ジャコメッリ《チェーザレ》(1)
ジェミニアーノ・ジャコメッリ作曲のオペラ《チェーザレ》を観た(ティロル州立劇場、インスブルック)。
現代での上演は初であるらしい。ジャコメッリの音楽は、ヨーロッパでもなかなか接する機会はなく、最近になって再発見されたようだ。しかし、実際にすぐれた演奏で観てみると、非常に興味深かったので、何回かにわけてこの上演、作品、演奏者について書いていこうと思う。
去年までデ・マルキ(敬称略、以下同様)がインスブルック古楽音楽祭の総監督であったのに代わり、今年からはEva-Maria Sens が芸術監督でオッタヴィオ・ダントーネが音楽監督となった。この音楽祭は1976年から48年、つまり半世紀近く続く古楽音楽祭であり、古楽のなかで埋もれたものを再発掘する(蘇演する)傾向が強い。
今回、ダントーネがこの音楽祭に音楽監督としてデビューするに際して用意したのがジャコメッリの《チェーザレ》で、曲目自体は去年から決まっており出演者(コーネリア役)のマルゲリータ・マリア・サーラに話を聞く機会があったが、誰もこの作品を観たことも聞いたこともないのだと言っていた。
上演の一時間前にレクチャーがあり、ドイツ語通訳つきでダントーネとクリスティアン・モーリッツ=バウアーが対談していたのだが、ダントーネによるとこの作品は改訂されており、ただし楽譜は改訂後のものしか残っていないとのことだった。リブレット作者はカルロ・ゴルドーニとドメニコ・ラッリ。
ヘンデルの《ジュリオ・チェーザレ》との関係が気になる人もいるであろうから、最小限のデータを。ヘンデルの《ジュリオ・チェーザレ》の初演は1724年、ロンドンのキングス・シアターである。それに対し、ジャコメッリの《チェーザレ》は、1735年11月24日、ヴェネツィアのサン・ジョヴァンニ・グリゾストモ劇場で初演された。ヘンデルのリブレットは、例によって、元ネタはあるもののニコラ・ハイムが大々的に手をいれたものなので詳細は後述する。冒頭でクレオパトラの弟トロメーオが、チェーザレ(アリアンナ・ヴェンディッテッリ)の歓心をかおうとして部下アキッラ(フィリッポ・ミネッチャ)にポンペオの首をもってこさせるが、チェーザレはトロメーオがポンペオを裏切ったことをよしとせず、喜ばないのは両者に共通している。ポンペオの未亡人コルネリア(マルゲリータ・マリア・サーラ)とその子セストが登場するが、ジャコメッリではセストはモックで台詞もないし、アリアもない。そこがヘンデル版と大きく異なるところだ。
しかし大きく異なるのは、音楽自体である。ヘンデルの場合、イギリスで上演されたこともあり、レチタティーヴォが短く、アリアの歌詞も短い。登場人物の心情を音楽が描写する必要があり、ヘンデルは見事にその要請に応えている。それに対しジャコメッリではレチタティーヴォが長く、そこで登場人物は自分の考えや感情を表出できるので、アリアはヘンデルのそれに較べ、はるかに自分の考えを叙述することに重きがあり、そこに彼・彼女の感情やキャラクター描写が加わる。登場人物によって、威風堂々としていたり、皮肉な感じを与えるリズム、音型が繰り返されたりする。コルネリアの場合には、怒りの表現が多い(彼女は未亡人になったばかりなのに、次々に男たちが求愛するので、彼女は怒って拒絶する)。それをオッタヴィオ・ダントーネ指揮するアッカデーミア・ビザンティーナのオケは実に見事に描きわけていた。それはロマンティックな感情移入を要求するというよりは、感情も伴いつつ知的に味わう趣のある音楽で、軽やかで洗練されている。良くも悪くもヘンデルとは相当に異なる音楽で、ダントーネは2つの宇宙でまったく別物なのだと対談で述べていた。
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