« ドニゼッティ《ピーア・デ・トロメイ》 | トップページ | 『ピランデッロ戯曲集 III』 »

2025年1月 9日 (木)

『全ての叡智はローマから始まった』

藤谷道夫著『全ての叡智はローマから始まった』(さくら舎)を読んだ。

本書は著者の思いがストレートに詰まった本であると思う。通常の学術書では、客観性を重んじて著者の思いは後景に退いて淡々と記述されることがほとんどである。この本は違う。著者は、古代ローマをどう捉え、ユリウス・カエサルはどこがどう偉大であったのかを雄弁に論じる。さらに後半では、ローマの建築技術や都市設計について、技術の深掘りを丁寧にしていく。

筆者は遅まきながら、カエサルの偉大さに、はじめて心底納得がいった。古代ローマについても共和制の部分から説明がされていて、元老院があるのは独裁をゆるさないという意味で優れたシステムなのだが、やがてそれが堕落し、既得権益を守る集団と化してしまう。政治家が、民衆派と元老院派に別れ、頂点についた側は、敵対する側を徹底的に粛正する。粛正の度合いは、まさに血まみれで恐怖のほかはない。しかし敵を粛正しなかった唯一の政治家がカエサルなのだ。彼の目的は、広大な領土を持つようになったローマが、属州の民をも統合する政治システムを作ることだったのだが、既得権を重視する人間から観れば、それは市民権の安売り、ばらまきと映ったであろう。

筆者は、バロック・オペラで何度もカエサル(チェーザレ)が出てくるのに出会ってきた。ヘンデルの『ジュリオ・チェーザレ』やヴィンチの『カトーネ・イン・ウティカ』、昨夏観たジャコメッリ作曲の『チェーザレ』(ヘンデルとはリブレットが異なる)。いずれの場合も、オペラなので、歴史的事実に脚色が加えられているが、チェーザレが敵を赦す、あるいはだまし討ちを良しとしないのは、一貫している。18世紀のリブレッティスタたちも、聴衆も、そこは理解していたのだろう。

カエサルは、自らを神格化することはなく、「はげの女たらし」などという批判にも甘んじていた。女たらし、の部分は筆者は気になるのだが、元老院議員の多数の妻と関係を持っていたのだが、誰一人カエサルを恨む女性はいなかったというのは驚きだ。その秘密・秘訣についてはほとんど書かれていない。

本書で、古代ローマの長い歴史を通じて書かれているのは、どういう既得権益(元老院議員は大土地所有者となっていく)が形成され、それを破壊してでも新たな統治システムを作ることが必要と考えるカエサルの統治システムに関する知見の先見性である。

以外な方向での発見は、イエスの教えを先取りしていたのが、カエサルの考え方だという点だ。筆者にその当否を判断する能力はないが、言われてみると、そういう観点から見れば、そうなのかもと思ったのだった。

キリスト教ついでに言えば、コンスタンティーヌス帝のようにキリスト教を国教化した皇帝は、教会側からはありがたい偉大な存在なわけだが、ローマ帝国側からみるとどんな体制変化をもたらしたか(ローマをローマらしからぬものにしたと著者は厳しく判定している)を論じている。

さらに、ローマの建築技術についても、ローマのコンクリートの強さの理由や巨大な石の運び出しと現代のクレーン車の比較なども興味深かった。

ローマの、ローマ帝国の理念が軸のように貫かれているので、一つのパースペクティブが開けてくる本である。著者は、こういう説もある、ああいう説もあるという形の叙述ではなく、自身の見解をすぱっと潔く論じているので、爽快である。

 

 

|

« ドニゼッティ《ピーア・デ・トロメイ》 | トップページ | 『ピランデッロ戯曲集 III』 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« ドニゼッティ《ピーア・デ・トロメイ》 | トップページ | 『ピランデッロ戯曲集 III』 »