《ポー川のひかり》
知人から試写会の券をいただき、幸運にもオルミの映画を観ることができた(8月1日から神保町の岩波ホールでロードショー)。この映画、昨年のイタリア映画祭で上映されたのだが、昨年は、個人的な事情でイタリア映画祭に行くことができなかったのである。
この映画は、フィクションものの映画としてはオルミ最後の映画であると監督自らが語っている。ドキュメンタリー映画はこれからも撮るのだそうだ。
本編のストーリーはきわめて寓意的である。ボローニャ大学の宗教関係の古書が、大量に、太い釘を打ち付けられ、磔になったように床にばらまかれている事件からフィルムは始まる。
若い宗教学の教授が失踪し、ポー川のほとりの廃屋に住み始める。地域の村人たちと、ゆっくりと心を通わせ始めるが...という話である。
宗教がテーマであることは、ストレートに表現されている。主人公の世捨て人となった教授は、村人からイエスさんと呼ばれているし、また、村人は、不思議な夢を見たりすると、彼のところへ来て、聖書のエピソードを語ってくれと頼んだりもするのである。
現代人であった教授が、都会の生活を捨て、ポー川流域の村人たちの間に入っていき、自然の中で生活する。監督が問いたいのは、何であるか、きわめて明示的なのである。
それは言語の面でも現れている。主人公のラズ・デガンはいかにも現代のキリストにふさわしい容貌をしているが、イスラエル生まれであり、音声は吹き替えである。吹き替えであることより重要なのは、彼の話す言語は、まったくの標準語であるということだ。一方、村人の話す言葉は、方言そのもので、字幕なしでは、僕にはほとんど理解できない。
オルミには、標準語がしゃべれない、あるいはしゃべらない純朴な村人の宗教心こそが、魂からの宗教心だという思いがあるのだろう。書物が磔のような扱いをうけるのは、その象徴的行為だ。
若き教授と、あの被害にあった古い書物をあつめていた老教授の最後の対話は、きわめて印象的である。
イタリアにあって、歴史的に何度も繰り返されるてきたことだが、教会の組織、教義を重視する考え方と、魂からの信仰を重視する立場があって、教会の精神性が弱体化すると、後者の動きが教会組織を活性化してきたという面がある(アッシジの聖フランチェスコなど)。
この若き教授は、そういった革新者を思わせる人物なのだ。
現代人の心の安住できる場所、あるいは居場所、在り方はどんなものなのか、という問いに対するオープンエンドな解答が、ここにはポー川に反射する様々な時刻の光とともに描き出されている。
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