今年度も、もうあと二週間あまりとなった。この項は、まったく個人的な雑感・所感であることをお断りしておきます。
今年度の前半、日本にいたときに、Nさんという僕より10歳ほど若い友人の突然の死を知った。Nさんは京都、私は東京に住んでいたので、実際に会うのは年に数回であったが、バロック・オペラの愛好者、研究者という縁で、不定期にメールのやりとりをしていた。彼女のメールは非常に機知に富んでいて、毎回どこかで爆笑させられるのだった。だからNさんからのメールは楽しみだった。また、拙ブログに対する感想を述べてくれる極めて数少ない読者の一人でもあった。演奏会評などについても、そこが知りたかったので助かったとか、私が聴いた時はこうこうでした、といった情報交換や、さりげなく、僕の知らないことを教えてくれることもたびたびあった。精力的にヨーロッパのオペラ上演を見て回っておられたので、まさかの訃報であった。
8月にイタリアに来て、もうコロナも下火になってきたな、と思っていたところにオミクロンという新型が押し寄せてきた。周知のように、イタリアだけでなく、世界中に押し寄せたわけで、イタリア政府は3回目のワクチン接種を積極的に推進し、私もイタリアで3回目の接種を受けた。ワクチンに関しては、今回のワクチンがまったく新たなタイプのワクチンであることもあり、中長期的な懸念を表明している人もいることは承知している。言われてみれば、このタイプのワクチンを接種して20年、30年経過した人はいないわけで、将来どんな影響がたとえば免疫システムに対してあるか、ないかはデータがないのだから、わからないとしか言えないであろう。
オミクロンが大流行の間は、EU諸国の間の移動でもさまざまな制限が加わった。そのため当初予定していたヴィーンとマルタへの旅は断念した。海外で一人暮らしをしていて、コロナにかかったらどう対処すればよいのか、というのは一抹の不安があったが、ワクチンで重症化の可能性は低いと考え、食料や水の備蓄をするにとどめた。
3月に入って、研究会や委員会的な組織の活動でご一緒していたKさんが、昨年の11月に亡くなっていたことを知った。その訃報の情報から計算すると自分と2つしか歳が違わない。コロナになってから対面でお目にかかることがなくなり最後にいつ会ったのかは記憶にないのだが、病気がちという認識はまったくなかった(それを見せない人だったということなのかもしれないが)。
2月の末からはウクライナで戦争が始まり、3月13日時点で終わる気配はまったくない。昨日はフィレンツェのサンタ・クローチェ広場で平和を願う集会があり、2万人が集まったそうだが。
コロナ以来、当たり前だと思っていたこと、慣れ親しんでいたことには、見えなかった前提があり、その前提が崩れることによって、当たり前の風景が消えてしまうことを何度か経験した。
人間がこの世に存在していることも、思えばそういう面もある。長寿化とか、人生100年とか言われ、長寿の人が増えているのもたしかだ。しかしその一方で、50代、60代で亡くなる方もいる。人がこの世に生きていることは、生まれた以上当たり前のようでいて、必ずしも当たり前ではないのだ。明日は今日の続きのような気がしているが、そうとは限らない。死を忘れるな(メメント・モーリ)、という古くからの言葉が今年はいっそう身近に感じられる。
最近のコメント