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2025年11月29日 (土)

ベルク《ヴォツェック》

アルバン・ベルク作曲のオペラ《ヴォツェック》を観た(11月24日、新国立劇場)。

今年が初演から100周年であることは認識していたのだが、仕事が立て込んでいてどうしようかと迷っているうちに、主役が降りたことがわかった。うーん。その前後で、今回指揮者大野(敬称略以下同様)と演出家リチャード・ジョーンズが作品について語るyoutube, ヴォツェック役とマリー役のアンダー(駒田俊章、高橋絵理)が、音楽コーチ(城谷正博)とピアノ伴奏(小埜寺美樹)で演奏しながら解説してくれる Youtubeを観て、ヴォツェック上演に向けての関係者の熱量を感じた。それで主役の歌手が交代したことを知りつつあえてそこから切符を買った。

今回感じたのは、ベルクのオーケストレーションの官能性だった。弦だけの部分もそうなのだが、金管がギリギリの低音を出す、コントラバスがギリギリの低音を出すという時、経験したことのない音を身体で感じるのだった。どちらも通常のオーディオシステムでの再現は極めて困難である。

その低音がホールに鳴り渡る感じがゾクゾクする音響なのだ。そしてそのゾクゾクする場面が、戯曲上の不条理と響きあって、知性と感性を麻痺させるようなインパクトがある。それはまさに主人公ヴォツェックが陥っている状態なのだ。

都響のプレーヤーに敬意を評したい(指揮者も含めて)。この不条理な官能性に圧倒される経験は、以前にアッバード指揮ウィーン国立歌劇場の来日公演でこの作品を観た時以来のものだ。

また、駒田敏章のヴォツェックは、演劇的にとても効果的だったと思う。彼は、大尉のアーノルド・ベズイエンや医者の妻屋秀和、鼓手長のジョン・ダザックより相対的に小柄だった。そのことはこのストーリーを考えれば実に相応しい。ヴォツェックは、彼らに翻弄されてしまう悲哀に満ちた存在なのだ。声も彼らの相対的に圧倒するような声に、必死で立ち向かっても同等かそれ以下というのが演劇的には相応しいと思われる。彼らが押し付けてくる道徳観や冷酷な「科学的観察眼」、はたまたセクシュアルな優位性に押しつぶされていく存在がヴォツェックであるからだ。

納得のいく《ヴォツェック》だった。

 

 

 

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2025年11月 9日 (日)

モーツァルト《羊飼いの王》

モーツァルトのオペラ《羊飼いの王》を観た(藤沢市民会館大ホール)。

この会場は初めて。大きすぎないのが良い。2階席がある。1380人収容とのこと。座席は小さめ。

この日の上演は、演奏会形式で、せめてセミステージだったらよかったのにと思った。服装も凝らなくて良いし、舞台装置も最小限で良い。日本人なら能・狂言を知っているのだから、ミニマムな装置で想像力を膨らませることは自由自在なのだ。

ただし、今回アミンタを歌った砂川涼子(敬称略、以下同様)は、パンツルックで男性であることを表現してくれており、それは恋人役の森麻季(エリーザ役)がドレス姿だったのと対照的でこのコントラストはコンサート形式の中に最小限の演劇性をもたらしてくれてありがたかった。アミンタは、なにせ、羊飼いとして成長したのに、アレッサンドロ(アレクサンダー大王)がやってきて、この地の王の血筋を継ぐものはアミンタだから王位を継承させるということになるわけで、本来なら羊飼いの姿で出てきて、それが大王アレッサンドロとその部下アジェーノレに見出されるわけである。

しかしそれがありがた迷惑なのが、恋仲だったエリーザだ。というのも、二人は婚約していたのだが、アレッサンドロが元々この地の僭主の娘タミーリとアミンタを結婚させようとするからだ。タミーリはアジェーノレと恋仲だったのでショックを受ける。こうして二組の恋愛が捻れた関係になるが、最終的にアレッサンドロが解決して、めでたしめでたしとなる。

この日の歌手は、先述のアミンタの砂川涼子とエリーザの森麻季の他に、アレッサンドロ大王の小堀勇介、タミーリの中山美紀、アジェーノレの西山詩苑。それぞれに優れた歌唱を聞かせ、こちらとしては満足度が高かったが、アジェーノレの西山詩苑は、声質が美しく、歌いっぷりも端正で、レチタティーヴォも発音が綺麗で、アジェーノレ役としては出色の出来だと思う。

砂川、森は安心して聞いていられる安定感があったが、その安定感に大いに寄与していたのは園田隆一郎の指揮だろう。彼の指揮は、丁寧かつケレンを狙わないもので、歌手の歌い方を丁寧に尊重している。一方で、テンポが大きく変わる時には、歌手と目配せしてギクシャクしない。新奇なことをやるのではなく、手抜きのない良い仕事をしているトラットリアのような味と言えば良いだろうか。神奈川フィルハーモニーも良い仕事をしていたと思う。この日は、チェンバロ(矢野雄太)が加わっていた。

この曲で曲想として歌うのが難しいのはアレッサンドロ大王だと思った。アレッサンドロは、国全体の秩序がどうあるべきかを考えているので、他の登場人物のように自分の愛する人のことを第一に考えている人たちとは違う次元にいる。それはメタスタージオのリブレットにも如実に現れていて大自然や宇宙の要素が比喩として出てくる。曲想もそれに相応しくモーツァルトが作っている。まさにオペラ・セリアの曲想であり、小堀は大健闘していたと思うが、さらにフレージングや表情づけで、さらに深い感動を呼ぶ歌へとなることを期待したい。

全体としては、日本でモーツァルト初期のオペラ・セリア(セレナータ)が、これほど高いレベルで上演されることは慶賀すべきことだと思うし、その一方でこれだけ音楽的レベルが高いのだから、せめてセミステージにしないと勿体無いとも思うのであった。上演後のトーク(井内美香の司会で、園田と砂川が質問に答えていた)でも、砂川からお芝居でやりたいという趣旨の発言があった。全面的に賛成である。

とはいうものの、モーツァルトの初期のオペラをもっと聞いてみたいと思う気にさせてくれた優れた演奏であった。感謝。

 

 

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