2026年8月22日 (土)

めったに出会えないヘンデル《アタランタ》――若い演奏家たちの勢い

ヘンデルの《Atalanta(アタランタ)》を聴いた(インスブルック、Haus der Musik、Kammerspiele)。Kammerspieleというのは地下の小さなホールである。

《Atalanta》は、ヘンデルのオペラのなかでも上演頻度の高い作品ではない。私自身、実演で聴く機会はこれまでなかったので、今回の上演は貴重な機会だった。

1736年、イギリス王太子フレデリックとオーガスタ・オブ・サクス=ゴータの結婚を祝って作曲された作品で、基本的には明るい牧歌劇である。にも関わらず、初演の時も、続く上演でも新婚カップルはこのヘンデルの上演に立ち会わなかったのだという。

オペラに登場するのは二組のカップル。

一組は羊飼いのアミンタとイレーネ。こちらは本物の羊飼いたちである。

もう一組が少々ややこしい。アルカディアの王女アタランタは「アマリッリ」という羊飼い娘に、エトリア王メレアグロは「ティルシ」という羊飼いに、それぞれ身をやつしている。

そして二人は恋に落ちる。

ところが、お互いに相手を本当の羊飼いだと思っているので、高貴な身分の自分が身分の低い相手と結ばれてよいものか、と悩むのである。

見ている方からすると、

「いや、二人とも王族なのだから大丈夫だよ」

と言いたくなるのだが、もちろん本人たちは知らない。このすれ違いに、もう一組のアミンタとイレーネの嫉妬や恋の駆け引きが絡んで話が進んでいく。

大事件が次々に起こるタイプのオペラではない。むしろ、恋をしているのになかなか本心を口にできない若者たちの気持ちを、田園的な世界の中で眺める作品である。

今回、ピットに入ったのは Orchester der Schola Cantorum Basiliensis。若い演奏家を中心としたオーケストラで、今年できたばかりだという。もちろんまだアンサンブルとして磨かれていく余地はあるだろうが、それだけに、これからどう成長していくのか大いに期待したくなるオーケストラだった。

指揮は Andrea Buccarella。

私はこの人の指揮がかなり気に入った。

曲の勘所をよく押さえていて、とくにアリア・ディ・ブラヴーラになると面白い。オーケストラの縦の線を何が何でもきっちり揃えることよりも、多少それを緩めてでも音楽の推進力を優先するタイプの指揮に聞こえた。

そのため、速いアリアになると音楽が急に前へ走り出す。

バロック・オペラでは、細かな音符を整然と並べることに気を取られると、技巧的には立派でも音楽の推進力が減じることがある。Buccarella の場合は逆で、音楽がどこへ向かっているのかをはっきり示し、歌手とオーケストラをそこへ一気に運んでいく。

こちらも自然にその勢いに乗ることができた。

そして今回、とくに印象に残った歌手が、メレアグロを歌った Sarah Hayashi である。

メレアグロはエトリア王なのだが、「ティルシ」という羊飼いに身をやつしている。したがって舞台上では、王でありながら羊飼いとしてアタランタを追いかけることになる。

この役には、派手なアジリタを要求されるアリアが何度も出てくる。

Hayashi は昨年もインスブルックで聴いたが、それと較べると長足の進歩だった。

まず、アジリタがぐんとうまくなった。

速いパッセージを単に音符として処理するのではなく、それが音楽の勢いそのものになっている。そして、それ以上に印象的だったのが、声のダイナミックな振幅に表情がきちんとのるようになっていたことだった。

声を強くしたり弱くしたりする。それだけなら技術の問題である。

しかし今回の Hayashi には、その振幅がそのままメレアグロの感情の動きになっているところがあった。勢いよく前へ出る声、ふっと力を抜く声、その変化に表情が伴っている。

若い歌手が一年ほどの間にこれほど変わるのか、と少し驚いた。

もちろん、まだ完成した歌手というわけではない。むしろ、だからこそ面白い。これからさらにどこまで伸びていくのか、追いかけて聴いてみたくなる若手歌手である。

《Atalanta》そのものも、聴いてみるとなかなか魅力的な作品だった。

有名な《Care selve》のような静かな歌がある一方で、華麗なアジリタを駆使するアリアもある。狩りの場面があり、恋のすれ違いがあり、最後には登場人物たちの正体も明らかになる。

そして最後には、それまでの牧歌的な恋愛喜劇が一転して、作品が作曲された現実の王室結婚を祝う大掛かりな祝祭音楽へと広がっていく。

ヘンデルの有名オペラだけを聴いているとなかなか出会えない、少し変わった作品である。

珍しい作品を、これから伸びていく若い歌手と若いオーケストラで聴く。

演出も、簡素ではあるのだが、上手く舞台奥の壁に映像を投射して、それが夜の森やイノシシの顔になったりするのだった。

音楽的には、licenzaという祝婚オペラでその祝われるカップルに向けての台詞や音楽が最後に出てくるところがあるのだが、案外ここが長いので驚いた。以前にコルセッリ作曲の《シーロのアキッレ》を聴いた時の何倍もあった。

インスブルック古楽音楽祭の Barockoper という企画には、完成された名演を聴くのとはまた違った楽しさがある。若手の挑戦を聴く上演なのだ。

今回の《Atalanta》は、そのことをよく感じさせる公演だった。

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2026年8月10日 (月)

《黄金の林檎》その3

チェスティ作曲、ズバッラ台本のオペラ《黄金の林檎》は、ハプスブルクの威信・栄光をかけた上演だったのだが、初演の日時は予定より遅れに遅れた。

そもそもこのオペラは皇帝レオポルト1世とスペインの王女マルガリータ・テレーサの結婚を記念してのオペラだった。ハプスブルクは近親結婚が多いので、マルガリータ・テレーサはレオポルトの従姉妹であり、姪であった。この結婚の意味は、スペイン系ハプスブルクとウィーン系ハプスブルクが結合することにより、スペインの王位継承権をウィーン側が強化することにあったと言えよう。このオペラ上演のためにコルティナ劇場というのを宮廷内に建造したのだが、花嫁の到着時に完成をしていなかったので、上演は先延ばしになった。結婚自体は1666年に執り行われた。

ところが、劇場が完成しても《黄金の林檎》はすぐには上演されなかった。翌1667年にはレオポルト1世の誕生日に合わせる案もあったが、これにも間に合わない。さらに皇帝夫妻に最初の男子フェルディナント・ヴェンツェルが誕生すると、その誕生祝いとして1667年から68年にかけての冬に上演することになった。ところが、この皇子が1668年1月、生後わずか数か月で亡くなってしまう。当然ながら祝賀オペラどころではなくなり、またしても上演は延期された。

結局、初演が実現したのは結婚から一年半以上たった1668年7月12日、今度はマルガリータ・テレーサの17歳の誕生日を祝うという名目であった。しかもあまりに巨大な作品なので一晩では収まらず、12日にプロローグと第1・第2幕、14日に第3幕から第5幕までと、二晩に分けて上演された。会場はようやく完成した宮廷の「コルティナ劇場(Hoftheater auf der Cortina)」である。

しかし、上演の名目が結婚から誕生日へと変わっても、作品の中身は徹頭徹尾、皇帝夫妻の結婚とハプスブルク家の栄光を讃えるためのものである。プロローグには「オーストリアの栄光(Gloria austriaca)」を筆頭に、「帝国(Imperio)」「スペイン王国(Monarchia di Spagna)」、さらにハンガリー、ボヘミア、ドイツ、イタリアなどが擬人化されて登場する。つまり幕が開く前から、これは単なるギリシア神話のオペラではなく、ヨーロッパを覆うハプスブルク世界そのものを舞台上に可視化しようとする祝祭なのである。

本編は、よく知られた「パリスの審判」の物語を出発点とする。不和の女神が投げ込んだ「最も美しい女神へ」と記された黄金の林檎をめぐって、ユノー、パッラデ、ウェヌスが争い、トロイアの王子パリーデがウェヌスを選ぶ。ここまでは神話通りなのだが、《黄金の林檎》はそこで終わらない。三女神の争いから地上と天上を巻き込む大騒動が繰り広げられた末、最後には最高神ジョーヴェ自身が黄金の林檎をマルガリータ・テレーサに捧げるのである。つまり、ユノーにも、パッラデにも、ウェヌスにも与えられなかった「最高の美」の栄誉を、現実の皇妃マルガリータが受け取る。神話世界そのものが、最後にはハプスブルクの若い皇妃を讃えるために跪く仕掛けになっているわけだ。

そう考えると、この途方もなく長大なオペラが、なぜこれほど多数の神々、風、復讐の女神、三美神、冥界の神々、さらにはアテネやトロイアの人々まで総動員するのかも分かってくる。物語を簡潔に語ることが目的なのではない。天上界も、冥界も、自然界も、人間世界もすべて舞台に呼び出し、それらを最終的にハプスブルク皇帝夫妻の栄光へと収斂させる。その「過剰さ」そのものが、この作品の意味なのである。

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2026年8月 9日 (日)

《黄金の林檎》歌手その他

チェスティのオペラ《黄金の林檎》を観たが歌手について記しておこう。
プログラムに名前があがっている順に紹介する。

まず、Sophie Rennert (メゾソプラノ)オーストリアの栄光とジュノーネ。

ここで説明しておくと、ほとんどの歌手が一人二役か三役を演じている。とくに最初の場面プロローグが各国の代表(本来はハプスブルク家の支配地域であったと思われるが、今回は世界各地)がミス・イタリアとかミス・ポルトガルという形で出てきて妍を競うのであるが(前に述べたように、女装する男子も多数いる)その中の一人が別格でオーストリアの栄光(gloria austriaca)というアレゴリカルな存在である。本編が始まると彼女はジュノーネで、つまりジョーヴェ(ジュピター)の妻であり妹である。彼女は、背が高く、立ち居振る舞いも堂々としていてジュノーネにぴったりだった。声もメゾで落ち着いており、ジュノーネらしい品格が感じられた。それでいて後半になると、他の女神とのライバル関係で私情や鬱憤を爆発させる場面も演じきっており、黄金の林檎をジョーヴェにおねだりする(ジョーヴェの娘パッラデ=アテネ女神と競う)場面ではコミカルなお色気も発揮していて楽しかった。前に述べたように、あくまでジュノーネのお色気なので、羽目をはずさず、品位を保っていることが望ましいわけだが、今回の演出ではそこのバランスが巧みに取られていたし、歌手たちの演技も過不足のない黄金の中庸をいくものであったと称賛したい。

次が Jone Martinez (ソプラノ)ミス・スペインとヴェネレ(ヴィーナス)。彼女はかなり出ずっぱりで舞台にいる時間、歌っている時間が長い。というのも、パリデ(パリス)に対し絶世の美女を餌に自分が女神の中で一番美しいという審判をくだして黄金の林檎をヴェネレが得ることになるからだ。女神たちは、後のヘンデルやヴィヴァルディのようにではないが、ところどころでアジリタ、動きの速いパッセージが出てくるが、彼女はレチタティーヴォもアリアも安定した歌唱、安定した演技でこなしていた。戦いの神マルテとカップルなのだが、彼のところを訪れると、他の美女とお戯れの最中というのも(それを濃厚に示唆するリブレットだから、その演出はまったく理にかなっているわけだが)それをマルテが糊塗しようとし、しかし最後にはバレバレとなるのもユーモラスな場面で楽しめた(言うまでもないことだが、ギリシア・ローマ神話では、ゼウス=ジョーヴェからしてまったく一夫一婦制の性道徳を守っておらず、浮気を悪いとも思っていない節があるので、こんな男(男の神)はけしからん、と言っても、この世界ではしょうがないんだよなあ、としか言いようがないのです)。
Shira Patchonik (ソプラノ)は、ミス・サルデーニャとパッラデ(アテナ女神)。彼女はやや軽めの声で、そのおかげでMartinez との区別がつけやすい。Sophie Rennert はメゾなので、たっぷりと低めの声なので、これは背丈だけでなく、声もまったく異なる。これだけ登場人物が多いと人物が衣装および声、あるいは振る舞い方で区別がつくのも重要な演出上のさばきになってくるかと想像する。

Jiayu Jin (ソプラノ)アモーレとエーベ(女神だが、神々の宴会で給仕役を務める)とゼッフィロ。彼女も軽い声のソプラノだが、発声は安定していて、去年もインスブルックでオペラに出ていた。Patchonik もJin もこの音楽祭の若手登竜門チェスティ・コンクールの出身である。この音楽祭ではチェスティ・コンクールに優勝したり入賞した人が翌年の若手オペラ、さらにはメインのオペラに出演することがしばしばある。Jin はアモーレ役ではピアノ線に吊るされたまま歌う場面があったが、堂々としたものだった。
ただし、調べてみると今回のキャストとチェスティ・コンクールとの結びつきは、この二人どころではなかった。Sophie Rennert は2016年第2位および聴衆賞、Margherita Maria Sala は2020年第1位および聴衆賞、José Coca Loza は同年第2位、Rémy Brès-Feuillet は2021年若手賞、Mathilde Ortscheidt は2023年第1位、Giacomo Nanni は同年第3位、Neima Fischer は同年若手賞、そして Patchornik と Jin が続く。つまり今回の巨大な《黄金の林檎》は、同時にこの音楽祭が十年ほどかけて育ててきた歌手たちの一つの集大成にもなっているのである。チェスティ・コンクールから若手オペラへ、さらにメインのオペラへという道筋が、単なる理念ではなく実際に機能していることがよくわかる。
Neima Fischer (ソプラノ)プロセルピナとテシフォーネ(復讐の女神の一人)とアグライエ(三美神の一人)。プロセルピナが、冥界の王プルトーネの妻になって支配領域は広いのだが、それにもかかわらず満足できず、不満を述べる場面が、彼女の若さを感じる歌にぴったりな気がした。

Ester Ferraro(メゾソプラノ)ディスコルディアとアレット(復讐の女神の一人)とエウフロジーネ(三美神の一人)。エウフロジーネは、カメに乗って登場するシーンがユーモラス。彼女はディスコルディアで何と言っても存在感を発揮した。メゾの声と、自分を招かなかった仕返しに不和の種をまいてやる、という邪悪な意志。しかしもちろん、声は品位のある声であり、女神としての品格が感じられるのだった。
Mathilde Ortscheidt (アルト)エンノーネ。《黄金の林檎》ではズバッラの考えだろうが、このパリデの恋人エンノーネが、自分は捨てられるのではないか、自分は捨てられたのではないか、その不安や嘆きの場面が驚くほど多い。パリデはちゃらい男で、口先三寸で君が一番大事だよと言いつつ、美女エレナ(ヘレン)に一目散。落ち着いた声で、庶民のひたむきな女性をせつせつと歌いあげ、ただしカーテンコールではパリデに金けりを喰らわし喝采をうけていた.

Margerita Maria Sala (アルト)。ミス・イタリアとメルクリオとアルチェステ(アテネ王チェクロペの妻、戦場に同行する)。彼女もこの音楽祭では常連といえる存在だ。発声も歌い回しも、バロック歌唱として模範的とも言える歌唱で、イタリア語の響きも美しい。
Filippo Mineccia (カウンターテナー)イメネオとアポロとアドラスト(アテネ王チェクロペの副将)。ミネッチャはもうヴェテランと言ってもよいだろう。この音楽祭にもよく顔を出している。目立つような大きな声ではないが、つねに知的に考え抜かれた歌唱をする人である。
Remy Bres-Feuillet (カウンターテナー)アウリンド。エンノーネを陰ながらいつも見守り、ひたすら恋し、ずっと報われていなかったが、最後の最後に結ばれる。まあ、そういう役柄にあった歌唱だったと思う。
Paul Figuier (カウンターテナー)ボエミアとガニメーデ(ジョーヴェに愛されたトロイアの美少年)と火。ジョーヴェはバイセクシュアルでもある。
Danilo Pastore (カウンターテナー)メジェラ(復讐の女神の一人)とヴォルトゥーノ(風の神の一人)とパジテア(三美神の一人)。2つの役では女神役だが、彼一人が背が高く、男性が演じていることがよくわかるのだが、それが演劇的には適度な異化効果があってよかった。
Alberto Allegrezza (テノール)ミス・アメリカとフィラウラ(エンノーネの乳母)。フィラウラもエンノーネが出てくる場面にほぼ必ずでてくるので、出番は多い。太った老女で、しかしまだ色気がたっぷりあってといった役どころ。モンテヴェルディの頃からそうだが、乳母役が言わば、庶民の恋の本音が露骨に現れる場面だ。だから、パリデがもうエンノーネを捨ててしまったとか、だったらアウリンドに乗り換えたほうがよいわよ、といった極めて実践的アドバイスもする。セクシュアルなくすぐり場面もフィラウラが絡むところが一番性的にあからさまであるが、これは昔からお決まりのパターンと言ってよいだろう。オペラ以外でもシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』などでもそうである。思いがけないところで猫(ぬいぐるみでありかつモック)が出てきたりして、演出もやるな、と言ったところ。
Ziga Copi (テノール)マルテとアウストロ(南風)姿も声も若い。2002年生まれだ。
Mauro Borgioni (バリトン)ミス・ハンガリーとエウロ(東風)とパリデ(パリス)。エンノーネがいながらも審判に選ばれるといそいそと白いスーツで出かけるちゃらい男だが、もてる男でもある感じが良くでていた。
Giacomo Nanni (バリトン)帝国とジョーヴェとエオロ(風を統率する風の王)ジョーヴェは3人の女神とのやりとりも含め出番は多い。堂々たる声と発音の明晰さで好演だった。
Balazs Ban (バス)ミス・ドイツとバッコ(バッカス)
Jose Coca Loza (バス)プルトーネとカロンテとサチェルドーテ(パッラデ=アテナの神官)。プルトーネもカロンテも冥界に属する人物でこの堂々たる深いバスの声がふさわしい。飄々としたユーモアも時に漂わせこの劇に奥行きを与えていた。
Federico D.E.Sacchi (バス)ネットゥーノとチェクロペ(アテネ王)。ネットゥーノの衣装が派手で格好がよく、またそれを見事に様式感ある歌と演技で決めていた。チェクロペでの人間の王とは演技仕分けていた。
Rocco Cavalluzzi (バス)モーモ(他の神々や登場人物を批評する皮肉屋・道化的な神)。エノーネやその乳母フィラウラの出てくる場面にたいてい一緒に出てきて、いわば狂言回しのような役どころである。コミカルだったり、批評家的な役割を時にユーモラスに時に知的に、歌い演じていた。

以上、主要歌手だけでも二十人、カウンターテナーだけでも四人。しかも多くが一人二役、三役を演じている。公式配役を見るだけでも、この作品が通常のオペラとはまったく違う規模を持っていることがわかる。

これほど多数の人物を登場させながら、それぞれに異なる性格と役割を与え、五幕を通じて巨大な物語を動かした台本作者ズバッラの力量には、あらためて感嘆せざるを得ない。そして、それを現代の舞台で人物が混乱しないように整理し、しかもそれぞれの歌手の個性を活かした演出家ファビオ・チェレーザも称賛されるべきだろう。

さらに印象的なのは、これだけ困難で、しかも滅多に上演されない作品に歌手たちが集まり、一人で二役、三役を引き受けていることである。その志の高さにも敬意を表したい。

そして今回のキャストのかなりの部分が、過去のチェスティ・コンクール受賞者から成っていることを考えると、この公演は単に「幻の超大作を復活させた」というだけではない。インスブルック古楽音楽祭が長年育ててきたバロック歌手たちを総動員し、その蓄積によって初めて可能になった上演でもあったのだと思う。音楽祭自身が、コンクールを若手が後にヨーロッパ各地の舞台で活躍しこの音楽祭へ戻ってくるための場として位置づけている。

この上演は、チェスティの《黄金の林檎》という作品の現代における上演史の一齣として残るだろう。そうした音楽史的な意義を持つ上演が、学究的な復元に終わらず、十分な娯楽性を持ち、四時間ずつ二晩にわたって観客を楽しませる舞台になっていた。そのことが何より喜ばしい。

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《黄金の林檎》演出

昨日、チェスティ作曲のオペラ《黄金の林檎》の2日目(初演の時から2日間で上演されていた)を観たので、演出について書く。

インスブルック古楽音楽祭では、上演の一時間前に演出家や舞台装置、指揮者などの解説が入るのだが、昨日は、舞台衣装と舞台装置の人が話した。舞台衣装はイタリア人で、英語で話したので内容が理解できたのだが(ドイツ語圏の人がスピーカーだと通訳が入らない)、面白かったのは、衣装を作る上でファンタジーに制約はかけられなかったが、一番基本になるのはリブレットをじっくり読むことだという言葉だった。演出家との調整でもお互いにピンとくる言葉があると、そこから開けていくということだった。また、衣装に関しては、プロローグで世界各国のミス・イタリアやらミス・ポルトガルやらが出てくるのだが、ミスなのだが、明らかに男性が3分の1くらいいる。背の高い人もいて、彼ら用のハイヒールを探すのは大変だったとのことだった。また、出演者全員のチャットがあって、何か問題があると、全員でわーわー言って解決するということがよくある、つまりチームワークが機能しているとのこと。
今回の演出は、ファビオ・チェレーザという人で、この人は演出家であると同時にリブレッティスタでもあって、つまりオペラ台本作者でもある。また、17世紀のオペラと18世紀のオペラでは演出を変えるべきだと考えており、それは17世紀のオペラではレチタティーヴォとアリアの区別が18世紀オペラほどくっきりしていないので、17世紀オペラでは一つの連続したドラマとして演出として考えるということだ。

視覚的に判りやすい今回の演出の特徴は、神々(ジョーヴェでもジュノーネでもヴェーネレでも)は、神々らしいバロック的豪華な衣装をまとっているが、パリデ(パリス)やエンノーネといった世俗の人間は思いきって現代服を着せている。例えば、パリデが審判役に選ばれて旅に出かける際は白いスーツを着て、スーツケースを転がすといった具合だ。ネットゥーノ(ネプチューン)は三つ叉の矛を持ち、衣装も神々らしいのだが、ある登場シーンではサーフボードに乗り、大勢の人が寝そべって作る波の上を滑って登場するなど、ところどころに笑いのツボがあるのだが、やり過ぎないところが好ましい。世俗の王の中には、赤い野球帽をかぶり、手のひらを身体の前で並行移動させる現アメリカ大統領を想起させるジェスチャーが笑いを取っていた(このくすぐりには続きもあるが、あえて省略)。女神たちは、華やかな衣装で、ただしチャイナドレス風に脚はちらりとみえるお色気はある。しかし女性歌手がリブレット上の必然性なく裸体になるなどといったことはなく、節度のあるくすぐりやお色気で、観ていて飽きないし、過剰演出に憤慨することもなく大いに楽しめた。
舞台転換はもともとのリブレットの段階で多いのだが、今回も実に多かった。舞台の上に、エンノーネの部屋がせりあがってきたり、またその部屋が沈み込んでいったりといった転換もあった。また、神々はしばしば雲に覆われて舞台上方から登場するが、アモーレやメルクリオは、雲の覆い無しで、歌手がピアノ線?で宙づりになって降りてきたり昇っていくので、その状態で歌う歌手が驚異そのものだった。
黄金の林檎というのは、前に書いたが、ディスコルディア(不和)の女神が、一番美しい女神へ、という指示をすることにより女神同士の争いを引き起こすわけだが、最終的にはジョーヴェ(ジュピター)が、3人の女神の長所を全て兼ね備えたマルガリータ(レオポルト1世の妃)に差し上げようというところで終わるはず。ただし今回の演出ではそこには変更が加えられている。
その変更には賛否あろうが、そこを観ると、途中でアメリカ大統領を想起させる人物が出てきたことにも納得がいく仕掛けとなっている。

ぼく個人としては、上演頻度が高いものに関しては、多くの観客にとってストーリが既知なので大胆な読み替え演出も面白い場合があると思うけれど、めったに上演しない演目は、まずリブレットに何が書いてあるのかがわかる(今回のように服装が現代化する程度は可)ことが好ましいと思っている。実際、今回は演出家も衣装係もイタリア人であるせいか、リブレットを重視した演出、衣装で大いに納得がいき、満足感も高かった。言うまでもなく、チェスティの17世紀の超大作が復活上演されること自体、画期的なことであるのだが、歌手、オケ、指揮の充実の上に、実にチャーミングで適切な演出があったのは喜ばしい。

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2026年8月 8日 (土)

《黄金の林檎》その2

チェスティ作曲、フランチェスコ・ズバッラ台本のオペラ《黄金の林檎》は、今年のインスブルック古楽音楽祭の最大の目玉であり、ヨーロッパ中から注目されていると言ってよいだろう。
この作品について紹介したいことは、すでにプログラムに書かれていることと重複しているので、プログラムを要約したものと筆者の調べたことを適宜まぜながら紹介することにしよう。

チェスティはトスカーナ出身の歌手・作曲家であり、彼とインスブルックで組んだリブレッティスタはアポッローニもトスカーナ出身だ。というか二人ともアレッツォという町の出身なのでまったく同郷なのである。フィレンツェ時代にすでに知り合っていた。その二人が1650年代に《L'Argia》ついで 《La Dori》を作り、インスブルックで初演した。《L'Argia》はスウェーデン女王クリスティーナが、インスブルックで正式に改宗(カトリックへの)を宣言した際に上演されたもので、その意義は大きい。男装する女性が出てくるのも、クリスティーナへの連想が働かぬでもないが、これは現段階ではそれを想定して作ったとも、たまたま作ったものの女性主人公がクリスティーナを想起させる人物であったとも断定はできない。

その2年後1657年にインスブルックで初演された《La Dori》は女性の男装が二重になってさらに込み入ったシチュエーションとなっている。

その後、1665年にインスブルックの「チロル・ハプスブルク家」が絶えてしまう。ウィーンのレオポルト1世のもとに吸収されるわけで、結局、迷いはしたものの、チェスティもウィーンに移住する。そして1668年にウィーンで上演されたのが《黄金の林檎》なのである。

このオペラは、《L'Argia》が dramma musicale 音楽劇 と自らを定義していたのとは異なり、festa teatrale 劇場の祝祭 と定義していた。

つまりハプスブルクの威光を世の中に見せつけるための祝祭としてのオペラであった。

 

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インスブルック古楽音楽祭《黄金の林檎》

今年はインスブルック古楽音楽祭が創立50周年で、記念年らしく、いつにもましてめったに上演できないバロック・オペラを上演する。

チェスティの《黄金の林檎》である。話はギリシア神話の有名なお話で、女神の中で誰が一番美しいかが論争になり、ジョーヴェがパリデ(パリス)を審判として選び、一番美しい女神に黄金の林檎を渡すようにという。いつもと違うのは、パリデがエンノーネという羊飼いとねんごろになっているのに彼女を捨てて、ヴェネレ(ヴィーナス)が私を選んだら、世界一の美女(エレナ=ヘレン)を自分のものにできるという一種の賄賂にうかうかと乗ってしまい。。。というストーリである。

このオペラは17世紀でおそらく一番大掛かりなオペラで上演に2日かかった。まあ、現代人はヴァーグナーの指環は4日かかることが周知の事実になっているので、驚きが少ないかもしれないが、バロック・オペラとして、やはり場面の数や登場人物がやたらと多い。

一日目はここまで。指揮はこの音楽祭の現在音楽監督であるオッタヴィオ・ダントーネ。

見応え、聴きごたえ十分あり。

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2026年6月 7日 (日)

《愛の妙薬》を観て――「人知れぬ涙」の成功と、その後始末

ドニゼッティのオペラ《愛の妙薬》を観た(新国立劇場)。

《愛の妙薬》の最終日を観た。

指揮と歌に関しては、もう少し軽やかであってよいと思う箇所もあった。とくにこの作品の場合、重く歌えばよいというものではなく、ブッファとしての推進力、会話の呼吸、音楽の足取りのよさがかなり重要になる。ただし全体としては、おおむね満足した。というのも、今回あらためて、ドニゼッティの「ギア・チェンジ」の巧さに感心したからである。

《愛の妙薬》は、基本的にはブッファである。田舎の娘アディーナ、純朴な若者ネモリーノ、軍曹ベルコーレ、インチキ薬売りドゥルカマーラという人物配置は、ほとんど類型的であり、喜劇的な誤解と計算違いによって進んでいく。したがって演出としても、あまりしんみりさせすぎず、ブッファとして動かしてほしい、というのが私の基本的な好みである。

しかしこの作品は、ただのブッファでは終わらない。ドニゼッティは随所で、喜劇の歯車をほんの少しだけずらし、そこに抒情的な陰影を差し込む。その最たるものが、もちろんネモリーノの「人知れぬ涙」である。

問題は、このアリアがあまりにもよくできていることだ。

劇作術だけで考えれば、「人知れぬ涙」はかなり危険な場所に置かれている。ネモリーノは、アディーナの目に浮かんだ涙を見て、彼女が自分を愛していると確信する。しかし、歌詞をよく読むと、これは少し妙である。そもそもそれはネモリーノ自身の涙ではなく、アディーナの涙である。しかも彼は、その涙をいつ、どの程度はっきり見たのか。そこから「彼女は私を愛している」と言い切るには、劇的な根拠としてはいささか弱い。

ところが音楽が始まると、その弱さが問題でなくなってしまう。理屈としては曖昧な推論が、音楽によって感情的な確信に変えられてしまうのである。言い換えれば、「人知れぬ涙」は、状況説明としてはどこか変なのに、音楽としては圧倒的に正しい。ここにこのアリアの不思議な力がある。

その意味で、「人知れぬ涙」は、ネモリーノの内面を描いているというよりも、作品そのものの重心を変えてしまうアリアである。それまでの《愛の妙薬》は、偽薬、軍隊入隊、恋の駆け引き、村人たちの噂といった喜劇的な装置によって動いている。ところがこのアリアの瞬間、観客はもはや筋の成り行きではなく、ネモリーノの感情の真実を聴くことになる。ここで作品は、一瞬、ブッファから抒情的な恋愛劇へと変貌する。ロマン主義が優位となる。

だからこそ、その後が難しい。

「人知れぬ涙」で音楽的なクライマックスが来てしまったあと、アディーナがネモリーノの入隊契約を買い戻し、彼を自由にしたことが確認される場面は、どうしても少しだれる。もちろん筋としては必要である。アディーナが単に気まぐれな娘ではなく、自分の意志と行動によってネモリーノを救う人物であることを示す場面だからである。しかし音楽的には、すでにネモリーノのアリアで作品の最も深い地点に到達してしまっている。そこからあらためて劇を整理し、告白し、和解し、結末へ持っていくのは、構造的に難しい。

フェリーチェ・ロマーニが、あの場所に「人知れぬ涙」を置くことに反対したという話は、劇作家としてはよくわかる。ロマーニの立場から見れば、あそこでネモリーノに大きなアリアを与えることは、終幕の均衡を崩す。劇の頂点が早く来すぎるからである。だが一方で、結果としてこのアリアは作品中最大の人気曲になった。つまり劇作術としては問題を含みながら、音楽としては大成功してしまった。ここが《愛の妙薬》の面白いところである。

とりわけ見事だと思うのは、アディーナとドゥルカマーラの二重唱から「人知れぬ涙」へ移る部分である。アディーナがドゥルカマーラを軽くやりこめる。そこまでは完全にブッファの世界である。ところが、そのあとにふっと一瞬の間があく。そして突然、ネモリーノの内面の時間が始まる。この切り替えは、まさに天才的である。喜劇的な表面の下に、いつのまにか本当の感情が育っていたことが、そこで初めて音楽として明らかになる。

ただし、繰り返すが、その成功が大きすぎる。あまりにも美しく、あまりにも説得力があるために、その後の場面はどうしても「後始末」に見えてしまう。アディーナの行為、ネモリーノの自由、ベルコーレの退場、ドゥルカマーラの最後の宣伝文句――どれも必要ではあるが、音楽的な焦点はすでに過ぎている。

したがって、私にはこの作品の演出上の最大の難所は、「人知れぬ涙」のあとをどう処理するかにあるように思われる。そこを単なる感動の余韻として流してしまうと、終幕は平板になる。逆に、アディーナの行動をきちんと立て、彼女自身の変化を見せることができれば、この作品はネモリーノだけの抒情的勝利ではなく、アディーナの側の成熟の物語にもなる。

《愛の妙薬》は軽い作品である。だが、その軽さの中に、ほんの一瞬、感情が理屈をねじ伏せる瞬間がある。「人知れぬ涙」とは、まさにその瞬間である。劇作上は少し無理がある。歌詞も、よく考えるとどこか妙である。しかし音楽が鳴り始めると、その無理が無理でなくなる。むしろその曖昧さこそが、恋愛感情の発生する瞬間の危うさをよく表しているようにも思われる。

つまり《愛の妙薬》の魅力は、単に「楽しい喜劇」であることではない。ブッファとして進みながら、ある一点で、理性よりも感情が強くなる。その危うい転換を、ドニゼッティは実に巧みに音楽化している。今回の上演を観ながら、私はそのことをあらためて感じた。

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2026年4月11日 (土)

アルバン・ベルク《ルル》その2

二期会は、5年前にも《ルル》を上演していて、その時に作られた作品紹介、解説のYoutube を今も観ることができる。

長いものは、長木誠司氏による作品解説と森岡実穂氏による演出解説(演出家カロリーネ・グルーバーへのインタビューが含まれている)があり、短目のものには、5年前に歌った歌手による宣伝ビデオという感じ。長木氏の解説により、2幕版と3幕版の出来た経緯と、それぞれの上演のされ方また流行などがわかる。

今回は、カルッツ川崎での公演は2時からだったのだが、1時半から公演監督高田正人氏による解説(15分程度)があった。

上演機会がまれなものほど、こういうものがあると役に立つ。今回は2幕版の上演なので、アルバン・ベルクが苦労して自ら作ったリブレットの全体は見通せないわけである。ベルクは、若い時に観たヴェーデキントの芝居『地霊』と『パンドラの箱』を合わせて、それを大幅にカットして3幕ものの台本を作成したのだが、2幕まで作ったところで死んでしまったのである。

 

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2026年4月 8日 (水)

アルバン・ベルクのオペラ《ルル》

ベルクのオペラ《ルル》を観にいくことにした。カルッツァ川崎というところで上演するのだが、

川崎駅からしばらく歩くかバスで、地図でみると、スタジアムや競輪場のある大きな公園のようなところに劇場もあるようだ(間に道路ははさんでいるが)。

なんだか《ルル》にはふさわしい場所のような気もする。

女性の主人公ルルは怪しい魅力をもった女性で、夫がショック死をしたり、自殺したり、事故死したりで3人も死んでしまう。彼女と遭遇した男はその魅力の虜になってしまうのだが、ルルの身元ははっきりしない。父親も母親もよくわからない。12歳のころに拾われたらしい。

ヴェーデキントの戯曲『地霊』と『パンドラの箱』が原作で、それをもとにベルク自身が大幅に縮め、かつ登場人物に手を加え、全体がシンメトリー構造になるように考えてリブレットを作った。

だが、ベルクは第二幕まで作曲して、第三幕はスケッチや部分的なピアノ譜を残して亡くなってしまった。そのため2幕版の上演と後にスケッチなどをもとにツェルハという別の作曲家が完成した第三幕をくっつけて3幕版として上演することがある。

予習で今のところ観たヴィデオは、1996年のグラインドボーンでの上演。ルルはクリスティーネ・シェーファー。スリムでスタイリッシュなルルである。指揮はアンドリュー・デイヴィスで、演出はグレアム・ヴィック。これは3幕版で、4:3で今のテレビでみると両脇が切れてしまうが、日本語字幕があり、演出もオーソドックスで話もよくわかる。

次に観たのが1962年の白黒もの。オーストリア初演がアン・デア・ヴィーン劇場であった時のライブ録画である。指揮はカール・ベーム。演出オットー・シェンクで、ルルはイヴリン・リア。このルルは体格がよく、背が高くて、脚が長い。立派なお身体なのだが、妖艶とか魔性の女という感じはそれほどでもない。ここで観るべきはベームの指揮だろう。カラー放送になってからの晩年のベームとは異なり、テンポは速めで、表情もきびきびしており、曲の構造をくっきりと描きだす指揮だ。冷静な楽曲分析と熱い情念が同居している。歌手たちは、皆、とても口跡がよく、お芝居として十分楽しめる(内容の暗さは別として)ものとなっている。

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2026年2月14日 (土)

アレッサンドロ・スカルラッティ没後300年記念ー演奏会と講演会 その4

おまけ:舞台裏を少し——通奏低音が「オールスター」だった件

私は幸運な事情にめぐまれて、本公演に先立つリハーサルを3日間見学することができたのだが、そこで面白かったのは、解釈が「指揮者の指示」で決まるだけではなく、アンサンブル内部で練り上げられていく現場だったこと。福島康晴が明確にリーダーシップを取りつつ、奏者からも意見や質問が出る。解釈が合意として立ち上がる速度が速い。

そして何より、通奏低音陣が豪華。チェロ、ヴィオローネ(コントラバス)に加え、オルガン、テオルボ、ハープ、チェンバロが揃う。ここから「今日は誰が出る?」を曲ごとに決めていく。
通奏低音は“音量の調整”ではなく、場面の性格づけ=味付けだと、あらためて実感した。スカルラッティが劇の人である以上、低音の選択はドラマの選択でもある。


 

まとめ:没後300年を「顕彰」で終わらせず、「現在形」にした二夜

この二日間が良かったのは、没後300年を「過去の偉人を讃える会」にせず、研究・教育・実演が行き来する“現在形”の企画にした点だと思う。オンライン講演で輪郭をつくり、当日のナレーションと字幕で抜粋上演の弱点を潰し、ピリオド楽器とバロック歌唱、そして譜面への細やかな配慮で作品を“生きた劇”として現前させる。

二日目が完売したという事実も含めて、スカルラッティは「ドメニコの父」では終わらない——ということが、説得力ある音楽体験として示された。
次は、記念年が終わってからが本番だ。上演が続くかどうか。私は続いてほしいと思う。これだけ面白く音楽が充実しているのだから。

クレジット

主催:日本イタリア古楽協会
助成:日本音楽学会「音楽関係学術イベント開催助成金」、野村財団、東京都歴史文化財団アーツカウンシル東京
後援:イタリア文化会館
(曲目・出演者の詳細は、パンフレット/当日資料に準拠)

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