2025年2月 1日 (土)

ツァグロゼク指揮のシューマンと モーツァルト

ローター・ツァグロゼク指揮の読売日本交響楽団のコンサートを聴いた(東京オペラシティ、コンサートホール)。

曲目は、前半がシューマンの《マンフレッド》序曲と交響曲4番ニ短調で、後半がモーツァルトの交響曲第41番《ジュピター》。

ツァグロゼクはドイツ・オーストリア音楽で定評がある巨匠とのことなのだが、ぼくは初めて聴く。彼のブルックナーは大人気だそうだが、ここ20年ほど、バロックオペラに入れ込んでいて、ロマン派近辺のコンサートや指揮者にうとくなっている。

というわけで、ツァグロゼクに関しては白紙の状態でのぞんだのだが、ぼくにとっては意外な発見であった。《マンフレッド》序曲は、聞き込んだ記憶がなく、しかしながらところどころいかにもシューマンらしい節回しと思われるものが出てくる。ツァグロゼク+読響では、思いのほか、シューマンのオーケストレーションが豊かに響く。交響曲4番は、大昔にCDで聞き込んだ覚えがあるのだが、オケの音はもっと暗く、こんなにリッチな響きではなかった。おそらくモノラルの古い録音のせいもあったろうし、オケの音色もシューマンでは独特の陰影をもった響きをかなでていたのだろう。今日のコンサートでは、より明るくて、内部から充実した響きのオーケストラが聞こえてきた。しかもシューマンらしい屈曲したメロディや鬱屈した思いも伝わってくる。ツァグロゼクの指揮では、クレッシェンドやアッチェレランドが実に内発的かつ自然だ。ひさびさにドイツらしいドイツ音楽を聴いた思いがする。彼の指揮のブルックナーが人気というのも想像がつく。

休憩をはさんで後半のモーツァルトは、読響がピリオド奏法を駆使して、モダン楽器の豊かな響きとピリオド奏法の歯切れのよさを巧みに融合させたスタイリッシュなジュピターであった。特別客演コンサート・マスターの日下紗矢子のフレージングは優雅かつ歯切れがよく、ノンヴィヴラートで、フレーズの切れが良い。彼女がフレーズを奏で、切断するさまがヴァイオリンを奏でる姿と音楽的に一致していて観ていても美しいのだった。読響は、メンバーの中に気持ちよさそうに弾いたり、吹いたりしている人の割合が高く、こちらまでうれしくなる。

知人Kさんの好意に甘えて、ツァグロゼクとほんの数分話を聞かせてもらったのだが、彼は《マンフレッド》序曲がめったに演奏されないが、充実した曲であることと、この曲の革命とのつながり(初演は1848年である)を強調しておられた。めったに演奏されず埋もれてはいるが、もっと認識されて良い曲なのだと言う点に関しては、今回実際に聞いてみて納得がいった。

会場はほぼ埋まっていた。オペラの時と比べると、男女比が男の比率が高いように思った。

 

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2024年9月10日 (火)

クリストフ・ルセのランチ・コンサート

ルセのランチ・コンサートを聴いた(エルミタージュ、バイロイト)。

バイロイトのはずれに離宮があって、そこでのランチ・コンサート。実はディナー・コンサートもある。

ルセもオペラ、カンタータ、独奏と3日連続でご苦労様である。

この離宮でのランチ・コンサートは毎年開催されている。離宮のカーブした長い回廊(ウィング)で食事をし、その後、礼拝堂に移ってミニコンサートがある。

演奏者は数人のこともあれば、今回のように一人(チェンバロ独奏)のこともある。

ルセのプログラムは、クープラン(1668−1733)、ラモー(1683−1764)、Antoine Forqueray (1672-1745) でフランス・バロックを短い時間だが堪能した。

クープラン、ラモーはともかく、Forqueray は初めてだったが、彼の音楽は二人に比べて、少し優美さ、華麗さを落とし、むしろドイツ的というかオスティナートで押してきたりして異なる味わいがあり、たいへん面白かった。ほぼ同世代で、埋もれた作曲家の中に未来を予見させる要素があったのかもしれない。今、wikiを調べてみると、彼の音楽は激しい表現の衝動から「悪魔のフォルクレ」と言われたという。なるほど。ひたすらにエレガンスを追求するという意図は本人にそもそもなかったということなのだろう。

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2024年9月 9日 (月)

サンドリーヌ・ピオのリサイタル

フランスのソプラノ歌手サンドリーヌ・ピオのリサイタルを聴いた(バイロイト、オルデン教会)。

オルデン教会はバイロイトのややはずれにある。18世紀にはこの裏手に大きな池というか湖が広がっていて、バイロイトの領主は船を浮かべて模擬戦争をやったという。今は埋め立てられてその池・湖はない。

カンタータがメインなのでプログラムを参照しつつカンタータについての整理を。

筆者自身も数年前までカンタータといえばバッハの宗教カンタータが思い浮かぶ状態だったので、それはある意味で極端なパースペクティヴだということが最近は実感できている。

カンタータは大まかにいえば1630年代くらいにイタリアで出てきた。初期のカンタータは、歌の旋律と通奏低音だけが記されている楽譜も多いそうで、貴族の館などで演奏されることが多かった。せいぜいそこに一丁か二丁のヴァイオリンが加わる程度だった。

バッハのようなフルオーケストラのカンタータ(宗教カンタータ)はドイツのプロテスタンティズムに特有の現象なのである。

イタリアでは、貴族の当主やその妻の誕生日や聖名祝日、子供の結婚など、お祝いに際してカンタータを作って祝うというジャンルであった。18世紀に入る頃から、レチタティーヴォとアリアの連なる曲であるという形式が固まってきた。カンタータの生産地としては、ヴェネツィア、フェッラーラ、ボローニャ、ナポリそしてローマが挙げられる。

ローマの名家、オットボーニ、ボルゲーゼ、パンフィリなどは、カリッシミ、チェスティ、ストラデッラ、ヘンデルらにカンタータを書かせてきたのだ。とりわけ、ローマでは、時の教皇がオペラ上演を禁ずることがあったので、世俗カンタータが栄えた。要するに小型のオペラ、ミニチュア版オペラとしてもてはやされたのだ。

1699年シャルル・アンリ・ド・ロレーヌがミラノに入城する。この人ロレーヌ公国の貴族なのだが、スペイン・ハプスブルク家に軍人として仕えていた。1701年にスペイン継承戦争が起こるので、このあたりのヨーロッパの領主は単に世代交代だけでなく、入れ替わりや移動が激しく、またそれに音楽家も間接的な影響を受けていることが多々ある。シャルル・アンリは、音楽家として、ミシェル・ピニョレ・ド・モンテクレールを連れてきた。結論からいえばミシェル・ピニョレはこのミラノ滞在により、イタリア風カンタータの影響を受け、オケにコントラバスを持ち込むことになった。リュリとラモーの間の人である。ただし、1706年にジャン・バティスト・モランのカンタータ集が出版されている。

モンテクレールは1667年生まれで、1686年にパリに出てきた。ミラノ滞在を経て1702年か03年にはパリに戻ったのだが、作曲家としては遅咲きだった。彼の書いたカンタータの一つが当日演奏された《ルクレツィアの死》である。

続いて演奏されたのはコレッリのコンチェルト・グロッソ第一番。

ドメニコ・スカルラッティの 《Tinte a note di sangue》

アレッサンドロ・スカルラッティの4声のソナタ。

ヘンデルの 《Agrippina condotta a morire》

世俗カンタータの本場イタリアを中心にしつつ、フランスのカンタータ(ただし歌詞はイタリア語)、作曲されたのはスペインのD.スカルラッティのカンタータとよく考えられたプログラムである。

オケは、クリストフ・ルセ指揮のレ・タラン・リリック。このオケは2024年はバイロイト・バロック・フェスティヴァルのレジデンス・オーケストラなのである。

サンドリーヌ・ピオの歌唱は文句なく素晴らしかった。ここで演奏されたカンタータはどれも生きる、死ぬ、別れなど激しい主題なのだが、彼女は一声で音楽に緊張感が走るのだ。決して大声をあげるわけではない。ピアノでもフォルテでも必要なテンションが音楽に表出するのだ。しかも情熱的になったときに、様式感が崩れないのが素晴らしい。フレーズのおさまりがきれいなのだ。古楽器の演奏がフレーズをパッと切り上げるのと平仄が合う。迸るパッションとカント・バロッコの様式感は両立するのである。勢いにまかせて歌ってしまうところは皆無であり、アジリタもきれいだった。

アンコールはヘンデルのオペラ《ジュリオ・チェーザレ》から 'Se pieta di me non senti'  ともう一曲(詳細は不明)ヘンデルだった。

ちなみに会場のオルデン教会は、沢山の蝋燭が灯されていて独特の雰囲気だった。蝋燭型の電球ではなく、本物の蝋燭である。2台テレビカメラが入っていたので、後日なんらかの形でネットでも見られるようになるかもしれない。

 

 

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2024年9月 7日 (土)

ルシル・リシャルドのリサイタル《バロックの魔女たち》

ルシル・リシャルドのリサイタルを聴いた(バイロイト、シュロス教会)。シュロス教会は、位置的には辺境伯劇場の真向かいで、階段をのぼった少し高いところにある。

リサイタルのタイトルは Baroque magicians でバロックの魔術師たちが直訳となる。

チェンバロ伴奏は Jean-Luc Ho.

プロフラムは3つの部分からなり

メデ(メデア)に関するものが、ヘンデル、カヴァッリ、Juan Cabanilles (1644-1712), シャルパンティエのオペラから。

アルミードに関するものが、リュリとダングルベールから。

チルチェ(キルケ)に関するものが、William Webb (1625-1680) , パーセル、クープラン、Francois Collin de Blamont (1690-1760)からという具合。

音楽祭のプログラムは、既知の有名作曲家とあまり知られていない作曲家が組み合わせられることが多い。今回もその例に漏れない。この方法だと聴く側は、既知のものを基準に、未知の曲をそれなりに位置づけることが可能だし、それによって自分の音楽世界の地平を広げることができる。未知の作曲家、楽曲に出会うのも楽しいものであるし、またそこから有名な作曲家が時代を超えて残った理由もほの見えることもある。

ここからはプログラムの Judith Altmann の解説を参照しつつ。

オペラに出てくる魔女はなかなか面白い存在で、一方で人間を超えた力を発揮しつつ、他方で、人間同様に恋に落ちてそれゆえに苦しんだりもがいたり、その恋の感情に飲み込まれてしまったりする。

バロック時代の劇場には宙づりや、奈落があって、天上世界や地獄を舞台上に現出させることができたのだ。前述の通り、魔女には多面性があるので、歌手としても歌いがいがあるというものだ。

バロック時代の悲劇的主人公として筆頭に上がる一人が王の娘で、魔女でもあるメデアである。彼女の悲劇はエウリピデスやセネカにまで遡るが、中世にもさまざまなヴァリエーションが生まれた。

最初に挙げられるのは、カヴァッリ作曲の《イル・ジャゾーネ(イアソン)》で、1649年にヴェネツィア初演。黄金の羊毛を探しに行くジャゾーネが、メデアの故郷に上陸し恋に落ちる。メデアの力を借りて羊毛を獲得したジャゾーネは、メデアと元々の婚約者イシフィレの間で葛藤する。しかし何故かハッピーエンドで終わる。カヴァッリのオペラの中ではメデアが地獄の霊を召喚する場面がある。

シャルパンティエの音楽悲劇《メデー》は、トマ・コルネイユのリブレットで1693年パリのパレ・ロワイヤルで初演。カヴァッリの作品と比較するとより後の時点の話となっていて、ジャゾーネとメデーは結婚し、子供が数人いる。二人はコリント王クレオンの庇護下で暮らしている。ところがジャゾーネはクレオンの娘を好きになってしまい、メデーを追放する。彼女は第三幕で自分の悲劇的運命をアリア'Quel prix de mon amour'で歌う。その後、凶行に及ぶのだ。クレオンを狂気に追いやり、その娘を殺し、自分の子供たちも殺してしまう。ヘンデルも《テゼオ》でこの題材を扱っている。1713年ロンドンのクイーンズシアター初演。第二幕の 'Dolce riposo'が有名。

それとは対照的に魔女アルミーダの話は、古代から伝わったものではなく1575ねんに書かれた騎士物語タッソー作『解放されたエルサレム』

から来ている。エルサレムを征服しようという十字軍の騎士が途中で魔女の魅惑に屈してしまう話だ。アルミーダはキリスト教徒の勇者たちを動物に変えてしまうが、自分もリナルドという勇者に恋してしまう。リナルドが解放されてついにアルミーダはキリスト教に改宗する。これを音楽化した最初の一つがリュリの《アルミード》である。1686年、パレ・ロワイヤルで初演。二幕のアルミードのモノローグ’Enfin, il est en ma puissance' で恋の虜になった苦しみを表現する。この曲は人気が出たので、ダングルベールはこれを用いてチェンバロ組曲を作った。

チルチェ(キルケ)ですらも、愛の呪縛から自由になることはできなかった。孤島に住み野獣に囲まれ、人が近づくと魔術をかけるのだが、彼女も恋に落ちた。オデュッセウスが通りかかった時のことだ。オデュッセウスは故郷のイタカに帰るのだが、チルチェは留まり嘆く。William Webbやパーセルは彼女の誘惑する力を描いている。

リシャルドの歌唱は思ったほどバロック歌唱ではなく、実際、プログラムを見ると彼女のレパートリーは中世から現代までということで、プーランクやストラヴィンスキ、ブリテンなどともにヘンデルも歌っている人なのだった。音楽が盛り上がってくるとロマンティックな歌い方になり、どの時代のものも歌うヴァーサタイルなスタイルなのだと納得。

 

 

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ブルーノ・デ・サのリサイタル その2

リサイタルの追加情報。

ブルーノ・デ・サが歌う歌と歌の間に器楽曲が演奏されたことは前項で記した。

その曲は、もともとオルリンスキーのリサイタルの時に演奏されるはずの曲だったのではないか、という示唆をある人よりうけ、なるほどと思い、以下にオルリンスキーのプログラムに掲載されている器楽曲を紹介する。イル・ポモドーロにしてみれば、歌は歌手の都合で変わるけれども準備してあった器楽曲を変更しなければならないとは考えなかったであろうからだ。

ちなみにオルリンスキーが歌うはずだった曲は、モンテヴェルディ、カッチーニ、フレスコバルディ、バルバラ・ストロッツィ、カヴァッリ、ジョヴァンニ・チェーザレ・ネッティ、アントニオ・サルトリオなどで17世紀中心のプログラムである。

器楽曲として掲載されているのは Biagio Marini (1594-1663) パッサカリオ、Johan Caspar von Kerll(1627-1693) の2丁のヴァイオリンのためのソナタ、パッラヴィチーノ(1630−1688)シンフォニア である。17世紀の曲ですね。前半でたぶんマリーニのパッサカリオが演奏されたのだと思うが、随分、思索的な対位法を駆使した曲だという印象があったが、ヘンデルとヴィヴァルディにはさまれて実は17世紀の器楽曲が流れていた(可能性が濃厚な)わけだ。

当初のオルリンスキーのプログラムでは歌も器楽も17世紀だったのに対し、ブルーノ・デ・サのコンサートでは結果的に18世紀の歌と17世紀の器楽曲が対比的に演奏されることになったわけだが、個人的には味わいが変わるので、不思議な感じにつつまれると同時に大いに楽しめた。

 

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2024年9月 2日 (月)

コンサート《ヘンデルとグレーバー》その3

コンサートで演奏された作曲家たちの背景の続きです。プログラムの Franz Grail の解説を参照しています。

1685年にゴットフリート・フィンガーは、イングランドのジェイムズ2世の礼拝堂の音楽家となった。しかしその3年後、ジェイムズ2世はいわゆる「名誉革命」で王位を失い、フィンガーはその地位を失う。が、すぐに独立した音楽家として、イギリスの音楽シーンで地位を得る。作品2を例外として、彼の初期の作品は室内器楽曲から構成されているが、それらはアムステルダムの出版社が出版している。ロンドンでは、フィンガーは人気のあったセミオペラや音楽劇的ショーに貢献した。1701年か1702年に彼はシュレージエンのカール・フィリップにヴァイオリニストとして雇われることになった。

ヤーコブ・グレーバーは出自も、生年月日も、音楽的教育をどう受けたかも知られていない。しかしおそらくイタリアで教育を受けたらしい。ロンドンには1703年にやってきて、おそらくトスカナの歌手フランチェスカ・マルガリータ・デ・レピーネと一緒だった。フィンガーと入れ替わりである。1705年に牧歌的オペラ《Gli amori d'Ergasto》が上演されたが大失敗。おそらくは歌手が悪かった。グレーバーはロンドンを去り、Brieg にいたカール・フィリップに雇われ、やがてインスブルックに行く。グレーバーの愛人フランチェスカ・マルガリータ・デ・レピーネはロンドンに留まり、別のドイツ人音楽家ベルリン生まれのヨハン・クリストフ・ペプシュと結婚した。彼の方がはるかに作曲家として成功した。何と言っても《乞食オペラ》の共作者として有名だろう。しかしそれだけでなく、彼は多作で、イギリスの音楽学の始祖でもある。 Academy of Ancient Music および Madrigal Society の共同創設者で、 'early music (古楽)’を創始した。当時は最新のものが最善と考えられていた時代であったにもかかわらずである。

グレーバーやフィンガーと同様、ペプシュの音楽にもフランスやイタリアの音楽様式が入り込んでいる。3者ともバロックの管楽器リコーダ、フルート、オーボエを愛好した。3者とも様式的には似ていて、それはヘンデルがローマのルスポリ侯のために書いた1708年の作品にも共通するものだ。

室内カンタータは煮詰められたオペラのようなもので、劇的な小さなシーンの中でバロックの情念的言葉で表現される。結局4人の作曲者とも、よく旅をし、コスモポリタンで、様々な国のスタイルを知り、それを融合させた。ただしヘンデルが最も普遍的で創意工夫に富んだ作曲家であった。彼の演奏は途絶えることがなかったが、グレーバーやフィンガーは雇い主とともにマンハイムやハイデルベルグにそれぞれ移動し、忘れ去られてしまったし、作品も多くが消失した。それが今日じょじょにヨーロッパのあちこちで発掘されているところである。

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2024年8月30日 (金)

コンサート「ヘンデルとグレーバー」その1 (演奏評)

「ヘンデルとグレーバー」と題するコンサートを聴いた(アンブラス城、スペイン広間、インスブルック)。

ソプラノのシルヴィア・フリガート(敬称略、以下同様)とメゾの Mathilde Ortscheidt とAkademie fur Alte Musik Berlin によるコンサートである。

シルヴィア・フリガートは2021年にストラデッラの《サン・ジョヴァンニ・バッティスタ》(洗礼者聖ヨハネ)でエロディア—デ娘(サロメに相当)役で聴いた。シャープな感性で、音程、表情を緻密に、正確に演奏する人である。

上記の演奏会のことは、コンサートの後で偶然思い出した。友杉誠志が facebook で《サン・ジョヴァンニ・バッティスタ》の録音開始というアナウンスをしていたのだ。上記のジェノヴァでの演奏の際も、ヘロデ王を友杉が迫力ある声で演じ、最後にヘロデ王とエロディアーデの二重唱で締めくくったのだが、その音楽的緊迫感は独特のもので、ストラデッラという作曲家が心に刻み込まれる経験であった。この録音にも大いに期待したい。

この日のコンサートでも、シルヴィア・フリガートは、発声も音程も、表情づけも緻密に作り上げていくのに対し、Mathilde Ortscheidtの方は、よりリラックスしてのびのびしている反面、音程はところどころ自由にというか緩いのだった。彼女はメゾなのだが、高い音を出すのが苦しいというのではなく、より低い音でふらついてしまうのだった。それは彼女がヘンデルのオペラ《アリアンナ》でタウリデを演じていた時にも感じたことだった。容姿にめぐまれ、背も高く、舞台での存在感やのびのびと歌う感じはとても声質もふくめ魅力的なので惜しい。

オケの Akademie fur Alte Musik Berilin (ベルリン古楽アカデミー)は、この日はヴァイオリン2人、チェロ1人、リコーダ2人、チェンバロ1人であったが、コンサートマスター(女性)が技巧も音楽的リードも素晴らしく圧倒される思いであったが、通奏低音ではチェロ(女性)が実にリズム感よくいつも音楽を生き生きさせており、楽員同士の音楽的呼吸があっており気持ちがよかった。さらに、リコーダはいくつかの曲で目が回るような超絶技巧、よくあれほど早く指がまわるものだというフレーズが延々と続く曲があり、それをこともなげに吹く若者(男性、日本人なのか韓国人なのか中国人なのか東洋系)がいて、フセックやオーベルリンガーを想起した。彼もまた、技巧的でありながら、歌心を失うことがなく、まわりもそれをよくサポートしているのだった。

この日のプログラムおよびプログラム解説は、かなり凝ったものだったので次項で。

 

 

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コンサート「ヘンデルとグレーバー」その2(プログラムについて)

この日のコンサートで扱われた作曲家は、

Johann Christoph Pepusch (1667-1752) の2本の縦笛、2丁のヴァイオリンと通奏低音のためのコンチェルト(ca. 1717/18)

Jacob Greber (1673-1731) のソプラノのためのカンタータ《Filli, tra il gelo e 'l foco》

Gottfried Finger (1660-1730) の2本の縦笛、2丁のヴァイオリンと通奏低音のためのソナタIII ト短調(1698)

再び Greber でソプラノとアルトのためのカンタータ《Quando lungi e' il mio Fileno》

ここで休憩

Greber のアルトのためのカンタータ《Tu parti idoo mio》

Pepusch の 2本の縦笛、2丁のヴァイオリンと通奏低音のためのコンチェルト(1717/18)

G.F. Handel (1685−1759)のソプラノ、アルトのためのカンタータ《Il duello amoroso (《Amarilli vezzoza》》HWV82

というものであった。アンコールはヘンデルの《ジュリオ・チェーザレ》からの二重唱。

以下、プログラムのFranz Grati の解説とネットで検索した情報を記していきます。

ペプシュは、ベルリンで1667年に生まれた。そこで教育をうけ14歳で宮廷に職を得たのだが、ある事件をきっかけにアムステルダムに職を辞してアムステルダムに行き、1704年にロンドンに居をかまえる。

Filli (Phyllis) や Clori , Fileno (Chloris, Philenus) , Amarilli (Amaryllis) , Daliso というのは神話から借用されて、牧歌の詩および劇で用いられる名前で、ルネサンスやバロックの時代の音楽によく出てくる。カンタータも小さな音楽劇なので、この日のコンサートでもこれらの名前が出てきたわけである。

1709年から1710年へと年が変わる頃、ヘンデルは推薦状をもってインスブルックに到着した。推薦状をもっていった相手は当時インスブルックを統治していたプファルツ・ノイブルク公のカール・フィリップだった。貴族にありがちだが、この人の名前は重要な地位につくにつれて呼び名が変わる。最終的にはカール3世フィリップ(プファルツ選帝侯)(1661−1742)ということになる。選帝侯になるのは兄が死去した1716年からである。

推薦状を書いたのはフェルディナンド・デ・メディチ。カール・フィリップとは親戚にあたる。この人はゆくゆくはトスカーナ大公になるはずの人だったが親より先に死去してしまい大公にはならなかったが、当時、ヨーロッパの音楽シーンをリードするパトロンの一人であった。

ヘンデルはイタリアで数年を過ごし、成功をおさめ、北に向かうところだった。インスブルックも就職先の候補の一つだったろう。しかしカール・フィリップ公の援助の申し出をヘンデルは丁重に断っていることが、公からフェルディナンドへの手紙でわかる。

カール・フィリップは音楽への愛を公にしていたし、大規模ですぐれたオーケストラを有していた。兄の選帝侯ヨハン・ヴィルヘルムより地位は下であったが、その宮廷を洗練させることにたけていた。

カール・フィリップの統治下(1707−17)で、公はインスブルックをバロック音楽の中心の一つにした。公がシュレージエン(シレジア)の Brieg を統治していた際にも、2人の優秀な音楽家を採用している。どちらもロンドンからドイツに帰ってきたのだった。ヤーコブ・グレーバーを宮廷楽長に、ゴットフリート・フィンガーをコンサートマスターにした。

カール・フィリップがインスブルックに居を移してからも、グレーバーとフィンガーは公にしたがってインスブルックにやってきた。1708年にグレーバーはインスブルックの帝室宮廷音楽(この地位は1666年からある)の責任者となった。公は二つのオーケストラを一緒に働かせることもあり、珍しく大規模なオーケストラを保持していたことになる。カール・フィリップの二番目の妻テレーザ・カタリーナ・ルボミルスカは音楽への情熱を夫と共有していたし、最初の結婚から生まれた娘エリザベート・アウグスタ・ゾフィーも共有していた。毎週のように音楽の催しがあり、そこで公女も歌ったり、バレエを踊ったりした。

賓客はオペラを饗された。アレッサンドロ・スカルラッティのオペラ《ティグラーネ》は、ナポリでの初演後わずか数ヶ月の後にインスブルックで上演されている。フランチェスコ・フェオの《L'amor tirannnico, ossia la Zenobia》はインスブルックでは《Radamisto》と改題されて上演された。しかし通常は、宮廷指揮者のグレーバーが祝宴の作曲もまかされた。器楽の部分(序曲、バレエ)は、コンサートマスターのフィンガーに委ねられた。

フィンガーはモラヴィア出身で、おそらく、リヒテンシュタイン公の夏の離宮クロムリッツで音楽教育を受けたらしい。

 

 

 

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2024年8月25日 (日)

中世の『カルミナ・ブラーナ』

『カルミナ・ブラーナ』の演奏会を聴いた(アンブラス城スペインの間、インスブルック)。演奏はTeatrum instrumentorumという団体。珍しい中世の楽器と歌による演奏。

ただし、カール・オルフの『カルミナ・ブラーナ』ではない。まったくこれまでに聴いたことのない新しい音楽であった。

当日の演奏とオルフの関係を少し説明しておこう。例によってプログラムの解説(Danilo Prefumo, Christian Moritz-Bauer, Aleksander Sasha Karlic) と演奏会一時間前のレクチャーでAlexander Sasha Karlic が語ったことに基づいている。

1803年に、名前のついていない写本が発見された。13世紀前半のもので、オーバーバイエルン(バイエルン州南部)のベネディクト会の修道院で見出された。写本には、ラテン語、中世ドイツ語、フランス語で約250の詩がかかれており、いくつかのものには音楽がついていた。当時、修道院は世俗化されていたものが多く、写本の見出された修道院もそうであったので、写本は王立中央図書館(現在のバイエルン州立図書館)に運ばれた。そこで、ミュンヘンの司書ヨハン・アンドレアス・シュメラーによって研究され、最終的に1847年に出版された。シュメラーが『カルミナ・ブラーナ』という名をつけた。

長い間、この写本は、中世音楽や中世文学の愛好家・研究者にのみ知られていた。しかしそれが大きく変化したのは、ドイツの作曲家カール・オルフが1935/36年に25編を選んで曲をつけた時からだ。こちらは世界中で人気を博した。その際にオルフはテキスト(言葉)は、写本のテクストを採用したのだが、曲は写本とはまったく関係なく、それを再構成することもなく、まったく新しい音楽を付したのだった。彼独自の音楽である。この写本の存在が注目されるようになったのはオルフのおかげと言ってよい。今日では、この写本は、中世ヨーロッパの音楽と文学を伝承するもっとも貴重な証言と考えられている。

もともとの写本が作られたのは、発見されたベネディクト会の修道院ではなくて、ティロルかケルンテン(オーストリア南部)と考えられている。書かれた作品は11世紀末から13世紀前半に及ぶ。ヨーロッパの様々な地域からもたらされたと考えられる。フランスの北部および南部、カタロニア、イングランド、スコットランド、イタリア、ドイツ語圏。作品のほとんどは世俗的作品で、ほとんどがラテン語で書かれている。

『カルミナ・ブラーナ』写本の一部には楽譜がついているのだが、当時の楽譜なので、それを解読するのは至難の技だ。たどれるのは、シンプルなメロディの動きのみであり、一つ一つの音の長さやリズムは示していないのである。しかしながら、いくつかの曲は、同時代の他の写本に含まれている。とりわけノートルダムやサン・マルシャル(南フランスのリモージュにあった修道院)の写本と突き合わせることで研究が進んでいった。しかし『カルミナ・ブラーナ』の現代の奏者は、歴史的、文献学的なアプローチで、曲を再構成する必要がある。

演奏団体主催者のKarlic の言うところによると、その再構成の際や、そもそもどんな発声法で歌っていたのかを考える際に参考になるのは、スペイン南部、イタリア南部、バルカン半島の一部に古くから伝承されている歌の歌い方だという。ほとんどは近代化とともに消失してしまったのだが、一部にそういった歌が歌い継がれているのである。そこでは、往々にして、二つおよびより沢山の複数の曲が、一つの曲として歌われることがあるとして、当夜の演奏会でも一曲を独立して演奏するのもあれば、複数の曲をあたかも一曲のように聞かせる演奏もあった。

楽器もこの音楽祭で見慣れているバロック××ではなく、バグパイプのようなもの、チターのような音のするリュートともギターともつかない楽器、あるいは口に糸をたててビヨン、ビヨンと音を出すもの、右手で取っ手を回転させて左手をつかってメロディを奏でるギローネ、素朴な笛の数々など中世の楽器はこんなものであったかと目に新しかった。 Karlic の話では、中世ヨーロッパの楽器は8割以上が中東由来のものとのことで、当夜聴いた響きも、かなりアラブ風の響きだった。

音楽としては同じ旋律を繰り返しながら、少しずれていったり、伴奏の楽器が変化をつけたりすることが多い。内容は、まれには宗教的なものもあるのだが、たいていは世俗的で、酔っ払いの歌などもある。歌うのは女性二人が中心だったが、複数の男性も時おり参加し、男性ソロになることもあった。そのあたりは、裁量の範囲なのかもしれない。

これが中世の音楽だったのかと印象的だった。ここから理屈っぽいポリフォニーの世界までの距離は大きいように思う。13世紀前半がこうだとすると、1265年、13世紀後半に生まれたダンテが聴いた音楽もそう遠くはなかったはずだ。特にフィレンツェから追放されて放浪中に地方でたまたま聴いた音楽は。ダンテについては、筆者がたまたま浮かんだ連想でプログラム解説とは無関係である。

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2024年8月24日 (土)

バッハ・カンタータ

バッハ・カンタータと題したコンサートを聴いた(インスブルック、シュティフツ教会)。

バッハのコラール・カンタータ四曲を集めたコンサート。演奏は鈴木雅明指揮バッハ・コレギウム・ジャパン(敬称略以下同様)。

独唱者は、ソプラノが Carlyn Sampson (ドイツ語の発音とビブラートがやや気になった)。アルトはカウンターテノールの Alexander Chance. テノールは Benjamin Bruns. バスは Christian Immler. 

練り上げられた真摯な演奏に、会場からも拍手は鳴り止まなかった。

この演奏会の背景について少し書く。例によってプログラムの解説(Bernhard Achhorner) とバッハ・コレギウム・ジャパンのホームページの鈴木雅明の解説に依拠しています。

2024年はバッハのコラールカンタータにとって特別な年なのだ。ルターによる宗教改革が始まったのが1517年、そこから7年経過した1524年に最初のプロテスタントの賛美歌集が出版された。だからそこから数えると今年は500周年。

しかしそれだけではない。1724年のバッハにも注目しよう。この当時、賛美歌集出版から200周年だったわけだ。それを記念してライプツィヒに前年に赴任したバッハに、コラールをもとにしたカンタータを作ってみたらといったのがアンドレアス・ステューベルという人で、この人は聖トマス教会の学校の副校長だった。それと前述の賛美歌集出版200周年を記念する意味もあって、バッハは賛美歌、コラールをもとにしたカンタータを作った。

そこから300年たった2024年にバッハ・コレギウム・ジャパンはコラール・カンタータを全部演奏するという企画を立てたのだが、それと並行してヨーロッパ各地でコラール・カンタータの演奏会のツアーをしていて、その最終地がインスブルックだったらしい。ヨーロッパ各地での演奏会では無論、いくつかのコラール・カンタータを選んで演奏したわけで、インスブルックでは4つのカンタータであった。

内容は、1.BWV20 「おお永遠よ、雷の如くとどろく言葉よ」、2.BWV94「なぜ私は世界について問うのか」、3.BWV93「ただ愛する神にのみ支配をさせる人は」、4.BWV78 「イエス、汝、我が魂を」である。アンコールは、四番目のカンタータのコラールを歌った。

最近バロック・オペラを聴いている身からすると、宗教カンタータもつくづく世俗カンタータひいてはバロックおぺらと同じ構成をしていることに気づく。コラールカンタータでは最初と最後にコラールを合唱が歌う点が異なってはいるが。それ以外のところではテノールなり、アルトなり、ソプラノ、バスが出てきてレチタティーヴォとアリアがあるわけで、これはオペラと同じい。バロック・オペラやイタリアの世俗カンタータと比較すると、バッハの宗教カンタータは歌手のアジリタはおとなしい、地味、歌手によってはほとんどないということが一見してわかる。これはこの時代、自分の曲を歌う歌手はほぼわかっていてその人の音域、アジリタ等に関する技量がわかって書いているためだろう。歌手によっては音域が狭く、狭い音域をいったり来たりしている場合があるのだが、これもおそらくバッハが想定している歌手の音域が狭かったためだろう。

バッハは自分が鍵盤楽器の名手だったため、オルガンやチェンバロ曲では、思いの限り超絶技巧を開陳し、華やかな技巧的フレーズ、早いパッセージも惜しげ無く披露している。それに対し、宗教カンタータでは、そういう傾向はみられない。ソプラノが登場しても、コロラトゥーラはほぼないのだ。ヘンデルやポルポラといった作曲家がオペラを書く場合には、少年時から徹底的な訓練を積んだカストラート歌手や技量の優れた女性歌手を起用することが前提とされているため、音域もはるかに広く、アジリタ、即ち敏捷な動き、装飾的な動きも場面に応じて書いたし、それが見事に演奏されたことと考えられる。

バッハの生涯をひもとけば、歌劇場のあるところに就職活動もしているのだがもろもろの事情でうまくいっていない。ライプツィヒでさえ、テレマンが蹴ったり、他の作曲家が元の雇い主が手放さなかったためにようやくバッハにまわってきた具合だ。今から考えれば信じがたいことだが、同時代の評価は決して高くはなかったのだ。だからライプツィヒのカントールに甘んじなければならなかったわけで、彼にオペラを書く機会があれば、と思わずにはいられない。しかし与えられた環境で充実した宗教カンタータを次々に作曲したバッハは、別の意味で立派だとも思う。

さて、宗教カンタータとオペラの類似点に気がつくと、字幕がないのがさみしく感じるのであった。教会は照明を落とさないので、客席のオーストリア人はプログラムに掲載されたドイツ語の歌詞を見ることができるのだが、ドイツ語が不自由な人間には英語字幕でもあれば、あるいはプログラムの歌詞が対訳になっていればと思った。インスブルック古楽音楽祭のホームページにはバッハのカンタータを演奏するとのみ書かれていて何番かは判らなかったので予習は不可能だったからだ。

バッハ・コレギウム・ジャパンの日本での演奏会の予定をみると何番を演奏するかは、あらかじめ掲載されているので上記の問題は解消されるだろう。

もう一点、宗教的なことについて。

会場は、シュティフツ教会なのだが、外はそれほどでもないのだが、中が極めて壮麗な装飾に満ちている。聖母が描かれた壁画があちこちにあり主祭壇も宙にうく聖母に鳩の聖霊から光りがさしている。そしてその祭壇画の上に箱のようなものがあって、箱の奥、突き当たりに彫像にイエス像が鎮座している。イエス像の前には金色の並木道?のように木が並んでいる。このイエス像の前の並木道は、今まで見たことのない図像なので、どういう図像学的な意味があるのか、ご教示いただけると大変ありがたいです。

ともかく、すこぶるカトリック的、聖母マリア崇敬に満ちた教会で、ルター派バッハのカンタータが演奏されるのは、エクメニカルな観点からは非常に好ましいことだろうと思う。

まったく個人的な関心なのだが、同じ演奏が、たとえばドイツのプロテスタントが主流の都市と、カトリックが主流の都市と、オーストリアのカトリックが主流な都市では、聴衆の受け止め方に変化があるのかどうかが知りたかった。つまりコラール、賛美歌にどれくらい接しているかが、相当異なると思われるからだ。それによって、聴衆の反応に違いはあるのか、どうか。熱量のようなものにどれくらい違いがあるのかが知りたいと思った。それはバッハ・コレギウム・ジャパンの人々だけが知ることなのだろう。

素晴らしい音楽会を日本の音楽団体による演奏で聴けたことは、率直に嬉しいことだった。

 

 

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