2021年9月20日 (月)

《カルロ・イル・カルヴォ》その3

ポルポラ作曲のオペラ《カルロ・イル・カルヴォ》について補っておきたいこと(バイロイト、辺境伯劇場)。

《カルロ・イル・カルヴォ》は昨年及び今年の上演で音楽的に極めて聞きごたえがあるものであることは、全てのオペラ・セリアに興味ある人の耳に明らかになったと思うが、ツェンチッチの演出は考えぬかれ、それがままあるように音楽とは無関係にリブレットの字面から思いついたという次元のものではなく、音楽と歌唱の表現と演出が抜き差しならぬ関係になっている部分がある。

 ツェンチッチの演出の場合、もっとも演劇的にやりがいのある役はアスプランドだろう。アスプランドは冒頭からロッターリオの意を受けて政治工作をするのだが、相当な策士で色仕掛けを次々にするジュディッタをも信用させてしまう。すっかりロッターリオの側の人間かというと、ロッターリオに自分からキスをしてこれまた彼を夢中にさせる。ロッターリオとアスプランドが睦あう様子を、ロッターリオの妻(モック)が見てしまう。これがツェンチッチ演出の1つのポイントで、大詰めに近いところで、妻がアスプランドを射殺する。ロッターリオは駆け寄り、アスプランドを抱きかかえ嘆く。そして改心するのだ。原作ではロッターリオは、息子アダルジーゾ(ファジョーリ)がカルロを助け、「無実の者は天が助けるのです」などと言うのを聞いて改心するのだが、それでは空々しいと演出家は考えたのだろう。今回の上演では、愛するアスプランドが死んでしまって現世のはかなさを思い知ったロッターリオが改心すると言う仕掛けになっている。原作の方がはるかに美徳の勝利という色合いが強いわけだ。

ツェンチッチは、そもそも時代を中世から1930年代のキューバに移し、多少のオリエンタリズムを匂わせながらも、より卑近な物語に仕立てていると言えよう。

そう言った枠組みの中でファジョーリ演じるアダルジーゾはどう描かれているか。アダルジーゾは、ここでカルロを殺してしまえば(見殺しにすれば)王位が自分に確実に回ってくるという場面が複数回あるのだが、いずれも何の迷いもなくカルロを助けて、こんなことで王位をもらっても恥ずかしいだけではないか、と父ロッターリオを説教する人物だ。ある意味では徳の高い人物だが、ある意味では全く権力闘争を理解しないナイーブな人物である。権力闘争に邁進する父との関係がうまくいくはずはなく、彼はある種の適応障害を起こした人物として描かれているし、だから一幕の退場アリアでも過呼吸に苦しんでいる。最初に見た時には、ファジョーリの演技がずいぶんぎごちない感じがしたのだが、よくよく見れば、人生や周りの人々の過剰にアグレッシブな生き方についていけない人物として造形されているから、ぎごちないのが当然の帰結なのだ。また、このオペラでは第三幕4場で奇跡のようにロマンティックな愛の二重唱がある。アダルジーゾとジルディッぺ、つまりファジョーリとレジネバの権力闘争からは隔絶された愛の二重唱である。ロマン主義を100年先取りしてこの甘美なドゥエットが成立したのにはいくつかの条件がある。第一はそれに相応しい音楽をポルポラが書くことができ、それを現代に蘇らせることのできる歌手と指揮者とオケがいたこと。第二は、台本に関わることで言えば、アダルジーゾが権力闘争に対してアレルギーを起こしている適応障害的人物であること。それに加えて第三には、アダルジーゾはこの場面の冒頭で囚われの身で、それをジルディッぺがやってきて解放するというストーリーなのだ。主要登場人物が囚われの身というのは、バロック・オペラには実によく出てくるシチュエーションだ。ヴィンチの《アルタセルセ》もそうである。外界から隔絶された状況だから、ふとその時代を超えた理屈がそこでは生きる。しかしそれは一瞬の夢のような空間・瞬間だ。他の者がなだれこんで来ると壊れてしまう。ある意味では特権的勘違いの空間・瞬間なのだが、ロマン主義が蔓延ると、この勘違いが世を覆い尽くしてしまうわけである。

 

 

 

 

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2021年9月14日 (火)

ポルポラ作曲《ポリフェーモ》その2

ポルポラ作曲《ポリフェーモ》を観た(バイロイト、辺境伯劇場)。

《ポリフェーモ》の上演2日目であるが、これが今年のフェスティヴァルの最終演目でもある。昨日のファジョーリのガラコンサートで帰ってしまった人、グループもいたが、この日の上演も大変質が高かった。ポルポラの音楽は、《カルロ・イル・カルヴォ》もそうであったが、主役以外にも聴き応えのある曲があって、それはちょっと聴くと地味なのである。繰り返し聞くと味わい深くなってくる。

 ポリフェーモに与えられたアリアなどはオケがトゥッティの連続で独特の響き、味わいを出している。一方、アーチの 'alto Giove' や続くアジリタの続くアリアを聴くと、ファリネッリはどんな風に歌ったのかと思わずにはいられない。

  

 

 

 

 

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フランコ・ファジョーリのリサイタル

フランコ・ファジョーリの《ヴィンチ・ガラ》と題するリサイタルを聴いた(バイロイト、辺境伯劇場)。

現在、視聴可能です。https://www.bayreuthbaroque.de/events/franco-fagioli-de/?fbclid=IwAR26Mh9K9SFT1gp83ep0F1iwoOTru_kOZhDpLCwgKOnQ1u4rB1wbJLPLh0k

ポルポラのライバルだったオペラ作曲家レオナルド・ヴィンチのアリアをファジョーリの歌、ペトルーの指揮アルモニア・アテネアの伴奏で聴く一夜だった。間にヴィンチのオペラのシンフォニアや、ヘンデルのコンチェルト・グロッソが挟まれていた。

ヴィンチのアリア集は、ファジョーリがポモドーロと一緒にCDを出しているが、それとは別の響きがする。一言で言えば、ポモドーロの伴奏のほうが流麗で歌ともピタッと合わせてくる。一方、ペトルーの場合は、音楽を立体的・構築的に築いてくるので、アクセントをつける瞬間にエネルギーが炸裂したり、そこに向かってエネルギーが蓄積していく様が見えるという醍醐味がある。

アリアの出だしのタイミングなどはポモドーロの方が見事に合う。これだけ違うタイプの演奏であることで、ヴィンチの音楽の可能性が拡大されて見えてくるとも言えるだろう。

曲目は最初が《セミラーミデ・リコノシュータ》のシンフォニア。次が《ジスモンド》のアリア'Quell'usignolo ch'e' innamorato'

《アルタセルセ》のアリア’Fra cento affanni e cento' ここでヘンデルのコンチェルト・グロッソop3 No1 HWV312. ヘンデルのコンチェルト・グロッソはオペラと比してやや間延びした演奏が多いのだが、ペトルーの演奏は退屈するところがまったくない。歌わせるところはたっぷり歌わせ、進むべきところは脇目も振らずに進む、といった感じか。

 次が《シロエ》のアリア’Gelido in ogni vena' これなどはポモドーロの伴奏とペトルーが相当に違っているので聞き比べると面白いだろう(コンサートの方は現在、配信されているので視聴が可能、上記のサイトをご覧ください)。前半最後が《セミラーミデ・リコノシュータ》のアリア’In braccio a mille furie'

後半は《Medo》のアリア'Sento due fiamme in petto'  《Gismondo》のアリア’Nave altera'

再びヘンデルのコンチェルト・グロッソ op.3 No2, HWV 313.  続いて《Catone in Utica》のアリア'Quell'amor che poco accende',

《Artaserse》のシンフォニア、ついで 'Vo solcando un mar crudele' この曲はやはりファジョーリのイコン的アリアだが、テンポは遅めなのだが歌うのは難しそうだ。この曲で締めたあとは、アンコールでヘンデルのアリアを二曲歌い、もう一度この 'Vo solcando' を短いバージョンで歌い演奏会を閉じた。

今更ではあるが、ファジョーリが特別なカウンターテナーであることを感じる。アリアの一曲、一曲の彫琢の確かさ、テンポもオケに引きずられたり、リタルダンドで遅くなりっぱなしなどということは決してない。いや、何よりヴィンチの曲の特徴でもあるがアジリタを聴かせつつ叙情性が高まっていく切迫感をこれほど聴かせる演奏はちょっと他には想像しにくい。だから装飾音をふくめて彼は一音一音の音色までコントロールしようとしているし、ほぼそれに成功しているのは驚異的なことだ。

 

 

 

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2021年9月11日 (土)

ポルポラ作曲《ポリフェーモ》その1

ポルポラ作曲のオペラ《ポリフェーモ》を観た(バイロイト、辺境伯劇場)。

今年のバイロイト・バロック・オペラ・フェスティヴァルの新作である。《カルロ・イル・カルヴォ》は去年が初演だった。

直前まで去年のヴィンチの《ジスモンド》のようにコンサート形式での上演なのか、それとも本格的に舞台も衣装もあるのか気になっていた。実際は、舞台にはいかにもバロック時代の劇場を思わせる遠近法を強調したセットが両脇から張り出しているが、その舞台にオーケストラが乗り、手前で歌手が歌うコンサート形式だった。考えてみれば、数日前には、《カルロ・イル・カルヴォ》であれだけ渾身の演技をしていたレジネバとツェンチッチが《ポリフェーモ》にも出演しているだけですごいことかもしれない。

こちらは演技や衣装がなく、当然モック役もいないので、登場人物はシンプルである。指揮はペトルーでオケがアルモニア・アテネア。

この話は、オウィディウスの変身物語とオデュッセイアからの話が合体している。王(あるいは暴君)のもとに二組のカップルがいる、というオペラの定番に合わせるためにリブレッティスタのパオロ・ロッリがそういう工夫をしたのである。だから、トロイ戦争からの帰還途中のウリッセ(オデュッセウス)が出てくる。

第一のカップル、アーチとガラテアは、初演当時大スターのファリネッリとクッツォーニが歌ったが当日は、カウンターテナーのユーリ・ミネンコとレジネバが演じた。第二のカップル、ウリッセとネレーアは、ツェンチッチと Sonja Runje (メゾソプラノ)。そしてタイトルロールが一つ目の怪物ポリフェーモで、パヴェル・クディノフが演じた。

その日の席はたまたま最前列であったのだが、ここで聴くと歌手の声の音圧がビンビン伝わる。音量が大きければ大きいほど良いという風に考えているわけではないが、事実として言えば、レジネバとクディノフの音圧はすごかった。以前、音量に従って針の振れるアンプを使っていた時に、ソプラノが声を張り上げるとオーケストラよりもピンと針が大きく振れることがあって、マイクが近いせいなのかなどと思っていたが、それもあるかもしれないが、実際、近距離で聴くとこの二人が声を張り上げると耳に刺さるような大音量である。はっきり音圧を感じるのだった。繰り返すが、バロック・オペラで歌手に求めるものは、様式感や様式感を崩さないなかでの叙情的表現であったりして、声が大きければ良いと言いたいわけではない。

話は、一つ目の怪物ポリフェーモ(クディノフ)が、ニンフのガラテア(レジネバ)に横恋慕するが、ガラテアは人間のアーチ(ミネンコ)が好きなのである。それが一組目のprimo uomo, prima donna の歌う役柄、そしてそこにウリッセとネレーアが加わるのだが、ポリフェーモは乱暴なやつで岩を投げてアーチを殺してしまう。ガラテアは嘆き、ジョーヴェ=ゼウスを責める。するとジョーヴェはアーチを川の神に変える。それを感謝するのが有名なアリア「アルト・ジョーヴェ」なのだ。文脈を知って聞くほうがずっと感動的である。一方、ウリッセは知恵者で、ポリフェーモにワインを飲ませ酔っ払わせ、そのスキに目をつぶしてしまう。こうして二組は怪物をやっつけ結ばれ、めでたしめでたしという話である。

通常の暴君プラス2組のカップルが、怪物プラス2組のカップルになっているわけである。カップルも人間ではなくて、ニンフだったりする。例によってポルポラのアリアの作風は様々で、ポリフェーモのアリアはいかにもバスにふさわしいメロディー、音型が出てくる。

役柄にふさわしいアリアが書き分けられているので、それらは実演を何度も聞き込むと、一層明らかになるだろう。今回の上演も配信されているし、CDも来年発売とのことである。

 

 

 

 

 

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2021年9月 9日 (木)

ヘンデル作曲《ユダス・マカベウス》

ヘンデル作曲のオラトリオ《ユダス・マカベウス》を聴いた(バイロイト、Stadkirche).

場所は、町の中心部にある立派な教会である。コンサート形式で、歌手は普通の服(コスチュームではない)。指揮は Bart Naessens. オケはB'Rock ,ベルギーのオケ。合唱がBachPlus こちらもベルギーの合唱団。ユダス(テノール)Benjamin Hulett. ユダスの弟シモン(バス)Pavel Kudinov. イスラエルの女性{ソプラノ)Lucy Crowe の予定が交代した。イスラエルの男性(アルト)はOlivia Vermeulen. 

アリアとレチタティーヴォがあるので、題材は聖書外伝のマカバイ記に基づくとは言え、オペラに近い構成なのだが、やはり教会で舞台なし、衣装なしでやると雰囲気は随分と変わるのだった。一つにはヘンデルの劇音楽でありながら、カストラートを前提としていないので、超絶技巧の曲がない。また、教会で演奏する場合、例によって長い残響があるので、歌詞はほとんど聴き取れない。

バイロイト・バロックのプログラムにはリブレットがドイツ語英語の対訳で掲載されており、かなりの人がプログラムを広げて歌詞を確かめながら聴いていた。僕もそうだ。客席の明かりは落としてないから歌詞を読むのに問題はない。しかし発音を聞き取るのは残響のために至難の業となっていた。あるフレーズが繰り返される場合は例外的にキャッチしやすいのだが。

この曲で思ったことは、これはどんな解説書にも書いてあることだが、この曲の作曲された契機についてである。ジャコバイトの乱、つまり名誉革命でイギリスを追われたジェームズ2世の孫ボーニー・プリンス・チャーリーがスコットランドに上陸して王位を奪還しようと試みたのだが、カンバーランド公爵がこれを打ち破ったことを記念して作曲されたのである。まったくプロパガンダ的あるいは愛国的な政治的な作品である。プロパガンダというと悪いイメージがわく人が多いかもしれないが、これはもともと宣教など思想や宗教を広める意である。プロパガンダにとりわけ悪いニュアンスがこびりついたのはナチスのプロパガンダ相のゲッベルスがあまりに狡猾、効果的、大衆扇動的にこれを用いてある意味で「成功」してしまったことによるところが大きいだろう。

また、戦意高揚や愛国心を駆り立てるための作品なんて、という考えが浮かぶ人も少なくないと思うが、芸術のための芸術という歴史的なパースペクティヴななかでは極端な考えが出てきたのは19世紀後半である。バロック時代には、作品は君主、皇帝、領主あるいはその奥方、あるいはその子供たちの出生、結婚などのために作るというのは、むしろ当然のことだった。聖書を題材にした絵画が、文盲の多かった時代にどれだけキリスト教の教えを広めるのに役立ったかは言うまでもないだろう。

さらに、なかなか複雑な心境にもなるが、プロパガンダのための作品だから作品が優れていないということもない。

ヘンデルの作品に話をもどそう。われわれの感覚からすると結構不思議なのは、この作品のリブレットだ。ヘンデルが自らトマス・モレルに依頼したという。その中身はというと、一言で言えば、ユダス・マカベウスは、異教徒から異教を崇拝するように強要されたが、それに対抗して敵を打ち破ったユダヤ人の英雄なのである。言わば宗教対立のなかの英雄なわけだが、これがどうしてハノーヴァー朝対ステュワート朝の対立のアレゴリーになるかというと、実は理屈は立つ。ハノーヴァー朝がドイツから迎えられたのは彼らがプロテスタントであったからだ。それに対しフランスやがてはイタリアに亡命したステュワート朝は亡命してからは一貫してカトリックである。どちらをユダヤ教に喩えるかは、どちらも理論的には可能なわけだが、ヘンデルの同時代にジョージ2世のもとで暮らす多くの人々にとってはプロテスタントであったわけだ。

18世紀にも宗教改革の余波は、とどろいていたのである。

 

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2021年9月 3日 (金)

ポルポラ作曲《カルロ・イル・カルヴォ》その2

さて、当日の公演について。

昨年の事情については、その1(前項)で書いた通りであるが、ここの主催団体は、親切なことに最初にフェイスブックで次にはYoutube で公演のヴィデオをストリーミングおよびビデオで公開してくれたのである。フェイスブックの段階ではオペラ以外の音楽会のほとんども公開された(期間限定で)。Youtube になって今も公開されているのは,このポルポラの Carlo il calvo である。ただし、これが去年の最大の目玉だったのだから、気前のよい措置であると思うし、ポルポラがオペラ・セリアの大作曲家だったという認識は、なかなか持ちにくかったのだが(もちろん、それまでにも優れたアリア集のCDなどはいくつもあったし、実は、全曲盤のCDもあった)このYoutube は僕にとっては決定的なものであったし、多くのオペラ・ファンにとってもそうではないだろうか。

歌手にツェンチッチやファジョーリ、レジネバといった世界の最高峰を揃え、その他の歌手も粒ぞろいである。こんな質の高い歌手陣でオペラを聴くという経験はそうそうあるものではない。指揮のジョルジュ・ペトルとオケも文句なく素晴らしい。

さて、その去年の公演と今年の公演は何が違っていたか。一番大きな違いは、一幕の退場アリアで二回、二幕、三幕でも退場アリアで一回ずつ幕を閉めてしまい、そこで間奏曲のような短い器楽曲が演奏されたことだ。おそらくポルポラ作曲のものである。去年は演奏されていなかったものだ。ここからは推測にすぎないが、もしかしたら、去年は上演を実現するために、上演時間の短縮をはかってやむを得ずカットしたものなのかもしれない(確信はまったくない)。(追記)その後、上演に深く関わるラング氏とツェンチッチ氏から直接うかがうことが出来たのだが、去年もこのシンフォニアなどは上演されたが、テレビ収録の段階でカットされたとのことであった。テレビ側は3時間という制限を言ってきて、それよりは長くなったが、多少は妥協して器楽曲がカットされたのだ(追記終わり)今年の場合、5時半開場、6時開演で終演は11時だった。全3幕で、二回休憩。ざっと30分ずつも休憩だったと思うので、4時間が上演時間、1時間休憩である。

このオペラのあらすじは、去年書いたのだが、また後に記すことにしよう。簡単に人間関係を言うと、序曲の間に王が死ぬ。王には二度目の妻ジュディッタ(Suzanne Jerosme) がおり、自分の息子カルロを王につけたくて仕方がない。王の先妻の子がロッターリオ(ツェンチッチ)。ロタリオは中年で息子も成人しているのだが、カルロはまだ子供であり舞台には出てくるが歌わない(モック、厳密に言えば泣き声は発する)。ジュディッタはカルロを王にするためには手段を選ばず、いろいろな有力者に色仕掛けをする。ロッターリオはロッターリオで、父王が全領土をカルロに譲ると決めた約束を反故にして自分および息子が王になろうと画策する。そのロッターリオとジュディッタの政治闘争がテーマとしては大きい。しかし二人の作戦の相違があって、ジュディッタは、先王の約束を順調に実行させるために、自分の娘ジルディッペ(先王の子ではなくて前夫との子、レジネバ)とロッタリオの息子アダルジーゾ(フランコ・ファジョーリ)を結婚させようとする。策略とは独立して、二人は実際に深い恋に落ちてしまう。そのため、親同士、つまりジュディッタとロッターリオの関係が武力闘争となると、ジュディッタは娘にアダルジーゾとは別れよ、と命じるが、ジルディッペは親への従順と自分の愛情の狭間で深く苦しむ。アダルジーゾも父の命令と自分の愛情の狭間で苦しむ。オペラとしては、そこで愛に悩むアリア、二重唱が出てくるわけだ。

 この二重唱は、見もの、聞きもの、であった。レジネバもファジョーリも声楽的にあらゆる技巧を駆使して、たっぷりとした愛の歌をかなでる。ここで演劇的に注目すべきなのは、アダルジーゾが囚われ人となっていることで、ジルディッペは親の命に反し、彼の縄を解いてしまう。オペラ・セリアには囚われ人が出てくることは多い。ヴィンチの《アルタセルセ》もそうだ。ペルゴレージの《オリンピアデ》もそう。音楽的に言うとここは過剰なくらいロマンティックなところであるが、それはこれが一種の牢獄で二人しかいない空間だからこそ、ほんの一瞬成り立った歌なのである。この二重唱の後には、すぐに権力闘争の場面に変わってしまう。

 政治闘争、駆け引きが山ほどあるので、そこにはオペラ・セリア的要素もふんだんにある。ところでジュディッタにはもう一人娘エドゥイージェ(つまりジルディッペの姉妹、Nian Wang)がいて、これまた母の命令に従順でスペインの王子ベラルド(Bruno de Sa')と婚約させられる 。

去年と違っていたのは、第一幕でのエドゥイージェのアリアのテンポである。当日の方が大分早かった。それにはペトルの指揮全体の変化が関与していると思う。最近、この曲を録音したという話も伝わっていて、そういうこととも関係するのかもしれないが、ペトルの指揮は昨年に較べ、さらに一層、細かくオケに指示を出していた。得に第一幕は、引き締まった音楽を構築しようという意志が明確に指揮ぶりに現れ、フレーズの終わりもかなり頻繁に示していた。エドゥイージェのアリアは、母の言うことに従おう、でも。。。というようなアリアで、緩やかな中に、ふと半音階的な転調がはいってきて陰のさす歌である。あくまであえて比較すればの話だが、昨年の歌と較べると、エドゥイージェは母の命に従おうという素直さがありつつも、その背後に母の強固な政治的意志があるわけで、今年の伴奏の方が、母の政治的意志がのしかかっている感をより強固に感じさせるものとなっていた。

それに対し、第二幕になるとストーリー上も、様々な恋愛が展開してくるせいか、指揮の腕も一幕では、ピシッ、パシッと止める動きが多かったのが、腕を大きく滑らかに動かし、ゆったりとしたフレーズを形成する場面が増えた。ペトルーの指揮は、その対照が非常に明確なのだ。さらに言えば、ファジョーリとレジネバの愛の二重唱は、とてもスローなテンポで歌われるのだが、よく観ていると、オケの伴奏は静かに穏やかな表情をみせているかと思うと、指揮者が渾身の力を込めて手を振り下ろし、チェロやコントラバスが弦を激しくたたいたり、こすったりするところがあり、スローなテンポでもだれることがない。二人の歌唱力、技巧の高度なことは言うまでもなく、そういうものが揃った上でのこのチャレンジングなスローテンポと思う。

他に気がついた去年との違いは、ダ・カーポ・アリアのABA' のA’で旋律に装飾音をつけていくわけだが、ジュディッタ、デ・サが目立ったが、他の歌手もその装飾音をより複雑にしていた。こういったところは去年と同じ演目の再演だからこその余裕がなせる技なのかもしれない。ペトルーの指揮がより一層指示が細かくなったのも、そういう事情もあるだろう。オケにも余裕が生まれるであろうし。

去年も今年も、歌唱もオケもそして演技も演出もレベルが高く、練り上げられた上演である。1幕の幕切れのファジョーリのアリアでモック役の一人が奇声をあげるという個人的には好まない演出もそのままだった。序曲の終わりで前王が死ぬときには老婆が奇妙な笑い声をあげ、三幕最終場面でロッターリオが死ぬ場面でも老婆が笑い声をあげる。このオペラは、ある視点からみると二組のカップルが政治的な葛藤に巻き込まれて、一時はその関係がねじれるが最後はめでたし、めでたし、という話である。上記の奇声や笑い声というのは、恋愛物語に収斂される話ではなくグロテスクな権力闘争を忘れるな、という趣旨で、恋愛物語に対し異化効果を発揮させるツェンチッチの演出なのかもしれない。つまり、この物語はもう一方から観れば王位(皇位)、領土継承をめぐる物語でもあるのだから。それをツェンチッチは、読み替え演出し、1920年代か30年代のキューバのマフィアのボスの跡目争いに読み替えて服装なども20世紀の服、戦いも中世の戦さではなくギャングの抗争風にしているわけである。オペラ・セリアの段階で観ても、むしろ王位継承争いが主で、そこに巻き込まれる恋愛が最重要のサブテーマではないか。

今回の上演では、先述の異化効果だけが突出しているのではなく、同時に二組まとまって目出度い、という祝祭感もたっぷりと味わえるようになっている。終曲の合唱の手前に、カバンアリアつまりポルポラの他のオペラからアリアを持ってきて、祝祭的気分をこの上なく高めている。このカバンアリアは、ポルポラのオペラ Siface の ’Come nave in mezzo all'onde' というアリアだ。このアリアは Youtube ではチェチリア・バルトリが歌っているのを観ることが出来る。バルトリは、文句なく見事な歌唱で、この歌詞は、荒波のただなかでも恐れるな、すぐれた舵取りが進み方を教えてくれる、という内容で、明らかに苦難に立ち向かえと奮い立たせる歌なのである。オペラ・セリアの雄々しい歌だ。金管が何度も炸裂することからもそれは判る。しかしそれを百も承知の上で、ペトルーかツェンチッチかあるいはレジネバなのかは知らないが、誰かが天才的なアイデアを出して、これをダンサブルな音楽とし、振り付けもつけて、祝祭感満載のアリアに仕立て上げたのである。(追記)チェンチッチ氏に質問することが出来て、ダンスにするのは彼のアイデアだということがわかった。彼によれば、レジネバが歌っているのを他の登場人物がみな聴いているだけというのはあり得ない、と。納得(追記終わり)ここにSiface の 'Come nave in mezzo all'onde'を持ってくること、これに踊りの振り付けをつけること、そして踊りのに相応しい演奏・歌唱にすることの3つの掛け合わせが、圧倒的な効果をもたらす。すべてを押し流す祝祭感、危険なほどの幸福感。われわれは至福の一瞬を味わったのちに、登場人物の合唱(実は観客席の端に6人の合唱団がその時だけいる)でめでたしめでたしの歌を歌い、ロッターリオの死と老婆の笑いを聴いて、幕が閉じられるのである。複雑な味わいではないか。

演奏・歌唱については、ツェンチッチ、ファジョーリ、レジネバが図抜けて素晴らしいのだが、レジネバについては、場面によってトリルなどの装飾音が早いテンポでも遅いテンポでも、パッセージの頭からでも途中からでも自由自在であり、なおかつそれはその場の表情・感情(悲しみなり、切なさなり、喜びなり)を表現するのに最適な形で現れるので、もう装飾音とは言いがたい本体と一体化した音楽表現になっていて、しかもだからと言って、様式観が崩れることもないという真に卓越した歌唱をみせていた。彼女は、二重唱でも、複数人数のかけあいでも、出しゃばることはまったくなく、相手と調和するのだった。演技においてもそうである。ファジョーリも好調で、歌にも演技にもぬかりはない(彼については別項で)。ツェンチッチは、普通の歌手が歌ったなら、なかなか魅力が引き出せず凡庸な曲に聞こえてしまいそうな曲からリリシズムを引き出すのが巧みでこのオペラではそのリリシズムをアスプランドというジュディッタの護衛(Petr Nekoranec)への愛にかぶせていた(その愛情に妻が嫉妬してロッターリオを最後に毒殺するというのがツェンチッチのしかけた演出である)。権力闘争を不気味な笑い声で表出すると同時に、愛も夫婦愛を蹴散らすようなロッタリオのアスプランドへの愛、ジュディッタのどこまでが本気でどこまでが権力のための色仕掛けが判然としないアスプランドやベラルドに対する誘惑など、愛の描き方も一筋縄ではいかないように描かれていて、リブレット以上にその部分は複雑化、現代化している。

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ポルポラ作曲《カルロ・イル・カルヴォ》その1

ニコラ・ポルポラ作曲のオペラ《カルロ・イル・カルヴォ(カルロ禿頭王)》を観た(バイロイト、辺境伯歌劇場)。この項、実際の上演については、その2で扱います。

念のために言えば、ヴァーグナーの建てた祝祭劇場ではなく、18世紀に建てられたバロック様式の歌劇場で、ヨーロッパでも貴重なものであり、今は世界遺産になっている。長らく修復中であったのだが、数年前に劇場として使えるようになった。プロイセンのフリードリヒ大王の姉がベルリンからこの地に嫁いで、バロック文化の粋をもたらしたと言われている。

そして去年からバイロイト・バロック・オペラ・フェスティバルが開始されたのだ。去年の9月は、周知のようにコロナ渦の真っ最中(それから1年経過しても終わったとは全く言えない長い厄介な渦である)で、ヨーロッパでも去年の3月にマドリッドで注目すべきバロック・オペラ Achille in Sciroの蘇演がある予定で、ゲネプロまでこぎつけていたのだが、本当に直前になって中止になってしまった。レアル劇場で上演されるはずで、フランチェスコ・コルセッリ(1705-1778)というイタリア生まれで30年間スペイン宮廷で働いた作曲家のオペラが、世界の超一流カウンターテナー、フランコ・ファジョーリとティム・ミードを迎えて蘇るはずだったのだ。上演するかしないかの情報は最後まで錯綜していた。公演は無観客でもいいからやってくれないか、それをテレビ中継なり、ストリーミングなり、DVD、それがダメならCDという形でわれわれにもアクセス出来る形にならないかと、バロック・オペラ・ファンはやきもきしていた。

日本から参加予定だった人も筆者の知人だけで複数いる。しかし残念ながら、ゲネプロはあった(と伝わっている)が、公演は一切中止になってしまった。DVDあるいはCD録音はしないのか、と期待したが、1年経過したが、今のところそういう情報は聞いていない。コルセッリという作曲家の実像が大きく浮かび上がる瞬間が、水泡に帰してしまったのである。なんとか、この企画自体が蘇ることを望みたい。

それが2020年3月で、バロック・オペラに限定しても、日本でもヘンデルの《シッラ》、《ジュリオ・チェーザレ》などの上演が中止になってしまったのだし、周知のようにスペイン、日本に限らず、世界中で演奏会、オペラ上演が中止に追い込まれていった。だから、昨年9月にこのバロック・オペラ・フェスティバル(この年に創立なのだが)が予定通りに行くのか、どうか、ずっとはらはらし通しだった。去年は夏に向けて感染が下火になるかに見えたときもあった(しかし、残念ながら、その後、大きな感染の波が何度もやってきたわけである)。そうした状況に一喜一憂しつつ、ホテルを予約することは出来たものの、そもそも出国できるかどうかが問題だった。日本政府の方針も状況により変化するし、勤務先の方針もそうで、再三、再四、掛け合ってみたが了解が得られず、また政府の方針も厳しいままだったので去年はバイロイト行きを断念した。

日本からヨーロッパに行くのは、ホテルとフライトさえ予約すれば、という時代が嘘のように激変してしまい、今もワクチン・パスポート(場合・地域によってPCR検査)や、同じく地域によって自主隔離が必要などという状況は今も続いているわけだ。2019年までの数十年の変化よりも大きな変化が生じたと言えよう。

そういう状況の中で2020年9月にバイロイト・バロック・オペラ・フェスティバルは創立、開催されたのである。主催者・関係者は、政府や州政府・市当局とどのような交渉をして、上演を可能にしたのか不思議に思うし、偉業とも言えよう。ただし、観客は相当制限したようである。というか予約をしていても日本やアメリカからはほとんど来れなかったと思う。ヨーロッパにすでに駐在・在住していた人は別であるが。その結果、切符は払い戻しも可能だが、来年度も同じ演目をやるのでヴァウチャー化も出来ることになった。

今年度の場合、最初からコロナ渦での上演が予想されていたわけで、販売数が最初から少なく切符の値段は前年の倍以上になった。今年の8月の中頃になって、バイエルン州での劇場の規制が一段階緩やかになったらしく、切符の追加発売があった。開催の直前だったので、それがどれくらい実際に売れたかは不明である。

今年の9月1日、つまり今年の幕開きの当公演も、事前登録というのが必要で、毎日、演奏・上演の1時間から4時間前に劇場のすぐそばの指定された場所に行って登録をする。登録というのは、そこに行き、グリーンパスとパスポート(IDカード)とチケットを見せると紙製のリストバンドをもらえるのである。そのリストバンドには日付が印刷されているので、翌日は使えない仕組みだ。

劇場に入ってみると、私の席は桟敷だったのだが、一列目は三席ある。その真ん中の席は大きなバツ印があって係員から座ってはいけないと言われた。桟敷の後列も明らかに二人用の椅子なのだが、一人しか座っていない。平土間を観ると、前の数列以外はガラガラである。座席としては一列に20名ほど座れるのではないかと思うのだが、数人しか座っていない。

長くなったので公演については、その2で。

 

 

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2021年8月30日 (月)

チェスティ声楽コンクール その2

ファイナルコンサートの模様はストリーミングで中継されたようで、現在もYoutube で観られる。

https://www.youtube.com/watch?v=mY_pq9TB50U&t=402s

聴衆は入り口で、当日のプログラムと当票用紙(黄色)を渡される。投票用紙はドイツ語と英語で書いてあって、フィナリスト10人の名前の左に四角があり、一人にだけ印をつけること、二人以上つけたら無効と書いてある。

式次第は司会者がいるのが、いつものコンサートとは異なるが、コンサートとして楽しめる工夫もある。

まず、指揮者と古楽の十数人のオケの伴奏である。コンサートは前半と後半に分かれていて、前半では5人が17世紀のカルロ・パッラヴィチーノ(1630−1688)のオペラ L'amazzone corsara から一曲アリアかレチタティーヴォとアリアを歌う。残りの5人は自由曲で、ヘンデル、ヴィヴァルディ、ポルポラのアリアを歌った。後半は前半と入れ替わるように、前にヘンデル、ヴィヴァルディ、ポルポラを歌った5人が今度はパッラヴィチーノを歌い、前半でパッラヴィチーノを歌った人がヘンデル、ポルポラ、ペルゴレージ、ヴィヴァルディを歌った。

率直に言えば、パッラヴィチーノからヘンデル、ポルポラ、ヴィヴァルディに切り替わると、白黒テレビからカラーテレビに変わったような多彩感に打たれる。こんなに音の色が表情が、テンポがフレーズが劇的に変わるのかと。しかし聞き慣れると17世紀の音楽には、独特の味わいがある。ちょうど白黒写真だからカラー写真よりつまらないということはなく、名手の白黒写真の味わいが深いのに似ると言えばよいか。

パッラヴィチーノが課題曲になっているのは、うまく考えられていて、来年の若手オペラの演目がパッラヴィチーノなのである。だからここでうまく歌えた人は、来年その出場者となる可能性が高い(最も最後の授賞式でデ・マルキはその点のつめはこれからするので、確かなことは数週間後に発表するとのことであった)。ともかく、コンクールにはエージェントや劇場関係者が審査員にいるし、ストリーミングもあるわけで、ここで注目を集めれば、将来、活躍の場が開ける(可能性が高い)。実際、審査員のシュヴァルツも、たとえ入賞しなくてもファイナルに残ってその後活躍している人がいるし、君たちもそうなれる、という意味のことを繰り返し述べていた。

たしかに、このあたりの人だと、音程が少しあやふやだとか、声がもう少し響けばとか、改良の余地が明白にあって、それが克服できればよくなる伸びしろを感じる人はいた。その中の一人が若手有望賞として選ばれたフランスのカンターテナー, Remy Bres-Feuilletで荒削りなところもあるのだが、ポルポラの難曲にいどみアジリタで輝かしい声を放っていた。24歳(出場者は男女とも年齢が明記されている)と出場者の中で二番目に若いこともあり将来性を認められたということだろう。

優勝したのは Shira Patchornik というイスラエルのソプラノで、この人は声のコントロールも、歌うときの表情・しぐさも極めて完成度が高かった。一位獲得だけでなく、アンデア・ヴィーンからのオファーももらっていた。しいて言えば、彼女が歌った曲はテンポが遅めで叙情的な曲だったので、アジリタがどれくらい見事なのかは判断しようがないのだった。しかし、叙情的な曲に限って言えば、強弱の変化と同時に声の表情・音色を変化させていく繊細さは文句のつけようがなく、彼女は叙情的な曲はバロックに限らず、ドニゼッティでもプッチーニでも見事に歌えそうだ、という感触を持った(そちらに進んで欲しいという意味ではありません)。

一票を投じるとなると、何か減点主義のようにアラ探しをしてしまいがちになるのだが、僕などは、選ぶ曲の性質があまりに違うと比較がむずかしい(スローで叙情的な曲か、ポルポラのようにテンポが速くてアジリタが必要な曲か)とも思ったりした。審査員もいろいろ議論がもめたという。

何を基準にというのがむずかしいところなのか。

それはともかく、こうやって12回目となるコンクールが終了した。先にも述べたが、コンクールが人材の発掘、来年のインスブルック古楽祭の演奏者発掘にもつながっていること、そしてもちろん、参加者にとってインスブルックだけでなく、各国での活躍の場をオファーされる可能性を大きく広げる機会となっていること、などの点で、よく考えられたコンクールであると思う。どこのコンクールでもエージェントや劇場関係者は来ているものだと思う。たとえば、ロッシーニ・オペラ・フェスティヴァルで、ザルツブルクやスカラ座の監督をつとめたリスナーなどを見かけることもあった。このコンクールではそれが審査員のメンバー、および狭い意味での入賞者以外に、次年度の各地の音楽祭へのオファーを発表することで見事に可視化されていると言えよう。

ちなみに、パスクィーニのオペラ《イダルマ》のイレーネ役で、当ブログで賞賛したマルゲリータ・マリア・サーラは去年、2020年のこのコンクールの優勝者だった。ブログ執筆後しばらくして知って驚いた。彼女の場合、若手オペラの方ではなくて、音楽祭のメインのオペラのしかも重要な役に抜擢されたのである。実力が抜きん出ていたということなのだろう。

シュロス城のリサイタルなどにも、数年前のコンクール入賞者などがいる。こうして成長して里帰り?する人もいるわけだ。地元の人で、毎年コンクールを見ていて、彼女/彼の成長ぶりに、この人は伸びると思ったわ、などと目を細めている人もいるのかもしれない。そういう場所・町と演奏家との縁、つながりというのも案外大事なものかと思う。バロックの時代の作曲家と町、宮廷(の領主・妃)の関係を考えることが多くなって、以前より強くそう思うようになった。バロック時代の作曲家はなにより演奏家でもあったのだし。

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チェスティ声楽コンクール その1

https://www.youtube.com/watch?v=mY_pq9TB50U&t=402s

チェスティ声楽コンクールのファイナル・コンサートを聴き、聴衆としての一票を投じた(インスブルック、Haus der Musik, 大ホール)。

正式にはバロック・オペラのためのピエトロ・アントニオ・チェスティ国際声楽コンクールというようだが、チェスティ・コンクールと呼ばれている。ファイナル・コンサートの出場者は1次予選(8月25,26日)、2次予選(8月27日)を勝ちぬいた若者たちで、8月29日にファイナル・コンサートは行われた。これがインスブルック古楽祭の最終日であり、最終行事である。

僕は予選は残念ながら観ていない。

ファイナリストは10人。ソプラノが4人、アルトが2人、カウンターテナーが2人、バリトン1人、バス1人。男女でいえば女性6人、男性4人である。

出身国はチェコ/ロシアが1人、フランス2人、アメリカ1人、ドイツ2人、イタリア2人、イギリス1人、イスラエル1人。

出場者には年齢制限があり、女性は1990年以降生まれ、男性は1988年以降の生まれということで、男女で異なる年齢制限で、女性は31歳まで、男性は33歳までということになる。

審査員は歌劇場やエージェントの面々が多く、7人いるのだが、ジュリオ・カストロノーヴォはエージェント Stage Doorのシニア・アーティスト・マネージャー。ルーカス・クリストはヴェネツィアのフェニーチェ劇場のキャスティング・ディレクター。アレッサンドロ・デ・マルキは、この音楽祭の総監督で指揮者である。ミヒャエル・シャーデは、歌手で、バロックターゲ・シュティフト・メルクというバロック音楽祭の芸術監督、ノラ・シュミッツはグラーツ・オペラおよびドレスデンのゼンパーオーパの総監督、ゼバスティアン・シュヴァルツはトリノのテアトロ・レージョの芸術監督、カロリン・ヴィールピュッツはアンデア・ヴィーン劇場の芸術監督、という具合だ。

コンクールによって優れた新人を発掘し、自分たちも起用していくという立場にある人たちなのである。そのせいもあって、ホームページにあがっている賞は一位から三位までと将来有望の若手という4人に対してだが、実際の授賞式では、この人は来年のヴァレ・ディストリア(イタリア南部の音楽祭)に出てもらうとか、先にあげたバロックターゲに出演してもらうといった来年の出番を獲得しました賞もあった。それが入賞者と一致する場合もあるし、賞には入ってないのだが、出演を約束された人もいてなかなか興味深い。

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2021年8月28日 (土)

テレマン作曲《音楽牧歌劇》その4

当公演のプログラムには、解説のほかに、指揮者ドロテー・オベルリンガーと演出家ニルス・ニーマンの対談が掲載されている。インスブルック音楽祭のプログラムは、判型は新書が横広になった程度で、値段も3ユーロ程度であるが、中身はとても充実している(ちなみに昼のコンサートなどの1枚のペラのプログラムは無料で配布している)。作品解説、解釈、そして演奏家は白黒ながら写真がついて簡単な略歴が紹介されている。

思えば、レパートリー作品の上演の場合、新しいことを言う、書くのはそう簡単ではないだろう。インスブルックのように、蘇演やそれに近い手垢にまみれていない作品の上演の場合、あらすじを初めとして観客に伝えるべきことは山ほどあるわけだ。とは言え、その山ほどある情報を通り一辺なレベルでなく、本格的な関心を持つ人にも有益な情報が詰まっている場合が多い。

さて、オベルリンガーとニーマンの対話であるが、多少、解説と内容はかぶっているがご了承を願いたい。オベルリンガー:テレマンがこのオペラをフランクフルトの市民のために書いたことはわかっているが、どういう人だったか具体的には判っていない。当時のQuantz という人が、テレマンは各国のスタイルをマスターした人だと言っている。フランス風もイタリア風もマスターしている。フランスオペラから眠りの場面(これはリュリのアティスというオペラが初めだったとのこと)を取り入れ、さらには民衆的要素もある。ニーマン:究極のところ、牧歌劇は羊とはあまり関係がなくて、アルカディアという理想郷の話。働かなくてよくて、愛に没頭できる。羊飼いだというのは、自由であることを表現していて、いろいろな拘束から自由である。オベルリンガー:スコアは非常に計画的に書かれていて、多様な楽器を用いている。ホルン、トランペット、オーボエ、リコーダー、弦楽器。通奏低音もファゴット、チェロ、コントラバス、ティンパニーその他の打楽器。これだけ揃えるのにはお金がかかっただろうから、注文主はお金持ちだったろう。レチタティーボも非常に綿密に書かれている。テレマンは良い声のバリトンだったので、こういうセミ・プライヴェートな演奏、注文を受けて注文主をよく知っている場合、自らダモンを歌った可能性もある。この時代にはそういうことは珍しいことではなかった。同時代のマッテゾンは、言葉と音とジェスチャーが完全なハーモニーをなしていなければならないと言っている。

演奏について

オケはオベルリンガーが2002年にケルンで設立したアンサンブル1700.演奏水準は高い。

カリストは Lydia Teuscher. イリスはMarie Lys でバロックものには彼女の方が一日の長があったが、二人とも、若手オペラの歌手と較べると

一皮も二皮もむけ、歌も演技もしっかりしている。二人とも、一番肝心の、心が変わる場面の演技、歌が出色で、そういうところでのオケの合わせ方も実にはまっていて、完成度が高かった。ダモンはFlorian Gotz. アミンタはAlois Muhlbacher. 彼はカウンターテナーであるが、ところどころアジリタの部分でテンポが遅れてしまいがちなところがあった。クニルフィクスのVirgil Hartinger ははまり役で、演技といい、声の表情といい、コミカルな味を完璧に表現していた。

テレマンの残存する最初のオペラがこれだという。心から楽しめるオペラであるし、音楽的にも充実し聞きがい、観がいのあるオペラであった。他のオペラもぜひ聴いてみたいものだ。

 

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