2018年8月20日 (月)

《Rossinimania Cabaret Rossini》

《Rossinimania Cabaret Rossini》という一風変わったコンサートを観た(ペドロッティ講堂、ペーザロ)。

プログラムにも最初に監督(演出)フィリッポ・クリヴェッリ、ドラマ構成エミリオ・サーラと書いてあり、一体どういうものなのだろうと思って行ったのだが、主としてオペラ作曲引退後パリ生活のロッシーニの人生をナレーションで語ったり、Peches de vieiless (Peches はアクサンがつきます)というピアノ曲集、歌曲の中からいくつか紹介し、さらに歌い手の中には、ボニタティブスやムケドリシュヴィリのようなオペラ歌手に混じって、マッシモ・ラニエーリという俳優が混じっているのだがキャバレたる所以なのだろう。
曲目もロッシーニの作のみでなく、ロッシーニに捧げられた曲や、例の猫の掛け合いの曲、雑多な感じをわざと作っているのだと思う。
ピアノはアントニオ・バッリスタで彼の弾き語りが、個人的には 一番興味深かった。
全体から浮かび上がるのは、ナレーションでロッシーニや妻の書簡が引用されていたのだが、ロッシーニは10年以上にわたる鬱、抑うつ状態に苦しんでおり、その抑うつ状態の底から浮かび上がるため(その過程で)これらの自己アイロニーに満ちた楽曲を作曲したということだ。ロマン派全盛の時代にあって、全く感情に埋没せず、自分及び人生を突き放して、音階練習のような乾いた明快な響きの連続。
独自の世界である。

解説のナレーションの際や演奏の際に、舞台の壁にヴィデオ(内容は例えばロッシーニの書簡だったりする)が投影される。

これからのコンサートの形態の模索の1つなのかと思う。

なお、このコンサートは街の広場にスキリーンを設営してライブで実況中継された。

 

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《アディーナ》

ロッシーニのオペラ《アディーナ》を観た(ペーザロ、ロッシーニ劇場)。

上演開始の直前に、客席から「マエストロ、ジェノヴァの犠牲者に1分の黙祷をお願いします」という声がかかった。指揮者は背中が見えているだけなのでじっとしているように見えたが、オーケストラ員が立ち上がり、客席の人々も立ち上がり、1分の黙祷がなされた。
ジェノヴァで橋が崩落し、多くの死者が出た悲劇的事故は、今日大統領を迎えて合同の葬儀がなされたようだ。連日、なぜこのような事故が起きたのか、高速道路の管理責任はどこにあるのか、補修が必要な橋・道路は他にも多くあることなどが連日報道されている。
《アディーナ》の内容は前にも記したように、カリフが自分の娘と知らずにアディーナと結婚しようとし、アディーナと恋人のセリーモが駆け落ちしようとするところを捕まえる。アディーナは恋人の命乞いをするが拒絶され、気絶する。ふとロケットを見るとカリフはアディーナが自分の娘であることに気づくという話だ。
今回は、ロッシーニを連続して聞いた後で、《アディーナ》を見たわけだが、佳品であるという印象を得た。歌手は、カリーフォがバリトンのヴィート・プリアンティ。品もあり、立派な歌いぶりで良かった。アディーナはリゼッテ・オロペーザ。歌手としては華奢な感じで、大音量ではないがこの劇場では丁度いい感じである。セリモのテノールのLevy Sekgapane はセクガペインとでも読むのだろうか。南アフリカ出身。声質としてはフローレス的な方向性の声で、素直な声質である。指揮はディエゴ・マティウス。オーケストラは、ロッシーニ交響楽団。誰かが飛び抜けているというわけではないが、粒が揃っていて、聞いていて見ていて楽しいオペラだった。一幕もので上演時間も1時間半ほどであるが、これくらいの軽いものも良いものである。

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2018年8月19日 (日)

《リッチャルドとゾライデ》

ロッシーニのオペラ《リッチャルドとゾライデ》を見た(ペーザロ、アドリアティック・アレーナ)。

このオペラは一般的には決してポピュラーなオペラとは言えないだろうが、ペーザロでは何回が上演している。僕は初めて見て、大変観がいのあるオペラだと思った。

ただし、登場人物が多く、主な人物だけで8人くらいいるし、たとえば有力なテノールが3人も必要なので、上演するのは興行としてはとても難しいのではないかと思う。

例によってあらすじは、日本ロッシーニ協会の水谷彰良氏によるものが詳しい。さらにこの作品に関しては、オペラ御殿に解説だけでなくリブレットのイタリア語と日本語の対訳が掲載されている。この対訳はわざと文学的な色付けのない直訳調になっているので、この単語はこんな意味か、とか、イタリア語の構文がここではこうなっている、と言ったことが実によくわかるようになっている啓蒙的な対訳で、予習や勉強するのにとても便利です。さらには、直訳しても、日本語として意味が通じにくいところでは、かっこに入れて平たく言えばこんな意味と示してくれている。ありがたいです。感謝。

あらすじとしては、リッチャルド(フローレス)とゾライデ(プリティ・イェンデ)が恋人どうし。リッチャルドの友人でキリスト教陣営の大使エルネスト(ハビエル・アンドゥアーガ)。ヌビアの王アゴランテ(セルゲイ・ロマノフスキ)はゾミーラ(ヴィクトリア・ヤロヴァーナ)という妻があるのだが、アジア=中近東の王子イルカーノ(ニコラ・ウリヴィエーリ)の娘ゾライデを見染め、迫る。リッチャルドは身をやつしてゾライデの身近に潜入して、二人で逃げ出そうとする。妻ゾミーラはゾライデとリッチャルドの逃避行を助けるフリをして逮捕させる。イルカーノとリッチャルドは死刑を宣告されるが、そこに十字軍がやってきてヌビアを制圧、救出されたリッチャルドとアゴランテの立場が逆転する。リッチャルドはアゴランテと妻ゾミーラを許し、ゾライデと結ばれてメデタシ、メデタシ。

初めて聞いたらこれでも込み入っていると思うが、実は上記のあらすじではアゴランテの友人ザモッレやゾミーラの友人エルミーラ、ゾライデの友人ファーティマを省略している。

有力なテノールだけでも3人いるという贅沢な構成だ。プログラムでフィリップ・ゴセットのエッセイが掲載されていて、そこにも記されていることだが、ロッシーニは1815−1822年にかけてナポリのサン・カルロ劇場のために次々とオペラ・セリアを書いている。1815年はナポレオンが倒れ、ウィーン会議によって旧体制が復活した時期であることを確認しておこう。つまり、復活したばかりのアンシャン・レジームは政治風刺的なものには過敏に反応し、検閲に引っかかる可能性が高かったであろう。また、ゴセットが指摘しているのは、この時期にロッシーニが書いたオペラ・セリアは原作に相当するものは、16世紀のイタリアの騎士物語詩であったり、フランスの古典悲劇であったり、聖書であったり実にバラエティーに富んでいるのだが、構造的には非常に似ていて、ヒロインがいて相思相愛のヒーローがいる。しかしライバルがいて、ライバルの方をヒロインの父が応援しているという図式。《リッチャルドとゾライデ》ではライバルが王でさらに彼には妻がいるという点がヴァリエーションとなっている。歌手の構成はおそらく当時ナポリの歌劇場で使うことのできる歌手に当て書きしているのだろう。ゾライデの初演はイザベル・コルブランである。

今年は初演から200周年にあたる。フローレスは言葉が明快で横や後ろを向いたときでさえ一語、一語がはっきり聞き取れるし、言葉のニュアンスもレチタティーヴォにおいても、アリアにおいても丁寧に的確に表出していた。さすがというほかはない。高音域にも何の不安もなく安心して聞いていられる。言葉が明快だったのはゾミーラを歌ったヤロヴァナ。声が(口の形が)決まり、声の姿が端正で美しい。ゾライデを歌ったイェンデはむしろ柔らかい声で、ふわっと行くところがあり、そこがチャーミングであると同時に、言葉の発音が時たま聞きとりにくいところがある。しかし、高音は輝かしく、背が高くてスタイルも良く、フローレス との二重唱においても存在感で負けていなかった。

若手でもう一人驚くべきは、エルネストを歌ったハビエル・アンドゥアーガでとてつもない声量なのだ。表情やニュアンスの豊かさではフローレスが王者の風格であったかもしれないが、単純な声量ではこの若者はこの日の誰よりもやすやすと会場に響きわたる声を発していた。いかにも大声を張り上げるという感じではなく、ごく普通の声の表情のまま音量が溢れるように大きい。もう1人のテノール、ロマノフスキも悪くなかった。特に二幕では表情豊かに歌を聞かせていた。イルカーノのウリヴィエーリも品格のあるバスで、実に贅沢な声の布陣だった。

知人の話では以前のペーザロでのこの演目の上演では、ヌビア側の人物の顔を黒く塗ったりしていたらしい。今回は、戦いの場面でキリスト教側の端が赤十字になってはいたが、ことさらにイスラム対キリスト教の対立を強調する場面は見当たらなかった。政治的なメッセージを前景化するというよりも、バレエ団を巧みに用いて、このオペラの豊かな世界にいざなうという感じ。二重唱、三重唱が実に充実しているのも音楽的充実に大いに貢献していたと思う。

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2018年8月17日 (金)

《セビリアの理髪師》

ロッシーニのオペラ《セビリアの理髪師》を観た(ペーザロ、アドリアティック・アレーナ)。

演出・舞台監督・衣装はピエル・ルイジ・ピッツィ。彼の演出はいつもそうなのだが、色の処理がエレガントで、今回は白(と黒)を基調にしたシンプルなものなのだが、登場人物の人間関係を混乱させない処理が見事。ピッツィの演出を見ていると、そんなことはわけもないことのように見えてしまうのだが、実はそうではないことが残念な多くの演出家によって嫌という程経験済み。
エレガントで人物の区別、関係性がわかりやすいだけでなく、ピッツィの主張はさりげなく盛り込まれていると見た。脇園彩演じるロジーナはとても積極的に動くし、バルトロを侮蔑したりする。お手伝いのベルタが歌う人は歳を取っても恋は免れないという歌では、ベルタが別の従僕の上半身を裸にして彼をあわてふためかせる。女性が受け身一方ではない(それはよく読めば元々のリブレットの段階でそうであるわけだが)ことを極めて明快に可視化した演出と言えよう。
歌手も充実していてタイトルロールのダヴィデ・ルチャーノは芸達者でかつ引き締まった体躯で張りのある声。今回はオケの周りに花道のようなものが設えられているのだが、フィガロとミロノフのリンドーロの二重唱では花道の右端と左端に二人がいるのだがぴったり息があう。オペラではアリアもいいが、重 唱の醍醐味もそれに劣らず楽しい。今回の重唱(二重唱のみならず三重唱、それ以上のも)は音楽的にとても充実していた。重唱の際に必要に応じて、歌手をオケの前(花道)に出して歌わせるのは巧みな処理である。オケが厚くなると、この広い会場では歌手への負担がとても大きいと思われるからだ。
バルトロのピエトロ・スパニョーリも演技も歌も実に達者。バジリオのペルトゥージもさすがの貫禄で満場の拍手を浴びていた。
脇園彩のロジーナは常に発声が丁寧で荒れることがなく転がるところでは実に滑らかに転がる。演技でロジーナのオキャンな面を見せており見事だった。
指揮のアベルも楽曲の終わりをテンポを上げて引き締めるタイプで、弛緩するところがなく良かった。
また、今回の上演では、通常は省略されるレチタティーヴォのセリフをフルに言っているようで、状況説明のセリフが本当はこれだけあったのだと感心した。
従来は、セビリアはみんな知ってるでしょう、だからいらない説明は省いて音楽中心でどんどん進めましょう、という劇場の慣習があったわけだ。一長一短であるが、フルのレチタテイーヴォもたまにはいいなと思った。
演目としては、新味はないのだけれど、演出や歌手、指揮、オケが良ければ歓びは尽きないというところか。

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ニコラ・アライモ:Gran Scene Rossiniane

バリトン歌手ニコラ・アライモのリサイタルを聴いた(ペーザロ)。

このリサイタルは極めてテーマ性の高いリサイタルでグラン・シェーネ・ロッシ二アーネ(ロッシーニの複数のグラン・シェーナ)と題されている。グラン・シェーナについては当ブログの前項を参照していただければ幸いであるが、単なるアリアではなく、相当に大掛かりなアリアの特殊形態である。前奏、レチタティーヴォの後、カヴァティーナ(短い歌唱)があり、そこでいったんまたレチタティーヴォや合唱で遮られたのち、アリアに入る。この一連の要素があるのでかなり長大な拡大アリアになるわけだ。これをグラン・シェーナ、複数はグラン・シェーネと呼んでいる。
今回のリサイタルでは主に男性合唱とニコラ・アライモの組み合わせで4曲のグラン・シェーナの演奏が披露された。このプログラムは、先のレクチャーの概念と密接に関連しているわけで、ニコラ・アライモや合唱団の声の妙技を味わうことと、グラン・シェーナとはどういうものであるかを知らしめる啓蒙的な演奏会であるとが同時に成立しているわけだ。
演奏されたのは
《トルヴァルドとドルリスカ》の序曲
ドゥーカのアリア(グラン・シェーナ)’Cedi...Indietoro,Ah qual voce d'intorno rimbomba'
《マホメット2世》から合唱’Dal ferro dal foco' とマホメットのカヴァティーナ’Sorgete, sorreggete'
《ランスへの旅》ミロードのアリア’Invan strappar dal core' この曲の場合は、アリアの途中で女性合唱が入る。
《セミラーミデ》序曲
シェーナ’Il di gia cade' 合唱’Ah! La sorte ci tardi' アッスールのアリア’Deh...ti ferma...ti placa'
各曲の前に司会者レーモ・ジローネがそれぞれのアリアがどういうオペラのどんな場面かという簡潔な説明と、ロッシーニ自身の音楽観(音楽はatomosfera moraleを表現するもの)を紹介していた 。
アンコールは3曲演奏されたが、グラン・シェーナではないもので、《ギヨーム・テル》で
息子を思う切々たる歌や。対照的に《チェネレントラ》の父のコミカルな歌が披露され、アライモの芸域の広さをたっぷりと堪能することができた。

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《アディーナ》

ロッシーニのオペラ《アディーナ》を観た(ペーザロ、ロッシーニ・オペラ・フェスティヴァル)。一幕もののファルサで上演時間も約80分と短めである。

《アディーナ》の成立には不思議なところが多い。詳細はロッシーニ協会の水谷彰良氏よる綿密な作品解説・作品の成立・特色を見ていただくのが良い(この解説はデッラ・セータによるクリティカル・エディション及び彼の解説を踏まえたもので実に素晴らしい)が、かいつまんで言うと、作曲の依頼者が直接にではなく、第三者を介してロッシーニに作曲を依頼したらしい。ロッシーニはこのリスボンからの依頼にかなりの手抜きで応え、9曲のうちオリジナルは4曲で、旧作《シジスモンド》からの転用が3曲、何人かいる協力者の手になる曲も2曲あるという。
そのせいか、作曲が完成してから初演まで8年が経過しており、それも異例のことだ。
そういった事情で評価は高くないし、上演されることも稀なオペラだ。
が、今回、直前にメルカダンテを聞いていたせいか、メルカダンテにロッシーニ的要素があるなあと何度も思って聞いていたのだが、《アディーナ》を聞くと、まさにロッシーニの世界(当然といえば当然だが)と思った。
ストーリーは、カリフ(カリーフォ)の元にいてカリフから結婚を迫られているアディーナだが別に恋人がいて、最後には実はアディーナはカリフの娘だったことが判明しメデタシ、メデタシという話である。このリブレットはアルドブランディーニという男の手になるものなのだが、ここにもフェリーチェ・ロマーニのリブレットとの不思議な関係がある。アルドブランディーニがロマーニから影響を受けたらしいのだが、成立がロマーニのものの方が後なのだ。
舞台の演出は建物が大きなデコレーション・ケーキのような形でファンタジーに満ちたもの。ストーリの点からふさわしいと思う。
大傑作ではないかもしれないが、大いに楽しめた。メルカダンテはメルカダンテでチャーミングなところも多々あるのだが、ロッシーニはロッシーニで純度の高い音楽、と感じたことであった。(観劇の日程の関係上、特殊なバイアスのかかった感想で恐縮です)。

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《捨てられたディドーネ》

メルカダンテの《捨てられたディドーネ》をもう一度見た(インスブルック、州立劇場)。

ここはおそらく歌劇場ではないので、オーケストラピットが平土間に対し、浅くしか沈んでいない。平土間の席によっては指揮者の姿が丸見えである(僕にとっては指揮振りがわかるので好ましいが)。また観客席とピットの間は壁でなく、U字型の金属がいくつかさしてある感じで、演目によってこの空間はオケピではなくなるのだろう。そのせいか楽団員の出入りもピットの奥からではなく、観客席の通路を通ってであり、指揮者も平土間の横のドアから入ってくる。
 前回は桟敷の1階(平土間より高い位置にある)で、今回は平土間の6列目で聞いたのだが、オーケストラの響きはかなり違って聞こえる。全体がフォルテで演奏すると、平土間では楽器が固まって聞こえ、分離しにくい。まあ、これも気になるのは序曲の時だけで、ドラマが始まると舞台に近い方が舞台の動きの細かいところがよく見えるし、歌手も近いので別の良さがある。
 また、言うまでもないことだが、桟敷席ならカップルや家族で取る人も少なくないだろう。前回は4時開始で今回は7時開始ということもあるのか、地元の知人同士が挨拶を交わしている様子がより頻繁に見られたし、女性も少しドレスアップしている人が多かった気がする。といっても男性で一番多いのは、シャツ(ノーネクタイ)で上着、というスタイル。たまに、ネクタイをしている人もいる。タキシード類のかしこまったものは皆無である。
 指揮者も、黒いシャツとズボンだが、明らかに礼服のズボンというようなものではない。夏ということもあるのか、通常もこうなのかは判別できないが、服装のカジュアル化は進んでいると思う。もっとも女性によってはワンピースのドレス的要素が千差万別で、一口にくくるのは問題があるかもしれない。
  前回と今回で演出が異なっているのに驚いた。前回は途中からヤルバ(ムーアの王)が途中から上着を脱いで情欲を象徴するかのようなくねくねした踊りを踊りながら歌っていたのだが、今回はかなり最後までフロック風の上着を着ていた。また、最後の場面、ディドーネの妹は椅子に座るのではなく、よろよろと起き上がってまたすぐに倒れてしまい幕となるのだった。
幕切れの違いは、かなり作品の解釈の違いに関わってくると思うので、こんなにすぐに変えてしまうのかという驚きを禁じえなかった。
 善意に解釈すれば、作品の意味を不断に追求しているのだということになろうし、悪意に解釈すれば、作品とじっくりと向き合った上での解釈ではないからコロコロと変わるのではないか、ということになろう。難しいところだ。
 

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2018年8月13日 (月)

メルカダンテ《捨てられたディドーネ》その2

このオペラの会場はインスブルックの歴史的旧市街から100メートルほど行ったところにあり便利で、歩いてやってくる人がほとんどのように見えた。小規模な街の良さである。

さて、オペラに話を戻すと、男声合唱が思いがけずたびたび活躍するので、なるほどやはりロッシーニのオペラ・セリアに似ているし、ヴェルディの《ナブッコ》が登場するまで20年弱なのだと思ったり。メタスタジオが18世紀前半にリブレットを書いてから、メルカダンテの初演までに、約100年が経過して、音楽のスタイルも変わったし、フランス革命を経て、民衆をどう捉えるかも変わったということが、このオペラにも反映されていると言って良いのだろう。
作曲家やリブレッティスタだけでなく、この日の指揮者アレッサンドロ・デ・マルキもさらにその延長上で考えているらしく、上演後のカーテンコールで2度ほど歌手たちが1人ずつ拍手を浴びたあとオケが演奏を始め、男性合唱が歌ったのである!オペラにもアンコールあるのか!
同じ曲をもう一度歌うビスは経験したことがあるが、カーテンコールに入ってからのは初めてでビックリ。なじみのない曲だからこれもオーケーと思うが、わざわざ合唱曲というのが興味深くもあった。主要登場人物が歌うコンチェルタートではない。
舞台というか演出は、やたらと回転する舞台だった。時代は第二次大戦前の北アフリカがヨーロッパの植民地だった時代なのかと思われた。
兵隊達は石炭だか何かを採掘しているようで採掘物をぐるぐる回るドラムに入れていた。
今回の上演はメルカダンテとトットラのスコアにさらに手を入れて編集しているようで最終場面が違う。この日の上演ではイアルバがディドーネに迫ると、ディドーネは隠し持った刃物でイアルバを刺し、ディドーネも刺されて相打ち、二人とも死んでしまう。女王の椅子に妹のセレーネが座って幕。
第二幕の開始部分もこの日の上演では、客席の間から兵隊たちが登場し、男性合唱を聞かせるのだがトットラのリブレットにそのような場面は見当たらない。
演出家と指揮者が話し合って?決めたのだろうか。
ディドーネ:ヴィクトリア・ミシュクナイテ(発音に自信はない)
エネア:カトリン・ヴントザム
ヤルバ:カルロ・ヴィンチェンツォ・アッレマーノ
オスミーダ:ピエトロ・ディ・ビアンコ
アラスペ:ディエゴ・ゴドイ
セレーネ:エミリエ・レナール
ディドーネは声は通るがアジリタなど様式的な部分はまあまあ。エネアは
それと対照的で、声は大きくはないのだが、様式感は良い。カーテンコールでの
拍手はディドーネがタイトルロールであったにもかかわらず、エネアにも随分の拍手が
贈られた。オケは一部ピリオド楽器を使用していたと思う。管楽器(金管も木管も)の表情で
味わいが違うことを実感した。当たり前だがオケも技量が高い方が満足度は高いし、指揮者がここぞと思うところで緊張感を高めたり、リラックスしたりの幅も広がる。
今日の上演、全体としては大いに満足であった。

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メルカダンテ《捨てられたディドーネ》その1

メルカダンテ作曲の《捨てられたディドー》を見た(インスブルック、古楽音楽祭)。

 

冬のオリンピックの開催地とて名のみ知っていたが、今回初めて来るので地理を確かめるとザルツブルクからイタリアへ抜ける道筋にあり、交通の要所だ。モーツァルト父子やゲーテが泊まった宿がある。僕のホテルはモーツァルト父子の泊まった宿で率直に嬉しい。

 

ここはチロルなのだが、ハプスブルク家の歴代の人物がいろいろな形で街の発展に関わっている。

 

日本から来て翌日なので時差はきつい。日曜日のせいか、午後4時に開演、7時に終演で助かったがそれでも日本時間にすれば、午後11時から夜中の2時ということになる。カフェイン剤やエスプレッソの助けを借りるのだがそれでも何度か眠気が襲ってくる。

 

メルカダンテの曲は概ねロッシーニのオペラ・セリアを想起させる曲想があちこちにあり、テンポがゆったりしたところではベッリーニ風に歌ったり、さらにまたドニゼッティを思い起させるところもある。いずれにせよ初めて見る・聞くオペラなのであるが、ベルカント・オペラに慣れ親しんでいれば、すぐに耳に馴染む音・メロディーの世界である。

 

ちなみにパーセル作曲のオペラは《ディドー(ダイドー)とエネアス》でリブレットを書いたのはネイアム・テイトで大筋は似ているにせよ、リブレットが英語であるし、別の登場人物ベリンダや魔女的存在が出てくる。別作品である。

 

メルカダンテの《捨てられたディドーネ》は、メタスタジオのリブレットがまずあって、それに何十人もの人が作曲した、その一連のオペラの終わりの方の1作。メタスタジオに最初に曲をつけたのはドメニコ・サッロで1724年(ナポリ)だが、同年ローマではドメニコ・スカルラッティが作曲し、同年ヴェネツィアではアルビノーニが曲をつけている。1726年にはレオナルド・ヴィンチが作曲し、ロンドンではヘンデルが1736年に作曲している。メルカダンテのものは1823年トリノ初演なので99年が経過しているわけだ。さらに、リブレットはメタスタジオのものをそのままではなく、Andrea Leone Tottola が手を入れたものを用いている。 トットラは生まれた年も場所もわからないのだが、ある時からナポリでバルバイアの元で働いており、ロッシーニの《モーゼ》、《湖上の美人》、《エルミオーネ》、《ゼルミーラ》のリブレットを書き、ついでドニゼッティのリブレットも書いている。


トットラとメタスタジオのリブレットの違いは細かく見れば色々あるだろうが、最も目立つのは合唱の有無だ。第一幕の冒頭、メタスタジオではエネアがセレーネ(ディドーネの妹)に、カルタゴを去らねばならぬ理由を説明するところ。トットラ版では、合唱がいきなり登場する。男声合唱団はカルタゴの兵隊であったり、トロイの兵であったり、ムーアの兵であったりと、いろんな役割で、しかもしばしば登場する。今回の演出でも、主要登場人物が歌でレチタティーヴォで会話している際も、兵たちが目立たぬところで作業を続ける様子を見せていた。



 

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2018年7月24日 (火)

《アリオダンテ》

ヘンデル作曲のオペラ〈アリオダンテ〉を観た(東京文化会館小ホール)。

会場は満員。登場歌手で中高一貫校で教えている方がいて、その生徒がまとまって観にきているらしかった。多くの生徒にとって、おそらくは生で観る最初のオペラなのではないか。こういう曲を観て、聞いてどういう感想を持ったのか聞いてみたいと思ったし、彼らがこの後で、ヴェルディやプッチーニやモーツァルトのオペラを観たときにどんな感想を持つのか、聞いてみたいと思った。
僕がオペラの断片を聞いたのは、ピアノの先生(夫婦で教えていらした)のお宅であったと思う。レッスンの前にFMのオペラの放送が流れていたり、女の先生はたしか以前、二期会に所属していらしてオペラの一節とおぼしきものを口ずさんでいらした。当時は、こちらにオペラの知識が無かったのでどんな曲だったか皆目、見当がつかないのが残念だ。
その後、全曲で聴き通したのはモーツァルトのオペラが最初だったと思うが、これまた実演ではなく、LPレコードで、当時は全くイタリア語もわからなかったし、レコードについてきたリブレットを見ながら聴くというよりは、本など読みながら、何度もレコードを聴くと言った聞き方で、そのうち自然に好きな曲が出てくるという感じだった。今でも、自分にとって新しいオペラに接近する時の仕方は基本的に同じである。
現代の中学生がこういう接近・遭遇の仕方をすることは極めて考えにくい。DVDやブルーレイ、劇場には字幕がついているからだ。この日の〈アリオダンテ〉の字幕は懇切・丁寧で、最初にあらすじが紹介され、その後も誰の歌詞かが明示されているので、二重唱のときにとても理解しやすいのだった。ちなみに、字幕は1行か2行の細長いものではなく、スクリーンを
舞台の上につるす感じで、だから、たとえばアリオダンテのアリアの歌詞を4行なり6行なり一度に提示できるだった。
ストーリーはアリオストの『狂えるオルランド』の第5歌と第6歌にあるエピソードがもとになっている。騎士アリオダンテとジネーヴラ姫は相思相愛なのだが、ポリネッソという公爵が横恋慕する。ダリンダというジネーヴラの侍女をたぶらかして、彼女にジネーヴラの振りをさせ、自分を部屋に引き入れるところをアリオダンテに見せるという悪だくみをする。アリオダンテはすっかりだまされ、自分がジネーヴラに裏切られたと思い自殺しかかるが、弟のルルカーニオに止められる。やがて悪事が露見しめでたしめでたし、となる。
 初演時には、アリオダンテをカストラートのカレスティーニが歌っている。ジネーヴラがソプラノでポリネッソがアルトである。今回の上演では、アリオダンテが中村裕美(敬称略、以下同様、メゾソプラノ)、ジネーヴラが佐竹由美(ソプラノ)、ポリネッソが上杉清仁(カウンターテナー)、スコットランド王(ジネーヴラの父、バス)が加藤直紀、ダリンダが村谷祥子(ソプラノ)、ルルカニオが坂口寿一(テノール)、オドアルドが長谷部千晶(ソプラノ)。バロック・オペラを聴くといつも思うのだが、カウンターテナーがいるせいか、テノールが高い声という感じがしない。実際、役柄的にも、テノールは脇役的な役柄が多い。そこが19世紀以降のオペラとは大きく異なるところである。音楽監督・演出は原雅巳。オケはヘンデル・インスティテュート・ジャパン・オーケストラで今回はヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、チェンバロの他にフルート、オーボエ、ファゴット、トランペット/ホルンがあって、楽器編成のヴァリエーションが豊かだった。さらにバロック・ダンスを浜中康子、北條耕男が演じ、ダンス音楽の場面も大いに楽しめた。そもそもヘンデル協会の上演ではバロックジェスチャーで衣装もバロック風の衣装なので様式美にみちた上演であるが、それとバロック・ダンスは親和性が高いのは言うまでもないだろう。
中村の澄んだ声、適度なビブラートは聴いていて実に気持ちが良い。上杉のポリネッソは、歌も演技も見事だった。ポリネッソは前述の通り、陰謀をたくらむ公爵なのだが、その高貴な身分といやらしさを同時に表情で表している様は称賛に値いしようし、歌もまた、やりすぎずに豊かに表情をつけていた。悪役が上手いと主人公アリオダンテやジネーヴラの悲劇もひきたつというものだ。村谷のダリンダも、そのポリネッソにそそのかされ、心ならずも陰謀に加担してしまう侍女の思いを叙情的に表現していた。
ヘンデルのオーケストレーションは実に巧みで、たとえば裏切られたと思ったアリオダンテが死を覚悟する場面では、楽器編成は最小限になる。ヴァーグナー的足し算の美学ではなく、引き算の美学である。王が出てくる場面ではホルンが鳴る。オーボエはどういう場面で鳴り、どういう場面では引っ込むかなどを見ているのは実に興味深い。
全体として、大変にレベルが高く、堂々とした演奏・演技であった。
さらに言えば、ヘンデル協会のものはいつもなのだが、プログラムが充実していて読み応えがある。今回のものは、333HBS記念祭の年ということもあり、また、ヘンデル協会設立20周年ということもあり、それに関する記事がある。台本、バロック・ジェスチャーに関する記事、《アリオダンテ》の見どころ、《アリオダンテ》を政治的にどう読み解くか、さらには、カールスルーエでのヘンデル音楽祭観劇記もあり、おすすめです。

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