2024年8月26日 (月)

標高の意外

この記事、音楽とは関係ありません。

ミュンヘンとインスブルックの標高についての話です。

長年の無知、勘違いに気づいたので記しておく。

インスブルックから電車で移動すると北のミュンヘン方面に行くときも、南のイタリア方面(ボルツァーノ、トレントそしてヴェローナ)に行くときも、長いトンネルにすぐに入る。そのため、思い込みがあって、インスブルックは、ミュンヘンやボルツァーノ、トレントよりも数百メートル標高が高いのだと思っていた。

これは半分あたりで半分間違いだ。たしかにイタリア方面は数百メートル低いのである。しかし、北に向かうとき、標高は意外なほど変わらないのだ。インスブルックの標高が574メートル。ミュンヘンに向かう途中のクフシュタインの標高が504メートル。ミュンヘンの標高は519メートルなのである。山地から平野の開けたところに出たのだから、標高が数百メートル下がっているはずだ、と思っていたのは大間違いで、ずっと500メートル台なのだ。インスブルックとミュンヘンの標高はわずか55メートルしか違わない。

インスブルックのまわりを囲む山々は2000メートル前後あるのだが、町は案外標高の低いところにあるわけだ。

アルプス山脈が標高が高いのは当たり前だが、ドイツがおおまかにみて、北部が低地で南部がやや高くなっていることに驚いた次第である。

 

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2024年8月20日 (火)

ヤーコブ・フッターについて

前項でインスブルックのプロテスタントについて書いたので、ヤーコブ・フッターについて記しておく。

インスブルックはウィーンについでハプスブルク家にとって重要な都市で、宮殿も王宮教会も存在する。宗教改革が起こったときに、カトリック側が力を入れたことは疑いないだろう。

しかしティロルにもプロテスタントの教えを広める人はいた。ヤーコブ・フッターは Jacob Hutter (またはHuter, Hueter)は南ティロルのMoos (大雑把に言えば、インスブルックとボルツァーノの山中の村)に生まれた。生年は判らず1500年ごろでブルニコで教育をうけた。オーストリア東部のクランゲンフルトで再洗礼派に改宗した。1529年からは説教師となって生まれ故郷の周辺で布教活動を始めた。しかしその活動が当局の知るところとなり迫害が始まる。モラヴィアでは、再洗礼派の状況がましだと言うので、フッターらが調べにいき、情勢はたしかに有利なのでモラヴィアに少しずつ移住した。1531年には彼自身もモラヴィアのアウステルリッツに移住した。

しかし、オーストリア大公のフェルディナンド1世は早くも1527年には再洗礼派は許容されるべきでない、と宣言している。

フッターらは、フッターのもとでいくつかの再洗礼派がまとまりフッター派と呼ばれるようになった。しかしモラヴィアの議会が1535年にモラヴィアから再洗礼派の追放を決めたので、彼らは周辺の国々に散っていった。フッターはティロルに戻った。彼は妻のカタリーナとともにクラウゼンで1535年11月30日に逮捕された。12月9日にフッターはインスブルックに移送された。彼は尋問され棄教を迫られたが、棄教もせず、他の再洗礼派信者の名も告げなかったので拷問をうけたが屈しなかった。最終的に火刑の宣告をうけ、1536年2月25日に、黄金の屋根(インスブルックの旧市街の中心部)の前で処刑された。彼の妻は最初は逃げたが再び捕まり1538年にシェーネク城で処刑された。フッター派の記録によると、ティロル地方だけで360人のフッター派が処刑された。

フッター派は、原始共産制的な考えをもち、個人所有は認めなかった。個人は、持ち物は管理する権限があるのみとされた。

2006年から2007年にかけてインスブルックにワーキング・グループができ、フッター派との和解がすすめられた。ワーキング・グループにはカトリックの代表もプロテスタントの代表も参加し、2007年に黄金の屋根の前にプレートがかかげられ、フッターが信仰ゆえに処刑されたことが記された。2004年には、フッターとフッター派をめぐるドキュメンタリー映画(82分)も製作されている。

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2024年8月19日 (月)

ペーザロからインスブルックへの移動

今回蛮勇をふるって、インスブルックとペーザロを電車で往復した。

インスブルックからの電車は、駅へつくと5分遅れの掲示があり、待っているうちにその掲示が10−15分遅れに変わった。嫌な予感。

電車が到着して乗り込んだがなかなか発車しない。テクニカルな問題があるので30分以上遅れるというアナウンス。電車はなぜかしばらく逆方向に走り、そこでストップ。また駅に戻るという不思議な動き。ようやく動きはじめたが、約1時間遅れてボローニャに着いたので、乗り換えの電車には乗り損ない、駅でもとに切符に裏書きをしてもらい次の電車に乗る。こうなると乗車券は有効なのだが、座席は確保されていない。もともと乗るはずだった電車の座席は予約してあったわけだが、次の電車の座席は当日なので予約出来ないのだ。乗り込んで、空いている座席に座っていたが、しばらくして、その席を予約していた人がやってきて、移動して空席を探した。

ペーザロからインスブルックへの復路はほぼ定刻で動いた。が、やはり普通に疲れることは疲れるのだった。ホテルを9時にでて、インスブルックのホテルに着いたのは17時少し前である。

往路と復路で6日が経過したのだが、インスブルックはその間に、というか復路当日に急に気温が下がったのだった。山の天気は変わりやすい。ペーザロでのうわさでは、ペーザロからインスブルックまでバスで行く人もいるとのこと。さらに時間がかかるので体力があり、またうねうねする山の中を走るので景色に興味がある方なのであろう。思えば、モーツァルトは、ザルツブルクからインスブルックそしてイタリアへの山道を馬車でわれわれの何倍もの時間をかけて通っていったのだ。感慨深い。

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2024年8月 9日 (金)

2024年夏のフライト

順番が逆になるが今回の日本からミュンヘンへのフライトについて。

ウクライナでの戦争のせいで、シベリア上空が飛べなくなったのは周知の通り。

今回のルフトハンザでは、羽田を出発して北上し、北極海をずっと飛んで、スカンディナヴィア半島を南下してドイツに入る。

そのため距離がかつての1万キロから1万2000キロに増加し、飛行時間も約12時間から14時間に増加している。いつもエコノミーの身としては、14時間は長い。トルコ航空などで、イスタンブール経由で来るのも悪くないのだと感じた。ただしルフトハンザの新しい機体は、前席背中の液晶画面が大きく、しかも映画は多数のものが観られる。

彼我の物価の差は今回も感じる。羽田空港で買ったほうじ茶のペットボトル(コカコーラ)は108円だったが、ミュンヘン駅で買ったコカコーラは3、6ユーロだったので500円をゆうに超えている。

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2023年8月 8日 (火)

チロル州立博物館

  Tempimagegvlfnx チロル州立博物館を見学した(インスブルック)。

この博物館は、フェルディナンド大公によって設立されたため Ferdinandium と呼ばれることもあるオーストリア・ハンガリー帝国で三番目に古い由緒ある博物館で考古学的なものから現代美術にいたるまで幅広い収蔵品を収めている。

が、筆者は特殊な関心のもとに、数多くある収蔵品の一部に強い興味がある。

1.以前にも書いたことがあるが、ここにはモンテヴェルディの肖像画(とされているもの、専門書においてもしばしば彼の肖像画として掲載されている)がある。すんなり、彼の肖像画といえないところに、当時の音楽家の地位が決して高くはなかったことが反映されているとも言えよう。

2.古楽器(と言っても16世紀や17世紀の人にとっては現代の楽器なわけであるが)や古楽器の描かれた絵画の収蔵・展示があること。この博物館は来年から3年をかけて大きな修復をするとのことで、展示を大幅に変更しており、残念ながら観ることが出来なかった。最近のヨーロッパの博物館は、大幅な修復をすると展示方法、解説方法がデジタル化、ヴィデオの利用が進み判りやすくなるので、修復後の展示にぜひ再会したくはある。

3.今回観て面白かった絵の一つに、子ども3人が描かれている絵があった。なんだかおかしな雰囲気なのだが理由がある。貴族の子どもが、羊飼いの格好をしているのである。1645年頃描かれた絵で、当時の文学やオペラのリブレットでも羊飼いの格好をしているが、実はどこかの王子、王女と言った話はよくあるのだ。16世紀には牧歌劇などもはやっている。これを描いたのはオランダのAelbert Cuyp であるが、こういう主題がこの時代に描かれていることに興味を惹かれた。子どもたちの服の細部を見ると、服は決して質素ではなく、細かな刺繍がほどこされていたり生地自体もむしろ贅沢なもののようだ。つまり3人の牧童は、観念的な牧童であって、リアルな牧童ではないのだ。17,18世紀のオペラやカンタータ、演劇に出てくる羊飼いもそうで大抵は宮廷人の仮の姿といったところ、なにか事情があって故郷を離れ、身をやつしている、という場合もある。

まだ書くべきことはあるのだが、次項にまわす。

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2023年8月 7日 (月)

インスブルックへの移動

2023年8月初旬に羽田からインスブルックに移動した。コロナ禍にも移動しその報告は書いているが、今回は空港にも

変化があったので簡単に報告しておく。

ANAはface express という制度を導入し、空港の機械の前で顔と搭乗券を読み込ませると、そこから荷物預けに行く。

手荷物預けのところが無人になっていて、航空券をかざし、発券されたタグは自分でスーツケースに巻き付けるのだった(これは筆者は初めての体験)。そこから手荷物検査場に行くと、faceexpress 専用のレーン(初めての体験)であって手続きが早く済む。(ただし faceexpress に対応している便とそうでない便があるので注意)。

羽田からフランクフルトに向かう便は圧倒的に外国人客が多かった。あるいは日本人とドイツ人のカップルなど。

フランクフルトへは結局、行きは北極上空まわりで14時間ちょっと。12時間を過ぎると1時間、1時間が長い。

フランクフルト空港もあまり東洋人はみかけない。そこから Air Dolomiti .小さな一列4人の飛行機。タラップを登ったり降りたりする。

インスブルック空港は町から近いのでタクシーで15ユーロ。

ホテルに着いたのが午前中だったが、例によって午後3時までは部屋が空かないとのこと。長旅の後はホテルで横になりたいのだが仕方がない。町のインフォメーションに行き、今日演奏会があるか尋ねると、あるがチケットは完売。イル・ジャルディーノだったので残念な気もする。しかし結果的にはこれでよかった。2時過ぎにホテルにはいって寝るつもりもなくベッドに横たわったら、気がついたら5時間正体もなく寝てしまったのだ。演奏会は19時からだったから演奏会に間に合わなかったし、無理していっていたらすさまじい睡魔との戦いになったろう。身体が休息と眠りを必要としていたのだと納得する。着いた直後は興奮していて疲れをすぐには感じないのだが、ホテルにはいって横たわるとどっとその疲れが押し寄せてくるということのようだ。

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2022年9月19日 (月)

バイロイトの天気と食事

9月6日から9月18日までバイロイト・バロック・オペラ・フェスティヴァルに参加したわけだが、その間に天気は激変したので簡単に記す。

こちらに着いた時には、夏といってよく皆、半袖を着ていた。最高気温は26,7度あった。エアコンもつけた。

それが、15日くらいから急激に寒くなり、最高気温が12度や13度、最低は10度を切るようになって、長袖、セーターあるいは上着が当たり前となり、町ゆくひとの大半がダウンジャケットを着ている。よく言われることだが、北国では夏からいきなり冬がやってくるのだ。もちろん本格的な冬になればもっと寒いに違いないが、東京の感覚からすれば冬といってよい気温だ。また、毎日、雨が降るようになった。すぐに上がるのだが、一日に何度も小雨が降る。

食事についての特徴は塩味にあるかもしれない。ビールを飲んでちょうどよい加減なのか、少し塩辛目なのだ。ジェラートやケーキは、砂糖が多いということはなく、ケーキは果物がたっぷりで甘さ控えめであった。ケーキ屋の数自体は少ない。

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2022年9月12日 (月)

ドイツのマスク事情

1年ぶりにドイツにやってきたので、去年のコロナ対策との違いを記す。場所は去年も今年もバイロイトなので定点観測の1例としてご参考になれば幸いである。

ホテルにチェックインの際、今年は提示したのはパスポートのみで、コロナ以前と同じ。念の為言えば、PCR検査の結果やワクチン接種証明書は求められない。

去年は、スーパーマーケットでもマスク着用というレベルではなく、FFPマスク着用が義務であったが、今年はマスクなしで何の問題もなし。

劇場に関して言えば、去年はワクチン接種証明書とパスポートを示して、紙製の腕輪を巻いてもらうという「儀式」を毎日繰り返していたし、劇場に入る際にはマスク着用が求められ、かつ、上演中も係員が違反する人には(例えば鼻がはみ出ていても)注意していた。

今年は、マスクは義務ではなく、ざっと見たところ、マスクをしているのは観客の5%程度だ。もちろん、マスクをしていないからといって、係員に注意されることはない。案内係や切符のチェック員もマスクなしであった。ただし、緊急事態に備えて控えている救急隊はマスクを着用していた。また、テレビカメラのカメラマン(女性もいました)は全員マスクを着用していた。

教会での演奏会でも、観客の中に数人はマスク着用の人がいたが、大半はノーマスクで、もちろん係員から注意を受けることはなかった。

去年とは異なり、劇場や教会の座席にばつ印などが記されていることはなく、満席にまで客が座るシステムに戻っていた。空席の場合、単に売れていないか、切符を買った人の都合が悪くなったせいと考えられる。

座席に関して言えば、ドイツではないが、イスタンブール空港の搭乗口のベンチには、ばつ印が書いてあり、一人おきにしか座れないようになっていた。

今、ドイツで全員がマスクをしているのは、バスと列車の中である。バス停留所でマスクを着けて、乗り込むという感じで、街を歩くときには大半の人は着用していない。街歩きの時にもマスクを着用しているのは、高齢者が多いように思われた。

 

 

 

 

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2022年3月13日 (日)

メメント・モーリ

今年度も、もうあと二週間あまりとなった。この項は、まったく個人的な雑感・所感であることをお断りしておきます。

今年度の前半、日本にいたときに、Nさんという僕より10歳ほど若い友人の突然の死を知った。Nさんは京都、私は東京に住んでいたので、実際に会うのは年に数回であったが、バロック・オペラの愛好者、研究者という縁で、不定期にメールのやりとりをしていた。彼女のメールは非常に機知に富んでいて、毎回どこかで爆笑させられるのだった。だからNさんからのメールは楽しみだった。また、拙ブログに対する感想を述べてくれる極めて数少ない読者の一人でもあった。演奏会評などについても、そこが知りたかったので助かったとか、私が聴いた時はこうこうでした、といった情報交換や、さりげなく、僕の知らないことを教えてくれることもたびたびあった。精力的にヨーロッパのオペラ上演を見て回っておられたので、まさかの訃報であった。

8月にイタリアに来て、もうコロナも下火になってきたな、と思っていたところにオミクロンという新型が押し寄せてきた。周知のように、イタリアだけでなく、世界中に押し寄せたわけで、イタリア政府は3回目のワクチン接種を積極的に推進し、私もイタリアで3回目の接種を受けた。ワクチンに関しては、今回のワクチンがまったく新たなタイプのワクチンであることもあり、中長期的な懸念を表明している人もいることは承知している。言われてみれば、このタイプのワクチンを接種して20年、30年経過した人はいないわけで、将来どんな影響がたとえば免疫システムに対してあるか、ないかはデータがないのだから、わからないとしか言えないであろう。

オミクロンが大流行の間は、EU諸国の間の移動でもさまざまな制限が加わった。そのため当初予定していたヴィーンとマルタへの旅は断念した。海外で一人暮らしをしていて、コロナにかかったらどう対処すればよいのか、というのは一抹の不安があったが、ワクチンで重症化の可能性は低いと考え、食料や水の備蓄をするにとどめた。

3月に入って、研究会や委員会的な組織の活動でご一緒していたKさんが、昨年の11月に亡くなっていたことを知った。その訃報の情報から計算すると自分と2つしか歳が違わない。コロナになってから対面でお目にかかることがなくなり最後にいつ会ったのかは記憶にないのだが、病気がちという認識はまったくなかった(それを見せない人だったということなのかもしれないが)。

2月の末からはウクライナで戦争が始まり、3月13日時点で終わる気配はまったくない。昨日はフィレンツェのサンタ・クローチェ広場で平和を願う集会があり、2万人が集まったそうだが。

コロナ以来、当たり前だと思っていたこと、慣れ親しんでいたことには、見えなかった前提があり、その前提が崩れることによって、当たり前の風景が消えてしまうことを何度か経験した。

人間がこの世に存在していることも、思えばそういう面もある。長寿化とか、人生100年とか言われ、長寿の人が増えているのもたしかだ。しかしその一方で、50代、60代で亡くなる方もいる。人がこの世に生きていることは、生まれた以上当たり前のようでいて、必ずしも当たり前ではないのだ。明日は今日の続きのような気がしているが、そうとは限らない。死を忘れるな(メメント・モーリ)、という古くからの言葉が今年はいっそう身近に感じられる。

 

 

 

 

 

 

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2021年9月20日 (月)

コロナ時代のキス

コロナ時代のキスを目撃した。コロナ時代のキスという言い方も妙なものだが、これまでに目撃したことのなかったものなので、とりあえずこう呼んでおこう。一度はインスブルックで、オペラを観るために劇場に行った時。幕が上がる20分ほど前だったろうか、漠然と前方、舞台の方向を見ていると、60歳前後のカップルがやってきて座ったのだが、女性がいきなりマスクを下げて男性にキスをし、またマスクをつけた。劇場の客席であったし、わざわざマスクを下げて、キスをするという能動性が衝撃的であり感動的でもあった。彼らがどこから見ても若者でないことも。それでも家またはホテルに帰るまで我慢できない、と言うことなんでしょうね。

もう一つ。フィレンツェには近年トラム(路面電車)ができた。市の中心部と空港を往来する市電である。そこに2人の10代とおぼしき若者が座っていたのだが、トラムに乗る時は誰もがマスクをしている。彼・彼女もちゃんとマスクをして何か熱心に話していた。男の子がマスクをしたまま、女の子のマスクにキスをした。これは定義によってはキスと言えるのかどうか微妙だ。触れ合っているのは、彼のマスクと彼女のマスクであり、二人とも唇は出ていない。しかし気持ちから言えば彼・彼女はキスをしているのだと思った。それから数分後彼はまた同じ行為を繰り返した。彼女もそれに応えていた。

個人差があることは認めた上で言うのだが、日本人よりドイツ人、さらにイタリア人はボディ・ラングエッジを日常的に使う、いや使っていた。それがコロナで自由に使えなくなった不自由さは僕ら以上に痛切なものがあるのだと思う。だからマスクをつけている、つけることが求められる空間で、そのルールを突き抜けて愛の表現が新たに生まれている、そこに新鮮な驚きを感じた。

 

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