グラウプナー《ディドー》その1
グラウプナーのオペラ《ディドー》を観た(州立劇場、インスブルック)。
素晴らしい公演だった。曲良し、演奏良し、演出良しと黄金の3拍子?がそろっていた。
ディドーのストーリは、パーセルやレオナルド・ヴィンチのオペラでもよく知られているところだろう。今回の《ディドー》で大きく異なるところが一つある。ディドーがアエネアスに捨てられて自決する悲劇的最後は同じなのだが、その後があって、ディドーの妹アンナが新しいカルタゴの女王に選ばれめでたしめでたしという話なのだ。彼女は途中ではなかなか愛する気持ちを打ち明けられなかったティロスの王子ユバとも結ばれる。
例によってプログラムの解説、Christian Baier および Hansjorg Drauchke により説明を加えていく。
このオペラの初演は1707年ハンブルクのゲンゼマルクト劇場なのだが、この劇場のオペラ上演では典型的だったのだが、リブレットは基本的にドイツ語で書かれており、いくつかのアリアはイタリア語で書かれている。
グラウプナーは、前の項目でも書いたが、1722年にテレマンにうながされてライプツィヒのトーマス教会のカントールに応募している。しかし彼の当時の雇い主が認めなかったので、この職はヨハン・セバスティアン・バッハにまわっていったのだった。
グラウプナーの雇い主であるダルムシュタット方伯は、グラウプナーに多くのことを命じた。
クリストフ・グラウプナーはライプツィヒから南に60キロほどいったところのツヴィカウの近郊のキルヒェバークで1683年に生まれた。バッハやヘンデルより二歳年上になる。父は仕立て屋で七歳か八歳のころに鍵盤楽器に親しんだ。
1696年にライプツィヒの聖トマス学校に入り、歌をヨハン・シェレに作曲をヨハン・ダヴィド・ハイニヒェンに学んだ。1706年、音楽を一通り学んだ後、彼は法律の道に進むか真剣に悩んだ。収入の確実な道への欲求が強かったのである。
当時は大北方戦争(1700−21年)の最中だった。グラウプナーが将来を思いあぐねるちょうどその時、カール12世率いるスウェーデン軍がザクセンに侵入し、アウグスト2世はアルトランシュテット条約をカール12世との間に結び、アウグストは選帝侯となり、ポーランド王の地位を断念した。グラウプナーは兵隊にとられ、ハンブルクに赴いた。
ヘンデルの伝記作者クリサンダーによれば、「帝国自由都市で、ハンブルクほど音楽が確固たる地位を占めているところはなかった。あらゆる種類の最もすぐれた奏者がここにはいたし、優れた歌手もいた」。ゲンゼマルクト劇場は、ドイツ帝国の宝石であった。
1675年、ゲルハルト・ショットが今日のハンブルク州立歌劇場の礎を築いた。歌劇場は、宗教的オペラで幕を開けたが、やがてレパートリーは変化した。ハンザ都市ハンブルクは豊かだったし、作曲家ラインハルト・カイザーのもと、古代神話、土地の海賊、快楽主義的な話と次々にレパートリーが開拓された。舞台装置も、ヨハン・オズヴァルト・ハルムズにより新しい装置が生み出された。
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