2016年7月28日 (木)

『愉しき夜』

ストラパローラ著長野徹訳『愉しき夜』(平凡社、3456円)を読んでいる。副題にヨーロッパ最古の昔話集とあるが、たしかに、そうなのだが、大変に面白い。

昔話の中には、話の採集の仕方にもよるのだろうが、1つの話がとても短いものもあるが、この『愉しき夜』では、1つの話が十数ぺージで程よい長さである。
ここに収められた話は、子供向けではなく、次々に盗みを働く若者の話、妻が死ぬ直前に再婚するなら自分のしていた指輪のサイズが合う人とと言い残すのだが、サイズが合うのが我が娘で、父は娘を我がものにしようと外国まで追いかけていき、悪事の限りをつくすという恐ろしい話も入っているのだが、あまりにストレートな悪(人)なので、妙に読後感が爽やかである。人物が寓意的だからだろうか。
訳文も良い意味で読みやすく、どんどん読める。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年3月27日 (日)

武田好著『これならわかるイタリア語文法』

武田好著『これならわかるイタリア語文法ー入門から上級まで』(NHK出版、3200円)を読んだ。

とてもわかりやすい。説明が明快であるし、例文がいかにも日常的に使われそうなものだ。基本的なものだけでなく中級以上の注意ポイントにもかゆいところに手がとどくよう。たとえば、
 Forese ce l'ha con me (たぶん私に腹を立てている)p.69
 Ci sei? (わかる?) p.71
  Bambini, togliete i gomiti dal tavolo! (子どもたち、テーブルにひじをつかないようにしなさい!)p.99
  かと思うと、オペラ(ドニゼッティの『愛の妙薬』)から
 Udite, udite, o rustici attenti non fiatate.(村の皆様、お耳を拝借、おしゃべりなさらずご注目)。p.99
  Mio padre si fa fare la barba dal barbiere. (私の父は理髪師にひげを剃ってもらいます)
 さらには、擬音語、擬態語も載っている。p215.
  新聞などを読む人にも役立つ。
 la tutela del lavoratore nelle norme vigenti (現行法における労働者の保護)
これは現在分詞 vigenti が問題になるところだが、
 norma vigente 現行法←norma che vige ancora 現在も効力ある規定
という説明があり、納得。
 現代における通常の会話や散文で文法に疑問を感じた場合にはとても便利な一冊だと思う。中級を終えた段階であまりに詳しい文法書だと(つまり歴史的な経緯、変化が詳述してあると)人によっては混乱してしまうことがあるので、情報を適度に整理してあったほうが、ああこう言う、書くのが標準なのだと教えてくれる本が便利である。
 活字が適度に大きく、行間が詰まりすぎていないのもフレンドリーで良いと思う。
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年12月 9日 (水)

『兵士になったクマ ヴォイテク』

ビビ・デュモン・タック著、長野徹訳『兵士になったクマ ヴォイテク』(汐文社)を読んだ。

 

不思議と言えば不思議な話である。第二次大戦は周知のごとくドイツ軍のポーランド侵攻で始まるが、この話は、ポーランド軍兵士達がイランに逃げて、そこでクマの子を拾い、そのクマを飼いながら行軍を続けていくというもので、舞台は、南イタリアやスコットランドへと展開する。

奇妙な話に思えるが、これは実話に基づいているとのことだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年6月14日 (日)

『死者との邂逅ー西欧文学は《死》をどうとらえたか』

道家英穂著『死者との邂逅ー西欧文学は《死》をどうとらえたか』(作品社、2400円)を読んだ。

美しい本である。美しいのはフラ・アンジェリコの『最後の審判』による装丁ばかりではない。1つのテーマが繰り返し論じられていく様が美しい。ホメロスやウェルギリウスのなかで登場人物が死者と出会う場面、肉体がなくて抱こうとしても手が空回りする(しかもその行為は3回繰り返される)ところが、ダンテやそれ以降の書き手にも受け継がれていく。
こういったトポス(この場合、死者との出会いの場面)が、主題と変奏のように繰り返される様を具体的にたどってみると、まるで美術史で、受胎告知がさまざまな画家によって描かれており、先行作品を踏まえる部分と自分のオリジナリティを加える部分があるといった関係に似ていると思えてくる。
この本で扱われているのは、ホメロス、ウェルギリウス、ダンテ、ボッカッチョ、シェイクスピアの『ハムレット』、ディケンズの『クリスマス・キャロル』、そしてウルフ、ジョイス、プルーストである。強いていえば、英文学中心であるが、著者の視座は英文学にとどまらずむしろヨーロッパ文学のなかで死者との邂逅というトポスの起源がどこにあり、それがどう繰り返され、変化を被っているかということにある。
近代になれば、当然だが、死者や死への観念は変化する。たとえばヴァージニア・ウルフの『灯台へ』ではウルフの父レズリー・スティーヴンと母がモデルになった人物が登場する。ウルフの父は、敬虔な福音主義派の家に生まれた。両親が毎日イエスに話しかけているので、イエスは生きているのだと信じていた。そして聖職者になるのだが、イギリス経験論者の著作を読み、深刻な疑問を持つようになり、職を辞して不可知論者となってしまう。彼は2度結婚するが2度とも妻に先立たれる。著者によれば、不可知論者は死を受け入れることがきわめて困難だと言う。ヴィクトリア朝の後半では、信仰を持った人々は、たとえば妻や子が先に死んでも天国で再会できると信じており、そこに救いがもとめられたが、レズリー・スティーヴンは肉体を離れた霊魂の存在に疑問を抱いているためそのような考えに慰めをもとめることが出来ないのである。
一方で、死や死者との出会いが繰り返し描かれるが、近代に入り、特に第一次大戦後は多くの人がさらに上述の天国での再会という考えも信じられなくなってしまう。そこで最後に取り上げられているプルーストの独特の対処法?がとりあげられる。別離の経験により死への耐性が形成されるのだが、詳しくは本書を読んでいただければ幸いである。
叙述は、平易で読みやすい。何か新しい理論を振りかざしたり、派手な言い回しで人目をひこうというところもなく、作品のテクストによりそってテーマが実に具体的に叙述されていく。パースペクティブが広い論考というのはともすれば、むずかしい理屈をこねまわして、むやみに難解になりがちだが、本書はそういったところは微塵もない。実のある本である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年5月24日 (日)

『マキァヴェッリ』

北田葉子著『マキァヴェッリ』(山川出版社、800円)を読んだ。

一気に読めた。この本は、世界史リブレットの1冊で、本文は79ページ。この長さはなかなか良い、と思った。つまり、ウィキペディアよりは詳しいが、分厚い専門書よりは、はるかに気軽に読める。
気軽に読めると言っても、中身は濃い。マキァヴェッリの著作を、彼と同時代人ではあるが、出自の異なるグイッチャルディーニの著作と比較して、マキァヴェッリの時代における彼の偏差を明らかにしている。
また、彼の実際の職業生活もメディチ家との関わりを中心につぶさに語られる。そのなかで、マキァヴェッリが一方で『君主論』を書きながら、共和政を支持していた理由が明らかになる。彼の理想は古代ローマの共和政なのだ。
マキァヴェッリの思想だけでなく、個人としてのキャラクターを示すエピソードも豊富で、賭け事が好きであったり、宗教心がきわめて薄かったり、同性愛に対してまったく嫌悪感をしめしていないなどといったことがわかる。
ルネサンスというと美術に関心が偏りがちだが、美術にだけ焦点をあてるとその時代にイタリア(半島の諸国)が政治的な危機の時代だったということが見えにくい。本書はマキァヴェッリの思想・生涯を通じてその危機的な状況もすっと理解が深まる仕組みとなっている。
こうした記述がすっきりとした文体で語られるから読みやすいのだが、読後の充実感はそれだけでは説明できない。北田氏が歴史家であることからくる美点だと思うが、彼女はマキァヴェッリの行動や思想を語るときに、絶対に現代の価値観で裁断しない。その時代にはどういった考え方が流通していたのか、その中でマキァヴェッリはどれくらい独自であったのか(どの程度の偏差があったのか)を、丁寧にときほぐしてくれる。
だから、マキァヴェッリや『君主論』が虚空の中にぽつんと浮かびあがるのではなく、厚みをもった人間として、さらには周りの情景もふくめて描かれているという感じになる。
マキァヴェッリは、メディチ家の人々に仕えただけでなく、チェーザレ・ボルジアのもとに使者として派遣されている。登場人物には不足はない。しかし、ちょっとした工夫だと思うが、北田氏はあえて、マキァヴェッリ没後のフィレンツェにも筆をのばしている。それによってマキァヴェッリは遠近感をともなった情景におさまっている印象をうけた。
写真、図版が豊富なのも大いに読解を助ける。メディチ家の人だけをとってもファースト・ネームがロレンツォとかジョヴァンニとか複数いるので、画像があるのはとてもよい。また、註が同じページの上にある(頭注)なのもいちいちページをめくらなくて快適である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年12月13日 (土)

ロベルト・ピウミーニ『逃げてゆく水平線』

ロベルト・ピウミーニ著長野徹訳『逃げてゆく水平線』(東宣出版)を読んだ。

25の短篇集である。いわばショート・ショートで、1つ1つは独立した話で、オチもついている。寓意的な物語が多い。
たとえば、「沈黙大会」では、単に沈黙の長さを競うのではない。どんな沈黙にも特別な音が混じっているというのだ。アブルッツォの羊飼いの沈黙に耳を傾ければ、羊の鳴き声や風の音が聞こえてくる、といった具合だ。超高感度の電子装置で、沈黙の中に潜むかすかな物音を検知するのだ。チベット僧侶の沈黙の中には、アーモンドの芽がほころぶときに立てる、かすかで繊細な音が検知され、彼は敗退する。このように、寓話的な枠組みの中に、細部には詩的な叙情も香り立つ。
「メガネをかけた足」では、メガネをかけるとかっこ悪いと信じている男がいて、あちこちにぶつかるものだから、足(擬人化されている)が腹をたて、痛くてたまらんからメガネを買ってくれという。顔ではなくて、足にメガネをかけることになるのだが、右足と左足がまったく性格が異なる。右足は活動的で外が好きなのだが、左足は、静かで、家で本を読んだり、図鑑をながめたりしているのが好きなのである。こうして右足と左足の齟齬に悩む男が、色弱の女性と出会う。そこで何が起こるかがユーモラスに語られる。
凝った詩的な言い回し、比喩と、寓意的なストーリー展開がうまく組み合わされた短篇のつらなりで、とても面白くよめる。読者の年齢を選ばない童話集といえるかもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年7月14日 (月)

『オペラは手ごわい』

image岸純信著『オペラは手ごわい』(春秋社、2800円)を読んだ。

なかなか複雑で、かつ、独特の味わいに富んだオペラ本である。一番大きな特徴は、これまで、あまり論じられることのなかったフランスオペラを中心にとりあげ、その魅力を著者が全力で伝えようとしていることだろう。
フランスオペラという中には、フランス人作曲家がフランス語の台本に作曲したものばかりでなく、ドニゼッティやベッリー二、ヴェルディといったイタリアを代表するオペラ作曲家がパリで発表した作品も含まれる。ロッシーニ晩年の傑作《ギヨーム・テル(ウィリアム・テル)》もそうだが、ドニゼッティの《連隊の娘》、ヴェルディの《ドン・カルロス》はオリジナルがフランス語台本なのである。
しかし、なんといっても、この本で熱がこもっているのはマイヤーベーアやトマやグノーといったフランスの作曲家、およびその作品を紹介する筆致だろう。著者が愛してやまない作品であるにもかかわらず、世の中での上演頻度は少ないからだ。なんとかその魅力を多くの人に伝え、上演の機会を増やしたいという熱い思いが伝わってくる。
そういう思いと深く関わっているのだろうが、この本のもう一つの特徴は、著者が、個々のオペラの上演でどの場面にどう感動したかが詳細に語られていることだ。個人的なエピソードは、案外豊富に語られていて、11歳の著者がバスの中で老人に席を譲ったところ、あなたに席を譲っていただいたのは二度目です、という驚くべき返事をもらい、実はその人が旧華族であったということなのだが、この話は、ヴェルディの《椿姫(ラ・トラヴィアータ)》の貴族たちを語る際に出てくる。彼の個人的な経験が、オペラを観るさいにどう活かされているのかがうかがえる仕組みの叙述である。
もう一つ著者には執念といえる楽譜へのこだわりがある。たしかに、オペラであれ、文学作品であれ、本格的に調べたり研究対象にしようとすれば、版(エディション)の違いに無関心でいるわけにはいかない。そのことへの認識が共有されるようになったからこそ、重要な作曲家の批評校訂版(クリティカル・エディション)が出版されるようになったわけだ。そういう意味で、岸氏の楽譜へのこだわりは批評の王道なのである。
しかしながら、先に述べた個人的な経験や歌手とのインタビューのエピソードが惜しげもなく紹介されるので、学術書にともすればありがちな無味乾燥とは無縁の書である。むしろ、著者の静かな情熱に圧倒される思いがするのは私ばかりではあるまい。
《カルメン》、《タイス》などのように既に観たオペラもあったが、まったく一度も観たことのないオペラもあり、しかもその魅力を詳細に語ってくれ、こちらの好奇心と探求心を大いに刺激される一冊であった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年3月26日 (水)

『オペラは脚本(リブレット)から』

辻昌宏著『オペラは脚本(リブレット)から』(明治大学出版会、2940円)が出版された。

 著者は、管理人ときわめて近い人物なので、論評は避けて、構成を紹介します。
まず序章「脚本(リブレット)が先か、音楽が先か」で、オペラにおいて、通常は作曲家や上演時における歌手の出来、演出についてが論じられることが多いのに、なぜリブレットに着目するかが語られる。
第1章「脚本に介入するプッチーニ   《ラ・ボエーム》とイッリカ、ジャコーザ」では、《ラ・ボエーム》のリブレットには最初の案では中庭の幕とよばれる幕があったが、せっかく書いたリブレットのその部分をプッチーニがそっくり削除させてしまったことが明らかにされる。
第2章は「検閲と闘うヴェルディ   《リゴレット》とピアーヴェ」。《リゴレット》は、原作やリブレットの最初の案では、フランス王が若い女性をもてあそぶ話だった。それが当時の検閲にひっかかって、王が主人公ではまかりならぬということになり、ピアーヴェが改作する。改作してフランス貴族に変えると今度はヴェルディが納得しない。最終的には周知のごとく、マントヴァの公爵になるが、それはいかなるプロセスで、また何故それならばヴェルディが納得したのかが明らかにされる。
第3章は「ロマン派を予言するドニゼッティ  《愛の妙薬》とロマーニ」。愛の妙薬のなかでは2つの恋愛観が示される。アディーナは18世紀的な駆け引きのある恋愛ゲーム的恋愛観の持ち主。一方、ネモリーノは一途なロマン主義的な恋愛観の持ち主。このオペラでは、この2つの恋愛観があらがい、最後にロマンティックな恋愛が勝利する物語なのだ。それを媒介するのが、詐欺師的なドゥルカマーラのいんちきな愛の妙薬というのが楽しい。著者は、このオペラが個人的にとても好きらしい。
第4章は、「性別を超えるロッシーニ   《チェネレントラ》とフェッレッティ」。原作のシンデレラでは、まま母が出てくるのに、なぜロッシーニではまま父が出てくるのか。ロッシーニの楽しさはどこにあるのかが語られる。
第5章は「挑発を愉しむモーツァルト  《フィガロの結婚》とダ・ポンテ」。ダ・ポンテの数奇な生涯がモーツァルトと交差したときに傑作が生まれた。モーツァルトが実はリブレットに対して大きなこだわりを持っていたことが明らかにされ、また、それが楽曲のなかでどう活かされているのか、重唱における押韻の活かし方が示されている。
終章は「こうしてオペラは始まった」で、フィレンツェのカメラータやモンテヴェルディといったオペラの草創期において、どんな人がどういうリブレットを書いたのか、その時にモデルになったのは、単に古代ギリシア劇だけではなく、16世紀の牧歌劇やインテルメッゾの詩形だったことが、具体的に例示される。
3月27日より大手書店やアマゾンでの取り扱いが始まるとのこと。一度、手にとっていただければ幸いです(と著者が申しております)。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年3月10日 (月)

  『ある文人学者の肖像ー評伝・富士川英郎』

富士川義之著『ある文人学者の肖像ー評伝・富士川英郎』(新書館)を読んだ。

富士川英郎と言ってぴんとくる人は一定以上の年齢層に限られるかもしれないが、ドイツ文学者、とくにリルケ研究者として令名高かった学者の伝記である。著者は、英文学者で富士川英郎の子息である。
富士川英郎は、リルケの研究者・翻訳者として名を知られたのだが、ある時から江戸時代の漢詩人に深い関心をよせ、著作をものするようになる。一見、リルケと江戸時代後期の漢詩人(菅茶山や頼山陽、六如上人など)にはなんのつながりもないようだが、そうではないのだ。江戸後期の漢詩人は、宋の詩にまなんで、日常生活をうたう。その歌い方が、明治時代になって正岡子規がとなえた俳句における写生をさきどりしているし、ナポレオンをよんだ詩もあるといった具合なのだ。江戸の漢詩人などというと古色蒼然たる世界をこけむした筆致で描いているものと、無知なままに想像してしまいがちだが、そうではないのだ。モダンなのである。彼の「菅茶山と頼山陽」は雑誌連載当時、朝日新聞の文芸時評で作家石川淳に激賞されたのだった。石川も指摘するように、富士川英郎のアプローチはけれん味がなく、「ゆたかな材料をみごとに使いこなして無理くめんの跡をとどめないのは、調べたかぎりのものをすぐ書いてみせたというだけの書生流のレポートとはもとよりちがう」。おお耳が痛い! 
富士川英郎が深い関心を寄せたのは、リルケと江戸漢詩人だけでなく、森鴎外の史伝、とくに『伊澤蘭軒』であった。ここでは英郎の父游(ゆう)が関わってくる。富士川游は、鴎外の友人で、日本医学史という分野を確立し、大著を著した人で、それはつまり、西洋医学(明治時代には主としてドイツに留学した医学者が多かったのは周知の通り)が明治時代に大々的に取り入れられる前に、日本でも着実な医術の営みが続いていた、ということを再認識させるものであった。そしてここで著者が指摘するのは、鴎外の史伝も同じ意図をもった営み(ただし別のアプローチでの)であったということだ。
つまり、鴎外の史伝『渋江抽斎』も『伊澤蘭軒』も、江戸時代の医師たちを扱っており、それは医学において、日本の伝統がないがしろにされがちであったのに対し、実は、江戸時代と明治時代はつながっているし、明治の改革(西洋からの輸入)が花開いたように見えるものには、江戸時代の蓄積、営みがあったればこそだった、ということを地道に証明しようとしていた、ということなのである。それはむろん、医学に限ったことではあるまい。
さらに、富士川英郎は、晩年に詩話というものを書く。詩話というジャンルは江戸時代には盛んに書かれたものらしい。むろん英郎の書いたものは、江戸時代の文人のそれと全く同じではなく、リルケや西洋詩が含まれてくる。ハエをリルケがどうよんだ、ということから朔太郎はこう、江戸後期の漢詩人はこうという具合に自由自在に話がとぶ。論文という肩ひじをはった形式ではなく、心おもむくままに書かれたものの風通しのよさは、管理人にとって発見であった。
また、ここには著者義之氏と父英郎との、激突型ではない葛藤がところどころに回想として描かれ、最後にはまとまった形でその親子関係への考察が述べられている。父はドイツ文学者で息子は英文学者。父はああしろ、こうしろと言う人ではない。英郎自身は父游を手放しで尊敬していたようだが、義之氏はもっと屈折があり、それが長い年月を通じて、また、この伝記を書くことで過去を振り返ることによってほぐれていく様は、しずかだが深い感動をよぶ。
今や、日本の大学において、絶滅危惧種となりかかっている(すでになっている?)文人学者の生き方を知ることができる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年3月 4日 (火)

レオナルド・ダ・ヴィンチ『絵画の書』

レオナルド・ダ・ヴィンチ『絵画の書』(斎藤泰弘訳、岩波書店)を読んでいる。

従来『絵画論』と呼ばれていたものだが、初の全訳である。ダ・ヴィンチが書いた膨大な草稿から絵画に関する部分を弟子のフランチェスコ・メルツィが抜き出してまとめたもの。訳者の解説によると、全体としては、むろん、ダ・ヴィンチが書いたのだが、細かいところになると、メルツィの写し間違いや、メルツィの筆が加わった部分がある。それがどこまで、レオナルドによるもので、どこからがメルツィの介入かを判断するのに苦労したとのこと。
そもそもこの本がメルツィによってまとめられてから(1600年代前半)も、長らく出版はされず、ウルビーノのデッラ・ローヴェレ家の当主が所蔵し、そこからヴァティカンへと所有者がうつり、ようやく1817年に出版される(もっとも不完全な版は1651年に出版されている)。
内容は8部に別れていて、
第一部 詩と絵画について
第二部 画家の教則について
第三部 人のさまざまな情動と運動、および四肢の比例について
第四部 衣装について。人物像を優美に装わせる方法について。衣装と布地の
          種類について
第五部 光と影について
第六部 樹木と植物について
第七部 雲について
第八部 地平線について
となっている。全体は944の章(断片)からなっていて、前後の章は関連が深いものがならんでいる。たとえば、第三部の289章は、「一瞥しただけで人の横顔の肖像を描く方法について」となっていて、こういう場合には横顔の4つの部分に注目せよという。4つとは鼻、口、あご、そして額である。
 
さらに鼻に関して記憶すべきことを細部にわたって述べている。鼻には3つの種類があって、まっすぐな鼻、凹型の鼻、凸型の鼻がある。まっすぐな鼻のなかに、長い鼻、短い鼻、先端の高い鼻、低い鼻というふうに下位区分がある。凹型には3つ。上部がへこんでいるか、中央がへこんでいるか、かぶがへこんでいるか。さらには、こういったものの組み合わさった型、たとえば上下が凹型で中が隆起といったものがあるわけだ。
こういった細かい区分は図によって示されている(すべての章に図があるわけではないが、ところどころに手書きの図が掲載されている)。
第5部では、たとえば683章に「物体の照らされた部分と影の部分の間にある、中間的な影について」という章があるが、その前後には光と影についてのさまざまな角度からの考察がならんでいる。
あるいはまた、距離によってものの見え方がどう変わるかということも詳しく論じられている。
絵画における『パンセ』といった趣を感じる。管理人のように絵画に関するまったくの素人が気のおもむくままにあちこちのぞいても面白い。つまり、レオナルドって、絵を描くときに(あるいは描く前提として)こんなことを考えていたのか、という感慨と、当然ながら、きわめて具体的な事柄を具体的に理路整然と語っていることに驚く。いわゆる印象論ではなく、話が具体的なのだ。専門家にとっての意義はいうまでもないと推測するが、それはまたしかるべき人の書評に期待したい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)