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2024年8月12日 (月)

ジャコメッリ《チェーザレ》その6

《チェーザレ》初演当時の様式の変化について、同じくプログラムのHolger Schmitt-Hallenbergの解説に基づき記す。

ジャコメッリの《チェーザレ》の初演は1735年であるが、その当時、オペラ様式の移行期で、ヴェネツィア・オペラのスタイルは、より近代的でより名人芸を披瀝するナポリ・オペラのスタイルに取って代わられつつあった。ヴェネツィアの地元の作曲家、ロッティやアルビノーニ、ポッラローロも18世紀の最初の頃は活躍していたが、徐々にヴェネツィアの外で音楽的訓練を積んだ作曲家(ジャコメッリを含む)や歌手が雇われるようになっていた。18世紀の半ばに向けて(盛期バロックが、ギャラント様式やプレ古典様式に移り変わっていく)、ヴェネツィア・オペラの質は総じて下降気味であった。

しかし1730年代前半には、まだファリネッリもボルドーニもヴェネツィアで歌っていた。ジャコメッリの《チェーザレ》は、極めて名人芸的な、後期バロックオペラの一例なのである。グリマーニが起用した歌手は若手で、新しいナポリオペラのスタイルをマスターした歌手たちだった。ソリストのうち2人はミラノ上演から継続された。有名なヴィットリア・テージ(彼女はミラノ、ヴェネツィア、双方でコルネリアを歌った)とテノールのアンジェロ・アモレーヴォリは、エントゥーロ役からトロメ—オ役に昇格した。

声の配置は次のようになっている。チェーザレとクレオパトラは第一のカップルで、ソプラノで歌われる(当時は、カストラートのフェリーチェ・サリンベーニとソプラノのマルゲリータ・ジャコマッツィが歌った)、一方、心理的にはより複雑な敵対的なカップルは、トロメーオとコルネリアで、テノールとアルトによって歌われた。

初演時の歌手たち

フェリーチェ・サリンベーニ(1712年ミラノ生まれ)は、作曲家で声楽教師のポルポラにナポリで徹底的な訓練を受け、時代を代表するカストラートとなっていく。彼はその声だけでなく、演技や容姿も称賛の的となっている。カサノヴァは、「去勢が彼を化け物としたが、その他の全ての特徴は、彼を天使にした」と述べている。ジャコメッリとゴルドーニが作ったチェーザレ役用のアリアは、彼を若く、尊大な勇士として描いている。唯一 Bella tel dica amore だけが愛のアリアである。

ヴェネツィア出身のマルゲリータ・ジャコマッツィも有望な若手だった。ヴィヴァルディは有名なアリア Agitata da due ventiを1735年の同じシーズンに彼女のために書いているのである(オペラ《グリゼルダ》)。ジャコメッリも、ジャコマッツィの声楽的な可能性をフルに活用している。第一幕の幕切れアリア Chiudo in petto では、クレオパトラは自信に満ちた女王として現れる。ヘンデルの官能的で誘惑的なクレオパトラとは対照的である。ジャコメッリの音楽は、声楽のメロディも巧みに作り込まれたオーケストレーションも、しばしばこうした登場人物の性格を大きな音の飛躍や、表情に満ちた不協和音や、シンコペーション付きのアクセントや独立した第二ヴァイオリンで描き出す。これは第三幕四場の彼女のアリア Son qual nave da due venti (ファリネッリの有名なアリアとは全く別物)にあてはまる。これらのアリアは、若手でテクニックは素晴らしいのだが、まだ深い情緒をたたえた曲にはふさわしくない若手向きに書かれたアリアと言えよう。

それ以外の歌手は次項で。

 

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