2020年5月24日 (日)

フランコ・ファジョーリ《Veni Vidi Vinci》

カウンター・テナーのフランコ・ファジョーリの新譜《Veni Vidi Vinci》を聴いた。このタイトルはもちろんパロディで

カエサルがポントスの王ファルナケスに勝利した時の言葉 Veni Vidi Vici をもじったもの。最後がVinci に変わっているのは、このアルバムがレオナルド・ヴィンチのアリア集だからで、カエサルの言葉を引くのは、ヴィンチの活躍したバロックのオペラ・セリアの世界ではカエサルやファルナーチェや、つまり古代ローマ時代の英雄たちや彼らが戦った中東の王たちが出てくることが頻繁にあるので、まことにふさわしいタイトルと言えよう。オケはイル・ポモドーロ。指揮はゼフィラ・ヴァロヴァ。想像するに、指揮者がぐいぐい引っ張るよりはファジョーリの歌いやすいようにサポートしている感じだ。そのためか概ねゆったりとしたテンポが選択されている。

このアルバムにはRoberto Scoccimarro による丁寧なライナーノーツがついている。最近のバロック・オペラのCDは解説が研究者あるいは専門的知識を備えた人によるものが多く充実していることが多い。と言うのも、バロック・オペラの世界は研究と両輪で新たなレパートリーが開拓され、蘇演が多い、あるいは世界初録音といったものが多く、モーツァルト、ベートーヴェンやロマン派のように演奏者紹介や演奏評的なものでは不十分であるからだと思う。

筆者は、ヴィンチのオペラ《アルタセルセ》(残念ながら、本当に残念なことに、DVDとCDでしか経験したことがないのだが)によって、衝撃を受け、レオナルド・ヴィンチという1690年生まれのイタリアの作曲家を知り、その後、いくつかのDVDやCDでヴィンチの作品を観たり、聞いたりしてきた。

このCDはヴィンチの音楽世界の感情的豊さと音楽表現の振幅の大きさ、深さを極めて洗練した形で提出してくれたもので驚きのほかない。個々の曲のテンポについては好みの問題でもう少し早めでもという曲もあるのだが、どの曲もファジョーリ、そしてイル・ポモドーロは実に考え抜かれた演奏をしており、1つ1つのフレーズが音楽的に磨き抜かれている。ファジョーリという歌手は、単にアジリタが驚異的なだけでなく、スローな曲でもレチタティーヴォでも、普通の歌手であれば練習曲的な機械的なフレーズに聞こえてしまうところも実にエスプレッシーヴォに表情をつけることができるし、しかもそれが音楽的に説得力を持っているのである。天才というほかはない。

レオナルド・ヴィンチ(1690−1730)はナポリ楽派の1人だが、ナポリの音楽院(当時は4つあった)で学んだが、先輩にはポルポラがおり、後輩にはペルゴレージやレオがいた。以下、スコッチマッロのライナーノーツに依拠して書く。彼は、プレ・ガランテ(pregalante) と呼ばれる様式を開拓した代表者の1人だった。これは1720年代に発達した様式で、歌手の装飾的な歌唱法と密接に結びついていた。スコッチマッロによれば、後輩のレオが新しい様式と伝統的な対位法的な技法を折衷して書こうとしたのに対し、ヴィンチは新しい様式を大胆に推し進めようとした。メロディーに優先的にフォーカスが当たり、和声進行は遅く、通奏低音部が標準化、形式化している。噛み砕いて言えば、ピアノのソナタ・アルバムなどで右手が旋律、左手が伴奏となっていることが多いわけだが、そういう様式へと繋がっていく前段階を切り開いたのだと言って良いだろう。

ヴィンチはコメディアを1724年まで書いていた、その後はオペラ・セリアに集中した。オペラ・セリアでは若き日のメタスタジオと組んで仕事をした。ヴィンチの第6作目は, La Rosmira fedele (ヴェネツィア、1725年カルネヴァーレ)でリブレットは1699年にSilvio Stampigliaが書いたもので、幾人かの作曲家のほかサッロがすでに1722年に曲をつけていた。このCDで収録されているアリア'Barbara mi schernisci' はプリモ・ウォーモに与えられた5つのアリアの1つで、ヘンデルがパスティッチョ のElpidiaを上演したときにはこの曲がセネジーノによって歌われた。

ライナーノーツにはCDに収められたアリアが含まれるオペラが描かれた音楽的文脈や劇場、歌手が細かく記されている。リブレットの書き手はいろいろで後年になるとメタスタジオと組むことが多くなる。歌手も、ファウスティーナ・ボルドーニ(ヴィンチと親密な仲であった)の歌ったもの、カルロ・スカルツィ、ジョヴァンニ・パイタが歌ったもの、ファリネッリの歌ったものと様々だ。曲の並ぶ順は、作曲年代順ではないが、まずは、そう言った細かい情報は何も気にせずファジョーリとイル・ポモドーロの織りなすヴィンチの音楽に耳を傾けることをお勧めする。聞く回数が増すごとに気に入った曲が出てくるだろう。ここではファジョーリのヘンデル・アルバムと比較するとアジリタの超絶技巧を披露する曲は少ない。しかしファジョーリはスローな曲を聞かせるのも舌をまくうまさで、同じ音・音型を繰り返してもニュアンスに富んでいるし、半音ずれていけば色合いが変化していく。聞くごとに気に入る曲の数が増えて、いつの間にかヴィンチの音楽の虜になっているかもしれない。

 

 

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2020年5月18日 (月)

CD『カルネヴァーレ 1729』

『カルネヴァーレ1729』という変わったタイトルのCDを聴いた。一風変わったタイトルだが、簡単に言ってしまえば、1729年にヴェネツィアのカルネヴァーレのシーズンに上演された様々な作曲家のオペラからのアリア選集である。歌っているのはアン・ハレンベリ(スウェーデン出身のメゾソプラノ)。オケはイル・ポモドーロで指揮というかコンサートマスターはステーファノ・モンタナーリ。

以下、CDのライナーノーツに依拠しつつ、1729年の特殊性についての説明。

バロック・オペラの時代、ヴェネツィアで毎年新作オペラが上演されていた、しかも複数の劇場が競い合って新作オペラを当時人気の作曲家に作らせていたのだが、1729年は特別な年だった。ヴェネツィアではないが、ロンドンでヘンデルが深く関与していたロイヤル・アカデミーが前年に倒産し、それまで彼らが雇っていたイタリアの超一流の歌手を手放したのだ。競い合う劇場にとって、人気作曲家がオペラを作曲してくれることも大事だったが、人気歌手の獲得はそれ以上に観客を惹きつける上で最重要なことだったと言えよう。ロイヤル・アカデミーの倒産でロンドンから放出されたのは、セネジーノことフランチェスコ・ベルナルディ(カストラート)、メゾのファウスティーナ・ボルドーニ、ソプラノのフランチェスカ・クッツォーニである。自由になった三人の人気歌手、クッツォーニはウィーンへ、セネジーノとファウスティーナはヴェネツィアのサン・カッシアーノ劇場に雇われた。

こうしたわけで、毎年、カルネヴァーレ(カーニヴァル)のシーズンには新作オペラ上演は盛んだったのだが、とりわけ1728年12月26日から1729年2月27日のシーズンは特別だったのだ。サン・ジョヴァンニ・グリゾストモ劇場とサン・カッシアーノ劇場が火花を散らしていた。サン・カッシアーノが前述のようにセネジーノとファウスティーナを得て注目を集めた中、サン・ジョヴァンニ・グリゾストモ劇場は最高のカストラート、ファリネッリを雇い、これが彼のヴェネツィアデビューとなった。ヴェネツィアでは、ファリネッリとボルドーニの話で持ちきりで、ボルドーニはイギリス人やフランス人に人気で、一方、イタリア人はファリネッリ支持と、当時の在ヴェネツィア・イギリス領事が報告している。

ちなみに、詳細は不明だが、この時期ヘンデルは、イタリアを旅しており、29年3月にはヴェネツィアから弟に手紙を書いている(ホグウッド)ので、このシーズンのオペラを見た可能性は高いだろう。

このカルネヴァーレ・シーズンの幕開けは、レオナルド・レオの『ウティカのカトーネ』。リブレットはメタスタジオ。ファリネッリはアルバーチェを歌っている。タイトル・ロールはニコリーニことニコラ・グリマルディ(アルト・カストラート)が歌った。チェーザレ役はもう一人のカストラート、ドメニコ・ジッツィ。

翌日、12月27日にはサン・カッシアーノ劇場が、ジェミニャーノ・ジャコメッリの『ジャングイール』で幕開け。リブレットはゼーノの旧作に手を入れたもの。ジャコメッリはアレッサンドロ・スカルラッティの弟子だった。

上記の2劇場の他にもサン・モイゼ劇場をジュスティニアーニ家が運営し、1月24日アルビノーニの新作オペラ、フィランドロが上演された。残念ながら全曲のスコアは消失してしまったが、アリアの楽譜が残った。

サン・カッシアーノ劇場の新作2作目は、ジュゼッペ・マリア・オルランディーニの《アデライーデ》(同名の自作を大幅に書き換えた実質上新作)だった。このフィレンツェ出身の作曲家は、ヴィヴァルディとならんでオペラの新しい音楽様式を作り出したという。この曲の注目点はファウスティーナの歌う部分で彼女には長大なソロが与えられ、お得意のコロラトゥーラもたっぷりある。彼女はまた、同音を素早く繰り返すのも得意だった。このCDにはセネジーノが歌ったアリア 'Vedro' piu' liete e belle'  も収録されている。

4日後の2月12日、サン・ジョヴァンニ・グリゾストモ劇場では、ポルポラの新作 Semiramide riconosciuta が上演された。リブレットはメタスタジオの書き下ろし(新作)である。セミラーミデを歌ったのはプリマドンナのルチア・ファッキネッリ、ファリネッリはエジプトの王子ミルテオ。ポルポラはもともとファリネッリを教えた声楽の教師でもあった。彼はこのオペラでファリネッリに6曲のアリアを書いたが、ファリネッリの強みが最大限に発揮されるような曲を書いている。息の長いフレーズなどがその一端。

カルネヴァーレの最終日にその年の名曲と以前の人気曲をあつめたパスティッチョが上演されその際に歌われたレオナルド・ヴィンチの曲も収められている。

ヘンデルに戻れば、ヘンデルはおそらくヴェネツィアでこのシーズンのオペラをいくつか見て、次のシーズンにむけて歌手をリクルートしようとし、ファリネッリをねらったが、会うことすら3度拒絶され、結局ファリネッリは1733年にセネジーノやポルポラとともに貴族オペラに加わってロンドンで歌うことになる。考えてみれば、ファリネッリはポルポラの弟子(だった)のだから、それを考えるとヘンデルと組むのはむずかしかったろうと思われる。

しかしヘンデルには音楽上の収穫もあって、レオの《ウティカのカトーネ》はスコアを持ち帰り、ロンドンでパスティッチョとして上演しているし、オルランディーニの《アデライーデ》もスコアを持ち帰り、そのリブレットに基づいて《ロタリオ》を作曲している。ヘンデルは新たなオペラの潮流に直に触れ、それを取り込んだ。1730年代以降、彼の(音楽上の)スタイルが大きく変わったと評する批評家もいる。

このアルバムはCD2枚組で、実はSA-CDでMulti-channel なので、マルチでつつまれるように聴くこともできるはずだが、評者は2チャンネルの装置しか持っていないので、SAで2チャンネルで聞いた。もちろん、通常のCDプレーヤーで2チャンネルで聴くこともできる。

録音場所は、ポモドーロの録音でよく使われているイタリアのロニーゴのVilla San Fermo である。ファジョーリやツェンチッチの録音もこの場所であることが多い。2016年9月の録音。ライナー・ノートの筆者は、Holger Schmitt-Hallengerg とあるので歌手の縁者か。

ちなみに、このアルバムは収められた曲のほとんどが世界初録音である。アルビノーニも偽作のアダージョとは相当に雰囲気が異なるが、とてもチャーミングな音楽である。オルランディーニやジャコメッリもなじみがなかった。バロック・オペラの世界の豊穣さが実感できるアルバムである。

ハレンベリの歌唱は、立派なものでアジリタもよく回る。メゾらしい声なので、より高音域の華やかさを求めたくなる曲もないことはないが、それはないものねだりというものか。馴染みのない曲がほとんどなわけ(何しろ1曲を除いて世界初録音ばかりなのだ)だが、何度も聞いていると、それぞれの作曲家の作風の違いも、このアルバムの範囲ではあるが、感じられてくる。あらためて、まだまだバロック・オペラには手つかずの沃野が広がっているのだと思わずにはいられない。

 

 

 

 

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2020年5月 7日 (木)

カヴァッリ《エルコレ・アマンテ》

カヴァッリ作曲のオペラ《エルコレ・アマンテ》を観た。観たと言っても、ストリーミングである。Opera on Video というサイト。上演はパリのオペラ・コミック。指揮はRaphael Pichon. 演出はValerie Lesort, Christian Hecq.  衣装はLaurent Peduzzi. 歌手は

コロナのご時世なので、実物を見る機会に恵まれなかったオペラで自分にとって興味深いものを、劇場が庫出ししてくれるのはありがたい。

全ての上演がDVDやブルーレイになるわけでは全然ないのは周知の通りで、その中にはもったいないと思わずにいられないものも少なからずある。

このエルコレ・アマンティは演奏もメリハリがきいていて良いのだが、演出が素晴らしい。衣装も含め、漫画的だがエレガント、ポップなのだが安っぽくない。ボニタティブス演じるジュノーは四つ目だったりして楽しいし、いくつもの場面でびっくりして、ニッコリという仕掛けがあちこちにある。

このオペラはルイ14世の結婚式のために作られ、カヴァッリがイタリアから招かれたわけだが、劇場の音響が良くなかったとか、フランス人の好みに合わなかったとか、何らかの理由で、大受けはしなかったらしい。しかし今観て見ると、ストーリーも面白い。エルコレ(ヘラクレス)が息子の婚約者に惚れて、それに対し妻が怒って婚礼衣装に毒を塗り、エルコレが死んでしまうが、天に登って別の人と結ばれる。息子はめでたく婚約者と結ばれめでたし、めでたし、というような話だ。

舞台の色彩感も、音楽も、古色蒼然としたところがなく、不思議な世界を味わうことができる。

 

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『ラ・ボエーム』

プッチーニ作曲の『ラ・ボエーム』を観た(東京・初台、新国立劇場)。

演出は粟國淳(敬称略、以下同様)。新国立劇場の定番。パオロ・カリニャーニ指揮、東京交響楽団。ミミは、ニーノ・マチャイゼ。ロドルフォ、マッテオ・リッピ。マルチェッロ、マリオ・カッシ。ムゼッタ、辻井亜季穂。ショナール、森口賢二。コッリーネ、松位浩。

粟國演出は、奇をてらったところがなく、素直にストーリーに入れるし、音楽への集中を全く妨げない。評者にとっては好ましいものだが、劇としての刺激を求める人にとっては物足りなく感じるかもしれない。

音楽への集中と言っても、楽曲への集中と演奏への集中に分かれる(無論、両者は実演においては密接に絡み合っているが)。今回は、楽曲への集中に傾いた。演奏が始まってしばらくは、自分にとって初めての指揮者カリニャーニ、ミミを歌うマチャイゼがどんな指揮者、歌手だろうという思いもあったのだが、なるほどこういうスタイルか、という一定の方向性が見えた時点でなぜか頭が切り替わった。カリニャーノは、何度か歌手がテンポを落とすのに付き合っていたが、途中でテンポを回復せずに行くので、そこはオケのみの部分でさっと戻して欲しかった。プッチーニは、スコアにここでロドルフォがミミにキスをする、と言った動作の指示、ここはラレンタンド(テンポを遅くして)と言った演奏上の指示を細かく、細かく過剰なまでに書き入れている。

そのことからもわかるのだが、プッチーニが心血を注いでいるのは、劇の自然な流れと音楽の進行を一致させることだ。だから、アリア的な曲を完結したアリア風に歌ってしまうのは問題が多いと感じる。それでは、そこが前後と隔絶してしまうからだ。1幕でアリア的なものといえば、「冷たい手を」と「私の名はミミ」であるが、ナンバーオペラのアリアとは異なり、プッチーニは冷たい手をの始まりは、同一音を繰り返す、つまりレチタティーヴォのように開始しているし、「私のなはミミ」でもvivo sola soletta のあたりでオケがなく、明らかにレチタティーヴォ的だ。マチャイゼの歌唱は、むしろしっかりアリア的に歌うことに注力していたような感じだった。先日テレビで観たスカラ座の『トスカ』におけるメーリ(カヴァラドッシ役)もそうだった。あえてそうするというチャレンジもあるであろうが、原則としては、レチタティーヴォ的な部分とアリア的な部分がソフトランディングできるように工夫してプッチーニは書いているし、伝統的な歌唱はそれを踏まえたものであった。

そのことを思い起こし、以後、曲がどう書かれているかに注意を傾けて聞いたのだが、この時代、ワーグナーの影響はイタリアでも強く、イタリアでもヴェルディの『オテッロ』以降は音楽劇としての構築の仕方が変容しており(とは言え、ヴェルディはすでに『リゴレット』の時点で従来のナンバーオペラを大きく逸脱しているわけだが)プッチーニはこうした経緯を踏まえた上で、しかしながら、レチタティーヴォともアリアともつかない部分がだらだらと続くことを巧妙に避けているわけだ。従来であったならばレチタティーヴォ(アコンパニャート)だった部分のオケの扱いでメロディー的要素を混ぜ、前後のアリア的部分との落差を小さくしている。そういう点でいつも感心するのは第一幕である。

今回は、演出の自然な運びに助けられて、第四幕まで感情的な流れが途切れず、四幕でのミミが過去を回顧する場面もくどくどしくなかった。これは指揮者とオケの品位ある演奏の手柄でもあると思う。メロディーと重ねるようにこれでもかと書いてある部分もプッチーニにはあってやりすぎるとちょっと胸焼けしそうになるのであるが、そこの塩梅がよかった。

プログラムで井内美香氏の「初演までの紆余曲折ー手紙や当時の批評からみた『ラ・ボエーム』」には、2015年に第1巻が刊行され刊行中のプッチーニ書簡全集が反映されていて、大いに参考になった。

 

 

 

 

 

 

 

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2020年4月28日 (火)

サクラーティの La finta pazza

フランチェスコ・サクラーティのオペラ La finta pazza (狂ったフリの女)をストリーミングで観た。

フランスのディジョンのプロダクションだが、ストリーミングで観られるのは1日だけだった。時節柄、雑多な仕事をしながら、画面を観たり、耳だけ傾けたりで、集中して観たわけではないのだが、二度ほど見流すというか聞き流した。

サクラーティは、1605年生まれ、1650年没なので大雑把にはカヴァッリやチェスティの世代の人と言って良いだろう。音楽も、大まかにはそんな感じだが、重唱に魅力的な曲が多い。男同士の重唱もあるし、幕切れは、登場人物が集まっての合唱で終わると見せて、カップルの二重唱で終わるーモンテヴェルディのポッペアの戴冠を想起させるーのだった。

指揮はアラルコン。ストーリーはヘンデルの『デイダミア』などと共通の話で、アキッレの父は、神託でアキッレがトロイ戦争で死ぬというので、女装させてよその王様に預ける。そこの王女がデイダミアで恋仲になる。ヘンデルの版と異なり、サクラーティでは二人の間には子供がいるのだった。

そこへウリッセがやってきて、アキッレが男であることがバレる。戦争に行くことになるのだが、デイダミアは必死にそれを止めようとして気が触れたフリをする。

このアキッレが女装で育てられ、ある時点で男であることがバレてしまう、という主題は有名で、多くの絵画作品にも描かれているし、多くのオペラ(バロックオペラ)で扱われている主題である。

デイダミアの歌手がなかなか良かったが、指揮も、他の男性歌手もよく、こういったマイナーな作品が地方の劇場で上演されるところにフランスのバロック・オペラ上演の厚みに圧倒される思いがした。

 

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2020年2月24日 (月)

ヘンデル『セルセ』(再)

ヘンデル作曲のオペラ『セルセ』を観た(カールスルーエ)。

今回は、舞台向かって右手の前の方だったので、ツェンチッチ演出で使用する張り出し舞台が目の前という感じであった。

ここは第一幕の冒頭でセルセ・ショーという歌あり踊りありのエンターテイメントを演じている時の楽屋裏であり、その後もメインの舞台と

別の場所(例えばセルセとアリオダーテが電話をしている)にいることを明示するための場所なのだが、座席の関係でここで歌うと、僕の座席からごく近いので迫力があった。人物の存在も生々しくなることは言うまでもない。歌舞伎の花道がそうなわけだが、単純な額縁舞台以外の要素をどう取り入れ、どう使うかも演出家の工夫の一つだが、ツェンチッチのこの工夫は機能していたといえよう。

指揮のぺトルゥは全く見事な指揮で、彼の指揮ぶりそのものが音楽的で指揮(指示)を見て、出てくるオケの音の表情を聴いているだけで十二分に満足できるレベルなのだ。弦楽器に滑らかに奏でさせるところ、アタック音をざらつかせるところ、リズムの刻みを強調するところ、そういった区別、組み合わせが絶妙で、聞き慣れた曲から新しい表情が生まれるのだが、それがこれ見よがしではなく、ああ、こういう可能性が埋もれていたのだと気づかせ、深く納得させられるのである。

その一方で、この指揮者は、歌手への配慮が行き届いていて、前奏でダッシュして入っても、セルセ役のハンセンがテンポを落とせばそれに合わせ、またオケだけになるとテンポを戻す。こう書いてしまうと、テンポがメチャクチャになっているように聞こえるかもしれないが、2つのテンポを駆使しながら曲の枠組みはすこしも揺らぐことなく進んでいく。端倪すべからざる才能の持ち主だ。

スノウファーの歌は声質も表現も見事だった。ツェンチッチは兄王に許嫁を奪われる悲哀を遅めのテンポで嫋嫋と歌い上げていた。アマストレ役とアタランタ役の歌手は、演技を含めての歌で見どころ、聴かせどころを作っていた。パルランテを上手く生かして場面に合わせた演技、歌になっていてお芝居として大いに楽しめルもので、観客の笑いを誘っていた。

この日は上演後にサイン会があるせいかカーテンコールは短めで初日の時の合唱アンコールはなかった。またハンセンのお尻丸見えはアクシデントだったようでこの日は無事???パンツを履いたままでした。

 

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ヘンデル『トロメーオ』(再)

ヘンデル作曲のオペラ『トロメーオ』を再び観た(カールスルーエ)。

前回はやや舞台から遠く上の方だったが、今回は舞台に近い。この劇場は古典的な馬蹄形の劇場ではないので、平土間と桟敷席に分かれているわけではない。比較的左右の幅が広く、二階(これも厳密に一階と分かれているわけではない)部分と重なる席は最小になっている。舞台向かって左の3列目には車椅子用の列があることに感心した。障害者の席が後ろの方の座席にあるのは日本でも見たことがあるが。車椅子の直後の座席は車椅子の人と同じ高さ(通常の部分は前席と後席が階段状になっているが、この席は車椅子の移動しやすさのため平らになっている)だから舞台が見えにくくなる。僕の席は、車椅子用の直後なのだが、たまたま車椅子の方がいなくて空いた状態になっていた。

ここで観ると(聴くと)前回よりもオルリンスキーの表現の細部がよくわかった。レチタティーヴォはやはり声を張り上げるわけではないので距離が離れると細部がぼけやすいのだ。全体として、セルセを歌っている歌手たちの方が声量が大きいように思う。キャリアも違うのだと思うが。オルリンスキーは、表現の細部の詰めがやや緩いのだが、流れにそってメリハリはついている。

舞台装置は豪華である必要はないのだが、衣装が現代服でしかもカジュアルなのは残念だった。舞台に登場人物が椅子に座ったりして、背を向けてはいるが居続けるのも意味不明。衣装がそれなりなのは、エリーザのみなのだ。音楽に集中すべき舞台である。ならCDでも良いか、というとさにあらず。ここのオーケストラは大変優秀でかつ古楽器(ピリオド楽器)を使っていて、それを生の音で聴けるのは貴重である。

セルセと比較するとトロメーオは登場人物が少ない。5人しかいない。合唱団もいない。最後に登場人物が一緒に歌うだけである。前にも書いたがレチタティーヴォはほとんどなくアリアやアリオーソが続くが駄曲がない。あとは指揮者、歌手次第だ。今回の歌手は5人の歌手のレベルの凸凹が少ない点はよかった。最後に近い Stille amare のテンポは歌手が求めたのか、指揮者が指定したのか、どちらだろうか。個人的にはもうすこし早くい方が良いと思った。そこだけ浮いてしまう、という印象を受けた。

 

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2020年2月23日 (日)

『セルセ』

ヘンデル作曲のオペラ『セルセ』を観た(カールスルーエ、州立劇場)。

セルセの台本(リブレット)は、作者不明だ。元々はカヴァッリの『セルセ』の為にニコロ・ミナートがリブレットを書き、その後、

ボノンチーニ作曲の『セルセ』の為にシルヴィオ・スタンピリアがリブレットを改定した。それをさらにヘンデルの『セルセ』の為に誰かが改定したのだが(主にレチタティーヴォを短くしたらしい)それが誰かは不明なのだ。

今回の上演は、昨年とほぼ同じ。指揮はジョルジョ・ペトルゥ、演出ツェンチッチ。タイトル・ロールが昨年はファジョーリだったのが、今年はデイヴィッド・ハンセン。ロミルダはローレン・スノーファー、セルセの弟アルサメーネはツェンチッチ。セルセの婚約者アマストレはアリアーナ・ルーカス。ロミルダの妹アタランタはキャスリーン・マンリー。

歌手はデイヴィッド・ハンセンを除き、昨年と同じ。スノーファーは去年よりずっと成熟した歌を聞かせていた。声量も十分あるし、それぞれの歌で実に的確に表情をつけていたし、アジリタも問題なし。さて注目すべきはハンセンだが、期待よりずっと良かった。ツェンチッチの演出ではセルセは1970年代のロックスターで歌の売り上げが伸びて大得意といったキャラクターなのだが、そういう単純さとか、ロミルダの気持ちをなかなか読み取れず一人よがりだったり、アタランタの策謀にコロッと騙されるそういうキャラになりきっていた。ファジョーリの場合歌の細部に神経が行き届いているためかここまで単細胞なキャラのリアリティが微妙に歌の精妙さで突き崩される部分がある。それに対し、ハンセンは声の特徴として、高い音はパーンと強い音なのだが、その下の部分ががくんと響きにくく歌詞も聞き取りずらい。音がメロディにそって高くなるとあるところでスフォルツァンドが必ずかかるのだ。ンンンウォン!という感じ。ファジョーリの隅々まで音色のコントロールまで神経が行き渡っている歌とは別物だ。しかしその荒さがこの演出にはふさわしい面も多々あると感じ、演劇的には大いに楽しめた。二幕でロミルダに迫る場面では、後ろ向きだったがお尻丸出しになる場面があり、あれは演出が去年に比べヒートアップしたのか、それともアクシデントだったのか、もう一度見てみないとなんとも言えない。二幕は麻薬や同性愛カップルが道端でオーラルセックスを示唆する仕草などがあり、拍手とブーイングが入り混じった。ブーイングは演出に対するものかと思われる。三幕ではブーイングはなかった。

改めて、ペトルゥの指揮は、断然素晴らしい。アリアの中できちっと枠を作っておきながら歌手の自由を与え、しかしテンポは巧みに戻す。またスロウな曲の後に、劇的な曲が来た時の猛烈なアタック、ダッシュが同じオケかと思うほど、エッジが立ってゾクゾクとする音を聴かせる。この人の手にかかると、ビオラやチェロの伴奏的音形が音楽的に意味を持った生き生きとしたものに聞こえる。内声が充実してくるから、旋律も生きる。これほど優れた指揮者に出会えた幸せを感謝。

カーテンコールの最後に、終幕の合唱のワンコーラスをオケと合唱団でアンコールしたのは指揮者の粋なはからいだった。

 

 

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2020年2月21日 (金)

ヘンデル『トロメーオ』(2)

ヘンデル『トロメーオ』(カールスルーエ)の続き。

指揮はフェデリーコ・マリア・サルデッリ。トロメーオはヤクブ・ヨゼフ・オルリンスキ。現在人気の歌手である。セレウチェはルイーズ・ケメニー。エリーザはエレオノーレ・パンクラーツィ。アレッサンドロはメイリ・リー、中国人である。アラスペはモルガン・ピアース。彼だけがバス。演出は、バンジャマン・ラザール。

指揮はかなりカッチリとした棒で、歌手にほとんど自由を与えず決めたテンポでグイグイ行く。個人的には、もう少し、曲の中間部では手綱を緩めて歌手に表現の工夫の余地を与えても良いかと感じた。ただし、彼のような指揮の場合、曲の音楽的構造は極めて明確になるし、テンポがダレてしまうことは決してない。歌手の方からいえば、言葉や曲想に合わせて細かなニュアンスを付加することが困難になる。もっともニュアンスを過剰に付けようとする歌手は往々にしてテンポが遅くなり、様式感も崩れてしまったりすることもあるので、このバランスをどうとるのかは肝心でかつ困難な問題なのだと思う。サルデッリは、ある意味で、ストイックな指揮ぶりだったわけだが、会場ではそれが大いにうけていた。

トロメーオのオルリンスキーは、人気が高いのは知っていたが、舞台を見るのは初めてで、容姿や歌いぶりからある程度人気が出るのは無理もないとも思ったし、オペラは興行だから、誰か大スターがいることは必要なので、誰がスターでも良いので、日本でも誰かバロック・オペラのスターとして認識され、バロック・オペラの上演が今よりずっと頻繁になってくれればと思う。この日の演出では、トロメーオは王子なのだが、流浪の身で、羊飼いに身をやつしているところをさらに現代化したのか、工事人か配達人か何かの労働者風に見えた。セレウチェはペロッとした1枚のネグリジェ風ドレス(ドレス感は最小)。キプロスの王はタキシード風。妹のエリーザはワンピースで登場人物の中で最もブルジョワ的だった(と言うのも変な話なんだが)。アレッサンドロも、上下の色がちぐはぐでカジュアルというか、全く王子らしくはない服装だった。舞台の真ん中に砂場のような四角く窪んだ空間がある。舞台転換がほとんどなく、舞台の上手、下手を移動すると別の場所ということになっていた。その意味では象徴的な空間である。 二幕以降、部屋の壁とおぼしきところに海、波の映像が投射されていた。

エリーザというのが心の揺れもあり、なかなか見所の多い登場人物であるが、コルシカ出身のパンクラーツィは確かな技巧とメゾらしい深みのある声で聞かせていた。彼女はテンポが速くなっても細かいニュアンスをそこに流し込めるところが見事。王アラスペのモルガン・ピアースも堂々とした歌いぶりが役柄にふさわしく、声量もたっぷりあって喝采をうけていた。オルリンスキーはちょっと疲れているのか、そこそこ高いレベルが続くのだが、ここで決めるという感じに欠けるところがあった。所作もフツーに動いていき、決めポーズ的なものはない。もっと様式美に覚醒してくれると良いのだが。。。

『トロメーオ』はレチタティーヴォがほとんどなくて、アリア、アリオーソでつながれていき、メロディのある音楽にあふれている。聴いて楽しいオペラである。

 

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2020年2月20日 (木)

ヘンデル『トロメーオ』(1)

ヘンデル作曲のオペラ『トロメーオ』を観た(カールスルーエ、州立劇場)。

リブレットは・ニコラ(ニッコロ)・ハイムだが、これはドメニコ・スカルラッティのオペラ『トロメーオとアレッサンドロ』のカルロ・シジスモンド・カペーチェの台本にならったものと言う。

この台本が曲者だ。形式的にはオペラ・セリアで、トロメーオと言う王子がセレウチェと言う妻とともにエジプトから追放になる。追放したのは母クレオパトラだが、ジュリオ・チェーザレ(カエサル、シーザー)のクレオパトラとは別人。プトレマイオスとかクレオパトラは何世と言うのがついて何人もいるのだ。このオペラのクレオパトラは直接には出てこず、伝聞で間接的に出てくる。彼女は息子のトロメーオを追放して別の息子アレッサンドロを後継者にしようとしている。そこから舞台は始まる。

トロメーオが流されたキプロスで自分の運命を嘆いているところに、ある男が溺れて流れつく。よく見るとアレッサンドロである。憎しと思うが助ける。一方、キプロスの王の妹エリーザはトロメーオ(キプロスでは羊飼いオスミンを名乗っている)に心惹かれていて、自分の身分で羊飼いに恋することへの戸惑いがある。アレッサンドロは倒れて気がつくとエリーザが介抱していて、エリーザに心惹かれる。アレッサンドロは自分の身を明かす。

場面変わって、キプロスの王アラスぺの別荘。そこでセレウチェ(トロメーオの妻で、キプロスではデリアと言う羊飼いを名乗る)は夫を探しているが、アラスペがセレウチェに横恋慕する。セレウチェは夫一筋。

エリーザがオスミンの所にやってきて、オスミンは眠ってしまう。セレウチェがきて、彼が夫と気づくが、それをアラスペが覗き見ており、自分を拒絶しておきながら羊飼いふぜいと仲良くしおってと怒り、オスミンを殺そうとする。セレウチェは彼を起こし、逃げる。トロメーオはデリアなど知らぬと言うが、王はトロメーオを追放する。トロメーオはセレウチェが忘れられない。

第二幕

エリーザは、オスミンを探しているが、オスミンは自分がトロメーオだと明かす(ここらが台本としては不思議)。アラスペが来て、追放されたのにまだいるかと怒る。エリーザは、オスミンをデリアに会わせてみようと言う。トロメーオは妻に再開して喜ぶが、セレウチェはエリーザに

警戒してこんな男は知らないと言う。呆然とするトロメーオにエリーザは、自分を愛してくれれば命を助け、エジプトの王座に戻してあげると言う。トロメーオはセレウチェ一筋ではねつけ退場。エリーザ怒る。アレッサンドロがきて、アラスペからエリーザとの仲が認められたと喜ぶ。エリーザは、アレッサンドロにトロメーオ殺しを勧める。アレッサンドロ困惑。エジプト王には兄トロメーオがふさわしいと考えている。エリーザへの愛と彼女の要求の板挟み。

森の中。セレウチェとトロメーオが互いを探している。アラスペがセレウチェを見つけ抱こうとするがそこにトロメーオが割って入り身分を明かす。アラスペは激怒し、トロメーオを捕らえさせる。トロメーオは泣きながら妻と別れる。

第三幕

アレッサンドロは母クレオパトラの死の知らせを読み、兄トロメーオとともにエジプトに帰国しようと思う。トロメーオを捕らえたアラスペはアレッサンドロに兄を殺せと言う。アラスペはアレッサンドロが兄殺しを恐れているので別の人に殺させればいいと提案。エリーザはセレウチェにトロメーオを諦めるように迫る。そうすればトロメーオの命は助けると言う。トロメーオが来て、説得しようとするが言えない。トロメーオはセレウチェに彼女を失うなら死ぬほうがマシと言う。エリーザ怒ってセレウチェを連れ去る。トロメーオは連行される。

森の奥。アレッサンドロは連行されるセレウチェを見て、救出する。自分は味方だといい、トロメーオの救出に向かう。トロメーオはエリーザから渡された毒杯をあおる(ここで有名なアリア)。駆けつけたアレッサンドロは倒れたトロメーオを見て驚き、アラスペはこれでセレウチェは自分のものだと喜ぶ。エリーザはセレウチェ処刑の命令を出し、毒杯は睡眠薬にすり替えたと言う。目を覚ましたトロメーオはアレッサンドロが救出したセレウチェと再開し、二人は喜び合う。兄弟は和解し、セレウチェとともにエジプトに戻り王になることになる。めでたし、めでたし。(アラスペとエリーザはめでたいのか?)

最後の毒杯をあおる場面は音楽も深刻なのだが、そこからの展開は全く御都合主義で会場からは苦笑、失笑が漏れていた(ちなみに、会場には舞台上方に英語字幕とドイツ語字幕が上下に並んでいる)。

台本を書いたハイムはこの時点でいくつかヘンデルのオペラ台本をものしている。全部で9作(そのうち2作は共同執筆)もヘンデルのオペラの脚本(リブレット)を書いているのだ。」

評者に浮かんだ疑問がある。ハイムは、明らかに稚拙と思われるキャラクター設定(トロメーオは妻一筋、セレウチェは夫一筋で揺らぎがない。文学作品の登場人物としては面白みにかけよう)。主人公が毒杯をあおった後の、とってつけたようなハッピーエンドへのバタバタとした展開。アレッサンドロがいい人すぎるし、しかもそれを芝居の早い段階でタネあかししてしまっている。これって、従来のこうしたオペラのパロディなのではなかろうか。ロンドンの連中はゲラゲラ笑いながら見ていたのかも。ヘンデルの音楽は、ドラマの展開に沿って実に適切に心情を描き出すものとなっていて冗談音楽ではない。そこも、2通り考えられる。ニヤつきながらお笑いを語る芸人もいれば、苦虫を噛み潰したような真面目くさった顔で、おかしなジョーク、ブラック・ジョークを言う芸人もいる。ヘンデルがリブレットのパロディ性を認識しつつ、そうでない作品と同様の音楽を書いた、と言う可能性はどれくらいあるだろうか。

それを知るには、今思いつくのは、18世紀イギリスの演劇の風土を知ることだ。悲劇的要素と喜劇的要素を分離すると言うメタスタジオに代表される台本改革の大陸での動きはどれくらい共感されていたのか。あるいは、そんなん言うたかて、と敬して遠ざけられていたのか。

時代は遡るが、1600年代のシェイクスピアの芝居では、周知のように、悲劇にも喜劇的要素はふんだんに盛り込まれている。ただ、やはりここでは18世紀のイギリスの演劇シーンのチェックが必要だろう。すぐに結論は出ないので、いずれ調べてみたいと思う。

 

 

 

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