2022年6月 5日 (日)

映画《スーパーヒーローズ》

パオロ・ジェノヴェーゼ監督の映画《スーパーヒーローズ》を観た(イタリア映画祭2022,オンライン上映)。

物理教師マルコ(アレッサンドロ・ボルギ)と漫画家アンナ(ジャスミン・トリンカ)の恋愛物語。時間軸を行ったり来たりするうちに、この二人の間にどんな事件が起こったのかが次第にわかっていく。

詳細は避けるが、二人とも病気にかかる。若い二人が、それぞれ病を得てそれが人生の転換点となるストーリーというところに、コロナ時代の間接的反映があるかもしれない。

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映画《アメリカ・ラティーナ》

ディンノチェンツォ兄弟が監督した映画《アメリカ・ラティーナ》を観た(イタリア映画祭2002,オンライン上映)。

なんというか、不思議なホラー映画であった。ホラーといっても、人が次々に殺されたりはしない。都市郊外に妻と娘2人と暮らす歯科医(エリオ・ジェルマーノ)が主人公。ある日、地下室に行くと少女がロープで縛られ血まみれになっているのを発見する。すぐに警察に通報すると思いきや、彼はロープを取ってやるもののどこにも連絡はしない。翌日になるとまた少女はロープで縛られているので、この少女は幻影なのかと疑いたくなる。あるいは、歯科医のブルジョワ生活の中で、彼の無意識を表象するアレゴリー的存在なのかとも思う。

しかし、最後に思いがけないどんでん返しがある。

 

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2022年6月 3日 (金)

映画《内なる檻》

レオナルド・ディ・コスタンツォ監督の映画《内なる檻》を観た(イタリア映画祭2022,オンライン上映)。

閉鎖が決まった刑務所が舞台。移送先の都合で受刑者12人が一時的に残されるのだが、刑務官の方も人手が足りない。食事もそれまでは刑務所の厨房で作っていたものがケータリングに変わり、受刑者たちはハンガーストライキを始める。暴動が起こるのは避けたい刑務官たちと受刑者たちの間の緊張感。刑務所という閉ざされた空間の中での室内劇的な様相が強い。立場が権力者と受刑者という強者と弱者のはずなのだが、刑務官たちも人数が足りず、受刑者の管理を楽にこなせているわけではないし、受刑者は人種も様々、経歴も様々、認知症的な振る舞いをするものがいても、それが演技なのか、本当にそうなのか、判断に苦労する。特殊なサスペンスものとも言えるが、空間と人数が限定されているので、案外一人一人の個性が描きこまれている。音楽もライヒの手拍子だけの音楽があると思えば、民族音楽もあり、効果的。刑務官の一人がトニ・セルヴィッロ、受刑者の一人がシルヴィオ・オルランドでオルランドは受刑者の知的ボスを演じている。

 

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2022年6月 2日 (木)

映画《そして私たちは愚か者のように見過ごしてきた》

ピエルフランチェスコ・ディリベルト監督の映画《そして私たちは愚か者のように見過ごしてきた》を観た(イタリア映画祭2022,オンライン上映)。

ある企業の管理職アルトゥーロは自らが導入したアルゴリズムによって職を失う。結局彼は、飲食宅配代行のフーバーに就職して、やはりアルゴリズムに支配されながらピザやパスタを出前する。そこへフーバー・フレンズという関連会社が扱うホログラムの女性がやってくる。一週間は無料のお試し期間なのだが、最初はとまどいを感じつつも、ホログラムの女性に心が傾き、彼女こそ自分を一番理解してくれる人と感じる。さて、この女性の実態はという展開になっていく。

ユーモラスであると同時に、グローバルIT企業の怖さがぞわぞわと感じられる映画でもある。

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映画《笑いの王》

マリオ・マルトーネ監督の映画《笑いの王》を観た(イタリア映画祭2022,オンライン上映)。

19世紀から20世紀にかけてナポリのコメディを代表する劇作家で役者だったエドゥアルド・スカルペッタ。彼の一座が彼を中心にまわり、一方で私生活では妻の他に妻の妹や姪とも関係をもって子をなしている。不思議な大家族なのである。スカルペッタを演じるのはトニ・セルヴィッロ。あるとき、スカルペッタは、ダンヌンツィオの戯曲『イオリオの娘』を観て、そのパロディーを作り上演しようと考える。ダンヌンツィオに挨拶に行き、口頭での許可は得るのだが、実際の上演は妨害にあい、盗作と訴えられて裁判となる。その時に弁護してくれたのが、ベネデット・クローチェなのである。最後まで観ていると、この大家族、スカルペッタの姪の子供(父親はスカルペッタ)がエドゥアルド・デ・フィリッポであることが明かされる。19世紀から20世紀にかけての劇団の内部事情として観ても面白いし、ダンヌンツィオやクローチェといった文化人の描き方も実に興味深い。いろんな確度から楽しめる映画である。

マルトーネ監督はイタリア映画祭ではおなじみの監督だが、近年はオペラの演出もしているのでそちらで馴染みの方もいるかもしれない。

 

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映画『ある日、ローマの別れ』

エドアルド・レオ監督・主演の映画『ある日、ローマの別れ』を観た(イタリア映画祭2022.オンライン上映)。

エドアルド・レオは『いつだってやめられる』のシリーズで日本にも知られた監督・俳優だ。この映画では作家トンマーゾを演じている。スペイン人の恋人ゾエと長年同棲している。トンマーゾは匿名(ガルシア・マルケスを名乗っている)で人生相談に応じているがある日、長年同棲している相手と別れるかどうするか迷っている、という相談を受ける。相談してきた相手はまさにゾエなのである。正体はあかさず、二人の間でメッセージのやりとりが始まる。トンマーゾの側がずるいという感じは否めないのだが。。。男は屈折した思いを重ねていく。

 

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2022年5月30日 (月)

映画『小さなからだ』

ラウラ・サマーニ監督の映画『小さなからだ』を観た(イタリア映画祭2022、オンライン上映)。

この作品は、ある女性が死産の赤ん坊の遺体とともに旅をするロードムービーであるとともに、2021年のダンテ没後700年へのオマージュの映画でもあると思う。

ダンテへのオマージュであると考える理由を述べる。冒頭近くで、女性は、司祭に赤ん坊に名をつけてくれというが拒絶される。赤ん坊はまったく息をしていなかったから、というのがその理由だ。そういった赤ん坊はリンボー(辺獄)に行くとされている。ダンテの『神曲』では、あの世は大きくは天国、煉獄、地獄に分かれているのだが、地獄の第一層としてダンテは辺獄を描いている。死んだら会えるかと問う女性に、司祭は夢の中でならと応える。女性はなんとか死んだ子に洗礼をさずけ名前をつけたいと考え、それが可能になる(一瞬、死んだ子が息をする)教会があるというところまで旅をする。その旅は波乱にみち、彼女は人身売買の対象となったり、途中で山賊に襲われたりする。

ある渓谷の湖の向こう岸にその特別な教会はある。

そこまで女性は羊飼いのような少年(?)と旅をする。この少年は彼女をだましもするのだが、途中からは旅の友となる。後半で彼のアイデンティティーがより明らかになるのだが、それには触れないでおこう。

100年近く前のフリウリ地方の習俗が興味深いと同時に、リンボーに行くはずの遺児をなんとか救いたいという信念も印象的な映画であった。

 

 

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2022年5月22日 (日)

《マルクスは待ってくれる》

マルコ・ベロッキオの映画《マルクスは待ってくれる》を観た(イタリア映画祭2022)。

今年のイタリア映画祭は、実際の映画館と ストリーミングで実施され、僕が観たのはストリーミングによるもの。

この映画はドキュメンタリー映画で、ベロッキオの兄弟、姉妹(80代かと思われる)が出てきて、インタビューに応じている。ベロッキオの生まれ育った家庭、兄弟、姉妹の関係が解き明かされるのだが、マルコの兄弟、姉妹はきわめて個性的なのだ。

兄の一人は優秀でインテリの世界の有名人を家に招いたりする人だった。マルコも映画界で名をなしていく。しかし、一方で、兄の一人は、始終、罵詈雑言をわめきちらす奇異な言動の持ち主で、マルコは家族は彼が死ぬのを待ち望んでいたと証言している。姉の一人は聾唖者であるのか、発話が聞き取りにくい(日本語字幕が出るので、映画の内容を理解するのにはまったく問題はない)。しかし何より彼らが抱え続けた最大の問題は、マルコの双子の弟カミッロが29歳で自殺したことだ。

この映画はそれがなぜだったのか、をめぐる物語だ。優秀な兄がいて、自分が凡庸であることをどうやって受け入れるのか、受け入れられないのか。カミッロの苦しみは、兄弟、姉妹によって見逃されてしまったのは何故か。

マルコもふくめ1960年代後半は、左翼が熱い季節だったわけだが、人民を救うことに夢中になるあまり家族の苦しみに気づかなかった兄弟たち。カミッロは「マルクスは待ってくれる」と反論したという。

これまでのベロッキオ作品を解き明かすヒントに満ちている映画で、ベロッキオ作品をこれまで見てきた人にはおすすめである。またイタリアの兄弟・姉妹、家族(母の性格も際立っている。彼女はとても信心深いのだ)、ベロッキオ世代(彼は1939年生まれ)の家族の貴重な証言でもある。

 

 

 

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2021年5月30日 (日)

映画『略奪者たち』

映画『略奪者たち』(イタリア映画祭2021,ピエトロ・カステリット監督)をオンラインで観た。ピエトロ・カステリットは、俳優セルジョ・科ステリットの息子。彼の監督第一作とのこと。

ブルジョワ一家と庶民的でファシストの一家との思いがけない出会いがあるのだが、事態はある事件から意外な展開を示す。

ブルジョワのパーティで見られる世代間対立は大きい。イタリア映画では庶民や犯罪者の迫力もさることながら、ブルジョワやインテリを演じる人の層も厚いことを感じる。無論、ブルジョワやインテリもまったく理想化されることはなく、時に思いっきり戯画化されて描かれている。

まったく社会階層や職業が異なる二家族だが、家族で集まり、おばあさんの誕生日をお祝いしたり、お見舞いしたりという点は共通している点もある。そこが興味深いのだった。

 

 

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2021年5月29日 (土)

映画『私は隠れてしまいたかった』

イタリア映画祭2021『私は隠れてしまいたかった』(ジョルジョ・ディリッティ監督)をオンラインで観た。

アントニオ・リガブエという画家の一生を描いたもので、リガブエの画風は、晩年のゴッホの原色をつかった激しいタッチが似ていなくもない。その生涯も、ゴッホ的、山下清的な要素があって、社会的になかなか適合しがたいのだが、傑出した才能を持っていてやがてその才能が花開く、というのがあらまし。

映画の展開の仕方としては、最初にファシズム期(壁にムッソリーニの写真がかかっている)の医院で医者がリガブエを問診する形で、過去が回想されるのだが、それが次々に時間が飛んでいき、さらには、その問診よりも先に時間が進んでしまうので、枠構造とも言えない。観客が頭の中で時間を再構成する必要がある。

場所と言語の関係が興味深い映画で、最初はスイスで生まれ、いろいろ厳しい事情があって養子に出されるが、その後、イタリアに送還される。言語的には最初、なまりのきついドイツ語らしきものが出てきて(スイスのドイツ語なのだろうか?)、次にはなまりのきついイタリア語が出てくる。イタリア語の場合は、登場人物によって、かなり標準語に近い人となまりのきつい人がいる。イタリア語圏に限った話ではないが、標準語と方言の関係にはその中間もあるし、また同じところに住んでいてどれくらい標準語を話すかは、階層や教育歴との相関もある。

リガブエが思春期の時に、女の子に興味を持つと、母親が病気をうつされて死ぬかもしれないと言う。それを信じ続けるのだが、絵が売れるようになって車の運転手が雇えるようになると、彼から女性ほど良いものはないと言われ、目覚める。知り合いの宿屋?のふくよかな女性に憧れの気持ちをもつのだが、そこの女店主はリガブエが画家ということでまったくけんもほろろ、でリガブエの思慕の成就を妨害する。絵画の才能およびその稼ぐ力への評価の軸が、階層や個人によりまったく異なる点が、苦い味わいをもって描かれるが、それがまたリガブエの想像力、妄想力をかきたてているようでもあった。

言語のコントラストも興味深いが、都市部と農村部、双方の住人のコントラストも描き込まれている。イタリアの田舎の美しさを知らぬわけではなかったが、あらためて唖然とするばかりの光景がいくつもあった。

 

 

 

 

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