2017年2月15日 (水)

アンサンブル・レ・フィギュール「愛のかけら」

アンサンブル・レ・フィギュールという古楽アンサンブルのコンサート「愛のかけら」を聞いた(東京・初台、オペラシティ内の近江楽堂)。

近江楽堂というのは、初台のオペラシティの3Fにある小さなホールで、丸天井で、天井には十字の切れ込みがあり、さらには、アルコーブには舟越保武氏のマグダラのマリア像があり、明らかに礼拝堂などをイメージした作りである。座席120ほどでこじんまりとしており、演奏者と観客が親密な空間を共有できる。
アンサンブル・レ・フィギュールは、バロック・ヴァイオリン、ヴィオラ・ダ・ガンバ、チェンバロ、フラウト・トラヴェルソの4名の古楽器(ピリオド楽器)奏者からなり、この日は、フランス人カウンターテナーのポール=アントワーヌ・ベノス・ディアンが加わり、フランスのカンタータを歌った。
なぜフランスのプログラムかという点については、アンサンブル・レ・フィギュールの面々が日本出身だがパリ在住で大半がフランスで学んだ経験をもつということもあるのだろう。
曲目は第一部が
N.ベルニエ 序曲 カンタータ「夜明け」より
M.ランベール 宮廷歌曲「優しく誠実ないとしい人」(いとしい人というのが女羊飼い、という牧歌の伝統を踏まえている)
N.ベルニエ 「アマントとリュクリーヌ」
休憩10分を挟んで
第二部は
L.クープラン 前奏曲ト調
M. ランベール 宮廷歌曲「私の瞳よ、どれほどの涙を流したのだろう」
L.N.クレランボー ソナタ ラ・フェリシテ
L..N.クレランボー「ピュラモスとティスベ」
クープランなどは、チェンバロの独奏だったりするが、主となるのは、カウンターテナーが出てくるカンタータである。
ベノス・ディアンの声、発声は実に自然で、引っかかるところが感じられないし、表情づけ、音楽的なアクセントも完成度が高い。ヴァイオリンやフラウト・トラヴェルソも弾むむところはは弾み、リズム、音色ともに音楽的楽しさを享受できた。ヴィオラ・ダ・ガンバは、小ぶりのチェロという感じだが、脚の間に挟み楽器が床についていない。また、弓の持ち方が下からもつ感じで異なっている。もっと多人数の中では別として、この日は奏者は4人だったので、これがヴィオラ・ダ・ガンバで、その音色(案外低い音が響くーもしかするとホールのせいでもあるかもしれないが)がはっきりと認識できて興味深かった。通奏低音を担当することが多いが、対位法的な受け渡しで、ヴァイオリンやフラウト・トラヴェルソと同じ旋律を軽やかに弾くこともあるのだった。チェンバロは楽器がkubota 2006 と書かれたもので、京都でのコンサートで使用された楽器(ネットで拝見)とは異なるようだった。
個人的には、クープラン以外、これまで馴染みのない作曲家だったが、ベルニエもランベールも17世紀、18世紀の音楽であり、ヘンデルやヴィヴァルディ、あるいはそれ以前の作曲家と共通の音楽語法を持っており、親しみを感じた。バロック音楽の領域の広大さを感じたし、 プログラムに対訳で歌詞が掲載されていたのは大いに役にたった。
また、楽曲の演奏前にフラウトの石橋氏が簡潔な解説をしてくれたのもとても良かった。
この演奏会の存在を知らせてくれた知人に感謝。
この日、配布されたチラシを見て、今更ながら驚いたが、バロックや古楽器のコンサートは東京圏に限っても随分多いのだ。個人的には、ごく簡単な装置のセミステージで良いのででバロックオペラがもっと上演されるようになったらなあ、と思う。フランス・バロックで言えば、できれば、バロック式のバレエが伴えば言うことなしであるが。。。
それはともかく、この日のコンサート、素敵でした。           

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2006年3月28日 (火)

チェチーリア・バルトリのリサイタル

チェチーリア・バルトリのリサイタルを聴いた(東京オペラシティ・コンサートホール、3月27日)。

バルトリの歌、有名かつ優秀な指揮者のチョン・ミョンフンがピアノ伴奏である。ただし、筆者としては、この二人のリサイタルを「チェチーリア・バルトリ&チョン・ミョンフン デュオ・リサイタル」と名付けるのはいかがかと思う。チョン・ミョンフンがピアノで独奏曲を弾くことはなく、伴奏者に徹しているのである。私は、チョン・ミョンフンが独奏曲を弾かないのが不満なのではない。伴奏者に徹しているのだから、これはチェチーリア・バルトリのリサイタルに、あの有名な指揮者のチョン・ミョンフンが伴奏をしている!という驚きがあれば十分で、それをデュオ・リサイタルとしてプロモートするのは、いささか羊頭狗肉のおそれがあるのではないかと思うのである。

さて、バルトリの歌は、驚くべき高度な技巧を惜しげもなく披露するもので、圧倒された。

プログラムは前半が、スカルラッティ(1曲)、グルック(1曲)、パイジェッロ(1曲)、モーツァルト(3曲)、ベートーヴェン(1曲)、シューベルト(2曲)、ロッシーニの歌劇『チェネレントラ』から〈私は苦しみと涙のために生まれ〉。

バロックからヴィーン古典派、ロマン派への流れを歌曲でたどり、締めくくりにロッシーニのオペラで華やかにしめるというよく考えられたプログラム。しかも、モーツァルトやベートーヴェン、シューベルトも通俗名曲は1つもなく、新たなレパートリーを聴衆に提供する意欲に満ちあふれている。それはポリーニのようなピアニスト、アッバードのような指揮者にも通じることだが、商業主義に流されない強い知性を感じさせるイタリアの超一流の芸術家に共通する性質なのである(イタリアの音楽家にも、そうでない音楽家もたくさんいる)。

後半は、ビゼー(3曲)、ベッリーニ(3曲)、ロッシーニ(4曲)で、ややロマンティックな曲想のものとなる。

バルトリは、技巧と古典的な様式をしっかりと確保した上で、歌詞を考えたフレージング、表情づけをしていく極めてバランス感覚のすぐれた演奏を聴かせる。しかも高度な、時に超絶的な技巧は決して破綻することがない。

しかも声の音色が高い方から、低い方までトーンがそろっている。ここまで完成度の高い歌手は、ほんとうに稀であろう。

筆者は個人的には、ロッシーニで装飾音符が、快適なテンポにもかかわらず、少しも省略されずにメロディーに飾り付けられていくのだが、それがどこまでも続く息の長さ、音楽的持続に、息をのむ思いであった。

アンコールは、まず、モーツァルトの『フィガロ』からケルビーノのアリア〈恋とはどんなものかしら〉。完璧。モーツァルトの様式感と、ケルビーノの哀切な心情とのバランスが、これほどとれている演奏を聴いたことがない。つまり、ヴェルディなどを歌いなれている歌手はたいていの場合、あまりにもロマンティックに歌いたがるのである(シミオナートのようにモーツァルトやロッシーニを歌わせても、最高の演奏をする歌手もいますが、これは例外的別格)。

次は、ロッシーニの『セビリア』のロジーナのアリア〈今の歌声は〉。これも、文句なく素晴らしい。会場も総立ちであった。バルトリも、観客の熱い拍手に、感じるところがあったように見えた。

3曲目はデ・クルティスの〈忘れな草〉であった。これも悪くはないのだが、こういうどっぷりとロマンティックな曲よりも、古典的な様式の中に踏みとどまりつつ、様々なテクニックを駆使しながら、表情豊かに歌うときに、バルトリの美点が最も良く表れると思う。

チョン・ミョンフンのピアノ伴奏は、ロッシーニや後半のロマンティックな曲想のものの方が、本領を発揮していたと思う。オペラ・アリアの伴奏では、指揮者らしいめりはりがきいていて、オーケストラのダイナミズムを彷彿とさせた。それに対し、バロック期のものは、ややリズムが平板に感じられた。

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2005年11月 3日 (木)

ポリーニ、ノーノ、シュトックハウゼン

ポリーニの企画によるノーノとシュトックハウゼン他のコンサートに行ってきた(11月3日、東京・初台のオペラシティー)。

最初はブーレーズの曲だった。あらかじめテープに録音されたクラリネットと生のクラリネットが二重奏をする。

しかも、スピーカーは、10本ほどあって、ステージの後ろに4本と、ステージに近い方や客席の中程、後方に二本ずつあって、テープのクラリネットは、不思議な方向から聞こえてくる、というか、聞こえる方向が動いたり、どこから聞こえてくるのかわからない感じになったりする。

理屈で考えれば、どことどこのスピーカから音を出すとか、あるいはその強弱を変えればそのような現象が起きることは想像がつくのだが、その場にいると、目の前の実演のクラリネットの音とも入り交じり、同じ音でありながら、肌合いの違う音が混在し、しかもその一方の音は方向が動くということで、妙な感覚を味わった。

いわゆるクラッシック音楽をレコードとコンサートで聴く場合よりも、はるかにこの曲では、コンサートの方が、曲の理解が十全なものとなるだろう。こういう曲は、再生も多チャンネルが望ましいだろうと思った(僕は、自分の装置は2チャンネルですが)。

次は、アルバン・ベルクのクラリネットとピアノのための4つの小品。ピアノはポリーニ。クラリネットはブーレーズの曲とともにアラン・ダミアンというアンサンブル・コンタンポランの人。二人は気前よく、アンコールで、もう一度、この四曲を演奏してくれた。聞き慣れない曲だけに、二度目のほうがずっとよくわかる。

三曲目は、シュトックハウゼンのピアノ曲VIIとピアノ曲IX。ポリーニの演奏。ピアノ曲IXはディミヌエンドする和音の連打が特徴的。シュトックハウゼンの曲は、現実を激しく切断するような強い音のかたまりがあるかと思うと、いつの間にか、宇宙の星への視線を思わせる高音の響きに収斂していく。イデアの世界を思わせる。

休憩のあとは、ノーノが二曲。

一曲目は、「苦悩に満ちながらも晴朗な波」(ピアノとCD,またはDATのための)で、スタジオ録音されたポリーニのピアノの音を加工した音がスピーカからながれ、眼前のポリーニがピアノを実演する。ブーレーズの曲と似た仕組みである。

ノーノの音楽は、激しいところはあるのだが、ブーレーズやシュトックハウゼンと較べ暖かい感じがする。音の響かせかたが、切断的でなく、音をある程度、漂わせているのだ。つまり響きを長めにとっておいて、それが消えぬうちに次の音が出ている。それがタイトルの波や、教会の鐘の音を思い起こさせる。

ノーノの二曲目は、「森は若々しく生命に満ちている」(ソプラノと3人の役者の声、クラリネット、金属板、テープのための)。これもあらかじめテープにさまざまな音、声が録音されているものがスピーカーから流れ、それと重なったり、重ならなかったりしながら、ソプラノ、3人の役者、クラリネット、金属板を金槌で叩く音が実演で聞こえてくる。

これは、歌手、および役者は、朗読とは言えないような叫び声や、息をたくさんふくんだ音声で、まるで、尺八がメロディーを奏でる時に、フルート的な音がから、息のはげしい呼吸音まで、その中間のグラデーションを聴かせてくれるが、人の声がそういった楽器のように扱われている。

だから、テクストは、カストロやイタリアの労働者、ヴェトナムのパルチザンなどの言葉から取られていることがプログラムで判明する。

この曲が作曲された1965-66年で、ベトナム戦争やアフリカ、キューバにおける民族解放戦線を意識して作ったものらしい。

ポリーニがこれを今、これを演奏するコンサートを企画するということもノーノとの友情、現代音楽を出来るだけ多くの人に知ってもらいたいという啓蒙的意図だけではなく、現在のイラクの状況に対する彼の批判的な視座があると僕は思った。

この曲も、激しく、展開がよみにくいのだが、声が主であるせいか、やはり暖かみが感じられる。悲痛さ、怒りやなにか途方もない力なども表現されてはいたと思うけれど、それが観念的というよりは、まことに人間的なのである。

現代音楽のコンサートというのは、なんとなく、現代文化において、宗教の代替物的なところがあるのかなあ、と思うことがある。僕の個人的感想です。

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