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2024年11月26日 (火)

ドニゼッティ《ピーア・デ・トロメイ》

ドニゼッティ作曲のオペラ《ピーア・デ・トロメイ》を観た(日生劇場、11月24日)。

ピーア・デ・トロメイというのは人名で、トロメイ家のピーアということなのだが、実は、ことはそう単純ではない。

ダンテの煉獄第5歌にピーアという人物(煉獄なのでその魂)が出てくるが、この人は「私はピーアです」とは名乗るのだが、名字は名乗っていない。ダンテが生きた時代に近い古註によれば、シエナのトロメイ家のピアだろうということになっていて、そこではピーアは夫(ネッロ・デイ・パンノッキエスキ)により殺された、理由は夫が別の有力家系の女性と再婚するため、もしくは、ピーアが不貞を働いていたため、あるいはその両方となる。実際、ネッロはマルゲリータ・アルドブランデスキという女性と再婚していることは書面で確認できるのだが、そこには前妻の名前がない。しかも、ネッロの時代には、トロメイ家にはピーアという女性が記録上存在していないのだ。

だからトロメイではなくてマラヴォルティ家のピーアではないか、という説もある。この人はややこしいことにネッロ・デ・パンノッキエスキを代理人としてトッロと結婚した。

19世紀になってこの『神曲』に登場するピーアはバルトロメオ・セスティーニによって物語詩に書かれる(1822)。この時、ギーノという人物がこの時付け加えられた。ネッロの従兄弟でピーアに横恋慕する人物である。彼は、煉獄篇の第6歌に登場している(ギーノ・ディ・タッコ)。しかし名前はギーノだが、ネッロの従兄弟ではない。セスティーニの物語詩においては、ギーノはネッロの友人で、ピーアに拒まれたのを逆恨みし、ピーアと弟があっている場面をネッロにみせピーアが不倫を働いていると思い込ませるという仕組みになっている。

細々とした点がわれわれが観るドニゼッティのオペラのピーアおよびその周辺の人物と異なりつつ重なっているわけである。しかしこういったことはそれを専門とする人間以外は大づかみに把握しておけばよいことだろう。

今回、上演の前に藤原歌劇団総監督折江氏の解説があった。《ピーア》がなじみのない作品ゆえあらすじ紹介に注力するとのことであった。そこでなるほどと思ったのは、トロメイ家とパンノッキエスキ家がそれぞれ教皇派と皇帝派に属しており、《ロメオとジュリエット》のような構造を持つとの指摘だった。それならば、ピーアが弟ロドリーゴと会うことを秘密にしていたのもうなずける。ロドリーゴは敵地に乗り込むことになるので、姉を訪れることが知られては危険なわけだ。先行作の観点からすれば、この教皇派(グエルフィ)と皇帝派(ギベリーニ)の要素を取り込んだのはセスティーニより後に彼の物語詩を踏まえつつ戯曲を書いたカルロ・マレンコだった(1830年代)。

ここまでの複雑な経緯を一層複雑にしているのは、ドニゼッティ、カンマラーノが改作・改版をしていることで、つづめて言えば、オペラ《ピーア・デ・トロメイ》にはヴェネツィア版、セネガリア版、ナポリ版があるのだ(これらの版の相違、製作の経緯については、プログラムで小畑恒夫氏による詳細な紹介がある)。

演奏は、期待以上のものだった。舞台の衣装が敵味方で色わけされているし、衣装自体も豪華とまでは言えないものの中世に想いを飛ばす助けとなるものだった。飯森範親(敬称略、以下同様)の指揮が納得のいくきびきびしたものだった。ともすれば、日本では、ロマンティックな要素があるとその情感を丁寧に描こうとしてテンポがずるずると遅くなっていく傾向が見られるのだが、この日の飯森の指揮ではそんなところはみじんも観られなかった。ピーアが独白するアリアで歌手のテンポに合わせるというようなことはあったが、すぐにレクーペロして、戦いや雄々しい歌詞ではヴェルディの《イル・トロヴァトーレ》を想起させる湧き上がる活力にみちた音楽を聴かせてくれた。《ピーア》と《イル・トロヴァトーレ》は、プロットの要素をひろっていくと類似点がいくつかある。主要な女性(ピーアとレオノーラ)が毒を飲んで死ぬ。女性が横恋慕する男に迫られる(ギーノとルーナ伯爵)。登場人物が二つの陣営に分かれていて戦闘がある、などなど。飯森は、勇ましいところから、3拍子や8分の6などに変わるとギアチェンジして、しかも楽しげな浮き立つ感じが良く出ていて、ドニゼッティ独特の高揚感を味あわせてくれた。

ロドリーゴがメゾ・ソプラノなのは、ドニゼッティの作では稀だと思うが、これはヴェネツィアのフェニーチェ劇場からの要請でメッゾのロジーナ・マッツァレッリに主要な役を与えなければならないという大人の事情があった。歴史をちょっと遡れば、ロッシーニのオペラ・セリアにはヒーロー的な役をメゾ・ソプラノが歌うことは、しばしば観られるわけで、そう驚くことではないのだが、ヴェルディの方向へ下っていくと、ズボン役は《仮面舞踏会》のオスカルのようにお小姓役などであって、軽い声の役になっていくのだが、ロッシーニや《ピーア》でのロドリーゴはヒロイックな強い声を音楽が求めていると言えよう。その点では公演での星由佳子はむしろ女性的な声だった。

ピーア役の伊藤晴は、情感をのせロマンティックに歌い上げるタイプで、子音の発音がより明確になれば一層よかった。男性陣は、かなり発音がよく聴き取れ、熱演であった。思えば、日生劇場が上野の文化会館や新国立劇場とくらべて小ぶりであるのも、良い効果をあげているのかもしれない。この劇場は、バロック・オペラの上演にも向いていると感じた。

バロック・オペラの時代であれば、ロドリーゴのようなヒロイックな役柄は、カストラートが歌う場合もあったし、女性歌手が歌う場合もあり、歌手の性別はその時の劇場の事情により柔軟に変えることができたわけだ。

上演機会のまれなオペラを、これだけのレベルの公演で味わえて、満足であった。聴きごたえのある曲がいくつもある放置しておくには惜しいオペラであると感じたし、上演を実現した方々に感謝したい。

 

 

 

 

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