2025年5月 5日 (月)

映画『ファミリア』

フランチェスコ・コスタービレ監督の映画『ファミリア』を観た(有楽町朝日ホール)。

これもイタリア映画祭での上演である。DVの話である。

フランコという父親と母リチアにはアレッサンドロとルイジという子供がいる。この子供が小学生の時から物語は始まる。母の訴えで警察が介入するが、暴力をふるう父からだけでなく、被害者の母からも子どもたちは数年引き離されて施設にいれられてしまう。ここはなんとも不条理。青年になったルイジ(ジジ)は、極右の団体に入っている。左翼団体との乱闘で相手をナイフで刺し刑務所へ。その後、再び父親が彼らのもとへ帰ってくる。最初は心を入れかえたかに見えるが再びDVが始まる。リチアが職場を変えてもかぎつけてやってくる。そして職場の男性と浮気をしていると決めつけ暴力をふるうのである。ジジは重大な決意をする。

この間にジジの恋愛も描かれる。

ほとんどユーモアのかけらもないのだが、極右団体にいることを知った父とジジの会話で、父がぼそっとお前のばあちゃんはパルティザン(ファシストに対する抵抗運動参加者)だったんだぞ、つぶやくのは運命の皮肉でおかしかった。

上映後、監督への質問で、なぜ子供と母親は引き離されたのかという質問に対し、監督は、当時(この映画は実話にもとづいているが1998年から2008年の話なのだという)は、親子が避難する施設がなく、母親に経済的自立がない場合、子供が施設に入れられてしまったのだとのことだった。現在は親子で避難できる施設があるとのこと。

ちなみに、母親役の俳優バルバラ・ロンキは、CS放送ミステリーチャネルの『マテーラの検察官インマ・タタランニ』で主人公の同僚として出演しているが、まったくキャラクターが異なる。俳優というものは、キャラクターをがらっと変えることができる見事な一例である。

 

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2025年5月 4日 (日)

映画『狂おしいマインド』

パオロ・ジェノヴェーゼ監督の映画『狂おしいマインド』を観た(有楽町朝日ホール)。

イタリア映画祭の季節である。僕個人は、ここ数年は、しばらく後の有料配信で観ていたが、久しぶりに朝日ホールへと足を運んだ。建物は同じなのであるが、数年の間に変わったこととして、プログラムが薄くなって安くなった。全作品の紹介があって千円は安いと思うが、映画の専門家の批評・論考はなくなってしまったのが少し残念なことだ。以前はいくつかの映画の主演俳優や監督へのインタビューが掲載されていた。

まあ、もっともこれはないものねだりの贅沢な話で、このイタリア映画祭が25年継続していることを言祝ぎたいし、関係者に深く感謝したい。何度かこの映画祭が打ち切りあるいは休止になるのではという噂も聞いたからだ。今年も11本の新作と1本の日本未公開作品がもたらされた。監督も数人来ており、僕はパオロ・ジェノヴェーゼ監督とフランチェスコ・コスタービレ監督の舞台挨拶および上映後のQ&Aを聴いた。

さて、『狂おしいマインド』はバツ1の高校教師(男)とララという女性のはじめてのデートの物語。男の側にも女の側にも脳内人物が4人ずついて、デートの場面ごとに、ここはこうすべきだ、いやいや、こうした方がいいと議論をはじめる。つまり内面の葛藤を4人の脳内人物によって描くわけだが、画面上では4人の男性俳優と4人の女性俳優にが一つの部屋でソファーにすわったり立って歩いたりしながら議論をしているのである。ララはフェミニズムの作家の影響が濃く彼女の台詞にもそれが出てくるが、男はカルヴィーノを引用してかわす、など洒落た趣向をこらしているし、よく見ると女性(家具の修復をしている)のアパートの美術品も神経が行き届いているようだ。

コミカルで楽しい映画である。ジェノヴェーゼの映画は脚本がこっていて、いくつもの糸が張り巡らされそれが途中ではこんがらがるのだが最後はきれいにおさまる。時間とともに展開していくストーリーと同時に、全体を一つの作品としてみた時に幾何学的な美しさを持っているのである。それはもしかすると、この世の人は一人一人はそれぞれの人生を歩んでいるが、全体としては無意識のうちにある秩序を形成しているという人生観、世界観を有しているからなのかもしれないと思った。コミカルな内容であれ、シリアスな内容であれ、構造としてはこの幾何学的な美しさをもった脚本というのは共通しているからだ。

監督と聴衆とのQ&Aではコメディの方が難しいし、どこで観客が本当に笑ってくれるかは、劇場に足を運ばないと自分でもわからないのだと言っていたのが印象的だった。

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2024年7月24日 (水)

ジェノヴェーゼ監督『人生の最初の日』

パオロ・ジェノヴェーゼ監督の映画『人生の最初の日』を観た(イタリア映画祭、オンライン)。

ジェノヴェーゼ監督の映画は、本人も加わった台本が凝っている場合が多い。これまでの凝り方は、いくつものストーリ・ラインが徐々に折り重なっていって、すべての伏線が回収されるといったようなパターンが印象的だった。今回は、むしろ状況設定自体が意表をつくものだ。

たまたま同じ日に、自殺をしようとした4人が、ある男によって集められ、その男がその4人を一週間ホテルに閉じこめ、行動のすべてをコントロールするという。彼・彼女ら(子どもも一人いる)は、自分の死んだ場面やその後のまわりの人の反応を見せに行かされる。そこで死に対する考えが変わるものもいれば、再び死のうとするものもいる。

一週間が経過した時、4人はどうなるのか。寓意的であるが、意外に暗いばかりではなく、どん底を見たからの希望も存在する映画である。

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2024年7月20日 (土)

リッカルド・ミラーニ監督『別の世界』

リッカルド・ミラーニ監督の映画『別の世界』を観た(イタリア映画祭2024,オンライン)。

ローマ郊外の学校で30年以上暮らした教師ミケーレ(アントニオ・アルバネーゼ)が、自ら転出希望を出してアブルッツォの小さな村(住民300人あまり)にやってくる。冬は雪に埋もれ、狼の鳴き声も聞こえる。小学校は複式学級なわけだが、廃校の話が持ち上がっていることを知る。同僚のアニェーゼ(ヴィルジニア・ラッファエーレ)と廃校阻止に奔走する。

ローマからやってきて観念的に自然を賛美していたミケーレが、過疎の集落の現実を知る過程と、いかにして廃校を免れるか(ウクライナ難民の受け入れや障害児の受け入れ)が絡みあっている。

Benvenuti a Sud という映画と共通しているところもあるが、二時間足らずに巧みに上記の問題をコミカルに語る映画である。

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2024年7月12日 (金)

映画『信頼』

ダニエーレ・ルケッティ監督の映画『信頼』を観た(イタリア映画祭オンライン)。

原題は Confidenza で信頼という意味でもあり、内緒話、打ち明け話という意味でもある。英語でも守秘性の高いものを confidential などというのと同根である。

高校教師のピエトロ(エリオ・ジェルマーノ)は、愛情をもった教育という方針をもち、生徒に慕われている。数学が得意で大学進学後ドロップアウトしてしまったテレーザ(フェデリーカ・ロゼッリーニ)に考え直すように説得するうち二人は恋におちる。その中で、二人はこれまで誰にも語ったことのない秘密を打ち明けようと言い、そうする(打ち明け話の内容は観客にはわからない)。翌日、テレーザは家を出て行き、消息不明となる。ピエトロは同僚のナディアと付き合いはじめ結婚する数日前にテレーザは帰ってくる。その後、テレーザはアメリカに渡りMITで名をなす。ピエトロは役所での仕事もするようになりそれなりのキャリアを築いていく。ジャーナリストになった娘が奔走して父に勲章がもらえるようにしようとする。その時に教え子で出世頭のテレーザがアメリカから招待される。ピエトロは、自分が打ち明けた秘密をテレーザが暴露することを気に病んでいる。

この間に、ピエトロもナディアも第三者との不倫模様があったりするのだが、ともあれ、ピエトロとテレーザの間の秘密の打ち明け話はなんであったのかは気になる仕組みだ。しかしそれは最後まで具体的には明かされない。寓意的にも取れるし、一人一人の解釈に委ねられているとも言えよう。

テレーザを演じたフェデリーカ・ロゼッリーニははじめて観た俳優(女優)であったが、表情がとても個性的で、強く印象に残った。最後に近いところで、ピエトロに向かってテレーザはあなたは表面的だと何度もいうのだが、耳の痛い台詞であった。

 

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短編映画『カンツォーネ』

アリーチェ・ロルヴァケル監督の短編映画『カンツォーネ』を観た(イタリア映画祭、オンライン)。

ルーチェ創設90周年を記念して、アーカイブの資料を用いての創作依頼とのことで、昔のサイエンス映画やインタビューから歌とは何か、かつて人々はもっと歌っていたとか、聞くよりも歌うことが多かったなどの言葉が白黒映像とともに出てくる。

歌というものについて、考える面白い素材である。

 

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短編映画『ゾンビ』

イタリア映画祭(オンライン)では2本の短編映画が無料で観られる。

ジョルジョ・ディリッティの『ゾンビ』はその1本。

マルコ・ベロッキオらによって設立されたファーレ・チネマ財団におけるジョルジョ・ディリッティ監督の脚本・監督コースの最後に、受講生たちとのワークショップで制作された短編。

妻と娘がいるのだが、父は仕事が忙しいといってなかなか家に戻ってこない。母はいらついている。

ハロウィーンの日で、母は娘にゾンビの衣装を買ってやり、町に出て家を訪ねお菓子をもらいに行くのだが。。。。

どこからどこまでがディリッティのアイデアでどこが受講生のアイデアかは判らないが、10分の短編で一つの物語、ドラマが成り立っている。

 

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映画『あなたのために生まれてきた』

イタリア映画祭のオンライン上映でファビオ・モッロ監督の『あなたのために生まれてきた』を観た。

イタリア映画は、実話をもとにして、脚色し、ユーモラスなタッチを加えて社会問題をドラマ化して見せるのが上手い。

障害者施設を舞台にした『やればできる』もそうだったし、女性建築家がコンペで勝つために男性になりすました(選考委員の勘違いをたださなかった)『これが私の人生設計』もそうだ。撮り方によっては重苦しい映画になりかねないものを、ユーモアや恋愛ドラマの要素をまぶすことで、主題となる社会問題に積極的関心をいだいていなかった人をもそこに連れていく。気づきを与える。

この映画では、ゲイのカップルが出てきて、主人公はそのうちの一人で、もともとは神学校に通っていたのだった。養子をとろうとするなかでカップルは別れてしまう。主人公は一人となっても、一時的な里親も含め、機会を得られないかと格闘する。里親でも養子でも、男女の夫婦が優先され、なかなか彼には委ねられない。そこへダウン症の赤ん坊がでてきて、この子は何十組もの里親候補が断ってしまう。そこからチャンスがめぐってくる。彼の考えに共鳴した女性弁護士の助力もある。役所側の人間も、彼らなりの理にかなった論理を持っている。行き詰まって解決策がなさそうに見えるところから、どうほぐれていくのかが見せ所の映画だ。

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2024年5月 6日 (月)

ベロッキオ『エドガルド・モルターラ』

マルコ・ベロッキオ監督の映画『エドガルド・モルターラ』を観た(有楽町・ヒューマントラストシネマ有楽町)。

すぐそばの会場で、イタリア映画祭が開催中であるのだが、事情により、そちらは後日オンラインで視聴することにした。ベロッキオのものは、テーマに興味があるのだが、いつまで上映されるかが不確かなので急いで観ることにした。

中身のぎっしり詰まった、しかしながら、映画的醍醐味にあふれた映画である。テーマとして、強制された改宗というものがある。この映画は史実をもとにしており、それを描いた本をもとにスピルバーグが映画化を構想したが何らかの事情で放棄、ベロッキオがスザンナ・ニッキャレッリとともに台本を書き映画化したのである。

ストーリーは、1858年ボローニャのユダヤ人地区で7歳をむかえるエドガルド・モルターラという少年が、警察により連れ去られる。両親・家族は驚愕するが、枢機卿の命令(その背後に教皇がいる)だと言う。ボローニャは当時、教皇国家の一部であり、当時もまだ異端審問官(inquisitore)がいたのは驚きだった。プログラムに北村暁夫氏が書いているようにこの時期、イタリアの国家統一にむけて様々な動きがあり、教皇ピオ9世は、教皇になったときには、改革派としてイタリア統一の中心にかつがれる可能性もあったのだが、1848年の革命を境に保守反動化する。教皇国家の存在がおびやかされてもいるからだ。教皇国家の存在が、歴史的にみて、イタリア国家統一の最大の障害であったのは周知の事実である。かたくなになった教皇は、リソルジメントを進めるピエモンテの連中を破門するし、エドガルド・モルターラが幼少時にお手伝いの女性が、いつくかの勘違いが重なって緊急の洗礼を授けてしまったことを根拠に、家族から引き離し、それがヨーロッパ各国およびアメリカでスキャンダルとして扱われても、エドガルドを家族のもとへ帰そうとはしないのだ。

ピオ9世は、イタリア国家統一がなると教皇国家の領土を失い、1871年にはローマをも失い、ヴァティカンに閉じこもり、自らをヴァティカンの囚人と称する。ローマが解放されたわけだが、エドガルドは内面を完全にカトリック化してしまい、故郷には戻らず、ユダヤ教徒にも戻らない(この部分までが映画で描かれる)。彼は、カトリックの聖職者の道を歩み続けたのである(映画の最後の字幕)。エドガルドの母の臨終の場面では、彼は家族が見ていないすきをねらって母に改宗を迫るが、母は拒絶する。そこまで彼の内面は、カトリック化されてしまっていたのである。

彼の内面を育んだ(洗脳した)神学校の生活・学習も描きこまれていて、カテキズムの質疑応答が出てくるが、エドガルドが非常に優秀な生徒で、その完成度の極めて高い神学大系を彼は自分のものとしてしまうわけである。

裁判の場面でもそうだが、全体としてはカトリック教会が告発されている文脈ではあるものの、異端審問官や、裁判の時の教会側の主張、論理も丁寧にすくいとられている。教会側がどういうロジックで動いているのかが可視化されるのである。

映画としてでなければ描けないと思われる場面が2つある。1つはキリスト磔刑が等身大(かそれ以上)で描かれた木彫。もう1つはピオ9世の遺骸がヴァティカンからローマ市内の教会に運ばれる際の事件である。何が起こるかは、ここには書かないことにしよう。

 

 

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2023年7月28日 (金)

映画《キアラ》

スザンナ・ニッキャレッリ監督の映画《キアラ》を観た(イタリア映画祭、オンライン上映)。

キアラというのは、アッシジのサン・フランチェスコと共に活動したサンタ・キアーラのことである。気負いなく、中世のイタリアの信仰が淡々と描かれていく。印象的なのは、キアラが当時の教皇庁の男女差別的な傾向に反発を感じるシーンだ。この映画にはキアラ・フルゴーニが深く関わっていて、映画自体が彼女に捧げられている。彼女の著書『アッシジのフランチェスコ』やその他の著作が日本語になっているのでおなじみの方も少なくないだろう。音楽も12,13世紀の音楽が用いられていて、ゼッフィレッリの『ブラザーサン、シスタームーン』とは様々な意味で対照的である。《キアラ》は、過剰なロマンティシズムを排しているところに好感が持てる。過剰なロマンティシズムを排しても、ドラマはあるし、男女の心の通いあいはある、のは言うまでもない。ヴァティカンの高位聖職者(後に教皇)をルイージ・ロ・カーショが演じている。

 

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