
ナポレオンIII 世が、リソルジメントに果たした役割が再検討された(7月8日、Corriere della Sera).
エウジェニオ・ディ・リエンツォが、エイナウディのイタリア史のAnnali の第22巻に、ナポレオン3世のリソルジメントにおける役割を見直す論考を寄せた。
ディ・リエンツォは、ローマ・サピエンツァ大学の現代史の教授である。
ディ・リエンツォは、これまでアルベルト・バンティや、ポール・ギンズボルグも、「外交や国際関係というコンテクストを、文化やメンタリティの歴史に集中するために、無視してきた」としている。実際は、ジョアッキーノ・ヴォルペやフランコ・ヴェルセッキが言うように、リソルジメントは外交の労苦がなければ不可能であったのだ。
ロザリオ・ロメ-オはその著書『カヴール』(邦訳『カヴールとその時代』(白水社、柴野均訳))で、第二次独立戦争の民衆的でない面をあざやかに描き出している。
ディ・リエンツォは、フランス人歴史家や我が国(イタリア)のピエール・ミルツァがとる解釈、ナポレオン3世はまったく親イタリア的だったという考え方に挑んでいる。
ディ・リエンツォの論考の題は、「イタリア、フランス、ヨーロッパーーソルフェリーノから統一まで(1859−1861)」というものである。外交文書を特に重視している。
ディ・リエンツォによれば、「ナポレオン3世は、ポー平野に、オーストリアのあらゆる野望をブロックする大きなゾーンを作る構想を持っていた。そこから、中くらいの国家、サボイア王国とロンバルディア、ヴェネトを含み、アペニン山脈に達するような国家の形成を支持した」。彼のこころづもりでは、そこには、トスカナ、教皇領、両シチリア王国は含まれないはずだった。
これはフランス側から見れば、まったく理解できる考え方だ。ナポレオン3世は、統一イタリアというよりも、イタリア諸国家の連邦を考え、それを教皇が教皇領とともに、調停者の役割を果たすという構想であったのだ。
この考えは、カヴールのイニシアティヴにより難破した。
ディ・リエンツォは、フランスが常に親イタリア的であったとする見解と不協和音をかなでる事実として、ソルフェリーノの戦いでオーストリアが敗れたあと、ヴィッラフランカでフランスは和平に調印したが(1859年7月11日)、プロシアがオーストリア側について参戦するのをおそれたとしている。実際は、プロシアはフランスを攻撃するつもりはなかった。ナポレオン3世は、ロシアとの同盟によってそれを完全に知っていた。
ヴィッラフランカの和平を受け入れたのは、ロンバルディアをピエモンテに割譲するという重要なステップはあったもののの、イタリア戦争を限られた規模のものにし、カヴールの野心を抑えるためだったのだ。
また、ディ・リエンツォは、ガリバルディの千人隊がシチリア上陸したあとも、ナポレオン3世は、両シチリア王国のうち、イタリア半島はブルボン家のものである状態を維持し、シチリアは別の王家に提供する考えを持っていたのだとしている。
また、フランスは統一イタリア王国の承認がおそかった。イギリス、アメリカ、トルコの後、1861年7月12日のことであった。