ベルク《ヴォツェック》
アルバン・ベルク作曲のオペラ《ヴォツェック》を観た(11月24日、新国立劇場)。
今年が初演から100周年であることは認識していたのだが、仕事が立て込んでいてどうしようかと迷っているうちに、主役が降りたことがわかった。うーん。その前後で、今回指揮者大野(敬称略以下同様)と演出家リチャード・ジョーンズが作品について語るyoutube, ヴォツェック役とマリー役のアンダー(駒田俊章、高橋絵理)が、音楽コーチ(城谷正博)とピアノ伴奏(小埜寺美樹)で演奏しながら解説してくれる Youtubeを観て、ヴォツェック上演に向けての関係者の熱量を感じた。それで主役の歌手が交代したことを知りつつあえてそこから切符を買った。
今回感じたのは、ベルクのオーケストレーションの官能性だった。弦だけの部分もそうなのだが、金管がギリギリの低音を出す、コントラバスがギリギリの低音を出すという時、経験したことのない音を身体で感じるのだった。どちらも通常のオーディオシステムでの再現は極めて困難である。
その低音がホールに鳴り渡る感じがゾクゾクする音響なのだ。そしてそのゾクゾクする場面が、戯曲上の不条理と響きあって、知性と感性を麻痺させるようなインパクトがある。それはまさに主人公ヴォツェックが陥っている状態なのだ。
都響のプレーヤーに敬意を評したい(指揮者も含めて)。この不条理な官能性に圧倒される経験は、以前にアッバード指揮ウィーン国立歌劇場の来日公演でこの作品を観た時以来のものだ。
また、駒田敏章のヴォツェックは、演劇的にとても効果的だったと思う。彼は、大尉のアーノルド・ベズイエンや医者の妻屋秀和、鼓手長のジョン・ダザックより相対的に小柄だった。そのことはこのストーリーを考えれば実に相応しい。ヴォツェックは、彼らに翻弄されてしまう悲哀に満ちた存在なのだ。声も彼らの相対的に圧倒するような声に、必死で立ち向かっても同等かそれ以下というのが演劇的には相応しいと思われる。彼らが押し付けてくる道徳観や冷酷な「科学的観察眼」、はたまたセクシュアルな優位性に押しつぶされていく存在がヴォツェックであるからだ。
納得のいく《ヴォツェック》だった。


最近のコメント