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2024年9月11日 (水)

ヴィヴァルディ《オルランド・フリオーソ》その3(演奏評)

今回のバイロイトの辺境伯劇場での公演について。

前々項で記したように、オケはイル・ポモドーロ。今回のメンバーは20数人だった(歌手のソロコンサートなどでは数人の編成であることが多い。それはイル・ポモドーロに限ったことではないが)。

指揮は、フランチェスコ・コルティ。当夜、筆者の席は桟敷の一番低い階(日本風に言えば2階)で最も舞台に近い席だったので、オケおよび指揮と舞台が見通せた。観客席から見て舞台の左端が隠れてしまう。コルティは、オケも歌手もぐいぐい引っ張っていくタイプで、そのためアリアの途中でテンポがダレることは皆無なのだが、アルチーナ(ジュゼッピーナ・ブリデッリ)やアンジェリカ(アリアンナ・ヴェンディテッリ)が男を手玉に取って二股をする場面などでは、多少、テンポに自由があってもと思わないではなかった。

序曲などは衝撃的な速さであったが、これは、オルランドの被る運命の苛烈さを思えば相応しいテンポの選択かもしれないし、イル・ポモドーロだからこのテンポで音楽的に柔軟さを保って演奏できるのだとも思う。

歌手人はカウンタテナー(オルランドのミネンコ、ルッジェーロのティム・ミード)、上記のブリデッリ、ヴェンディテッリ、ブラダマンテのソーニャ・ルニェ、バスのホセ・コカ・ロサに至るまで、アジリタが綺麗で、コルティのテンポでも様式感が崩れないのは立派だった。

タイトル役のミネンコは音域も上から下まで、表出すべき感情も嫉妬、愛情から正気を失う状態までこの上ない広がりをダイナミックに、低声部では地声も混ぜて巧みに表現していた。

アンジェリカのヴェンディテッリおよびティム・ミードも見事なカント・バロッコで素晴らしい。

ヴィヴァルディのオペラが音楽的に充実しているのは第一幕、第二幕でこれは文句なく素晴らしいのだが、第三幕はややレチタティーヴォに頼って相対的に弱い面がある。もしかすると、楽譜の残存状況が第一幕、第二幕とは異なるのだろうか。

演出は舞台装置はかなり簡素で、現代の椅子がいくつか並べられたりする。ただし、衣装がよく出来ていて、人物の識別がしやすかった。衣装は現代服ではないが、かといって18世紀風でもない。第二幕では、メドーロとアンジェリカが木々に自分たちの名前を刻むところでは、文字が舞台に投影されそれが移動するという工夫を見せていた。木に刻んでも、客席からはほぼ見えないので何らかの工夫が必要なところだ。オルランドの狂乱の場は、像を倒したりという場面があるはずなのだが、そこはオルランドは舞台を彷徨う形に変形されていた。

このプロダクションはフェッラーラのテアトロ・コムナーレとモデナのパヴァロッティ劇場との共同制作なので、ひょっとすると劇場の装置で使用可能なものが、辺境伯劇場と前記2劇場では演出の細部は異なっているのかもしれない。そちらは見ていないので何とも言えないが。

ともあれ、ヴィヴァルディの音楽の悦びに満ち溢れた一夜であった。感謝。

 

 

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ヴィヴァルディ《オルランド・フリオーソ》その2(あらすじ)

《オルランド・フリオーソ》は前項で記したように登場人物が多い。

アリオストの原作が大長編の騎士物語(詩の形で書かれている)なので、リブレット作者がどのエピソードを取って、あとは全部捨てるという思い切りが必要となる。ヴィヴァルディの《オルランド・フリオーソ》は、ヘンデルの《アルチーナ》などとは異なり、アリオストの原作の主人公オルランドが登場し、彼の狂気が扱われるので、それがなぜ生じたか、どう解決したかが描かれているので、ストーリの複雑さが増している。

簡単にあらすじを紹介しよう。筆者の場合、フルストーリを細かく最初から説明されるとストーリが逆に頭に入らず、簡易版で幹の部分がわかって後から枝葉を付け加える方が理解しやすい。読者によって、最初からフルストーリが頭に入る方もいらっしゃるとは思うがここは簡易版で。

第一幕

メドーロという若者が難破を逃れてある島にやってくる。メドーロはアンジェリカの恋人なのでアンジェリカは喜ぶが、アンジェリカに恋しているオルランドが嫉妬をあらわにするので、アンジェリカはメドーロは兄弟だと嘘を言う。

魔女アルチーナは、騎士ルッジェーロを気に入り、魔術を使って彼の妻ブラダマンテを忘れさせ、アルチーナを愛するようにさせる。男装してやってきたブラダマンテはルッジェーロの「心変わり」を知る。ルッジェーロは妻を認識できない。

第二幕

森の中。アストルフォはアルチーナを愛しているのに、アルチーナはつれないと嘆く。アルチーナは一人の恋人では満足できないし、それをアストルフォは受け入れるべきだと言う。

ブラダマンテはルッジェーロに指輪を見せると、アルチーナによる愛の呪縛がとけ、ブラダマンテが誰かがわかり、今までの自分の行為を悔いる。ブラダマンテはすぐにはゆるさない。

アンジェリカは、オルランドを追い払うために洞窟に行ってある薬を取ってきてくれと言う。オルランドはそこで魔術にかかる。

アルチーナはメドーロとアンジェリカの結婚を取り計らう。二人は愛を誓う言葉をあちこちの木に刻む。苦労して洞窟から逃れでたオルランドはこの木に刻まれた言葉を読み、アンジェリカに騙されたことを悟る。怒りのあまり彼は正気を失う。鎧兜を脱ぎ捨て、彼は木を抜き始める。

第三幕

ルッジェーロ、ブラダマンテ、アストルフォは、オルランドが死んだものと思っている。彼らはヘカテの神殿の前で、復讐を誓う。神殿の中のメルリンの灰を奪ってアルチーナの魔力を奪おうとするのだ。彼らの会話を盗み聞いていたアルチーナは激怒する。アルチーナは魔力を増そうと思い神殿に入るが、そのすきに三人も入る。アルチーナは男装したブラマンテ(アルダリコ)に惚れている。そこへオルランドが現れるが正気を失ったままで、暴れまくり、結果的にメルリンの像を倒して、アルチーナの魔力を奪う(この場面は演出のため具象的に描かれてはいなかった)。

島は一瞬で荒野へと変わり、アルチーナを取り囲んでいた豪華な建物は全て消え失せる。

オルランドは眠りに落ちる。

アルチーナは醜い姿に変わっているが(今回の演出では特になし)、復讐のためオルランドを殺そうとする。ブラダマンテとルッジェーロが彼を守る。

目が覚めるとオルランドは正気に戻り、アンジェリカへの恋心も解消している。アルチーナは彼らを呪い、去っていく。アンジェリカは騙したことを悔いるが、オルランドは許し、アンジェリカとメドーロを祝福してめでたしめでたし。

原作を読むと、奇想天外なところがいっぱいあって、オルランドがアンジェリカを怪物から救う(西洋絵画にはオルランドやその他の登場人物を絵画化したものが多くある)のだが、アンジェリカはお礼を言うまもなく、他の男のところへ行ってしまうし、オルランドの狂気は、モノとして存在し、そのありかは月なのである。まあ、この辺りは、ヴィヴァルディでは出てこないのであるが。

アリオストの『オルランド・フリオーソ』はイタリアでは、日本で言えば『平家物語』くらい有名で、平家と異なり作者は一人であるが、それを元にいくつものオペラや絵画作品が作られたのである。つまりかつてはヨーロッパ中でよく知られた物語であった。

近代の演奏ではクラウディオ・シモーネが1978年に蘇演したわけで、その功績は実に大きいと思うが、彼はかなりカットや順序の入れ替えをしているので注意が必要である。CDやDVDを聴き比べ、見比べるとすぐに気づく。今から見れば、楽器や奏法が古楽でないことが気になる面もあるものの、マリリン・ホーン、ヴァレンティーナ・テッラーニ、ヴィクトリア・デ・ロス・アンヘレスの歌唱は素晴らしい。テンポはやや遅め。

 

 

 

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ヴィヴァルディ《オルランド・フリオーソ》

ヴィヴァルディのオペラ《オルランド・フリオーソ》を観た(辺境伯劇場、バイロイト)。

イタリア語で歌われ、字幕はドイツ語と英語。

指揮はフランチェスコ・コルティでオケはイル・ポモドーロである。演出はマルコ・ベッルッシ。このプロダクションはフェッラーラのテアトロ・コムナーレおよびモデナのテアトロ・パヴァロッティとの共同制作。

配役は、

オルランド・・・ユーリ・ミネンコ

アルチーナ・・・ジュゼッピーナ・ブリデッリ

アンジェリカ・・・アリアンナ・ヴェンディテッリ

ブラダマンテ・・・ソーニャ・ルニェ

ルッジェーロ・・・ティム・ミード

メドーロ・・・キアラ・ブルネッロ

アストルフォ・・・ホセ・コカ・ロサ

合唱・・・アッカデーミア・デル・サント・スピリト合唱団(フェッラーラの合唱団で、名前は1598年に創設されたフェッラーラのアッカデーミアに由来。作曲家のフレスコバルディやレグレンツィもメンバーだった)

ヴィヴァルディとアリオストの『オルランド・フリオーソ』の関係はちょっとややこしいので整理しておこう。

簡単に言えば、ヴィヴァルディのオルランド関係は3作品ある。

1713年11月にジョヴァンニ・アルベルト・リストーリ作曲、グラツィオ・ブラッチョーリ台本で《オルランド・フリオーソ》(RV.anh.74)が初演される。これは純粋なヴィヴァルディ作品ではないが、リストーリの曲に加えて彼の曲が加わっている。彼は劇場支配人としてこの作品を上演したのだ。好評であった。
翌1714年に、ヴィヴァルディはヴェネツィアでのデビュー作として《オルランド・フィント・パッツォ》(RV727)を初演する。これはオルランドものではあるが原作はボイアルドの『恋するオルランド』。しかしこれが大失敗だった(というのが通説で、そうではなかったという異説もある。資料が十分でないため決定的なことが言えないようだ)。

大失敗説を一応採っておくと、そのシーズンの穴埋めをするために、大急ぎで、前年の《オルランド・フリオーソ》を元に彼の曲を加え、台本にも手を入れて彼とリストーリの曲が混在した《オルランド・フリオーソ》を作った。これにはさらにヴィヴァルディの曲が加わっている(RV819ー近年になって作品番号がついた)。

そこから10年以上が経過して1727年にサンタンジェロ劇場のオペラ監督だったヴィヴァルディが作曲したのが《オルランド》(RV.728)である(通常、《オルランド・フリオーソ》と呼ばれるのはアリオストの原作によるものか)。これは以前のリブレットに手が加わり(それが誰かは不明なのだが、ヴィヴァルディ自身ではないかという説もある)、今度はすっかりヴィヴァルディによって作曲された。これが今回バイロイトで上演された《オルランド・フリオーソ》である。ちなみにフリオーソでもフリオーゾでも同じ(どちらの発音も正しい)。

 

 

 

 

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2024年9月10日 (火)

クリストフ・ルセのランチ・コンサート

ルセのランチ・コンサートを聴いた(エルミタージュ、バイロイト)。

バイロイトのはずれに離宮があって、そこでのランチ・コンサート。実はディナー・コンサートもある。

ルセもオペラ、カンタータ、独奏と3日連続でご苦労様である。

この離宮でのランチ・コンサートは毎年開催されている。離宮のカーブした長い回廊(ウィング)で食事をし、その後、礼拝堂に移ってミニコンサートがある。

演奏者は数人のこともあれば、今回のように一人(チェンバロ独奏)のこともある。

ルセのプログラムは、クープラン(1668−1733)、ラモー(1683−1764)、Antoine Forqueray (1672-1745) でフランス・バロックを短い時間だが堪能した。

クープラン、ラモーはともかく、Forqueray は初めてだったが、彼の音楽は二人に比べて、少し優美さ、華麗さを落とし、むしろドイツ的というかオスティナートで押してきたりして異なる味わいがあり、たいへん面白かった。ほぼ同世代で、埋もれた作曲家の中に未来を予見させる要素があったのかもしれない。今、wikiを調べてみると、彼の音楽は激しい表現の衝動から「悪魔のフォルクレ」と言われたという。なるほど。ひたすらにエレガンスを追求するという意図は本人にそもそもなかったということなのだろう。

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2024年9月 9日 (月)

サンドリーヌ・ピオのリサイタル

フランスのソプラノ歌手サンドリーヌ・ピオのリサイタルを聴いた(バイロイト、オルデン教会)。

オルデン教会はバイロイトのややはずれにある。18世紀にはこの裏手に大きな池というか湖が広がっていて、バイロイトの領主は船を浮かべて模擬戦争をやったという。今は埋め立てられてその池・湖はない。

カンタータがメインなのでプログラムを参照しつつカンタータについての整理を。

筆者自身も数年前までカンタータといえばバッハの宗教カンタータが思い浮かぶ状態だったので、それはある意味で極端なパースペクティヴだということが最近は実感できている。

カンタータは大まかにいえば1630年代くらいにイタリアで出てきた。初期のカンタータは、歌の旋律と通奏低音だけが記されている楽譜も多いそうで、貴族の館などで演奏されることが多かった。せいぜいそこに一丁か二丁のヴァイオリンが加わる程度だった。

バッハのようなフルオーケストラのカンタータ(宗教カンタータ)はドイツのプロテスタンティズムに特有の現象なのである。

イタリアでは、貴族の当主やその妻の誕生日や聖名祝日、子供の結婚など、お祝いに際してカンタータを作って祝うというジャンルであった。18世紀に入る頃から、レチタティーヴォとアリアの連なる曲であるという形式が固まってきた。カンタータの生産地としては、ヴェネツィア、フェッラーラ、ボローニャ、ナポリそしてローマが挙げられる。

ローマの名家、オットボーニ、ボルゲーゼ、パンフィリなどは、カリッシミ、チェスティ、ストラデッラ、ヘンデルらにカンタータを書かせてきたのだ。とりわけ、ローマでは、時の教皇がオペラ上演を禁ずることがあったので、世俗カンタータが栄えた。要するに小型のオペラ、ミニチュア版オペラとしてもてはやされたのだ。

1699年シャルル・アンリ・ド・ロレーヌがミラノに入城する。この人ロレーヌ公国の貴族なのだが、スペイン・ハプスブルク家に軍人として仕えていた。1701年にスペイン継承戦争が起こるので、このあたりのヨーロッパの領主は単に世代交代だけでなく、入れ替わりや移動が激しく、またそれに音楽家も間接的な影響を受けていることが多々ある。シャルル・アンリは、音楽家として、ミシェル・ピニョレ・ド・モンテクレールを連れてきた。結論からいえばミシェル・ピニョレはこのミラノ滞在により、イタリア風カンタータの影響を受け、オケにコントラバスを持ち込むことになった。リュリとラモーの間の人である。ただし、1706年にジャン・バティスト・モランのカンタータ集が出版されている。

モンテクレールは1667年生まれで、1686年にパリに出てきた。ミラノ滞在を経て1702年か03年にはパリに戻ったのだが、作曲家としては遅咲きだった。彼の書いたカンタータの一つが当日演奏された《ルクレツィアの死》である。

続いて演奏されたのはコレッリのコンチェルト・グロッソ第一番。

ドメニコ・スカルラッティの 《Tinte a note di sangue》

アレッサンドロ・スカルラッティの4声のソナタ。

ヘンデルの 《Agrippina condotta a morire》

世俗カンタータの本場イタリアを中心にしつつ、フランスのカンタータ(ただし歌詞はイタリア語)、作曲されたのはスペインのD.スカルラッティのカンタータとよく考えられたプログラムである。

オケは、クリストフ・ルセ指揮のレ・タラン・リリック。このオケは2024年はバイロイト・バロック・フェスティヴァルのレジデンス・オーケストラなのである。

サンドリーヌ・ピオの歌唱は文句なく素晴らしかった。ここで演奏されたカンタータはどれも生きる、死ぬ、別れなど激しい主題なのだが、彼女は一声で音楽に緊張感が走るのだ。決して大声をあげるわけではない。ピアノでもフォルテでも必要なテンションが音楽に表出するのだ。しかも情熱的になったときに、様式感が崩れないのが素晴らしい。フレーズのおさまりがきれいなのだ。古楽器の演奏がフレーズをパッと切り上げるのと平仄が合う。迸るパッションとカント・バロッコの様式感は両立するのである。勢いにまかせて歌ってしまうところは皆無であり、アジリタもきれいだった。

アンコールはヘンデルのオペラ《ジュリオ・チェーザレ》から 'Se pieta di me non senti'  ともう一曲(詳細は不明)ヘンデルだった。

ちなみに会場のオルデン教会は、沢山の蝋燭が灯されていて独特の雰囲気だった。蝋燭型の電球ではなく、本物の蝋燭である。2台テレビカメラが入っていたので、後日なんらかの形でネットでも見られるようになるかもしれない。

 

 

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2024年9月 8日 (日)

ポルポラ《アウリデのエフジェニア》その2

ポルポラ作曲のオペラ《アウリデのエフジェニア》を再び観た(バイロイト、辺境伯劇場)。

さすがルセとレ・タラン・リリクである。初日の時より、ポルポラ節を掴んできた。

強弱やリズムのきれ、緩急に確信を持ってやってくるようになった。ルセとレ・タラン・リリクの場合、これまでのオケより練習時間が取れなかったようだ。ポルポラへの慣れが少ないから、実演を通して慣れる余地があるわけだ。

本番になってしまうと二重唱や三重唱は伴奏の部分に磨きをかけることは可能でも、二人、三人の掛け合いのテンポやアッチェレランド、リタルダンドは変えるのがむずかしかろう。

現代においては、練り上げられた重唱を聴くのは贅沢な経験なのである。

演出は衣装を含めほぼギリシア神話およびリブレットに沿っているのだが、3体の胎児らしきものが、木枠で囲まれたガラスの中に入って出てくるのはどういう意味だったのか。演出家ツェンチッチが我々に投げかけるオープンクエスチョンだ。

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2024年9月 7日 (土)

ルシル・リシャルドのリサイタル《バロックの魔女たち》

ルシル・リシャルドのリサイタルを聴いた(バイロイト、シュロス教会)。シュロス教会は、位置的には辺境伯劇場の真向かいで、階段をのぼった少し高いところにある。

リサイタルのタイトルは Baroque magicians でバロックの魔術師たちが直訳となる。

チェンバロ伴奏は Jean-Luc Ho.

プロフラムは3つの部分からなり

メデ(メデア)に関するものが、ヘンデル、カヴァッリ、Juan Cabanilles (1644-1712), シャルパンティエのオペラから。

アルミードに関するものが、リュリとダングルベールから。

チルチェ(キルケ)に関するものが、William Webb (1625-1680) , パーセル、クープラン、Francois Collin de Blamont (1690-1760)からという具合。

音楽祭のプログラムは、既知の有名作曲家とあまり知られていない作曲家が組み合わせられることが多い。今回もその例に漏れない。この方法だと聴く側は、既知のものを基準に、未知の曲をそれなりに位置づけることが可能だし、それによって自分の音楽世界の地平を広げることができる。未知の作曲家、楽曲に出会うのも楽しいものであるし、またそこから有名な作曲家が時代を超えて残った理由もほの見えることもある。

ここからはプログラムの Judith Altmann の解説を参照しつつ。

オペラに出てくる魔女はなかなか面白い存在で、一方で人間を超えた力を発揮しつつ、他方で、人間同様に恋に落ちてそれゆえに苦しんだりもがいたり、その恋の感情に飲み込まれてしまったりする。

バロック時代の劇場には宙づりや、奈落があって、天上世界や地獄を舞台上に現出させることができたのだ。前述の通り、魔女には多面性があるので、歌手としても歌いがいがあるというものだ。

バロック時代の悲劇的主人公として筆頭に上がる一人が王の娘で、魔女でもあるメデアである。彼女の悲劇はエウリピデスやセネカにまで遡るが、中世にもさまざまなヴァリエーションが生まれた。

最初に挙げられるのは、カヴァッリ作曲の《イル・ジャゾーネ(イアソン)》で、1649年にヴェネツィア初演。黄金の羊毛を探しに行くジャゾーネが、メデアの故郷に上陸し恋に落ちる。メデアの力を借りて羊毛を獲得したジャゾーネは、メデアと元々の婚約者イシフィレの間で葛藤する。しかし何故かハッピーエンドで終わる。カヴァッリのオペラの中ではメデアが地獄の霊を召喚する場面がある。

シャルパンティエの音楽悲劇《メデー》は、トマ・コルネイユのリブレットで1693年パリのパレ・ロワイヤルで初演。カヴァッリの作品と比較するとより後の時点の話となっていて、ジャゾーネとメデーは結婚し、子供が数人いる。二人はコリント王クレオンの庇護下で暮らしている。ところがジャゾーネはクレオンの娘を好きになってしまい、メデーを追放する。彼女は第三幕で自分の悲劇的運命をアリア'Quel prix de mon amour'で歌う。その後、凶行に及ぶのだ。クレオンを狂気に追いやり、その娘を殺し、自分の子供たちも殺してしまう。ヘンデルも《テゼオ》でこの題材を扱っている。1713年ロンドンのクイーンズシアター初演。第二幕の 'Dolce riposo'が有名。

それとは対照的に魔女アルミーダの話は、古代から伝わったものではなく1575ねんに書かれた騎士物語タッソー作『解放されたエルサレム』

から来ている。エルサレムを征服しようという十字軍の騎士が途中で魔女の魅惑に屈してしまう話だ。アルミーダはキリスト教徒の勇者たちを動物に変えてしまうが、自分もリナルドという勇者に恋してしまう。リナルドが解放されてついにアルミーダはキリスト教に改宗する。これを音楽化した最初の一つがリュリの《アルミード》である。1686年、パレ・ロワイヤルで初演。二幕のアルミードのモノローグ’Enfin, il est en ma puissance' で恋の虜になった苦しみを表現する。この曲は人気が出たので、ダングルベールはこれを用いてチェンバロ組曲を作った。

チルチェ(キルケ)ですらも、愛の呪縛から自由になることはできなかった。孤島に住み野獣に囲まれ、人が近づくと魔術をかけるのだが、彼女も恋に落ちた。オデュッセウスが通りかかった時のことだ。オデュッセウスは故郷のイタカに帰るのだが、チルチェは留まり嘆く。William Webbやパーセルは彼女の誘惑する力を描いている。

リシャルドの歌唱は思ったほどバロック歌唱ではなく、実際、プログラムを見ると彼女のレパートリーは中世から現代までということで、プーランクやストラヴィンスキ、ブリテンなどともにヘンデルも歌っている人なのだった。音楽が盛り上がってくるとロマンティックな歌い方になり、どの時代のものも歌うヴァーサタイルなスタイルなのだと納得。

 

 

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ブルーノ・デ・サのリサイタル その2

リサイタルの追加情報。

ブルーノ・デ・サが歌う歌と歌の間に器楽曲が演奏されたことは前項で記した。

その曲は、もともとオルリンスキーのリサイタルの時に演奏されるはずの曲だったのではないか、という示唆をある人よりうけ、なるほどと思い、以下にオルリンスキーのプログラムに掲載されている器楽曲を紹介する。イル・ポモドーロにしてみれば、歌は歌手の都合で変わるけれども準備してあった器楽曲を変更しなければならないとは考えなかったであろうからだ。

ちなみにオルリンスキーが歌うはずだった曲は、モンテヴェルディ、カッチーニ、フレスコバルディ、バルバラ・ストロッツィ、カヴァッリ、ジョヴァンニ・チェーザレ・ネッティ、アントニオ・サルトリオなどで17世紀中心のプログラムである。

器楽曲として掲載されているのは Biagio Marini (1594-1663) パッサカリオ、Johan Caspar von Kerll(1627-1693) の2丁のヴァイオリンのためのソナタ、パッラヴィチーノ(1630−1688)シンフォニア である。17世紀の曲ですね。前半でたぶんマリーニのパッサカリオが演奏されたのだと思うが、随分、思索的な対位法を駆使した曲だという印象があったが、ヘンデルとヴィヴァルディにはさまれて実は17世紀の器楽曲が流れていた(可能性が濃厚な)わけだ。

当初のオルリンスキーのプログラムでは歌も器楽も17世紀だったのに対し、ブルーノ・デ・サのコンサートでは結果的に18世紀の歌と17世紀の器楽曲が対比的に演奏されることになったわけだが、個人的には味わいが変わるので、不思議な感じにつつまれると同時に大いに楽しめた。

 

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ブルーノ・デ・サのリサイタル

ブルーノ・デ・サのリサイタルを聴いた(バイロイト、辺境伯劇場)。

このリサイタルはオルリンスキーのリサイタルが予定されていたのだが、彼の体調が悪くなり、急遽ブルーノ・デ・サに変更となったものなのだが、結論から言えば、大変素晴らしいもので、ブルーノ・デ・サの成長を感じるものだった。

オケはイル・ポモドーロ。音楽祭では、フルメンバーではないことが多いが、今回はヴァイオリンが Alfia Bakievaで、身体をリズミカルに動かしつつ生き生きとした音楽をする人で、チェロのミナージが通奏低音部の核となっていた。ミナージのチェロは、淡々とリズムを刻んでいることもあれば、朗々と渡された旋律を歌いあげることもあれば、爆発的エネルギーをもって低音部を強調することもあるし、早いパッセージもどこまででもテンポを上げられるといった具合で、超絶技巧が極めて音楽的な闊達さと表裏一体になっているのだった。ある一曲では、ピッチカットのみなので、チェロをギターのように横にかかえてつま弾いていた。同じイル・ポモドーロでもチェロがミナージの時と別の人の時とでは音楽のキレが違っていることは経験ずみなのだが、今回もそれを強く感じた。

急遽決まったリサイタルなので、今回の音楽祭のプログラムは全体が一冊の冊子になっているのだが、それには前述のオルリンスキーが歌うはずだったプログラムが掲載されており、当日はペラの印刷物が配布された。ただしそこに掲載されているのは、デ・サが歌う曲目であり、実際には歌と歌の間に器楽のみの曲がはいりそのいくつかは興味をかき立てられる曲だったのだが、プログラムには書かれていないのだった。

デ・サが歌ったのは前半が2曲。

ヘンデルの Gloria in Excelsis Deo とヴィヴァルディの In furore iustissimae irae で、前者は6曲から構成されているし、後者はアリア、レチタティーヴォ、アリア、アレルヤの構成となっていて、かなり長大なものだ。イル・ポモドーロの音楽的な活気にみちつつ、構成力とデ・サがどう歌ってもきっちりサポートしてくれる安心感が基盤にあって、彼はのびのびと、しかし曲どうしにメリハリをつけて、なおかつヘンデルの最終曲Quoniam tu solus sanctus では嵐のようなテンポでアジリタを歌い抜け、それにイル・ポモドーロもよしきたとばかりに全力疾走し(そこで音楽の形が崩れないのがさすが)会場は興奮のうずにつつまれた。

後半も長めの歌と歌の間には器楽曲がはいったがパンフレットに掲載はなし。後半の歌はバロック・オペラからのアリアで、ヘンデルの《アーチ、ガラテアとポリフェモ》から 'Qui l'augel' .  ハッセの《マルカントニオとクレオパトラ》から 'Un sol tuo sospiro' . ポルポラの《Germanico in Germania》から ’Parto ti lascio'  . 最後はヴィヴァルディの《オリンピアデ》から 'Siam navi all'onde  algenti'. 

ハッセやポルポラのアリアは、難度が高く、難度が高いというのは技巧的にもそうなのだが、曲のつぼを歌手やオケがつかんでいないと練習曲のように響いてしまいかねないのだが、デ・サもイル・ポモドーロもここがつかみのフレーズというのは逃さない。繰り返されるフレーズが単調になることがなく、常に歌手とオケの間にコミュニケーションが成立していて、それは軽妙であったり、掛け合いであったり、緊張をはらんだものであったりする。バロック歌唱で超絶技巧を要するものは、当時はカストラートがいたわけで(女性が歌うこともある)、現在はカウンターテナーが歌うことが多い(女性が歌うこともある)のだが、デ・サの声は目をつむって聴くとカウンターテナーか女性歌手かわからないような特殊な声なのである。ソプラニスタであるといえばそうなのだが、通常のソプラニスタと比較しても、声量がある。彼の声は成長過程にあるようで、柔軟性や必要に応じた声量の供給において目に見える(耳に聞こえる)進化が感じられた。

彼の歌唱スタイルはツェンチッチやファジョーリと較べると、多少カジュアルなところがある。字体でたとえればカチっとした楷書より行書で流していく感じだ。フレーズの細部をつきつめていくとアラがないわけだはないのだが、こういうカジュアルなスタイルの愉しさもある。楽しそうに歌っていて、それがこちらにも伝染するのだ。

アンコールではヘンデル、ヴィヴァルディ、モーツァルトなどが歌われたが、こちらはアンコールでいっそうカジュアル度が増し、踊りながら、身体をスイングさせながら、ステップを踏みながら歌っていた。アンコールの最中に、マイクをとり、オルリンスキーに電話をするから、早く治るようにエールを送ろうと言う話で、最初は携帯を舞台に向けオケのメンバーがエールを送り、くるっと向きを変え観客もオルリンスキーにエールを送ったのだった。また、次のアンコールではオルリンスキーの代わりなのですが、彼のようにブレイクダンスはできません、でもサンバは踊れるよ、と言ってステップを踏んだ。デ・サは若いし、お茶目なところがあるのだ。彼の演奏スタイル、歌唱、キャラクターは世代を超えて、若い人、あまりオペラに慣れ親しんでいない人にもアピールする魅力があると思う。若いオペラファンが増えるといいなあ。

デ・サは去年はインスブルックの古楽音楽祭でヴィヴァルディの《オリンピアデ》で喝采をあびていた。バイロイトでも2年前のヴィンチの《インドのアレッサンドロ》で見事な女装と歌唱で大人気だった。来日はまだなのだけれど、本人は来たいとのこと。

 

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ポルポラ作曲《アウリデのイフィジェニア》

ポルポラ作曲のオペラ《アウリデのイフィジェニア》を観た(バイロイト、辺境伯劇場)。

今年2024年のバイロイト・バロック・オペラ・フェスティヴァルの開幕である。この音楽祭は、昨年、Oper! Awards というドイツで唯一のインターナショナルなオペラ関係の賞でベスト・フェスティヴァルを獲得したのだが、あまり日本では知られていないのはまことに残念だ。

ヨーロッパでは、オペラを新しい潮流はいくつかあると思うが、もう新しいと呼ぶことさえためらわれるほど、バロック・オペラを取り上げる音楽祭は増えているし、オペラ・ファンの中に、一つのコーナーとして根づいていると言ってよいかと思う。

ポルポラはこの音楽祭ではすでに《カルロ・イル・カルヴォ(カルロ禿頭王)》が取り上げられ、驚異的に質の高い演奏と演出で度肝を抜かれた。この演奏は Carlo il calvo で検索すれば you tube でもご覧になれるし、CD化されたものも発売されている(CDはスタジオ録音)。

アリア一曲なら https://www.youtube.com/watch?v=A9CsrUmR4Z0 をどうぞ。

話を《アウリデのイフィジェニア》に戻す。この日の指揮者はクリストフ・ルセ。ペトルーやマルティーナ・パストゥツカの指揮と比較すると、フランス風の感じがする。いかにもポルポラ風、ナポリ風の和音を強調することが控えめで、歌手の旋律とオケが乖離する際も、そこを強調して緊張感を高めるというよりは、ソフトに響かせ、よく言えば上品な感じになるし、ポルポラになじんでいる人だと、味が薄めだと感じるかもしれない。ただその度合は二幕になると薄まった。

ストーリはグルックなどでおなじみかもしれないが、作曲年代はポルポラの方が先である。彼はヘンデルのライバルであり、ロンドンのいわゆる貴族オペラのためにこの作品を書いたのである。

あらすじ

幕開き前の背景

ギリシア軍はトロイに出航する前にアウリスにやってきた。大将のアガメンノーネ(アガメムノン、歌手ツェンチッチ)はディアナ(ジャスミン・デルフス)の神聖な森の雄シカを殺してしまう。神官のカルカンテ(カルカス)はアガメンノーネの娘イフィジェニアの犠牲によってのみ女神の怒りを静めることが出来るだろうと予言する。

第一幕

一通の手紙がウリッセ(オデュセウス、歌手はニコロ・バルドッチ、去年はインスブルックのヴィヴァルディ《忠実なニンフ》で歌っていた)に届く。その手紙は、クリテンネストラ(マリー・エレン・ネージ)に娘のイフィジェニア(ジャスミン・デルフス)とアキッレの結婚は遅延させるべきと警告するものだった。神官カルカンテ(カルカス、歌手リッカルド・ノヴァーロ)は、ディアナの命令を守るが、アキッレに真相は伝えない。ウリッセは慎重さこそが最高の美徳とほめたたえる。

イフィジェニアと母クリテンネストラはアウリスにやってきて、知らずにアキッレ(歌手マーヤン・リヒト)に出会い、イフィジェニアは恋におちる。最初混乱したが、ディアナも同じ歌手が歌う。イフィジェニアはモックの女性が演技をし、少し離れたところでジャスミン・デルフスが歌うのである。

妻子と再会したアガメンノーネは嬉しさとともに苦悩する。苦悩の真相をしったアキッレは彼女を守ると宣言する(第一幕の幕切れアリア)。マーヤン・リヒトは叙情的な歌は、ヴィンチの《インドのアレッサンドロ》をここで歌った時より上手くなったが、幕切れアリアの派手なブラブーラがある劇的なアリアでは、もう一つパンチが効けば、とないものねだりをしたくなるのだった。劇的なアリアになると、ツェンチッチやファジョーリの歌唱と比較しては気の毒というものなのだろうが、バロック・オペラの聴き所としてゆったりめのテンポで叙情的な曲もあれば、コロラトゥーラを駆使して、上から下まで声が駆け巡り、劇的な表情を作りあげるアリアもあってそれも幕切れアリアで明らかに作曲家も劇的に書いているのだから、聴き手もそれを期待したくなるのは無理もないのだ。

第二幕

ウリッセは軍隊に不満がつのっていることを警告する。イフィジェニアの犠牲を求めているのだ。アキッレは彼女を守るという。神官カルカンテは、ディアナの復讐をおそれよという。二つの立場が対立するアキッレとカルカンテの二重唱が幕切れの歌。この二重唱がなかなか聴かせるのだが、欲を言えばもう一段盛り上げることができたのではないか。指揮が二人の歌を邪魔しない安全運転なのは、わかるのだが、それで安住するのではなく、アキッレ、カルカンテの二人の緊張感を高める細かい工夫が欲しいところだ。

第三幕

アキッレはイフィジェニアをアウリスから逃す計略を考える。船に向かう途中で、神官カルカンテらにあい、再び葛藤が生じる。

イフィジェニアは、自らが犠牲になることを決意する。神官カルカンテが処刑する直前に、アキッレが飛び込んでくる。そこへ女神ディアナが死んだ雌シカとともにあらわれ、雄シカの死は雌シカの死であがなわれたと宣言し、イフィジェニアの自己犠牲の決意は、流される血よりも尊いと言う。アキッレは、神々の慈悲(clemenza)を讃え、皆が悦びのうちに幕。

演出はツェンチッチ。二幕の幕開けなどで深々と頭を垂れたり、鐘が鳴ったりと古代ギリシアの儀式をおもわせる場面がいくつかある。不気味なのはハッピー・エンドのはずの終幕で、舞台上の太鼓がたたかれるたびにギリシアの戦士が一人ずつ倒れていくのだ。

途中の場面で、ギリシアの戦士は着衣のときも、裸のときもあったが、第一幕では勇者の中心人物が股間があらわになっており、二幕では戦士全員が股間をあらわに登場した(ある種の肉襦袢をつけているかいないかは不明)。言われてみれば古代オリンピックでは、裸で競技をしていたのだよな、と思い出すが、オペラの舞台で出てくると多少びっくりする。それもツェンチッチの仕掛けの一つなのだろうと思う。

ジャスミン・デルフスが一人二役なのは、ディアナの場面が少ないからというのもあろうが、モック役を立てて離れたところで歌わせる意味はよくわからなかった。デルフスもネージも、キレッキレではないが、安定した歌唱だった。あるいは、指揮、オケと微妙な駆け引き、緊張をはらんだところが増えるとより面白いのではないかとも思ったが。

全体としては、極めてレベルの高い演奏、歌唱で、上記の注文はまったくないものねだりなのである。ポルポラを経験することで、たとえばオケやルセのこれからの音楽づくりに影響があるのだろうか、と思ったりもした。

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2024年9月 2日 (月)

コンサート《ヘンデルとグレーバー》その3

コンサートで演奏された作曲家たちの背景の続きです。プログラムの Franz Grail の解説を参照しています。

1685年にゴットフリート・フィンガーは、イングランドのジェイムズ2世の礼拝堂の音楽家となった。しかしその3年後、ジェイムズ2世はいわゆる「名誉革命」で王位を失い、フィンガーはその地位を失う。が、すぐに独立した音楽家として、イギリスの音楽シーンで地位を得る。作品2を例外として、彼の初期の作品は室内器楽曲から構成されているが、それらはアムステルダムの出版社が出版している。ロンドンでは、フィンガーは人気のあったセミオペラや音楽劇的ショーに貢献した。1701年か1702年に彼はシュレージエンのカール・フィリップにヴァイオリニストとして雇われることになった。

ヤーコブ・グレーバーは出自も、生年月日も、音楽的教育をどう受けたかも知られていない。しかしおそらくイタリアで教育を受けたらしい。ロンドンには1703年にやってきて、おそらくトスカナの歌手フランチェスカ・マルガリータ・デ・レピーネと一緒だった。フィンガーと入れ替わりである。1705年に牧歌的オペラ《Gli amori d'Ergasto》が上演されたが大失敗。おそらくは歌手が悪かった。グレーバーはロンドンを去り、Brieg にいたカール・フィリップに雇われ、やがてインスブルックに行く。グレーバーの愛人フランチェスカ・マルガリータ・デ・レピーネはロンドンに留まり、別のドイツ人音楽家ベルリン生まれのヨハン・クリストフ・ペプシュと結婚した。彼の方がはるかに作曲家として成功した。何と言っても《乞食オペラ》の共作者として有名だろう。しかしそれだけでなく、彼は多作で、イギリスの音楽学の始祖でもある。 Academy of Ancient Music および Madrigal Society の共同創設者で、 'early music (古楽)’を創始した。当時は最新のものが最善と考えられていた時代であったにもかかわらずである。

グレーバーやフィンガーと同様、ペプシュの音楽にもフランスやイタリアの音楽様式が入り込んでいる。3者ともバロックの管楽器リコーダ、フルート、オーボエを愛好した。3者とも様式的には似ていて、それはヘンデルがローマのルスポリ侯のために書いた1708年の作品にも共通するものだ。

室内カンタータは煮詰められたオペラのようなもので、劇的な小さなシーンの中でバロックの情念的言葉で表現される。結局4人の作曲者とも、よく旅をし、コスモポリタンで、様々な国のスタイルを知り、それを融合させた。ただしヘンデルが最も普遍的で創意工夫に富んだ作曲家であった。彼の演奏は途絶えることがなかったが、グレーバーやフィンガーは雇い主とともにマンハイムやハイデルベルグにそれぞれ移動し、忘れ去られてしまったし、作品も多くが消失した。それが今日じょじょにヨーロッパのあちこちで発掘されているところである。

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