2019年9月 4日 (水)

チェスティのオペラ《ラ・ドリ》

チェスティ作曲のオペラ《ラ・ドーリ》を観た(インスブルック、州立大劇場)。

 

ピエトロ・アントニオ・チェスティ(16231669)のオペラ《ラ・ドーリ》は今回数百年の時を隔てて蘇演されたのであり(今回の上演は2回で、著者が見たのは2回目の8月26日の上演である)、作曲家、リブレッティスタ、作品、上演について数回に分けてやや詳しく紹介したいと思う。

というのも、今回初めて作曲家チェスティのオペラの上演に接してみて、曲として非常に楽しめたし、リブレットのストーリー展開も複雑かつ興味深かったし、上演の質も極めて高く、稀に味わう満足感を得たからだ。

作品名は正式には《La Dori o’ vero La schiava fedele》(ドーリまたは忠実な奴隷)という題名だ(editionによって別のタイトルもある)。チェスティは決してよく知られた作曲家とは言えないだろうが、モンテヴェルディやカヴァッリ(16021676)の次の世代の作曲家である。今回の上演を観て、聞いて、彼の音楽が随分とメロディーの喜びに満ちていることを知った。カヴァッリと比較して二重唱やアリアの際に、メロディーラインがくっきりしている。プログラムの解説にはメロディーの結晶化という意味の言葉があり大いに納得した。レチタティーヴォの部分ではモンテヴェルディやカヴァッリを想起させられることがしばしばあったのだがアリアや二重唱になるとむしろヘンデルやヴィヴァルディらを先取りしている感じなのである。

リブレッティスタはジョヴァンニ・フィリッポ・アポッローニ(c.1620—1688)。この作品が作られた時期、チェスティはインスブルック(ハプスブルクの宮廷があった)の宮廷作曲家であり、アポッローニは宮廷詩人であった。二人ともアレッツォの出身で、かつフィレンツェで同じグループに所属して活動していた時期があり、チェスティの引き、あるいは彼らのパトロンであったジャン・カルロ・デ・メディチの推薦によって、インスブルックの宮廷詩人となった。

《ラ・ドーリ》のあらすじは続きで。

 

 

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2019年8月29日 (木)

《タンホイザー》

ワーグナーのオペラ《タンホイザー》を観た(バイロイト祝祭劇場)。

指揮者ゲルギエフ。演出はトビアス・クラッツァー。読み替え演出で、これほどピンときたものは珍しい。つまり演出が非常に面白かった。そのことによって超多忙ゆえに、練習時間不足の令名高いゲルギエフの細部のアラ(具体的には合唱とオケのちぐはぐなど)がさほど気にならなかったと言える。

ゲルギエフの指揮も、クラッツァーの演出も、鮮やかといえば鮮やかで、あざといと言えばあざといもので、それが現代においてワーグナーを上演するということの意義を鮮やかに照らし出しているのだった。

序曲の部分で、サーカスの一団のような連中(実はウェーヌスと小人のオスカー(ブリキの太鼓)と黒人のドラーグ・クイーンとピエロの格好をしたタンホイザー)が風がわりなトラックに乗ってドイツの森を疾走しているのだがガス欠になり、ドライブインで無銭飲食をし、警備員を轢き殺してしまう。タンホイザーはショックを受けこの一味から離脱しようかと悩む、という感じ。

ウェーヌスのエロスが一人の女性歌手ではなく、エレナ・ツィトコーヴァ演じる生身の女性のウェーヌスと黒人で女装したドラーグ・クイーンのガトー・ショコラ(これが彼・彼女の芸名)と異界性を帯びた小人のオスカーに分散して表象されている。第一幕が終わった後の長い休憩時間にもパーフォーマンスは野外の庭(池のほとり)で続き、ガトー・ショコラが中心になって、ウェーヌス、オスカーと歌と踊りのショーを繰り広げるのだった。その部分は一般市民にも公開。

二幕になると舞台が上下に区切られていて、上はスクリーン、下が歌合戦の行われる(演じられる)舞台で、歌合戦は一幕からすれば意外なほどまともな衣装、まともに進行するのだが、上のスクリーンは楽屋からの視点で、歌手の楽屋での様子や舞台に出る瞬間や、様々なキューが出される現場を見せ続けている。タンホイザーの世界が芝居ごとなのだ(それは言われなくても分かっているわけだが)という点を強調しているのだろう。しかし最終的にはそこに第一幕のウェーヌス、ガトーショコラ、オスカーが闖入する。その部分は彼らがバイロイト祝祭劇場が上演中のため外部の者が入れないようになっているのに無理やりハシゴをかけてさらに楽屋口から舞台に出てくる様子が映し出される。

クラッツァーが上手いのは、彼らの動きと音楽の進行の合わせ方で、楽想が変化したり転調したりする部分を巧みに利用しているので本来リブレットにない人物、ない動きが違和感がない。むしろ自然でぴったり合っていると思える箇所が多い。                                                               

 第三幕は例のトラックがドアも取れボロボロになっているどこともつかぬ野原。オスカーがスープのようなものを飯盒で作っているところへ、エリーザベトがやってくる。読み替えが最も強烈なのは第三幕だ。もちろん、序曲からの仕掛けがあってのことだが。エリーザベトはオスカーからスープをもらう。その後、エリーザベトを慕うヴォルフラムがやってくる。エリーザベトが倒れているのを見て、ヴォルフラムはタンホイザーが着ていた道化服をきてエリザベスを元気づける。エリザベスが熱く接吻をした後、ヴォルフラムは自責の念を感じたのかカツラをとって自分がタンホイザーではなくヴォルフラムであることを明かすが、エリーザベトは自らヴォルフラムにカツラをかぶせ、トラックの後部座席に引っ張り込みセックスらしき行為に及ぶ。これは従来のエリーザベト像を全く覆す読みである。清らかでタンホイザーのために自己犠牲するエリーザベトだったはず。この変化はなぜ生じたのか?筆者の解釈(無論、絶対的なものだとか、他の解釈がありえないというつもりは毛頭ありません)はこうだ。現代の欲望(エロスにおいても物欲においても)の世界に迷い込んだエリーザベトはオスカーのスープを飲むことで決定的に現代社会の欲望に染まり・汚染され、清らかさを失い、欲望に支配されるようになる。あるいは抑圧されていたおのれの欲望を自覚するようになる。その結果、自分をじっと慕ってくれていたヴォルフラムの好意に応じ、肉体の喜びに進んだのではないか。この女性像の変更は、相当に挑発的で、刺激的であると思う。というのも、エリーザベトの清らかさはイメージとして聖母マリアと重ね合わされおり、この変更はその重ね合わせに大きな亀裂、不協和音を生じさせるからだ。ウェーヌスも第二幕で、儀式的儀式的場面で、皆と一緒に儀式的行為をすることに非常な違和感があるということを身振りで表現していた。

 しかし、現代において、欲望の象徴のウェーヌスと貞潔の象徴のエリーザベトを揺れ動くタンホイザーをストレートに描いても、時代遅れというか、ピンとこない恐れが濃厚なのに対し、今回の演出では現代のロードムービー的要素やLGBTQ的な要素を取り込み、現代におけるエロス、欲望の意味を根源的に問うと同時に、そもそもワーグナーの相対化、バイロイト祝祭劇場およびそこに巡礼する人々への痛烈な批判的眼差しを露出させたものになっている。こういう演出をする演出家も大したものだし、またこれだけサーカスティックに扱われても多少のブーイングはあれど圧倒的に支持の多い拍手の嵐を浴びせる観客層も懐が浅くないと感じた。

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《ニュルンベルクのマイスタージンガー》

《ニュルンベルクのマイスタージンガー》を観た。(バイロイト)

指揮はフィリップ・ジョルダン。クラウス・フローリアン・フォークトがヴァルター。彼はほぼ50歳だが驚異的に滑らかで大音量の高音が出る。表情・演技もある。良い意味での怪物だ。

この日はベックメッサー役が病気のため、マルティン・ガントナーが代役を勤めた。

この長大な曲はやはり、前奏曲にエッセンスが詰まっていて、その様々な主題が分散して、展開して、繰り返されていく。その前奏曲および枝分かれ部分がもっとも重要な部分であり、飽くことなく繰り返されていくわけだが、時たま、ヴァルターがアリア風の歌を歌ったりもする。

演出はバリー・コスキーで、ベックメッサーのユダヤ性を強調していて、彼がやっつけられる場面でまるで殺されたかのような動きがあった後、天井から巨大なベックメッサーの風船ハリボテが降りてきて、頭にははっきりとユダヤの印(ダヴィデの星)の帽子をかぶっていた。原作のリブレットでは明示されておらず、論争の種にもなるベックメッサーのユダヤ性が強調され、彼を排除することでかえって彼の亡霊に支配あるいは取り憑かれている感じを出していたのかもしれない。儀式で祈るような場面でもベックメッサーだけが祈りのポーズをとらず、周りから強要されて渋々応じる様も演じられていた。

第三幕では舞台が第二次大戦後のニュルンベルク裁判と重ね合わせられていたのもベックメッサーの呪いの表れの1つと言えるだろう。しかし、登場人物の衣装は中世風で壮麗であった。

休憩2回それぞれ1時間なので、4時始まりで10時半過ぎまで。体力勝負である。

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2019年8月22日 (木)

ヘンデルのオペラ《オットーネ》

ヘンデルのオペラ《オットーネ》を観た(インスブルック、Theologische fakultat, Innenhof)。場所としては州立劇場の並びだが、小ホールで客席は1階のみ。人数は270名ほど。オケは20名弱だが、ホールが小ぶりであるので十分に鳴る。このサイズになると、リュートにPAを入れなくても、例えばチェロ1丁とリュートがアリアの伴奏をする際に実に良い音のバランスが出現し、この音のバランスは3階、4階があるホールでは無理があるのだと認識せざるを得ない。

弦楽が休んでいたり、他の楽器に先がけてリュートがパラン・パランと導入フレーズを弾くのは時にとても効果的なのだが、音のバランスが成り立っていなければ、聞こえないか、PAの音を聞くかの選択になってしまうのだ。そういう意味で非常に贅沢な音空間である。

指揮者はファブリツィオ・ヴェントゥーラ。オケはアカデミア・ラ・キメーラ。

楽団員は若い人ばかりに見えた。指揮ぶりは、概ね穏やかで、あまりアタック音を目立たせたりはしないし、ドラマティックに盛り上がる曲想においても疾走することはなく、音は古楽らしいが、曲作りは安全運転な感じである。それはオケの能力ということにも関係していると思われる箇所がいくつかあった。歌手もほぼ若手ばかりで、タイトル・ロールのオットーネがメゾのマリー・セイドラー。テオファーネがマリアミエッレ・ラマガット。ジスモンダがメゾのヴァレンティーナ・シュタットラー。彼女が声の成熟度や表現力において他の歌手より優れていた。アデルベルトがアルベルト・ミゲレス・ロウコ。マティルダがアンヘリカ・モンへ・トッレス。彼女は言葉が明快で、これで声に伸びやかさが加わればと思った。エミレーノのヤニック・デブスはバリトンで舞台姿を含めて声の表現力もなかなかのものだった。大物歌手はいないが、若い歌手の懸命の歌唱を聞くのも悪くない。ここでアジリタがもう少し回ればなどと思うこともあるけれど。

この上演はハレやゲッティンゲンでのヘンデル音楽祭(2020年)との共同プロダクションであるとのこと。演出は簡素な舞台で、奥の壁に窓がいくつかついていて、そこから他の登場人物が歌っている登場人物を盗み見ていることがあるという仕組みだが、不満はなかった。衣装も簡素であった。

 

 

 

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2019年8月21日 (水)

《イドメネオ》

クルレンツィ指揮のモーツァルト作曲のオペラ《イドメネオ》を観た(ザルツブルク、フェルゼンライトシューレ劇場)。

 この上演は、クルレンツィスのという冠がふさわしい《イドメネオ》であった。演出はピーター・セラーズで賛否半ば。歌手は色々な国籍の人が入り混じっている点に意味があるのかと思った。

主人公イドメネオはアメリカ出身の黒人歌手ラッセル・トマス。アルバーチェは南アフリカ出身の黒人歌手。イダマンテはポーラ・マリヒーというアイルランド出身の女性歌手。イリアはイン・ファンという中国人女性歌手といった具合。誰かが傑出しているというわけではなく、それぞれにそれなりに歌っているという感じ。

 この日のオケはフライブルク・バロック・オーケストラだったが、このオケとクルレンツィスの組み合わせが驚嘆に値するものだった。特に前半(この日の上演は休憩1回で第一部と第二部という感じに区切られている)、今までの《イドメネオ》の演奏でこれほどエクサイティングなものはあったかというほどエクサイティングであったがその理由は後述。ただし、無から有が生じるわけではなく、モーツァルトを古楽器やピリオド楽器で演奏すること自体は、30年ほど前からホグウッドやガーディナーらがやっていることで、ガーディナーの《イドメネオ》のCDは個別の歌手はともかく全体は素晴らしく大いに刺激的かつ溌剌とした演奏である。

 そういった古楽器、ピリオド楽器によるモーツァルト演奏を踏まえつつ、クルレンツィスはやはり独自性を豊かに備えていると思う。

 一つはフレーズの変わり目で一息つくのではなく、前のフレーズと次のフレーズの接続が有機的であったり、音楽的なドラマに満ちて聞こえるのだ。さらに彼の手にかかると、歌手がアリアやレチタティーヴォを歌っているときに、例えばバイオリンが音形的な伴奏をしてもそれが非常に音楽的に表情を持って訴えかけてくるのである。そのため、オーケストレーションがシンプルであってもオケがエスプレッシーヴォなので、歌手の歌がのっぺりしていると食われてしまう。決して音量的にオケが圧倒するというのではない。そうではなくて、音楽的表情がメロディー的なフレーズでなくても豊かに繰り出せるので、声の方もうかうかしてられないのだ。逆に言えば、観客はこのアリアが表出した表情はこういうものだとオーケストラの表情・表現から如実に理解してしまうので、それに歌手がふさわしく歌っているか、という聴き方になってくる。そういう意味で通常の指揮者とやるよりは歌手にとってずっと怖い指揮者だと思うが、やりがいがあるのも疑い無いところ。

論争的な問題を引き起こしそうなのは第二部で、2つ上げておく。1つは、第二部の冒頭に、モーツァルトの作品ではあるが全然別の作品を、登場人物でない歌手に歌わせたこと。《エジプトの王、タモス》k .345からで、バス歌手が

2階の脇のバルコニー状の部分で歌うのだが、これはドイツ語の歌詞なのだ。

作曲時期は近いとは言え、《イドメネオ》は全てイタリア語なので、言語的な違和感、なぜこの曲を挿入するのか、という疑問をクルレンツィスが聴衆に投げかけているのだと言えよう。

  さらにこれはこちらが無知であったのだが、劇の進行が終わって(エレットラが死ぬ)舞台上に倒れているのだが、そこで終わりではなくそこから延々バレエ音楽が流れる。調べてみれば、これはオリジナルにあるのだ。ただし、今回踊っていたのは、東洋風というか手旗信号とからくり人形と太極拳を足して3で割ったようなビミョーな踊りをLemi Ponifasio というコレオグラファー兼ダンサーが演じていたが、モーツァルトのオペラの舞台が古代ギリシアであることを考慮に入れても、全然似つかわしいとは感じられなかった。出演者の出身地がさらにワールドワイドになるという点には貢献していたのだろうけれど。Ponifasio のバレエは足の動きが全くエレガントではなく、こまたでチョコチョコと進むのだ。ふう。ピーター・セラーズにブーを飛ばす人もいますわな。

 全体としては、《イドメネオ》が実によくできた部分、ドラマティックな部分を持った作品であり、また他のオペラ作品にはない過激な要素を持ったオペラなのだということを理解させてくれた。レチタティーヴォはかなりカットされていたようだが、それでも、あるいはそれゆえに第一部は濃密な音楽世界の連続で圧倒された。この濃密な音楽世界はまごうことなくクルレンツィス主導のもので、クネクネとした動きとともにくせになりそうである。

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オペラ〈アルチーナ》

ヘンデルのオペラ《アルチーナ》を観た(ザルツブルク、モーツァルト劇場)。

 

ザルツブルク音楽祭(festspiele なので音楽には限らないし、演劇も上演しているのだが慣例に合わせこう呼んでおく)のメイン会場となる3つの劇場はそびえ立つ岩山に接してあるいは岩山をくり抜いて横並びに並んでいるわけだが、モーツァルト劇場(Hause fur Mozart)は一番舞台の幅が狭く、モーツァルトやバロックに向いていると言って良いだろう。岩が露出しているフェルゼンライトシューレも、舞台の幅は広いのだが客席はさほど大きくないので、バロックや現代物が上演される。

(もちろん例外はある)。

 

今回の《アルチーナ》は、聖霊降臨祭の時にバルトリが中心となってオーガナイズしたプロダクションの再演である。ザルツブルクで催される芸術祭(音楽祭)と言えば夏のものが伝統もあり中心的なものであるが、近年は他のシーズンにも催され、それは厳密に言えば組織体や芸術監督・音楽監督が異なり、バルトリは確か精霊降臨祭の方の音楽監督であったかと思う。。。調べてみると、彼女は2012年に聖霊降臨祭の芸術監督となり、2014年にはその任期が2021年までに延長されたのだった。今回のオケを担当したモンテカルロ歌劇場のオケ(Les Musiciens du Prince-Monaco)も彼女のイニシアティヴで創設されたものである。バルトリはキャリアの初期から独自のレパートリー、新たな音楽シーンを切り開いてきたわけだが、2010年代に入ってからは自分の芸術観を具現化する組織を手に入れ、それを実現していると言えるだろう。プログラムの解説にもある通り、彼女の活動の中心はザルツブルクになってきており、2013年にはノルマ役をここでデビューし、ヨーロッパ各地で歌っている。

さて今回の《アルチーナ》ではタイトル・ロールの魔女アルチーナをチェチリア・バルトリが歌い、彼女の魔術でとらわれの身となったルッジェーロをフィリップ・ジャルスキーが歌う。アルチーナの妹モルガーナは、しみじみとした曲、コミカルな曲があり歌い手にとってお得?な役だと思うがサンドラン・ピオ。バルトリ、ジャルスキーの歌唱レベルが、いや演技も発声も高いレベルにあるので、求める水準が高くなっていることを断った上で言うと、ピオの問題点は言葉、歌詞の言葉が聞き取りにくい点にある。子音がまるまってしまい判別できないのが1つ。もう1つは、曲によるのだが、単語ごとにアクセントをつけて、フレーズとしてのアクセントの位置がわからなくなってしまうことがままあった。ジャンルーカ・カプアーノの指揮とオケは見事に音楽的で歴史的な情報に配慮した演奏が、微塵もカビ臭くないどころか、実に生き生きとしているし、ヘンデルの中でも演奏機会の多い《アルチーナ》では弾き手も聴き手も余裕を持って(いい意味の緊張はある)音楽が進んでいく。

演出はミキエレット。現代服。舞台を2つに区切る大きなスクリーンがあり、そのスクリーンは回転舞台の上に乗っていて、舞台全体を前後に二分していることが多いが、バルトリが老婆(魔女の正体)とそのスクリーンを挟んで向き合ったりする。老婆の他に少女も時々でてきて、これもアルチーナの分身らしい感じ。隣席にいたイタリア人同士が話しているのが漏れ聞こえてきて、少女はアルチーナの魔術の化身(擬人化)と言っているのを聞いてそうかもしれないとも思った。この2人とイタリア人は、休憩時間に延々とリブレットについて語っている。リブレットがイタリア語で書かれているからこそではあろうが、歌手や指揮や演出はそっちのけで、台本について細かいところをここはこういう意味だとか話し込んでいる客を初めて見た。

バルトリに関して個人的に言えば、ギリギリまで叙情性を発揮して観客の感情移入を求める曲よりも、アクロバティックな超絶技巧を披露する方が彼女の本領発揮という感じがする。叙情的な曲では、紙一重のところでやりすぎ感を感じることがなくはない(劇場では満場の大拍手であることを付け加えておかねば不公平であろうけれども)。ジャルスキーの場合は、そこがクールと言えばクールで感情を込めつつ、節度が保たれており、音楽としての形が美しい。叙情的な曲ではほとんどの歌手がテンポが遅くなり、伴奏だけの部分で指揮者がricupero (元のテンポに戻す)してやる必要があり、優れた指揮者はそれをさっとやるのだが、凡庸な指揮者だとそのままテンポがズルズルと遅くなり、曲がだれてしまう。ところがジャルスキーやファジョーリのような音楽性において傑出した歌手になると指揮者がricuperoしてやらなくてもすっと元のテンポに戻れるのである。いずれにせよ、歌手としてはこの2人が傑出していた。ジャルスキーも若いとは言えないし、日の出の勢いという感じでバリバリ歌うというのではなく、最後のircana のアリアでは息継ぎや力の配分がギリギリのところなのだろうと推察された。ついでメリッソを演じたアラステア・マイルズ。声質で魅了されるというよりは言葉がはっきり伝わり、かつ、声の表情にメリハリが効いているので、脇役として場面、場面がピリッとしてくる。

最上階のせいか、リュートやハープの活躍する場面ではPAが目立たないように使用されていたように思う。少年オベルトの歌うところでは使用されておらず、2幕の冒頭でも使われておらずという具合に、PAの使用にオン・オフがあったように思われた(劇場関係者に確認したわけではない)。PAが入ると、リュートの音がはっきり聞こえるのみならず、弦の響きも少し賑やかになるのだ。微妙な差異なので気にならない人には気にならないであろうレベルであった。

指揮・オケ共に技巧も音楽性も卓越し、かつスイングして申し分ない。古楽器奏者、演奏団体の層は着実に厚くなっている。

イタリアの騎士物語の長編詩を基にしたバロック・オペラは今や極上のエンターテイメントとして享受されている。

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2019年8月18日 (日)

オペラ《メデア》

ケルビーニのオペラ《メデア》を観た(ザルツブルク祝祭大劇場)。フランス語上演だったので《メデ(ー)》と言うべきかもしれないが。

ストーリー的には無論、ギリシア悲劇が元になっているが、オペラの台本としては、ピエール・コルネイユの《メデー》(1635)を元に、フランソワ=ブノワ・ホフマンがリブレットを書いたものである。

指揮はヘンゲルブロックでウィーンフィル。ヘンゲルブロックの指揮は総じて早めで、終幕などは相当にテンポを上げて攻め込む感じだったがウィーンフィルはよく応えていた。難を言えば、テンポの速さとバーターになる面もあるかもしれないが音色の変化にはやや乏しい面があった。

演出は、ギリシア悲劇を現代に持ってくるというもので、序曲の間にイアソンとメデアと2人の子供の家庭生活がスクリーンで映し出される。そこへ第三の女性ディルセが現れる。

第一幕はディルセとイアソン(ジャゾーネ)の結婚式がまもないのだが、ディルセはイアソンの前妻が気になっている。ディルセの父クレオン(コリントの王)はメデアがやってくるという情報を得て阻止しようとするがこの日の演出では皆現代服で、メデアの到来を阻止するのは空港でのことなのだった。

第二幕ではネリスという侍女がメデアの2人の子供の面倒を見ている。

第三幕ではディルセが死に、その死をイアソンが嘆くのを見て、メデアは子供を道連れにして死ぬ。

この曲が作曲された1797年という時期を考えると、オケの編成は楽器も含め様々な可能性がありうる曲ではないだろうか。今回のヘンゲルブロックとウィーンフィルは大劇場ということもあり大編成で大音量のオケであった。

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2019年3月 3日 (日)

《アルチーナ》

ヘンデルのオペラ《アルチーナ》を観た(カールスルーエ)。

前回不調だったオロンテ役が交代して、カナダ人テノールのネイサン・ヘラーに交代。彼はチューリッヒから急遽やってきたとのことだった。歌手の場合、身体が楽器なわけで、マスタークラスの学生を見ていてもマフラーをしたり喉を守ることにはおこたりない。しかしそうしていても、不調になることは避けられない場合があるだろう。他人事ながら大変だなあ、と思う次第である。ネイサン・ヘラーは比較的イタリア語の発音がしっかりして、通る声であった。
ヘンデル音楽祭のヘンデル上演の唯一の弱点と思われるのは、イタリア語の発音が弱い歌手が多いことだ。全体として非常に高いレベルにあり、大いに満足しているのだが、その点には向上の余地がまだまだあると思う。英語圏出身の歌手で、最近はイタリア語の発音がしっかりしている人もかなり出てきているのだが、個人差は大きく、声(声量)を出すことを優先で、子音の発音が聞き取りづらく、その結果、なんと言っているかわからない、聞き取れない歌手も複数いた。
演出もストライキは終わり、通常に戻った。演奏も概ね変わらず。
ドイツ・ヘンデル・ゾリステンのメンバーはほぼ去年と重なっているわけだが、いろんな指揮者を経験することでオケとしても発見や成長があるのではないだろうか。とりわけ、今回のペトルゥのような指揮者、ピケのような指揮者を経験するとドイツ系の指揮者とは一味もふた味も違った世界をこちらも楽しむことができるし、オケが蓄える経験としても貴重なのではないかと思った。常任指揮者が変わって何年とかいうのではなくて、この音楽祭を契機として短期間に集中的な演奏会をこなしていくわけだが、同じオケからこれほど異なった響き、音色、ダイナミズムが現れいでるのかと改めて指揮者の存在意義に感銘を受けた。バロック時代に現代のような指揮者はいなかったであろうが、バロック時代にバロック楽器をもちいてバロック音楽を演奏するのと、現代にピリオド楽器を用いて、バロック音楽を演奏するという位相の違いを考慮に入れれば、指揮者の意義が大きいことをポジティブに捉えても良いのかと思う。

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2019年3月 1日 (金)

《アルチーナ》

ヘンデルのオペラ《アルチーナ》を再び観た(カールスルーエ)。

この日、州立劇場からメールが来て、今日は劇場スタッフの時限ストライキがあるので、セミステージでの上演となるという。ただし衣装、仮面はつけているとのことだった。
スタッフというのがどの範囲かは判然としなかったが、実際に行ってみるとクロークも休憩時間の飲食コーナーも通常通りだった。
舞台の上での変化はというと、背景は白い壁のみになっている。ただしその壁への映写は通常通り。また、いつもは舞台上、客席から向かって左側に大きな壁が奥手に向かってあり、最後にその壁を壊すと、魔女アルチーナの魔法で石やら獣になっていた人が出てくるという場面がある。その壁が向かって右側で、壁の向きがいつもとは90度違っていたことが1つ。この壁が出てくるタイミングがいつもよりずっと遅かった。もう1つは、結末に近いところで歌詞に虎の出てくる勇ましいルッジェーロのアリアがあるのだが、そこで振り回す剣に火がつくという演出があるのだが、この日は剣は振り回すものの火はつかなかった。つき損なったのではなく、つけるための準備の手順自体をしていなかった。
衣装はいつもと同じなので、演出に関して痛痒は感じなかった。
演奏は、第一幕は、ストライキのアナウンスにも関わらず来てくれた観客への思いもあったのか、オケも指揮も歌手たちも素晴らしかった。ところが第二幕になって、第一幕での観客の暖かい拍手に安心したのか(どうかはわからないが)、歌手たちは、指揮者が設定しているテンポを崩し、勝手に遅くしてしまう例が頻出した。つまり前奏の部分でのテンポが歌が入った途端にガクッとテンポが落ちる、あるいは歌っているうちに感情を込めるとともに落ちて元に戻らない。音楽とドラマの推進力が落ちてしまい残念だった。テンポを落とし悲しげな表情の厚塗りをせずとも、曲想がしかるべき叙情性を示しているならば、自然に現われ出でる表情があるわけで、曲を信じた方がかえってこちらに感銘を与えるのにと思った次第。
モルガーナ役の歌手など、よく通る綺麗な声なのだが、アジリタでずるずるとテンポが落ちるのがもったいないのだった。オロンテ役の歌手は、2幕以降、通常の声が出なくなり、レチタティーヴォも苦しげで明らかに声が小さかった。アリアも省略された。何か突然具合が悪くなったのだと思う。観客もそれを理解し、カーテンコールで彼へのブーイングは全くなかった。

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2019年2月28日 (木)

《セルセ》その5

ヘンデルのオペラ《セルセ》の演出について。

これまでの項目で、筆者の思うところを書いてきたが、演出家のツェンチッチのインタビューを読んで、筆者とは全く違ったことを重視していたのだと衝撃を受けたので報告します。
少しばかり言い訳をさせてもらえば、芸術の解釈は、作った本人がこうと思った通りだけが正解な訳ではなく、ある表象が複数の異なった印象を受け手に与えることは、むしろ芸術家自身が望んでいる場合が多いので、筆者としてはツェンチッチの演出に受けた印象というのは、前に書いた通りです。
では、ツェンチッチはインタビューでどんなことを言っているのか。お断りしておかねばならないが、ツェンチッチのインタビューはプログラムに掲載されているのだが、ドイツ語で、筆者はグーグル翻訳で英語にして解読した。グーグル翻訳には不十分なところがあり、sister と訳すべきところがfiance' となっていたりして完全ではないのだが、ともかくあらましを紹介することが目的なので、ご了承いただきたい。
まず、ツェンチッチは、このオペラのテーマは運命だという。第一子に生まれたセルセは王となり権力も富もほしいままにするが、弟のアルサメーネは兄の臣下である。ロミルダとアタランタの姉妹もロミルダはセルセからもアルサメーネからも言い寄られるが、アタランタは単にアルサメーネに思いを寄せるのみだ。さらにその上で、限りのない貪欲さというのも重大なテーマだという。セルセは権力も富も持っているのだが、それで十分満足せずに、他者(弟)の恋人を、我がものにしようとする。しかも彼女(ロミルダ)が拒絶しているのに。
さらに筆者が驚いたのは、台本に関すること。《セルセ》の台本はカヴァッリ作曲の《セルセ》の台本が大元で、それをボノンチーニの《セルセ》が変更しつつ踏襲し、さらにヘンデルの台本は無名の台本作者がそれを元に書いているのだが、登場人物は7人になっている。筆者が驚いたのは、ツェンチッチは7人にしたのは、その登場人物が7つの大罪を表象しているからだという点だ。ツェンチッチは誰がどの罪に相当するということをいちいちは挙げていないのだが、例えば、セルセは貪欲ということかとか、アタランタは羨望かとか思わないでもない。しかし、《セルセ》を一種のアレゴリー(寓意劇)と解釈するのは斬新な考えだと思う。
ツェンチッチが舞台をラスベガスに持ってきているのは、現代の資本主義社会での限りのない欲望、貪欲さを象徴させる舞台にもってこいだからとのことで、それはうなづけると思った。

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