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2026年8月21日 (金)

四人のクラヴサン曲を、一つの音楽にしてしまう——ジャン・ロンドー《Encore》

昨日はジャン・ロンドーのチェンバロ独奏《Encore》を聴いた(インスブルック、ハウス・デア・ムジーク)。

プログラムに並んでいたのは、ラモー、ルイ・クープラン、フランソワ・クープラン、ロワイエ。いずれもフランスのクラヴサン音楽である。ここではチェンバロというより、フランス語で clavecin(クラヴサン)と呼びたくなる。

面白かったのは、その四人の曲を「次はクープラン、次はラモー」と区切って弾かなかったことだ。

ある曲が終わったのか、まだ続いているのか分からない。前の曲の最後の響きが残っているうちに次の曲が始まり、いつの間にか別の作曲家の世界へ移っている。聴いている方も、一曲ごとに拍手をするきっかけを失う。

しかし、それが実に心地よかった。

ロンドーは四人の作曲家の作品を、別々の作品を並べた「名曲集」としてではなく、あたかも一つの長い作品のように聴かせようとしていたのではないか。

それは曲と曲との間だけではなかった。

同じ旋律やフレーズが繰り返されるときにも、前の響きが完全に消えてから次を始めるのではなく、まだ残っている響きの上に次の音を重ねていく。すると、同じフレーズがもう一度繰り返されているはずなのに、まったく同じには聞こえない。

前の音がかすかな影のように残り、その上に新しい音が重なる。

その一瞬の重なりによって和声がにじみ、響きの色が変わる。いわば、前の音の記憶をまとって次の旋律が現れるのである。

これが何とも気持ちよい。

科学的にどうなのかは知らないが、聴いているうちに、こちらの脳からアルファ波でも出ているのではないかと思うほど、意識がゆるやかにほどけていく。眠くなるというのとも違う。むしろ音には集中しているのだが、時間の輪郭だけが少しずつ曖昧になっていく感じである。

考えてみれば、これは曲と曲のつなぎ方と同じなのだろう。

一つのフレーズでも、一つの曲でも、前のものを完全に終わらせてから次へ進むのではない。前のものがまだ消え切らないうちに次のものが始まる。

そのため音楽全体が、記憶を少しずつ引きずりながら前へ進んでいく。

ルイ・クープランの内省的な世界があり、ラモーでは音楽がより身体的になり、フランソワ・クープランの繊細さがあり、ロワイエになると、ときにはチェンバロ一台とは思えないほど劇的になる。

もちろん四人の個性は違う。

しかしロンドーは、その違いを際立たせるよりも、むしろ境界を溶かしてしまう。

そうして聴いているうちに、作曲者が誰であるかよりも、17世紀から18世紀にかけてのフランスのクラヴサンという一つの巨大な音の世界を旅しているような気分になってくる。

チェンバロは、ピアノのように鍵盤を打つ強さによって大きく強弱を変えられる楽器ではない。音を出したあとにクレッシェンドすることもできない。

それなのにロンドーの演奏では、音が遠ざかったり近づいたりする。ささやきのような響きがあったかと思えば、オペラの舞台を思わせるような華麗な響きになる。

その秘密の一つが、もしかすると、音を「どう出すか」だけではなく、音をどのくらい残し、その残響の中へ次の音をどう入れていくかにあるのかもしれない。

聴き終えてみると、「ラモーを聴いた」「クープランを聴いた」というより、

一時間半ほど、途切れることのない一つの音の中にいた

という感じが残った。

そして、チェンバロという楽器は、こんなにも人の時間感覚を変えてしまう楽器だったのか、と少し驚いた。

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