2009年6月11日 (木)

《ウリッセの帰還》

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モンテヴェルディ作曲オペラ《ウリッセの帰還》を観た(6月7日、北とぴあ、さくらホール)。

作曲は、モンテヴェルディだが、指揮の高関健(敬称略、以下同様)によると、主旋律と通奏低音の簡略譜しか残っておらず、アーノンクール等の演奏では、それを補ってオーケストレーションをして演奏しているとのこと。今回は、現代作曲家のハンス・ヴェルナー・ヘンツェが編曲した特殊な版での演奏だった。

ヘンツェ版は、古楽器やモンテヴェルディの時代の楽器ということにこだわらず、きわめて多様多種の楽器を用いている。エレキギターや、アコーディオンもあったと思う。さらに、オーケストラが大編成のため、オケピットに入りきらず、マリンバなどは両脇のミキシングルーム(?)からの演奏であった。

ヘンツェ版は、今回聴いたところでは、第二幕が自由にのびのびと書けているように思った。さらに、オーケストレーションとして、ヴァイオリンを用いず、低い音重視である(今回は、指揮者の考えでヴァイオリン一挺を用いている)。最近の古楽アンサンブルなどで聴く薄めで軽やかな音ではなく、厚めで重厚な音なのである。

そのことが声の聞こえ方に影響があったと思う。女性の声はしっかり聞こえるのだが、バスやバリトンの声は、オケとかぶると響きにくかったのである。

演出は、髙岸未朝。《ウリッセの帰還》は、ホメロスの『オデュッセイア』の後半、オデュッセウス(イタリア語ではウリッセとなる)が故郷イタカ、すなわち妻ペネロペーの元に帰るという話なのだが、古代ギリシアなので、神々も次々に登場する。帰る途中で、ウリッセは海神ネプチューン(伊語ネットゥーノ)の息子を殺したため、海神の怒りをかっている。最終的にはジュピター(伊語ジョーヴェ)がとりなすことになるのだが、その他にも女神ミネルヴァ(佐藤奈加子が好演)やジョーヴェの妻ジュノーネが出てくる。

その他に、ウリッセの妻ペネロペ—や彼女の求婚者が複数、アンティノオ(金子宏)、ピザンドロ(飯田康弘)、アンフィノモ(高梨栄次郎)、エウリマコ(藤牧正充)、ぺネロペの侍女(中野亮子)もいる。求婚者は複数いるが、十把一絡げではなく、一人一人のキャラクターが描き分けられていて非常によかった。服装も別で、声種も異なっており、モンテヴェルディと髙岸の演出のおかげで、一人一人の性格、表情が伝わる。侍女メラントも、ペネロペに再婚をすすめつつ、実はエウリマコと良い仲になっているのをコケティッシュに演じていた。

さらにその他に、面白いことに、バロック前期ならではで、アレゴリカルな存在というか登場人物がいる。冒頭に出てくるのは、「人間のはかなさ」(彌勒忠史)、「時」(古澤利人)、「運命」(芝沼美湖)、「愛」(松原典子)が出てくる。抽象的な概念がアレゴリーとして出てきて、台詞を言うこと自体、ロマン派以降のオペラに見慣れている者にとっては、新鮮な体験だ。ここでは、たとえば「運命」は、背中に「運命の輪」を背負っており、それが誰であるのかを見てすぐわかる工夫があった。

これだけ登場人物が多いと、観客の頭の中で、誰が誰だかわからないということになりがちだが、今回の舞台はまったくそういうことがなかった。だから、その分、ストーリーや音楽に集中できるのである。

高関の指揮は、ヘンツェの低音重視を尊重してか、少しテンポがゆったりめ。その分、細部の響きがよく聞き取れる。

ウリッセの小林昭裕は、声量が豊か、主役を堂々と演じていて良かったが、これで柔らかな表情づけが加わればなお一層観客の心を魅了しただろう。妻ペネロペの金子美香は、演技が実に見事。立ち居振る舞いに品位があり、美徳をそなえた妻という役どころにふさわしい演技、歌唱であった。

他には、息子テレーマコ(岡田尚之)、ウリッセの羊飼いエウメーテ(森田有生)が力演。エウメーテは演技の表情と声の表情が調和しており、演奏者の力量を感じる。そのことは、ウリッセの乳母エリクレアを演じた小倉牧子にもあてはまる。渋い役どころながら、舞台がしまるのである。派手な演技というのではなく、表情と歌唱がちょうど過不足なく演じられるところに観ていて安心感があり、こちらも納得するのだ。

そうそう、コミック・レリーフ的な役回しとして、求婚者たちの従者イーロ(渡邉公威)を忘れてはなるまい。愉快なキャラクターなのだが、最後は、求婚者たちが成敗されたあとで、もう空腹に耐えられないといって自害してしまう顛末まで、ブッファな味を歌・演技ともにうまく出していた。

演出でもあり衣装にも関わるが、善意と悪意という6人(神谷真士、植木達也、遠藤隆史、久保昌明、安田祥章、柳田将太)は、演劇的に実に見事な効果を上げていた。彼らは、半分が白、残り半分が黒の衣装を身にまとっている。そのため、方向をそろえれば、まっくろで、それが半回転すると白い姿が見える。向きによっては、白黒半分ずつが見えている。時には、人工のおっぱいを見せて、エロティックな場面であることを記号的に示す役割も果たす。実に多様な役割を、しかも効果的に果たしていた。集団として動くのだが、彼らの動き、踊りは、時にはユーモラス、時にはグロテスク、時にはエレガントで、芝居を観る楽しみを味あわせてくれた。

今回の舞台でもう一つ感心したのは、照明であった。紗幕とスポットなどを組み合わせ、全体を見せたり、一人または複数の登場人物を注目させたり。はっとさせられるのだが、決してあざといというほどやり過ぎではなく、心地よかった。

また、衣装についても様々な工夫が見て取れた。何より、安っぽくなくてよかった。来日公演のように入場料が高額でも最近はいかにも安っぽい衣装のこともある。今回の衣装、豪華ではなかったが、それなりに古代の英雄や神々に見たてることが出来た。繰り返しになるが、衣装も登場人物が混乱しないように、それぞれのキャラクターに応じて考えられていた。たとえば、海神はあたまが水色になっていた。

このオペラ、演劇として見応えがある。音楽も、版によっての変化を楽しめる。

ヘンツェ版の《ウリッセの帰還》は日本初演であるという。二期会ニューウェーブ・オペラ劇場ということだが、これからも、こういった意欲的なプログラムを期待したい。

(追記:テレーマコの出演者の名前が誤っており、訂正しました。失礼しました。また、登場人物「善意と悪意」や照明、衣装についてのコメントを加筆しました)。

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2009年5月18日 (月)

佐野成宏テノール・リサイタル

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テノール歌手佐野成宏(以下、敬称略)のリサイタルを聴いた(4月24日、紀尾井ホール)。

演目は3部からなり、第1部はアンダルシアの情熱と題され、スペイン歌曲およびオペラ『カルメン』から。

第2部はイタリアの春と題され、トスティやティリンデッリ、レオンカヴァッロの歌曲。知名度の高くない歌曲にも聴き応えのある曲はある。佐野は、丁寧な歌唱でじっくりと聞かせてくれた。

第3部は、オペラ『トスカ』セレクションと台紙、バリトンの原田勇雅が加わり、ピアノ伴奏(佐藤正浩)で、服装はリサイタルの時のままだが、多少の身振りを交えて演じつつ歌った。佐野は、ここではオペラという演目の性質の違いを考えてか、声量をあげてカヴァラドッシを歌い上げた。歌曲を聞いた後では、曲自体の表情の豊かさに驚く。

佐野の歌は、発声も表情づけもとても上品である。アンコールでナポリ民謡を歌う時でさえ、ある一線をくずすことなく、きちんとした曲の姿を保ち、演歌的にはならない。オペラや歌曲を歌うときにも、過剰な感情表現、あるいは声に泣きが入ることはまずないのである。

こういった姿勢が彼の歌曲を聴き応えあるものにしていると思う。

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2009年4月10日 (金)

《マリア・カラスの真実》

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映画《マリア・カラスの真実》を観た(渋谷・ユーロスペース。上映時間は、4月18日以降変更となるので注意が必要です)。

ドキュメンタリー映画である。使用されている画像はほとんどが既出のものであるが、編集の仕方が異なれば、編集した監督のカラス観が出てくる。

カラスがヴェローナの企業家メネギ−ニに見いだされて、一流の歌手となり、そこから演出家・映画監督のヴィスコンティと出会ってディーヴァに変身する様は、すでに知っていてもその変貌ぶりはやはり驚く。エルザ・マックスウェルと知り合って社交界の面々と知り合っていくこと、海運王オナシスとの出会い、誘惑、結婚を望みながら結局は裏切りにあうことなどがつづられていく。

この監督は、カラスがメネギ−ニからオナシスに移ったのは、女としての歓びをオナシスが与えてくれたからだという解釈をとっている。カラスがオナシスの子を8ヶ月で帝王切開し死産したことも書類つきで出てくる(噂としては、聞いたことがあったが、病院の診断書は見たことがなかった)。

オナシスに裏切られたあとは、舞台出演も減り、落魄していくわけだが、サーカスにも出ていたことは今回初めて知った。

カラス自身の芸術観は、トークショーでのヴィスコンティとの対話およびメトロポリタン歌劇場の支配人ビングとの対立に如実に現れている。ヴィスコンティは、カラスを完全主義者であるとし、だから練習も人一倍やって、それに付き合うのが嫌な人はカラスを嫌うのだという。

ビングとの対立点は、これまで何度もやった演目ばかりをやらされることをカラスが拒絶したこと、また、演目ごとの練習が短すぎることなどであった。こうした不満もカラスが完全主義者であることの現れと解釈すれば納得がいく。

映画のナレーションは、カラスが時代の要請に応えられなかった、時代から取り残されたとしていたが、僕自身の感想としては、そういう方向に変わってしまったためにオペラはかつての魅力を失ってしまったのだとの思いを強くした。

テレビとも映画とも異なった魅力を舞台が放ちつづけるためには、お手軽なプログラム、スターだけを配して練習はほとんどしないでは、アンサンブルの妙味は発揮できないし、歌手もその役になりきって
オーラを発揮することはむずかしいだろう。

晩年のカラスは孤独である。カラスは芸術家としては文句なく超一流であったが、幸福な家庭生活には幼い時からめぐまれない人であった。実母との葛藤はすさまじいものがある。そのせいか、自分を幸せにしてくれる男性を見抜く目だけはなかったように思える。

死後のエピソードも、だめ押しのように悲惨なものだった。

映画中に使用されているカラスの歌はうまく選択されていたし、音響の処理も適切であり、カラスの音楽、声を十分味わうことが出来た。

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2009年3月11日 (水)

《イル・トロヴァトーレ》

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ヴェルディのオペラ《イル・トロヴァトーレ》を観た(メトロポリタン・オペラ)。

実演で観ると、ヴェルディのオペラの異様ともいえるエネルギーを感じる。

そもそもこのオペラ、ストーリーが奇妙といえば奇妙である。ジプシーの息子として育てられている吟遊詩人のマンリーコが、実はルーナ伯爵の弟なのだが、本人はそれを知らない。

彼を育てたジプシー、アズチェーナは母親が伯爵家によって火あぶりにされたため仕返しに赤ん坊だったマンリーコをさらってきたのだが、殺そうと思って間違って自分の子を火あぶりにしてしまったという暗い過去を持っている。

ここまでが舞台が始まる前の状況で、舞台が開くと、マンリーコとルーナ伯爵は、一人の女性(レオノーラ)に恋をしている。マンリーコとレオノーラが相思相愛で、ルーナは横恋慕という形の三角関係である。

ヴェルディと台本作家カンマラーノが設定した舞台は15世紀のスペインで内戦状態である。このオペラの初演が1853年のローマ・アポッロ劇場であったことを考えると、リソルジメントと重ね合わせて観客は時代劇に同時代のイタリアの政治状況を読み込んだことだろう。

今回のマクヴィカーの演出では、時代をナポレオンの軍隊とスペインが戦う時代(1808-14)に移行している。そして、リソルジメントというよりは、内戦を精神の分裂の比喩としてとらえ、それが登場人物それぞれに反映している、というコンセプトになっている。

配役はマンリーコがマルセロ・アルヴァレス。伸びやかな声、歌い回しも上手く、素晴らしい歌いぶりだった。有名なアリア「見よ、おそろしい火を」でも、見事な歌唱を聞かせてくれた。

指揮のジャナンドレア・ノセダは、きびきびとしたテンポで、だれることなく、作品の推進力を表現していて大いに好感を持った。しかも、盛り上がるところでは、スコアの細部の緊張感を醸し出すことも巧みである。強いて難を言えば、盛り上げるときに、オーケストラの音量が大きすぎて、歌手が声を張り上げるときに、張り上げた度合いが打ち消し合ってしまううらみがあったことだ。先に述べたマンリーコの「見よ、おそろしい火を」でも最後の高音 all'armi のところまで緊張感を盛り上げ、テンポを高める手際は文句なく素晴らしかったのであるが、音量にもう一段の配慮があれば、アルヴァレスの声がより生きたであろう。

レオノーラはソンドラ・ラドヴァノフスキ(アメリカのイリノイ出身)で、声量が大きい。舞台をところ狭しと走り回ったり、最終幕でマンリーコを助けるためルーナ伯爵に会いに行く際には、金網の柵をよじのぼったりで、どこまでが演出家のアイデアで、どこまでが歌手の自発性なのかは知らないが、随分と元気のよいレオノーラであった。ロマンティックな歌い回しを丁寧に、わかりやすく歌ったところが当日の観客には最もうけていた。

ホロストフスキーのルーナ伯爵は、どちらかと言えば、《トスカ》のスカルピアに近い、嫌らしいセクハラ、パワハラで権力をかさにきて、女性に迫るといった描き方であった。こういった演出は、それはそれで台本を読めば一理ある。一理あるどころか、それが正当な描き方とも思える。他方、ヴェルディのバリトンは、《椿姫》の父ジェルモンでもそうなのだが、役柄上、悪役のアリアにも高貴なところがある。その高貴な面を全面に打ち出していたのが1960年代のバスティアニーニのルーナ伯爵であった。こちらは、音楽により忠実な描き方とも言えよう。

ホロストフスキーの現在の声を思えば、今回の演出の方が向いていると思う。彼も、声が盛りをすぎ、やや歌い回しが重く、口跡がはっきりしない部分があった。しかし、現代はヴェルディ・バリトンは、人材に事欠かないとは言い難い状況なので、これは現代を代表するルーナ伯爵なのであろうと思う。

ジプシーのアズチェーナはザジックの予定であったが、病気のため交代。Mzia Nioradze で、グルジア出身。この人、なかなか表現力もあり、声も歌い回しもよかった。

最も重要な脇役のフェッランド(ルーナの部下で語り部の役回り)は韓国のKwangchul Youn。はじめて聞いたが、着実な歌い振りで、手堅く役をこなしていた。

ニューヨーク・タイムズによるとメトでは《イル・トロヴァトーレ》は二度ひどい演出が続き、「呪われたオペラ」となっていたとのこと。そういえば、1980年代末だったか、メトの日本公演で《イル・トロヴァトーレ》を見たが、数本の円柱が舞台からにょっきり生えてきたり、また地面に引っ込んだりするというもので、演出の意図も分からないし、説得力もあまり感じられないものだった。アプリレ・ミロがレオノーラだったと記憶している。

今回の演出は、オーソドックスなものの範疇に入るだろう。装置としては、シンプルになった灰色の城を回転させ、修道院になったりするというもの。

内戦と、登場人物の精神の病いを重ねたところが新機軸なのだろうが、実を言えば、プログラムを読むまで、そのことには気づかなかった。そもそも、ストーリー自体が奇妙なものであるため、多少変な振る舞いがあっても、そういうものかと思ってしまうのだ。

演出で不満だったところは、終盤、レオノーラが我が身と引き換えにマンリーコを救うことをルーナ伯爵に約束させたあとの二重唱、「お前は私のもの(tu mia)」のところである。

ここは、レオノーラは命までなげうつことによってマンリーコを救えた歓び、ルーナは恋い焦がれていたレオノーラを手に入れた歓び、二つの中身はまったく食い違う歓びを声を合わせて歌いあげる場面である。音楽は、独特のリズムに沸き立っている。この前後は、ヴェルディのオペラの中でも、傑作中の傑作であると考えるが、この場面でレオノーラが嬉しそうに歌っていなかった。リズムが弾んでいないのだった。しかも、彼女はルーナにすりよっていって、彼の服のぼたんを触り、はずすような仕草を見せるのである。

ここは、自己犠牲というものが、自発的に、歓びをもってなされる様が描かれており、だからこそ、観客はレオノーラの魂の高貴さに打たれるわけである。そこのところが、ぴんとこない演出、演技で、画竜点睛を欠くというか、大いに惜しまれた。

とはいえ、全体としては、指揮、歌手、オケともにレベルが高く、ヴェルディの最高傑作の一つが、こうして21世紀にもメトによって上演されるのはめでたいことと大いに満足した。

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2009年3月 7日 (土)

メト・ライヴ・ビューイング《ラ・ボエーム》

Metvert ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場のメト・ライヴ・ビューイングで《ラ・ボエーム》を観た。

メト・ライヴ・ビューイングは、すでにご存じの方も多いと思うが、メトロポリタン歌劇場の上演をハイヴィジョン、ハイファイで録画・録音し、世界各地の劇場で同時中継上映するものである。(ただし、日本は時差の関係で、同時ではないらしい)。

僕が観たのはさらに、2008年4月の上演のもので、わけあって劇場ではなくて、小さな液晶画面で、ヘッドフォンをつけての鑑賞であったことをお断りしておきます。

環境として決して理想的とは言えない状況であるが、芝居として中に入り込んでしまえば、案外、音質や画質は自分の脳みそイコライザーで調整して、こんな風に本当は響いているんだろう、大きさはこんな感じかなと想像することは可能だ。

ミミがゲオルギュ-、ロドルフォがヴァルガス、指揮がルイゾッティであった。

曲について言えば、プッチーニは、日常的な歌詞でだれでも理解できる台詞から、ふっと沈黙があって、その後にロマンティックな台詞(4月の最初の太陽は私のもの、とか、愛の素晴らしさを現実を越えたものとして歌いあげたり)へと飛躍させるのが上手い。いきなりハイテンションになるのでなく、観客のために、巧みに助走をつけてやっているのである。そのため、愛や自然(春の訪れ)に対して登場人物が表明するロマンティックな情念が、浮いておらず、観客はごく自然に感情移入したままで、地上のべたな世界から浮上できる仕組みになっている。

考えてみれば、普通の観客は、日常そのものを見せられるのは退屈であろうし、最初から最後までリアリティーがないもの(それを求める人がいないという意味ではない)にも付いていきにくいであろう。

そのへんの観客の生理をプッチーニは台本面でも、音楽面でも実に巧みに心得ており、自分の歌いあげたい愛の世界に、観客の心を連れて行くのである。歌詞と音楽の照応、そして少しの間があって、ロマンティックな世界への飛躍というのが、音楽的にはプッチーニのもつ一つのパターンであると気がついた。

演奏に関して言えば、ルイゾッティの指揮が遅めで、かつゲオルギューの顔の表情やしぐさがきわめて明快に説明的であった。

ライブ・ビューイングではアップの画像が多いので、テレビ感覚で言えば、やや大袈裟でくどい演技ということになるが、劇場であるということを考えれば、遠くで観ている客は、かなりくっきりとしためりはりをつけた演技でなければ判りにくいという事情があるだろう。

だから、僕の好みで言えばもう少しアップだけでなくて、舞台全体が見えるシーンが多いとよいのにという観想をもった。

幕間の舞台転換の様子をなまなましく見せてくれたり、児童合唱団、ゲオルギューとヴァルガスへのインタビュー(ルネ・フレミングによる)があったり、演出のゼッフィレッリに関しては、これまでにメトでどんなオペラを演出したかを簡単に紹介してくれるなど、実に短い時間で盛りだくさん、サービス満点という感じであった。

機会があれば、劇場、映画館で一度ライブビューイングを経験してみたいとも思った。

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2008年11月30日 (日)

《オテッロ》

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ロッシーニのオペラ・セリア《オテッロ》を観た(大津・びわ湖ホール)

びわ湖ホールは、その名の通り、まさに琵琶湖に面したホールで、大きなガラス枠を通じて、間近に湖を見渡すことができるし、さらに外に出て、絶景を愛でながらコーヒーなどを飲むことも出来る。

個人的には、はじめて訪れたホールであったが、ロケーションに勝るとも劣らずホールの響きが良い。3階で聴いたが、声もオーケストラも実によく聞こえる。

ロッシーニの《オテッロ》は、ヴェルディの《オテッロ》とは、ストーリーが異なる。ヴェルディのものは、周知のごとく、シェイクスピアの《オセロ》をもとにしている。

しかし、もともとシェイクスピアの芝居《オセロ》は、イタリアのチンツィオの『百物語』を原作としており、ロッシーニの《オテッロ》の台本もチンツィオを原作としているので、細部は異なるが、ヴェルディとロッシーニの《オテッロ》は、兄弟というか、従兄弟のような関係にあるといってよいだろう。

違う部分は、たとえばシェイクスピアでは、オセロの嫉妬をかきたてるのがハンカチなのに対し、ロッシーニでは宛先人不明の手紙となっている。

またデズデーモナは、ロッシーニは親の決めたいい名づけがいるのにオテッロと結婚したことで、父とオテッロの間で気持ちが引き裂かれる苦悩を表現する、そこにかなりの力点が置かれている。

しかし、ストーリーの差もさることながら、音楽の違いはさらに大きい。ロッシーニの音楽は、晴れ渡った空のように明るい。たとえば、大団円で、デズデーモナが死に、イアーゴの死が報告され、オテッロも死ぬのであるが、その音楽は歌詞を知らずに音楽だけを聴いたとすれば、悲劇的な終幕か、ハッピーエンドかは判らないほどである。

また、オテッロもイアーゴもロドリーゴもテノールであり、この曲はテノールの声の歌合戦、技較べ的なアリア、ニ重唱にみちている。曲によっては、二人のテノールが、同じメロディーを同じせりふで交互に歌う(「武器をとれ」)のだから、その力比べに観客もわくわくする。しかし、それは単なる歌手の力比べではなく、楽曲としてシンメトリーの美を構成しているのだ。

ロッシーニの曲はセリアであれ、コミカ(喜劇)であれ、終幕は一度聞いただけで誰でもロッシーニとわかる盛り上がりかたをする。僕は、競馬の最終コーナーを回っての追い込みを連想する。誤解をされるといけないので、付け加えれば、ロッシーニの音楽が低俗だと言いたいのではない。馬の疾走する姿は、間近でみると、実に迫力があり、美しい。それを見て、人も興奮するのである。ロッシーニは、人が興奮するときに心臓の鼓動が高鳴るさまを、音楽的に形式化した天才である。だから、その形式は、興奮する理由の如何にかかわらないのである。

言い換えれば、ロッシーニの音楽は、本格的なロマン派以前であるから、感情表現の仕方が、ロマン派以降の音楽とはまったく異なるのである。感情が一度、抽象化されている。だから、悲劇的内容であっても、青空のように晴朗(セレーノ)な音楽でありうるのだし、それでいて、聞き手は心の高鳴りをおぼえるのである。

この素晴らしさは、ロマン派の感情移入を引き起こし、一体化を要求する音楽とは質を異にする。逆に言えば、その点にロマン派の発明があったとも言えるわけだ。

しかし一度発見してしまうと、この爽やかな興奮は、実に快い。

当日の上演は、演出がジャンカルロ・デル・モナコ(偉大なテノール歌手を父に持つ)。舞台は、海と空が一面に描かれている。そこに動くドアが9つあるのだが、そのドアにも海と空が描きこまれている。まるでマグリットの絵がそのまま舞台になったかのようである。

しかし、このドアは時には寄り集まって弧をなして登場人物を取り囲んだり、またある時は登場人物がドアからドアへと移動したりして、その時々の状況、心理を雄弁に物語るのである。その物語りかたは、上述の音楽の抽象性、晴れやかさと照応した抽象度を持っているといってよいだろう。

コーラスは、両脇の壁の一部分がぬーっとせり出して、バルコニーのようになり、そこにのっているのである。

つまり演出は、自然主義的な方向ではなく、音楽の持つ抽象性に忠実であることによって、高い説得力を獲得していた。

歌手は、オテッロ(テノール)がグレゴリー・クンデ、デズデーモナ(ソプラノ)イアノ・タマール、イアーゴ(テノール)フェルディナント・フォン・ボトマー(テノール)、ロドリーゴ(テノール)ブルース・スレッジ、エルミーロ(バス)ミルコ・パラッツィなどで、若手が多いのは頼もしい。将来が楽しみである。

ロドリーゴの軽い声は、ロッシーニならではの楽しさを味あわせてくれたし、バスのミルコ・パラッツィも発音(口跡)も含めて上質の歌唱を聴かせてくれた。

グスタフ・クーンの指揮は、理屈は判るのだが、テンポが遅め。クレシェンドやアッチェレランドを幕の終わりまでとっておくというのも一つの手ではあるだろうが、それなら、そこまでのアリアや重唱はさらっともう少し早めのテンポにしてほしかった。

繰り返しになるが、ロッシーニのオペラ・セリアは、ロマン派的な感情移入で盛り上がるのではないが、音楽の構造自体が、人間の生理に訴えかけるように出来ており、生理的に胸が高鳴るように作られているのであり、それを反映したテンポであるべきだというのが僕の考えである。

全体としては、ロッシーニのオペラ・セリアの玲瓏な美しさを十分堪能することのできる素晴らしい上演であった。観終わって、実に爽快で、深い満足感を味わった。

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2008年11月28日 (金)

《マホメット2世》

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ロッシーニのオペラ《マホメット2世》を観た(大津・びわ湖ホール)。

ロッシーニに関しては、個人的には、これまでオペラ・セリアを実演では聴いたことがなかったのだが、実に豊穣な世界があると「発見」した。

《マホメット2世》には、様々なヴァージョンがあるらしく、DVD(フェニーチェ劇場、クラウディオ・シモーネ指揮)のものとは、音楽の細部が異なっていた。それどころか、ストーリの結末まで異なっており、大いに驚いた。

今回の上演の指揮は、アルベルト・ゼッダ。クラウディオ・シモーネが、アッチェレランドをあまりかけず、音量のクレッシェンドだけで盛り上げていくのに対し、ゼッダはより自然体であった。シモーネの楷書体に対するゼッダの行書体とでも言おうか。

ストーリーは、マホメット2世がヴェネツィアのギリシア植民地ネグロポンテを攻略しようとしているという状況。ネグロポンテの長官エリッソはマホメット2世と戦うことを決意する。しかしエリッソの娘アンナは、以前に正体を隠した(ウベルトと名乗った)マホメット2世と恋仲になっていた。

ストーリーが展開するにつれて、アンナは父、祖国とウベルト(実はマホメット2世)との間で、身を引き裂かれる思いにさいなまれる。

マホメット2世も、エリッソが恋するアンナの父としり、助命する。

ヴェネツィア版(シモーネ指揮のDVD)では、ヴェネツィアの勝利で終わる。しかし、今回の上演では、アンナは父のきめた婚約者カルボと結婚するが、それがマホメットに発覚した時点で、自害する。

それまで、ぼんやりとDVDを見ていただけだったので、衝撃の結末であった。しかし、こちらの方が劇としてのカタルシスがある。

ミヒャエル・ハンペの演出は、良い意味で説明的で、判りやすかった。イスラム側には、新月のマークがついていたり、ヴェネツィア軍が破れたことを示すのに、十字架を引き倒したりするのである。このオペラがきわめて上演が稀なことを考慮すればこの演出方針は、納得がいくし適切であったと思う。

歌手について言えば、マホメット2世(バス)のロレンツォ・レガッツォは、声質は良いのだが、この日は、調子が良くなかったようで、ここ一番で声量に欠けるところがあった。DVDでもレガッツォが歌っているが、そちらのほうが彼の真骨頂を伝えているのではないかと想像する。

父エリッソ(テノール)のフランチェスコ・メーリは、見事な出来であった。アンナ(ソプラノ)のマリーナ・レベカやカルボ(メゾ・ソプラノ)のアーダー・アレヴィにも不満はない。

ロッシーニは、オペラ・セリアも素晴らしいのだということを身をもって実感した上演であった。

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2008年8月24日 (日)

オペラの演出論争

Opera コッリエーレ・デッラ・セーラ紙上でオペラの演出をめぐる論争が起きている(8月23日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)。

ロリン・マゼールがザルツブルクでの演出が耐え難いと言ったのがきっかけで、フランコ・ゼッフィレッリが同意し、新奇な演出に対する攻撃対象として、グレアム・ヴィック、ボブ・ウィルソン、ロバート・カーソン、Claus Guth らが槍玉にあがった。

これに対しヴィックは、芸術の常なる変化を受け入れられないのはとても悲しいというコメントを出している。また、イタリアの問題は、政治であれ、音楽であれ、その他であれ、権力を握っているのが老人で、若い人がどんなに優れていても無視されていることだ、と痛烈に批判した。ゼッフィレッリは85歳である。

スカラ座の総支配人リスナーは、伝統的演出と新演出を分けるのは、間違った論じ方だとしている。つまり、一つ一つの演出はそれぞれ独自のものであるからだ。リスナーはヴィックやカーソン、ウィルソンらを擁護したうえで、その一方で、と断り、「1960年代、70年代、80年代にわたり最も意味深い演出をしたのは、ジャンピエール・ポネルだった。彼は伝統と詩を結びつけることができた。過去と未来、革新と保存は共存できるし、そうさせねばならない二つの魂だからだ」と付け加えている。

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2008年7月19日 (土)

ハイドン『フィレーモネとバウチ』その2

Teatrorozzi ハイドン作曲《フィレーモネとバウチ》の再演を観た(シエナ、ロッツィ劇場)。

イタリア語では、同じ曲を何回か上演した場合2回目以降の上演を replica という。

個人的には、同一の公演のオペラを2度観ることは原則的にない。(経済的な理由と、時間的な理由のためです)。同一公演で、2度観たのは、クラウディオ・アッバード指揮でロッシーニの《ランスへの旅》以来である。

二度目に気付いたこともあったので、記しておきたい。リブレットを見ると、この劇の登場人物はたくさんいるのである。神々がぞろぞろでてくる。ジョーヴェ、メルクリオ、ジュノーネ(ジョーヴェの妻)、アポッロ、ヴェネレ(ヴィーナス)、クーピド、ディアーナ、アッテオーネ、マルテ、ヴルカーノ、プルトーネ、ネットゥーノ、シレーネ、ミネルヴァ、バッコ(バッカス)などであるが、このうちジョーヴェ(ゼウス)とメルクリオ(マーキュリー)を除いては、序曲の間に人形が出てきて、通過していくのみで、台詞も歌もない。

人間の登場人物はフィレーモネ(老人)とバウチ(その妻)、アレーテ(二人の息子、雷に打たれて死んだ)とナルチッサ(アレーテの婚約者で、雷に打たれて死んだ)、村人、ジョーヴェの司祭たちだが、これも村人とジョーヴェの司祭たちは、最後の場面に出てくるが、人形としての姿のみで、台詞も歌もない。

ストーリーは昨日記した通りなのだが、フィレーモネとバウチという貧しい老夫婦のところに巡礼者に身をやつしたジョーヴェとメルクリオが訪れる。フィレーモネとバウチは、巡礼者が神とは知らぬまま、できるだけ二人を手厚くもてなす。

しかし、老夫婦には悲しい過去があることがわかり、巡礼者たちはそれを聞かせてくれといって、二人は語る。というわけで、フィレーモネとバウチのアリアはストーリーを語る性格の強いものである。自分の身、というか息子およびその許嫁が雷に打たれて死んだということを語るのである。類型的には、レチタティーヴォとアリアがあれば、レチタティーヴォでストーリーが展開し、アリアでその時の喜怒哀楽を歌いあげるというパターンであるが、この作品ではそうなっていない。

もっとも、アリア以外の部分は、レチタティーヴォではなくて、普通の台詞として語られる、つまりごく普通の人形劇のようになる。

もう一点、大変印象的だったのは、アレーテ(息子)のアリアである。老夫婦の美徳に感じ入ったジョーヴェがご褒美として、二人の息子と許嫁を生き返らせるのだが、若い二人は一言づつ「いとしい人」「君を抱かせておくれ」という言葉をかわしたあと、アレーテのアリアとなる。

アリアの内容は次のようなものだ。

この広大な大空(firmamento)には
小さな太陽が一つだけ輝いている
それはともかく素晴らしい天体だ。
エーテル(天空)の永遠の彼方には
無数の太陽(Miriadi di soli) が輝いている、
それは、ただ見るだけでなく、観想するため。

生き返った歓びや恋人に再会した歓びを単純に歌いあげるのでは、まったくないのだ。宇宙論、哲学を語るのである。これが生き返ったあとの最初のアリアなのである。

最初に観た時は、善良な徳にみちた老夫婦の善行が、神によって報われるという poetic justice (勧善懲悪)の物語と捉えたが、そしてそれは基本的な枠組みには違いないのだが、それと同時に、このアリアには18世紀啓蒙主義の哲学が反映していそうである。それが台本家 Gottlieb Konrad Pfeffel によるものなのか、作曲家Haydnによるものなのか、はたまた依頼主のNicolaus Esterhazy によるものなのかは、判断のしようがないが。

モーツァルトの《魔笛》がおとぎ話風でありながら、フリーメーソンの思想が背景にあることを思うと、このオペラも、さりげない形で、ある思想が埋め込まれているものと考える。それがより具体的にどういうものなのか、現時点では筆者には判らないのが残念である。

前回記したように、上記のことが判らないからと言って楽しめないということはまったくない。子供も大人も大いに楽しめるオペラである。それはフリーメーソンを知らなくても、《魔笛》が楽しめるのと同様である。

(訂正)
当初、フィレモーネと表記していましたが、友人Kさんの指摘をうけ、固有名詞辞典で確認し、フィレーモネと訂正しました。小学館の伊和中辞典にもアクセント付きで出ていました。お詫びして、訂正します。ギリシア神話だとピレモンとバウキスであるとのことです。

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2008年6月28日 (土)

ショスタコーヴィチ 『マクベス夫人』

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ショスタコーヴィッチの『ムツェンスク郡のマクベス夫人』を観た(フィレンツェ5月祭、テアトロ・コムナーレ)。

楽曲が素晴らしい。退屈するところがまるでない。不気味なところ、爽快にオーケストラが鳴りまくるところ、暗澹たる雰囲気を醸し出す部分と変化にも富んでいる。音色、リズムはダイナミックに変化し、20世紀の楽曲にしては珍しく、耳に残るメロディーも複数ある。

この曲で、ショスタコーヴィチは、オーケストラにおいても、歌手においても低音を大活躍させている。バス歌手の使い方は、たとえばムソルグスキーの『ボリス・ゴドノフ』を想起させるし、オーケストラが皮肉たっぷりに音楽を奏でるところは、プロコフィエフを思い起こさせる。

しかし、低音部、チェロであれ、コントラバスであれ、また管楽器の低音部(チューバなど)であれ、休む間なく響いているのである。この響き方が独特で、たとえば、高音部が三和音あるいはそれに準ずる耳あたりのよい響きを奏でているときに、低音部はそれと調和しない(古典的な意味で)音を奏でる。そのため、その場面は、平和なり幸せなように見えて、底知れぬ不安が通奏低音として流れていることになる。

こうした音楽の構成の仕方は、実は、このオペラのストーリーにぴったりなのである。ちなみに、マクベス夫人とあるが、ストーリーは直接的にはシェイクスピアの『マクベス』とは関係ない。のちに、女性主人公の状況がマクベス夫人と類似してくるだけである。

主人公の女性カテリーナは、裕福な商人ジノーヴィの妻であるが、結婚生活に満足していない。ある事情でしばらく夫が留守をするのだが、そこへ新たな労働者セルゲイやってくる。セルゲイはカテリーナを誘惑し、二人は深い仲となる。しかし、夫の留守中のカテリーナの貞節を最初から疑っていた舅ボリスが疑惑をかぎつける。二人はボリスを殺してしまう。ボリスはバスで、ジノーヴィはテノール。ボリスや僧侶、警察の幹部といった権力を握っているものはバスなのだ。その後、ジノーヴィが帰ってきて、なぜボリスが死んだのかと妻カテリーナにつめよるが、カテリーナとセルゲイはジノーヴィを殺してしまう。

カテリーナとセルゲイは結婚式を挙げることになるが、ふとしたことから殺人がばれ、二人は逮捕される。逮捕されるとセルゲイは別の女にいれあげ、カテリーナがそれを知り、その女ともども湖に身を投げる。

暗い話であるが、カテリーナとセルゲイの愛、エロスの物語は、音楽によって濃厚に彩られ、演出のしがいのあるところだ。それと、家庭内の権力(ボリス)、宗教権力(教区付き司祭)、国家権力(警察)がどう絡みあうかも見せ所。

今回の演出では、愛やエロスの場面は、控えめな演出であった。音楽の表現力にゆだねたのかもしれない。

演奏は、チューバ類が8人、舞台に向かって右側のバルコニー席に居並んでいる。また、間奏曲になると、オーケストラ・ボックスがせりあがってきて、音響を炸裂させ、また、しずしずと降りて姿を消すといったことが数回繰り返された。これは、普通のステレオ装置では、なかなか味わえない醍醐味で、劇場ならではの驚きであった。

そもそもショスタコーヴィチの使用音域がとても低いので、通常の30cm程度のウーハーでは出し切れない低音がどんどんと押し寄せてくるのである。ショスタコーヴィチの巧みな点は、高音部同士で不協和音にしないので、金切り音的なけたたましさ、オーケストラが悲鳴をあげているような耳に痛い音はほぼ皆無なのである。しかしそれでいて、底知れぬ不安、倦怠、迫りくる権力といった要素は非常に良く表されている。

20世紀のオペラでこれほど、演劇的に面白く、音楽的に充実しているオペラは、ベルクの『ボツェック』くらいではないだろうか。

指揮ジェームス・コンロン。ボリスはVladimir Vaneev. ジノーヴィ Vsevolod Grivnov. カテリーナ Jeanne-Michele Chanrbonnet  セルゲイ Sergej Kunaev  司祭 Julian Rodescu 警察署長 Vladimir Matorin

オーケストラの能力は、非常に高く、ショスタコーヴィチのスコアが活きた演奏であった。1994年と1998年にもフィレンツェ5月祭で上演していることもあって、すでに自分たちのレパートリーとして自在に弾きこなしているように見えた。

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