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2026年8月 9日 (日)

《黄金の林檎》歌手その他

チェスティのオペラ《黄金の林檎》を観たが歌手について記しておこう。
プログラムに名前があがっている順に紹介する。

まず、Sophie Rennert (メゾソプラノ)オーストリアの栄光とジュノーネ。

ここで説明しておくと、ほとんどの歌手が一人二役か三役を演じている。とくに最初の場面プロローグが各国の代表(本来はハプスブルク家の支配地域であったと思われるが、今回は世界各地)がミス・イタリアとかミス・ポルトガルという形で出てきて妍を競うのであるが(前に述べたように、女装する男子も多数いる)その中の一人が別格でオーストリアの栄光(gloria austriaca)というアレゴリカルな存在である。本編が始まると彼女はジュノーネで、つまりジョーヴェ(ジュピター)の妻であり妹である。彼女は、背が高く、立ち居振る舞いも堂々としていてジュノーネにぴったりだった。声もメゾで落ち着いており、ジュノーネらしい品格が感じられた。それでいて後半になると、他の女神とのライバル関係で私情や鬱憤を爆発させる場面も演じきっており、黄金の林檎をジョーヴェにおねだりする(ジョーヴェの娘パッラデ=アテネ女神と競う)場面ではコミカルなお色気も発揮していて楽しかった。前に述べたように、あくまでジュノーネのお色気なので、羽目をはずさず、品位を保っていることが望ましいわけだが、今回の演出ではそこのバランスが巧みに取られていたし、歌手たちの演技も過不足のない黄金の中庸をいくものであったと称賛したい。

次が Jone Martinez (ソプラノ)ミス・スペインとヴェネレ(ヴィーナス)。彼女はかなり出ずっぱりで舞台にいる時間、歌っている時間が長い。というのも、パリデ(パリス)に対し絶世の美女を餌に自分が女神の中で一番美しいという審判をくだして黄金の林檎をヴェネレが得ることになるからだ。女神たちは、後のヘンデルやヴィヴァルディのようにではないが、ところどころでアジリタ、動きの速いパッセージが出てくるが、彼女はレチタティーヴォもアリアも安定した歌唱、安定した演技でこなしていた。戦いの神マルテとカップルなのだが、彼のところを訪れると、他の美女とお戯れの最中というのも(それを濃厚に示唆するリブレットだから、その演出はまったく理にかなっているわけだが)それをマルテが糊塗しようとし、しかし最後にはバレバレとなるのもユーモラスな場面で楽しめた(言うまでもないことだが、ギリシア・ローマ神話では、ゼウス=ジョーヴェからしてまったく一夫一婦制の性道徳を守っておらず、浮気を悪いとも思っていない節があるので、こんな男(男の神)はけしからん、と言っても、この世界ではしょうがないんだよなあ、としか言いようがないのです)。
Shira Patchonik (ソプラノ)は、ミス・サルデーニャとパッラデ(アテナ女神)。彼女はやや軽めの声で、そのおかげでMartinez との区別がつけやすい。Sophie Rennert はメゾなので、たっぷりと低めの声なので、これは背丈だけでなく、声もまったく異なる。これだけ登場人物が多いと人物が衣装および声、あるいは振る舞い方で区別がつくのも重要な演出上のさばきになってくるかと想像する。

Jiayu Jin (ソプラノ)アモーレとエーベ(女神だが、神々の宴会で給仕役を務める)とゼッフィロ。彼女も軽い声のソプラノだが、発声は安定していて、去年もインスブルックでオペラに出ていた。Patchonik もJin もこの音楽祭の若手登竜門チェスティ・コンクールの出身である。この音楽祭ではチェスティ・コンクールに優勝したり入賞した人が翌年の若手オペラ、さらにはメインのオペラに出演することがしばしばある。Jin はアモーレ役ではピアノ線に吊るされたまま歌う場面があったが、堂々としたものだった。
ただし、調べてみると今回のキャストとチェスティ・コンクールとの結びつきは、この二人どころではなかった。Sophie Rennert は2016年第2位および聴衆賞、Margherita Maria Sala は2020年第1位および聴衆賞、José Coca Loza は同年第2位、Rémy Brès-Feuillet は2021年若手賞、Mathilde Ortscheidt は2023年第1位、Giacomo Nanni は同年第3位、Neima Fischer は同年若手賞、そして Patchornik と Jin が続く。つまり今回の巨大な《黄金の林檎》は、同時にこの音楽祭が十年ほどかけて育ててきた歌手たちの一つの集大成にもなっているのである。チェスティ・コンクールから若手オペラへ、さらにメインのオペラへという道筋が、単なる理念ではなく実際に機能していることがよくわかる。
Neima Fischer (ソプラノ)プロセルピナとテシフォーネ(復讐の女神の一人)とアグライエ(三美神の一人)。プロセルピナが、冥界の王プルトーネの妻になって支配領域は広いのだが、それにもかかわらず満足できず、不満を述べる場面が、彼女の若さを感じる歌にぴったりな気がした。

Ester Ferraro(メゾソプラノ)ディスコルディアとアレット(復讐の女神の一人)とエウフロジーネ(三美神の一人)。エウフロジーネは、カメに乗って登場するシーンがユーモラス。彼女はディスコルディアで何と言っても存在感を発揮した。メゾの声と、自分を招かなかった仕返しに不和の種をまいてやる、という邪悪な意志。しかしもちろん、声は品位のある声であり、女神としての品格が感じられるのだった。
Mathilde Ortscheidt (アルト)エンノーネ。《黄金の林檎》ではズバッラの考えだろうが、このパリデの恋人エンノーネが、自分は捨てられるのではないか、自分は捨てられたのではないか、その不安や嘆きの場面が驚くほど多い。パリデはちゃらい男で、口先三寸で君が一番大事だよと言いつつ、美女エレナ(ヘレン)に一目散。落ち着いた声で、庶民のひたむきな女性をせつせつと歌いあげ、ただしカーテンコールではパリデに金けりを喰らわし喝采をうけていた.

Margerita Maria Sala (アルト)。ミス・イタリアとメルクリオとアルチェステ(アテネ王チェクロペの妻、戦場に同行する)。彼女もこの音楽祭では常連といえる存在だ。発声も歌い回しも、バロック歌唱として模範的とも言える歌唱で、イタリア語の響きも美しい。
Filippo Mineccia (カウンターテナー)イメネオとアポロとアドラスト(アテネ王チェクロペの副将)。ミネッチャはもうヴェテランと言ってもよいだろう。この音楽祭にもよく顔を出している。目立つような大きな声ではないが、つねに知的に考え抜かれた歌唱をする人である。
Remy Bres-Feuillet (カウンターテナー)アウリンド。エンノーネを陰ながらいつも見守り、ひたすら恋し、ずっと報われていなかったが、最後の最後に結ばれる。まあ、そういう役柄にあった歌唱だったと思う。
Paul Figuier (カウンターテナー)ボエミアとガニメーデ(ジョーヴェに愛されたトロイアの美少年)と火。ジョーヴェはバイセクシュアルでもある。
Danilo Pastore (カウンターテナー)メジェラ(復讐の女神の一人)とヴォルトゥーノ(風の神の一人)とパジテア(三美神の一人)。2つの役では女神役だが、彼一人が背が高く、男性が演じていることがよくわかるのだが、それが演劇的には適度な異化効果があってよかった。
Alberto Allegrezza (テノール)ミス・アメリカとフィラウラ(エンノーネの乳母)。フィラウラもエンノーネが出てくる場面にほぼ必ずでてくるので、出番は多い。太った老女で、しかしまだ色気がたっぷりあってといった役どころ。モンテヴェルディの頃からそうだが、乳母役が言わば、庶民の恋の本音が露骨に現れる場面だ。だから、パリデがもうエンノーネを捨ててしまったとか、だったらアウリンドに乗り換えたほうがよいわよ、といった極めて実践的アドバイスもする。セクシュアルなくすぐり場面もフィラウラが絡むところが一番性的にあからさまであるが、これは昔からお決まりのパターンと言ってよいだろう。オペラ以外でもシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』などでもそうである。思いがけないところで猫(ぬいぐるみでありかつモック)が出てきたりして、演出もやるな、と言ったところ。
Ziga Copi (テノール)マルテとアウストロ(南風)姿も声も若い。2002年生まれだ。
Mauro Borgioni (バリトン)ミス・ハンガリーとエウロ(東風)とパリデ(パリス)。エンノーネがいながらも審判に選ばれるといそいそと白いスーツで出かけるちゃらい男だが、もてる男でもある感じが良くでていた。
Giacomo Nanni (バリトン)帝国とジョーヴェとエオロ(風を統率する風の王)ジョーヴェは3人の女神とのやりとりも含め出番は多い。堂々たる声と発音の明晰さで好演だった。
Balazs Ban (バス)ミス・ドイツとバッコ(バッカス)
Jose Coca Loza (バス)プルトーネとカロンテとサチェルドーテ(パッラデ=アテナの神官)。プルトーネもカロンテも冥界に属する人物でこの堂々たる深いバスの声がふさわしい。飄々としたユーモアも時に漂わせこの劇に奥行きを与えていた。
Federico D.E.Sacchi (バス)ネットゥーノとチェクロペ(アテネ王)。ネットゥーノの衣装が派手で格好がよく、またそれを見事に様式感ある歌と演技で決めていた。チェクロペでの人間の王とは演技仕分けていた。
Rocco Cavalluzzi (バス)モーモ(他の神々や登場人物を批評する皮肉屋・道化的な神)。エノーネやその乳母フィラウラの出てくる場面にたいてい一緒に出てきて、いわば狂言回しのような役どころである。コミカルだったり、批評家的な役割を時にユーモラスに時に知的に、歌い演じていた。

以上、主要歌手だけでも二十人、カウンターテナーだけでも四人。しかも多くが一人二役、三役を演じている。公式配役を見るだけでも、この作品が通常のオペラとはまったく違う規模を持っていることがわかる。

これほど多数の人物を登場させながら、それぞれに異なる性格と役割を与え、五幕を通じて巨大な物語を動かした台本作者ズバッラの力量には、あらためて感嘆せざるを得ない。そして、それを現代の舞台で人物が混乱しないように整理し、しかもそれぞれの歌手の個性を活かした演出家ファビオ・チェレーザも称賛されるべきだろう。

さらに印象的なのは、これだけ困難で、しかも滅多に上演されない作品に歌手たちが集まり、一人で二役、三役を引き受けていることである。その志の高さにも敬意を表したい。

そして今回のキャストのかなりの部分が、過去のチェスティ・コンクール受賞者から成っていることを考えると、この公演は単に「幻の超大作を復活させた」というだけではない。インスブルック古楽音楽祭が長年育ててきたバロック歌手たちを総動員し、その蓄積によって初めて可能になった上演でもあったのだと思う。音楽祭自身が、コンクールを若手が後にヨーロッパ各地の舞台で活躍しこの音楽祭へ戻ってくるための場として位置づけている。

この上演は、チェスティの《黄金の林檎》という作品の現代における上演史の一齣として残るだろう。そうした音楽史的な意義を持つ上演が、学究的な復元に終わらず、十分な娯楽性を持ち、四時間ずつ二晩にわたって観客を楽しませる舞台になっていた。そのことが何より喜ばしい。

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