2022年9月18日 (日)

トリオ・グラツィオーゾ演奏会

トリオ・グラツィオーゾというグループの演奏会を聴いた(シュロス教会、バイロイト)。

その名の通り三人組で、ブライアン・ベリマンのフルート、Verena Spies のチェロ、Bernward Lohr のチェンバロ。

ハッセとヨハン・クリスチャン・バッハのトリオ・ソナタもしくはフルート・ソナタがプログラム。

3人での演奏が3曲、2人の演奏が2曲、アンコールが2曲だった。ハッセは穏やかなメロディーが多く、アリオーソの楽章ではまさにアリアとして歌ってもおかしくないメロディーをフルートが吹いているのだった。

今回驚いたのは、クリスチャン・バッハの曲で、作品16の5はフルートとチェンバロの二人が演奏したが、まったくソナチネ・アルバム的なのである。楽器が、ピアノではなく、フルートとチェンバロになってはいるが、チェンバロの左手部分がドソミソ・ドソミソという感じの音型の繰り返しなのである。プログラムの解説にあるように、彼のモーツァルトへの影響(二人はロンドンで会っている、モーツァルトのロンドン滞在は1年3ヶ月にも及んでいる)は軽視すべきでないし、ヴィーン楽派全体への影響も大きいとしているがもっともなことだと感じた。

もう一つ印象的だったのは、ずっと18世紀前半のバロックの曲やオペラを聴き続けた耳で、クリスチャン・バッハの曲を聴くと実にさっぱりとして、あっけらかんとしている音楽に聞こえるということだ。ドロドロした情念が感じられず、理性で濾過された涼しげな音楽と聞こえる。ハッセの曲もオペラのように超絶技巧を駆使しないので、穏やかさが表に出ている。

オペラの場合は、専門的な訓練を積み重ねたカストラート歌手あるいは女性歌手が技巧を駆使して歌うという前提だが、フルート・ソナタの場合は、ベルリンのフリードリヒ大王のように王がフルートを吹くので彼が演奏する(出来る)ような曲を書くという前提もあったろう。

バイロイトのフリードリヒIII・フォン・ブランデンブルク・バオロイトに嫁いだヴィルヘルミーネはフリードリヒ大王の妹だった。彼女は、ベルリンと異なりバイロイトに十分な音楽文化が開花していないことが不満だった。だからハッセが1748年にバイロイトに2週間滞在して、オペラのアリアを書いてくれた際には得意げに報告している。そしてこの地でフルート・ソナタも作曲したと考えられている。

この後、1750年代のはじめにハッセは招かれてパリに赴き、ヴォルテールやルソーにも巡りあい、その名声が国際的なものとなる。フランスで12のフルート・ソナタが出版されることになるのだが、作曲されたのはパリ訪問以前のことと考えられている。当時は版権が認められていないので、楽譜業者は儲かるが、作曲家としては収入が把握しやすい劇場の活動、オペラに力を入れていたのだ。

クリスチャン・バッハは周知のようにヨハン・セバスチャン・バッハの末息子で、兄のカール・フィリップ・エマヌエルはフリードリヒ大王に仕えており、彼のもとを尋ねたこともある。クリスチャン・バッハはイタリアではオペラ作曲家として有名になったが、やがて1762年にロンドンに渡る。彼はここでコンサートのオーガナイザーとして成功し、カール・フリードリッヒ・アベルというヴィオラ・ダ・ガンバ奏者と組んで、「バッハーアベル・コンサート」がロンドンの人気音楽イベントとなったのだ。そして1760年代半ばに幼いモーツァルトがロンドンにやってきて、8歳のモーツァルトはクリスチャン・バッハとコンサートで共演した。父レオポルトも息子にクリスチャン・バッハのスタイルをまねするように促したという。そんな事情もあって、冒頭に記した筆者の感想になるわけだ。

今回のフェスティヴァルは18世紀前半が中心ではあるが、ストラデッラのように17世紀後半もあり、この演奏会のように18世紀中盤のものもあって、比較的短い間に音楽の世界観が移ろっていったことが強く感じられた。

 

 

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2022年9月17日 (土)

エマニュエル・ドゥ・ネグリのリサイタル

ソプラノ歌手エマニュエル・ドゥ・ネグリのOrpheus Britannicus と題したリサイタルを聴いた(シュロス教会、バイロイト)。タイトルはブリテンのオルフェウスという意味になろうが、それは作曲家パーセルのことなのだ。

パーセルは生年は正確には分からないが1659年頃とされ、1695年に亡くなっている。彼は生前からイギリスで大作曲家と認知されており、葬儀もウェストミンスターで厳かに営まれた。そしてこの Orpheus Britannicus という題名で、音楽業者のヘンリー・プレイフォードが動いて、1698年と1702年に2冊のアルバムが出版された。パーセルの歌曲を集めたものである。第一巻の冒頭には未亡人のフランセスがレイディー・ハワードという婦人への献辞を書いている。レイディー・ハワードは、政治家兼劇作家のロバート・ハワードの妻で、詩人ジョン・ドライデンの義兄弟だった。ジョン・ドライデンは、英文学史上では大詩人なのだが、日本ではあまり知られているとは言えないだろう。しかしパーセルとの縁は深いのだ。彼は《インドの女王》というリブレットを書いていたのだが、パーセルの死により未完に終わってしまった。

この日演奏されたパーセルの歌曲や鍵盤楽器の曲を聴くと、軽い違和感を覚える。それは同時代のヨーロッパの作曲家とは音楽語法が微妙に異なるからだ。地理的にヨーロッパ大陸から切り離されていることもあって、独自の音楽文化がイギリスでは育ったのである。だから、ドイツの宮廷と比較して、イタリアやフランスの影響がはるかに小さかったと言えるのである。そういう「自由な」状況で、パーセルは音楽語法を探求していくことができたわけだ。

大陸と違うのは、高度な技巧を求めずに、感情表出を素朴にしようという趣きが支配的な点で、この時期のイギリスはヘンデルがやってくる前で、本格的なオペラではなく、劇伴奏や仮面劇のようなセミオペラと分類されるジャンルで、劇の言葉に音楽が付されていた。今回の演奏会でもシェイクスピアの『アテネのタイモン』、シェイクスピアの『真夏の夜の夢』を翻案した『フェアリー・クイーン』、前述のハワードとドライデン共作の『インドの女王』に付された歌曲も演奏された。

(『フェアリー・クイーン』の部分、指摘を受け訂正しました)。

パーセルの歌曲は、イギリスのそれ以前の大作曲家としてテューダー朝のダウランドがいるわけだが、そのポリフォニックな要素、対位法的な要素がほとんどない。そういった事情もあって、彼は最初の歌曲作曲家と呼ばれることもあるのだ。

形式的に大陸的な要素がないので拍子抜けする面と、それゆえの軽やかさ、自由な歌曲をドゥ・ネグリとブライス・セイリ—のチェンバロでたっぷりと享受できた。

 

 

 

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アルビノーニ作曲《アウローラの誕生》

トマーゾ・アルビノーニ作曲のセレナータ《アウローラの誕生》を聴いた(辺境伯劇場、バイロイト)。

この項、プログラムのルネ・クレメンチッチの解説に負うところ大です。

バロック時代のセレナータは、カンタータの一種と言ってよく、ただしその名のとおり、夜(夕べ)に、誰かを讃える目的で演奏、演じられることが多い。舞台はアルカディアや牧歌的なところで、実際に演奏されるのは戸外、貴族の館の庭などが多く、衣装をつけて演じられることも歌われることもどちらもあったようだ。出演する登場人物は、神話的人物やニンフであるのだが、その実、現実の王侯貴族やその妻の誕生日や聖名祝日を祝う目的で作曲が委嘱され演じられたもののようだ。

《アウローラの誕生》は、エリザベス・クリスティーネ・フォン・ブルンシュヴィックーヴォルフェンビュッテルに捧げられた。彼女は皇帝カール6世の妻であり、マリア・テレジアの母である。皇帝の在ヴェネツィア大使が1711年から1717年の間にアルビノーニにセレナータの委嘱をしたようだ。舞台はギリシアのテッサリア地方のテンペの谷、そこにペネイオス川が流れ、ここはアポロ神ゆかりの聖地なのだ。

というわけで、このセレナータの登場人物はアポロと川の神ペネウス(ペネイオス)、森のニンフのダフネ、風の神ゼッフィーロ、花の女神フローラで、彼ら彼女らがあけぼのの女神アウローラの誕生日を祝うという趣向なのである。この女神アウローラが、エリザベス・クリスティーネでもあるわけだ。最後は 'Viva l'Aurora, Elisa viva!' (アウローラ万歳、エリーザ万歳)で締めくくられる。

この作品のリブレットを書いたのが誰かは不明で、自筆稿はヴィーンの国立図書館にある(MS17,738)。

演奏は、指揮がマルティーナ・パストゥスツカ、オウ・オーケストラ。

ダフネがNarea Son(ソプラノ), ゼッフィーロがデニス・オレッラーナ(カウンターテナーでより高いソプラニスタ)。フローラがソーニャ・ルニェ(メゾソプラノまたはアルト)、ペネオがステファノ・ズボンニク(テノール)、アポッロが急遽交代してニコラス・タマーニャ(カウンターテナー)。デニス・オレッラーナは当初は《インドのアレッサンドロ》のタイトル・ロールを歌うはずだったがコロナのため急遽交代となり、この日やっとバイロイト・デビューを果たした。彼はまだ21歳でとても若いが、高域に張りのある強い声が出る。Son は顔の表情や身振りが達者な感じで、経歴をみるとモーツァルトの《コシ・ファン・トゥッティ》のデスピーナなどを歌っていてなるほどと感じた次第。ソーニャ・ルニェは、フローラの歌をいかにも楽しげにのびのびと歌っていて好感を持てた。タマーニャは1日か2日でよくこの役を歌えるようになったと感心。

アルビノーニのセレナータを聴くのは初めてで、きびきびとした演奏の良さもあいまって音楽的表現の幅に感心するやら、アルビノーニ像の修正をせまられるやら。アンコールでは、タマーニャのファンダンゴの部分が歌われ、テオルボとギター(コントラバス奏者が持ち替え)が活躍。音楽的に楽しい夕べであった。

 

 

 

 

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2022年9月16日 (金)

ストラデッラ作曲《サン・ジョヴァンニ・バッティスタ》その2

ストラデッラ作曲のオラトリオ《サン・ジョヴァンニ・バッティスタ》を聴いた(シュタット教会、バイロイト)

前項の続きである。演奏について。

まずなんと言っても目立つのは、教会での残響の長さだ。そのためアジリタは聞き取りにくい。また、オケが早いテンポで突き進む場面でもチェロの早いパッセージなどは音の1音1音は聞き取りにくい。教会と言っても一括りにはできず、バイロイトの教会でオルデンス教会やシュロス教会での演奏会も経験して言えることは、天井が低い教会はさほど残響が長くないという傾向がある。天井の高さだけで決まるわけではないのは、劇場の天井の高さを考えると当然のことで、空間の形状も大いに関与する変数が複数ある方程式なのだろう。

シュタット教会は、天井が高く、残響が長い会場であった。この日もキャンドルが灯され、雰囲気は抜群。会場はほぼ満席埋まっていた。

指揮はマルケロス・クリシコス。以前に《オリンピアデ》の一風変わったCD(多くの作曲家が同一リブレットに対し曲をつけていることを利用して、それを混成してCDを編成している)を指揮していた。結構尖った指揮ぶりなのだが、前述の事情でテンポが速い部分はなかなか評価がむずかしいのだった。ジェノヴァで聴いた時には、前半と後半の間に休憩が入ったのだが、今回は休憩なしで一気に演奏がされた。全体として早めのテンポであったし、チェロが同じ音型を繰り返して、オブセッションのように聞こえるところは随分と早かった。

サン・ジョヴァンニ・バッティスタがツェンチッチ。サロメ(へロディアデ娘)がマーヤン・リヒト、サロメの母(ヘロディアデ母)がジェイク・アルディッティ、エロデ王がズレーテン・マノイロヴィッチ、助言者がステファン・ズボンニク。ツェンチッチは、教会の響きを完全に我が者としていて、音楽の表情が隈なく伝わってくる。思うに、ウィーン少年合唱団の頃からこういう教会で歌ったらこう響くということが頭に入っていてそれに合わせて歌い方を調整することが出来るのだと思う。サロメのマーヤン・リヒトは代役でヴィンチのオペラのアレッサンドロを務めてそれは立派だったが、元々このサロメ役だったのは納得がいった。教会で、残響の助けがあって、澄んだ綺麗な声を響かせるのが向いている。母親役のアルディッティはもともと出番少なく、贅沢な起用法と言えた。エロデ王のマノイロヴィッチは、力で押してくるタイプで、教会の響きとかぶり音楽の細かな表情が伝わりにくいのだった。

オーケストレーションに関して、テオルボと低弦のみの間奏部は、えも言われぬ美しさだった。テオルボのような音量の小さい楽器は、ヴァイオリンが奏でるとほとんど聞こえなくなってしまうが、音量の小さな楽器同士で、音のテクスチャーを編む瞬間には、教会のように残響が長いところが効果的だと思った。大ホールではPAなどを使わない限り、もともとの小音量が大空間に吸収されてしまう感じなのだ。

ストラデッラのオラトリオは、オラトリオというジャンルから連想するよりはるかにオペラ的劇的表情に富んでいることを再確認した。

 

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2022年9月15日 (木)

ストラデッラ作曲《サン・ジョヴァンニ・バッティスタ》(1)

アレッサンドロ・ストラデッラ作曲のオラトリオ《サン・ジョヴァンニ・バッティスタ》を聴いた(シュタット教会、バイロイト)。

当ブログでも昨年12月の記事に書いたが、筆者はこの曲をジェノヴァで聴いている。この時、サン・ジョヴァンニ・バッティスタ(洗者聖ヨハネ)の役をツェンチッチが歌うはずだったのだが、病気のため交代となった。バイロイトでツェンチッチのサン・ジョヴァンニを聴けることになったのは幸運というほかない。

前回のジェノヴァでは会場がオペラ用の劇場で、今回は教会である。当然と言えば当然であるが響きが全く違う。教会は残響が長く、早いパッセージは前の音と次の音がオーバーラップしてしまい細かなフレーズが聞き取りにくい。逆に伸びやかなフレーズは全部に力を入れずとも、残響が助けてくれる感じとなる。そのあたりをオーケストラもよく心得て、フレーズの終わりは短く詰めていた。

この曲は内容としては、大まかに言えば、リヒャルト・シュトラウスの《サロメ》と同じである。オペラではないので、舞台はないし、7つのヴェールの踊りなどはないのだが、ヘロデ王に対し、サロメ(エロディアーデの娘、聖書には名前は登場しないが日本ではオスカー・ワイルドやリヒャルト・シュトラウスのオペラや、ギュスタヴ・モローの絵によりサロメの名で知られているのでここではサロメと記す。原曲の楽譜にはサロメ母子はHerodiade la Madre , Herodiade la Figlia と記されサロメの名はない)が母にそそのかされて、サン・ジョヴァンニ・バッティスタの首をくれという。なんでもあげると言ってしまったヘロデ王は逡巡するのだが、ついにはサロメの願いを受け入れる。しかし、ヘロデは深い悔悟の念に襲われる、という話で、対話形式でアリアとレチタティーヴォが使い分けられて進行していくので、舞台がないオペラと言ってよいだろう。カンタータやセレナータも同様の性質を持っており、今回のバイロイト・バロック・フェスティヴァルでは2つのオペラ(1つは舞台装置つき、もう1つは演奏会形式)を中心に、周りにカンタータやオラトリオ、セレナータを配置してその親近性、類似性がごく自然に理解、体感できるように構成されているのだと言えよう。

さてここからはプログラムに記されたこと(この項は珍しく筆者の名Elizabeth Sasso-Fruthが記されている)を中心に記す。

この曲が作曲されたのは、Venerabile Compagnia della Pieta' della Natione Fiorentina が作曲家に委嘱したのだとある。委嘱した団体は同信会であるが、日本で言えば県人会のようなもので、フィレンツェ生まれの人が集まる集団である。そこが洗者聖ヨハネの曲を委嘱するのは理解しやすい。フィレンツェの守護聖人が首を切られた聖ヨハネであるからだ。1675年の聖年のために依頼した。

作曲家アレッサンドロ・ストラデッラ(1639-1682, この人は、女性関係で何度も揉めていて、ジェノヴァで刺殺された)とリブレッティスタのアンサルド・アンサルディ(1651-1719)は、新約聖書聖書にさほど厳密には従っていない。マルコ福音書とマタイ福音書にこのエピソードは書かれているのは周知の通り。このオラトリオにはヘロデ王の助言者(大臣?)が出てくるが聖書にはいない。サロメに名がなかったのも前述の通り。

アンサルディはフィレンツェやローマでいくつかのアカデミアに加入しており、時流の好みを理解していたからこそ、聖書から逸脱しているのだと言えよう。例えば冒頭でヨハネ(サン・ジョヴァンニ・バッティスタ)が「親しい森よ、さらば」と歌うのだが、これはルネサンスからバロック時代に流行した牧歌文学、牧歌劇を踏まえたものだ。都市よりも田舎での素朴な生活こそが理想と歌われるのである。しかし聖書によれば、ヨハネはヘロデ王の宮廷に行く前は荒野にいたのだ。前述のように王の助言者・大臣も聖書には登場しない。

オラトリオの性質上、ダンスの場面はない。

当時の教皇国家では女性歌手の存在が否定されていたので、それにならってこの日の演奏も全員男性歌手(サロメ母子はカウンターテナー歌手)によって歌われた。

 

 

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2022年9月14日 (水)

寺神戸亮ディナーコンサート

ヴァイオリニストの寺神戸亮(敬称略、以下同様)のディナーコンサートを聴いた(エレミタージュ宮、バイロイト)

去年もエレミタージュでのディナーコンサートはあったが、今年は行きにバスで行ってみたのだが、案の定、道に迷って苦労した。帰りはタクシーを呼んでもらった。近所のバス停のバスは19時台までで帰りの時間にはない。タクシーでの往復がオススメです(バスや地理に強い方はその限りではありませんが)。

ここはオランジェリー、温室だったところでディナーが出される。その後、ほんの少し移動(隣の建物という感じ)して礼拝堂のようなところでコンサートがある。

寺神戸亮のヴァイオリン、上村かおりのヴィオラ・ダ・ガンバ、ファビオ・ボニッゾーニのチェンバロで、アルカンジェロ・コレッリの作品5のソナタが披露された。3曲、作品5の1番、5番、12番で、12番は有名なフォリアの旋律とその23の変奏曲である。

寺神戸の名人芸が発揮され、会場も熱い拍手に包まれたが、上村のヴィオラ・ダ・ガンバも見事なものだった。ただし、ボノンチーニなどと比較すると、そもそも作曲の時点で、通奏低音に大胆なあるいは強い主張が与えられている部分は少ないように思えた。

オランジェリーの建物は派手な色のロココで、庭に噴水がある。早めに行って散歩をしてみるのも悪くはないだろう。

 

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2022年9月13日 (火)

ソーニャ・ルニェ・リサイタル

アルト歌手ソーニャ・ルニェのリサイタルを聴いた(バイロイト、シュロス教会)。会場は電気による照明はなく、全て蝋燭による灯り(譜面台のところだけは例外)。Tempimagephs3tr

プログラムは全てボノンチーニ。ソロ・カンタータの間にトリオ・ソナタやディヴェルティメントといった器楽曲がはさまれている。

バイロイトのバロック・オペラ・フェスティバルは全体で一冊のプログラムがあり、オペラは対訳のリブレットが付き、演奏者の紹介があり、楽曲についての解説もある。この日の演目についてもカンタータ全般とボノンチーニについての解説が(ドイツ語と英語で)あるので、かいつまんで紹介しよう。

カンタータと言えばブクステフーデやテレマン、そして誰よりバッハと連想が結びつくが、実は長い歴史があるために簡単な定義はしにくい。カンタータは1630年代のイタリアで発達し、室内楽プラス声という感じで作られた。

ジャンルとしては1620年にアレッサンドロ・グランディの曲集に言及があったという。ジョヴァンニ・ピエトロ・ベルティやモンテヴェルディは、Cantata a' voce sola (単声のカンタータ)と記していた。元々、室内楽的な需要を受けて作曲されたので、1人か2人の歌手プラス通奏低音、せいぜいそれに加えてヴァイオリン1丁という形が多かった。

バッハのようなフルオーケストラ、合唱付きというのはすぐれてドイツ・プロテスタント的現象とのこと。

イタリアでは1830年代に至るまで、カンタータは小規模の室内楽であり続けた。

17世紀末から18世紀初頭にかけて、カンタータは、レチタティーヴォ+アリアという形式が固まった。世俗カンタータでは、独唱のことも対話形式を取ることもある。カンタータがよく作られたのは、ヴェネツィア、フェッラーラ、ボローニャ、ナポリそしてローマである。ローマでは有力家系のオットボーニ家、ボルゲーゼ家、パンフィーリ家などがパトロンになって、カリッシミやチェスティ、ストラデッラやヘンデルにカンタータを作曲するよう注文したのだ。

ジョヴァンニ・ボノンチーニはソロ・カンタータの傑作を作っている。彼はボローニャで教育を受け、後にヴィーンの宮廷詩人となる台本作家のシルヴィオ・スタンピリアと知り合った。

ボノンチーニとスタンピリアの協力関係は何年も続いた。ヴィーンでも一緒の時期があるのだ。スタンピリアは牧歌で有名だった。文明に冒されていないのどかな田園を理想化して書いたのである。もちろん牧歌は古代からある文学ジャンルの1つでもあるわけだが。ボノンチーニはこういう伝統的形式に自然で伸びやかさ、自発的感情をのせつつ、メロディーや和声に創意工夫を凝らして独創性を発揮した。

フランチェスコ・ガスパリーニは1708年の著作でボノンチーニのカンタータを、特に装飾的なバス・ラインの創造性を指摘しつつ、激賞している。

彼のカンタータはそれまでカンタータの伝統の乏しかったパリでも愛好された。

ボノンチーニのカンタータのほとんどは消失したと考えられているが、彼がイギリスにいた時に、イギリス王ジョージ1世にカンタータ集を献呈していてそれが残っている。このカンタータ集には14作が収められているが、王のために作ったというわけではなく、すでにヨーロッパで作られたものを集めたものらしい。

当日のプログラム

前半

'Misero pastorello'

室内トリオ・ソナタ・ニ長調第3番

’Gia la stagion d'Amore'

ソナタ・イ短調

’Lasciami un sol momento'  

後半

ディヴェルティメント 作品8

’O mesta tortorella`

室内ソナタ ホ長調第一番

’Siedi, Amarilli mia'

前半も後半も、最終曲’Lasciami un sol momento' と'Siedim Amarilli mia' が最もドラマティックな表情、アジリタを含む高度な技巧を要求する曲であった。が、その他の曲も、解説にあったように、チェロのラインが特徴的でメロディーとの対比で曲が立体的に動いていくのだった。伴奏の楽器はチェロ、リュート、チェンバロが基本で曲によってコントラバスが入ったり、1人または2人のヴァイオリンが入った。これだけで、実に多様な響きが展開されるし、抒情的な表情から劇的な表情まで自在に描き分けられるのは、ボノンチーニの作曲家としての技量が高いからだし、歌い手のソーニャ・ルニェの歌唱、Hofkapelle Munchenのチェリスト、Pavel Serbinの音楽性、技巧が相まってのことである。

改めてボノンチーニの曲をもっと聴いてみたくなる一夜だったが、この音楽祭ではオオトリにボノンチーニのオペラ《グリゼルダ》が控えており大いに楽しみである。

 

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2022年9月11日 (日)

フランソワ・クープラン「ルソン・ドゥ・テネブル」

フランソワ・クープランの宗教曲「ルソン・ドゥ・テネブル」を聴いた(バイロイト、オルデンス教会)

テネブルあるいはテネブラエは、旧約聖書のエレミアの哀歌が歌詞である。預言者エレミアの嘆きが中身だ。

ルイ14世のごひいきの作曲家リュリが1687年に亡くなった後、教会音楽家兼オルガニストとして採用されたのがクープランだ。リュリは王家の子弟に鍵盤楽器を教えた他、宗教音楽や鍵盤楽器のための楽曲を次々に作曲した。

ルイ14世が亡くなる1年あまり前の1714年頃からクープランはルソン・ドゥ・テネブルの作曲を始めた。預言者エレミアは、紀元前589年頃にネブカドネザルによってエルサレムがソロモンの神殿を含め破壊されたことを嘆いた。この旧約聖書の言葉は、ルネサンス期から復活祭前の3日間、嘆きの日の音楽に用いられるようになった。17世紀後半から、9つの詩編に曲が付され、3日間(聖木曜日、聖金曜日、聖土曜日)に3曲ずつ演奏された。1つ終わるごとに、9つの枝にわかれた燭台のろうそくが1本ずつ消される。この日の演奏では、枝分かれした燭台に複数のろうそくが灯されていたが、聖週間ではないので、ろうそくを消すことまではしなかった。

上記のように本来は9曲から構成されるはずなのだが、クープランの場合3曲が現存していて、6曲が消失したのか、それとも何らかの事情で作曲されなかったのかは不明である。楽曲はグレゴリオ聖歌のような単旋律聖歌の様式で始まる。各歌はヘブライ語のアルファベット(アレフ、ベット、ギメル。。。)が付されている。いずれの曲もイスラエルの人への訴えで終わっている。

演奏は、ソプラノがヨハンナ・ローサ・ファルキンガーとマリ—・テオリール。ロリス・バルカンのオルガン。フランソワ・ガロンのチェロ。

レチタティーボ的な部分とアリオーゾの部分があり、1曲目、2曲目はソプラノ1人、3曲目のみが二重唱だった。アンコールはモンテヴェルディの聖母マリアの夕べの祈りから。

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アンサンブル・ディドロ演奏会

アンサンブル・ディドロの「ドレスデンのトリオ・ソナタ」と題する演奏会を聴いた(オルデンス教会、バイロイト)。

演奏団体自体は近年結成され、古楽器を用いた4人組、ヴァイオリン2人、チェロ1人、チェンバロ1人。

それぞれの演奏技量は高い。

この日のプログラムはトリオ・ソナタを集めたものなのだが、有名な作曲家(ヘンデル、テレマン)に混じって、Fuxはまだしも、Tuma, Orschler という珍しい作曲家の作品が演奏された。これらの音楽家の楽譜はドレスデン宮廷の楽譜コレクションがもとになっている。18世紀にPisendel という人が集めたり筆写したりしたもの。

Tuma のフーガなどとても聴き応えがあった。演奏技術と楽曲の構造美があいまって一つの宇宙、ミクロコスモスを観ることが出来た。

 

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2022年9月 9日 (金)

アルス・アンティカ・アウストリア演奏会

ベネディクト・アントン・アウフシュナイター作曲のソナタを何作か聞いた(バイロイト、オルデン教会)

会場は町の中心部をやや離れているが、辺境伯劇場と同時期に、辺境伯が建てた教会とのこと。バロック様式の教会である。

ベネディクト・アントン・アウフシュナイター(1665−1742)は、生没年から判るように大まかに言えばバッハやヘンデルと同時代人であるが、この人はチロルで生まれたが、ウィーンに出て教育を受けたらしい。そしてGeorg Muffatの後継者としてパッサウに赴きカペル・マイスターとなった。

といかにも知っているような口振りで書いてしまったがこれはすべてプログラムにGunar Letzbor が書いていることであり、彼は当日の演奏グループ、アルス・アンティカ・アウストリアのリーダーでヴァイオリニストである。彼も書いている通り、アウフシュナイターは、まだまだ無名でアウフシュナイターって誰?という音楽ファンが圧倒的に多いと想像される。

Letzborが書いている通り、われわれはバロック音楽というとバッハやヘンデルの存在の大きさもあって、プロテスタントの音楽という刷り込みが無意識のうちにあるが、美術を考えれば明らかなように、バロック音楽は、南ドイツにもオーストリアにもあったわけで、アウフシュナイターは、カトリックのバロックの非常にすぐれた作曲家で、 Letzbor が再発見したらしい。当日は4つのソナタが演奏されたが、ヴァイオリンが中心的な存在であるものの、ヴァイオリン・ソナタというわけではなく、ヴァイオリン2丁、ヴィオラ1丁、チェロ1丁、オルガン、テオルボという編成で演奏された(一曲だけ、テオルボがお休みだった)。ポリフォニックな要素とホモフォニックな要素、和声的な要素が極端なギアチェンジなく、なめらかに交錯する聴き応えある音楽だった。解説によれば、宗教音楽も沢山作っており、そちらへの興味もかきたてられた。

当日演奏されたのは、教会ソナタとして1703年に作品4としてアウクスブルクで印刷されたもの。当時は教会ソナタが人気を博していたのである。彼の教会ソナタはヴィーンの伝統にそって、ほとんどが一楽章からなる(ただし、その中でアレグロ—アダージョなど変化は何度もある)。曲によっては Pars1, Pars2 と二部に分かれているものもある。また、それぞれのソナタは聖人に捧げられていて、それがカトリック的なことは言うまでもない。

音楽的にも演奏も充実して喜ばしい演奏会だったが、ヴィデオ・カメラが3台ほど入っていたので、どこかでストリーミング放送などされるかもしれない。

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