2025年11月 9日 (日)

モーツァルト《羊飼いの王》

モーツァルトのオペラ《羊飼いの王》を観た(藤沢市民会館大ホール)。

この会場は初めて。大きすぎないのが良い。2階席がある。1380人収容とのこと。座席は小さめ。

この日の上演は、演奏会形式で、せめてセミステージだったらよかったのにと思った。服装も凝らなくて良いし、舞台装置も最小限で良い。日本人なら能・狂言を知っているのだから、ミニマムな装置で想像力を膨らませることは自由自在なのだ。

ただし、今回アミンタを歌った砂川涼子(敬称略、以下同様)は、パンツルックで男性であることを表現してくれており、それは恋人役の森麻季(エリーザ役)がドレス姿だったのと対照的でこのコントラストはコンサート形式の中に最小限の演劇性をもたらしてくれてありがたかった。アミンタは、なにせ、羊飼いとして成長したのに、アレッサンドロ(アレクサンダー大王)がやってきて、この地の王の血筋を継ぐものはアミンタだから王位を継承させるということになるわけで、本来なら羊飼いの姿で出てきて、それが大王アレッサンドロとその部下アジェーノレに見出されるわけである。

しかしそれがありがた迷惑なのが、恋仲だったエリーザだ。というのも、二人は婚約していたのだが、アレッサンドロが元々この地の僭主の娘タミーリとアミンタを結婚させようとするからだ。タミーリはアジェーノレと恋仲だったのでショックを受ける。こうして二組の恋愛が捻れた関係になるが、最終的にアレッサンドロが解決して、めでたしめでたしとなる。

この日の歌手は、先述のアミンタの砂川涼子とエリーザの森麻季の他に、アレッサンドロ大王の小堀勇介、タミーリの中山美紀、アジェーノレの西山詩苑。それぞれに優れた歌唱を聞かせ、こちらとしては満足度が高かったが、アジェーノレの西山詩苑は、声質が美しく、歌いっぷりも端正で、レチタティーヴォも発音が綺麗で、アジェーノレ役としては出色の出来だと思う。

砂川、森は安心して聞いていられる安定感があったが、その安定感に大いに寄与していたのは園田隆一郎の指揮だろう。彼の指揮は、丁寧かつケレンを狙わないもので、歌手の歌い方を丁寧に尊重している。一方で、テンポが大きく変わる時には、歌手と目配せしてギクシャクしない。新奇なことをやるのではなく、手抜きのない良い仕事をしているトラットリアのような味と言えば良いだろうか。神奈川フィルハーモニーも良い仕事をしていたと思う。この日は、チェンバロ(矢野雄太)が加わっていた。

この曲で曲想として歌うのが難しいのはアレッサンドロ大王だと思った。アレッサンドロは、国全体の秩序がどうあるべきかを考えているので、他の登場人物のように自分の愛する人のことを第一に考えている人たちとは違う次元にいる。それはメタスタージオのリブレットにも如実に現れていて大自然や宇宙の要素が比喩として出てくる。曲想もそれに相応しくモーツァルトが作っている。まさにオペラ・セリアの曲想であり、小堀は大健闘していたと思うが、さらにフレージングや表情づけで、さらに深い感動を呼ぶ歌へとなることを期待したい。

全体としては、日本でモーツァルト初期のオペラ・セリア(セレナータ)が、これほど高いレベルで上演されることは慶賀すべきことだと思うし、その一方でこれだけ音楽的レベルが高いのだから、せめてセミステージにしないと勿体無いとも思うのであった。上演後のトーク(井内美香の司会で、園田と砂川が質問に答えていた)でも、砂川からお芝居でやりたいという趣旨の発言があった。全面的に賛成である。

とはいうものの、モーツァルトの初期のオペラをもっと聞いてみたいと思う気にさせてくれた優れた演奏であった。感謝。

 

 

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2025年9月23日 (火)

プッチーニ《ラ・ボエーム》

プッチーニ作曲のオペラ《ラ・ボエーム》を観た(三越劇場)。

三越劇場というのは、日本橋三越本店の6階にある小ぶりな劇場で、定員500人程度。一階と二階に別れている。非常にクラシックな内装で、昭和2年に出来たとのことだが、バロック的ともロココ的とも言え、そこにルネサンス的要素も入っており、不思議な折衷様式である。舞台は額縁舞台であるが、両脇には見せかけの擬似扉がつらなっており、その扉も上部は立体的に半球状にカーブがあって美しい。ここは、劇場としては、19世紀以降のオペラよりも、たとえばバロック・オペラこそがふさわしい空間ではないかと、個人的には思った。バロック歌唱は丁寧かつ繊細な歌唱であるので、音量としては小さめの傾向があるが、ここなら空間が小ぶりなのでぴったりではないか。劇場としても、一見の価値ありと思う。

さて、《ラ・ボエーム》。オケに相当するのはクオーレ・ド・オペラ・アンサンブルで、ピアノ山口佳代(敬称略、以下同様)、ヴァイオリン澤野慶子、チェロ三間早苗と指揮澤村杏太朗。非常にコンパクトであるが、弦楽器があるのはプッチーニらしい響きを醸し出すのに役立っている。

歌手のなかではミミの東山桃子が傑出していた。レチタティーヴォもアリアも安定した歌唱でかつ役に入っている。ムゼッタの清水結貴は、子音が弱く言葉が聞き取りにくいのが惜しい。

出色だったのは第二幕で、平土間の通路から民衆役の合唱が登場するのも(最近はよく見られる手ではあるが)効果的であったが、さらに新鮮だったのは、合唱の人数が少ないため(12人)合唱の歌詞がこれまでになくよく聞き取れるし、かつ、ミミやロドルフォたちと重なったときに彼・彼女らの声を押しつぶさないのである。

プッチーニはアリアが巧みなのでそこに目が(耳が)行きがちだが、二幕の合唱においても、子ども、物売りなど人物を丁寧に描きわけて、主要登場人物たちとの交錯がスリリングに出来ている。ヴェルディのリゴレットの4重唱などとは異なり(人間関係も異なるわけだが)有機的な響き、交錯を狙ったものではない。むしろ、登場人物たちが生きる社会を表象するような人々であるわけだが、二幕だけでなく三幕にも民衆が出てくる。場所が町外れなので、その門を往来する牛乳などの売り買いをする人たちだ。こういった町の人々を後景に描きこんだうえで、ミミ、ロドルフォ、マルチェッロ、ムゼッタらが前景に描かれる。そこにこの音楽劇の奥行きがあるだろう。合唱で描かれる民衆と主要登場人物はあくまで並立していて、有機的な関係というわけではないところが、むしろプッチーニの現代的なところとも思える。合唱団に一人数役をこなさせ、今述べた後景・前景の関係を手際よく理解させる演出の江頭隼の巧みさに感心した。合唱団の人数は、伴奏の編成がコンパクトなこともありちょうど良かったし、響き、テクスチャーとして新たな発見があった。
主催はクオレ・ド・オペラで、歌手は入れ替わるが10月8日には横浜市民文化会館関内ホールで再演される。

 

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2025年8月22日 (金)

ヴィヴァルディ《ジュスティーノ》その4

ヴィヴァルディのオペラ《ジュスティーノ》の三回目を観た(インスブルック、音楽館)。

歌手と配役についてもう一度。

今日は、フォルトゥーナ(運命の女神)とレオカスタ(皇帝の妹)の一人二役をやるサラ・ハヤシが不調であるというアナウンスが事前にあった。アマンツィオ(権力を簒奪するが、すぐに退治される)役のベネデッタ・ザノットも喉の不調と思われた。歌い回しに様式感はあるのだが、声がまるで声変わりの少年のようになってしまうことが度々起こるのである。調子が整った状態でぜひ聴いてみたいと思う。

3回観たが、フォルトゥーナとレオカスタの一人二役というのは、サラ・ハヤシのせいではなくて、演出としていかがと思った。二人の役柄の区別がつきにくいのである。それでなくても、メタスタージオものなどより人数が多くてストーリが複雑なのだから、むしろ観客にとって人間関係がすっきりと把握しやすいように作るべきであると思う。皆が、2度、3度、4度と観るわけではない。一度みてストーリや人間関係がわかるようにした方がよいのではないだろうか。しかも、《ジュスティーノ》はそれほど頻繁に上演される演目ではないのだから。一人二役をするなら、思い切って服装か持ち物を変えた方がわかりやすかったと思う。

このオペラにはいくつかの飛び抜けて叙情的なアリアもあるのだが、以外なほどセリアなアリアが多い。アナスタジオは皇帝だから威厳あるアリアがあって当然なのだが、農夫から皇帝にのぼっていくジュスティーノにも叙情的なアリアとともにセリアなアリアが多い。あるいは叙情性と威厳の入り交じった曲もあるし、ジュスティーノのアリアは多様性がある。アマンツィオは権力を簒奪するとホルンまで出てきて勇壮なアリアが歌われる。小アジアの暴君のヴィタリアーノにも同じく勇壮なアリアがふられている。しかもこの勇壮なアリアが聴きごたえがある。さらには、皇妃のアリアも毅然としたものが多い。しかしところどころに入る優れて叙情的なアリアのおかげで全体が重いとか堅苦しいとは感じない仕組みになっている。さすが赤毛の司祭。

歌手で歌もレチタティーヴォも形がきまっているのはアリアンナ役の Jiayu Jin.彼女の役は、暴君から迫られても皇帝への操をたて、囚われの身になっても毅然としている強いキャラクターなのだが、歌でも演技でもそのキャラクターを実に適切に表現していた。未知数なのは、アリアンナには求められていない甘美な表情やアジリタであるが、これはまた別の役柄で聴くことがあるのを楽しみにしよう。

ヴィタリアーノ役の Thoma Jaron-Wutz は大いに可能性を感じる歌だった。レチタティーヴォがもう一歩。レチタティーヴォに関してはタイトルロールの Justina Vaitkute も同様だ。彼女はとても安定した美しい声を持っているのだから、レチタティーヴォにもう少し緩急がついて、引き締まるとアリアが一層映えるはずだ。成長を期待したい。

一人二役のサラ・ハヤシは、とても知的にレチタティーヴォもアリアも演技もコントロール出来ている人だと思った。喉が不調で、強い声が出ないなら出ないでそれをうまく補う術を心得て、聴かせるアリアになっていた。

アナスタジオの Maximiliano Danta はレチタティーヴォの緩急が上手い。声域もあるアリアでは地声で低いところまで出していた。

インスブルックではチェスティ・コンクールというのもやっていて、そこでの入賞者が翌年の若手オペラに出たりするのだが、この人は伸びそうとか思って聴くのも楽しいものだ。相撲でも幕内を観るのも良いが、十両で力をつけつつある若手を観るのも楽しいというようなことにも通じるかもしれない。

指揮者のステーファノ・デミケーリは、生真面目な指揮をする人で、四拍子で、全部の拍を強調してくるような時もある。曲想次第ではあるが、もう少し肩の力を抜いてさらっと流すところもあって良いのではとも思った。楷書で書くとすみずみまで形がわかる。つまり、楽譜が見えるような指揮もあって良いのだが、曲によっては勢いにのってノリが欲しいところもあるのだ。

 

 

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2025年8月21日 (木)

チェスティの家

作曲家チェスティの家を見た(インスブルック)。インスブルックの大聖堂前の広場に面した立派な家で、近年修復され、現在は一般市民が居住している。チェスティが住んでいたことを示すプレートもある。

17世紀の大作曲家チェスティは一般にはあまり知られていない作曲家かもしれない。が、生前は大作曲家であったし、近年、彼の作ったオペラが蘇演(復活上演)され、《ラ・ドーリ》などはブルーレイも発売されている。インスブルックには縁の深い作曲家なのだ。

アントニオ・チェスティが生まれたのは、トスカーナ地方のアレッツォで1623年8月5日のことだった。彼は最初はフランチェスコ会の修道士となる。若いころは歌手として活躍していた。シエナで最初にオペラが上演された際にも歌ったようだ。1640年代にフィレンツェのメディチ家の庇護の下に入る。そしてフィレンツェの文人グループの集まりである Accademia dei percossi のメンバーとなる。17世紀、18世紀のイタリアの文化活動(オペラ創作を含む)にとってアッカデーミアは大変重要だ。イタリアの場合は、各都市に複数のアッカデーミアが存在することが多い。チェスティはこのアッカデーミアを通じて、ジョヴァンニ・フィリッポ・アポッローニやジャチント・アンドレア・チコニーニと知り合うが、かれらはチェスティがオペラ作曲家となった時に、リブレットを提供している。

チェスティに関して注意すべきなのは、古い資料には誤解があって彼のオペラの初演地がヴェネツィアと書いてある場合に、実はインスブルックが初演地であることがある。たしかにチェスティは1651年にヴェネツィアでオペラを発表して成功をおさめるのだが、その翌年から約5年間、インスブルックのフェルディナント・カール大公のもとで働いているのだ。

1655年には《アルジーア》がインスブルックで初演されているが、リブレッティスタは前述のアポッローニで、しかしもっと重要なのは、これがスウェーデン女王クリスティーナが、自ら退位し、ローマへ居を構える途中で、しかもここで正式にカトリックに改宗したのを記念しての上演であった。クリスティーナはプロテスタントからカトリックに改宗した女王であったので、カトリック教会にとっては対抗宗教改革という観点からもっとも優遇すべき人物であり、実際ローマに住むようになってから彼女のサロンはローマ第一の文化的サロンとなった。

さて、5年間インスブルックで働いたチェスティだがさらに重要なポストを与えられるところであったのだが、ウィーンの皇帝レオポルト1世に招かれ宮廷楽長となった。その後、フィレンツェに戻りそこで亡くなった(毒殺されたという説もある)。

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2025年8月20日 (水)

ヴィヴァルディ《ジュスティーノ》その3

ヴィヴァルディのオペラ《ジュスティーノ》を再び観た(インスブルック、音楽館)。

このオペラは、1724年1月23日にローマのテアトロ・カプラニカで初演された。カーニバル・シーズンの上演である。先日のコンサートのヘンデルの9つのドイツ・アリアの作曲とほぼ同時代である。また、この当時、ローマでサルテリオという金属の撥弦楽器(チターに似ていなくもない音色)がはやっていて、第三幕でジュスティーノのアリアに出て独特の効果をあげている。この時代、ローマでは女性歌手が舞台にあがるのは禁止されていたので、全員男性が歌った。つまり、アリアンナやレオカスタはカストラートが女装して歌ったのだ。これはヴィンチの《アルタセルセ》なども同様である。

リブレット(台本)は、アントニオ・マリア・ルッキーニによるものだが、彼のオリジナルではない。1683年にニコロ・ベレガンという人のリブレットにレグレンツィが作曲したのが最初だった。1711年にアルビノーニが同題材をオペラ化する時には、パリアーティが手を加え、1724年にヴィヴァルディがオペラ化するときにはさらにルッキーニが手をいれたわけだ。

ちなみに、他の作曲家の《ジュスティーノ》を見ると、1703年ドメニコ・スカルラッティ(ナポリ)、トンマーゾ・アルビノーニ(ボローニャ、1711)、Johann Christian Schiefferdecker のジングシュピール(ライプツィヒ、1700,ハンブルク、1706)。ヘンデルは1737年にこの題材を取り上げている。というわけで、この素材はかなり広く、様々な作曲家、様々な地域で取り上げられていたのだ。

このリブレットの特徴は、プロローグにではなくて、本編の話の中にフォルトゥーナという運命の女神が登場することである。第一幕5場で、フォルトゥーナが出てきて、眠っているジュスティーノを起こす。これは象徴的行為で、ここからジュスティーノが田舎の農夫である状態から、さまざまな事件を経て、宮廷に入り、騎士に叙せられ、ついには皇帝の共同統治者となる。ジュスティーノがアルトであるのも興味深い、皇帝であるアナスタジオの方はカウンターテナーで高い声なのだ。これは身分が高い方が高い声というバロック期の原則にそったものであると同時に、ジュスティーノが権力欲にはやる人物ではないことも示しているだろう。

 

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2025年8月18日 (月)

ヴィヴァルディ《ジュスティーノ》その2

演奏と演出について。歌手とオケについて。

指揮は Stefano Demicheli オーケストラはこの音楽祭のために編成されたオケ。

ジュスティーノ役は、アルトの Justina Vaitkute。落ち着いた安定した歌唱で素晴らしい。強いて難を言えば、場面が緊張した際にも、その歌唱の表情に変化が乏しく、劇的起伏がもう少し欲しいと思わせるところだろう。

アナスタジオ(皇帝)役は、カウンターテナーの Maximiliano Danta で高音までよく出るし、音楽を引き締まった表情に変える手際も巧みだ。

アリアンナ(皇妃)役はソプラノの Jiayu Jin. ほんの少し金属的と言ってもよいほど、張った通る声である。

レオカスタ(皇帝の妹)とフォルトゥーナ(運命の女神)の二役は、ソプラノの Sarah Hayashi. 演技と歌唱とレチタティーヴォのバランスが取れていた。若手オペラは準備・練習に時間がかけられるせいか、総じて皆レチタティーヴォがしっかりしていて聴いていて気持ちが良い。

ヴィタリアーノ(小アジアの暴君)役は、テノールのThoma Jaron-Wutz. 幕が開く前に調子が悪いというアナウンスがあったが、会場が小さいせいかほぼ問題なかった。

アンドロニコ(ヴィタリアーノの弟)役はメゾソプラノの Lucija Varsic. 背が高い女性。

アマンツィオ(将軍)役は、ソプラノのBemedetta Zanotto. 派手ではないのだが、端正な様式感のある歌を聴かせる。

ポリダルテ(ヴィタリアーノの部下)はテノールの Massimo Frigato. 背が高い。

登場人物が8人いて、もつれあうと、なかなか人物関係を把握し、頭の中で整理するのがむずかしい。

メタスタージオのリブレットが主要登場人物は6人程度におさえて、筋を簡潔にしたのもうなずける。ただし、ルッキーニの書いたこのリブレットには、アンドロニコのように女装して、それゆえにレオカスタからあらぬ嫉妬をかうというユーモラスな場面や、アンドロニコが実は男だと明かす場面などがあって、現代人にも大いに受けそうな要素がある。

舞台には大きな枠があって、なぜか時計もあり、逆向きに針が進行したり、通常の向きに進行したりする。また、登場人物の何人かはメガネをかけたりはずしたりするが、どうも劇全体の最初と最後はドラマの枠の外ということらしく、服装もその際には白黒に変わる。それが何を含意しているのかは今のところ不明。もう一つ、手袋を数人の登場人物が、片手にはめたり脱いだりする。

舞台には大きな四角柱が2つあって、それぞれの壁面に絵が書いてあり書き割りの役割を果たすのだが、ときどきそれがまわって別の面が見える仕組み。なかなか面白いアイデアかと思う。また、その書き割りがルネサンス・バロック期の建物で登場人物の服装もそのあたりの時代のようであった。つまり、古代ではない。それが回転して別の面が見えると森の書き割りになっていて、場面は森になるのだった。舞台は全体としてすっきりした美観を保っていて、ヴィヴァルディの世界にふさわしいと言えよう。熊や羊のかぶりものをかぶった人物がでてきたのは、ジュスティーノの出自が農夫ということをユーモラスに表象していたのであろうが、なごやかな雰囲気を舞台に与えていた。

 

 

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ヴィヴァルディのオペラ《ジュスティーノ》その1

ヴィヴァルディのオペラ《ジュスティーノ》を観た(インスブルック、音楽堂)。

音楽堂(州立劇場の隣)地下の数百人収容の小さめのホールである。インスブルック古楽音楽祭は通常のオペラと若手オペラがあり、これは後者の方。だから今回もチェスティ声楽コンクールの去年の入賞者やセミファイナリストが出演している。30歳前後の人が多い。

オーケストラも常設ではなく、音楽祭のために編成されたもの。日本人女性のヴァイオリストも2人いた。

《ジュスティーノ》は歴史上実在の人物にもとづいた話だ。

ユスティヌス1世(450頃−527)は農民出身だが、皇帝にのぼりつめた。彼がモデルなのである。ちなみにユスティヌス1世の甥がユスティニアヌス1世(法典などで名高い)である。

以下あらすじ

第一幕

皇帝アナスタジオと皇妃アリアンナの結婚と戴冠。しかし将軍アマンツィオが不吉な知らせをもたらす。

小アジアの暴君ヴィタリアーノがアリアンナを要求し、応じなければ戦争になると。ヴィタリアーノの部下ポリダルテがこの脅迫的なメッセージを伝える。アナスタジオは拒み、アリアンナは戦場についていく。

ジュスティーノは農民としての生活に飽きているが、夢をみる。夢で運命の女神フォルトゥーナから運命を受け入れるように告げられる。ジュスティーノは熊に追われるレオカスタに遭遇し、熊を退治する。レオカスタは皇帝アナスタジオの妹で、彼女のおかげで宮廷に出入りがゆるされる。

ヴィタリアーノの弟アンドロニコは女装してフラーヴィアと名乗り宮殿にはいりこむ。フラーヴィア(アンドロニコ)はレオカスタと接触する。アンドロニコは密かにレオカスタに恋している。レオカスタのジュスティーノへの愛を知るとアンドロニコは嫉妬する。

その間、妃アリアンナは捕まる。彼女を助けるため、ジュスティーノは皇帝アナスタジオから騎士に叙せられる。ジュスティーノは忠誠を誓い、レオカスタはジュスティーノに恋する。アンドロニコ=フラーヴィアは嫉妬するが、レオカスタはアンドロニコはジュスティーノが好きなのだと誤解する。

捕まったアリアンナはヴィタリアーノの前に連れていかれる。ヴィタリアーノは結婚を迫るが、アリアンナは拒絶。侮辱されて、ヴィタリアーノはアリアンナを海の怪獣に喰われるようにと命じる。それでもアリアンナは屈せず、アナスタジオに別れの言葉を告げる。

第二幕

皇妃アリアンナを捜して、ジュスティーノとアナスタジオは、海を渡り、難破する。アナスタジオはアリアンナが見つからないことに絶望する。

ヴィタリアーノの部下ポリダルテは、アリアンナを嘲り岩に縛り付ける。海獣がやってきて彼女を襲うだろうと。海獣が現れ、アリアンナが助けを求めると、ジュスティーノが駆けつけ海獣を殺し、アリアンナを助ける。アナスタジオが何でも望みをかなえてやるというがジュスティーノは断る。皇妃を助けたことは十分名誉だからと。

ここで休憩

ヴィタリアーノの怒りは鎮まり、アリアンナの遺体を捜す。しかし見出したのは海獣の遺体だった。

宮廷の侍女としたアンドロニコ=フラーヴィアは、自分はジュスティーノを尊敬するけれど恋してはいないとレオカスタに言う。

ジュスティーノはヴィタリアーノを捕らえ、皇帝アナスタジオのところへ連れていく。将軍アマンツィオはジュスティーノの成功に嫉妬し、皇帝の心に毒の種をまく。ジュスティーノには権力への野心があると。

ヴィタリアーノは自分の犯した罪を認めるが悔いはしない。アナスタジオはアリアンナにヴィタリアーノのベルトを与える。アリアンナはジュスティーノのほうびにふさわしいと言うが、アナスタジオは無視する。

アンドロニコはレオカスタを森におびきよせ、自分が男であることを明かす。前から好きだったことを告白し、彼女に迫る。ジュスティーノが現れ、彼女を救い、アンドロニコを捕まえる。レオカスタはジュスティーノへの愛を告白する。

第三幕

ヴタリアーノとアンドロニコ兄弟は牢屋から脱出し、復讐をたくらむ。

アリアンナは助けてもらったお礼にジュスティーノにベルトを授ける。将軍アマンツィオはそれをアナスタジオに告げる。怒った皇帝は二人を呼び出し、釈明を求める。二人の説明に満足せず、皇帝は嫉妬に燃え、アリアンナを追放し、ジュスティーノに死刑を宣告する。レオカスタとジュスティーノは別れを告げる。

企みの成功を確信して将軍アマンツィオは、皇位ののっとりを図る。

レオカスタの助けで、ジュスティーノは牢屋から脱出する。運命の女神に見捨てられたと感じ、眠る。ヴィタリアーノとアンドロニコ兄弟は眠っているジュスティーノを発見し、復讐を遂げようとする。突然、彼らは亡き父の声を聴く。三人は兄弟だというのだ。三人はアマンツィオの反乱を鎮圧しようと決意する。レオカスタはジュスティーノのことを心配している。アリアンナは彼女にアマンツィオのクーデターを告げる。

王位を簒奪したアマンツィオは、アナスタジオとアリアンナに死刑を宣告する。そこへジュスティーノ、アンドロニコ、ヴィタリアーノが現れ、アマンツィオをやっつける。アナスタジオは、アマンツィオの言うことを信じてしまったことをわびる。ジュスティーノは自分の兄弟のしたことの赦しを求める。二人(アンドロニコ、ヴィタリアーノ)はアナスタジオへの忠誠を誓う。アナスタジオはジュスティーノを共同統治者に任命し、レオカスタとジュスティーノが結婚する。

 

 

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2025年8月17日 (日)

『魅せられた森』

『魅せられた森』という名のコンサートを聴いた(インスブルック、王宮大広間)。

王宮の大広間 (Riesensaal)では、インスブルックの音楽祭で毎年コンサートが行われている。この大広間は天上が高く、壁面にはハプスブルク家の歴代の君主や王女らの等身大以上の肖像画があり、入り口の反対側(突き当たり)にはマリア・テレジア、夫君フランツ、その子息ヨーゼフ2世の肖像ががあり、特別な空間である。

ただし、音響的には、残響時間が長く、毎年奏者は最初の何曲かは響きの過剰さの調整に苦労しているように見受けられる。特に、チェロやコントラバスはボワン、ボワンと響き、コントロールが難しそうだ。歌手は歌手で、子音が聞き取りにくい。前の音が消え去る前に次の音を出すわけなので、こういう場合にはより子音を強調しなければならないだろう。

「魅せられた森」即ち、魔法にかけられた森、というのはタッソの叙事詩『解放されたエルサレム』の12,13巻から来ている。バロック・オペラにはタッソのこの作品のエピソードをもとにした台本が多くある。当夜のコンサートは、様々な作曲家の自然を歌ったアリアを集めたものだった。

演奏はオーケストラが Julie Chauvin 率いる Le Concert de la Loge. インスブルックではここ数年続けてコンサートを開催している。独唱者がソプラノの Ana Vieira Leite. ポルトガルの若手ソプラノで、伸びのある綺麗な声だが、前述のように会場の特性上、もう少し子音が欲しいところであった。会場が変わればこの不満は解消されるのかもしれないが、会場に合わせて歌う必要もあるだろう。もう一人の独唱者は、メゾ・ソプラノの Eva Zaicik 。フランスのメゾで、バロックからロマン派まで幅広いレパートリーを持っている。安定した歌唱を聴かせた。曲によっては、もう少しはらはらする表情を聴かせてもよいのではと思ったが、そういう曲ではオケが十分にハラハラさせる要素を聴かせているので、大きな不満はなかった。

プログラムは、冒頭が Francesco Geminiani (1687-1762)の《魅せられた森》からという器楽曲だったが、これには説明が必要だろう。この曲はもともとフランスでテュイルリー宮でパントマイムを上演する際の音楽(この当時のフランスのパントマイムはバレエを伴うことが多く、台詞や合唱もつくこともあったのだが、このジェミニアーニ作品がどうであったかは不明)を五幕ものとして書いた。しかしこの作品は失敗に終わった。後にジェミニアーニがコンサート作品として書き直したものが当夜演奏された。楽譜はこちらのコンサート作品(コンチェルト・グロッソ)の方しか残存していないのである。

ヘンデルの《パルテノペ》から 'Qual farfalletta'

ヘンデルの《テオドーラ》から 'Thither let our hearts aspire'  ここで判るように、ヘンデルは歌詞がイタリア語のものと英語のものがそれぞれ複数演奏された。

ポルポラの《アグリッピーナ》から 'Mormorando anch'il ruschello'

 再びジェミニアーニのコンチェルト・グロッソの一部。

ヘンデルの《オルランド》から 'Verdi piante, erbette liete'

ヘンデルの Occasional Oratorio から 'After long storms and tempests overblown'

ここで休憩

後半はヘンデルの《イメネオ》から ’Sorge nell'anima mia' これは伴奏のオケが嵐のようにすさまじく、またすさまじい早さで演奏された。

ヴィヴァルディから三曲。

まず《テルモドンテ川のエルコレ》から 'Zeffiretti che sussurate'. これは川のせせらぎを半ば描写した可憐な曲なのだが、演奏に一工夫あった。メゾが歌っているのだが、姿が見えないソプラノがエコーの役割でフレーズの終わりを繰り返す場面がある。ソプラノは大広間の出口付近に隠れて歌っていたのだ。そしてその反対側には2人のフルート奏者がいて、川のせせらぎを表していた。こういった一工夫で、演劇性がぐっと増すし、観客の拍手は一層大きくなるのだった。

次は《ポントの女王アルシルダ》から 'Io son quel gelsomino' でこれは古典歌曲集にもはいっている馴染みの曲。

三曲目は、『四季』の春だった。観客の多くが1楽章で拍手をしたのはご愛敬。四季はオーストリアではさほど有名でないのか。

ヘンデルの《テオドーラ》から 'As with rosy steps the morn'

ヘンデルの《アミンタとフィッリデ》から二重唱 ’Per abbatter il rigore d'un crudel'.

大拍手につつまれてアンコール1曲。

2時間強の充実したコンサートであった。

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オペラ《ホテル・メタモルフォーシス》その3

パスティッチョ・オペラ《ホテル・メタモルフォーシス》を再び観た(ザルツブルク・Haus fur Mozart).

この日は事前にアナウンスがあり、バルトリが体調不良により声の調子がよくないことをご了承くださいとのこと。エアコンの調子・調整がうまくいかなかったらしい。歌手というのは身体が楽器であるゆえの大変さがあるなあ、といつも思う。そのせいで、キャリア全体を考えても、音楽的な成熟と、楽器としての喉の成熟がうまく重なればよいけれど、必ずしもそうとは限らないわけである。

結論から言うと、バルトリの歌は、個人的には今回の方が好ましかった。喉の調子が悪いので、派手なヴァリエーションを避け、曲にゆだねる割合が高かった。最後に歌われるアリア 'Gelido in ogni vena' は、技巧の限りを尽くして歌うより、その少し手前で歌ったほうがより心に迫るのだった。この場面、エウリディーチェとしてのバルトリが、オルフェオの生首を前にして切々と歌う。それに先立つ場面でオルフェオは集団に虐殺されている。合唱が、《勝利するユーディット》からの戦いの場面を歌っている。ということもあって、オルフェオの生首は、戦争で無残に殺された死者と重なって見えるし聞こえる。作品全体のバランスからすると、いかがと思うところもあるのだが、アクチュアリティという点では迫ってくるものがある。

歌手としてはやなりレア・デザンドレがフレッシュかつ伸びやかな声で喝采をさらっていた。彼女は一曲だけ様式感が崩れるアリアがあって、それは今回はテンポを少しおとして調整していて、改善はしたのだが、将来に期待したいところだ。これで様式感が備われば鬼に金棒だと思うがすでに売れてしまうとそれは難しいのかもしれない。

ナレーションで物語を進めることの功罪。オルフェオが舞台まわしになってナレーションをマイク付きで行う。これにより一つの幕の間に度々マイクで拡大された音がはいるのは音的に快適でない。また、登場人物は一切レチタティーヴォがないわけで、それもこれほど極端だと物足りなさを感じるのであった。外国語のレチタティーヴォはかったるいと思っている人にはすっきりしていてよかったのかもしれないが、この場合はドイツ語のナレーションなので、ヴィヴァルディのオペラのイタリア語の歌詞との接合はぎくしゃくせざるを得ない。だが、前にも書いたように、ヴィヴァルディのオペラ・アリアの素晴らしさの啓蒙作品なのだと割り切れば、それは些細なこととも言えるのかもしれない。個人的には、この作品を通じてでもヴィヴァルディ・オペラの人気が高まってほしい。

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2025年8月16日 (土)

ヘンデル《ジュリオ・チェーザレ》

ヘンデルのオペラ《エジプトのジュリオ・チェーザレ》を観た(ザルツブルク、Haus fur Mozart).

ヘンデルのこのオペラは《ジュリオ・チェーザレ》と呼ばれているが、正式には《エジプトのジュリオ・チェーザレ》である。ジュリオ・チェーザレを扱ったオペラは実はバロック期に沢山あって、微妙にタイトルが異なっていたりする。昨年インスブルックで蘇演されたジャコメッリのオペラは《エジプトのチェーザレ》でストーリはほぼ同じ。

歴史上の事実としてもユリウス・カエサル=ジュリアス・シーザー=ジュリオ・チェーザレは、エジプトに行き、クレオパトラと親密な関係になったわけだが、オペラ化されているのは、チェーザレとの戦いに敗れエジプトに逃れたポンペオ(ポンペイウス)がトロメオにより殺され、トロメオが首をチェーザレに献上するのだが、チェーザレはそれを喜ばず、ポンペオの妻コルネリアと子セストは復讐を誓うといったところから話は始まる。

今回のものは、曲はおなじみのものだが演出は新演出である。演出家はドミトリ・チェルニアコフで、舞台を核シェルターあるいは防空壕あるいは工場の地下といった感じのコンクリートの塊の建造物で地下、それが三つの部屋・区域に分かれており、登場人物はみな現代服でかつ労働者的服装である。エリートとか富豪とかいった感じはまったくない。この演出あるいは衣装の欠点は、エジプト側なのかローマ側なのかが一目でわからないことだ。ポンペオは髪型がなんなくトランプ大統領を思わせる。

昨今の世界事情を反映して核シェルター的・防空壕的空間で展開されるのだろうが、個人的には服装はもう少しエレガントでも良かったのにとも思う。チェーザレも演出家の意向によりずっと陰鬱な感じに描かれる(これは明らかに歴史的事実に反する)が、戦争が現在進行中の気持ちが晴れることのない指導者と考えることが出来よう。ロシアのプーチン大統領は、ジャーナリズムでは皇帝とよばれていることも頭をよぎる。一対一対応でどれが誰というのではないが、こういう設定にしたのはウクライナでの戦争が影を落としている可能性があると言うことだ。

まあ、こういう演出も一つの可能性としてはありうるが、チェーザレの性格と音楽は齟齬をきたしていたと考える。チェルニアコフに限らないが現代の演出家は、リブレットをないがしろにすることをなんとも思っていないかのようだ。

チェーザレはクリストフ・デュモー。クレオパトラはオルガ・クルチンスカ。彼女は声は出るのだが、バロック歌唱の様式感はやや乏しい。コルネリアは Lucile Richardot. ボリュームのある声。セストはフェデリコ・フィオーリオ(ソプラニスタ)である。彼はやたらと跳ね回り、飛び回る演戯をさせられていた。これもどうかと思った。フィオーリオは澄んだ声で、少年の役柄にあっていたし、バロック歌唱の様式を備える歌だった。トロメオはユーリ・ミネンコ(カウンターテナー)。アキッラがアンドレイ・チリコフスキーでこれも一貫して暗い人物として表象されていた。

ここまで暗い演出でも、ヘンデルの音楽は喜ばしかったり、晴れやかであったり、堂々としていたり、しんみりしていたりと変化に富んでおり、実に素晴らしい。指揮はエマニュエル・アイム。さっそうとし、キビキビとした指揮で音楽がだれることがない。最後の合唱が晴れやかにならなかったのは演出家が自らハッピーエンドが信じられないとプログラムに書いているので、それを反映しているのかと思う。こういうコンセプトは本来ならまったくオペラ・セリアを理解していない演出とも言えるが、それを圧する現実が演出家をさいなんでいるのだろう。幾重にも不幸な現実が存在する時代にわれわれは生きているのである。

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