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2026年2月14日 (土)

アレッサンドロ・スカルラッティ没後300年記念ー演奏会と講演会 その4

おまけ:舞台裏を少し——通奏低音が「オールスター」だった件

私は幸運な事情にめぐまれて、本公演に先立つリハーサルを3日間見学することができたのだが、そこで面白かったのは、解釈が「指揮者の指示」で決まるだけではなく、アンサンブル内部で練り上げられていく現場だったこと。福島康晴が明確にリーダーシップを取りつつ、奏者からも意見や質問が出る。解釈が合意として立ち上がる速度が速い。

そして何より、通奏低音陣が豪華。チェロ、ヴィオローネ(コントラバス)に加え、オルガン、テオルボ、ハープ、チェンバロが揃う。ここから「今日は誰が出る?」を曲ごとに決めていく。
通奏低音は“音量の調整”ではなく、場面の性格づけ=味付けだと、あらためて実感した。スカルラッティが劇の人である以上、低音の選択はドラマの選択でもある。


まとめ:没後300年を「顕彰」で終わらせず、「現在形」にした二夜

この二日間が良かったのは、没後300年を「過去の偉人を讃える会」にせず、研究・教育・実演が行き来する“現在形”の企画にした点だと思う。オンライン講演で輪郭をつくり、当日のナレーションと字幕で抜粋上演の弱点を潰し、ピリオド楽器とバロック歌唱、そして譜面への細やかな配慮で作品を“生きた劇”として現前させる。

二日目が完売したという事実も含めて、スカルラッティは「ドメニコの父」では終わらない——ということが、説得力ある音楽体験として示された。
次は、記念年が終わってからが本番だ。上演が続くかどうか。私は続いてほしいと思う。これだけ面白く音楽が充実しているのだから。

クレジット

主催:日本イタリア古楽協会
助成:日本音楽学会「音楽関係学術イベント開催助成金」、野村財団、東京都歴史文化財団アーツカウンシル東京
後援:イタリア文化会館
(曲目・出演者の詳細は、パンフレット/当日資料に準拠)

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アレッサンドロ・スカルラッティ没後300年記念ー演奏会と講演会 その3

第2夜(12/27)神田:祈りの残響から、「聖なる劇」へ

会場が教会になると、同じスカルラッティでも耳のモードが変わる。ホールでは言葉の輪郭を追いやすいが、教会では響きが残る分、フレーズが空間に“滞在”する。その滞在が、祈りの身体感覚をつくる。

前半:《スターバト・マーテル》——声が空間に二本の軌跡を描く

独唱はソプラノ阿部早希子とカウンターテナー村松稔之。阿部はピッチの確かさとフレーズ設計の堅牢さで、悲嘆を輪郭のある祈りとして成立させる。一方、村松は声の色彩と語りの身振りで、テクストの痛みや切迫をより劇的に照射する。
この二つが教会の残響のなかで混ざりすぎず、むしろ別々の軌跡を描くのが良い。悲しみは一色ではない、ということが音でわかる。

後半:オラトリオ《ラ・ジュディッタ》(ローマ1694年版)抜粋——これは「宗教」以上に「劇」

物語は有名なので省くが、要するにジュディッタは「美しい未亡人、しかしやることは容赦ない」。祈りと策略、官能と暴力、沈黙と決断が一つの身振りに凝縮される。これが教会空間で鳴ると、宗教作品というより「聖なる劇(サクラ・ドラマ)」の緊張が立ち上がる。

ここでも抜粋ゆえにレチタティーヴォは限定されるが、佐々木の場面説明が効いて、切迫感が落ちない。テノールが登場するのは二日間でこのオラトリオだけだったが、中村康紀が対立陣営を往来する人物の特異性を、過剰な芝居にせず的確に描いたのが印象的だった。

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アレッサンドロ・スカルラッティ没後300年記念ー演奏会と講演会 その2

第1夜(12/26)五反田:世俗の親密さから、オペラの劇へ

前半:器楽とカンタータ——“劇”の前に、語法の多彩さを浴びる

前半は器楽曲が並び、最後にカンタータ《Questo silenzio ombroso(この木陰の静けさのなかで)》で締める構成。

まず、リコーダー2本が活躍する「コンチェルト・グロッソ形式のシンフォニーア第5番」。リコーダーが二本あると、掛け合い、模倣、三度・六度の並行など、二声ならではの“喋り方”が立つ。弦のリピエーノとの対比も効いて、色彩と推進力が気持ちよく出る。リコーダーって、ただ音色が素敵なだけじゃなく、ちゃんと音楽を前へ進めるんだな、と再確認。

それから、「チェンバロを伴わない四声のソナタ第3番」。今日の耳には弦楽四重奏の“ご先祖様”みたいにも聴こえる。ただし面白いのは、これが「通奏低音なし」と決めつけられないこと。手稿譜(ミュンスターのサンティーニ・コレクション)には数字が書き込まれている箇所があり、通奏低音が想定されていた可能性があるという。今回はテオルボが加わり、旋律線の絡み合いを壊さず、和声の方向感を微細に補っていた。
このあたり、今回の企画全体の“学術の筋肉”が見える。

そして圧巻だったのが、西山まりえによる「第一旋法のトッカータ第7番とフォッリーア」。20分超のチェンバロ独奏曲で、もはや「チェンバロと西山まりえの壮絶な格闘」と言いたくなる長丁場。技巧の精確さだけでなく、曲の内部に溜まっていく熱量が、ちゃんと聴衆の身体に届く。終止でふわっと収束するというより、推進力を保ったまま“切り上げる”終わり方も、妙にスカルラッティ的な強度がある。

前半の締め、カンタータ《Questo silenzio ombroso》がまた巧い配置だった。スカルラッティは推定600曲以上のカンタータを残した人で、このジャンルを外してしまうと作曲家像が薄くなる。第2曲に出てくるサヨナキドリ(ナイチンゲール)の嘆きは、愛の喪失から「死の眠り」への傾きへ、感情の方向がきれいに設計されている。
ソプラノ阿部早希子とアルト向野由美子が、メリスマを交互に、あるいは重ねていく箇所の溶け合いが見事で、情感は濃いのにセンチメンタルに流れない——ここがスカルラッティの格調だと思う。

後半:オペラ《ミトリダーテ・エウパートレ》抜粋——抜粋上演の弱点を“演出”で潰す

後半はオペラ抜粋を演奏会形式で。抜粋上演の宿命は、筋立ての接着剤であるレチタティーヴォが飛ぶことで、聴衆が「あれ?いま誰が誰を裏切ったんだっけ?」と迷子になりやすい点にある。

ここで効いたのが佐々木なおみの「お話(ナレーション)」。これはもうGPSである。場面の要点と各アリアの内容が手際よく整理され、聴衆の想像力が迷子にならない。むしろ音楽の細部へ集中できる。舞台装置がない分、声の表情がそのまま人物の性格や心理になっていき、「耳で見る劇」が成立していた。

字幕投影も丁寧で、通常の2行表示にとどまらず必要に応じて複数行、さらに登場人物名が明示される工夫があった。抜粋上演にありがちな「誰の心の叫びなのか問題」が解消される。
(字幕担当:三ヶ尻正・宮﨑展子)

歌手陣(阿部、佐藤裕希恵、向野、久保法之、藪内俊弥)も総じて充実。声種のコントラストが人物関係の緊張を音色として提示し、演奏会形式なのにちゃんとドラマが進む。終わってみれば、初日の構成は「器楽=語法の多彩さ」から「声楽=劇」へ、自然に階段を上がる作りだった。

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アレッサンドロ・スカルラッティ没後300年記念ー演奏会と講演会 その1

2025年12月26日(五反田文化センター音楽ホール)と翌27日(神田キリスト教会)に、「アレッサンドロ・スカルラッティ没後300年記念――演奏会と講演会――」が開催された。二日で完結する“スカルラッティ体験パック”というべき企画で、初日は世俗作品+オペラ抜粋、二日目は宗教作品+オラトリオ抜粋。この並べ方が実にうまい。

初日は約160名、二日目は定員180名が完売、補助席込みで200名に達したという。スカルラッティ、ちゃんと“集客力”あるじゃないか(日本では「ドメニコのお父さん」扱いで終わりがちなので)。

今回の特筆点を最初に一言で言うなら、
「ピリオド楽器&バロック歌唱で、“当時の肌触り”を本気で再現しにいった」
ということに尽きる。

しかも、ただ古楽器を並べただけではない。版(エディション)や楽譜の作り方、通奏低音の使い分け、装飾や言葉の扱いまで含めて、あらゆる判断が「当時の上演ならどう鳴るか」に向かっていた。つまり、“雰囲気”じゃなくて“設計”で勝負している。

予習までが公演です:オンライン講演×2が効いた

この二夜の前に、佐々木なおみ(敬称略、以下同様です)によるオンライン講演会が二度行われた。
10/30配信「アレッサンドロ・スカルラッティの生涯と作品」(無料)
11/30配信「演奏作品解説――創作活動からみるその特質と魅力」(有料)

これがよかった。いわゆる「予習してください」ではなく、記念年の公演を“知と経験のセット”として組む発想がある。聴衆にとっても、当日の音が「初見の難曲」になりにくい。こういう助走があると、会場での集中力がぜんぜん違うのを体感した。

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アレッサンドロ・スカルラッティ没後300年記念シンポジウム 「バロック・オペラの規範の確立と展開」

長々しいタイトルだが、要するにシンポジウムが開催され、筆者はスピーカーとして参加した。

2025年はアレッサンドロ・スカルラッティの没後300周年だったのである。アレッサンドロ・スカルラッティは、いわゆるナポリ楽派の成立に大きな影響を与え、オペラ・セリアの確立にも大いに力のあった人で、単にドメニコ・スカルラッティの父というだけではない。

僕個人としては、アレッサンドロ・スカルラッティというのは、ヨハン・セバスティアン・バッハくらい偉大な音楽家なのではないか、と考えているのだが、なかなか日本ではそういう評価、あるいはそういう頻度で演奏されることがない。

だからこそ、今回のシンポジウムの意義は単純で、しかし大きい。日本での演奏頻度や認知の「薄さ」と、作品そのものがもつ厚み(と、そこにぶら下がる研究課題の多さ)のギャップを、まずは言葉と実演で埋めていこう、という試みだった。

しかも、今回のプログラムが面白いのは、単に「偉人の記念年だから集まった」というだけではなく、焦点の当て方がきわめて具体的だった点だ。第1部で研究状況の俯瞰を置き、第2部でイタリア本国の“現場”を掘り、第3部で各国受容にひらく。つまり、作曲家を「点」で讃えるのではなく、作品が動いた“回路”を「線」として示そうとしている。スカルラッティのオペラは、まさにその線の束でできている。

第1部:特別講演(収録)——「現在」の地点確認

ディンコ・ファブリス氏の講演(収録)は、研究史の整理というよりも、「いま何が問われているのか」を確認する時間だった。スカルラッティ研究の“いま”を語るには、作品の価値判断だけでなく、資料(楽譜・台本・上演記録)と上演実践(演奏様式、劇場環境、歌手)をどう往復するかが要になる。こうした大枠が提示されることで、続く各発表が単なる個別研究の列ではなく、ひとつの地図として見えてくる。

第2部:「イタリア」——上演の具体性に降りていく

第2部は、イタリアでの上演・再演・創作背景・劇場コンテクストといった、いわば「現場の温度」に降りていくパートで、ここがこの日の核だったと思う。

  • 私の発表「《Gli equivoci nel sembiante》ローマ初演をめぐるスキャンダル」は、作品を“音楽史の名作”として扱うより、初演という出来事がどのような政治性・社会性・噂の回路のなかで立ち上がったのか、という観点からの話である。スカルラッティのオペラを理解するうえで、上演は「結果」ではなく、しばしば「事件」なのだ、という感触を共有したかった。

  • 萩原里香さんの発表は、《ピッロとデメートリオ》のシエーナ上演という一点から、再演をめぐる条件(場所、担い手、需要、そして作品側の“可塑性”)を浮かび上がらせる。ある作品が「どこで」「誰によって」「どういう形で」生き延びるのか、という問いは、受容史へ直結する。

  • 佐々木なおみさんは《ミトリダーテ・エウパトーレ》を創作背景から捉え、作品の成立を「作曲家の内面」だけに閉じない。委嘱・環境・時代の要請といった外圧のなかで、作品はどう設計されるのか。ここでも、スカルラッティが“劇場の人”であることが強調される。

  • 山田高誌さんの《貞節の勝利》(1718、フィオレンティーニ劇場)論は、劇場とジャンルのコンテクストから、作品を読み替える視点を与えてくれた。上演空間とジャンルの規範が変われば、同じ作曲家でも作品の顔つきが変わる。これが「ナポリ」という場の強度でもある。

そして、この第2部のあとに置かれた演奏(《Gli equivoci nel sembiante》《La Griselda》からの抜粋)が、単なる“余興”ではなく、議論の回路の一部として機能していたのがよかった。論点が抽象化しそうなところで、実際の音が入ると、こちらの理解が一段階、具体物に引き戻される。研究会/シンポジウムにおける演奏の意味を、久しぶりに正面から感じた。

第3部:「各国受容」——スカルラッティが“外へ”出る瞬間

第3部は、作品がイタリアを離れたときに何が起きるか、という話が並ぶ。ここで見えてくるのは、作曲家の威光というより、作品が「翻訳される」プロセスだ。

  • 森本頼子さんの「18世紀ロシアとナポリ楽派」は、ナポリ楽派という枠組みが、イタリア内部の歴史用語にとどまらず、外部でどう接続され得たかを考えさせる。

  • 田中伸明さんの「ドイツにおける受容とサンティーニ・コレクション」は、受容史が「聴かれた歴史」だけでなく、「集められ、保存され、参照される歴史」でもあることを思い出させる。作品は演奏されなくても、資料として生き延びる。

  • 吉江秀和さんの「ロンドン上演」は、《ピッロとデメートリオ》がロンドンで《Pyrrhus and Demetrius》として現れる、そのズレと変形の面白さを示す。外に出た瞬間、作品は同一性を保つのではなく、別の制度・別の嗜好・別の劇場慣行に合わせて姿を変える。その変形こそが受容の実体だ。

このパートの後に置かれた演奏2(ナポリ版1694/ロンドン版1709の聴き比べを意識した構成)が、まさにその「変形」を耳で確認させる仕掛けになっていた。言葉で説明される“差異”が、音のレベルで立ち上がる瞬間があると、聴衆の理解の速度が一気に上がる。

まとめ:記念年の「祝祭」ではなく、次の上演へ

全体を通して思ったのは、このシンポジウムが「300周年だから偉い人を讃える」という祝祭ではなく、むしろ次の上演・次の研究へ向けて、論点を交通整理する場になっていたということだ。スカルラッティは、確かに“ナポリ楽派の成立”や“オペラ・セリアの確立”といった大きい言葉で語られる作曲家だが、実際には、上演という現場の細部、再演の事情、各地での変形、資料の伝播——そういう具体の束として存在している。

日本で演奏頻度が高くないのは事実だし、だからこそ「評価」も育ちにくい。しかし、研究と実演の両輪が回りはじめると、状況はわりと早く変わりうる。今回のように、議論のそばに実際の音があり、国内外の視点が交差する場が継続すれば、スカルラッティは“知っている人だけが知っている巨人”ではなくなるはずだ。

——などと書きつつ、結局のところ、私はこう思っている。
スカルラッティは、もっと上演されていい。
そして、上演されればされるほど、「研究すべきこと」も増える。厄介で、しかし幸福な循環である。

(※末尾に、当日のプログラムを備忘として掲げておく——)

プログラム

開会挨拶 石井道子(早稲田大学教授・オペラ/音楽劇研究所長)

趣旨説明 大河内文恵(東京藝術大学附属高校非常勤講師・オペラ/音楽劇研究所招聘研究員・WG代表)

  • 第1部 特別講演(収録)

ディンコ・ファブリス Dinko Fabris(バジリカータ大学教授・国際音楽学会元会長)
「アレッサンドロ・スカルラッティ研究の現在」

  • 第2部 「イタリア」

発表①辻昌宏(明治大学教授・オペラ/音楽劇研究所招聘研究員)
Gli equivoci nel sembiante》 ローマ初演をめぐるスキャンダル

発表②萩原里香(武蔵野音楽大学非常勤講師・オペラ/音楽劇研究所招聘研究員)
A.スカルラッティのオペラの再演をめぐる状況:《ピッロとデメートリオ》 のシエーナ上演を対象に

発表③ 佐々木なおみ(ディスコルシ・ムジカーリ主宰、在シチリア)
創作の背景から見るオペラ 《ミトリダーテ・エウパトーレ》

発表④ 山田高誌(熊本大学准教授)
《貞節の勝利》 (ナポリ、フィオレンティーニ劇場、1718) :初演劇場とジャンルに関わる“コンテクスト”からみて

★演奏1
《顔立ちで取り違え Gli equivoci nel sembiante》 (1679)より
《グリゼルダLa Griselda》 (1721)より
森川 郁子(S)、森 有美子(S)、阪永 珠水(Vn.)、髙橋 弘治(Vc.)、上羽 剛史(Cem.)

質疑応答 コメンテーター:野田農(早稲田大学准教授・オペラ/音楽劇研究所員)

  • 第3部 「各国受容」

発表⑤ 森本頼子(名古屋音楽大学非常勤講師・オペラ/音楽劇研究所招聘研究員)
18世紀ロシアとナポリ楽派のつながり

発表⑥ 田中伸明(北里大学専任講師・オペラ/音楽劇研究所招聘研究員)
ドイツにおけるA.スカルラッティ受容とサンティーニ・コレクション

発表⑦ 吉江秀和(杏林大学非常勤講師・オペラ/音楽劇研究所招聘研究員)
《ピッロとデメートリオ (ピュロスとデメトリオス)》 のロンドン上演について

★演奏2
《ピッロとデメートリオ  Il Pirro e Demetrio》 (ナポリ版1694)より
《ピュロスとデメトリオス Pyrrhus and Demetrius》 (ロンドン版1709)より
森川 郁子(S)、森 有美子(S)、阪永 珠水(Vn.)、髙橋 弘治(Vc.)、上羽 剛史(Cem.)

質疑応答 コメンテーター:野田農(早稲田大学准教授・オペラ/音楽劇研究所員)

閉会挨拶 大河内文恵

司会:石井道子



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ヘンデル《ロデリンダ》

今となっては大分時間が経過してしまったが、ヘンデルのオペラ《ロデリンダ》を観た(北とぴあ、2025年11月30日)。

指揮とヴァイオリンは寺神戸亮、管弦楽はピリオド楽器によるレ・ボレアード。演出は小野寺修二。舞台に二人のダンサー(崎山莉奈、大西彩瑛)が加わり、登場人物の感情の輪郭を、歌手とは別の身体で可視化していく——この方法が、思いのほか作品の「演劇性」をくっきり立ち上げていた。

歌の面では、ロデリンダ役ロベルタ・マメリがとりわけ印象的で、旋律線のしなやかさ、言葉の切れ、情念の濃度が、どれも高い水準で揃っていた。もちろん、他の歌手も総じて充実している。とくにウヌルフォ役の中嶋俊晴、エドゥイジェ役の輿石まりあは、声だけで人物像を生き生きと立ち上げ、場面ごとの空気を変えていく力がある。音符を「きれいに」並べる以上に、ドラマとしての呼吸が伝わってくる歌唱で、ヘンデルが劇であることを改めて実感させた。

寺神戸のレ・ボレアードも、ヘンデルがすっかり板についてきた感がある。音楽が過度に装飾に傾くことも、逆に禁欲に寄りすぎることもなく、劇の推進力として機能していたのが頼もしい。通奏低音も生き生きとしていた。ダンサーが感情を代行することで、歌手が歌と身体表現の両方を同時に背負い込みすぎず、“歌に専念できる安心感”が生まれるのも、この演出の美点だろう(もちろん、歌と踊りを超人的に両立する歌手の魅力を否定するものではない)。

総じて満足度の高い上演だった。ヘンデルのオペラが、本来の意味で「舞台芸術」として聴こえ、見えた夜である。

公演データ
ヘンデル《ロデリンダ》/北とぴあ〔 〕
指揮・ヴァイオリン:寺神戸亮
演出:小野寺修二
ロデリンダ:ロベルタ・マメリ/ベルタリード:クリント・ファン・デア・リンデ/グリモアルド:ニコラス・スコット/エドゥイジェ:輿石まりあ/ウヌルフォ:中嶋俊晴/ガリバルド:大山大輔
ダンサー:崎山莉奈、大西彩瑛
管弦楽:レ・ボレアード(ピリオド楽器)

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