2023年8月14日 (月)

フランチェスカ・アスプロモンテのリサイタル

フランチェスカ・アスプロモンテのリサイタル《プリマドンナ》を聴いた(アンブラス城、インスブルック)。

アンブラス城は、郊外の丘の上のお城なのでシャトルバスが出る。

日本では、歌手の名前にリサイタルとつける場合が多いが、ヨーロッパではリサイタル自体に何らかのタイトルがついている場合が多いと思う。一夜のプログラムをあたかも一冊の本のように構成して目次(どういう曲を演奏するか)を構成し、本のタイトルをつけるように、リサイタル全体のタイトルをつけるのである。だから、プログラムはどういう意図があるのか、音楽史的な見取りなのか、意外な補助線を引くことによって普段見過ごされがちな作曲家、時代の一面が見えてくるというプログラムなのか。プログラムを読み解く楽しみもあるというものだ。

この《プリマドンナ》というタイトルはフランチェスカ・クッツォーニを指しているのだと思われる。この日歌われたのは、ピエル・ジュゼッペ・サンドーニとベネデット・マルチェッロであるが、サンドーニの生涯をたどっていくとクッツォーニとの接点が見えてくる。

サンドーニは1685年(1683年説もあり)にボローニャで生まれた。オルガン弾きとして作曲家として頭角をあらわしたが1716年にロンドンに渡り、ヘンデルの指揮のもとでオーケストラ団員となる。そこで有名な歌手フランチェスカ・クッツォーニと知り合い、結婚する。ロンドンの後はミュンヘンやウィーンで過ごし再びイタリアに戻る。その後、再びロンドンに渡って今度は貴族オペラの方に加わる(ポルポラが率いていた)。晩年はボローニャに戻りアカデミアの運営に関わった。

この日のプログラムは、ベネデット・マルチェッロのシンフォニアとサンドーニの歌曲および器楽曲が交互に置かれていた。前半はオケのラ・フロリディアーナもアスプロモンテも安全運転で、端正な歌いぶり、演奏ぶりだった。休憩をはさんで後半にはいって少し大胆に表情をつけたりテンポを動かしたりするようになった。

マルチェッロのシンフォニアは主題に洒落たものもあるのだが、意外な展開や意表をつく表現には乏しいと感じた。サンドーニのカンタータや器楽曲も、破綻はないのだが、創意工夫に富んだというよりは、オーソドックスなものであった。

後半の演奏中に何度か雷の音がしたが、シャトルバスに乗るまでに皆びしょ濡れになった。

 

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2023年8月12日 (土)

ヴィヴァルディ《スターバト・マーテル》

ヴィヴァルディの《スターバト・マ−テル》その他のコンサートを聴いた(イェズイット教会、インスブルック)。

音楽祭全体のプログラムには単に《スターバト・マーテル》と題されたコンサートとなっており、カルダーラとガルッピとヴィヴァルディの作品と書いてあったので、三人の《スターバト・マ−テル》を聞き比べるという企画のコンサートかと思ったらそうではなかった。当日、教会の外で販売されていたこのコンサートのプログラムには詳細が書かれている。

最初がコンチェルトRV129。この教会は残響がとても長いので、1曲を弾いているうちに楽員間の調整が進む感じだ。コンチェルト・イタリアーノだが、音楽祭でよくあるように全員がきているわけではなく、ヴァイオリン2人、ヴィオラ1人、チェロ1人、コントラバス1人、テオルボ1人と指揮兼オルガン1人だ。これで十分である。

2曲目は‘Longe mala umbrae terrores’RV640 というモテット。これは作曲年が1720−35年と書いてある通り、由来がよくわからない作品のようだ。一説には1725年頃、ピエトロ・オットボーニ卿のために書かれ、ピエタ孤児院のためではなく、カストラートに宛てて書いたのだろうという。たしかに聴いてみると超絶技巧、アジリタの連続で、その日のソプラノ、マリアンネ・ベアーテ・キーランドも音を拾いきれないというか、音楽の進行にアジリタの刻みが遅れ気味になるところが何カ所かあった。このノルウェーのソプラノ歌手は、昨年秋の新国立劇場での《ジュリオ・チェーザレ》を歌った人である。その時の指揮もこの日と同じアレッサンドリーニであった。キーランドは歌いっぷりは素直だが、声量は大きくはなく、アジリタもそれほど素早く回転するわけではない。声量に関しては、新国立とは異なり教会なのでまったく問題は無かった。

3曲目はヴィヴァルディのシンフォニアRV169 だが、'Sinfonia al Santo Sepolcro'(聖墳墓のシンフォニア)という題がついている。ヴィヴァルディの曲としては非常にセリアな性格を持ち、模倣様式で各声部が前の声部を追っていく。

次はカルダーラのモテットが2曲。‘Ego sum panis vivus’ と ‘Te decus virginem’.

どちらも指揮者のアレッサンドリーニの編纂した曲とのこと。カルダーラの曲は、この当時の作曲規範により忠実だったのだろうとおもわせるお行儀のよい曲である。カルダーラとヴィヴァルディは二人ともヴェネツィア生まれでウィーンで亡くなっている。カルダーラは宮廷副楽長として、ヴィヴァルディはほぼ野垂れ死にである。年は8つしか違わない。が、作風は随分と異なるものだ。

次はガルッピのモテット《Ave Regina coelorum》.ガルッピは彼らと30歳ほど年下にあたる。ギャラント様式がはいってきて、図式的に言えば、随分モーツァルトに近づいた感じがするのだった。

次がヴィヴァルディの Sonate al San Sepolcro で、これもセリアな曲想であった。

最後がヴィヴァルディの《スターバト・マーテル》。この曲は1712年という早い時期にブレーシャ(父の出身地)で初演された。初演の後は忘れられていたのだが、1939年にアルフレード・カゼッラの尽力により蘇演された。カルダーラの《スターバト・マ−テル》と比較するとよくわかるのだが、ヴィヴァルディの《スターバト・マーテル》は世俗の愛の歌のように感情に直接訴えかける要素が強い。スキャットのようなところもある。3曲目からはヴィヴァルディ調が全開で、他の作曲家はこんな俗っぽい、威厳を欠いた曲は書かなかったろうと思う。おそらく当時は欠点ともみなされかねない部分が今のわれわれには強く訴えかけるのだ。この曲は急いで書いたらしく伴奏が丁寧につけられていない。が、まぎれもなくヴィヴァルディならではの軽やかで、時に切々と胸に訴えかける宗教曲だ。カルダーラは最後のアーメンをアーメン、アーメンと2回繰り返しておわるが、ヴィヴァルディはどこまでもどこまでもアーメンが延びていき、しかもアジリタの連続なのだ。興味の尽きない作曲家である。

 

 

 

 

 

 

 

 

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2023年6月 4日 (日)

アレッサンドロ・スカルラッティ作曲オラトリオ《カインまたは最初の殺人》

アレッサンドロ・スカルラッティ作曲のオラトリオ《カインまたは最初の殺人》を聴いた(浦安音楽ホール コンサートホール)。

このホールは初めてだった。JR新浦安駅の駅前で、ビルの5Fでエレベータを降りると入場を待つ人がらせん状の階段に大勢並んでいた。しかし入ってしまえばゆったりと座れた。

主催はエクス・ノーヴォで、実に充実した演奏であった。指揮は、福島康晴(敬称略・以下同様)。第一ヴァイオリンかつコンサート・ミストレス的役割を果たすのが池田梨枝子(前項のIl porta fortuna のモンテヴェルディの演奏会でも彼女がヴァイオリンを担当していた)。演奏の要としてチェロの懸田貴嗣も要所、要所で大活躍。オケの構成は第1ヴァイオリンが2人、第2ヴァイオリンが2人、ヴィオラ1人、チェロ1人、コントラバス1人、テオルボ1人、チェンバロ1人の計9人であり、こういった小規模編成の場合、肝心な箇所での個人の技量は重要性を増す。しかしヴァイオリンの池田もチェロの懸田も、表情といいリズムといい実に適切で音楽的に強い共感を感じた。

素材は聖書のカインとアベルの話で、農業に従事するカインの捧げ物を神は喜ばず、牧畜業に従事するアベルの捧げ物は歓迎される。カインが激しく嫉妬してアベルを殺してしまうというあの話である。三ヶ尻正氏の解説にあるように、オラトリオはもともとは対抗宗教改革の中でフィリッポ・ネーリが創設したオラトリオ会から出てきた。オラトリオ会の信者の集会で前後にラウダと呼ばれる信仰歌が歌われていたのだが、それが複雑化してプロが歌うようになり集会の前と後でストーリーがつながる二部構成の劇音楽が生まれた。こうして17世紀後半には、前後2部構成からなる劇音楽として確立していった。ここにオペラの隆盛が重なる。季節的にオペラが上演できない時期、四旬節に、オペラの代わりにオラトリオが上演されたのである。というわけで、テーマは宗教的な題材である。レチタティーヴォとダ・カーポ・アリアで進行するという音楽的構成はオペラと同じと言ってよい。

アレッサンドロ・スカルラッティは、オペラは120曲以上、オラトリオも38曲書いてそのうち21曲が現存するという。彼の作風を三ヶ尻氏は「バロック・ヴェリズモ」と呼んでいる。心理描写の深さ、音楽の暗さを考えてのことだろうが、筆者にとっては意外な見立てである。ヴェリズモは自然主義、写実主義が極端に進んでいるわけだが、スカルラッティの扱っている題材は、聖書のエピソードであり、寓意的な要素、牧歌的な要素がリブレットにあり、彼の音楽もそれにそって表情を変化させていく。スカルラッティは、川のせせらぎを描写しても、悪魔の声のレチタティーヴォでも、それにふさわしいと感じられる音楽的表情をこれほどシンプルなオーケストレーションの中で実に見事に描きわける。第一部の後半で悪魔がカインを誘惑し、第二部でカインとアベルが表面的には楽しげな会話のあと、殺人が実行される前後まで、音楽の力に圧倒される。カインの村松、アベルの佐藤、悪魔の藪内、神の新田、アダムの山中、イヴの阿部、それぞれに素晴らしかった。指揮の福島も奇をてらうことなく、スカルラッティの音楽に内在する美点を引き出すことに注力しており、オケはそれに敏感に応えていた。

深い感銘を受ける演奏だった。演出的には最小限で、服装は背広やドレスであるが、神と死後のアベルは二階席というか上方にいて声が降ってくる位置から歌った。字幕が6行単位で、かつ字の大きさが大きいので見やすかった。字幕への入念な配慮のおかげでストーリー展開がきちんと追えると、その時、その時に音楽が表現しようとしているドラマも理解できるし、スカルラッティがその要請にいかに高いレベルで応えているかもわかるのだった。

古楽アンサンブル エクス・ノーヴォの近年の快挙、活躍は、目覚ましいものがある。

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2022年9月18日 (日)

トリオ・グラツィオーゾ演奏会

トリオ・グラツィオーゾというグループの演奏会を聴いた(シュロス教会、バイロイト)。

その名の通り三人組で、ブライアン・ベリマンのフルート、Verena Spies のチェロ、Bernward Lohr のチェンバロ。

ハッセとヨハン・クリスチャン・バッハのトリオ・ソナタもしくはフルート・ソナタがプログラム。

3人での演奏が3曲、2人の演奏が2曲、アンコールが2曲だった。ハッセは穏やかなメロディーが多く、アリオーソの楽章ではまさにアリアとして歌ってもおかしくないメロディーをフルートが吹いているのだった。

今回驚いたのは、クリスチャン・バッハの曲で、作品16の5はフルートとチェンバロの二人が演奏したが、まったくソナチネ・アルバム的なのである。楽器が、ピアノではなく、フルートとチェンバロになってはいるが、チェンバロの左手部分がドソミソ・ドソミソという感じの音型の繰り返しなのである。プログラムの解説にあるように、彼のモーツァルトへの影響(二人はロンドンで会っている、モーツァルトのロンドン滞在は1年3ヶ月にも及んでいる)は軽視すべきでないし、ヴィーン楽派全体への影響も大きいとしているがもっともなことだと感じた。

もう一つ印象的だったのは、ずっと18世紀前半のバロックの曲やオペラを聴き続けた耳で、クリスチャン・バッハの曲を聴くと実にさっぱりとして、あっけらかんとしている音楽に聞こえるということだ。ドロドロした情念が感じられず、理性で濾過された涼しげな音楽と聞こえる。ハッセの曲もオペラのように超絶技巧を駆使しないので、穏やかさが表に出ている。

オペラの場合は、専門的な訓練を積み重ねたカストラート歌手あるいは女性歌手が技巧を駆使して歌うという前提だが、フルート・ソナタの場合は、ベルリンのフリードリヒ大王のように王がフルートを吹くので彼が演奏する(出来る)ような曲を書くという前提もあったろう。

バイロイトのフリードリヒIII・フォン・ブランデンブルク・バオロイトに嫁いだヴィルヘルミーネはフリードリヒ大王の妹だった。彼女は、ベルリンと異なりバイロイトに十分な音楽文化が開花していないことが不満だった。だからハッセが1748年にバイロイトに2週間滞在して、オペラのアリアを書いてくれた際には得意げに報告している。そしてこの地でフルート・ソナタも作曲したと考えられている。

この後、1750年代のはじめにハッセは招かれてパリに赴き、ヴォルテールやルソーにも巡りあい、その名声が国際的なものとなる。フランスで12のフルート・ソナタが出版されることになるのだが、作曲されたのはパリ訪問以前のことと考えられている。当時は版権が認められていないので、楽譜業者は儲かるが、作曲家としては収入が把握しやすい劇場の活動、オペラに力を入れていたのだ。

クリスチャン・バッハは周知のようにヨハン・セバスチャン・バッハの末息子で、兄のカール・フィリップ・エマヌエルはフリードリヒ大王に仕えており、彼のもとを尋ねたこともある。クリスチャン・バッハはイタリアではオペラ作曲家として有名になったが、やがて1762年にロンドンに渡る。彼はここでコンサートのオーガナイザーとして成功し、カール・フリードリッヒ・アベルというヴィオラ・ダ・ガンバ奏者と組んで、「バッハーアベル・コンサート」がロンドンの人気音楽イベントとなったのだ。そして1760年代半ばに幼いモーツァルトがロンドンにやってきて、8歳のモーツァルトはクリスチャン・バッハとコンサートで共演した。父レオポルトも息子にクリスチャン・バッハのスタイルをまねするように促したという。そんな事情もあって、冒頭に記した筆者の感想になるわけだ。

今回のフェスティヴァルは18世紀前半が中心ではあるが、ストラデッラのように17世紀後半もあり、この演奏会のように18世紀中盤のものもあって、比較的短い間に音楽の世界観が移ろっていったことが強く感じられた。

 

 

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2022年9月17日 (土)

エマニュエル・ドゥ・ネグリのリサイタル

ソプラノ歌手エマニュエル・ドゥ・ネグリのOrpheus Britannicus と題したリサイタルを聴いた(シュロス教会、バイロイト)。タイトルはブリテンのオルフェウスという意味になろうが、それは作曲家パーセルのことなのだ。

パーセルは生年は正確には分からないが1659年頃とされ、1695年に亡くなっている。彼は生前からイギリスで大作曲家と認知されており、葬儀もウェストミンスターで厳かに営まれた。そしてこの Orpheus Britannicus という題名で、音楽業者のヘンリー・プレイフォードが動いて、1698年と1702年に2冊のアルバムが出版された。パーセルの歌曲を集めたものである。第一巻の冒頭には未亡人のフランセスがレイディー・ハワードという婦人への献辞を書いている。レイディー・ハワードは、政治家兼劇作家のロバート・ハワードの妻で、詩人ジョン・ドライデンの義兄弟だった。ジョン・ドライデンは、英文学史上では大詩人なのだが、日本ではあまり知られているとは言えないだろう。しかしパーセルとの縁は深いのだ。彼は《インドの女王》というリブレットを書いていたのだが、パーセルの死により未完に終わってしまった。

この日演奏されたパーセルの歌曲や鍵盤楽器の曲を聴くと、軽い違和感を覚える。それは同時代のヨーロッパの作曲家とは音楽語法が微妙に異なるからだ。地理的にヨーロッパ大陸から切り離されていることもあって、独自の音楽文化がイギリスでは育ったのである。だから、ドイツの宮廷と比較して、イタリアやフランスの影響がはるかに小さかったと言えるのである。そういう「自由な」状況で、パーセルは音楽語法を探求していくことができたわけだ。

大陸と違うのは、高度な技巧を求めずに、感情表出を素朴にしようという趣きが支配的な点で、この時期のイギリスはヘンデルがやってくる前で、本格的なオペラではなく、劇伴奏や仮面劇のようなセミオペラと分類されるジャンルで、劇の言葉に音楽が付されていた。今回の演奏会でもシェイクスピアの『アテネのタイモン』、シェイクスピアの『真夏の夜の夢』を翻案した『フェアリー・クイーン』、前述のハワードとドライデン共作の『インドの女王』に付された歌曲も演奏された。

(『フェアリー・クイーン』の部分、指摘を受け訂正しました)。

パーセルの歌曲は、イギリスのそれ以前の大作曲家としてテューダー朝のダウランドがいるわけだが、そのポリフォニックな要素、対位法的な要素がほとんどない。そういった事情もあって、彼は最初の歌曲作曲家と呼ばれることもあるのだ。

形式的に大陸的な要素がないので拍子抜けする面と、それゆえの軽やかさ、自由な歌曲をドゥ・ネグリとブライス・セイリ—のチェンバロでたっぷりと享受できた。

 

 

 

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アルビノーニ作曲《アウローラの誕生》

トマーゾ・アルビノーニ作曲のセレナータ《アウローラの誕生》を聴いた(辺境伯劇場、バイロイト)。

この項、プログラムのルネ・クレメンチッチの解説に負うところ大です。

バロック時代のセレナータは、カンタータの一種と言ってよく、ただしその名のとおり、夜(夕べ)に、誰かを讃える目的で演奏、演じられることが多い。舞台はアルカディアや牧歌的なところで、実際に演奏されるのは戸外、貴族の館の庭などが多く、衣装をつけて演じられることも歌われることもどちらもあったようだ。出演する登場人物は、神話的人物やニンフであるのだが、その実、現実の王侯貴族やその妻の誕生日や聖名祝日を祝う目的で作曲が委嘱され演じられたもののようだ。

《アウローラの誕生》は、エリザベス・クリスティーネ・フォン・ブルンシュヴィックーヴォルフェンビュッテルに捧げられた。彼女は皇帝カール6世の妻であり、マリア・テレジアの母である。皇帝の在ヴェネツィア大使が1711年から1717年の間にアルビノーニにセレナータの委嘱をしたようだ。舞台はギリシアのテッサリア地方のテンペの谷、そこにペネイオス川が流れ、ここはアポロ神ゆかりの聖地なのだ。

というわけで、このセレナータの登場人物はアポロと川の神ペネウス(ペネイオス)、森のニンフのダフネ、風の神ゼッフィーロ、花の女神フローラで、彼ら彼女らがあけぼのの女神アウローラの誕生日を祝うという趣向なのである。この女神アウローラが、エリザベス・クリスティーネでもあるわけだ。最後は 'Viva l'Aurora, Elisa viva!' (アウローラ万歳、エリーザ万歳)で締めくくられる。

この作品のリブレットを書いたのが誰かは不明で、自筆稿はヴィーンの国立図書館にある(MS17,738)。

演奏は、指揮がマルティーナ・パストゥスツカ、オウ・オーケストラ。

ダフネがNarea Son(ソプラノ), ゼッフィーロがデニス・オレッラーナ(カウンターテナーでより高いソプラニスタ)。フローラがソーニャ・ルニェ(メゾソプラノまたはアルト)、ペネオがステファノ・ズボンニク(テノール)、アポッロが急遽交代してニコラス・タマーニャ(カウンターテナー)。デニス・オレッラーナは当初は《インドのアレッサンドロ》のタイトル・ロールを歌うはずだったがコロナのため急遽交代となり、この日やっとバイロイト・デビューを果たした。彼はまだ21歳でとても若いが、高域に張りのある強い声が出る。Son は顔の表情や身振りが達者な感じで、経歴をみるとモーツァルトの《コシ・ファン・トゥッティ》のデスピーナなどを歌っていてなるほどと感じた次第。ソーニャ・ルニェは、フローラの歌をいかにも楽しげにのびのびと歌っていて好感を持てた。タマーニャは1日か2日でよくこの役を歌えるようになったと感心。

アルビノーニのセレナータを聴くのは初めてで、きびきびとした演奏の良さもあいまって音楽的表現の幅に感心するやら、アルビノーニ像の修正をせまられるやら。アンコールでは、タマーニャのファンダンゴの部分が歌われ、テオルボとギター(コントラバス奏者が持ち替え)が活躍。音楽的に楽しい夕べであった。

 

 

 

 

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2022年9月16日 (金)

ストラデッラ作曲《サン・ジョヴァンニ・バッティスタ》その2

ストラデッラ作曲のオラトリオ《サン・ジョヴァンニ・バッティスタ》を聴いた(シュタット教会、バイロイト)

前項の続きである。演奏について。

まずなんと言っても目立つのは、教会での残響の長さだ。そのためアジリタは聞き取りにくい。また、オケが早いテンポで突き進む場面でもチェロの早いパッセージなどは音の1音1音は聞き取りにくい。教会と言っても一括りにはできず、バイロイトの教会でオルデンス教会やシュロス教会での演奏会も経験して言えることは、天井が低い教会はさほど残響が長くないという傾向がある。天井の高さだけで決まるわけではないのは、劇場の天井の高さを考えると当然のことで、空間の形状も大いに関与する変数が複数ある方程式なのだろう。

シュタット教会は、天井が高く、残響が長い会場であった。この日もキャンドルが灯され、雰囲気は抜群。会場はほぼ満席埋まっていた。

指揮はマルケロス・クリシコス。以前に《オリンピアデ》の一風変わったCD(多くの作曲家が同一リブレットに対し曲をつけていることを利用して、それを混成してCDを編成している)を指揮していた。結構尖った指揮ぶりなのだが、前述の事情でテンポが速い部分はなかなか評価がむずかしいのだった。ジェノヴァで聴いた時には、前半と後半の間に休憩が入ったのだが、今回は休憩なしで一気に演奏がされた。全体として早めのテンポであったし、チェロが同じ音型を繰り返して、オブセッションのように聞こえるところは随分と早かった。

サン・ジョヴァンニ・バッティスタがツェンチッチ。サロメ(へロディアデ娘)がマーヤン・リヒト、サロメの母(ヘロディアデ母)がジェイク・アルディッティ、エロデ王がズレーテン・マノイロヴィッチ、助言者がステファン・ズボンニク。ツェンチッチは、教会の響きを完全に我が者としていて、音楽の表情が隈なく伝わってくる。思うに、ウィーン少年合唱団の頃からこういう教会で歌ったらこう響くということが頭に入っていてそれに合わせて歌い方を調整することが出来るのだと思う。サロメのマーヤン・リヒトは代役でヴィンチのオペラのアレッサンドロを務めてそれは立派だったが、元々このサロメ役だったのは納得がいった。教会で、残響の助けがあって、澄んだ綺麗な声を響かせるのが向いている。母親役のアルディッティはもともと出番少なく、贅沢な起用法と言えた。エロデ王のマノイロヴィッチは、力で押してくるタイプで、教会の響きとかぶり音楽の細かな表情が伝わりにくいのだった。

オーケストレーションに関して、テオルボと低弦のみの間奏部は、えも言われぬ美しさだった。テオルボのような音量の小さい楽器は、ヴァイオリンが奏でるとほとんど聞こえなくなってしまうが、音量の小さな楽器同士で、音のテクスチャーを編む瞬間には、教会のように残響が長いところが効果的だと思った。大ホールではPAなどを使わない限り、もともとの小音量が大空間に吸収されてしまう感じなのだ。

ストラデッラのオラトリオは、オラトリオというジャンルから連想するよりはるかにオペラ的劇的表情に富んでいることを再確認した。

 

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2022年9月15日 (木)

ストラデッラ作曲《サン・ジョヴァンニ・バッティスタ》(1)

アレッサンドロ・ストラデッラ作曲のオラトリオ《サン・ジョヴァンニ・バッティスタ》を聴いた(シュタット教会、バイロイト)。

当ブログでも昨年12月の記事に書いたが、筆者はこの曲をジェノヴァで聴いている。この時、サン・ジョヴァンニ・バッティスタ(洗者聖ヨハネ)の役をツェンチッチが歌うはずだったのだが、病気のため交代となった。バイロイトでツェンチッチのサン・ジョヴァンニを聴けることになったのは幸運というほかない。

前回のジェノヴァでは会場がオペラ用の劇場で、今回は教会である。当然と言えば当然であるが響きが全く違う。教会は残響が長く、早いパッセージは前の音と次の音がオーバーラップしてしまい細かなフレーズが聞き取りにくい。逆に伸びやかなフレーズは全部に力を入れずとも、残響が助けてくれる感じとなる。そのあたりをオーケストラもよく心得て、フレーズの終わりは短く詰めていた。

この曲は内容としては、大まかに言えば、リヒャルト・シュトラウスの《サロメ》と同じである。オペラではないので、舞台はないし、7つのヴェールの踊りなどはないのだが、ヘロデ王に対し、サロメ(エロディアーデの娘、聖書には名前は登場しないが日本ではオスカー・ワイルドやリヒャルト・シュトラウスのオペラや、ギュスタヴ・モローの絵によりサロメの名で知られているのでここではサロメと記す。原曲の楽譜にはサロメ母子はHerodiade la Madre , Herodiade la Figlia と記されサロメの名はない)が母にそそのかされて、サン・ジョヴァンニ・バッティスタの首をくれという。なんでもあげると言ってしまったヘロデ王は逡巡するのだが、ついにはサロメの願いを受け入れる。しかし、ヘロデは深い悔悟の念に襲われる、という話で、対話形式でアリアとレチタティーヴォが使い分けられて進行していくので、舞台がないオペラと言ってよいだろう。カンタータやセレナータも同様の性質を持っており、今回のバイロイト・バロック・フェスティヴァルでは2つのオペラ(1つは舞台装置つき、もう1つは演奏会形式)を中心に、周りにカンタータやオラトリオ、セレナータを配置してその親近性、類似性がごく自然に理解、体感できるように構成されているのだと言えよう。

さてここからはプログラムに記されたこと(この項は珍しく筆者の名Elizabeth Sasso-Fruthが記されている)を中心に記す。

この曲が作曲されたのは、Venerabile Compagnia della Pieta' della Natione Fiorentina が作曲家に委嘱したのだとある。委嘱した団体は同信会であるが、日本で言えば県人会のようなもので、フィレンツェ生まれの人が集まる集団である。そこが洗者聖ヨハネの曲を委嘱するのは理解しやすい。フィレンツェの守護聖人が首を切られた聖ヨハネであるからだ。1675年の聖年のために依頼した。

作曲家アレッサンドロ・ストラデッラ(1639-1682, この人は、女性関係で何度も揉めていて、ジェノヴァで刺殺された)とリブレッティスタのアンサルド・アンサルディ(1651-1719)は、新約聖書聖書にさほど厳密には従っていない。マルコ福音書とマタイ福音書にこのエピソードは書かれているのは周知の通り。このオラトリオにはヘロデ王の助言者(大臣?)が出てくるが聖書にはいない。サロメに名がなかったのも前述の通り。

アンサルディはフィレンツェやローマでいくつかのアカデミアに加入しており、時流の好みを理解していたからこそ、聖書から逸脱しているのだと言えよう。例えば冒頭でヨハネ(サン・ジョヴァンニ・バッティスタ)が「親しい森よ、さらば」と歌うのだが、これはルネサンスからバロック時代に流行した牧歌文学、牧歌劇を踏まえたものだ。都市よりも田舎での素朴な生活こそが理想と歌われるのである。しかし聖書によれば、ヨハネはヘロデ王の宮廷に行く前は荒野にいたのだ。前述のように王の助言者・大臣も聖書には登場しない。

オラトリオの性質上、ダンスの場面はない。

当時の教皇国家では女性歌手の存在が否定されていたので、それにならってこの日の演奏も全員男性歌手(サロメ母子はカウンターテナー歌手)によって歌われた。

 

 

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2022年9月14日 (水)

寺神戸亮ディナーコンサート

ヴァイオリニストの寺神戸亮(敬称略、以下同様)のディナーコンサートを聴いた(エレミタージュ宮、バイロイト)

去年もエレミタージュでのディナーコンサートはあったが、今年は行きにバスで行ってみたのだが、案の定、道に迷って苦労した。帰りはタクシーを呼んでもらった。近所のバス停のバスは19時台までで帰りの時間にはない。タクシーでの往復がオススメです(バスや地理に強い方はその限りではありませんが)。

ここはオランジェリー、温室だったところでディナーが出される。その後、ほんの少し移動(隣の建物という感じ)して礼拝堂のようなところでコンサートがある。

寺神戸亮のヴァイオリン、上村かおりのヴィオラ・ダ・ガンバ、ファビオ・ボニッゾーニのチェンバロで、アルカンジェロ・コレッリの作品5のソナタが披露された。3曲、作品5の1番、5番、12番で、12番は有名なフォリアの旋律とその23の変奏曲である。

寺神戸の名人芸が発揮され、会場も熱い拍手に包まれたが、上村のヴィオラ・ダ・ガンバも見事なものだった。ただし、ボノンチーニなどと比較すると、そもそも作曲の時点で、通奏低音に大胆なあるいは強い主張が与えられている部分は少ないように思えた。

オランジェリーの建物は派手な色のロココで、庭に噴水がある。早めに行って散歩をしてみるのも悪くはないだろう。

 

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2022年9月13日 (火)

ソーニャ・ルニェ・リサイタル

アルト歌手ソーニャ・ルニェのリサイタルを聴いた(バイロイト、シュロス教会)。会場は電気による照明はなく、全て蝋燭による灯り(譜面台のところだけは例外)。Tempimagephs3tr

プログラムは全てボノンチーニ。ソロ・カンタータの間にトリオ・ソナタやディヴェルティメントといった器楽曲がはさまれている。

バイロイトのバロック・オペラ・フェスティバルは全体で一冊のプログラムがあり、オペラは対訳のリブレットが付き、演奏者の紹介があり、楽曲についての解説もある。この日の演目についてもカンタータ全般とボノンチーニについての解説が(ドイツ語と英語で)あるので、かいつまんで紹介しよう。

カンタータと言えばブクステフーデやテレマン、そして誰よりバッハと連想が結びつくが、実は長い歴史があるために簡単な定義はしにくい。カンタータは1630年代のイタリアで発達し、室内楽プラス声という感じで作られた。

ジャンルとしては1620年にアレッサンドロ・グランディの曲集に言及があったという。ジョヴァンニ・ピエトロ・ベルティやモンテヴェルディは、Cantata a' voce sola (単声のカンタータ)と記していた。元々、室内楽的な需要を受けて作曲されたので、1人か2人の歌手プラス通奏低音、せいぜいそれに加えてヴァイオリン1丁という形が多かった。

バッハのようなフルオーケストラ、合唱付きというのはすぐれてドイツ・プロテスタント的現象とのこと。

イタリアでは1830年代に至るまで、カンタータは小規模の室内楽であり続けた。

17世紀末から18世紀初頭にかけて、カンタータは、レチタティーヴォ+アリアという形式が固まった。世俗カンタータでは、独唱のことも対話形式を取ることもある。カンタータがよく作られたのは、ヴェネツィア、フェッラーラ、ボローニャ、ナポリそしてローマである。ローマでは有力家系のオットボーニ家、ボルゲーゼ家、パンフィーリ家などがパトロンになって、カリッシミやチェスティ、ストラデッラやヘンデルにカンタータを作曲するよう注文したのだ。

ジョヴァンニ・ボノンチーニはソロ・カンタータの傑作を作っている。彼はボローニャで教育を受け、後にヴィーンの宮廷詩人となる台本作家のシルヴィオ・スタンピリアと知り合った。

ボノンチーニとスタンピリアの協力関係は何年も続いた。ヴィーンでも一緒の時期があるのだ。スタンピリアは牧歌で有名だった。文明に冒されていないのどかな田園を理想化して書いたのである。もちろん牧歌は古代からある文学ジャンルの1つでもあるわけだが。ボノンチーニはこういう伝統的形式に自然で伸びやかさ、自発的感情をのせつつ、メロディーや和声に創意工夫を凝らして独創性を発揮した。

フランチェスコ・ガスパリーニは1708年の著作でボノンチーニのカンタータを、特に装飾的なバス・ラインの創造性を指摘しつつ、激賞している。

彼のカンタータはそれまでカンタータの伝統の乏しかったパリでも愛好された。

ボノンチーニのカンタータのほとんどは消失したと考えられているが、彼がイギリスにいた時に、イギリス王ジョージ1世にカンタータ集を献呈していてそれが残っている。このカンタータ集には14作が収められているが、王のために作ったというわけではなく、すでにヨーロッパで作られたものを集めたものらしい。

当日のプログラム

前半

'Misero pastorello'

室内トリオ・ソナタ・ニ長調第3番

’Gia la stagion d'Amore'

ソナタ・イ短調

’Lasciami un sol momento'  

後半

ディヴェルティメント 作品8

’O mesta tortorella`

室内ソナタ ホ長調第一番

’Siedi, Amarilli mia'

前半も後半も、最終曲’Lasciami un sol momento' と'Siedim Amarilli mia' が最もドラマティックな表情、アジリタを含む高度な技巧を要求する曲であった。が、その他の曲も、解説にあったように、チェロのラインが特徴的でメロディーとの対比で曲が立体的に動いていくのだった。伴奏の楽器はチェロ、リュート、チェンバロが基本で曲によってコントラバスが入ったり、1人または2人のヴァイオリンが入った。これだけで、実に多様な響きが展開されるし、抒情的な表情から劇的な表情まで自在に描き分けられるのは、ボノンチーニの作曲家としての技量が高いからだし、歌い手のソーニャ・ルニェの歌唱、Hofkapelle Munchenのチェリスト、Pavel Serbinの音楽性、技巧が相まってのことである。

改めてボノンチーニの曲をもっと聴いてみたくなる一夜だったが、この音楽祭ではオオトリにボノンチーニのオペラ《グリゼルダ》が控えており大いに楽しみである。

 

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