ポルポラ作曲のオペラ《アウリデのイフィジェニア》を観た(バイロイト、辺境伯劇場)。
今年2024年のバイロイト・バロック・オペラ・フェスティヴァルの開幕である。この音楽祭は、昨年、Oper! Awards というドイツで唯一のインターナショナルなオペラ関係の賞でベスト・フェスティヴァルを獲得したのだが、あまり日本では知られていないのはまことに残念だ。
ヨーロッパでは、オペラを新しい潮流はいくつかあると思うが、もう新しいと呼ぶことさえためらわれるほど、バロック・オペラを取り上げる音楽祭は増えているし、オペラ・ファンの中に、一つのコーナーとして根づいていると言ってよいかと思う。
ポルポラはこの音楽祭ではすでに《カルロ・イル・カルヴォ(カルロ禿頭王)》が取り上げられ、驚異的に質の高い演奏と演出で度肝を抜かれた。この演奏は Carlo il calvo で検索すれば you tube でもご覧になれるし、CD化されたものも発売されている(CDはスタジオ録音)。
アリア一曲なら https://www.youtube.com/watch?v=A9CsrUmR4Z0 をどうぞ。
話を《アウリデのイフィジェニア》に戻す。この日の指揮者はクリストフ・ルセ。ペトルーやマルティーナ・パストゥツカの指揮と比較すると、フランス風の感じがする。いかにもポルポラ風、ナポリ風の和音を強調することが控えめで、歌手の旋律とオケが乖離する際も、そこを強調して緊張感を高めるというよりは、ソフトに響かせ、よく言えば上品な感じになるし、ポルポラになじんでいる人だと、味が薄めだと感じるかもしれない。ただその度合は二幕になると薄まった。
ストーリはグルックなどでおなじみかもしれないが、作曲年代はポルポラの方が先である。彼はヘンデルのライバルであり、ロンドンのいわゆる貴族オペラのためにこの作品を書いたのである。
あらすじ
幕開き前の背景
ギリシア軍はトロイに出航する前にアウリスにやってきた。大将のアガメンノーネ(アガメムノン、歌手ツェンチッチ)はディアナ(ジャスミン・デルフス)の神聖な森の雄シカを殺してしまう。神官のカルカンテ(カルカス)はアガメンノーネの娘イフィジェニアの犠牲によってのみ女神の怒りを静めることが出来るだろうと予言する。
第一幕
一通の手紙がウリッセ(オデュセウス、歌手はニコロ・バルドッチ、去年はインスブルックのヴィヴァルディ《忠実なニンフ》で歌っていた)に届く。その手紙は、クリテンネストラ(マリー・エレン・ネージ)に娘のイフィジェニア(ジャスミン・デルフス)とアキッレの結婚は遅延させるべきと警告するものだった。神官カルカンテ(カルカス、歌手リッカルド・ノヴァーロ)は、ディアナの命令を守るが、アキッレに真相は伝えない。ウリッセは慎重さこそが最高の美徳とほめたたえる。
イフィジェニアと母クリテンネストラはアウリスにやってきて、知らずにアキッレ(歌手マーヤン・リヒト)に出会い、イフィジェニアは恋におちる。最初混乱したが、ディアナも同じ歌手が歌う。イフィジェニアはモックの女性が演技をし、少し離れたところでジャスミン・デルフスが歌うのである。
妻子と再会したアガメンノーネは嬉しさとともに苦悩する。苦悩の真相をしったアキッレは彼女を守ると宣言する(第一幕の幕切れアリア)。マーヤン・リヒトは叙情的な歌は、ヴィンチの《インドのアレッサンドロ》をここで歌った時より上手くなったが、幕切れアリアの派手なブラブーラがある劇的なアリアでは、もう一つパンチが効けば、とないものねだりをしたくなるのだった。劇的なアリアになると、ツェンチッチやファジョーリの歌唱と比較しては気の毒というものなのだろうが、バロック・オペラの聴き所としてゆったりめのテンポで叙情的な曲もあれば、コロラトゥーラを駆使して、上から下まで声が駆け巡り、劇的な表情を作りあげるアリアもあってそれも幕切れアリアで明らかに作曲家も劇的に書いているのだから、聴き手もそれを期待したくなるのは無理もないのだ。
第二幕
ウリッセは軍隊に不満がつのっていることを警告する。イフィジェニアの犠牲を求めているのだ。アキッレは彼女を守るという。神官カルカンテは、ディアナの復讐をおそれよという。二つの立場が対立するアキッレとカルカンテの二重唱が幕切れの歌。この二重唱がなかなか聴かせるのだが、欲を言えばもう一段盛り上げることができたのではないか。指揮が二人の歌を邪魔しない安全運転なのは、わかるのだが、それで安住するのではなく、アキッレ、カルカンテの二人の緊張感を高める細かい工夫が欲しいところだ。
第三幕
アキッレはイフィジェニアをアウリスから逃す計略を考える。船に向かう途中で、神官カルカンテらにあい、再び葛藤が生じる。
イフィジェニアは、自らが犠牲になることを決意する。神官カルカンテが処刑する直前に、アキッレが飛び込んでくる。そこへ女神ディアナが死んだ雌シカとともにあらわれ、雄シカの死は雌シカの死であがなわれたと宣言し、イフィジェニアの自己犠牲の決意は、流される血よりも尊いと言う。アキッレは、神々の慈悲(clemenza)を讃え、皆が悦びのうちに幕。
演出はツェンチッチ。二幕の幕開けなどで深々と頭を垂れたり、鐘が鳴ったりと古代ギリシアの儀式をおもわせる場面がいくつかある。不気味なのはハッピー・エンドのはずの終幕で、舞台上の太鼓がたたかれるたびにギリシアの戦士が一人ずつ倒れていくのだ。
途中の場面で、ギリシアの戦士は着衣のときも、裸のときもあったが、第一幕では勇者の中心人物が股間があらわになっており、二幕では戦士全員が股間をあらわに登場した(ある種の肉襦袢をつけているかいないかは不明)。言われてみれば古代オリンピックでは、裸で競技をしていたのだよな、と思い出すが、オペラの舞台で出てくると多少びっくりする。それもツェンチッチの仕掛けの一つなのだろうと思う。
ジャスミン・デルフスが一人二役なのは、ディアナの場面が少ないからというのもあろうが、モック役を立てて離れたところで歌わせる意味はよくわからなかった。デルフスもネージも、キレッキレではないが、安定した歌唱だった。あるいは、指揮、オケと微妙な駆け引き、緊張をはらんだところが増えるとより面白いのではないかとも思ったが。
全体としては、極めてレベルの高い演奏、歌唱で、上記の注文はまったくないものねだりなのである。ポルポラを経験することで、たとえばオケやルセのこれからの音楽づくりに影響があるのだろうか、と思ったりもした。
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