シエナのパリオ、セルヴァ勝つ
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8月のパリオはチヴェッタが勝ち、ノンナを脱した(8月17日、La Nazione).
チヴェッタ地区の勝利は1979年7月以来30年ぶり。
シエナには17の地区があり、一年に2回(特別な記念の年などは3回)パリオがあるのだから、単純計算で8年半に1度は勝てる計算になる。しかし、実際は、30年あるいは40年以上勝てないコントラーダ(地区)が少なからず出現するのである。勝っていない期間が最も長い地区がノンナ(おばあさん)と呼ばれる。今回のチヴェッタの勝利により、ノンナはルーパに移った。
今回勝った騎手はアンドレア・マリ、通称ブリオ。馬はイストリチェッドゥ。モッサ(スタート)は70分以上かかり、暗闇が訪れかけたその時にやっと有効なスタートが成立し、その瞬間チヴェッタが飛び出し、途中アクィラ(地区の馬)に詰められる場面もあったが、順位はそのままゴールした。
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この上もなく特殊な理由で見たので、一般の映画ファン、ましてや007のファンには意味のない、とんちんかんな感想となることをお断りします。
この映画を見たのは、冒頭にシエナが登場するからだ。いや、厳密に言えば、最初は、イタリアとおぼしきところだが、海または湖のほとりがうつり、カーチェイスとなる。シエナは内陸地なので、これはシエナではない。
カーチェイスの果てに、車の片方の扉がとれてしまった状態で、ボンドの自動車はシエナの城壁の中に入る。
そこでは秘密組織のメンバーの拷問からはじまって、ボンドは、シエナの中世の町並みの屋根の上、パリオの最中のカンポ広場、さらには地下水道での逃走劇が繰り広げられる。これは、自動車ではなく、ボンドと敵がすさまじい闘いを繰り広げながら、走り回るのである。
シエナという古都を舞台にしながら、画面は実にめまぐるしくカットが変わり、アクション全開である。ここはモンタージュの技法をたっぷりと駆使している。
筆者はアクション映画を見慣れていないので、画面的には驚きの連続であった。シエナが現れるのは、数分だろう。
その数分のために、人為的にパリオを再現し、シエナの町中にクレーン車を入れて撮影したのは、予算の潤沢な映画ならではの醍醐味である。パリオは、本当のパリオの時は、カメラが設置できるところはきわめて限られるので、わざわざカンポ広場に特殊な土を運びいれ(それは本番のパリオと同じ)、撮影したのである。
映画全体は、前作の続編とのことで、最初のうちストーリーがよく判らなかった。前作で殺されてしまったある女性の復讐が一つのテーマであり、秘密組織がエコロジーの活動を隠れ蓑に、南米のボリビアで利権を獲得しようとしている、その組織との闘いがもう一つのテーマ。
アクションは、自動車あり、ボートあり、飛行機ありで、特撮はすごいなあとしかいいようがない。
町としては、シエナの他に、ロンドンも出てくる。あとは南米。
前述のように、アクション映画としての評価は僕にはくだすことが出来ない。ただ、アクションがメインで、ストーリーは非常に断片的にしか語られない映画だと言うことはできると思う。
イタリア映画の俳優ジャン・カルロ・ジャンニーニが、ボンドの旧友マティスとして登場している。これもちょっとした嬉しい驚きだった。
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シエナのコントラーダ、パンテーラのカピターノ(パリオの最高責任者)アンドレア・モーリ=ポメッティが辞任した(9月12日、コリエーレ・ディ・シエナ)。
モーリ=ポメッティは、火曜日のパンテーラの総会で辞任した。
パンテーラの基本法(statuto) の規定により、プリオーレが、協議、諮問をし、総会を招集して、新たなカピターノを選ぶ。
プリオーレのフランコ・ペーピは10月中に次のカピターノを決めたいとしている。
モーリ=ポメッティは、2003年からカピターノをつとめ、2006年にはライヴァルのコントラーダ、アクィラをゴール寸前で抜き去りパリオでの優勝を飾った。カピターノとして最高の瞬間は2006年の勝利であり、もっともつらかったのは、今年の8月13日(辞任騒動があった)であるとしている。
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シエナのコントラーダ、パンテーラ(豹)とキオッチョラ(カタツムリ)の間に緊張関係が生じている(8月31日、コッリエーレ・ディ・シエナ)。
パンテーラ地区では、8月31日から一週間が、守護聖人を記念する祭り(Festa titolare) である。パンテーラ地区の守護聖人はサン・ジョヴァンニ・バッティスタ(首を切られた聖ヨハネ)である。
プリオーレ(町内会長)によって新たにコントラダイオーロ(コントラーダのメンバー)になる人は洗礼を受ける(カトリックの洗礼とは別)。今年、洗礼を受けるのは36人。
パンテーラ地区は、金曜日に特別総会が開かれたが出席者は多かった。
パンテーラとキオッチョラはもともとは同盟関係にあり、友好的な間柄のコントラーダである。プリオーレ(町内会長)のフランコ・ペーピはいきさつについては詳しく語らない方が良いとしている。
パリオの間および後で、キオッチョラとの小論争があった。パンテーラ側は、キオッチョラの幹部に説明をもとめた。が、十分な説明が得られなかった。そこで、総会が招集された。
守護聖人のお祭りの時は、時代衣装をまとい、コントラーダの旗をもった行列が練り歩くのだが、その時に同盟関係のコントラーダには挨拶のため行進がその本部におもむくのであるが、今回は、キオッチョラの本部には、緊張を避けるためおもむかないことに決定した。
この決定は今年だけのものであり、この問題に関しては冬になって、時間をおいて落ち着いて考えようとキオッチョラの幹部によびかけた、とプリオーレは語る。パンテーラ側としては、同盟関係を危機に陥れたくはないとの考えだ。
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戦後体制は変わったが、戦争中のポデスタ(ファシスト体制下での任命制の市長)ソチーニ・グェルフィは報復や復讐を受けることもなかった(コッリエーレ・ディ・シエナ、8月19日)。
彼は戦後、仕事に没頭した。彼は1945年ブルーコ地区のカピターノ兼レットーレ(rettore, 町内会長だが、他の地区はpriore という)となった。つまり、ブルーコというコントラーダ(地区)のパリオの最高責任者であり、通常の町内会長を兼任したのである。町内会長は1946年から1974年までつとめた。
1951年から1956年にも再びカピターノとなり10度のパリオを走り、1度優勝を勝ち取った。1955年7月2日のパリオで33年振りの歴史的勝利を飾ったのである。馬はSturla,騎手はチャンコーネ。彼は亡くなるまでブルーコの名誉町内会長であった。
しかしパリオで彼が歴史に残るのは、ポデスタ(市長)として、1940年6月18日に「戦争による特別状況」のためパリオの中止を命令したことである。
彼はまた、シエナの商工会議所の会長でもあった。またシエナのロータリー・クラブの創設者でもあり、1970-71年会長をつとめた。いくつかの著作もあり、その1つは Uomini e Contrade di Siena. Memoria e vita di unatradizione cittadina という本に収められている。
1976年に、シエナ市の栄誉賞である Magia d'oro を授与されている。
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シエナ最後のポデスタ(ファシズム期の任命制の市長)ルイージ・ソチーニ・グェルフィの生涯の事績の続きである(コッリエーレ・ディ・シエナ、8月19日)。
第二次大戦中、シエナは大きな不安の中で過ごしていた。結果的には、いくつかの例外的な事件を除いては、大きな被害を被らずに過ごせた。
この幸運の立役者は3人いる。大司教マリオ・トッカベッリ。県知事ジョルジョ・アルベルト・キウルコ、そして市長ルイジ・ソチーニ・グェルフィである。
県知事キウルコは、ポデスタの合意のもとに、シエナを《Citta’Ospedaliera》(病院都市)とし、歴史的中心街区が英米軍から爆撃されることを回避したのである。
そしてその後の内戦の時期、シエナにとってもイタリアにとっても暗く悲しい時期であったが、彼はシエナの人々に呼びかけた。信心深い彼は、ドゥオーモの誓願の聖母への行進を組織し、誓願の聖母にシエナ市の鍵をゆだね、テ・デウム(神の賛歌)を歌った。1944年6月18日のことであった。大勢の人が行進に参加した。この事実はドゥオーモ脇のプレートに刻まれている。
また、ソチーニ・グェルフィは、キウルコ県知事の保証を得たうえで、Guardia civica armata (武装市民警護隊)を組織した。これは全く、非ファシスト的組織で、レリオ・バルバルッリ将軍にその指揮がゆだねられた。
1944年7月3日、シエナに連合軍が入城した時、ルイージ・ソチーニ・グェルフィはパラッツォ・コムナーレの机にすわっていた。彼はすでに町に進軍中のフランス軍をコムーネに迎えいれることを拒絶し、パラッツォの大門を閉じて、黒シャツ(ファシストのシンボル)を着て、鍵を連合軍の司令官に渡した。この振る舞いは、彼自身によって何度も思い起こされたが、ファシズムとその理想への忠誠を示したのだとしている。
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パリオに関するエピソードをいくつか紹介する(ラ・ナツィオーネ、8月15日)。
長いパリオの歴史では、まれにではあるが、ゴールが接戦で、現在であれば写真判定が必要になる僅差のことがあった。
1713年8月のパリオでは、タルトゥーカ(亀)とオンダ(波)地区の馬が接戦を演じた。
このパリオは、この当時の習慣にしたがい前のパリオで勝ったコントラーダ(地区)が主催し、即ち、キオッチョラ(カタツムリ)地区が主催したパリオであった。また、現在とは異なり、14のコントラーダが参加していた。
最初にゴールに達したのはオンダの馬と騎手だったが、そこで止まってしまい、判定者のパルコ(Palco dei Giudici, 写真)までこなかった。一方、タルトゥーカの馬はオンダを抜き去った。
すぐに二つのコントラーダの間で、勝利をめぐって争いが起こった。問題を解決するのを待って、パリオ旗はどちらにもわたされず、プロヴェンツァーノ教会へ運ばれた。
子細が検討された結果、その時から、勝った馬は必ず、判定者のパルコの前を通過せねばならぬことが決定された。
この時は、パリオから約1ヶ月後、正確には、9月10日に、例外的に、パリオ旗は、賞金(当時の金で40ターレル)とともに、タルトゥーカとオンダで折半することになった。両コントラーダはそのパリオ旗を、サン・ジュゼッペ教会に寄付することとした。
その翌年1714年のパリオでは、7月2日のパリオではタルトゥーカが勝ち、8月16日のパリオではオンダが勝った。
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パリオの情報は、時々刻々と流れるが、その主なものを紹介する。
まず、新聞では、トスカーナを中心とした全国紙である La Nazione. そして、シエナの地元紙である Corriere di Siena. この二つは、日刊紙としてはパリオに関して、他の追随を許さない存在である。
つぎにテレビ。テレビでは、普段はトスカーナの話題を取り上げているが、パリオが近づくとパリオ専門のテレビ局と化す Canale 3 と Canale Civico Siena(CCS)、および Siena TV がある。
そのうち、Canale 3 は、パリオ中継をはじめて今年が30周年という老舗で、最もシエナ人に見られている。ちなみに、パリオの当日の催しはRAIでも中継される。通常はRAI2で、中継されるのだが、2008年8月は、オリンピックの開催期間と重なっており、Rai 2 は、オリンピック中継でふさがっているため、Rai 1で中継放送がなされた。Rai での中継は、全国放送であり、パリオのことをよく知らない人も対象とした放送であることは言うまでもない。
それに対し、Canale3やCCSでは、過去のパリオの映像や、インタビュー、引退した騎手をまじえた座談会などが放送されるし、プローヴァやパリオの映像は何十回、何百回と流される。
しかし、もっとも熱い情報は、コントラーダ(地区)で、つまりコントラダイオーリ(コントラーダのメンバー)の間で交わされている。
前述の映像や文字情報を通じて、どの馬が強い、どの騎手が優秀であるといった評価がコントラダイオーリの間に形成されていくが、さらにコントラーダ同士の、カピターノ間の連携、敵対、騎手同士のある種の人間関係などが、語られる。
その中で、自分のコントラーダの馬、騎手への期待(および敵対するコントラーダが勝たないようにとの願い)が高まっていくのである。
パリオをめぐる情報としては、パリオが終わってしばらくすると、写真集のような雑誌やヴィデオも発行される。
それとは別に、パリオ一般やコントラーダの歴史を論じたものは、シエナのどこの書店にいっても数十冊のレベルで入手できるし、いわゆるパリオ関連の本は数百冊のレベルなのか数千冊のレベルなのかは、想像もつかない。シエナでは、毎年、新たなパリオ本が複数、出版されているのである。
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