2019年3月 3日 (日)

《アルチーナ》

ヘンデルのオペラ《アルチーナ》を観た(カールスルーエ)。

前回不調だったオロンテ役が交代して、カナダ人テノールのネイサン・ヘラーに交代。彼はチューリッヒから急遽やってきたとのことだった。歌手の場合、身体が楽器なわけで、マスタークラスの学生を見ていてもマフラーをしたり喉を守ることにはおこたりない。しかしそうしていても、不調になることは避けられない場合があるだろう。他人事ながら大変だなあ、と思う次第である。ネイサン・ヘラーは比較的イタリア語の発音がしっかりして、通る声であった。
ヘンデル音楽祭のヘンデル上演の唯一の弱点と思われるのは、イタリア語の発音が弱い歌手が多いことだ。全体として非常に高いレベルにあり、大いに満足しているのだが、その点には向上の余地がまだまだあると思う。英語圏出身の歌手で、最近はイタリア語の発音がしっかりしている人もかなり出てきているのだが、個人差は大きく、声(声量)を出すことを優先で、子音の発音が聞き取りづらく、その結果、なんと言っているかわからない、聞き取れない歌手も複数いた。
演出もストライキは終わり、通常に戻った。演奏も概ね変わらず。
ドイツ・ヘンデル・ゾリステンのメンバーはほぼ去年と重なっているわけだが、いろんな指揮者を経験することでオケとしても発見や成長があるのではないだろうか。とりわけ、今回のペトルゥのような指揮者、ピケのような指揮者を経験するとドイツ系の指揮者とは一味もふた味も違った世界をこちらも楽しむことができるし、オケが蓄える経験としても貴重なのではないかと思った。常任指揮者が変わって何年とかいうのではなくて、この音楽祭を契機として短期間に集中的な演奏会をこなしていくわけだが、同じオケからこれほど異なった響き、音色、ダイナミズムが現れいでるのかと改めて指揮者の存在意義に感銘を受けた。バロック時代に現代のような指揮者はいなかったであろうが、バロック時代にバロック楽器をもちいてバロック音楽を演奏するのと、現代にピリオド楽器を用いて、バロック音楽を演奏するという位相の違いを考慮に入れれば、指揮者の意義が大きいことをポジティブに捉えても良いのかと思う。

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2019年3月 1日 (金)

《アルチーナ》

ヘンデルのオペラ《アルチーナ》を再び観た(カールスルーエ)。

この日、州立劇場からメールが来て、今日は劇場スタッフの時限ストライキがあるので、セミステージでの上演となるという。ただし衣装、仮面はつけているとのことだった。
スタッフというのがどの範囲かは判然としなかったが、実際に行ってみるとクロークも休憩時間の飲食コーナーも通常通りだった。
舞台の上での変化はというと、背景は白い壁のみになっている。ただしその壁への映写は通常通り。また、いつもは舞台上、客席から向かって左側に大きな壁が奥手に向かってあり、最後にその壁を壊すと、魔女アルチーナの魔法で石やら獣になっていた人が出てくるという場面がある。その壁が向かって右側で、壁の向きがいつもとは90度違っていたことが1つ。この壁が出てくるタイミングがいつもよりずっと遅かった。もう1つは、結末に近いところで歌詞に虎の出てくる勇ましいルッジェーロのアリアがあるのだが、そこで振り回す剣に火がつくという演出があるのだが、この日は剣は振り回すものの火はつかなかった。つき損なったのではなく、つけるための準備の手順自体をしていなかった。
衣装はいつもと同じなので、演出に関して痛痒は感じなかった。
演奏は、第一幕は、ストライキのアナウンスにも関わらず来てくれた観客への思いもあったのか、オケも指揮も歌手たちも素晴らしかった。ところが第二幕になって、第一幕での観客の暖かい拍手に安心したのか(どうかはわからないが)、歌手たちは、指揮者が設定しているテンポを崩し、勝手に遅くしてしまう例が頻出した。つまり前奏の部分でのテンポが歌が入った途端にガクッとテンポが落ちる、あるいは歌っているうちに感情を込めるとともに落ちて元に戻らない。音楽とドラマの推進力が落ちてしまい残念だった。テンポを落とし悲しげな表情の厚塗りをせずとも、曲想がしかるべき叙情性を示しているならば、自然に現われ出でる表情があるわけで、曲を信じた方がかえってこちらに感銘を与えるのにと思った次第。
モルガーナ役の歌手など、よく通る綺麗な声なのだが、アジリタでずるずるとテンポが落ちるのがもったいないのだった。オロンテ役の歌手は、2幕以降、通常の声が出なくなり、レチタティーヴォも苦しげで明らかに声が小さかった。アリアも省略された。何か突然具合が悪くなったのだと思う。観客もそれを理解し、カーテンコールで彼へのブーイングは全くなかった。

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2019年2月28日 (木)

《セルセ》その5

ヘンデルのオペラ《セルセ》の演出について。

これまでの項目で、筆者の思うところを書いてきたが、演出家のツェンチッチのインタビューを読んで、筆者とは全く違ったことを重視していたのだと衝撃を受けたので報告します。
少しばかり言い訳をさせてもらえば、芸術の解釈は、作った本人がこうと思った通りだけが正解な訳ではなく、ある表象が複数の異なった印象を受け手に与えることは、むしろ芸術家自身が望んでいる場合が多いので、筆者としてはツェンチッチの演出に受けた印象というのは、前に書いた通りです。
では、ツェンチッチはインタビューでどんなことを言っているのか。お断りしておかねばならないが、ツェンチッチのインタビューはプログラムに掲載されているのだが、ドイツ語で、筆者はグーグル翻訳で英語にして解読した。グーグル翻訳には不十分なところがあり、sister と訳すべきところがfiance' となっていたりして完全ではないのだが、ともかくあらましを紹介することが目的なので、ご了承いただきたい。
まず、ツェンチッチは、このオペラのテーマは運命だという。第一子に生まれたセルセは王となり権力も富もほしいままにするが、弟のアルサメーネは兄の臣下である。ロミルダとアタランタの姉妹もロミルダはセルセからもアルサメーネからも言い寄られるが、アタランタは単にアルサメーネに思いを寄せるのみだ。さらにその上で、限りのない貪欲さというのも重大なテーマだという。セルセは権力も富も持っているのだが、それで十分満足せずに、他者(弟)の恋人を、我がものにしようとする。しかも彼女(ロミルダ)が拒絶しているのに。
さらに筆者が驚いたのは、台本に関すること。《セルセ》の台本はカヴァッリ作曲の《セルセ》の台本が大元で、それをボノンチーニの《セルセ》が変更しつつ踏襲し、さらにヘンデルの台本は無名の台本作者がそれを元に書いているのだが、登場人物は7人になっている。筆者が驚いたのは、ツェンチッチは7人にしたのは、その登場人物が7つの大罪を表象しているからだという点だ。ツェンチッチは誰がどの罪に相当するということをいちいちは挙げていないのだが、例えば、セルセは貪欲ということかとか、アタランタは羨望かとか思わないでもない。しかし、《セルセ》を一種のアレゴリー(寓意劇)と解釈するのは斬新な考えだと思う。
ツェンチッチが舞台をラスベガスに持ってきているのは、現代の資本主義社会での限りのない欲望、貪欲さを象徴させる舞台にもってこいだからとのことで、それはうなづけると思った。

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2019年2月27日 (水)

《セルセ》その4

ヘンデルのオペラ《セルセ》を再々度観た(カールスルーエ)。

今回は、音楽を聴きながらも、やや劇として楽しむ方向で観た。オペラの場合、音楽劇だから、音楽も劇も楽しむわけだが、指揮者やオーケストラを注意深く観察していると、劇の演出の細部を見逃したりしがちだ(両方、同時に細かくできる人がいるかもしれないし、そういう人の存在を否定するわけではありません)。
前回と前々回は、座席が2、3列目だが、やや端の席で、今回は7列目だが、指揮者のまっすぐ後ろという位置。1階の座席は結構傾斜している。指揮者の指揮ぶりは意外ことに斜めからの方が、正面からよりもずっとわかるのだった。また、オケの団員の仕草、表情も(単純に列が前の方が距離が近いということもあるだろうが)前回の方がよくわかった。
逆に、劇の進行、演出を観る点からは、正面でやや引いたところからの方が全体を見渡すのには便利だ。
最終日のせいか、指揮が、2幕で早いところは猛然と早いのがさらに輪をかけて早くなりちょっと音が荒くなっていた(縦の線が乱れるのと、弦楽器の音自体が荒くなっていた)が、3幕になるとすっと軌道修正していたのはさすがである。ペトルゥの指揮は、アクセントのつけ方が明快で、フレーズもノンレガートはノンレガート、フレーズの最初の音も曲想によって弓を弦に叩きつけるような音だったり、滑らかな音だったりそのコントラストがとても大きい。シュペリングの《アルチーナ》でもメリハリはきいているのだが、そのコントラストの強さ、大きさがペトルゥの方が強烈なのだ。2幕の幕開けや3幕の幕開け、あるいはカーテンコールの拍手から判断するにペトルゥの指揮ぶりはカールスルーエの聴衆に強く支持されているようだ。
彼が疾走するときにそれについていくオケも立派だと思うし(純粋に音楽的にエクサイティングだ)、それにのってスイングしながらノリノリの歌を聴かせるファジョーリやアリアナ・ルーカス(ファジョーリと比較すると気の毒だが、アジリタがうまくいく時と苦しそうな時があるーこのテンポでは無理からぬところかとも思う)ら歌手陣も大活躍だ。かと思うと、そのせいもあってのどかな曲想をたっぷりと歌わせるとこれはこれで映えるし、ファジョーリもツェンチッチもロミルダ役のスナファーも感情過多になりすぎずに、叙情性を表現していた。
バスの2人、アリオダーテのパヴェル・クディノフやアルサメーネの従者エルヴィーロのヤン・シューは、オペラ・ブッファにおけるバッソ・ブッフォの先駆者のような感じで、アリオダーテ(将軍だが、今回の演出ではレコード会社の宣伝部長あるいは営業部長?)は大スター歌手セルセの言うことをきかねばならず、エルヴィーロはアルサメーネの命令をきく。彼らの歌には特徴があって、音程が低いだけでなく、歌の最初の部分はレチタティーヴォ的でメロディ的でない。まるで、親分に命令されて、ボソボソと呟く、ぼやく部下のように始まり、徐々にメロディが出てくる。そこで何度か同じメロディを繰り返す時に、さっとヘンデルがひと刷毛伴奏音型を変えると、実に素敵な曲に聞こえる。これは指揮者のコントラスト重視の賜物でもあるし、2人の歌手の歌唱力も十分それに応えていた。興味深いのは、彼らの曲はダ・カーポ・アリアにならずその前にプツンと終わることだ。身分制の社会で生まれた芸術たるオペラは、身分によって声質の高低も決まってくるし、アリアやアリオーソの形にも差があるということか。
今回のツェンチッチの演出は、一貫してコミカルなのだが、ドラッグや売春といったダークサイドも描きこまれている。現代の愛ということを問う時に、異性間の愛も、同性愛もある。また美しい若者(男女とも)の身体は、商業化されやすいこと。ロマンティック・ラブというと美形の男女(あるいはそういう雰囲気を漂わせる男女)間のものというバイアスが19世紀のオペラにはかかりがちだが、アタランタやアマストレをわざと不恰好な女性として表象しているのは、コミカルな効果を狙っている面が第一にあると思うが、理屈を言えば、ロマンティックな愛は「美しげな」男女の独占物ではない、という主張もあるのかもしれない。売春宿の飾り窓のうちと外にはスタイル抜群の女性がいるのだがお茶をひいていて、その隣のドラッグが取り引きされていそうな怪しげな店の前には男性カップルが睦みあっているのも象徴的な光景だったかもしれない。単純な女性呪詛ではないし、女性賛歌でもない。単純な同性愛賛歌でもない。単純なストーリーに回収されず、しかし細部には徹底的にこだわって笑わせてくれる。
ジョークと音楽の進行も綿密で、例えば序曲のところで、ファジョーリが女性に抱きつくシーンは曲想が遅めからダッシュして早くなるちょうどそこで抱きつくといった具合に音楽の進行と、所作のすり合わせは綿密だし、だからポンと弾けるような可笑しさが生まれてくるし、リズムにのっている分、下卑た感じが薄れるのだ。飾り窓の女性(モック役)の前で男装したアマストレが嘆きの歌を歌う場面でも、窓の前に立たれては営業妨害というので女性がアマストレにしっしっあっちいけ、という仕草をする。アマストレは気付かずに歌い続けるが、曲想が変化するところで、女性はガラスをドンドンと叩き、アマストレは驚いて、脇にのく。きわどいと言えばきわどい情景、舞台背景が単にセンセーショナルなのではなく、音楽の進行と合わせたコントが組み合わされ笑いをもたらすし、原作にない電話や玄関チャイムの音などの使い方も秀逸。
決して説教くさい演出ではないのだが、見終わってみれば愉快な笑いは、単なる笑いではなくなっているかもしれない。

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2019年2月26日 (火)

《セルセ》その3

ヘンデルの《セルセ》の演奏について(カールスルーエ、ヘンデル音楽祭)。

歌手で見事なのはファジョーリとツェンチッチ。この2人はまことに対照的で、あえて言えばファジョーリがマリア・カラス的でツェンチッチはレナータ・テバルディ的と言えるかもしれない。ファジョーリは、どこで劇的に音楽を盛り上げるかをプロフェッショナルに心得ていて決してはずさないし、超絶技巧にも乱れがない。一般的に言って、カデンツァのようなところでアジリタの超絶技巧をひけらかす部分は、音楽の進行が止まってしまうので下手をすれば音楽的には退屈になってしまったり、だれてしまったりするのだが、ファジョーリの場合そういうことは決して起らないのだ。
 一方、ツェンチッチの歌唱は、叙情的な部分の歌い回しに美点がある。彼が歌うと、一音か二音の単純な旋律に、これほどの情感が込められるものかと不思議な気分になる。それでいてクサくない。それは彼が徹底して様式美を心得ているから、ギリギリのところで形を崩さない、崩すところまで行ってしまわないからだ。その意味で、彼が兄である王のセルセに恋人ロミルダを奪われかけるアルサメーネを歌うのはうってつけだ。アルサメーネの歌は、情けない自分の立場を嘆いた女々しいものが多いのである。その嘆き節を繰り返した挙句、ついに王に挑戦的な態度を取る、という劇的展開がある。そこでの変化も聴かせどころだ。
 しかし、こうしたアリアごとの重唱ごとの歌手による歌い回しの変化もさることながら、この上演ではペトルゥの指揮による、伴奏の表情の変化が実に多彩で、聞いていて飽きないのだった。ヘンデルに駄曲なし、ということがしみじみ分かるのだ。彼の伴奏では、アリオダーテやエルヴィーロといった男性の低声のための曲も、ヘンデルが前半と後半で一筆伴奏の表情を入れ替えるとガラッと音色・表情が変わりアリア全体の振り幅が大きくなり、曲の魅力が大いに増すことが実感できた。指揮者、それに応えるオケがいいと、作曲家の偉大さがよく分かる。オペラを聴く楽しみが、歌手の美声、技巧を楽しむことであっても、劇のストーリーを楽しむことであっても、演出を楽しむことであっても良いが、作曲家の創意工夫を味わい、その天才にうたれることであっても良いではないか。
 今回の指揮は、フレーズのアクセントの明快さによって、対位法や曲の構造がよりくっきりと浮かび上がり、旋律だけでなく、曲全体として伴奏も含めての美しさ、ダイナミズムがよく分かる演奏で、ヘンデルの無限の才能を味わうことができた。

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《セルセ》その2

ヘンデルのオペラ《セルセ》を再び観た(カールスルーエ、ヘンデル音楽祭)。

ツェンチッチの演出について再び。原作のリブレットで設定された時代を現代に移したり、王である登場人物を卑俗な人物に変えてしまうような読み替え演出は今や少しも珍しくはない。問題は読み替えが何をもたらすがである。読み替えが単に思いつきの範囲を出なければ、作品の新たな魅力は浮び上らず、小芝居がうるさく、音楽を味わう妨げになることさえ、残念ながらしばしば経験するところだ。
 今回のツェンチッチの《セルセ》演出は、こういう解釈もあるのか、とこちらにいくつもの気づきを与えてくれる点で画期的だったし、オペラに対する深い理解や愛のない演出家の凡百の読み替え演出とは似て非なるものなのだった。
 僕の考えでは《セルセ》という作品は性格がつかまえにくい。冒頭の'ombra mai fu' からして、楽曲としては魅了的だが、セルセはなぜプラタナスの木陰にこうも惹かれているのか。また、それをからかうロミルダも大胆と言えば大胆だ。無論、そのやりとりからロミルダとアルサメーネの仲にセルセが割って入るキッカケができるわけで、深く考える必要はないのかもしれないのだが、この2曲は妙に心に染み入る曲なのでなぜこういう曲なのかと考えさせられてしまうのだ。
 ツェンチッチの場合は、一貫して喜劇的なトーンで通している。オンブラ・マイ・フは、弾き語りの売れっ子歌手がピアノを弾きながら歌うのだ。ロミルダの曲の時は綺麗どころの女性たちが7人ほどダンスを踊っている。バーというかキャバレーのようなところで客が見ているのだが、その客たちは男のカップル、女のカップル、男女のカップルがそれぞれいる。愛には様々な形があるというコンテクストがさりげなく与えられている中で、セメレとロミルダの本気とも戯れともつかぬ愛の駆け引きが始まる。
 前回にも述べたがロミルダと妹アタランタ、セルセの婚約者アマストレという3人の女性の描きわけがこれほど分かりやすい演出は珍しいだろう。おまけに、身体的特徴も大きく変えているのだ。ロミルダ役のローレン・スヌッファーは小柄で細身。翌日たまたま《アルチーナ》の上演時に2人隣に彼女が座っていたのだが、その華奢なことに驚いた。妹アタランタ役のキャサリーン・マンリーは事あるごとに、姉および姉のお取り巻きから侮蔑的な扱いを受ける。アルサメーネからの手紙の宛名をロミルダではなく、私(アタランタ)だという策略には、彼女がアルサメーネに横恋慕しているということもあるが、今回の演出では姉ロミルダに対する積もるコンプレックスと恨みという点に説得力がある(この演出方法だけが正しいと言いたいわけではない)。アタランタが、人形を取り出し、五寸釘ではないが、針のようなものを突き刺すシーンもあり、ブラックな笑いを誘っていた。アタランタ役の女性は、おそらく体に詰め物をし、わざとスタイルを崩し、身のこなし、ダンスなどもミスタービーンの彼女を思わせる仕草で、ギクシャクとした動き、妙な歩き方で、醜女ぶり(彼女が本当に醜女だというわけではありません)を発揮していた。その一方、セルセの元々の婚約者アマストレは渡辺直美風に豊満で、原作では王家の王女ということなのだが、この演出では庶民的な雰囲気をプンプンと発揮し、お掃除人なのだ。しかし、妙に肉感的な色気は所々で発揮する。アタランタの屈折して男に迫っても不発に終わるお色気と対照的である。
 今回の《セルセ》演出では現代における様々な愛の形の可能性(背景としてモック役の人物が演じている)と並行してセルセやロミルダやアルサメーネ、アタランタ、アマストレがそれぞれに愛を求めて彷徨う様が、コミカルな形で描かれる。
 その視点が一貫しており、こういう解釈も1つ成り立ちうるのだと納得させられるのである。
(長くなったので演奏については別項で)。
 
 
 

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2019年2月25日 (月)

《アルチーナ》

ヘンデルのオペラ《アルチーナ》を観た(カールスルーエ、ヘンデル音楽祭)。

去年のプロダクションの再演なので基本的な変更はない。演出も基本的には同じ(人と人との絡むアクションが少し激しくなっていたが、それはコンセプトが変わったというほどではなく、タイトル・ロールのアルチーナ役の歌手が去年は妊娠していることが誰の目にも判る状態だったが、今年は別の歌手で普通の状態だったせいなのかもしれない)。歌手もルッジェーロのデイヴィッド・ハンセンは同じで、彼のルッジェーロを1年前に観たことをまざまざと思い出した。しかし、その後で、ハンセンはどうでしたかと尋ねられた時にほとんど思い出せなかった理由もわかった。去年の段階でも、今年の段階でも、ああ、一生懸命歌っているけど、いくつかの点、いくつかの箇所でもの足りないなあ、こちらに十分な満足を与えてくれないなあ、というものであった。そういう歌手の場合、印象から消えてしまうのだ(画像や再演で見れば思い出すけれど)。
去年、ここで《アルチーナ》を観た時にはアンドレアス・シュペリングの指揮、ドイツ・バッハ・ゾリステンの演奏と、特別な大スターはいないもののカウンターテナーも古楽唱法に乗っ取った歌手もいて、様式的にととのった(バラバラでない)ヘンデル上演の素晴らしさを満喫したのだった。
 しかし人間の贅沢は我ながらおそろしい。去年のヘンデル音楽のトリはファジョーリとポモドーロ(演奏団体の名前です)によるヘンデルのアリア公演で、何曲かの出入りはあったけれど、これが日本にもやってきて、ただしオケはヴェニス・バロック・オーケストラになったわけだ。ポモドーロは人数も少ないのだが、これほど柔軟で俊敏なオケがありうるのかとその音楽性も含め舌を巻いた。
 同じドイツ・ヘンデル・ゾリステンでも去年は英語オペラ《セメレ》が再演で、そちらの指揮者はかなりもっさりしていた(音楽づくりが)ので、《アルチーナ》を振るシュペリングが颯爽として見えた(外見でなく、音楽がです)。ところが今年は、ペトルゥの指揮の後では、フツーに聞こえてしまう。おそらくシュペリングは、ケレン味を重視しているのではなく、自分の音楽的感性に忠実に指揮しているのだろうし、明らかにここぞという燃え上がるようなアリアでは髪を揺らせて(カーリーヘアのせいか振り乱してではなく、頭の揺れとシンクロして髪も揺れるのです)テンポを上げ、弦のアタック音もガツンと来るようにしていた。そういった激しい表情のアリアの場合、歌手も強い声、表情が求められるのだが、どこまで行けるかは歌手の力量あるいはコンディション次第なのだろう。ハンセンやブラダマンテ役のマッツカートは、かなり健闘していたと思うし、第2幕は相当にオケ、指揮者、歌手の表情の方向性が一体となる稀有な瞬間を顕現していたのだが、パワーが足りないというかもう一歩と感じるところも率直に言えばあるのだった。
モルガーナ役の歌手は第一幕ではアジリタのたびに相当テンポが遅くなり曲の形が崩れ聞き苦しかった。こういった歌手のコントロールは指揮者との力関係によるのか、あるいは練習時間がどれくらい確保されているのかによるのか。
1つ発見。この日の席は1階の階段状の座席の一番後ろの壁際だった。2幕が終わったところで、ドイツ人の婦人が終演後急いで帰りたいので席を代わってくれないかと頼まれ、4列ほど前に出た。音が全然違うのである。理由は簡単で、壁際の奥は、2階席が屋根上にせり出しているのだが、4列ほど前に出るとほぼその影響がなくなるのだ。やはり音がずっとスッキリ聞こえる。特に、弦楽器(テオルボも含め)のアタック音、こする音の表情のニュアンス、歌手の発声のニュアンスがより手に取るように聞き取れるのだった。あらためて、音にこだわる場合には、座席は重要である。

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2019年2月24日 (日)

《セルセ》

ヘンデルのオペラ《セルセ》を観た(カールスルーエ、ヘンデル音楽祭)。

フランコ・ファジョーリのタイトル・ロール(セルセ役)、マックス・エマヌエル・ツェンチッチがセルセの弟アルサメーネ、彼らとCD録音などでおなじみのジョージ(ゲオルギオス?)・ペトルゥ(Petrou だが、日本語表記は様々、どれが正しいのやら、それとも本人が放任しているのだろうか.アテネ生まれのギリシア人 )の指揮。ペトルゥは、2020年よりゲッティンゲンのヘンデル音楽祭の音楽監督に就任が予定されているようだ。
オケはこの音楽祭でおなじみのドイツ・ヘンデル・ゾリステン。見覚えのある顔も何人もいる。驚いたのはペトルゥの指揮で音のダイナミズムやリズム感や楽器のアタック音がガラッと変わったこと。翌日の《アルチーナ》でこの変化はオケのメンバーの入れ替えなどによるのではなく、やはり指揮者の求めるものが異なり、オケがそれに反応しているのだと確認。通常のオケでも、楽器はそのままで奏法を変えると印象が変わることがあるが、バロック・オケで楽器はそのままでこれほど表情が変わることに感銘を受けた。
 ペトルゥの指揮は、非常にメリハリが利いていて、かつ、絶対にセンティメンタリズムに陥らない。叙情的なフレーズ、パッセージもインテンポで進めていく。個人的にはインテンポでテンポを落とさず、楽曲の流れが明快なままに、そこからこぼれ落ちる抒情が好ましいと思う。ロマン派以前の抒情は、基本的にはそうあるべきなのではないかとすら考えている。つまり、様式美がまずあって、それを確保した上でないと、抒情性になだれ込んだ場合には、型が崩れ、見苦しい、聞き苦しいと感じるのだ。
 ペトルゥの指揮は、総じて早めのテンポで、所々で大きく腕を振り下ろしアインザッツをとる。つまり、早めのテンポで縦の線が楽器群同士でずれかけた時に、そこでバーンと調整する仕組みなのだ。だから、オケは決してバラバラに崩壊したり、ハラハラすることはない。
 演出はツェンチッチ。この人は本当に多角的な才人で、歌も巧みだが、演出も、いやそれどころかオペラ全体のプロデュースのようなこともやっているようだ。ツェンチッチのアルバムを見てもわかるのだが、例えばナポリ楽派のアリア集はほとんどが世界初レコーディングである。売れ筋の曲をちりばめて売り上げを伸ばそうという方針は微塵も見えない。むしろ彼の野心は、音楽演奏の歴史に確かな足跡を刻み、我々一般聴衆の音楽的嗜好・認識に革新をもたらすことではないかと思う。
 今回の彼の《セルセ》の演出は、かなりキンキラで派手なもの、1970年代くらいのラスベガスが舞台。ご存知の通り、セルセは元々はクセルクセスで古代メソポタミアの話なのだが、元の話も史実に忠実であるわけではない。ツェンチッチは思い切ってセルセをラスベガスで弾き語りをする歌手に仕立てた。ファジョーリもノリノリでスパンコールの輝くジャケット、さらに孔雀のような大きな羽飾り(宝塚のよう)を背負って登場、冒頭の’オンブラ・マイ・フ’はファジョーリがピアノで弾き語りをするのだ。
 そもそも《セルセ》は不思議な作品で、コミカルな要素に事欠かない。セルセはいきなりプラタナスの木への愛情を吐露するし、それに対しロミルダがあなたは木にしかご興味がないのね、と粉をかけたところから、セルセがロミルダに興味を示し、ロミルダとアルサメーネの仲が引き裂かれることになるのだ。このオペラもお約束のように2組のカップルが出てくるが、それと2組の兄弟、姉妹が交錯している。
 兄弟なのは、王セルセと王弟のアルサメーネ。姉妹はロミルダとアタランタ。ロミルダとアルサメーネは元々相思相愛なのに、セルセが割り込んでくる。妹のアタランタはアルサメーネに目をつけていて、姉ロミルダがセルセの王妃になれば自分がアルサメーネと結ばれるチャンスが生まれるのではと虎視眈々と狙っている。自分の美貌にも自信があって、顔や笑顔でイチコロよ、という歌詞がある。しかし、今回の演出では、アタランタ役のキャサリーン・マンリーは、わざと不細工な仕立て。体にも詰め物を入れわざとスタイルを悪くみせ、メガネをかけ、ミスター・ビーンの彼女を彷彿とさせるギクシャクとした動き、ダサい感じを巧みに出しており、笑いを誘っていた(観客に受けていた)。これまでの典型的なアタランタ役の役作りとは全く異なっており、新しい画期的なアタランタ像ではないか。
 一方、実はセルセには婚約者アマストレがいる。アマストレは、王族の娘でロミルダより王妃にふさわしい血筋という設定なのだが、今回の演出では、掃除婦となって、下働きをしている。序曲の時に、セルセと舞台の袖部分でかなり露骨にイチャイチャしている女性がいるのだが、それが彼女なのだ。かなり豊満な身体つきで、ロミルダ、アタランタ、アマストレの3人の描き分けを、ツェンチッチはこれ以上ないほど明快に色分けしている。キャラが全く被らないのである。舞台はプールサイドだったり、セックスショップのある通りであったりするが、そこにバニーガールが出てくるかと思えば、バニーボーイも出てくるし、アルサメーネの部下エルヴィーロ(Yang Xu)が花売りとなる場面も、花というのは、様々なドラッグ(麻薬)なのだった。男女のカップルもいれば同性カップルもいるというLGBT的に配慮された?演出だ。
 《セルセ》の世界には虚々実々というか虚と見えたものが実、あるいは実と見えたものが虚ということが次々と現れ、さらに逆転していくことの連続で見ていて飽きない。
 価値や秩序の転倒、倒錯を楽しむ音楽劇となっている。
 ある意味でおふざけのオンパレードなのだが、アリアや二重唱、合唱の音楽的な緊密性はこの上なく高い。音楽的にダレるところが皆無。ヘンデルの手腕、指揮者の音楽的な把握、歌手およびオケの技量の高さに脱帽である!
この演出について、youtube に trailer がアップされています。
https://www.youtube.com/watch?v=WVS9lsmAGJQ&start_radio=1&list=RDWVS9lsmAGJQ

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2019年2月19日 (火)

《紫苑物語》その4

オペラ《紫苑物語》は、第一幕と第二幕が、対照的に出来ていて、第一幕はうつろ姫が活躍するわけだが、第二幕の冒頭は宗頼と千草のむつみあう様が技巧的な歌唱とともに描き出される。エロティシズムの違った様相が、異なった様相の音楽と演技で表現されるわけで、宗頼の高田智宏、うつろ姫の清水華澄、千草の臼木あいは三者三様の輝きがあり称賛のほかない。清水は、明るいオーラがあって、一見卑猥な歌詞でも下品にならず明るいエネルギーを発散するのだ。臼木あいは、それと好対照で、高田と睦みあう場面は妖艶であった。

 エロティックな台詞も、その意味で表現幅の自由を作曲家に与えたと考えられる。佐々木氏の台本は、そういう意味で言葉の表情の振り幅、色数が多く、作曲家にとって大いにプラスに作用していると想像される。

 監修者であり、原作を選んだ仕掛け人である長木氏は、「小説の論理からオペラの論理へ」という一文を寄せ、彼の日本語オペラに寄せる思いが語られている。その際の論点は3つで、1.ことばと音楽の関係、2.レシ(物語)のあり方と音楽の関係、3.オペラの論理への転換の仕方、である。長木氏がこれまでの日本オペラに満足できず、こういうものが作りたかったという話で、「原作に強く惹かれた大野和士さんとは、オペラの論理の点でも意気投合」とある点が注目で、このオペラの製作は、どういうオペラを、どういう日本語オペラを作ろうか、作らねばならないのか、という自分たちの置かれた歴史的な役割も含めて、入念に関係者の間で話し合いがなされている。座談会でも、実際の狐の鳴き声がシェーンシェーンとかキューンキューンだったというのを大野氏が見つけたのか西村氏が見つけたのかが判然とせず、佐々木氏が「2年間一緒にやっていると誰が言い出したのかわからない。共同作業ということはそういうことです。プライオリティなんて関係ない」という発言があり、心を打たれる。彼らは、そこまで2年間、練り上げ、練り上げてきたのである。

 大野氏が特に注文を出したのは、2重唱、3重唱、4重唱を入れることだった。実際、第二幕第三場には4重唱があり、音楽のスタイルは全く異なるが、ヴェルディの《リゴレット》を想起させられるのだった。

 長木氏が指摘しておられるように、仏の世界は必ずしも善なるものと一元的に解釈する必要はない。原作においても、仏像の首がなんども取れて、取れるたびに異様な表情となり、元の位置に戻ると穏やかな表情に戻るとある。漂ってくる鬼の歌もあり、解釈の余地を十分に残していると言えるだろう。

 一度観ただけでは、一度聞いただけではくみ尽くせぬ豊饒な音楽世界、音楽劇世界を堪能した。ぜひ、もう一度観てみたいと思った。

 なお、字幕は日本語字幕と英語字幕が同時に表示されていた。このオペラが海外でも上演されることを願わずにはいられない。

 

 

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《紫苑物語》その3

《紫苑物語》は、世界初演であり、原作者の石川淳は別として、作曲家も台本作者も演出家も指揮者も監修者も存命であり、その方々がプログラムに寄稿しているのは実にありがたい。筆者が、モーツァルトやロッシーニやドニゼッティやヴェルディ、プッチーニの初演状況を調べようとしても、彼らの創作プロセスを窺い知ることは困難なことが多い。

演出家の笈田ヨシ氏は、インタビューをまとめたものを寄稿していて、その冒頭で「大野芸術監督にお声がけいただき『紫苑物語』の演出を担当。。。」とあり、演出家の決定に大野氏が決定的役割を果たしたことがわかる。そして、あらためて大野氏がこのオペラの創作において、単に指揮者というばかりでなく、新国立劇場のオペラ芸術監督として、正当に深く関与したということを示しているだろう。
 笈田氏の演出は、第一幕を血と暴力、第二幕を見えないものへの憧れ(第二幕に出てくる平太は、ある意味で宗頼の分身で、仏師である)で青が支配と、メリハリが効いておりわかりやすくなおかつ迫力を持ってせまるところ、エロスが支配するところ、彼岸的なるものへのベクトルが説得力を持って提示されていた。
 プログラムでさらに興味深いのは、佐々木、西村、大野、笈田の4氏の座談会が掲載されていることだ。その中で西村氏は「台本から喚起されることが非常に多く、ライトモティーフとかいろいろなものを使いながら、スコアを書き上げました」と述べている。氏の作曲ノートには、ライトモティーフとして「紫苑の主題」、「宗頼の主題」、「魔の矢の主題」が譜例としてあげられている。
 座談会で一同が盛り上がっているのが、佐々木氏がうつろ姫のセリフとしてかなりきわどいエロティックな言葉が出てくることで、西村氏はそれが嬉しかったと言い、さらに笈田氏の演出がそれをパワーアップしていたとのこと。非常に図式的に行ってしまえば、プッチーニあたりまでのイタリア・オペラでは恋愛が語られることは多いというかほぼ常にあるのだが、性愛となるとすっと避けている感じがある。それに対し、ワーグナー以降のドイツオペラでは、もっと濃密にエロスの問題が取り上げられている。《紫苑物語》の場合は、エロスや性愛の問題にがっぷり取り組んだのは、作品の魅力となっていると思う。僕は個人的には、リブレットにない強姦シーンや登場人物を裸にするというのは好まない。そういう表現が必要だという説得力がなくセンセーショナルな場面を作らんがためにそうしているのではと(これは悪い意味で)疑いを持つ演出にも昨今は事欠かないからだ。本作の場合は、そもそも原作において、主人公宗頼に関わる女性2人が、対照的で、うつろ姫は人間であるが醜く(リブレットでは美しい姫と変更されている)色情狂なのであり、千草は可憐ではあるが、聖愛の秘術を尽くし宗頼とむつみあう、という設定なのだ。であるから、台本に相当どぎついというかきわどい言葉が出てくるのも必定のことであり、またその言葉を受けとめて音楽や演出がどう応えるかがむしろ問題だと思うが、これは見事に応えていたし、宗頼の高田智宏、うつろ姫の清水華澄、千草の臼木あい、それぞれに見事にエロティックな歌唱、演技を披露してくれた。賞賛のほかはない。断っておけば、濃密にエロティックであるが、全くポルノチックではない。ドラマトゥルギーの上でも、エロスや暴力(矢で動物のみならず、人を殺める)は、そこが終着なのではなく、第2幕で崖に仏の像を彫る平太との対峙へと繋がっていくのだ。
 《紫苑物語》は、座談会で佐々木氏が示唆しているように(彼は宗頼は私だ、という極論を開陳している)、芸術家小説なのだ。宗頼は元々は勅撰和歌集の選者を父にもち、歌の道に励むはずだったのだが、そこから逸脱し、弓道しかも妖しげな弓の名人である叔父に教えを受ける。平太は宗頼のアルター・エゴ(もう一人の自分)である。こういう物語は、例えば、オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』を思い出してみると良いだろう。19世紀のロマン主義で芸術家の自我は肥大化していき(ワグナーが良い例だ)、芸術至上主義も生まれてくる。石川淳の小説世界は、そういった19世紀、世紀末の自家中毒的な世界が、第一次、第二次大戦によってご破算となった焼け跡から蘇るように出てきたものであり、共通する面もあるが、異なっている面もある。つまり、宗頼は、歌を捨て、弓という運動の究極のような世界を極めることで、さらにそこから一歩、精神世界(崖の仏像、鬼の歌)へと歩みを進めたところで話は終わっているのだ。
(続く)

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