チェスティの家
作曲家チェスティの家を見た(インスブルック)。インスブルックの大聖堂前の広場に面した立派な家で、近年修復され、現在は一般市民が居住している。チェスティが住んでいたことを示すプレートもある。
17世紀の大作曲家チェスティは一般にはあまり知られていない作曲家かもしれない。が、生前は大作曲家であったし、近年、彼の作ったオペラが蘇演(復活上演)され、《ラ・ドーリ》などはブルーレイも発売されている。インスブルックには縁の深い作曲家なのだ。
アントニオ・チェスティが生まれたのは、トスカーナ地方のアレッツォで1623年8月5日のことだった。彼は最初はフランチェスコ会の修道士となる。若いころは歌手として活躍していた。シエナで最初にオペラが上演された際にも歌ったようだ。1640年代にフィレンツェのメディチ家の庇護の下に入る。そしてフィレンツェの文人グループの集まりである Accademia dei percossi のメンバーとなる。17世紀、18世紀のイタリアの文化活動(オペラ創作を含む)にとってアッカデーミアは大変重要だ。イタリアの場合は、各都市に複数のアッカデーミアが存在することが多い。チェスティはこのアッカデーミアを通じて、ジョヴァンニ・フィリッポ・アポッローニやジャチント・アンドレア・チコニーニと知り合うが、かれらはチェスティがオペラ作曲家となった時に、リブレットを提供している。
チェスティに関して注意すべきなのは、古い資料には誤解があって彼のオペラの初演地がヴェネツィアと書いてある場合に、実はインスブルックが初演地であることがある。たしかにチェスティは1651年にヴェネツィアでオペラを発表して成功をおさめるのだが、その翌年から約5年間、インスブルックのフェルディナント・カール大公のもとで働いているのだ。
1655年には《アルジーア》がインスブルックで初演されているが、リブレッティスタは前述のアポッローニで、しかしもっと重要なのは、これがスウェーデン女王クリスティーナが、自ら退位し、ローマへ居を構える途中で、しかもここで正式にカトリックに改宗したのを記念しての上演であった。クリスティーナはプロテスタントからカトリックに改宗した女王であったので、カトリック教会にとっては対抗宗教改革という観点からもっとも優遇すべき人物であり、実際ローマに住むようになってから彼女のサロンはローマ第一の文化的サロンとなった。
さて、5年間インスブルックで働いたチェスティだがさらに重要なポストを与えられるところであったのだが、ウィーンの皇帝レオポルト1世に招かれ宮廷楽長となった。その後、フィレンツェに戻りそこで亡くなった(毒殺されたという説もある)。
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