スウェーデン女王クリスティーナと題された音楽会
スウェーデン女王クリスティーナと題する音楽会を聴いた(インスブルック、大聖堂)。 この大聖堂にはクラナッハの聖母子像が安置されていて、往時は、巡礼の対象でもあったようだ。 クラナッハは不思議な人で、ルターの友人で、彼の活動を様々に助けた人でもあるのだが、その聖母子像はカトリックの側から珍重され、インスブルックやインスブルックの周辺の村でもクラナッハの聖母子像あるいはそのコピーがありがたがられ、それが巡礼の対象となっていたりしたのだ。 インスブルックは、ハプスブルク家が支配していたからカトリックの牙城の一つであるわけだが、そこにスウェーデン女王クリスティーナがやってきたのは1655年11月のことだった。 プロテスタント国の国王だったクリスティーナは改宗のために王位を自ら譲り、ローマに向かうのだが、その途中でインスブルックに立ち寄り、公にカトリックであることを宣言した。それを記念した儀式がいくつも模様されたが、その一つがチェスティ作曲のオペラ《アルジーア》の上演だった。その後、クリスティーナはローマに行き大歓迎され、正式には退位した女王なのだが女王となのりつづけ、小さな宮廷というかサロンを開き、そこにローマの貴族や芸術家が通うことになるのだった。
さてこの日のプログラムは、クリスティーナの波瀾に富んだ生涯を、いくつかの場面に分けて音楽でたどるという趣向になっていた。
最初はまだスウェーデン女王であった時代、すなわち戴冠から退位までである。アンドレ・ダニカン・フィリドールに伝えられる《ラ・スエドワーズ(スウェーデン女)》に続いて、グスタフ・デューベンの《来たり給え、聖霊よ(Veni Sancte Spiritus)》、そしてジャコモ・カリッシミの《来たれ、キリストの花嫁よ(Veni Sponsa Christi)》が演奏された。クリスティーナの戴冠式で実際にどのような音楽が演奏されたのかはよく分かっていないので、ここは彼女を取り巻いていた音楽世界を再構成したものということになる。その華やかな世界が、1654年の退位に結びつけられた《Fader War》によって一転する。王冠を自ら手放し、祖国を離れていくところから、クリスティーナの第二の人生が始まるのである。
そして次の舞台が、まさにこのインスブルックだった。
アントニオ・ベルターリの《ミサ・アルキドゥカリス(Missa Archiducalis)》から、キリエ、グローリア、クレド、サンクトゥス、アニュス・デイが演奏された。ベルターリはウィーンのハプスブルク宮廷を代表する作曲家である。クリスティーナの改宗が個人的な信仰の問題であるだけでなく、ハプスブルク家にとって大きな宗教的・政治的祝祭でもあったことが浮かび上がってくる。
しかし旅はここでは終わらない。クリスティーナはアルプスを越えてローマへ向かい、その後1657年にはフランスを訪れてルイ14世の宮廷にも姿を現す。そこでプログラムはフランス音楽へと転じ、アンリ・デュ・モンの《Pulsate tympana》などが演奏された。北欧からハプスブルクのインスブルックへ、さらにフランスへ――クリスティーナの移動とともに、音楽の様式そのものも変わっていくのである。
そして最後に到着するのがローマだった。
王国を持たない「女王」となったクリスティーナは、ここで詩人や画家、音楽家を集め、自らの周囲に一種の宮廷ともサロンともいうべき文化的な空間を作り出した。ストラデッラ、パスクィーニ、コレッリなど、17世紀後半のローマ音楽を代表する人々とも深く関わっていく。そのローマ時代を象徴するものとして置かれていたのが、クリスティーナが庇護した作曲家の一人、アレッサンドロ・メラーニの《レクイエム》だった。プログラムではそのイントロイトゥスとセクエンツィアが取り上げられた。メラーニのこの作品は現在、ミュンスターのサンティーニ・コレクションに伝えられている。
こうして見ると、この日の曲目は単なる「クリスティーナゆかりのバロック音楽集」ではない。スウェーデンの女王から、王冠を捨てた旅人へ、そして最後にはローマの芸術世界を動かすパトロンへ――一人の女性の人生そのものを、土地と音楽様式を次々に変えながら追っていくプログラムなのである。
演奏したのは、ジャン=バティスト・ニコラ指揮のヴェルサイユ王立歌劇場管弦楽団を中心とするアンサンブル。独唱には、クリスティーナと同じスウェーデン出身のメゾソプラノ、マレーナ・エルンマンが加わった。この人選もまた、この音楽会にはなかなか似つかわしかった。
アンコールも、この音楽会の旅をもう一度たどり直すようで面白かった。最初はスウェーデンの民謡を、エルンマンが伴奏なしのア・カペラで歌った。そこから一転して、チェスティのオペラ《アルジーア》から一曲。クリスティーナがカトリックへの改宗を公にした1655年のインスブルックで上演された、まさにそのオペラである。そして最後はラモーの《優雅なインドの国々》の一曲。ここまで来るとオーケストラのメンバーも実に楽しそうで、荘重な宗教音楽から始まった演奏会が、最後には舞曲の軽やかさの中で解き放たれていくようだった。
それにしても、こうしてポリフォニー音楽をまとまって聴いていると、いつも不思議な感じがする。
もちろんこれは私の個人的な感覚なのだが、ルネサンスのポリフォニーには、個々の作品や作曲家の個性を越えて、何かひとつの高貴な響きがあるように思える。パレストリーナであれ、ヴィクトリアであれ、あるいはもう少し前の世代であれ、何本もの声部が互いに支え合いながら進んでいく音楽を聴いていると、誰か一人が前面に出て「私」を語っているという感じがしない。それぞれの声は独立しているのに、そのどれもが全体の中に溶け込んでいる。音楽がどこかへ向かって劇的に進んでいくというより、その場にひとつの音響空間が立ち現れるようでもある。
それに較べると、17世紀、18世紀、そして19世紀の音楽は、はるかに人間臭い。旋律が前面に出て、喜び、悲しみ、怒り、恋、嫉妬といった感情を直接こちらに訴えかけてくる。もちろんバッハやモーツァルトやベートーヴェンの音楽を「通俗的」と呼んでしまえば乱暴なのだが、それでもルネサンスのポリフォニーと並べて聴くと、後の音楽には聴き手を喜ばせ、驚かせ、感動させようとする身振りがずっと強く感じられる。
では、あれほど精妙で完成されたポリフォニーの世界から、なぜ人々は1600年前後を境に、まるで雪崩を打ったように離れていったのだろう。
おそらく、ポリフォニーが行き詰まったからではない。むしろ逆で、あまりにも高度に完成してしまったからなのかもしれない。
十六世紀末になると、複数の声部を対等に組み合わせる技法は驚くほど洗練されていた。しかし、その完璧さと引き換えに、音楽は一人の人間の言葉や感情を直接表現するには不向きでもあった。何人もの声が同時に別々の旋律を歌えば、言葉そのものはどうしても聞き取りにくくなる。ましてオペラのように、「この人物が、いま、この瞬間に、こう感じている」と示そうとすれば、ひとつの声が前面に立つほうがはるかに都合がよい。
そこで十六世紀末から十七世紀初めにかけて、独唱と通奏低音を中心とするモノディーが現れる。声はもはや複雑な網の目の一部ではなく、一人の人物の声になった。旋律を支える低音があり、その間を和音が満たす。ここからレチタティーヴォが生まれ、オペラが生まれ、やがて調性音楽の巨大な世界が育っていく。
つまりこれは、単なる音楽技法の交代ではなかったのだと思う。
音楽の中心が、「世界の秩序を響かせること」から、「一人の人間が何を感じ、何を語るか」へ移っていった、と考えることもできる。
そう考えると、1600年前後という時期がいっそう興味深く見えてくる。ルネサンスのポリフォニーが、人間を越えた秩序を思わせる音楽だったとすれば、その後に登場したオペラは、これ以上ないほど人間中心の芸術だった。そこでは人間が愛し、怒り、嫉妬し、嘆き、時には神々さえ人間と同じように欲望する。
だから人々がポリフォニーを「捨てた」というよりも、音楽によって表したいものそのものが変わったのではないだろうか。
もちろんポリフォニーそのものが消滅したわけではない。教会音楽の中では生き続けたし、バッハに至れば、古い対位法の世界と新しい調性の世界が驚くべき形で再び結びつく。しかし音楽史の大きな流れとしては、十七世紀以後、聴き手の耳は次第に「幾つもの声が共存する世界」よりも、「ひとつの声が何かを語る世界」に惹きつけられていった。
それが進歩だったのかどうかは、私にはよく分からない。
ポリフォニーを長く聴いたあとでバロックの華やかな音楽を聴くと、後者のほうがずっと身近で、楽しく、劇的である一方で、何か大切なものを失ったようにも感じるのである。
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