2017年3月 7日 (火)

《デイダミーア》

ヘンデルのオペラ《デイダミーア》を観た(東京文化会館小ホール)。

セミステージで、バロック劇場の装置を模したように襖のような装置が何枚かある。衣装はドレスを着て、バロックジェスチャーにのっとった動き。バロックジャスチャーは、様式美があり、ヘンデルの音楽に合う。オケは弦、木管、金管合わせて13人ほど。小ホールだとこれで十分の人数であり音量だ。
歌手も声を大きく張り上げることに注力する必要が相対的に小さいし、オケに埋もれてしまう心配もほぼない。ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、チェンバロの他にオーボエ、ファゴット、そして金管のトランペットとホルンがいたので音色の変化に欠けるところは全くなかったし、原雅巳氏の指揮、コンサート・ミストレスのリードよくキビキビとした音楽とゆったりとしたところでは表情豊かな細かい味わいを享受することができた。
この日のホルンはナチュラルホルン(ピストンがない)で音程はピストンが無い分、不安定になりがちだが、音色は独特のものがあり、ナチュラルホルンの音色はピリオド楽器によくマッチすると感じる。
ストーリは、バロックのオペラではままあることだが、トロイ戦争をめぐる話が元になっている。長い長い話の中でこの《デイダミーア》で扱われているのは、ある1つのエピソードだ。すなわち、アキッレ(将来の英雄)が生まれた時に、アキッレが参加しないとトロイ戦争に勝てないが、アキッレは戦場で死ぬ、という予言がなされた。そのため親は、スキュロス島のリコメーデ王にアキッレを預け、アキッレは念を入れて女の子として育てられる(女装している)。トロイで苦戦しているギリシア軍は、ウリッセ(オデュッセウス)とフェニーチェ(アルゴスの王子)を派遣して、この島にアキッレがいるのではないかと探らせる。リコメーデ王は否定するのだが、ウリッセが一計を案じて、狩をするのだが、お礼の品を持ってくるとデイダミーア(リコメーデの娘でアキッレの恋人)やその友人は宝飾品に目がいくのだが、アキッレは女装しているけれど、剣やカブトに夢中で正体がバレる。この正体がバレる場面は、つい最近まで気がついていなかったのだが、様々な画家が絵画の主題として描いている。
ヘンデルはこの場面、つまりアキッレがギリシアの勇者として祖国を守る戦いに行くぞ、という音楽と、それを聞いてデイダミーア(出征したらどういう運命が待ち受けているか知っている)が悲しむ音楽、そしてウリッセがこれは運命のなせるわざなのだと感慨を漏らす音楽、三者三様なのだが、この3つの音楽が明らかにこのオペラのクライマックスである。
ここでアキッレを歌ったのは民秋理(敬称略、以下同様)は、女性歌手であるが、男が女装しているという感じをストレートな歌いまわしに実によく表現していて見事だった。それを受けて悲しみを表出するデイダミーアの藤井あやは、前述のようにバロックジェスチャーにのせて悲しみを音楽的表情豊かに歌い上げるのだが、決してロマン派風にはならず典雅な歌に心うたれた。それに続くウリッセは佐藤志保で、声はやや細身であったが歌のスタイルは様式感を保っていた。
デイダミーアの親友ネレーアを歌った加藤千春の歌、演技も好演であった。ネレーアの部分はデイダミーアとはほぼ対照的で後のオペラブッファにつながって行くようなユーモラスな場面や歌が多いのだが、その性格を演技でも歌でも的確に表現していたので、デイダミーアとのコントラストが観客にもわかりやすく、それによって舞台・ドラマ自体の光と影がくっきりと浮かび上がるのだった。この上演では男性歌手はフェニーチェとリコメーデ、春日保人と藪内俊弥で、どちらも堂々たる歌。特にリコメーデはこの劇が単なる恋愛劇ではなく、政治的な劇(アキッレを参戦させたくない人と参戦させたい人の綱引き)の面があることを聴衆に示す役割を果たしており、そういった含蓄を歌に表現していた。
この上演はヘンデル協会によるもので、以前にこの作品にまつわるレクチャーなどもあったのだが、こうやって見てくるとこのオペラを恋愛ものと見ることも可能なのだが、同時に、アキッレやウリッセが、ヘンデル当時の誰を表象しているのかという政治的な読みをすることも可能だろうと思う。これはレクチャーで三ケ尻正氏が解説していた通りである。

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2017年3月 1日 (水)

《トスカ》

《トスカ》を観た(東京文化会館)。

二期会、指揮はルスティオーニ。彼の指揮は実に見事だった。スカルピアの「行け、トスカ」はオケが単調になりがちだが、彼が振ると同じリズムの繰り返しにスイングする部分が生まれ、リズムが生きてくる。
彼の指揮は、テンポ設定が巧みで、歌手が伸ばしてテンポが遅くなった時に、次のフレーズでさっと元に戻す、その戻し方が決してギクシャクしないですっと元に戻っている。また、弦の鳴らし方が、プッチーニが手放しで歌わせているようなところでも抑制の効いた上品な響きになっているので、通常の指揮者のプッチーニよりも幾分上品な感じになる。またその結果、弦と管楽器のバランスがよくなり、管楽器の音がよく聞こえるし、オケ全体の音色の変化が聴衆によく伝わる。
歌手はいずれも熱演だった。舞台は、いかにもイタリアの教会やサンタンジェロを思わせるオーソドックスなものであるところが良かった。

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《ベルファゴール》

レスピーギのオペラ 《ベルファゴール》を観た(初台、新国立劇場、中劇場)

カンディダという女性とバルドが恋仲なのだが、地獄からやってきた悪魔ベルファゴールは、カンディダの父に大金を渡し、カンディダとの結婚を申し込む。
ベルファゴールは人間の女性というものとの結婚がどんなものかを知るために地獄から派遣されたのだ。金を渡されたカンディダの父は、それなら私の妻をどうぞ、などと言うセリフがあって、冒頭からオペラ・ブッファの雰囲気が濃厚である。
形式的には結婚した後もカンディダはベルファゴールの愛を受け入れない。それどころか、スキを見つけてバルドと駆け落ちをする。
前半の喜劇的な部分では音楽は雄弁に状況を語っている。しかし後半、カンディダとバルドの恋愛感情の表現になると、ヴァーグナー以降の悪弊で、アリア的な曲がなく、メローディアスな快感が得られない。レスピーギももったいないことをしたなあ、と言う感じを勝手に抱いた。しかし、演じようによって相当、面白い劇であり、特にブッファなところは音楽的にも聞きがいがあると思った。
CDは入手困難であるし、Youtube にも画像なしの演奏が1つ上がっているだけであまり録音状態も良くない。やはり日本語字幕付きで見ると、音楽劇の劇の部分はとても良くわかる。つまり、どんなセリフのところにどんな表情の音楽が付されているかが分かるので、ありがたい。レスピーギのオペラはもっと見直されて良いのかもしれない。このオペラの初演は1923年であるから、プッチーニの《トゥーランドット》やベルクの《ヴォツェック》と近い訳である。20世紀のオペラの浮沈を考える際にも意義深い公演に出会った。

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2017年1月23日 (月)

《ヴェルディのプリマ・ドンナたち》

小畑恒夫著《ヴェルディのプリマ・ドンナたち》(水曜社、3200円)を読んでいる。小畑氏はすでにヴェルディの伝記も書いておられるし、訳書で《評伝ヴェルディ》もあり、また、日本ヴェルディ協会の会報には、もう何年にもわたってヴェルディの手紙を紹介する論考を執筆中である。

今回の《ヴェルディのプリマ・ドンナたち》は、ある意味では、ヴェルディのオペラ全作品の解説集なのだ。改作ものは別として、全26作品が時代順に1章ずつ紹介されている。各作品の紹介は3つのパートからなっている。
1.ヒロインからみたあらすじ紹介。通常のあらすじ紹介とちょっと視点をずらして、厳密にではないが、概ね女主人公の立場からのあらすじになっている。
2.第二のパートでは、作品の背景や原作や、ポイントとなるアリア、二重唱が歌詞つきで紹介される。歌詞は通常のアリアの紹介では冒頭の一行ということが多いが、この本では、6行とか8行とか時には10行以上に渡って日本語訳の歌詞(つまりはリブレットの一部)が数カ所引用され、その見所、聴きどころが、ドラマの展開上の役割と音楽的にどんなことが生じているかが、明快に説明される。
 例えば、《イル・トロヴァトーレ》のレオノーラの「これを信じるべきなの?信じてもいいの。(中略)。。。あなたは天国から下りていらっしゃったの?それとも私が天国のあなたのそばにいるの?」に対し、「レオノーラの口からはひと言ずつ確かめるように言葉が漏れ、やがてそれは躍動するフレーズになり、ついには最後の2行で大きな跳躍をを伴う力づよいメロディへ発展する。レオノーラのこの歌から始まる5重唱は、形式としては『大きな驚きの後に来る静止した重唱」の系譜を引くが。。。」といった具合である。
3。第三のパートは、初演の時ヒロインのパートを歌った(創唱した)女性歌手についてだ。彼女がどんな履歴を持っているのか、ヴェルディとどういう関わりがあり、ヴェルディはその歌手のどんな特質を評価していたのか、などなど。
3つのパートから作品を立体的に捉えることが出来る構成となっているが、作品の勘どころの解説は音楽とストーリー展開がどう絡むのかを実に的確に教えてくれる。
ちなみにヴェルディのオペラ全作品の解説本は、永竹由幸氏によるものと、高崎保男氏によるものがある。ヴェルディの演奏を様々な歌手、様々な指揮者で楽しむのと同様に、ヴェルディのオペラを3者3様の解説で楽しむことをおすすめしたい。
 
 

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2016年11月 1日 (火)

《ドン・パスクワーレ》

ドニゼッティのオペラ《ドン・パスクワーレ》を観た(琵琶湖ホール)。

沼尻竜典指揮(敬称略、以下同様)、日本センチュリー交響楽団。タイトルロールは牧野正人。医師マラテスタ須藤慎吾, ノリーナ砂川涼子、エルネストはアントニーノ・シラグーザ。砂川涼子はコミカルだったり、ずる賢かったり、ちょっと意地悪だったりするノリーナを巧みに演じ、歌いこなしていた。シラグーザは別格の歌。

《ドン・パスクワーレ》というのはかなり妙な曲想のオペラである。一応はオペラ・ブッファに分類できるのだが、ブッファというにしては哀愁にみちた曲、シリアスな曲想が相当に多いのである。また、ストーリ的にも、従来のお金または権力をもった年寄りを若者カップルが出し抜くというパターンを踏襲しながらも、終わり方があまりに唐突で、しかも年寄りに対する説教が長々続き、終わり方がカラっとしないのである。

同じ作曲家の《愛の妙薬》と比べると好対照をなしていると思う。ネモリーノにも「人知れぬ涙」という哀愁を帯びた曲があるがこれはオペラ全体の後半に出てくる。前半はひたすら明るいのだ。しかし《ドン・パスクワーレ》のエルネストは最初から、ノリーナと別れねばならないと嘆くのだが、その嘆きにコミカルな要素は全くない。あるいは、なんとか今の境遇を跳ね返す策略を思いつくぞといった意気込みもないのだ。オペラ・ブッファとしては妙な曲想なのである。

エルネストだけではなく、ドン・パスクワーレの歌もそうだ。彼が結婚したいと思い、友人の医師に紹介される娘は実はノリーナなのだが、医師マラテスタは自分の妹で修道院にいた世間知らずの無垢な娘だと言って紹介し、ドン・パスクワーレはそれをすっかり信じ込む。といった具合なので、ドン・パスクワーレがたとえば《セビリアの理髪師》のドン・バルトロみたいにやっつけてやれ、という存在になりきっていないし、実際に、ノリーナに平手打ちをくらったあとのドン・パスクワーレには観客の同情が集まるようなしんみりとした音楽が流れる。

むろん、これはドニゼッティがそういう類の音楽をわざわざ選んでいるのである。そういったわけで、このオペラは単に歌うということに技巧を要するだけでなく、人物造形をどうするか、という演技や性格・表情の歌いわけの課題が歌手にのしかかる。指揮もそうである。全体をどうとらえるかがとてもやっかいだ。

こうした独自性の強い複雑な性格のオペラを実演で観られてよかった。その経験を基準に、過去のCDやDVDを観ると、さまざまな役作り、表情づくりがあることがよくわかった。

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レザール・フロリサン、《イタリアの庭でー愛のアカデミア》

ウィリアム・クリスティ指揮レザール・フロリサンの演奏会を聴いた(サントリーホール)。

演奏団体と曲目の関係が少しややこしいので簡単に説明しておこう。レザール・フロリサンは、指揮者クリスティが1979年に設立した声楽と器楽のアンサンブルである。
今回の上演演目は《イタリアの庭でー愛のアカデミア》と名付けられているが、特定の作曲家が作った単独の曲ではない。初期バロック(アドリアーノ・パンキエーリ、オラツィオ・ヴェッキ)からストラデッラ、そしてヘンデル、ヴィヴァルディ、そしてチマローザ、ハイドンへと至る一種のアンソロジーなのだが、そこに共通のテーマを一本走らせている。それが愛なのだが、愛のアカデミアとは何か。
オラツィオ・ヴェッキの曲が「シエナの夜会」という曲なのだが、シエナのアカデミア(知識人のクラブのようなもの)の集まりのために書かれ、デンマーク王クリスティアン4世に献呈された。
各作曲家の歌の歌詞は、愛の学校という性格を持つものと、叙事詩『オルランド・フリオーソ(狂えるオルランド)』に関わるものがよりあわさっている。オルランドも愛のためにおかしくなるのだから愛のテーマの変奏とも言えるのだが。
以上の説明からおわかりのように、もともとは独立した別々の曲を演奏者が関連付けるように編集して連続的に演奏しているのである。セミ・ステージの形式で、舞台には2つの階段のついたブロックがあり、そこを歌手が登ったり降りたり、腰掛けたりすることで登場人物的なニュアンスを醸し出していた。
愛のテーマが様々に繰り広げられるのも興味深いが、バロック音楽からチマローザやハイドンになると音楽の表情が変わるのも如実にわかって面白かった。そういう意味では音楽史を実感的に学ばせるプログラムとも言える。
楽しい愛の学校であった。

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ジャパン・オルフェオ

《ジャパン・オルフェオ》を観た(池袋・東京芸術劇場)。

これは不思議な作品である。モンテヴェルディのオペラ《オルフェオ》が本体なのだが、途中のところどころに雅楽や日本舞踊や能楽が挿入される。通常のオペラでこの類のことをやったならキッチュな感じはまぬがれないだろうが、このオペラではかなりの説得力を持っていたと思う。
というのも《オルフェオ》は、妻エウリディーチェが死んだのを嘆き悲しんだオルフェオが冥府を訪ねていく物語であるからだ。この世とあの世の中間地帯に行くときに雅楽が出てくるとこれまでの地上の音楽とがらっと変わるわけだが、この場合は地上の世界から異界(冥府)に赴く中間段階を表すしているのでまさに異界への入り口という説得力を持ちうるのだ。
日本舞踊や能役者の存在も同様で、通常の西洋的な人物の隣に着物姿の人物が出てきたら相当に違和感があると思うが、異界に赴いた人物として、あるいはバッコスの巫女としてならばそもそも通常の人物とは異なるわけだから、受け入れられるのだ。
歌手はオルフェオがバリトンのヴィットリオ・プラート。エウリディーチェは阿部早希子。音楽、希望はジェンマ・ベルタニョッリ。《オルフェオ》には登場人物として音楽や希望といったイデア的な人物が登場するのである。カロンテおよびプルトーネはウーゴ・グァリアルド。使者およびプロセスピナは、フランチェスカ・ロンバルディ・マッズッリで、女性陣は実に見事であった。ないものねだりだが、彼女らのような女性歌手が《エリオガバロ》においても歌ってくれたならと思わずにはいられなかった。
オルフェオは結局、冥府からの帰り道に振り向いてエウリディーチェを見てしまったために地上に一人寂しく帰ってくるのだが、ギリシア神話では彼は巫女たちに引き裂かれ死ぬ。オルフェオのリブレットにもそうあるのだが、その最後の部分にはモンテヴェルディは曲をつけていない。今回はそこに沼尻竜典氏が曲を付して女性合唱(アカペラ)で演奏された。これも興味深い試みであった。
アーロン・カルペネ指揮のオケも少人数だがレベルが高く、音楽的満足度の高い上演だった。休憩後から皇后様御来席であった。

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《トスカ》

プッチーニの《トスカ》を観た(パリ、バスティーユ)。

前項に記したように、パリのオペラ座には2つの劇場があって、バスティーユはあのフランス革命のバスティーユ監獄の跡地に建設され革命200年の1987に開場した劇場である。
20世紀後半の新しい劇場らしく中の雰囲気は、どこか空港のロビーを思わせる雰囲気だ。現代的。
トスカは、ハルテロス。カヴァラドッシがアルバレス。スカルピアがターフェル。演出は割合オーソドックスだったが、最後の場面がサンタンジェロ城ではなくて、郊外の野原のような場所になっていた。
カヴァラドッシを拷問する場面で、途中でトスカが「歌に生き、恋に生き」を歌っている間、部屋に相当する空間が壁に仕切られていて、その後ろをぐるっとまわってくるのはなかなか良い工夫だと思った。トスカの歌の間、スカルピアは手持ち無沙汰なのだから。
ハルテロスは声はとても通るしきれい。アルバレスも滑らかさもあるし、表情づけも見事だし、今本当に油がのりきっているのだと思う。ターフェルもいやらしい役柄を演じきっていた。
アルバレスはこの美声を通常のレパートリーだけでなく、意欲的なプログラムにもチャレンジしてくれればと思った。
指揮はエッティンガーで、テクスチャーの見通せる音作りだった。

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2016年9月15日 (木)

《セビリアの理髪師》

ロッシーニのオペラ《セビリアの理髪師》を観た(ロイヤル・オペラ・ハウス)

指揮はヘンリク・ナナシ。キビキビした指揮だが、オケや歌手がついてこない時がある。そこから推測できるかもしれないが、二重唱、三重唱は、よく言えば、演劇性に重きを置いており、音楽的にアンサンブルの妙を聞くことはやや難しい状況だった。
アルマヴィーヴァ伯爵は、ハビエル・カマレーナ。終幕の長大なアリアも含め健闘。ロジーナはダニエラ・マックという人でこの人はとても個性的な声。普段のフレーズからものすごくビブラートがかかる。力強い声が上から下まで出ることは出るのだが。
フィガロは、ヴィート・プリアンテ。彼は歌に様式感もあって、伸びやかな声を聞かせていた。バルトロのホセ・ファルディラは、レチタティーヴォがとてもうまい。言葉もはっきり聞き取れるし、感情表現もこちらに的確に伝わる。演技もなかなかのものであった。
こちらも、重唱が今一歩。第一幕のフィナーレでも、人数が多くなっても、アンサンブルが整いつつ綱渡りする感じがスリリングなのであって、アンサンブルが成り立っていなければ、極端に言えばガチャガチャするだけだ。テンポ感、様式感がそろうことも必要だろう。フィオリトゥーラの転がし方は昔より上手くなったわけだが、アンサンブルは。。。といったところで無い物ねだりなのだろうか。

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《ノルマ》

ベッリーニのオペラ《ノルマ》を観た(ロイヤル・オペラ・ハウス)。

シーズン開幕日であるが、タキシード姿は本当に稀だ。ノーネクタイの人も結構いるという具合で、女性はワンピースが多いとはいえ、ロングドレスが多いというほどでもない。
指揮はパッパーノ。平土間からだと、彼の指揮ぶりは見えない。タイトルロールはソーニャ・ヨンチェヴァ。綺麗な発声を心がけている(ベッリーニのメロディはとりわけそれを要求していると言えるだろう)のは良いのだが、息継ぎが目立つ。誰でも息継ぎはするわけであるが、フレージングの関係で、息継ぎが気にならず、音楽の流れが途切れないと感じる場合と、ここで切れてしまうと感じる場合があって、彼女は後者の場合が時々あった。
おん
アダルジーザはソニア・ガナッシで、発音が聞き取りやすいし、表情付けに幅がある。ベッリーニが難しいと思うのは、シームレスなメロディがずうっと続くかと思えば、ドラマには大きな起伏があり、生死をかけた決断を登場人物はするわけで、表情に劇的な振幅が欲しいわけである。
ノルマを裏切り、アダルジーザに走るローマ人ポッリオーネは、カッレーヤ。とても上質な声である。
惜しかったのは、彼らの二重唱、三重唱で音楽から期待される盛り上がり、アンサンブルの絶妙さがそこそこにとどまったことだ。ベルカントオペラの不思議で、3連符で踊るように舞い上がっていくフレーズがある。気持ちがふわっと、あるいはカーッとなって通常の状態から、一段も二段も高ぶった状態へと移行する。そこでテンポや歌の表情がどう変わるのか、変わりつつアンサンブルがどうバランスを崩さないかが見所、聞きどころなわけだ。アンサンブルはやはり練るには時間がかかるのだろう。
演出はなかなか興味ふかいもので、異教の司祭であるノルマが取り仕切る儀式は、明らかに、スペインの復活祭の行列や、サンチャゴ・デ・コンポステッラへの巡礼者が受けるボッタフメイロ(巨大な香炉)を揺らす儀式が模されていた。森に見える装置は、十字架、磔刑像の集合なのだった。こうして聖なる儀式を司る人達なのだということは理解できるようになっていた。時代は、ポッリオーネが背広で出てくる点からも現代あるいは現代に近い時代なのだ。
久しぶりに《ノルマ》を見て、フェリーチェ・ロマー二はずいぶん凝った言い回しをしていると思った。ベッリーニがそれを要求しているのでもあろうが。また、この作品が、発展的な形でヴェルディの《トロヴァトーレ》につながっていく箇所を何度も見出した。ヴェルディを聞いた後では、ベッリーニがエレガントに聞こえてしまう傾向はあるが、しかし、熱いドラマを内包しておりそれをどう歌手、オケが表現するか、が問われる作品だと強く思った。

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