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2024年8月14日 (水)

ジャコメッリ《チェーザレ》その8

ジャコメッリ《チェーザレ》の初演歌手の続きであり最後(前項までと同じくプログラムのHolger Schmitt-Hallenbergの解説を参照している)。

最後の歌手は、コルネリアを歌ったヴィットリア・テージである。彼女はいろいろな意味でこれまで紹介した歌手と異なる。他の歌手は、《チェーザレ》初演の時点でみな25歳以下だった。それに対し、フィレンツェで1700年に生まれたテージは、16歳の時にパルマでデビューしているので、1735年当時およそ20年のキャリアがあったわけで別格の貫禄があっただろう。テージのあだなは La Moretta といい、肌が黒かったのだと思われる。彼の父親がアフリカ系であるとされており、彼女はヨーロッパで最初の白人以外の歌手の一人だった。彼女はクッツォーニやボルドーニと並び賞せられるが、派手なコロラトゥーラは持っていなかった。それは《チェーザレ》の彼女のアリアを聴くと判る。彼女は劇的表現と舞台上の存在感で観客を魅了したのだ。

《チェーザレ》におけるコルネリアは、夫がトロメーオの裏切りによって殺されたことに対する復讐を訴えつづけ生きている。それが極端なのは、夫を殺したのがチェーザレの歓心を買うためであったが、チェーザレは少しもそれを喜ばなかったし、むしろ不快に思ったのをコルネリアは知っているのに、チェーザレも復讐の対象で、彼を亡き者にしようとする。トロメーオからもレピド(ローマの元老院議員)からも求愛されるが、私は寡婦になったばかりなのよ!と怒りまくる。男たちも、彼女の夫が死んだ日に、というのは極端ではないか。しかし、彼女の復讐心は激しく、子どものセストの命を脅迫されても態度がゆるがない。これにはトロメーオもたじろぐのであるが。

コルネリアのアリアは、テージの特性を活かしてか、短い言葉を重ね、パルランテで、レチタティーヴォに近い瞬間も多くある。しかも通常のレチタティーヴォよりずっと激しい勢い、強い表情を帯びているので、演じる歌手の舞台上の存在感が重要なアリアだ。

全体を通じ、《チェーザレ》の登場人物のアリアは、しんみりとしたり、嫋々たる情緒に溺れるものは、ほとんどない。つねに恋愛が政治的駆け引きとセットになっていて、愛と計算が同時進行の人物にぴったりの音楽が奏でられるのだ。ロマンティックな愛の表現に慣れて、あるいは慣れすぎていると、感情移入、感情の没入はむずかしい音楽かと思う。しかし、登場人物を考えてみれば、チェーザレも、クレオパトラ、トロメーオも一国、あるいは帝国を率いるリーダーたちであり、個人レベルの恋愛感情のみに浸っているというのはむしろリアリティに欠けるだろう。政治家、リーダーも、権力闘争や政治を忘れることなく、恋愛もすると言う感じがみごとに描写される音楽劇なのだ。だから音楽は複雑な味わいに富み、一方的な感情移入をゆるすアリアは少ない。愛を訴えるかと思えば、皮肉な響きや、跳躍する音楽が感情と観客に距離をもたらす。きわめて独自な複雑な味わいをもったオペラ・セリアで、何度も聞き込むことでより面白くなるだろうと思った。

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