2016年5月 6日 (金)

《私と彼女》

マリア・ソーレ・トニャッツィ監督の《私と彼女》を観た(イタリア映画祭2016).
フェデリーカ(マルゲリータ・ブイ)とマリーナ(サブリーナ・フェリッリ)は5年来、生活をともにしている。2人のキャラクターは微妙に違う。フェデリーカはかつて結婚していて、子供もおり、元夫や子供との行き来がある。マリーナは女性しか恋愛対象にならない。フェデリーカは、ふと、昔の知り合い(男性)にあって付き合ってしまい、それがマリーナにばれ、一騒動。
結局、フェデリーカは、男性と別れ、マリーナのもとに帰っていく。フェデリーカにとって、相手が男性か女性かというより、好きになった人がたまたま男性、女性という感じに近いのかもしれない。
監督によれば、イタリアで最初に作られた女性カップルの映画なのだという。これまで同性愛がとりあげられる場合、男性カップルか、複数のカップルのなかに女性カップルも含まれているという形だったのだという。
元夫とのつきあいも含め、開かれた家族という問題と、同性カップルの問題が、告発調ではなく、トーンとしては通常のドラマとして描かれていく。
監督によれば、同性カップルの法案が話題になっている時に封切られたので、監督の意図ではなく、この法案をどう考えるかに関し、一般の人々の話題になったとのこと。

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《失われた美》

ピエトロ・マルチェッロ監督の《失われた美》を観た(イタリア映画祭2016).
とても変わったロードムービーである。というのも自動車ではなく、水牛がプルチネッラに連れられて旅をする話なのだ。しかも子牛であった水牛はだんだんと成長して大きくなっていく。
しかし枠組みとしては、カゼルタという土地の問題が提示される。カゼルタはカモッラが支配する土地で、王宮があるのだが、王宮やその周辺に産業廃棄物が捨てられたりしていたのだ。王宮をきれいにしようとするトンマーゾがまず水牛の飼い主で、彼が死んでしまったのちプルチネッラに引き継がれる。
ややぎくしゃくとした語り口なので、最初は何がどうなっているのかわかりづらいのだが、やがて水牛はプルチネッラと口がきけるのだということが分かる仕組み。プルチネッラが仮面をはずすとコミュニケーションは不可能になってしまう。
カゼルタの抱える現在の問題と、おとぎ話的な設定が併存し、なまりの強い言語で語られる。
個人的にはとてもおもしろい映画だった。

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《地中海》

ジョナス・カルピニャーノ監督の《地中海》を観た(イタリア映画祭2016).
 
ブルキナファソの青年2人が、リビアをへて、地中海を渡り、イタリア南部にやってくる。よくある話だが、期待に反して、イタリアでの労働条件は劣悪で、農作業をし、住まいはバラックである。
隣町で起こったアフリカ人の反乱が飛び火し、緊張は極限に達する。最後に主人公が雇い主の開くパーティに向かうところで終わるのだが、それが何を意味するのかは受け手に開かれている。

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《素晴らしきボッカッチョ》

パオロ&ヴィットリオ・タヴィアーニ監督の《素晴らしきボッカッチョ》を観た。
ボッカッチョのデカメロンから5つの話を取っているが、それだけでなく、そもそも100話が語られる背景、すなわち、フィレンツェでペストが猖獗をきわめ、そこから逃れてきた男女が退屈しのぎに話を語るという枠組みも映し出される。
きれいな映画である。音楽がヴェルディとロッシーニというのも不思議な感じであるが、慣れてしまえば、なんとかなる。
リッカルド・スカマルチョは、美男子ではあるが、このキャストの中では声、口調がずれていると感じた。

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《俺たちとジュリア》

エドアルド・レオ監督の《俺たちとジュリア》を観た(イタリア映画祭2016)。
人生で何らかの失敗をした3人が偶然同じ家を買おうということになり、その田舎の古い家を改造してホテルにしようという話になる。
そこへ、カモッラがやってくるのだが、彼らは、このカモッラを地下室に監禁し、証拠隠滅のためにその男が乗ってきた古いクルマ(アルファロメオのジュリア)を地中に埋めてしまう。ところが、この車のカーステレオは、車のスイッチと関係なく突如として鳴り始め、鳴り止む。
コメディである。大いに楽しめた。

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《処女の誓い》

ラウラ・ビスプリ監督の《処女の誓い》を観た(イタリア映画祭2016)。
アルバニアの山村には、女性が生涯処女であることを誓って男として生きる制度があった(ある?)らしい。
だから主人公(アルバ・ロルヴァケル)にはハナという女性名とマルクという男性名がある。彼女・彼が、養父母の死後、イタリアに出てくる。イタリアで、次第に女性としての自分に目覚める過程が丹念に描かれている。
こんな制度があった(ある?)とは全く知らなかったが、この映画は単に移民の映画でない複雑な味わいを持っていた。

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《待つ女たち》

ピエロ・メッシーナ監督の《待つ女たち》を観た(イタリア映画祭2016、有楽町朝日ホール).
監督の処女作であるらしい。また、ピランデッロが原作ではあるのだが、設定はなかなか微妙だと感じた。シチリアの旧家に、フランス人の恋人(女性)がやってくる。しかしその家の息子は直前に事故死する。
母親はなぜか息子の死を息子の恋人に告げない。それが1日や2日ならともかく、最後の最後まで続くし、しかも息子の携帯電話を通じて、恋人の必死の訴えを聞いているのである。この状況だと、この母親の性格が邪悪に思えてしまうが、全体のトーンとしてはそういうことは意図していないらしい。
突然の大きな悲しみで、感情表現がブロックされてしまうというのは、理解できるのだが、ストーリー全体としては違和感があった。

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《オレはどこへ行く?》

ジェンナーロ・ヌンツィアンテ監督の《オレはどこへ行く?》を観た。痛快爆笑コメディである。
主人公のケッコ(ケッコ・ザローネ)がアフリカの部族に捕らえられ、その部族長にこれまでの半生を語るというのが枠組みになっている。
ケッコは幼い時から公務員にあこがれ、実際に公務員になり、その特権?であるゆっくり出勤、許認可を求める人からの贈り物などをたっぷり享受する様子が軽妙な会話とともに描き出される。
そこへ公務員削減の改革がやってくるが、彼は転勤を命じられても、命じられても、めげずに職にしがみつく。ノルウェーにとばされて、ノルウェーはイタリアと違ってなんと文明的な国なんだ!とケッコが目覚める?場面は、アイロニーに満ちている。
笑いつつ、イタリアが相対化され、第一共和制とはなんであったのかを考えさせられる映画である。

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2016年4月30日 (土)

《あなたたちのために》

ジュゼッペ・ガウディーノ監督の《あなたたちのために》を観た。
ナポリが舞台で、ストーリーは3人の子供(そのうち1人は聾唖者)を育て、夫が暴力をふるうという困難だらけの女性が、テレビ局で正規の職をへて、自信を回復していくというものだが、俳優から言い寄られ、事態は思わぬ方向に展開する。
普段の生活は白黒で、夢や回想シーンがどぎついカラーだったり、主人公の生活を皮肉たっぷりに歌う歌が挿入されたり、寓話的要素も濃厚。また、ナポリの海に突然黒雲(いかにもセットの雲)が登場するのが、バロック・オペラの舞台装置を想起させる。実際、音楽にもヘンデルのオペラからの曲がアレンジして使われていた。女主人公は聖女と重なったりもする。マジカルなリアリズムの不思議な味わいをもった映画。

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《フランチェスコと呼んで》

イタリア映画祭2016が4月29日から始まった(有楽町朝日ホール)。
《フランチェスコと呼んで》を観た。現在のフランチェスコ教皇のアルゼンチン時代が描かれている。彼が司祭になってからのアルゼンチンの政治は軍事独裁の時代と重なる。
主人公ベルゴリオ(ホルヘ・ベルゴリオが教皇になる前の名前、本名である)は、軍事政権に睨まれて国外に逃れようとする人を助けたりもするが、最もむずかしい決断は、解放の神学を信奉し貧しい人々の中に入って活動した神父たちの扱いだった。軍事政権側は、そういった神父はマルクス主義にかぶれた危険思想の持ち主と考えているし、教会の上層部は軍部の考えを黙認、追認している。ベルゴリオは末端の神父と上層部の意向の板ばさみになる。この辺は、解釈がデリケートなところだ。
軍事政権からの解放後、ベルゴリオは高位聖職者の地位をなげうって僻村で歩み始める。そこからまた抜擢され、ブエノスアイレスでスラムの人々に共感をよせていく。
ルケッティ監督はプロパガンダ映画は撮りたくないといい、実際、味わい深いものになっている。ルケッティは、信者ではないが、フランチェスコ教皇の人柄に心うたれていると述べている。監督によると、より長いヴァージョンがあって、来年テレビ放映される(イタリアで)そうだ。そちらも見てみたいものだ。

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