« Continuumのコンサート | トップページ | ヘンデル《アリアンナ》 »

2024年8月20日 (火)

ヤーコブ・フッターについて

前項でインスブルックのプロテスタントについて書いたので、ヤーコブ・フッターについて記しておく。

インスブルックはウィーンについでハプスブルク家にとって重要な都市で、宮殿も王宮教会も存在する。宗教改革が起こったときに、カトリック側が力を入れたことは疑いないだろう。

しかしティロルにもプロテスタントの教えを広める人はいた。ヤーコブ・フッターは Jacob Hutter (またはHuter, Hueter)は南ティロルのMoos (大雑把に言えば、インスブルックとボルツァーノの山中の村)に生まれた。生年は判らず1500年ごろでブルニコで教育をうけた。オーストリア東部のクランゲンフルトで再洗礼派に改宗した。1529年からは説教師となって生まれ故郷の周辺で布教活動を始めた。しかしその活動が当局の知るところとなり迫害が始まる。モラヴィアでは、再洗礼派の状況がましだと言うので、フッターらが調べにいき、情勢はたしかに有利なのでモラヴィアに少しずつ移住した。1531年には彼自身もモラヴィアのアウステルリッツに移住した。

しかし、オーストリア大公のフェルディナンド1世は早くも1527年には再洗礼派は許容されるべきでない、と宣言している。

フッターらは、フッターのもとでいくつかの再洗礼派がまとまりフッター派と呼ばれるようになった。しかしモラヴィアの議会が1535年にモラヴィアから再洗礼派の追放を決めたので、彼らは周辺の国々に散っていった。フッターはティロルに戻った。彼は妻のカタリーナとともにクラウゼンで1535年11月30日に逮捕された。12月9日にフッターはインスブルックに移送された。彼は尋問され棄教を迫られたが、棄教もせず、他の再洗礼派信者の名も告げなかったので拷問をうけたが屈しなかった。最終的に火刑の宣告をうけ、1536年2月25日に、黄金の屋根(インスブルックの旧市街の中心部)の前で処刑された。彼の妻は最初は逃げたが再び捕まり1538年にシェーネク城で処刑された。フッター派の記録によると、ティロル地方だけで360人のフッター派が処刑された。

フッター派は、原始共産制的な考えをもち、個人所有は認めなかった。個人は、持ち物は管理する権限があるのみとされた。

2006年から2007年にかけてインスブルックにワーキング・グループができ、フッター派との和解がすすめられた。ワーキング・グループにはカトリックの代表もプロテスタントの代表も参加し、2007年に黄金の屋根の前にプレートがかかげられ、フッターが信仰ゆえに処刑されたことが記された。2004年には、フッターとフッター派をめぐるドキュメンタリー映画(82分)も製作されている。

|

« Continuumのコンサート | トップページ | ヘンデル《アリアンナ》 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« Continuumのコンサート | トップページ | ヘンデル《アリアンナ》 »