樹の長篇に通じるものを感じた。驚いたのは「忠実な友人」。友人の友情につけ込む人物、とつけ入れられて文句の言えないお人好しという組み合わせ、これは太宰の小説によく出てくるパターンではないか。ワイルドと芥川は、エピグラムの名手という点で影響を認識していたが、今回、むしろ太宰は『御伽草子』においてだけでなく、この短編から話の展開のパターンの示唆を得たのではないか、と思った。
童話集の構成についてだが、The Happy Prince and Other Tales と A House of Pomegranates に共通の面があるように思う。どちらも最初の話The Happy Prince とThe Young King は道徳的に美しくまとまっているが、それぞれの第二話は、それを裏切る話になっている。ナイチンゲールと薔薇では、ナイチンゲールの犠牲は、まことに何の結果ももたらさず、虚しいことになっている。若い王の謙遜な態度は最後には栄光に輝くが、第二話のスペイン王女の誕生日では、侏儒の献身的態度は報われることなく死を迎える。ここでカッファレッリが出てくるのは、バロック・オペラに興味のある僕には面白かった。スペイン王女では訳者が注で付しているように歴史そのものでなく少し改変しているので、カストラート(ワイルドはtreble という言葉を使っている)もファリネッリからカッファレッリに変えているのだろう。
最後の「星の子」もそうだが、美醜が人格に及ぼす影響が甚大なのがワイルド的。侏儒も自分の醜さに気づかなければ死に至ることはなかっただろうに。星の子は、非常に図式的にきれいにまとめているようでいて、最後に彼が改心した政治はたった3年しか続かず、後継者は悪政を敷いたというのは、なんとも現実的というか皮肉。
ワイルドの童話の登場人物は、色々とアレゴリカルな読みを誘われる。わがままな巨人とは帝国主義の比喩、擬人化か? 彼が愛を知ったなら、帝国は解体されなければならない。無論、これは一つの読みに過ぎず、様々な読みの可能性が開かれているのだと思う。
しかし、ワイルド自身が諸所に記しているように、彼は社会の貧富の大きな格差、富の偏在を鋭く感じていて、しかしそれは個人のレベルの自己犠牲や他者への愛というもので解決するのか、という問いを抱えていて、その問いへの答えは常に揺らいでいたのではないか。
今日の我々も、アメリカだけでなく、ヨーロッパも日本も格差は拡大し、貧困の問題(ジェニー係数)は前世紀より悪化している気配が濃厚だが、富の再配分という問題をどう解決すべきなのか、率直に言って簡単に答えは浮かばない。
しかしこの童話集の深いところは単に貧富の問題だけでなく、「猟師とその魂」のように魂の行方、あるべき姿を追求しているところだ。あるいは何が幸せなのか、の追求と言い換えても良いだろう。この話では、心と魂がまったく別物なのも興味深い。魂が全く別物、別の意識で動くのを見て、子供の頃からの魂ってなんだ?という疑問と、西洋人の魂へのこだわりの強さに思いいたり、僕なりにまとめると、西洋人にとって現代に至る価値観を決定的に上書きしたのは、ネオプラトニズムなのではないか、と思う。
魂的なものが永遠不滅で、神的なものに通じるというのは、日本人にはなかなかわかりにくい、実感しにくいところ。僕らは、どうしても心の奥深くで無常観に支配されているから。西洋人は、永遠で不滅のものに、ものすごい執着、オブセッションがあるように思う。その一つが魂であり、もう一つが神なのだと思うし、イデア的なものもそうなのだろう。
『ざくろの家』のざくろは、訳者の解説の通りだが、あえて付け加えれば性愛や官能性の表象でもあるのだと思う。猟師と人魚の関係に明らかであるが、子供向けの話なので直接的なことは何も書かれてはいないが、性愛のもたらす悦びの大きさと、その破壊的な力というのもこの作品集の通奏低音なのかもしれない。そのことと、美醜がその人の価値を決めたり周囲からの評価を決定づけたりするのは、どこかで通じているのだろう。
魂を持つ存在でありながら、見た目の美醜、綺麗な財宝、性愛の悦楽にいとも簡単に左右され、支配されてしまう私たち。ワイルドの眼差しは時に暖かく、時に皮肉で、時に突き放しているようで、しかし最終的に人間への関心が失われることはない。
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