2020年5月12日 (火)

《エイシスとガラテア》

ヘンデル作曲の牧歌劇《エイシスとガラテア》の一風変わったCDを聞いた。

そもそもヘンデルの牧歌劇が珍しいわけだが、イギリスにやってきて間もない時期にシャンドス公爵に仕えていて、そこで私的に催すためにこの牧歌劇が書かれた。しかしその後、ヘンデルに無断で公演するものが出てきて、ヘンデルがそれに対抗して加筆したヴァージョンを作ったりしたので様々なヴァージョンがある。

台本も英語なのだ。ジョン・ゲイの作った台本にアレクサンダー・ポウプとジョン・ジューズが加筆したものらしい。ポウプは日本ではさほど有名でないかもしれないが、英文学的には超大物詩人なのです。元々のソースは、オウィディウスの『変身物語』。

しかし、僕が今回聞いたのは、それを後に、モーツァルトが編曲した版。周知のようにヴァン・スヴィーテン男爵というバロック音楽の熱心な愛好家のために編曲したもので、モーツァルトは《メサイア》も編曲しており、ヴァン・スヴィーテンとの交流からバロック音楽のエッセンスを吸収しており、それはジュピター交響曲を想起すれば明らかなように、晩年のモーツァルトの作曲に反映され、彼の音楽に一掃の深みと普遍性を与えていると言えるだろう。

このCDの演奏は、ペーター・シュライアーが指揮、オケはORF交響楽団。ガラテアがエディット・マティス。エイシスはアントニー・ロルフ・ジョンソン。デイモンがロバート・ギャンビル。ポリフェムがロバート・ロイド。演奏は、なんとも不思議な印象を受ける。ピリオド楽器のヘンデルに慣れた我々には、モーツァルト的なヘンデルだと思えるが、だからと言ってかつてのフルトヴェングラーのヘンデルなどのように大仰ではない。そこそこモダンなのだが、なんとも独特の味わい。かつこの版は歌詞がドイツ語である。

 

 

 

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2020年5月 7日 (木)

テリー・ウェイのリサイタル

カウンターテナ歌手テリー・ウェイのリサイタルを聴いた(カールスルーエ、クリストス教会)。

ヘンデルのオペラ『セルセ』を観た後、約2キロ離れた教会へ。トラムも結構走っているのだが、路線図を把握していないので徒歩で。われながらご苦労さんである。当初は午前に別の教会でのコンサートも考慮に入れていたのだが、さすがにパスした。

テリー・ウェイはスイス系アメリカ人でヴィーンで音楽教育を受けたとのこと。

この日のプログラムの副題には「孤独と憧憬」とあるように、冒頭がパーセルの'O solitude'で終曲がヘンデルの 'La solitudine' だった。パーセルに続いてダウランド(1563-1626)のThe lowest trees have tops, Robert  Johnson (ca.1583-1628) のHave you seen but a white lily grow. 

伴奏はリュートとヴィオラ・ダ・ガンバだったが、先日のチェンバロ伴奏より一層、古楽的な響きがした。リュートは絶対的な音量は決して大きくないのだが、教会のようなコンパクトでしかも反響豊かな空間では十分に鳴る。空間が大きすぎて拡散していく一方だと聞こえにくいのだ。Alfonso Ferrabosco (ca. 1575-1628)のPavin, Gigue.

再びJohn Dowland のIn darkness le me dwell, Can she excuse my wrongs, Come heavy sleep.

Christopher Simpson (ca.1605-1689)のPrelude in e-minor.

Michael Cavendish (ca.1565-1628)のWandering in this place

パーセルのIf music be the food  of love, Sweeter than roses

マラン・マレ(1656-1728)のLa Reveuse, Arabesque

ヘンデルの Nel dolce tempo, La solitudine

アンコールはJ.P. Krieger の孤独(Einsamkeit)であった。

先日のカウンターテナーはピンチヒッターだったので比較するのも気の毒なのだが、曲目がパーセルなどで重なっている。

テリー・ウェイの場合、曲の細部の表現により緻密な濃淡が見られ、音がフレーズの終わりで伸びていく時にも豊かなニュアンスを

聴かせていた。基本的には柔らかい音で、二重母音なども後ろの音はややそっと添える感じがある。それがこの教会という残響の多い

会場を意識してなのか、通常のコンサートホールでもこういう歌い方なのかは判然としない。

この日のプログラムも、音楽史的なパースペクティブがあって、ダウランドやパーセルがイギリスで活躍していた時期とヘンデルへ至る道を想起させる。影響が直接であれ、間接であれ、ヘンデルの前後左右に視野が広がる感じである。

 

 

 

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2020年2月25日 (火)

ドイツ・ヘンデル・ゾリステンの室内コンサート

ドイツ・ヘンデル・ゾリステンの室内コンサートを聴いた(カールスルーエ、州立劇場小ホール)。

ゾリステンの全員が出るわけではなく、曲目がトリオ・ソナタが中心であったので、演奏者は4人から8人であった。しかし、プログラムが進むにつれて、4人が7人になった時、これはもうオーケストラだという感じがあった。量だけではなく、質の転換を感じるのだ。

この日のプログラムは前半が4曲、休憩を挟み後半3曲、アンコール1曲であった。

最初はアレッサンドロ・ストラデッラ(1639-1682)のシンフォニア  d-Moll 。 シンフォニアといってもヴァイオリンとチェロと通奏低音のためのシンフォニアであり、通奏低音をテオルボとチェンバロが担当していたので奏者は合計4人。名前はトリオ・ソナタではないのだが、実質上、トリオ・ソナタのようなものだ。

次はジョヴァンニ・ベネデット・プラッティ(1697-1763) のトリオ・ソナタ D-dur. ヴァイオリンとチェロと通奏低音のためのトリオ・ソナタで、編成は前の曲と全く同じ。通奏低音を1人で演奏することもあるだろうし、2人で演奏することもあるようだ。

3曲めはヘンデルのトリオ・ソナタ、F-dur。バイオリン2丁とチェロとチェンバロ。4曲目はプラッティでトリオ・ソナタ B-dur. ここではバイオリン、チェロ、チェンバロの他に、ヴィオローネが加わった。ヴィオローネは大雑把に言えばコントラバスのような楽器であるが、大きさも弦の数も不定だった。この日のヴィオローネはかなり使い込まれたとおぼしき、なで肩の楽器で、弦は5本。ちなみにチェロもエンドピンは付いていない。ヴィオローネはなんともふわっとした音色で柔らかく音楽の進行をサポートするかと思えば、ダンダンダンと低いリズムを刻む。これをステレオ(スピーカー)で再現するのは難しいだろうな、と思った。いわゆるドンシャリのドンではないのだ。

室内楽では、よくあることだが、予習でCDやyou tube で聞いていると、のんびりとして、間が抜けていて、エクサイティングでないなあと思うのだが、実演を聞くとずっとワクワクすることがある。同じ旋律を二丁のヴァイオリンで受け渡す時、生だと、奏者によって音色の違いやアタック音、フレージングの違いがよくわかる。音源の分離は最高度である。旋律自体が、挨拶や日常会話を交わしているような穏やかなものでも両者の間の測り合う感じが伝わってくるのだ。

休憩が入って後半の方が相対的に華やかな曲が多かった。

後半の冒頭はプラッティのトリオ・ソナタ  C-Moll でオーボエ、チェロ、チェンバロ、テオルボだった。全体が20−30人のオケでオーボエが1−2人いるときは感じないのだが、全体が4人だとオーボエの音は大きい。またオーボエが入ることによって音色の複雑さが格段と増す。

後半第二曲はヴィヴァルディのトリオ・ソナタ C-Moll. これが意外だった。ヴィヴァルディらしくない、いつも聴き慣れているヴィヴァルディの流麗さと、その中に憂いを帯びた感じがない。これがドイツ風ヴィヴァルディか。ヘンデルをこれだけ見事に奏でる人たちだから時代様式や指が回る回らないのテクニックが問題なのではない。イタリア人だとこれが逆で、ヴィヴァルディは水を得た魚のように生き生きと弾くのだけれど、ヘンデルはなんか違う癖があってちょいと弾きにくそうなことがある。こういうローカリティを発見するのも、またいいものだ。〇〇合奏団が世界一とかいうレッテルの無意味さがわかるというものだ。

最後は再びプラッティで協奏曲in D-dur. チェロ独奏、ヴァイオリン2丁、ヴィオラ、チェンバロ、テオルボ、ヴィオリーノ。7人なのだが、まさにチェロ協奏曲という趣きを感じた。アンコールはヘンデルのシンファニアを8人全員で。

こうやって聞いてくると、3、4人のトリオ・ソナタも良いのだが、やがてオーケストラが全盛になっていくのもわかる気がする。7人、8人になった時に、ぐっと音楽が壮麗で華やぐのである。

 

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2020年2月21日 (金)

ドイツ・ヘンデル・ゾリステンのコンサート

ドイツ・ヘンデル・ゾリステンのコンサートを聴いた(カールスルーエ、州立劇場、大ホール)

指揮はジョリー・ヴィニカー(Jory Vinikour).シカゴ出身で1990年からはパリ在住とのこと。チェンバロを弾きながら指揮をする。チェンバロは、非常にテンポが速く、細かい微細な表情よりは曲の進行がどんどん進むことによって曲の形をあらわにすることを良しとする弾き方だ。指はおそろしくまわる。

この日のプログラムは前半、後半に分かれて1回の休憩。各曲の前にこの音楽祭の芸術監督ミヒャエル・フィヒテンホルツ氏のユーモアに富んだ解説が入る。

前半は、ヘンデルのオペラ『ロドリーゴ』から序曲、レンテメンテ、ジーグ、サラバンド、ブレー、マテロ、パッサカリア。管弦楽のみでの演奏である。次はジャン・フィリップ・ラモーのオペラ『イポリートとアリシ』から序曲、マーチ、ガヴォットI&II,恋するナイチンゲール、シャコンヌ。恋するナイチンゲールは本来ソプラノが入るのだが、その部分は今回は独奏ヴァイオリンによって演奏された。ヘンデル・ゾリステンによるラモーは独特である。フランス風のそれと比べると、線が太いというか強い線で描かれている。メロディを描くときの筆圧が強い感じなのだ。その分、どっしりと荘重になる。しかし、そうは言っても、現代オケではないから、バロックの響きな訳で、そこが独特の味わいなのである。

後半は、バッハ親子のチェンバロ協奏曲。もう少し正確に言えば、ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハ(大バッハの長男)のチェンバロと弦楽と通奏低音のための協奏曲、F.41  とヨハン・セバスチャン・バッハのフルート、チェンバロと通奏低音のための協奏曲 BWV 1050(1852)(いわゆるブランデンブルク協奏曲第5番)。フリーデマン・バッハは初めての経験だったが、非常にチャーミングな音楽で心を奪われた。編成もそうなのだが、バッハから受け継いだものにヴィヴァルディ的な要素が加わった感じなのだ。流麗で、ところどころ愁いにとみ、不思議な転調にハッとさせられる。ハレのバッハと呼ばれているが、ハレの有力者とはうまく行かなかったようだ。これからもっと彼の作品を聴いてみたいと強く思った。

ブランデンブルクになると、楽団員の動きが身体的にも、音楽的にも明らかに違う。自分たちの自家薬籠中の音楽を自信を持って弾いているという感じがありありとある。リズムが跳ねている。こちらもそれに身体を揺すぶられる。自分が知らなかった曲の新しい魅力を教えてもらうのもいいものだが、こういう定番を真正面から直球勝負も心地よい。バッハ親子、それぞれに大満足です。

アンコールはヘンデルのオペラ『忠実な羊飼い』からシャコンヌ。管弦楽の演奏。二曲目はドメニコ・スカルラッティのチェンバロ曲K535を指揮者が嵐のようなスピードで駆け抜けるように弾いた。

名人芸を楽しませると同時に、ヘンデルを中心として同時代、前後への目配りの行き届いたインテリジェントなプログラムでもある。この長所は、この音楽祭のすべてのプログラムに通底している。そこもこの音楽祭の素晴らしいところだ。今年はマスタークラスがないのが少し寂しいが。

 

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2020年2月20日 (木)

James Hall & Mahan Esfahani リサイタル

James Hall と言うカウンターテナーのリサイタルをMahan Esfahani のチェンバロ伴奏で聴いた(カールスルーエ、クリストゥス教会)。

このリサイタル、予定ではカウンターテナーが Cameron Shahbazi のはずだったが、病気のため、急遽、James Hall に変わった。町ではShahbazi とEsfahaniの並んだポスターを見かけた。開演前の主催者側の挨拶でHallが与えられた日数は3日だったと言う意味のことを言っていたと思う。

曲目が大幅に変更になるのかと思ったら、ほぼ予定通りで、何曲かが省略されただけだったのは、Hall の力量をたたえねばなるまい。

Hall はRoyal College of Music で学び、グラインドボーン音楽祭では、ヘンデルの『リナルド』の魔術師クリスティアーノでデビューしたと言う。

非常に透明感のある声で、かつ高音域に素直に伸びていく。聴いていて気持ちの良い声である。音楽表現は曲によるし、今回は準備期間が特殊事情で短いのでそのあたりを考慮しなければいけないと思うが、パーセルなどは綺麗に聞かせようと言う傾向がうかがわれ、ヘンデルにおいてはやや劇的な表現を取っていた。もともとの曲にそう言う違いがあるとも言える。パーセルでは半音階的な進行の際に、音色の変化を加え、豊かな表情を与えているのが印象的だった。

チェンバロのMahan Esfahaniは以前に同じところでリサイタルを聴いたがイラン出身のチェンバロ奏者で、流麗さを追求すると言うよりは、構築的にバリバリと弾き進めるタイプである。教会という場所からそうなるのは必然なのだが、残響がとても長く、歌手にとってはバロック曲は歌いやすい面があると思うがチェンバロは速いパッセージになると音がかぶってしまうのだった。

プログラムは、

Antonio Caldara (1670-1736) のSoffri, mio caro Alcino,  Henry Purcell(1659-1695) のMusic for a while, One charming night,  John Blow (1649-1708)のA Pastoral Elegy,  チェンバロで Johann Pachelbel (1653-1706)のCiaconna, G.F. Handel (1685-1759)のVedendo Amor (HWV175), PurcellのIf music be the food of love, Eegy on the death of Mr John Playford, チェンバロでDomenico Scarlatti (1685-1757)のSonata K87, K534, Handel のSon stanco, ingiusti Numi...,  Deggio morire, o stelle (Siroe から)。

その他、アンコールが2曲。

盛大な拍手を浴びていた。

 

 

 

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2019年11月30日 (土)

メサイア

ヘンデルのメサイアを聞いた。ウィリアム・クリスティ指揮、レザール・フロリサン(東京オペラシティ、コンサートホール)。

歌手はティム・ミード他。

クリスティは大御所的な指揮で、細かいところで攻めるというよりも、要所、要所をおさえて、手堅くまとめている感じだった。

しかし彼の音楽感はレザール・フロリサンに浸透しており、安心して聴けるものであった。

もう少しスリリングなところも欲しいと思わないではなかったが、これはこれで立派な演奏なのだとも思った。

歌手の中ではティム・ミードが抜きんでていた。彼は発声が安定していて、かつ実に適切な表情付けがなされるのだ。

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2019年8月23日 (金)

マクシミリアン1世時代の音楽

Maximilians Lieb und Leid と題されたマクシミリアン1世の宮廷あるいはその時代に活躍した作曲家の音楽を聴いた(宮廷教会および民族博物館の中庭)。

マクシミリアン(時代の)愛と悲しみ、とでもいうのが音楽界のタイトルなのだろうが、当然、Lieb Leid で頭韻を踏んでいるし、Leid の文字を並べ替えればLied (リート、歌曲) となるので、言葉遊びが仕掛けられているタイトルであると思う。

扱われる作曲家は

Heinrich Isaac(1450-1517)

Paul Hofhaimer (1459-1537)

Ludwig Senfl(1486-1543)

Costanzo Festa(1490-1545)

Josquin Des prez (um1455-1521)

Francesco da Milano(1497-1543)

Mabriano de Orto (1460-1529) などなど。

ジョスカン・デプレ以外は、ああこの人、とか前に聞いたことがあるといった記憶がない。たまたまFMなどの放送で聞いたことはあったかもしれないが、この人というくっきりとした形を帯びていない。実際、曲を聴いてみても、この時代の曲だなあ、ということはあるのだが、特定化してこの曲という記憶が蘇ってきた曲はなかった。

音楽会は一部と二部に分かれていて(間に小休憩、そこでワインとパンが振舞われていた)第一部は宮廷教会の内部、第二部は、宮廷教会に隣接した今は民族博物館となっている建物の中庭(寒かったです、夜9時過ぎていたので)に場所を移した。筆者はぼうっとしていて薄着で出かけてしまったのだが、周りの人はしっかりパーカーなどの防寒具を用意して着込んでいた。服装としてはこちらとしてはありがたいことに、かなりカジュアルである。

演奏会場が移った意味はあって、第一部は聖母マリアに祈る歌だったり宗教曲が多く、それに対し第二部は世俗曲がほとんどだったように思う(断言できなくて恐縮です)。

演奏団体はEnsemble Vivanteといい、ホームページを見てみると、メンバーは6人なのだが、この日の演奏会ではその内5人と他のゲストが2人の7人で演奏していた。特徴的なのは、オリジナルの6人の場合であれ、この日の演奏会であれ、テノールが2人いること。彼らのホームページによれば、テノール2人という形は、17世紀イタリアで流行って、宗教曲・世俗曲双方に用いられたとのことだが、今回のプログラムは16世紀のドイツ語圏でさらに早い時期からこの形が用いられていたことを示すことになるうのだろうか。この日のプログラム時たま楽器だけの曲もあったが、ほとんどがテノール1人または2人と楽器であった。テノールはErik Leidal Tore Tom Denys. リュートがDavid Bergmuller(uウムラウトです)、チェンバロとオルガンがAnne Marie Dragosits で彼女がこのグループの音楽監督でもある。ヴィオラ・ダ・ガンバとギターがDaniel Pilz, ハープとフルートがReinhild Waldek, ツィンク(角笛のような形)とフルートがMatthijs Lunenburg で彼はゲスト奏者。

作曲家で言えばHeinrich Isaac はオランダ出身だがフィレンツェに長くおり、のちにマクシミリアンに雇われている。

Paul Hofhaimer はザルツブルク近郊で生まれ、オルガニスト・作曲家として有名で、当時、ドイツ語圏以外にまで知られた作曲家はIsaac Hofhaimer のみであったという。彼もまたマクシミリアンに雇われた。

Ludwig Senfl の場合なかなか複雑な生涯だ。おそらくはバーゼルに生まれ、チューリヒに育ち、Isaac の弟子となり、やはりマクシミリアンに雇われる。Isaacの死とともに宮廷作曲家となるが、マクシミリアンの死により失職する。その後、求職活動をするが、彼は公的にプロテスタントにはならなかったが、シンパシーを抱いており、ルターとも書簡をやりとりしたのだった。やがて、プロテスタント的傾向を持った人間にも寛容だったミュンヘンで職を得る。

Costanzo Festaは名前から推測されるようにイタリアの作曲家。

Josquin Desprezはフランスの作曲家だが、カスティリオーネやルター が言及しているのは興味深い。

Francesco da Milano はミラノの近郊モンツァで生まれ、ローマ教皇の宮廷に仕えた作曲家。

この時代、思えば、宗教改革をはじめとして激動の時代であったわけで、音楽的にどんな形でそれが反映していたり、それを読み込むことが可能なのか、興味をかきたてられた。しかし、そういうことを抜きにしても、この時代の音楽を6人や7人の演奏家が奏でるのを聞くと、古楽器の繊細な響きと声とで実に精妙な音楽の綾が目の前で編まれていく。また、宮廷教会のオルガンは、ストップを変えると、他の教会のオルガン以上に劇的に音色が変わる(ように思えた)のもまことに印象的であった。

 

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2017年2月15日 (水)

アンサンブル・レ・フィギュール「愛のかけら」

アンサンブル・レ・フィギュールという古楽アンサンブルのコンサート「愛のかけら」を聞いた(東京・初台、オペラシティ内の近江楽堂)。

近江楽堂というのは、初台のオペラシティの3Fにある小さなホールで、丸天井で、天井には十字の切れ込みがあり、さらには、アルコーブには舟越保武氏のマグダラのマリア像があり、明らかに礼拝堂などをイメージした作りである。座席120ほどでこじんまりとしており、演奏者と観客が親密な空間を共有できる。
アンサンブル・レ・フィギュールは、バロック・ヴァイオリン、ヴィオラ・ダ・ガンバ、チェンバロ、フラウト・トラヴェルソの4名の古楽器(ピリオド楽器)奏者からなり、この日は、フランス人カウンターテナーのポール=アントワーヌ・ベノス・ディアンが加わり、フランスのカンタータを歌った。
なぜフランスのプログラムかという点については、アンサンブル・レ・フィギュールの面々が日本出身だがパリ在住で大半がフランスで学んだ経験をもつということもあるのだろう。
曲目は第一部が
N.ベルニエ 序曲 カンタータ「夜明け」より
M.ランベール 宮廷歌曲「優しく誠実ないとしい人」(いとしい人というのが女羊飼い、という牧歌の伝統を踏まえている)
N.ベルニエ 「アマントとリュクリーヌ」
休憩10分を挟んで
第二部は
L.クープラン 前奏曲ト調
M. ランベール 宮廷歌曲「私の瞳よ、どれほどの涙を流したのだろう」
L.N.クレランボー ソナタ ラ・フェリシテ
L..N.クレランボー「ピュラモスとティスベ」
クープランなどは、チェンバロの独奏だったりするが、主となるのは、カウンターテナーが出てくるカンタータである。
ベノス・ディアンの声、発声は実に自然で、引っかかるところが感じられないし、表情づけ、音楽的なアクセントも完成度が高い。ヴァイオリンやフラウト・トラヴェルソも弾むむところはは弾み、リズム、音色ともに音楽的楽しさを享受できた。ヴィオラ・ダ・ガンバは、小ぶりのチェロという感じだが、脚の間に挟み楽器が床についていない。また、弓の持ち方が下からもつ感じで異なっている。もっと多人数の中では別として、この日は奏者は4人だったので、これがヴィオラ・ダ・ガンバで、その音色(案外低い音が響くーもしかするとホールのせいでもあるかもしれないが)がはっきりと認識できて興味深かった。通奏低音を担当することが多いが、対位法的な受け渡しで、ヴァイオリンやフラウト・トラヴェルソと同じ旋律を軽やかに弾くこともあるのだった。チェンバロは楽器がkubota 2006 と書かれたもので、京都でのコンサートで使用された楽器(ネットで拝見)とは異なるようだった。
個人的には、クープラン以外、これまで馴染みのない作曲家だったが、ベルニエもランベールも17世紀、18世紀の音楽であり、ヘンデルやヴィヴァルディ、あるいはそれ以前の作曲家と共通の音楽語法を持っており、親しみを感じた。バロック音楽の領域の広大さを感じたし、 プログラムに対訳で歌詞が掲載されていたのは大いに役にたった。
また、楽曲の演奏前にフラウトの石橋氏が簡潔な解説をしてくれたのもとても良かった。
この演奏会の存在を知らせてくれた知人に感謝。
この日、配布されたチラシを見て、今更ながら驚いたが、バロックや古楽器のコンサートは東京圏に限っても随分多いのだ。個人的には、ごく簡単な装置のセミステージで良いのででバロックオペラがもっと上演されるようになったらなあ、と思う。フランス・バロックで言えば、できれば、バロック式のバレエが伴えば言うことなしであるが。。。
それはともかく、この日のコンサート、素敵でした。           

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2006年3月28日 (火)

チェチーリア・バルトリのリサイタル

チェチーリア・バルトリのリサイタルを聴いた(東京オペラシティ・コンサートホール、3月27日)。

バルトリの歌、有名かつ優秀な指揮者のチョン・ミョンフンがピアノ伴奏である。ただし、筆者としては、この二人のリサイタルを「チェチーリア・バルトリ&チョン・ミョンフン デュオ・リサイタル」と名付けるのはいかがかと思う。チョン・ミョンフンがピアノで独奏曲を弾くことはなく、伴奏者に徹しているのである。私は、チョン・ミョンフンが独奏曲を弾かないのが不満なのではない。伴奏者に徹しているのだから、これはチェチーリア・バルトリのリサイタルに、あの有名な指揮者のチョン・ミョンフンが伴奏をしている!という驚きがあれば十分で、それをデュオ・リサイタルとしてプロモートするのは、いささか羊頭狗肉のおそれがあるのではないかと思うのである。

さて、バルトリの歌は、驚くべき高度な技巧を惜しげもなく披露するもので、圧倒された。

プログラムは前半が、スカルラッティ(1曲)、グルック(1曲)、パイジェッロ(1曲)、モーツァルト(3曲)、ベートーヴェン(1曲)、シューベルト(2曲)、ロッシーニの歌劇『チェネレントラ』から〈私は苦しみと涙のために生まれ〉。

バロックからヴィーン古典派、ロマン派への流れを歌曲でたどり、締めくくりにロッシーニのオペラで華やかにしめるというよく考えられたプログラム。しかも、モーツァルトやベートーヴェン、シューベルトも通俗名曲は1つもなく、新たなレパートリーを聴衆に提供する意欲に満ちあふれている。それはポリーニのようなピアニスト、アッバードのような指揮者にも通じることだが、商業主義に流されない強い知性を感じさせるイタリアの超一流の芸術家に共通する性質なのである(イタリアの音楽家にも、そうでない音楽家もたくさんいる)。

後半は、ビゼー(3曲)、ベッリーニ(3曲)、ロッシーニ(4曲)で、ややロマンティックな曲想のものとなる。

バルトリは、技巧と古典的な様式をしっかりと確保した上で、歌詞を考えたフレージング、表情づけをしていく極めてバランス感覚のすぐれた演奏を聴かせる。しかも高度な、時に超絶的な技巧は決して破綻することがない。

しかも声の音色が高い方から、低い方までトーンがそろっている。ここまで完成度の高い歌手は、ほんとうに稀であろう。

筆者は個人的には、ロッシーニで装飾音符が、快適なテンポにもかかわらず、少しも省略されずにメロディーに飾り付けられていくのだが、それがどこまでも続く息の長さ、音楽的持続に、息をのむ思いであった。

アンコールは、まず、モーツァルトの『フィガロ』からケルビーノのアリア〈恋とはどんなものかしら〉。完璧。モーツァルトの様式感と、ケルビーノの哀切な心情とのバランスが、これほどとれている演奏を聴いたことがない。つまり、ヴェルディなどを歌いなれている歌手はたいていの場合、あまりにもロマンティックに歌いたがるのである(シミオナートのようにモーツァルトやロッシーニを歌わせても、最高の演奏をする歌手もいますが、これは例外的別格)。

次は、ロッシーニの『セビリア』のロジーナのアリア〈今の歌声は〉。これも、文句なく素晴らしい。会場も総立ちであった。バルトリも、観客の熱い拍手に、感じるところがあったように見えた。

3曲目はデ・クルティスの〈忘れな草〉であった。これも悪くはないのだが、こういうどっぷりとロマンティックな曲よりも、古典的な様式の中に踏みとどまりつつ、様々なテクニックを駆使しながら、表情豊かに歌うときに、バルトリの美点が最も良く表れると思う。

チョン・ミョンフンのピアノ伴奏は、ロッシーニや後半のロマンティックな曲想のものの方が、本領を発揮していたと思う。オペラ・アリアの伴奏では、指揮者らしいめりはりがきいていて、オーケストラのダイナミズムを彷彿とさせた。それに対し、バロック期のものは、ややリズムが平板に感じられた。

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2005年11月 3日 (木)

ポリーニ、ノーノ、シュトックハウゼン

ポリーニの企画によるノーノとシュトックハウゼン他のコンサートに行ってきた(11月3日、東京・初台のオペラシティー)。

最初はブーレーズの曲だった。あらかじめテープに録音されたクラリネットと生のクラリネットが二重奏をする。

しかも、スピーカーは、10本ほどあって、ステージの後ろに4本と、ステージに近い方や客席の中程、後方に二本ずつあって、テープのクラリネットは、不思議な方向から聞こえてくる、というか、聞こえる方向が動いたり、どこから聞こえてくるのかわからない感じになったりする。

理屈で考えれば、どことどこのスピーカから音を出すとか、あるいはその強弱を変えればそのような現象が起きることは想像がつくのだが、その場にいると、目の前の実演のクラリネットの音とも入り交じり、同じ音でありながら、肌合いの違う音が混在し、しかもその一方の音は方向が動くということで、妙な感覚を味わった。

いわゆるクラッシック音楽をレコードとコンサートで聴く場合よりも、はるかにこの曲では、コンサートの方が、曲の理解が十全なものとなるだろう。こういう曲は、再生も多チャンネルが望ましいだろうと思った(僕は、自分の装置は2チャンネルですが)。

次は、アルバン・ベルクのクラリネットとピアノのための4つの小品。ピアノはポリーニ。クラリネットはブーレーズの曲とともにアラン・ダミアンというアンサンブル・コンタンポランの人。二人は気前よく、アンコールで、もう一度、この四曲を演奏してくれた。聞き慣れない曲だけに、二度目のほうがずっとよくわかる。

三曲目は、シュトックハウゼンのピアノ曲VIIとピアノ曲IX。ポリーニの演奏。ピアノ曲IXはディミヌエンドする和音の連打が特徴的。シュトックハウゼンの曲は、現実を激しく切断するような強い音のかたまりがあるかと思うと、いつの間にか、宇宙の星への視線を思わせる高音の響きに収斂していく。イデアの世界を思わせる。

休憩のあとは、ノーノが二曲。

一曲目は、「苦悩に満ちながらも晴朗な波」(ピアノとCD,またはDATのための)で、スタジオ録音されたポリーニのピアノの音を加工した音がスピーカからながれ、眼前のポリーニがピアノを実演する。ブーレーズの曲と似た仕組みである。

ノーノの音楽は、激しいところはあるのだが、ブーレーズやシュトックハウゼンと較べ暖かい感じがする。音の響かせかたが、切断的でなく、音をある程度、漂わせているのだ。つまり響きを長めにとっておいて、それが消えぬうちに次の音が出ている。それがタイトルの波や、教会の鐘の音を思い起こさせる。

ノーノの二曲目は、「森は若々しく生命に満ちている」(ソプラノと3人の役者の声、クラリネット、金属板、テープのための)。これもあらかじめテープにさまざまな音、声が録音されているものがスピーカーから流れ、それと重なったり、重ならなかったりしながら、ソプラノ、3人の役者、クラリネット、金属板を金槌で叩く音が実演で聞こえてくる。

これは、歌手、および役者は、朗読とは言えないような叫び声や、息をたくさんふくんだ音声で、まるで、尺八がメロディーを奏でる時に、フルート的な音がから、息のはげしい呼吸音まで、その中間のグラデーションを聴かせてくれるが、人の声がそういった楽器のように扱われている。

だから、テクストは、カストロやイタリアの労働者、ヴェトナムのパルチザンなどの言葉から取られていることがプログラムで判明する。

この曲が作曲された1965-66年で、ベトナム戦争やアフリカ、キューバにおける民族解放戦線を意識して作ったものらしい。

ポリーニがこれを今、これを演奏するコンサートを企画するということもノーノとの友情、現代音楽を出来るだけ多くの人に知ってもらいたいという啓蒙的意図だけではなく、現在のイラクの状況に対する彼の批判的な視座があると僕は思った。

この曲も、激しく、展開がよみにくいのだが、声が主であるせいか、やはり暖かみが感じられる。悲痛さ、怒りやなにか途方もない力なども表現されてはいたと思うけれど、それが観念的というよりは、まことに人間的なのである。

現代音楽のコンサートというのは、なんとなく、現代文化において、宗教の代替物的なところがあるのかなあ、と思うことがある。僕の個人的感想です。

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