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2025年8月11日 (月)

カルダーラ作曲《アウリデのイフィジェニーア》その5

《アウリデのイフィジェニーア》を再度観た(インスブルック、州立劇場)。

2度観て判ったこと、気づいたことを記す。

1.イフィジェニーアが救済される最終場面が唐突。これは、このオペラが宮廷の祝祭として上演されたことと関係が深い。1716年11月4日が初演日なのだが、カール6世の誕生日が10月1日なので、それを祝う一連の行事の一つと考えられる。そのためハッピーエンドにすることが必須で、ゼーノとしてはエリゼーナというエウリピデスの原作にない女性を登場させ彼女の本名が実はイフィジェニーアだったのでそちらが犠牲になるということで、アガメンノーネの娘イフィジェニーアは助かりめでたしめでたしとなる。こういった宮廷の祝祭劇を観る観客は、アガメンノーネの苦悩に思いを寄せることはあっただろうが、それがともかくも解決されてよかったね、となったのだろう。

ただし、その後、メタスタージオやパオロ・ロッリが同じ素材を扱ってリブレットを書く際には、エリゼーナは採用していないので、エリゼーナの創出が大人気とは言えなかったのだろう。ゼーノ、メタスタージオ、ロッリは、アルカディア会(アッカデーミア・デッラルカディア)のメンバーであり、そこで論じられたリブレット改革と切り離せないわけだが、実際にリブレットを書く際には、三者三様の表現の工夫が出てくるわけだ。ゼーノはレトリックが簡素と言われ、たしかにメタスタージオと比較するとそうだ。レトリックを過剰にしないというのはアルカディア会の文学観の核心的概念でもあった。

2.演出において、男性の登場人物は冑をかぶったり脱いだりがあるのだが、どうもそれは、公人としてこうあらねば、という際には冑をかぶり、個人的な、私人としての心情を吐露する際には冑を脱いでいるのだった。その中間で、冑をぬいだがそれを置かずに手にもったままという状態もある。おそらく中間的な心理状態を表しているのかと思われる。初日も演出家(2人)が出てくるとブーイングがあったが、2日目はなお一層激しくブーイングがあった。まあ、マリオネットを使わずとも、アガメンノーネやイフィジェニーアの葛藤(国への義務と個人的な感情)は明らかでしょう。終わりの方ではマリオネットの顔に涙の筋が描かれてたけど、こんな説明的描写が要るのかと思う人もいたであろうことは想像に難くない。

3.歌手に関しては以前に書いたものの確認で、イフィジェニーア役のMarie Lys は、レチタティーヴォにおいてもアリアにおいても場面や歌詞の言葉にふさわしい表情をつけており、表現の幅が広い。そこがエリゼーナ役の Neima Fischer や声種は異なるがウリッセ役の Lurennce Kilsby らとは異なるところだ。彼・彼女の場合は、若くてフレッシュな声という美点はあるものの、表現が一本調子となりがちで、性格の二面性の表現などで今一歩の感がある。Fischer の場合、可憐な面を出す際は良いのだが、内面にひそむどろどろした情念を表現する際に、太い声が出ない、これは年齢を重ねるともう少し太い声が、あるいは低音がより響く可能性はあるだろう。テウクロ役のMineccia はそのあたりの表現の幅が見事。舞台の場数も関係してくるのかもしれない。アキッレの Carlo Vistoli は叙情的な感情を示す澄んだ声と、身体全体を使ったアジリタでの表現が素晴らしくオペラ・セリアならではの高揚感を劇場全体にもたらした。図式的に言えば、ヴィストリは、フランコ・ファジョーリ的な劇的表現とティム・ミード的なバランスの取れた発声を足して2で割ったようなところがあり、劇的表現と叙情的表現の幅があり、かつ、発声の使い分けが決まっているのだ。アガメンノーネ役の Martin Vanberg について。彼は大変背が高く、舞台での存在感はあるのだが、アガメンノーネの苦悩の表現の仕方が稚拙。最初から苦悩面ばかりを見せてしまうのだ。本来、うわべは、娘、妻との再会を悦びつつ、実は娘を犠牲に供さねばならないという苦悩を抱えるという深い葛藤、二面性があるはずなのだが、その二面性が表現されない。背丈にめぐまれ、声も悪くはないのだから、場面や性格の表現に磨きがかかることを期待したい。クリテンネストラの Shaked Bar は歌唱において、音楽表現においては相当満足度は高いのだが、子音が弱く言葉が聞き取りにくいのが唯一の難点。言葉を伝えるのは、オペラが音楽劇である以上、最重要の要素(の一つ)であるはず。

4.オケのテンポに関しては、ところどころもう少し早くてもという箇所があったが、前にも述べたように歌手のアジリタの限界に合わせていると思われる場合が多かった。指揮者としてはいたしかたのないところなのだろう。

5(追記)場面転換に何回かダンス(バレエ)が登場した。主として女性一人で踊っているのだが、何を表現したいのかは不明であった。時間が短いので特に気になるというほどではなかった。

6.とは言え、カルダーラは今回のように超一流のオケ(アッカデーミア・ビザンティーナ)と超一流の歌手+一流の歌手で観劇すると、実に素晴らしいオペラ・セリアであることが実感された。カルダーラはヴェネツィア出身ではあるが、ヴィヴァルディやマルチェッロと比較するとはるかにセッコ(乾いている)である。そして威厳のある表現に長けているが、必要に応じてリリカルな歌も難なく出てくる。乾ききってはいない。そういう意味で聴き所は多種多様で、かつオペラ・セリアならではの聴かせどころが見事なのだ。

7.これは蘇演なので、上演の準備は手間暇がかかることは想像に難くない。次々と蘇演もの、あるいはそれに準ずる作品、あるいはルネサンス期をふくめた古楽(オペラ以外の作品を含む)の掘り起こしをつづけてきたインスブルック古楽祭の運営方針とこの音楽祭が49年も継続していることに賛嘆の念を抱かずにはいられない。来年は50周年である。

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