2025年1月18日 (土)

『ピランデッロ戯曲集 III』

『ピランデッロ戯曲集 III』斎藤泰弘編訳(水声社)を読んだ。おさめられた作品は、「どうしてそうなったのか分からない」と「山の巨人たち」で晩年の作品と遺作である。

 「どうしてそうなったのか分からない」(1935年)は、これまで日本では紹介されなかった作という。ピランデッロの作品に共通することだが、登場人物たちの関係は、世俗的で、複数の夫婦が出てくるが、配偶者でない異性との間に微妙な感情を抱いている気配があり、しかしそこにある登場人物の狂気が絡んでいる。主人公は、幸せそうな生活を送っていたのだが、自分でも思ってもみない行動を起こし、意識が戻ってその責任をどう負うかで錯乱してしまったのだ。錯乱に、嫉妬が絡み、前衛的な部分はあるのだが、ゴシップ的興味にひきずられながら読むことも十分可能だ。

  「山の巨人たち」は未完の遺作だが、山の巨人たちファシスト政権を示唆するものとなっており風刺的要素が強い。第三幕が未完で、ここでは作者の息子ステファノ・ピランデッロが父から聞いた構想を記したものが記されているが、それとは少し異なるバージョンがジャーナリストのエンリーコ・ローマにより報告されており、それは本書にぬかりなく収められている。さらに、作品中で劇団の人々が一部を演じるオペラのリブレット「取り替えられた子供の話」も訳出されている。解説でもあらすじを含め訳者の解釈が開陳されており、読者は自分の読みを導いてもらえるし、あるいは自分の解釈とつきあわせることが出来る。

 ともすれば難解というイメージで語られることが多いピランデッロだが、この2作を読むと、読み応えはあるが決して難解ではなく、ゴシップ的な関心を持ってぐいぐいと引き込まれる作品でもあることがわかるだろう。

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2025年1月 9日 (木)

『全ての叡智はローマから始まった』

藤谷道夫著『全ての叡智はローマから始まった』(さくら舎)を読んだ。

本書は著者の思いがストレートに詰まった本であると思う。通常の学術書では、客観性を重んじて著者の思いは後景に退いて淡々と記述されることがほとんどである。この本は違う。著者は、古代ローマをどう捉え、ユリウス・カエサルはどこがどう偉大であったのかを雄弁に論じる。さらに後半では、ローマの建築技術や都市設計について、技術の深掘りを丁寧にしていく。

筆者は遅まきながら、カエサルの偉大さに、はじめて心底納得がいった。古代ローマについても共和制の部分から説明がされていて、元老院があるのは独裁をゆるさないという意味で優れたシステムなのだが、やがてそれが堕落し、既得権益を守る集団と化してしまう。政治家が、民衆派と元老院派に別れ、頂点についた側は、敵対する側を徹底的に粛正する。粛正の度合いは、まさに血まみれで恐怖のほかはない。しかし敵を粛正しなかった唯一の政治家がカエサルなのだ。彼の目的は、広大な領土を持つようになったローマが、属州の民をも統合する政治システムを作ることだったのだが、既得権を重視する人間から観れば、それは市民権の安売り、ばらまきと映ったであろう。

筆者は、バロック・オペラで何度もカエサル(チェーザレ)が出てくるのに出会ってきた。ヘンデルの『ジュリオ・チェーザレ』やヴィンチの『カトーネ・イン・ウティカ』、昨夏観たジャコメッリ作曲の『チェーザレ』(ヘンデルとはリブレットが異なる)。いずれの場合も、オペラなので、歴史的事実に脚色が加えられているが、チェーザレが敵を赦す、あるいはだまし討ちを良しとしないのは、一貫している。18世紀のリブレッティスタたちも、聴衆も、そこは理解していたのだろう。

カエサルは、自らを神格化することはなく、「はげの女たらし」などという批判にも甘んじていた。女たらし、の部分は筆者は気になるのだが、元老院議員の多数の妻と関係を持っていたのだが、誰一人カエサルを恨む女性はいなかったというのは驚きだ。その秘密・秘訣についてはほとんど書かれていない。

本書で、古代ローマの長い歴史を通じて書かれているのは、どういう既得権益(元老院議員は大土地所有者となっていく)が形成され、それを破壊してでも新たな統治システムを作ることが必要と考えるカエサルの統治システムに関する知見の先見性である。

以外な方向での発見は、イエスの教えを先取りしていたのが、カエサルの考え方だという点だ。筆者にその当否を判断する能力はないが、言われてみると、そういう観点から見れば、そうなのかもと思ったのだった。

キリスト教ついでに言えば、コンスタンティーヌス帝のようにキリスト教を国教化した皇帝は、教会側からはありがたい偉大な存在なわけだが、ローマ帝国側からみるとどんな体制変化をもたらしたか(ローマをローマらしからぬものにしたと著者は厳しく判定している)を論じている。

さらに、ローマの建築技術についても、ローマのコンクリートの強さの理由や巨大な石の運び出しと現代のクレーン車の比較なども興味深かった。

ローマの、ローマ帝国の理念が軸のように貫かれているので、一つのパースペクティブが開けてくる本である。著者は、こういう説もある、ああいう説もあるという形の叙述ではなく、自身の見解をすぱっと潔く論じているので、爽快である。

 

 

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2023年7月28日 (金)

『ダリオ・フォー喜劇集』

ダリオ・フォー、フランカ・ラーメ著、高田和文訳、ジョヴァンニ・デサンティス監修『ダリオ・フォー喜劇集』が出版された。

評者はまだ序と解説と『開かれたカップル』を読んだだけなので全体を評することは出来ないが、ダリオ・フォーが1997年にノーベル文学賞を取ったのにもかかわらず、まったく出版されていなかった残念な事態はこれで大きく修正されることになったわけだ。訳者の高田和文氏による解説でわかったのだが、日本でもドラマスタジオ、シアターX、劇団民藝などが野田雄司、井田邦明、渡辺浩子の演出で『天使たちはピンボールをしない』(上演時は『天使たちがくれた夢は...』)、『払えない!払わない!』、『クラクションを吹き鳴らせ』、『泥棒もたまには役に立つ』、『開かれたカップル』を上演している。採録された作品中、日本での上演がないのは『法王と魔女』で、無理もないかとも思った。法王の受けている尊崇の念、反発、ヴァティカンがイタリア政治にもたらす影響の強さといった諷刺の前提になるコンテクストが日本の聴衆に共有されているとは言い難いからだ。異文化圏の笑いは、時として、享受することがとてもむずかしい。『開かれたカップル』は、その点は非常にわかりやすい。夫婦が、婚外の恋愛を自由にしようと約束するが、いざ妻が自由にふるまいはじめると夫があたふたするという話である。どの話から読んでもよいのだと思う。

 

 

 

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2022年12月 8日 (木)

ドナテッラ・ヅィリオット著 長野徹訳『トロリーナとペルラ』

ドナテッラ・ヅィリオット著、長野徹訳『トロリーナとペルラ』(岩波書店)を読んだ。

ヅィリオットは、イタリアのトリエステ生まれの児童文学作家、児童書編集者、批評家でトーベ・ヤンソンやロアルド・ダールなどを翻訳してイタリアに紹介した翻訳家でもある、というのは訳者の後書きで知った。

『トロリーナとペルラ』は二人の少女の名前で、トロリーナは「野暮らし族」のお姫様。一方のペルラは、都会生まれの赤ん坊。その二人が密かに取り替えられるという「取り替え子」の枠組みを持った話である。「野暮らし族」は妖精的でもあり、ロマのようでもある存在あるのだが、美化はされておらず、空き缶をたんつぼとして使えることを発見して喜ぶところから話が始まっているのだ。

二人の少女が入れ替えられたことで、少女の人生も一変するが、彼女らが住む家族、コミュニティも大小の変化を蒙る様子が描かれる。

たとえ「取り替え子」が元にもどっても、コミュニティにもたらされた変化は元に戻らないほど不可逆的なものであることが、ある意味で味わい深い。

 

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2022年12月 7日 (水)

『ピランデッロ戯曲集II』

斎藤泰弘編訳『ピランデッロ戯曲集IIーエンリーコ四世/裸体に衣服を』(水声社)を読んだ。

訳者のまえがきにあるように、『エンリーコ四世』と『裸体に衣服を』は、前年の『作者を探す六人の登場人物』に続いて、作者ピランデッロの創造力が高まりをみせた1922年の作品である。つまり今年が100周年なわけだ。英米文学で言えば、T.S.エリオットの長編詩「荒れ地」やジェイムズ・ジョイスの小説『ユリシーズ』が出版された年であるが、こうした当時の文学界に衝撃を与えた新しい戯曲、詩、小説が非常に近接した時期に出現したのは単なる偶然ではないと思う。

彼らの活動以前に、イタリアでは未来派、英米文学ではイマジズムのような19世紀までの伝統をぶち壊せというスローガンをかかげた運動があり、それが前述三作品が出現するための地ならしの役割を果たしていたとは言えるだろう。そこに第一次大戦が勃発し、4年間続き、1918年に終結する。それまでの数十年間のヨーロッパが関与した戦争と異なり、ヨーロッパが戦場となり、ヨーロッパの国同士が戦う総力戦であったから、そのインパクトは人々の生活、世界観、そして芸術表現のすべてに及んだ。19世紀的な世界観が粉砕された中から新たな世界観を構築すべく誕生したのがピランデッロ作品であり、エリオットの詩であり、ジョイスの小説であっただろう。

『エンリーコ4世』は、仮装パレードを楽しんでいた主人公が皇帝エンリーコ4世に扮し、彼が思いを寄せるマティルデがトスカーナ女伯マティルデに扮していた。ところが主人公はパレードのさなかに落馬し、意識を失う。意識が戻った時には、彼は自分がエンリーコ4世だと信じるようになっていた。その事故を哀れに思った主人公の姉は、別荘に11世紀の宮廷をしつらえ廷臣に扮する人を雇った。それから20年後が劇の中身だ。読み進めると、実はかなり前から主人公は自分がエンリーコ4世でないことを自覚するようになっており、狂気に憑かれたフリをしていたのだということが判る。演じるということが複雑に入れ子になった劇だ。訳者が指摘しているように、この作品には小林勝氏の訳注による対訳本『エンリーコ4世』(大学書房)がある。

 『裸体に衣服を』は本邦初訳で、筆者はその存在自体を初めて知った。トルコのスミルナ駐在のグロッティ領事のもとで働いていたベビーシッターと領事の間のスキャンダラスな関係と、領事の子どもがテラスから転落したという不幸な事件が幕が上がる前の前史である。エルシリアというベビーシッターは、自殺するつもりで、その前に新聞記者に事件の顛末を多少ドラマチックにして語る。しかし彼女の自殺は未遂に終わり。。。

 ピランデッロは、抽象的な劇の複雑な構造のなかに、意外なほど世俗的ななまなましい事件を落とし込むのが巧みだ。だから、通俗的になりすぎず、また、難解あるいは抽象的すぎて興味が持続しないということもなく最後まで読み通してしまう。

 読み通すことができるのには、訳者の明快な解説や、訳注によるところも小さくないと思う。

 

 

 

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2022年4月24日 (日)

ピランデッロ戯曲集 I

『ピランデッロ戯曲集 I』(斎藤泰弘編訳、水声社)を読んだ。大変に面白かった。

収録されているのは、『役割ごっこ』と『作者を探す6人の登場人物』である。後者はあまりにも有名で、昔から荒筋は何度も読み、本体も読もうとしたのだが、途中でつまずいて読み通せなかった。今回は、スラスラと読み通せた。それは何故か?

『作者を探す6人の登場人物』は、ある劇団が舞台稽古をしている最中に、ピランデッロとおぼしき作家が思い描いている登場人物が現実の世の中に出てきて、稽古中の舞台にやってくるのである。登場人物と劇団の座長とのやりとりが始まる。ここで、読みやすさという点から重要だと思うのは、その劇団が練習しているのは、まさにピランデッロの『役割ごっこ』の第二幕なのだ。だから、『役割ごっこ』を読んで知っている方が、複雑に芝居の世界が重層化されているこの作品を理解しやすい。つまりこの芝居には、劇団の役者が演じている『役割ごっこ』の世界、リアリティーとしての劇団の座長や役者たちの世界、フィクションの世界に住んでいるはずなのに現実世界に出現し、家族間で内輪もめしている登場人物たちの世界、この3つの世界が交錯するわけだ。

 登場人物たちは、自分たちの人生のドラマを演じさせろと主張する。しかし座長や役者たちは、そのドラマは彼らが演じると言い返す。つまり登場人物たちと座長や役者との間に理解の齟齬があって、「登場人物」側は、自分たちが演じると思っているのに対し、座長・役者の側は、「登場人物」の話を聞いてそれを舞台で演じて客に見せるのは自分たちなのだと主張する。また、「登場人物」たちは、永遠に同じ時間、同じドラマを演じ続ける呪われた存在なのである。座長・役者たちと、6人の登場人物の関係を考えると、不条理演劇をはるかに先取りした前衛的な演劇だと思うが、『役割ごっこ』のプロットは不倫と決闘の絡むスキャンダルであり、『作者を探す六人の登場人物』のプロットは、ステップ・ファミリー内における近親相姦で、かなりなまなましく、またそのおかげで単に頭でっかち、アイデア倒れの前衛劇という感じがまったくせず、どちらのグループにも肉体性、あるいはそれぞれの人物の情念(のゆがみ)が感じられ一気に読めた。下世話なところと、シュールレアリスム的な前衛性が同居しているのがとても面白いし、かつて読んだベケットなどとは全然違う。

 19世紀的な写実性と、20世紀的前衛性が不思議な同居をしていて、ピランデッロの世界の大きさを感じる。

 

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2020年6月16日 (火)

オスカー・ワイルド『幸福の王子 他8篇』

オスカー・ワイルド著富士川義之訳『幸福の王子 他8篇』(岩波文庫)を読んだ。

オスカー・ワイルドの童話、2冊分を全て収録したものである。いくつかは読んだ記憶があり、読んだ記憶のないものもあった。僕の記憶はあてにならないので、遥か昔に The Happy Prince は別としてどれを読んでどれを読んでなかったのか。。。

 しかし今回、どれも興味深く読んだ。「漁師とその魂」などは、違いがあるのは重々承知しつつ村上春樹の長篇に通じるものを感じた。驚いたのは「忠実な友人」。友人の友情につけ込む人物、とつけ入れられて文句の言えないお人好しという組み合わせ、これは太宰の小説によく出てくるパターンではないか。ワイルドと芥川は、エピグラムの名手という点で影響を認識していたが、今回、むしろ太宰は『御伽草子』においてだけでなく、この短編から話の展開のパターンの示唆を得たのではないか、と思った。

 童話集の構成についてだが、The Happy Prince and Other Tales A House of Pomegranates に共通の面があるように思う。どちらも最初の話The Happy Prince The Young King は道徳的に美しくまとまっているが、それぞれの第二話は、それを裏切る話になっている。ナイチンゲールと薔薇では、ナイチンゲールの犠牲は、まことに何の結果ももたらさず、虚しいことになっている。若い王の謙遜な態度は最後には栄光に輝くが、第二話のスペイン王女の誕生日では、侏儒の献身的態度は報われることなく死を迎える。ここでカッファレッリが出てくるのは、バロック・オペラに興味のある僕には面白かった。スペイン王女では訳者が注で付しているように歴史そのものでなく少し改変しているので、カストラート(ワイルドはtreble という言葉を使っている)もファリネッリからカッファレッリに変えているのだろう。

 最後の「星の子」もそうだが、美醜が人格に及ぼす影響が甚大なのがワイルド的。侏儒も自分の醜さに気づかなければ死に至ることはなかっただろうに。星の子は、非常に図式的にきれいにまとめているようでいて、最後に彼が改心した政治はたった3年しか続かず、後継者は悪政を敷いたというのは、なんとも現実的というか皮肉。

 ワイルドの童話の登場人物は、色々とアレゴリカルな読みを誘われる。わがままな巨人とは帝国主義の比喩、擬人化か? 彼が愛を知ったなら、帝国は解体されなければならない。無論、これは一つの読みに過ぎず、様々な読みの可能性が開かれているのだと思う。

しかし、ワイルド自身が諸所に記しているように、彼は社会の貧富の大きな格差、富の偏在を鋭く感じていて、しかしそれは個人のレベルの自己犠牲や他者への愛というもので解決するのか、という問いを抱えていて、その問いへの答えは常に揺らいでいたのではないか。

 今日の我々も、アメリカだけでなく、ヨーロッパも日本も格差は拡大し、貧困の問題(ジェニー係数)は前世紀より悪化している気配が濃厚だが、富の再配分という問題をどう解決すべきなのか、率直に言って簡単に答えは浮かばない。

 しかしこの童話集の深いところは単に貧富の問題だけでなく、「猟師とその魂」のように魂の行方、あるべき姿を追求しているところだ。あるいは何が幸せなのか、の追求と言い換えても良いだろう。この話では、心と魂がまったく別物なのも興味深い。魂が全く別物、別の意識で動くのを見て、子供の頃からの魂ってなんだ?という疑問と、西洋人の魂へのこだわりの強さに思いいたり、僕なりにまとめると、西洋人にとって現代に至る価値観を決定的に上書きしたのは、ネオプラトニズムなのではないか、と思う。

 魂的なものが永遠不滅で、神的なものに通じるというのは、日本人にはなかなかわかりにくい、実感しにくいところ。僕らは、どうしても心の奥深くで無常観に支配されているから。西洋人は、永遠で不滅のものに、ものすごい執着、オブセッションがあるように思う。その一つが魂であり、もう一つが神なのだと思うし、イデア的なものもそうなのだろう。

 『ざくろの家』のざくろは、訳者の解説の通りだが、あえて付け加えれば性愛や官能性の表象でもあるのだと思う。猟師と人魚の関係に明らかであるが、子供向けの話なので直接的なことは何も書かれてはいないが、性愛のもたらす悦びの大きさと、その破壊的な力というのもこの作品集の通奏低音なのかもしれない。そのことと、美醜がその人の価値を決めたり周囲からの評価を決定づけたりするのは、どこかで通じているのだろう。

 魂を持つ存在でありながら、見た目の美醜、綺麗な財宝、性愛の悦楽にいとも簡単に左右され、支配されてしまう私たち。ワイルドの眼差しは時に暖かく、時に皮肉で、時に突き放しているようで、しかし最終的に人間への関心が失われることはない。

 

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2020年5月 7日 (木)

『ピランデッロ 秘密の素顔』

フェデリーコ・ヴィットーレ・ナルデッリ著、斎藤泰弘訳『ピランデッロ 秘密の素顔』(水声社)を読んだ。

実に面白かった。ピランデッロの伝記である。伝記といっても、死後書かれたものではなくて、生前に、ナルデッリがピランデッロに毎日インタビューをして書いたものだ。ナルデッリもピランデッロもパリにいた。ナルデッリは直前にダンヌンツィオの伝記を書いたのだが、詩人の逆鱗に触れ、祖国を逃げ出さざるを得ない羽目に陥ったのだ。当然、定職もない。というわけで(経過は省略)、ピランデッロに毎日あって伝記を書くことになった。ナルデッリも自分でも書いているが、劇作家の言うなりに書くのではなく、ピランデッロの伝記上の事件が、彼の小説なり劇作のどこに反映されているか、引用されているかを文学探偵よろしく嗅ぎつけてくる。

評者が驚いたのは、ピランデッロの父方も母方も、リソルジメントに積極的に参画しており、母方の叔父はガリバルディの副官だったことだ。父も負けずに大胆な人で、マフィアのボスを叩きのめして撃たれただけでなく、4度も銃撃されている。

ピランデッロの妻がピランデッロの父が経営する硫黄鉱山の失敗で持参金を失い、精神を病んでしまったのはよく知られた話かもしれないが、そもそもその前に婚約者がいたのは知らなかった。

一々は記さないが、ピランデッロの奇癖とも言うべき変わった行動も、抜群に面白い。個性的な人は、大真面目にヘンテコリンなことをやってしまうものなのだ。ピランデッロの作品の不条理とも見える世界は、作者のいわゆるリアルな生活と地続きなのだった。

 

 

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岩崎周一著『ハプスブルク帝国』

岩崎周一著『ハプスブルク帝国』(講談社新書)。新書だが、442ページあり、やや厚い。

このところハプスブルク本を何冊か読んでいるが、これは歴史学寄りの歴史書である。以前に読んだものは、物語的な歴史書であった。周知の通り、歴史はイタリア語の場合極めて明確になるが、storia  であり物語も storia である。僕としては、物語寄りの歴史も読みたいし、歴史学の見地が反映された学術的な歴史書も読んで見たい。個人的には、物語的な歴史で、その時代、その地域の幾人かの人物にこんな人というイメージを持てるようになってから、歴史学の学術的な記述と向き合いたい。でないと、〇〇3世とか言っても、自分にとってはそれは記号に過ぎず、その人についての叙述もピンと来ないからだ。

本書は、新書とはいえ、従来の学説ではこうであったが、近年はこういう説も唱えられている、ということが丁寧に記述されていて、ハプスブルク帝国についての言説の変化もうかがえるようになっているのはありがたい。こうした厚みを持った上で、政治や経済のことを説明され、さらには文化的なことに言及されると文化を単独に捉えている時よりずっと立体的に、社会の中の文化、宮廷の中での文化活動の位置付けといったものが見えてくる気がする。

この本で初めて知ったことはあまりに多く、情報量の点でも十分であったし、さらにという場合には和洋の参考文献がたっぷりと紹介されているのも親切だ。

 

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2020年1月26日 (日)

江村洋著『ハプスブルク家』

江村洋著『ハプスブルク家』(現代新書、1990年)を読んだ。

新書ではあるが、新刊ではない。30年も前に発刊された本である。しかし同じ著者の『ハプスブルク家の女たち』と併せて読むことで、

ハプスブルク家の歴史のあらましと、王や王妃のキャラクターが少しずつ飲み込めてきた。

オペラのことを調べていると、王朝や宮廷が関わっていることは多い。彼らが発注者であったり、作曲家やリブレッティスタが宮廷作曲家や宮廷詩人であることも稀ではないからだ。

例えばモーツァルトに関してはヨーゼフ2世と弟のレオポルト2世が関わっているが、音楽ファンであればヨーゼフ2世に肩入れしたくなる。しかし、この本を読むと、君主としては、ヨーゼフ2世はやや頭でっかちで、世の実情をわきまえずに改革案を出し、反対にあってそれを引っ込めるというようなところがあり、改革の志は挫折するものが多かった。レオポルト2世は兄の後を継ぐ前にトスカナ公国で啓蒙的改革を成し遂げ、オーストリアでも期待されていたのだが、皇帝になって数年で無くなってしまう。

1冊の中に何人もの君主が扱われているので、詳細が語られるわけではないが、江村氏はそれぞれの人柄や個性をくっきりと描き出している。画素数の多い写真が得られない時には、メリハリのきいた似顔絵が意味があるように、まずは、個々の君主の大まかな特徴をつかめるような書物はありがたい。細部に関しては、より詳しい伝記などを読んだ時に修正すればよい。君主の名前が単に記号でずらずらと並んでいるという感じが一番具合が悪いのだ。そうなってしまうと、大量の情報が記されていても、少し時間が経つと、その事件なり政策なりは、どの君主と結びついているのかが全く分からなくなってしまう(単に評者の記憶力が悪いだけかもしれないが)。

印象的だったのはマリア・テレジアや最後の皇帝フランツ・ヨーゼフで、ハプスブルクの皇帝は概ねどちらかといえば質実剛健で、大変に勤勉だ。マリア・テレジアの場合は、自らの即位の際に、オーストリア継承戦争が起こり、プロシアにシュレージエン地方が奪われたことが許せなかった。

20年の間に16人の子供を妊娠・出産しながら第一線で国の改革を指揮し、かつ継承戦争と7年戦争を戦い抜いているのである。決して優美な宮廷生活で贅沢三昧にふけっていたのではない。むしろ息子や娘にも浪費をつつしむように教え諭している。

最後の皇帝フランツ・ヨーゼフは帝国内の12の民族の融和をはかり、極めて勤勉に仕事に励んだのだが、時に利あらず、彼の帝国は崩壊してしまう。

ハプスブルクがある時点までは長子相続ではなく、兄弟で領地を分割していたのを知り、おそらくそれが、なぜチロル公という存在があり、インスブルックにも宮廷があったのかといったことに繋がっているのだと思った。

 

 

 

 

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