ジャコメッリ《チェーザレ》その5
さて、いよいよジャコメッリのヴェネツィア版である(前項の続きです)。
劇場支配人のミケーレ・グリマーニは、ヴェネツィアのライバル劇場を蹴落として、ジャコメッリのオペラ上演にこぎつけた。
ヴェネツィアでは他の都市とは異なり、劇場は君主の専有物ではなく、民営化していて、桟敷をサブスクライブしたり、ギャンブルやチケットの売り上げで財政的に運営していた。ヨーロッパ中からの旅行客の多さもこの方式を可能にしていた。ただし、この方式ゆえに、聴衆の趣味の変化には非常に敏感に反応せざるをえなかった。
1710年の時点で、ミケーレ・グリマーニはサン・ジョヴァンニ・グリゾストモ劇場だけではなく、より小ぶりなサン・サムエーレ劇場も所有していたのだが、ドメニコ・ラッリ(1679−1741)を副支配人兼座付きリブレッティスタとして採用した。ラッリは、宮廷詩人アポストロ・ゼーノの推奨により採用されたのであり、劇場の組織的なことも芸術的なことも担当した。彼は二つの歌劇場の必要に応じ、他人のリブレットを改作することもあり、オリジナルの作品をレオナルド・レオ、アレッサンドロ・スカルラッティ、ニコロ・ポルポラなどのために書いている。
1735年のジャコメッリ作品のリブレットに長々しい献辞(Salburug伯爵ルイージあて)の後にラッリは自分の名をサインしている。通常はサインしている者が、リブレットの改作者なのだが、この場合は違う。ミラノ版のテクストをヴェネツィア用に書きかえたのは当時若手のカルロ・ゴルドーニ(1707−1793)だった。彼はサン・ジョヴァンニ・グリゾストモ劇場の座付きリブレッティスタになったばかりだった。ミケーレ・グリマーニはラッリの助手としてゴルドーニを採用したのだ。
ゴルドーニによる改作
ゴルドーニが最初にグリマーニのためにした仕事は、1735年ヴィヴァルディのために《グリゼルダ》のリブレットを改作することだった。オリジナルはアポストロ・ゼーノによるもの。同様のことがジャコメッリの《エジプトのチェーザレ》でも生じた。
1737年、ゴルドーニは正式に2つの劇場の支配人の一人になったが、ラッリの助手である間は、リブレットに自分の名を記すことは出来なかった。《グリゼルダ》も《チェーザレ》も、リブレッティスタの名はラッリになっており、ゴルドーニの名はない。ゴルドーニはそのことを完全に了承していたようだ。その間の事情はゴルドーニ自身が回想記に記している。
この回想から、名前が表に出る前からリブレット書きに彼が関わっていたことと、もう一つ重要なことがわかる。即ち、ヴェネツィアにやってくる貴族にリブレットを献上することで、経済的に大きな見返りを期待できるということである。ラッリの経歴は終わりに近づいていた。1735年に彼は故郷のナポリに職を得ようとしていた。しかしラッリは経済的苦境にあった。それがゴルドーニではなく、ラッリの名をリブレットに記した理由であろう。
《エジプトのチェーザレ》では、ゴルドーニはジャコメッリのミラノ版のテクストをモデルとして使用したのだが、自分で多くのアリアを書いた。ゼーノやメタスタージオの作品から借用した形跡はないのである。楽譜はきわめて均一性が高く、ジャコメッリ特有のスタイルを示している。
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