ロッシーニ《ビアンカとファッリエーロ》
ロッシーニのオペラ《ビアンカとファリエーロ》を観た(スカヴォリーニ劇場、ペーザロ)。
上演の珍しいオペラで、僕は初めて観たのだが、ROF(ロッシーニ・オペラ・ファスティヴァル)の常連の方々は、何年の上演はどうだったと話しておられる。ROF自体が1980年創設なので、40年以上の歴史があり、1980年代から観ているひと、1990年代から観ている人などがヴェテランとしておられ、かつての演奏、演出を教えてくださるのはありがたい。
ROFに最後に来たのはパンデミック前だったのだが、その頃と比較すると《ビアンカとファッリエーロ》にせよ、《エルミオーネ》にせよ、《セビリアの理髪師》にせよそこそこ空席があった。演奏のレベルは高いのであるが。日本人で言えば、かつて毎年来ていた熱心なROFファンがかなり引退されたように思われる。パンデミックで海外渡航ができなくなり数年が経過し、往来は再開したが、なんらかの理由で来なくなってしまった方が相当数いるようだ。気力の問題(数年海外に行かないと、再び行こうというのがおっくうになるとは多くの人が口にするし、実感としてもある)、経済的問題(円安、再開した航空会社のチケットが高め、ホテル代も上昇)、あるいは健康問題もあるかもしれない。ROFに参加する海外の観客の国別データがあるのだが、日本人の参加者は順位が落ちているとのこと。無論、空席が散見されるのが日本人客減少だけのはずはなく、上記のようなことがたとえばアメリカ人にも多少は生じているのかもしれない。
今さらではあるが、ヴァーグナーのバイロイト、ロッシーニのROF は特別な音楽祭で、一人の作曲家をとことん追求するので、観客の耳も越えている。加えて ROF はロッシーニの新しいエディションができるとそれに基づいて上演がなされる点でアカデミズムとの連携が濃い。さらに若手歌手のためのアッカデーミアと彼らによる《ランスへの旅》の上演が毎年恒例になっているので、若手の育成、登竜門の役割も果たしている。さらにロッシーニ協会会長水谷氏からご教示いただいたのだが、三年前から Il Belcanto ritrovato という新たなフェスティヴァルが生まれている。19世紀前半のベルカントオペラの作曲家で埋もれている人を発掘していく方針のようだ。今年オペラが取り上げられるのはLauro Rossiという作曲家である。
長々脱線してしまったが、《ビアンカとファッリエーロ》に話を戻そう。舞台は17世紀のヴェネツィア。名門のコンタレーナ家の当主は娘ビアンカをカペッリオ家の当主に嫁がせることを決める。それによって継承財産問題が解決するからだ。しかしビアンカにはファッリエーロ将軍という恋人がいてという話。第二幕では駆け落ちしようとし失敗したファッリエーロが逮捕され審問にかけられるのだが、その3人の審問官のうち2人はコンタレーナとカペッリオなので、ファッリエーロは絶望するのだが、審問は意外な展開をみせる。
ビアンカを歌うのはジェシカ・プラット(敬称略、以下同様)。以前に《バビロニアのチーロ》をROFでは歌っている。ファッリエーロは脇園彩。コンタレーノはコルチャック。カペッリオはジョルジ・マノシュヴィリ。
プラットと脇園は、声質も容貌も対照的で大変よかった。プラットは以前よりさらにふくよかになり堂々たる体躯の女性。脇園はいわゆるズボン役で将軍であるが、すらっとし身のこなしも軽い武将である。声は、プラットがいざとなると大音声を張り上げるのに対し、脇園はつねにベルカントを保ち、決して叫ぶような発声に陥らないので音量は比較するとほんの少し控えめである。しかし歌の様式感、様式美があるので、観客の拍手が多かったのは当然と言えよう。アジリタの際の処理も二人は対照的で、ジェシカ・プラットは、大音声でタカタカいく音型をやや崩しながらも必要に応じてテンポをあげていく。脇園は、細かい音型を丁寧に形を崩さずに歌いあげるので、テンポをあげるのが難しいところも見受けられた。一長一短なのである。あるいはどちらも聴きごたえがあり、二重唱の時には息のあった重唱を見事に聴かせていたのはプロフェショナルだし、ペーザロの観客は音楽性を重視しスタンドプレイは受けないのが、奏者にもわかっていて相乗効果をあげていると思う。
コルチャックも立派な歌だった。オケについては前項で書いたので省略するが、ロベルト・アッバードの指揮は、ベテランの味わいがあり、細かすぎずに楽員の自発性を引き出すところが素敵で、しかし必要があると、アリアのあとで遅めのテンポを巻き上げる時などは必死の形相でテンポを回復させていくのだった。すみずみまで丁寧というよりは、ツボを心得た指揮ぶりと言えよう。どちらのタイプの指揮も聴けるのが、ROFの贅沢と言えるかもしれない。
演出では、17世紀ではあるが、コンタレーノたちは背広。ファッリエーロは鎧らしきものを身につけているので、時代は曖昧。ビアンカの衣装も20世紀という感じであった。驚くアイデアではないが、歌を味わう妨げにはなっていなかったと思う。
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