ロッシーニ《ランスへの旅》
ロッシーニのオペラ《ランスへの旅》を観た(ペーザロ、アウディトリウム・スカヴォリーニ)。
例年、若手歌手のアッカデーミアの人たちが出演する《ランスへの旅》を上演しているが今年は若手のものと、アライモらが出演する《ランス》もあるのだが、私が観たのは若手の方。
出演者をみると Nanami Yoneda (敬称略、以下同様)と Kilara Ishida というお二人が日本風のお名前である。東洋系の人はこの二人の他にも女性も男性もいた。
何年ぶりか久しぶりに来たROFで変わったことの一つに字幕がある。イタリア語と英語が上下になって舞台上方にある。私は、職業的関心もあって、ずっとイタリア語字幕を読み、わからないところを英語でチェック、しかしアリアでなくてレチタティーヴォだと読み切る前に次の画面に行ってしまったりという具合。字幕、指揮者、歌手と観ているので、演出の細部には気がついていないこともあると思う。
演出を中心に観る人がいてもよいのだし、歌手中心で観るひともいてよいのだし、オケや指揮に興味をもって観るひとがいてもよいであろう。だから(なんでだからか?)、今回は思いっきり字幕中心で観ていて、それはそれでいろいろ発見があるのだった。
バロックオペラを最近は中心に観ている身からすると、ロッシーニのオペラ・セリアやカンタータではバロック時代の表現(言語表現)と共通するところがかなりある(詩語の多用や、韻を踏むために構文が倒置することなど)。一方、オペラ・ブッファになると、口語的になるのだが、それでもアリアによっては(セビリアのアルマヴィーヴァの最後のアリアなど)セリア的表現が出てくるのだった。
そういう文体の変化に応じて、ロッシーニが音楽の表情をどう変えているかいないのかも、字幕を観ながら聴く醍醐味である。ロッシーニ自身はリブレッティスタと同時代のイタリア人なので、文体の相違はぼくの何倍も何十倍も敏感に感じたはずだ。逆に言えば、文体や登場人物のキャラクター、場面に応じてそれにふさわしい音楽がかける作曲家の技が、あらためてすごいことだと感ずる。
《ランスへの旅》は、おおむね面白おかしいオペラなのだが、最後は子どものシャルル10世が登場するし、戴冠を祝する音楽であったので、オペラ・セリア的要素がにじんでくる場面もあるのだ。登場人物の国籍が複数にわたり、それぞれがお国ぶりを発揮する場面も愉快であるわけだが、これも祝祭的な意味合いもあろう。
指揮はダヴィデ・レーヴィで、指揮で強引にオケを引っ張るというよりは、穏やかめな指揮で、歌手にも歌いたいテンポで歌わせる感じだった。
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