中世の『カルミナ・ブラーナ』
『カルミナ・ブラーナ』の演奏会を聴いた(アンブラス城スペインの間、インスブルック)。演奏はTeatrum instrumentorumという団体。珍しい中世の楽器と歌による演奏。
ただし、カール・オルフの『カルミナ・ブラーナ』ではない。まったくこれまでに聴いたことのない新しい音楽であった。
当日の演奏とオルフの関係を少し説明しておこう。例によってプログラムの解説(Danilo Prefumo, Christian Moritz-Bauer, Aleksander Sasha Karlic) と演奏会一時間前のレクチャーでAlexander Sasha Karlic が語ったことに基づいている。
1803年に、名前のついていない写本が発見された。13世紀前半のもので、オーバーバイエルン(バイエルン州南部)のベネディクト会の修道院で見出された。写本には、ラテン語、中世ドイツ語、フランス語で約250の詩がかかれており、いくつかのものには音楽がついていた。当時、修道院は世俗化されていたものが多く、写本の見出された修道院もそうであったので、写本は王立中央図書館(現在のバイエルン州立図書館)に運ばれた。そこで、ミュンヘンの司書ヨハン・アンドレアス・シュメラーによって研究され、最終的に1847年に出版された。シュメラーが『カルミナ・ブラーナ』という名をつけた。
長い間、この写本は、中世音楽や中世文学の愛好家・研究者にのみ知られていた。しかしそれが大きく変化したのは、ドイツの作曲家カール・オルフが1935/36年に25編を選んで曲をつけた時からだ。こちらは世界中で人気を博した。その際にオルフはテキスト(言葉)は、写本のテクストを採用したのだが、曲は写本とはまったく関係なく、それを再構成することもなく、まったく新しい音楽を付したのだった。彼独自の音楽である。この写本の存在が注目されるようになったのはオルフのおかげと言ってよい。今日では、この写本は、中世ヨーロッパの音楽と文学を伝承するもっとも貴重な証言と考えられている。
もともとの写本が作られたのは、発見されたベネディクト会の修道院ではなくて、ティロルかケルンテン(オーストリア南部)と考えられている。書かれた作品は11世紀末から13世紀前半に及ぶ。ヨーロッパの様々な地域からもたらされたと考えられる。フランスの北部および南部、カタロニア、イングランド、スコットランド、イタリア、ドイツ語圏。作品のほとんどは世俗的作品で、ほとんどがラテン語で書かれている。
『カルミナ・ブラーナ』写本の一部には楽譜がついているのだが、当時の楽譜なので、それを解読するのは至難の技だ。たどれるのは、シンプルなメロディの動きのみであり、一つ一つの音の長さやリズムは示していないのである。しかしながら、いくつかの曲は、同時代の他の写本に含まれている。とりわけノートルダムやサン・マルシャル(南フランスのリモージュにあった修道院)の写本と突き合わせることで研究が進んでいった。しかし『カルミナ・ブラーナ』の現代の奏者は、歴史的、文献学的なアプローチで、曲を再構成する必要がある。
演奏団体主催者のKarlic の言うところによると、その再構成の際や、そもそもどんな発声法で歌っていたのかを考える際に参考になるのは、スペイン南部、イタリア南部、バルカン半島の一部に古くから伝承されている歌の歌い方だという。ほとんどは近代化とともに消失してしまったのだが、一部にそういった歌が歌い継がれているのである。そこでは、往々にして、二つおよびより沢山の複数の曲が、一つの曲として歌われることがあるとして、当夜の演奏会でも一曲を独立して演奏するのもあれば、複数の曲をあたかも一曲のように聞かせる演奏もあった。
楽器もこの音楽祭で見慣れているバロック××ではなく、バグパイプのようなもの、チターのような音のするリュートともギターともつかない楽器、あるいは口に糸をたててビヨン、ビヨンと音を出すもの、右手で取っ手を回転させて左手をつかってメロディを奏でるギローネ、素朴な笛の数々など中世の楽器はこんなものであったかと目に新しかった。 Karlic の話では、中世ヨーロッパの楽器は8割以上が中東由来のものとのことで、当夜聴いた響きも、かなりアラブ風の響きだった。
音楽としては同じ旋律を繰り返しながら、少しずれていったり、伴奏の楽器が変化をつけたりすることが多い。内容は、まれには宗教的なものもあるのだが、たいていは世俗的で、酔っ払いの歌などもある。歌うのは女性二人が中心だったが、複数の男性も時おり参加し、男性ソロになることもあった。そのあたりは、裁量の範囲なのかもしれない。
これが中世の音楽だったのかと印象的だった。ここから理屈っぽいポリフォニーの世界までの距離は大きいように思う。13世紀前半がこうだとすると、1265年、13世紀後半に生まれたダンテが聴いた音楽もそう遠くはなかったはずだ。特にフィレンツェから追放されて放浪中に地方でたまたま聴いた音楽は。ダンテについては、筆者がたまたま浮かんだ連想でプログラム解説とは無関係である。
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