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2024年8月11日 (日)

ジャコメッリ《チェーザレ》その2

作曲者のジェミニアーノ・ジャコメッリは、あまり知られていないと思うのでプログラム(執筆者は Holger Schmitt-Hallenberg) を参照しつつ紹介しよう。ジェミニアーノ・ジャコメッリは1692年3月28日、コロルノに生まれた。コロルノというのは聞かない地名なので調べてみるとパルマの北10数キロに位置する小さな町である。当時、パルマのオペラ劇場は、イタリアで最も重要な歌劇場の1つだった。パルマはファルネーゼ家が支配していた。そこの宮廷音楽家だったのがジョヴァンニ・マリア・カペッリで、彼のオペラ I fratelli riconosciuti (再会した兄弟)は、カストラート歌手のファリネッリとカレスティーニが舞台上で共演した唯一のオペラだった。このカペッリがジャコメッリの音楽上の先生で、彼はジャコメッリに、歌唱、対位法、チェンバロなどを教えた。

ジャコメッリは1719年から1727年、パルマの宮廷楽長となった。1728年にフランチェスカ・マルキと結婚し、9人の娘を得たがその一人にはファリネッリが代父となった。オペラ作曲家としての名声が高まると、活躍の場は海外に拡がり、1737年にはオーストリアのグラーツですでに人気作品となっていた《チェーザレ》を上演、自ら指揮したことがわかっている。イタリアに帰ってくるとロレートのサンタ・カーザの楽長となり、1740年1月25日に亡くなるまでそのポストにあった。ロレートのサンタ・カーザというのは聖なる家という意味で、聖母マリアの家が海を越えて飛んで来てロレートにやってきた、という奇跡の家がロレートにあり、その小さな家を取り囲んで巨大な教会が建っていて、重要な巡礼地となっている。マルケ州の風光明媚なのどかな場所にある。

ジャコメッリの同時代での名声は彼の約20のオペラにあった。最初は1724年作の Ipermestra でヴェネツィアの最も壮麗な劇場サン・ジョヴァンニ・グリゾストモで上演された。その時からファウスティーナ・ボルドーニという大物歌手が加わっていたのは注目すべきことだろう。成功したのだが、その当時からジャコメッリの音楽は複雑であるとも表されている。たしかに彼の音楽においては、一方向に感情が突き進んでいくのではなくて、むしろ様々な感情が一人の中で交錯したり、感情と理性が葛藤したりする様を描くことに長けているような気がしないでもない。その後もヴェネツィアで Gianguir (1729), Epaminonda (1732), Adriano in Siria (1733), そしておそらく今日彼の作品で最も有名な Merope (1734)を世に出した。

《エジプトのチェーザレ》もここに加えてもよさそうなものだが、これを初演したのはミラノのテアトロ・ドゥカーレだった(1735年1月)。残念ながら、この時のスコアは現存していない。このオペラは同年11月24日に、ヴェネツィアのサン・ジョヴァンニ・グリゾストモ劇場で再演された。ミラノ上演とヴェネツィア上演のリブレットを比較すると重要な相違点がある。レチタティーヴォは半分ほどしか同じでなく、アリアは一つ(コルネリアの Lusinga un tiranno)のみしか引き継がれていない。ヴェネツィア上演ではアリアの数が増やされ、6人の主要キャラクターにほぼ均分に配分されているー当時としては異例なことだが。

ミラノ版の特徴

ミラノ版では、ポンペオの扱いが違う。ポンペオは妻コルネリアの手から毒入りワインを受け取るのだ。それに対しヴェネツィア版は(ヘンデル版同様に)ポンペオの死は間接的に描かれる。その首がトロメオの部下アキッラによりチェーザレに献上される。支配者や王の死というのは、検閲にひっかかりやすいので、それを避けたとも考えられよう。

ミラノ版作成に関し新たなアリアやレチタティーヴォを書いたのは、当時新進気鋭だったカルロ・ゴルドーニだったと考えられている。彼はここから数年のうちにイタリアで最も重要な喜劇作家、オペラ・ブッファのリブレッティスタになっていく。

 

 

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