コンサート「ヘンデルとグレーバー」その2(プログラムについて)
この日のコンサートで扱われた作曲家は、
Johann Christoph Pepusch (1667-1752) の2本の縦笛、2丁のヴァイオリンと通奏低音のためのコンチェルト(ca. 1717/18)
Jacob Greber (1673-1731) のソプラノのためのカンタータ《Filli, tra il gelo e 'l foco》
Gottfried Finger (1660-1730) の2本の縦笛、2丁のヴァイオリンと通奏低音のためのソナタIII ト短調(1698)
再び Greber でソプラノとアルトのためのカンタータ《Quando lungi e' il mio Fileno》
ここで休憩
Greber のアルトのためのカンタータ《Tu parti idoo mio》
Pepusch の 2本の縦笛、2丁のヴァイオリンと通奏低音のためのコンチェルト(1717/18)
G.F. Handel (1685−1759)のソプラノ、アルトのためのカンタータ《Il duello amoroso (《Amarilli vezzoza》》HWV82
というものであった。アンコールはヘンデルの《ジュリオ・チェーザレ》からの二重唱。
以下、プログラムのFranz Grati の解説とネットで検索した情報を記していきます。
ペプシュは、ベルリンで1667年に生まれた。そこで教育をうけ14歳で宮廷に職を得たのだが、ある事件をきっかけにアムステルダムに職を辞してアムステルダムに行き、1704年にロンドンに居をかまえる。
Filli (Phyllis) や Clori , Fileno (Chloris, Philenus) , Amarilli (Amaryllis) , Daliso というのは神話から借用されて、牧歌の詩および劇で用いられる名前で、ルネサンスやバロックの時代の音楽によく出てくる。カンタータも小さな音楽劇なので、この日のコンサートでもこれらの名前が出てきたわけである。
1709年から1710年へと年が変わる頃、ヘンデルは推薦状をもってインスブルックに到着した。推薦状をもっていった相手は当時インスブルックを統治していたプファルツ・ノイブルク公のカール・フィリップだった。貴族にありがちだが、この人の名前は重要な地位につくにつれて呼び名が変わる。最終的にはカール3世フィリップ(プファルツ選帝侯)(1661−1742)ということになる。選帝侯になるのは兄が死去した1716年からである。
推薦状を書いたのはフェルディナンド・デ・メディチ。カール・フィリップとは親戚にあたる。この人はゆくゆくはトスカーナ大公になるはずの人だったが親より先に死去してしまい大公にはならなかったが、当時、ヨーロッパの音楽シーンをリードするパトロンの一人であった。
ヘンデルはイタリアで数年を過ごし、成功をおさめ、北に向かうところだった。インスブルックも就職先の候補の一つだったろう。しかしカール・フィリップ公の援助の申し出をヘンデルは丁重に断っていることが、公からフェルディナンドへの手紙でわかる。
カール・フィリップは音楽への愛を公にしていたし、大規模ですぐれたオーケストラを有していた。兄の選帝侯ヨハン・ヴィルヘルムより地位は下であったが、その宮廷を洗練させることにたけていた。
カール・フィリップの統治下(1707−17)で、公はインスブルックをバロック音楽の中心の一つにした。公がシュレージエン(シレジア)の Brieg を統治していた際にも、2人の優秀な音楽家を採用している。どちらもロンドンからドイツに帰ってきたのだった。ヤーコブ・グレーバーを宮廷楽長に、ゴットフリート・フィンガーをコンサートマスターにした。
カール・フィリップがインスブルックに居を移してからも、グレーバーとフィンガーは公にしたがってインスブルックにやってきた。1708年にグレーバーはインスブルックの帝室宮廷音楽(この地位は1666年からある)の責任者となった。公は二つのオーケストラを一緒に働かせることもあり、珍しく大規模なオーケストラを保持していたことになる。カール・フィリップの二番目の妻テレーザ・カタリーナ・ルボミルスカは音楽への情熱を夫と共有していたし、最初の結婚から生まれた娘エリザベート・アウグスタ・ゾフィーも共有していた。毎週のように音楽の催しがあり、そこで公女も歌ったり、バレエを踊ったりした。
賓客はオペラを饗された。アレッサンドロ・スカルラッティのオペラ《ティグラーネ》は、ナポリでの初演後わずか数ヶ月の後にインスブルックで上演されている。フランチェスコ・フェオの《L'amor tirannnico, ossia la Zenobia》はインスブルックでは《Radamisto》と改題されて上演された。しかし通常は、宮廷指揮者のグレーバーが祝宴の作曲もまかされた。器楽の部分(序曲、バレエ)は、コンサートマスターのフィンガーに委ねられた。
フィンガーはモラヴィア出身で、おそらく、リヒテンシュタイン公の夏の離宮クロムリッツで音楽教育を受けたらしい。
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