コンサート《ヘンデルとグレーバー》その3
コンサートで演奏された作曲家たちの背景の続きです。プログラムの Franz Grail の解説を参照しています。
1685年にゴットフリート・フィンガーは、イングランドのジェイムズ2世の礼拝堂の音楽家となった。しかしその3年後、ジェイムズ2世はいわゆる「名誉革命」で王位を失い、フィンガーはその地位を失う。が、すぐに独立した音楽家として、イギリスの音楽シーンで地位を得る。作品2を例外として、彼の初期の作品は室内器楽曲から構成されているが、それらはアムステルダムの出版社が出版している。ロンドンでは、フィンガーは人気のあったセミオペラや音楽劇的ショーに貢献した。1701年か1702年に彼はシュレージエンのカール・フィリップにヴァイオリニストとして雇われることになった。
ヤーコブ・グレーバーは出自も、生年月日も、音楽的教育をどう受けたかも知られていない。しかしおそらくイタリアで教育を受けたらしい。ロンドンには1703年にやってきて、おそらくトスカナの歌手フランチェスカ・マルガリータ・デ・レピーネと一緒だった。フィンガーと入れ替わりである。1705年に牧歌的オペラ《Gli amori d'Ergasto》が上演されたが大失敗。おそらくは歌手が悪かった。グレーバーはロンドンを去り、Brieg にいたカール・フィリップに雇われ、やがてインスブルックに行く。グレーバーの愛人フランチェスカ・マルガリータ・デ・レピーネはロンドンに留まり、別のドイツ人音楽家ベルリン生まれのヨハン・クリストフ・ペプシュと結婚した。彼の方がはるかに作曲家として成功した。何と言っても《乞食オペラ》の共作者として有名だろう。しかしそれだけでなく、彼は多作で、イギリスの音楽学の始祖でもある。 Academy of Ancient Music および Madrigal Society の共同創設者で、 'early music (古楽)’を創始した。当時は最新のものが最善と考えられていた時代であったにもかかわらずである。
グレーバーやフィンガーと同様、ペプシュの音楽にもフランスやイタリアの音楽様式が入り込んでいる。3者ともバロックの管楽器リコーダ、フルート、オーボエを愛好した。3者とも様式的には似ていて、それはヘンデルがローマのルスポリ侯のために書いた1708年の作品にも共通するものだ。
室内カンタータは煮詰められたオペラのようなもので、劇的な小さなシーンの中でバロックの情念的言葉で表現される。結局4人の作曲者とも、よく旅をし、コスモポリタンで、様々な国のスタイルを知り、それを融合させた。ただしヘンデルが最も普遍的で創意工夫に富んだ作曲家であった。彼の演奏は途絶えることがなかったが、グレーバーやフィンガーは雇い主とともにマンハイムやハイデルベルグにそれぞれ移動し、忘れ去られてしまったし、作品も多くが消失した。それが今日じょじょにヨーロッパのあちこちで発掘されているところである。
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