2022年2月26日 (土)

ナポリ考古学博物館

Img_2539 ナポリ考古学博物館を訪れた(ナポリ)。

ここは今、ポンペイに関する収蔵品の逸品が、日本にやってきている博物館である。前項で述べたカポディモンテに行く途中にある。

ここのコレクションには重要なものが3つあって、ファルネーゼ家コレクションと、ポンペイ関係コレクションとエジプト関係コレクションである。今回は、ポンペイ関係を丁寧に、ついでファルネーゼ家コレクションを観たが、4時間ほどかかりかなり体力的にはヘトヘトになった。ただしこの博物館にはバールがあってコーヒーや軽食はとれるので便利だ。中身は充実の一言で、圧倒される。四半世紀前に一度ここを訪れたのだが、あらためて圧倒された。

ファルネーゼ家のコレクションがなぜここにあるのかは説明が必要だろう。ファルネーゼ家はもともとはローマ郊外のヴィテルボの出身で、傭兵隊を指揮して軍事面で頭角をあらわし、後にパオロ3世(在位1534−1549年)という教皇を出す。彼は息子をパルマ公にし、以後1731年までファルネーゼ家がパルマを支配する。

ここいらへんのことはバロック・オペラにとって大いにかかわりがある。ナポリの支配者がめまぐるしく変わるのだ。16世紀半ば以降、ナポリはスペイン・ハプスブルク家の支配下にあった。ところが1700年スペイン・ハプスブルク家の最後の王カルロス2世が死去。遺言によりブルボン家出身のフェリペ5世が即位。ここでスペイン継承戦争が起こる(1701−14年)。そのさなかの1707年にナポリはオーストリア・ハプスブルクに占領され、以後その支配下にはいる。まさにバロック・オペラの盛りの時期である。ナポリにはオーストリアの皇帝から派遣された副王(vicere)がいて、この副王がナポリの支配者であり、作曲家やリブレッティスタは、副王やその妻の誕生日や聖名祝日、あるいは皇帝(ヴィーンの)やその妻の誕生日や聖名祝日を祝うためにオペラやカンタータを作曲するのである。このオーストリア支配はユトレヒト条約・ラシュタット条約で承認された。

しかし、1733年にポーランド継承戦争が勃発すると当時パルマ公であったスペイン・ブルボン家のカルロ(後のスペイン王カルロ3世)がナポリを攻め落とす。この人はナポリ王としてはカルロ7世なのだが、本人は一度もこの番号を使わずカルロとだけ署名していた。彼の治世にあのサン・カルロ劇場が建てられたのであるし、カポディモンテ美術館も建てられた。カルロの治世は1759年まで続く。その後、フランス革命の時期になると、ナポレオン(一族)とスペイン・ブルボンの攻防が一進一退を繰り返す。

ここでファルネーゼ・コレクションに話を戻すと、カルロ7世は、父がスペイン・ブルボンのフェリペ5世で母がエリザベッタ・ファルネーゼだったのだ。それで彼がナポリの王になった時にコレクションがナポリにやってきたのだ。これは古代ローマの彫刻(古代ギリシアの彫刻の模刻もある)がその代表例だ。ファルネーゼ家がローマやパルマで彫刻や絵画を収集したのである。

ポンペイに関するものも、思えば18世紀に本格的な考古学的活動が始まったのだった。現在、日本でポンペイ展が展開中だが、それはこの考古学博物館の収蔵品が貸し出されているのであり、展示室には貸し出し中のものは写真が飾られ、今日本に貸し出し中という注記があった。ポンペイ・コレクションも膨大なもので、モザイク画が有名だが、実は当時の絵画も相当な数のものが展示されている。モザイクの場合にもそうだが、中世の宗教画などとは異なり、基本的に写実的、リアルな絵である。

色は薄くなったり、ぼけてしまったりしたものもあるが、比較的鮮明なものを写真にあげた。

ポンペイ・コレクションには、エロティックな絵画もある。これはいわゆる娼婦の館にだけあったのではなく、一般家庭でも性というのが子孫繁栄とか豊穣を願うことにつながるので、たとえば呼び鈴のようなものは男根に鈴がついているようなものだし、性愛の絵画もあるのだった。このコーナーは開いている時間が限られているようだった。こうした男根を誇張した人物像が、後のサティロやバッコス像を描く際に影響を与えたと言われている(キリスト教化が進むと、原則、性器を誇大に描くことはなくなっていくが)。

4時間いても、エジプト・コレクションは手つかずである。どのガイドブックにも書いてあるが、この考古学博物館は、考古学博物館として世界有数のものであり、時間をたっぷりと取ることをお勧めします。オーディオ・ガイドもあるが、生身の人間のガイド付きツアーも英語・イタリア語(たぶんフランス語、スペイン語でも)実施されている。生のガイドだと、自分の疑問をぶつけることが出来る点がよい。ツアーに行きたい人がその場で4人集まれば、1人15ユーロだった。

18世紀は啓蒙の時代と言われ、それはまったく間違いではないが、18世紀前半は、継承戦争に次ぐ継承戦争で、列強はしょっちゅう戦い、領土を奪ったり奪われたりしている。フランス革命が勃発してからも戦争はヨーロッパ中に飛び火している。知性が支配することを優先する啓蒙主義の時代でも、そうそう平和な時期はなかったのだ。残念ながら。

カルロ7世(スペインではカルロス3世)も戦争でナポリを侵略する(彼にすれば、おそらく、もともとナポリはスペインのものだったのに一時的にオーストリアに奪われていたという感覚だったのであろう)が、その一方で、古代のものの収集、保存の意義を認め、あのテアトロ・サン・カルロも建造している。素晴らしいことばかりではないが、悲惨なことばかりでもない、両面を観ていくことが大事なのだろう。オペラをめぐるパトロンはこの時期非常に重要なわけで、その支配者の変遷を考慮の外に置くわけにはいかないだろう。

 

 

 

 

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サン・ジェンナーロのカタコンベ

Img_2499-2サン・ジェンナーロのカタコンベを観た(ナポリ、カポディモンテ)。カポディモンテは山の天辺という意味でナポリは海沿いはほぼ平らだが、内陸部にむかってしばらくいくと、坂道になりかなりの丘がずっと広がっている。この丘というか山はトゥッフォという地質で、丈夫なのだが、加工はしやすいという。ここに2世紀のころからキリスト教以前の墓があり、2−3世紀にかけてキリスト教徒の墓(カタコンベ)が作られていった。5世紀になって、ナポリの聖人・殉教者のサン・ジェンナーロがここに埋葬されたのが重要である。その後、サン・ジェンナーロ(その血がはいった器があり、その血が一年に何回か溶けるという)の遺骸はドゥオーモに移されたのだが、彼の遺骸は数百年にわたってこのカタコンベにあったのである。

お墓の大きさはさまざまでその壁に描かれた絵や模様が比較的よく保存されているものもある。初期の墓の部分には、女性が水につかっている絵があって、これは洗礼をうけ、他の宗教からキリスト教に改宗するプロセスを示しているのだろうということだった。

山を掘って作ったということもあって、カタコンベは上下二層になっていた。また、下の層には洗礼のための掘った施設(多角形のお風呂のような形)も残っていた。つまりある時期は、ここはお墓としてだけでなく、洗礼や祈りの場として、つまりは教会として使われていたのである。

ここが公開されるようになったのは、比較的近年のようである。ナポリ近辺にはポンペイやエルコラーノをはじめとして古代の遺跡は多いのだが、ここも一見の価値ありと信じる。交通機関のストのため、タクシーで行ったが市内から12ユーロほどで行けた。中心部ではないが市内にある遺跡なのだ。

 

 

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2022年2月14日 (月)

Ca' Rezzonico とピエトロ・ロンギ

Ca' Rezzonico でピエトロ・ロンギの絵画を観た(ヴェネツィア、Ca' Rezzonico).

ヴェネツィアでは、他のイタリアの諸都市では Palazzo(館、宮殿)というべき貴族の大きな家を Ca'  という。Casa (家)の省略形である。

Ca' Rezzonico は18世紀のお屋敷が、博物館のようになって一般公開しているわけで、18世紀の貴族の家を想像する際に貴重なサンプルだし、オーディオガイドで天井画や建築様式、壁に掛かった絵の解説も丁寧にしてくれる。これまでに経験した Palazzo や王宮でもそうなのだが、西洋の天井画は、ギリシア・ローマ神話から題材をとったものであったり、アレゴリー(美徳、栄光など)を表現したものが多い。あるいは宗教的なテーマ(聖書のエピソードなどを表現したもの)が多いのは周知のことだろう。それは間接的にその家の当主の功績を称えるものであったり、美徳を称えるものであったりする。それは壮大さを強調したもの、空飛ぶ馬車が描かれていたり、天使が雲間から覗いていたりするもので、18世紀になってもその傾向は依然として変わらず、ティエポロやその同時代人の画家たちも、注文主の意向に応じてそのような作品を次々に量産していたわけである。

そういう部屋をいくつも観ているうちに、ある部屋でピエトロ・ロンギの絵が何十枚も上下二枚ずつずらりと並んでいる部屋に入った。これまで、ピエトロ・ロンギの絵は本、あるいは美術館で単独で見たことはあったが、壁の二面を埋め尽くす何十枚を一気にみるのは初めてだった。正直に言ってロンギの絵がなぜ名高いのかが今まではピンと来ていなかった。ところがこの日、この疑問が氷解した。これが美術史的に正しい見解かどうかは分からないが、僕自身の中では長年の疑問が氷解したのである。それはこういうことだ。18世紀のティエポロをはじめとする売れっ子画家たちは、大きな館の大きな天井に、ギリシア・ローマ神話の神々や、聖書の人物を壮麗に書いている。人間の形をしていても、人間以上の存在であることを強調する描き方だ。だから雲の上にいたり、傍らに天使がいたり、スーパーな力を発揮していたりする。それに対して、ロンギが描く絵の人物は、まったく普通の人(貴族ではあるが)。際だって美しいとか、際だって立派そうということはない。女性が化粧をしている姿、あるいはある家に司祭が訪れている様子、ダンスをしている二人、カルネヴァーレで仮面をかぶっている人などなどで、今でいえばスナップ写真、スマホでとったショット、記念写真のようなものだ。天井画の世界と、画風も内容も、際だったコントラストをなしているのである。そのコントラストに軽い衝撃をうけ、ロンギの眼差しの徹底したこだわりに興味をもった。彼は、自分の顧客を誇張して立派そう、偉そうに書こうとはまったくしていないのだ。だからイギリスのホガースと比較もされるのだろう。しかしホガースほどの毒、皮肉はない気がする。当時としては、徹底的にリアルな等身大を書くという行為が(天井画に何がどう描かれているかというコンテクストの中で)アイロニーの効果を発揮することはおおいにあると思うが。

 しいて喩えれば、天井画はオペラ・セリア的な世界であり、ロンギの絵はオペラ・ブッファ的な世界に通じるところがあるかもしれない(ただし、ブッファにしては、ロンギの登場人物は上流階級に偏りすぎていると思うが、ここで言いたいのは眼差しの方向性の問題である)。

 18世紀は後半になれば、フランス革命が押し寄せてくるし、ヴェネツィア共和国の終焉も近い。そんな時に、栄光を描く絵画ではなく、目の前のリアルを描こうとしたロンギ、彼の眼差しの静かな強さを感じたのだった。

 

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2022年1月17日 (月)

サン・マルコ修道院のギルランダイオとフラ・アンジェリコの《最後の晩餐》

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サン・マルコ修道院(Museo San Marco)に行った(フィレンツェ)

トスカナ州は2022年1月10日から、ホワイト・ゾーンからイエロー・ゾーンになって観光客が一段と減ったように思う。Museo San Marco も入場のためには Green Pass Rafforzato (スーパー・グリーンパス)が必要だ。朝、8時台に行くと、ベアト・アンジェリコの大作が並ぶ大きな部屋で観ているのはぼくともう一人の女性だけで、ゆったりと観られる。

二階に行く階段脇の土産物などを売っている部屋の壁にあるのが、このギルランダイオの《最後の晩餐》である。ギルランダイオは、フィレンツェにいると美術史上の大巨匠、大スターに埋もれてしまいがちだが、今回久しぶりに観て、より親しみを感じたし、興味をかき立てられるところがいくつもあった。

テーブルの手前にいるのがユダであるというのが定説だが、その脇に猫がいるのはどういう意味があるのか? ギルランダイオのこの作品で今回はっとしたのは、イエスや弟子たちの影がくっきりとうしろの壁に描かれていることだ。通常ルネサンスの絵画だと足下とか、服の襞であるとか、建物の立体性をあらわすために濃淡をつけることはあるが、人の影というものがこれほど明快に描かれているのは珍しいと思う。ギルランダイオは1400年代の後半で、これが1600年前後のカラヴァッジョやジェンティレスキになると、あたかも映画で強烈な照明でライティングしたような光と影の強いコントラストが表現されるようになる。ギルランダイオはそういった強烈なライティングという感じではない。また、猫には影がないようにも見えるのだが、それはこの猫が悪魔の化身だからだろうか?だからユダのそばにいる?

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こちらはフラ・アンジェリコの《最後の晩餐》でテーブルが小さくて、弟子が全員は座れず、4人ほどは画面右側で跪いている。二階の修道僧の房に描かれたものなので、壁面とか構図の制約もあるのかもしれないが、13人も一度に座れるテーブルがなかったという発想も興味深いし、修道僧の食欲を刺激してはいけないと思ったのか、こちらはホスティアのようなものをイエスが弟子に与えているが、料理やワインは見当たらないのも面白い。

 ロマン主義が勃興するまでは、原則オペラ作曲家が実際に歌う歌手を想定して書いたように、画家も《最後の晩餐》はこうあるべきということだけではなく、それがどういう場所に描かれるか(食堂なのか、修道僧の房なのか)を考えにいれて描いたということは、ありそうだ。もちろん、場合によっては注文主の意向、絵の場所と見る人の位置関係なども考慮に入れただろう。

 そういう意味で美術館というのは便利ではあるが、そういった物理的コンテクストを切り離されて観ているという点は頭の片隅で認識しておく必要があるだろう。最近は宗教画で祭壇にこういう風に置かれていたなどという図を説明文のなかに組み込んでいる場合もあるが、まだまだ稀である。

 

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2022年1月 4日 (火)

イタリアにおける男女平等についての些細な考察

イタリアにおける男女平等について、まったく個人的に街角やテレビを見て感じた事を記してみたい。

今回、2021年8月からイタリアに滞在して6ヶ月目に入ったのだが、漠然と感じたことで、男女平等の方向へ進んでいるのかなあ、と思った点がいくつかあるので記す。

1.ファッション

 かつて1995−96年にイタリアに滞在した時には、イタリアでは男の方がバリッとしたものを着ていて、女性は洋服地や仕立てはあまりよくないが本人の美しさでカバー?という感じがあった。そのころは女性もワンピース、あるいはスカートを含むツーピースを着ている人もそこそこいた。今は、女性もほとんどがパンツルック。スカートではなく、ズボン(パンタローネ)をはいている。スカートをほぼ必ずはいているのはロマ(いわゆるジプシー)の女性である。昔は年配の女性はまだスカートの人もいたと記憶するが今はほとんど見かけない。

 男もパッセッジャータ(散歩)をする時に、かつては定年後の人もジャケットにネクタイという感じで、男性の方がより服装にこだわっているようだったが、今はカジュアル化が進んでいて、寒くなってからは、ほとんどみなダウンコートである。男女差がほとんどない。そういう意味で、男女水平かが進んだと言えるのかもしれない。

 さすがにフィレンツェの歌劇場では、ワンピースをビシッときめたマダムを複数みかけてある種の感慨を持ったけれど。

 歌劇場では、男もジャケット率は高くなるが、セーターの人も結構いてそれぞれである。

 これは近年、イタリア以外の歌劇場でもそうで、ドイツであれ、オーストリアであれ、歌劇場での服装のカジュアル化は確実に進んでいる。

 パリでテロがあったりしたときは服装よりも荷物検査が熱心になり、今はグリーンパス(ワクチン接種証明書)のチェックが大切なこと、優先順位の高い問題となっているのだ。

2.鉄道員

 これも徐々になのだが、女性の鉄道員が増えている。車掌であれ、駅舎で働く人であれ。おそらくどこの職場でもこの今世紀の20年ほどの間に女性比率が高くなったのだと思う。家事労働をどう評価するかは複雑な問題で、一筋縄ではいかないが今は便宜的に横に置いておくと、外勤女性が増えると、自分のもらった給料で服を買う自己決定が相対的に容易になるのではないかと推測する。無論、財布の中身と値札を比べて思案することには変わりがないのだが。

3.テレビ番組

 前に紹介したソリティ・イニョーティというRAI1の人気番組がある。司会者はサンレモの司会も3年続けてしているアマデウス。この人は大変口跡がよく発音が聞き取りやすい。フレーズの区切り方も、プロだなあと感心する。この番組は8人の一般人(たまに1人芸能人がはいっていることもあるが)が出てきて、2人の人が相談しながら彼ら・彼女らの職業を当てるというゲームである。前に当ブログで紹介した時には、回答者=8人の職業を推測する側が芸能人だったが、普段は一般人2人のようで賞金をもらえる。8人にそれぞれあてたらもらえる金額があって、それを積み上げていって、最後に8人のうちの誰かの親戚(兄弟姉妹か親子)が出てきてそれが誰の親戚かを当てたら賞金はもらえるし、はずれればパーという仕組みだ。一般人のカップルが回答者になると、夫婦か事実婚カップルが多い。そこで二人が相談して決めるのだが、案外女性が決定権を持っている場合が多く、アマデウスが、彼女がイエスと言えば、最初ノーと言っていてもイエスなんだね、などと茶々をいれている。これは判断がむずかしいのだが、果たして、昔から、表面的には男をたてていても家に帰って二人で相談すると女性の方が実質的決定権を持っていることが多かったのか、それとも近年(たとえばここ20年くらい)決定権の軸が女性よりにシフトしたのか。この番組の場合、二人で相談するのだが、それが公開されているわけで、人前と言えば人前だし、相談内容は二人のこととも言えるので、内か外かが微妙である。ソリティ・イニョーティが注目に値すると思うのは、これが服装の選択や、料理を選ぶということではなく、ゲームとは言え、その決定により何十万、何百万がかかっているチョイスだからだ。お遊びとは言え、これだけのお金がかかっているわけで選ぶ方(職業は無限にあるなかからあてるわけではなく、8つの選択肢から選ぶ仕組み)は真剣である。そこでカップルの決定権の在り方がどうかというのは普段の二人の関係を反映しているのではないだろうか。8問(8人の職業当て)のうち1問や2問は男がこれだよと断言して決めることはあるが、それは女性がそうする場合も同じくらいあるし、女性がどう思うかを男性に尋ねておいて、その答えを否定すると男性はそれに同意するということもよくある。

 もちろん男女平等と言う場合にこういったカップルの関係だけでなく、企業や社会における制度、社会参加の仕組みの問題が重要であることは認識しているが、テレビを見たり、街を歩いていて気がついたこととして記してみました。経済でも国家の統計や日銀短観に対してタクシーの運転手に聞く街角景気があるわけで、こちらもタクシーの運転手一人ではなく百人単位になればかなり意味のある情報となるのだと思うが、当ブログの場合は一運転手の感想に相当するものとして受け取っていただければ幸いです。一人で見聞きできることに大きな限界があることは承知しつつ、ということです。

 

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2022年1月 3日 (月)

三回目のワクチン接種

三回目のワクチン接種をした(フィレンツェ、ネルソン・マンデラ・フォーラム)。

2022年1月2日という時点で、3回目のワクチン接種(モデルナ)をしたのでその経緯を簡単に記しておきたい。

日本にいる親がまだ通知も届いていないのに、僕が3回目の接種が出来たのは、イタリア政府の方針と実行力による。

イタリアに8月にやってきたころは、ワクチン・パスポートの有効期限は8ヶ月か9ヶ月という報道がなされていた。それはイタリアだけでなく、他のヨーロッパ諸国でも同様であった。イタリアの場合、実際にコロナに罹患した人も多いので、二回ワクチンあるいはコロナに罹患して回復し、さらにワクチン一回という人もいる。しかし滞在しているうちに3回目の接種の話が各国で出てきて(イスラエルが最も早かったと思う)、そこへオミクロン株の出現で、一気に三回目接種を早くやろうという姿勢にイタリア政府が変わった。

そのあたりからワクチンパスポートの有効期限の短縮が言われ始めた。

その頃フィレンツェ大関係者に尋ねると、二回目接種から半年経過したら三回目が打てるようだった。

しかしその後、ヨーロッパ各国でオミクロンの感染があっという間に広がり、オペラ関係で言うと、イタリア以外の諸国では劇場が閉鎖されてしまった。EU離脱したイギリスは、感染が広がるなかでも開き続けているようだが。

そうこうするうちに二回目接種から5ヶ月経過したら三回目が接種でき、ワクチンパスポートの有効期限が6ヶ月と報道されるようになった。僕自身7月半ばに二回目を打っているので、有効期限が6ヶ月だと1月半ばに有効期限が切れてしまう(あるいは1月いっぱいは大丈夫なのかもしれないのだが詳細は不明)。

イタリア人の場合は Codice sanitaria という保険番号を持っているのだが、僕はもっておらず、Codice fiscale (税務番号ーーこれはビジネスをやるやらないとは全く関係なく発行してもらえる)はもっており、トスカナ州の窓口に電話をして申し込みをすることができた。

そこから数日してスマホに電話がかかってきて、何日はどうかと尋ねられこちらの都合にあわせて予約をいれた。

するとスマホに予約書と問診票が送られてくる。それをプリント・アウトして問診票にイエス・ノー(Si, No)を書き込んだものを接種会場に持って行く。問診票は、今までに予防接種でアレルギー反応が出たことがあるか、など、日本のインフルエンザの問診票などと似た内容である。

会場のネルソン・マンデラ・フォーラムはサッカー場のそばにある室内競技上で屋根付き。入り口で予約書を見せ、会場に入るとまず accettazione (受付)で書類のチェック。次は、注射。肩を出して左腕上腕にブスっと打たれてすぐ終わる。その後は registrazione (登録)。ノートパソコンに係の人が、僕の場合、2回は日本でファイザーを打ちそれぞれの日付、3回目はモデルナで今日の日付を打ち込んでくれる。人によってスマホに証明書(デジタル)が送付されるようだが、僕の場合は、サイトに行ってダウンロードするようになっていた。

会場には、受付も注射も登録も7から8列ぐらいが並行して進んでおり、一列あたりは5,6人が並んでいる感じで、待ち時間は10分から15分程度だったと思う。登録後に15分待機して、異常なければ、帰ってよしということになる。

日本での二回は町の開業医で打ってもらったので、会場自体の大きさに驚いたが、日本でも自衛隊が設営したところはもっと大きかったのかもしれない。開業医でしてもらった時と異なっていたのは登録の手続きを、係の人と口答でやりとりしながら完成させる点ぐらいだろう。会場の人はみなテキパキとしフレンドリーであった。

イタリア人のステレオタイプなイメージを覆すような事態が、現在は進行中である。イタリアはEU諸国の中で、オミクロン株の感染をもっとも抑ええ込んでいる。それと関連しているが、2回目までの接種率も他国より高い。そして3回目の接種の進行もEU諸国の中で最も進んでいるのである。

 

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2021年12月24日 (金)

バロック・オペラ研究者の見たウフィツィ美術館

ウフィツィ美術館を訪れた。

12月も下旬になって、観光客が減ってきたので、行ってみたが正解だった。朝8時に行くと、行列もできておらず数人の人とともに入館できた。

今回、数年ぶりに来てみて、やはり展示およびオーディオ・ガイドが変化したと思う。最初の部屋に巨大なジョットの聖母子像があり、二つ目の部屋にシモーネ・マルティーニの「受胎告知」があるのは前回と同じ。このシモーネ・マルティーニの受胎告知は、大天使ガブリエルの衣装や向かって左側のサン・タンサーノというシエナの守護聖人の一人の衣装が写実的に描かれているのだが、聖母の衣装は濃紺に塗り込められているし、姿勢も写実的な立場からすればやや不自然であるが、他の絵画にはない突き抜けたスピリトゥアリタを感じる。これほど、アレゴリカルな表現(たとえば大天使から発せられる言葉が金字で絵画面に描かれていること)と写実的な描写が高い次元で統合し、総体としてのインパクトを持つ絵は、ジョットのスクロヴェーニ礼拝堂くらいのものか。ともかく完成度の高さ、額縁も含め装飾性と精神性が区別できないのである。

しかし歴史的に後継者が続々現れる点ではジョットが新たな時代を切り開いたと言えるのだろう。1300年から1500年にかけてイタリアのとりわけトスカーナの絵画は写実性の度合が増していく。そしてミケランジェロ、レオナルド、ラファエッロが来て、線描的なリアリズムの頂点(レオナルドを単なる線描というのには抵抗があるが、大きなくくりでの話である)を極める。しかし何故かその後は、徐々に写実性が落ちて、首が不自然に長かったり、身体がS字だったりマニエリスムの時代が来る。アンドレア・デル・サルトなども、うーんと考え込んでしまう絵画で、漱石はなぜアンドレア・デル・サルトにわざわざ言及したのだろうか、ロンドンで観たのか、不思議である。同時代のヴェネツィア絵画もトスカーナ絵画と較べると線が粗い。15世紀後半、ブロンズィーノという例外はあるものの、総じて写実性が落ちていく。

それがジェンティレスキやカラヴァッジョとともに、光と影の大胆なコントラストを伴った劇的なリアリズムがやってくる。これが1590年代、1600年前後だ。音楽では1600年にローマでもフィレンツェでもオペラが始まる。ポリフォニアの世界からモノディの世界へ。あるいは通奏低音の発明があると言ってもよいかもしれない。カラヴァッジョの光と影のコントラストに相当するものは、音楽で言うとモノディにおける旋律と通奏低音のコントラストなのではないだろうか。ラファエッロの写実においては光があまねくあたっていた。これはポリフォニアの世界に通じる。どの声部も光が当たっている。主従ではない。モノディの世界では、歌詞を歌うのが単声になれば明らかにそれが主で通奏低音は従だ。それが光と影に相当するのではないか。しかし、そうだとすれば、なぜ1600年前後にそういう絵画上の、そして音楽上の大変化がシンクロするように生じたのか。あれかもしれない、これかもしれないと考えるが、まとまった形をなさない。カラヴァッジョの絵を見ながらこんなことを考えているのは、自分くらいのものかもしれない、と思いつつウフィッツィを出ると約4時間が経過していた。E6e3a5ee904a4b209c7f04d96518b9da

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2021年12月23日 (木)

イタリアのユダヤ人 その2

古代から中世にかけて、イタリア半島がユダヤ人にとってはもっとも居心地のよいところだったらしい(この項も前項に続き、Giampiero Carocci のStoria degli ebrei in Italia (Newton & Compton 2005)による)。

紀元70年に皇帝ティトゥスによって神殿が破壊され、134年にはハドリアヌス帝との戦いが待ち受けていた。もちろんその後の2000年の歴史の中でイタリアでも残虐行為がなかったわけではない。しかし第一次十次軍の時にライン川流域のドイツで起こったような大量殺戮はなかった。

 面白いのは、イタリア半島の中部および北部では、ユダヤ人の追放が時々行われたのだが、数年経つと、こっそりとあるいは堂々とそのユダヤ人が呼び戻されたのだ。そこが13世紀以降のイギリスやフランスと異なるし、15世紀末および16世紀のスペインやポルトガルとも異なるところだ。

イタリアでユダヤ人が永続的な形で追放されたのは、南部や島嶼部であり、そこはスペインの支配下だった。

 というわけで、イタリア中部と南部は、ユダヤ人が2000年に渡り中断の時期がなく住み続けられた唯一の地域だったのだ。そしてむしろ、フランスやドイツやスペインやポルトガルからユダヤ人が逃れてきたのである。だからヴェネツィアのユダヤ人はドイツ風やスペイン風その他の名字

を持っていた。

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2021年12月22日 (水)

イタリアのユダヤ人 その1

シナゴーグを訪れて、イタリアのユダヤ人についての関心が刺激されたので、本を読みつつ書いていくことにする。

そもそもイタリアにユダヤ人はどれくらいいるのだろうか。あるいはいたのだろうか。Giampiero Carocci 著 Storia degli ebrei in Italia (Newton &Compton, 2005) によると、1861年イタリア統一の年に、約3万9千人が現在のイタリア国内に居住していた。彼らは、しばらく前からゲットーをでて様々なところに居住するようになってきていた。そのため町によってはユダヤ人コミュニティーが減少したところもあるし増えたところもある。たとえばマントヴァやリヴォルノでは激減した。リヴォルノでは1841年には4771人いたのが、1938年には2235人と半減してしまったのだ。

 逆に増大したのは、フィレンツェ、トリノ、トリエステ、ローマ、ミラノだった。ミラノで急増した理由には、1933年にヒトラーが政権についてドイツ系ユダヤ人が逃げてきたということがあった。

 しかし他のヨーロッパ諸国と較べると、イタリアのユダヤ人の数は少ない。1931年にローマのユダヤ人は11280人であったが、ワルシャワでは35万人だったし、ベルリン、パリ、ヴィーン、ブダペストでは、15万人から20万人の間だった。桁が違う。

 1930年代にイタリア全体でユダヤ人の数は5万人に達しなかったが、ドイツには50万人以上がいた。

 1932年の時点で、外国から来たユダヤ人は5650人で、その中の有名な例がレオ・オルシュキで、1880年代にドイツから移住し、有名な出版社を作ったわけである。ロシアやポーランドで迫害されたユダヤ人はイタリアよりもアメリカ、フランス、イギリスに移住していったー経済的なチャンスが大きいと考えて。後にヒトラーが出てくることを考えると他の国よりイタリアにしておけばが良かったと後知恵で言えるが、19世紀後半の時点で考えれば、職があるかビジネスチャンスがあるかで判断するのはもっともなことだったろう。

 

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フィレンツェのシナゴーグ その3

フィレンツェのシナゴーグは、現在のものは1881年に20年間の計画・建築期間をへて建ったものである。

もっと古いものがかつてはゲットー(現在の共和国広場)に2つ、さらに古くはオルトレアルノにもあったらしい。

現シナゴーグは美術的に言えばモレスコ様式(スペインのアンダルシアなどで見るムスリムの建築様式)である。イスラム教徒の様式ではあるが、人物像が描かれておらず、植物的、幾何学的な模様で壁や天井の模様が構成される点では、ユダヤ教にとっても都合がよいのだと思われる。ガイドによると、シナゴーグは、建設される時代に流行っている建築・美術様式が採用されることが多いそうだ。

ただし、キリスト教の教会建築の影響が皆無かというとそうではなくて、このシナゴーグには、説教壇とパイプオルガンがあり、これらはカトリック教会に通常あるものが取り入れられたとのこと。

また、壁の装飾は計画時点では金箔をはった豪華なものにしたかったそうだが、建築費用がそこまでまかなえず、別の素材を用いたとのことで、実際に堂内を見ると金ぴかという感じはまったくなく、むしろ落ち着いた色合いである。

宗教的な施設で神(あるいは仏)の偉大さ、栄光などを称えるために金箔が使用されている例は数多くあるわけだが、奈良・京都の古寺を見慣れてくると、まったく剥落もなく金ぴかであるよりも、やや鄙びた感じになったものにありがたみを感じたりする感性もありうるわけだ。無論、日本でも奈良・京都の古寺・仏像も最初から古寺だったわけではなく、建造当初はピカピカだったわけで、何を尊いと感じるかの感性も、時代や地域、その文化に大きく左右されるのだろう。

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