« 2024年7月 | トップページ | 2024年9月 »

2024年8月30日 (金)

コンサート「ヘンデルとグレーバー」その1 (演奏評)

「ヘンデルとグレーバー」と題するコンサートを聴いた(アンブラス城、スペイン広間、インスブルック)。

ソプラノのシルヴィア・フリガート(敬称略、以下同様)とメゾの Mathilde Ortscheidt とAkademie fur Alte Musik Berlin によるコンサートである。

シルヴィア・フリガートは2021年にストラデッラの《サン・ジョヴァンニ・バッティスタ》(洗礼者聖ヨハネ)でエロディア—デ娘(サロメに相当)役で聴いた。シャープな感性で、音程、表情を緻密に、正確に演奏する人である。

上記の演奏会のことは、コンサートの後で偶然思い出した。友杉誠志が facebook で《サン・ジョヴァンニ・バッティスタ》の録音開始というアナウンスをしていたのだ。上記のジェノヴァでの演奏の際も、ヘロデ王を友杉が迫力ある声で演じ、最後にヘロデ王とエロディアーデの二重唱で締めくくったのだが、その音楽的緊迫感は独特のもので、ストラデッラという作曲家が心に刻み込まれる経験であった。この録音にも大いに期待したい。

この日のコンサートでも、シルヴィア・フリガートは、発声も音程も、表情づけも緻密に作り上げていくのに対し、Mathilde Ortscheidtの方は、よりリラックスしてのびのびしている反面、音程はところどころ自由にというか緩いのだった。彼女はメゾなのだが、高い音を出すのが苦しいというのではなく、より低い音でふらついてしまうのだった。それは彼女がヘンデルのオペラ《アリアンナ》でタウリデを演じていた時にも感じたことだった。容姿にめぐまれ、背も高く、舞台での存在感やのびのびと歌う感じはとても声質もふくめ魅力的なので惜しい。

オケの Akademie fur Alte Musik Berilin (ベルリン古楽アカデミー)は、この日はヴァイオリン2人、チェロ1人、リコーダ2人、チェンバロ1人であったが、コンサートマスター(女性)が技巧も音楽的リードも素晴らしく圧倒される思いであったが、通奏低音ではチェロ(女性)が実にリズム感よくいつも音楽を生き生きさせており、楽員同士の音楽的呼吸があっており気持ちがよかった。さらに、リコーダはいくつかの曲で目が回るような超絶技巧、よくあれほど早く指がまわるものだというフレーズが延々と続く曲があり、それをこともなげに吹く若者(男性、日本人なのか韓国人なのか中国人なのか東洋系)がいて、フセックやオーベルリンガーを想起した。彼もまた、技巧的でありながら、歌心を失うことがなく、まわりもそれをよくサポートしているのだった。

この日のプログラムおよびプログラム解説は、かなり凝ったものだったので次項で。

 

 

| | コメント (0)

コンサート「ヘンデルとグレーバー」その2(プログラムについて)

この日のコンサートで扱われた作曲家は、

Johann Christoph Pepusch (1667-1752) の2本の縦笛、2丁のヴァイオリンと通奏低音のためのコンチェルト(ca. 1717/18)

Jacob Greber (1673-1731) のソプラノのためのカンタータ《Filli, tra il gelo e 'l foco》

Gottfried Finger (1660-1730) の2本の縦笛、2丁のヴァイオリンと通奏低音のためのソナタIII ト短調(1698)

再び Greber でソプラノとアルトのためのカンタータ《Quando lungi e' il mio Fileno》

ここで休憩

Greber のアルトのためのカンタータ《Tu parti idoo mio》

Pepusch の 2本の縦笛、2丁のヴァイオリンと通奏低音のためのコンチェルト(1717/18)

G.F. Handel (1685−1759)のソプラノ、アルトのためのカンタータ《Il duello amoroso (《Amarilli vezzoza》》HWV82

というものであった。アンコールはヘンデルの《ジュリオ・チェーザレ》からの二重唱。

以下、プログラムのFranz Grati の解説とネットで検索した情報を記していきます。

ペプシュは、ベルリンで1667年に生まれた。そこで教育をうけ14歳で宮廷に職を得たのだが、ある事件をきっかけにアムステルダムに職を辞してアムステルダムに行き、1704年にロンドンに居をかまえる。

Filli (Phyllis) や Clori , Fileno (Chloris, Philenus) , Amarilli (Amaryllis) , Daliso というのは神話から借用されて、牧歌の詩および劇で用いられる名前で、ルネサンスやバロックの時代の音楽によく出てくる。カンタータも小さな音楽劇なので、この日のコンサートでもこれらの名前が出てきたわけである。

1709年から1710年へと年が変わる頃、ヘンデルは推薦状をもってインスブルックに到着した。推薦状をもっていった相手は当時インスブルックを統治していたプファルツ・ノイブルク公のカール・フィリップだった。貴族にありがちだが、この人の名前は重要な地位につくにつれて呼び名が変わる。最終的にはカール3世フィリップ(プファルツ選帝侯)(1661−1742)ということになる。選帝侯になるのは兄が死去した1716年からである。

推薦状を書いたのはフェルディナンド・デ・メディチ。カール・フィリップとは親戚にあたる。この人はゆくゆくはトスカーナ大公になるはずの人だったが親より先に死去してしまい大公にはならなかったが、当時、ヨーロッパの音楽シーンをリードするパトロンの一人であった。

ヘンデルはイタリアで数年を過ごし、成功をおさめ、北に向かうところだった。インスブルックも就職先の候補の一つだったろう。しかしカール・フィリップ公の援助の申し出をヘンデルは丁重に断っていることが、公からフェルディナンドへの手紙でわかる。

カール・フィリップは音楽への愛を公にしていたし、大規模ですぐれたオーケストラを有していた。兄の選帝侯ヨハン・ヴィルヘルムより地位は下であったが、その宮廷を洗練させることにたけていた。

カール・フィリップの統治下(1707−17)で、公はインスブルックをバロック音楽の中心の一つにした。公がシュレージエン(シレジア)の Brieg を統治していた際にも、2人の優秀な音楽家を採用している。どちらもロンドンからドイツに帰ってきたのだった。ヤーコブ・グレーバーを宮廷楽長に、ゴットフリート・フィンガーをコンサートマスターにした。

カール・フィリップがインスブルックに居を移してからも、グレーバーとフィンガーは公にしたがってインスブルックにやってきた。1708年にグレーバーはインスブルックの帝室宮廷音楽(この地位は1666年からある)の責任者となった。公は二つのオーケストラを一緒に働かせることもあり、珍しく大規模なオーケストラを保持していたことになる。カール・フィリップの二番目の妻テレーザ・カタリーナ・ルボミルスカは音楽への情熱を夫と共有していたし、最初の結婚から生まれた娘エリザベート・アウグスタ・ゾフィーも共有していた。毎週のように音楽の催しがあり、そこで公女も歌ったり、バレエを踊ったりした。

賓客はオペラを饗された。アレッサンドロ・スカルラッティのオペラ《ティグラーネ》は、ナポリでの初演後わずか数ヶ月の後にインスブルックで上演されている。フランチェスコ・フェオの《L'amor tirannnico, ossia la Zenobia》はインスブルックでは《Radamisto》と改題されて上演された。しかし通常は、宮廷指揮者のグレーバーが祝宴の作曲もまかされた。器楽の部分(序曲、バレエ)は、コンサートマスターのフィンガーに委ねられた。

フィンガーはモラヴィア出身で、おそらく、リヒテンシュタイン公の夏の離宮クロムリッツで音楽教育を受けたらしい。

 

 

 

| | コメント (0)

2024年8月28日 (水)

グラウプナー《ディドー》その3

演出について。

インスブルックでの上演の演出を担当したのはデーダ・クリスティーナ・コロンナである。彼女と Christian Moritz-Bauer の対談内容を参照しつつ演出についてかいつまんで紹介する。

今回の《ディドー》は上演時間約3時間であるが、もともとの作品を少し短縮した。17世紀や18世紀のオペラ上演では、舞台と観客のやりとりがもっとあって、長時間上演がゆるされていたが、第四の壁が発明され、客席は暗いところで、静かにしていることが求められるので、一定時間以上は厳しい。

彼女は独自にバロック・ジェスチャー的なものを構築している。つまり、われわれが映画やテレビドラマで見慣れているリアリズムのジェスチャーではない。特に目立つのは6重唱などの比較的多人数の重唱で、決まったジェスチャーを複数の人間が交互に演じたり、同時に演じたりすることでジェスチャーそのものが様式美を持っている。Cessate (止めなさい)という歌詞(歌われている)とともに片手を前に突き出す、その仕草はシンプルであるが、一人で行ったり、複数の人が同時に行ったりするのと、重唱の進行具合がシンクロしているので美しい。

その他にも、重唱ではジェスチャーの連鎖が見られた。

単独のアリアの際にも、特に手の上げ下ろしなどは、リアリズム指向ではなく、様式的なジェスチャーであった。ただし、これは楽譜にもリブレットにも具体的な指示があるわけではないので、コロンナが時代の歴史的な情報源を参照しつつ、それをフレームとして、個々の振り付けを編み出していくという方法をとっているとのこと。舞台装置のドメニコ・フランキと協力して、歴史資料を彼女なりに解釈しつつ、独自の世界を組み立てていくわけだ。

セット、衣装は、金色が多用されていて、神々が舞台上方からちゅうずりで出てくるときには金一色の衣装。神と人間の差異が一目瞭然であり、そこでアジリタも含めて歌う歌手にも感心した。ディドーが金色の象(造作である)に乗って出てくると、トランペットが象の鳴き声を模倣するのも愉快だった。

ハンブルクでの初演時の演出がどうであったかは別として、われわれは十分にバロック的世界に心を飛ばし、そこに浸ることが出来た、と思う。

歌手について。

ディドーのRobin Johannsenはなかなか力強い声で熱演だったが、ジェスチャ—や所作にエレガントさがやや欠けていたのが惜しまれる。

ヒアルバス(ヌミビア王)のアンドレアス・ヴォルフ(バスバリトン)は豊かな声量の持ち主。存在感があった。

ヴィーナスはAlicia Amo. 舞台の外(天からという想定)からアエネアスに訓告を与える。

アエネアスはJacob Lawrence. 

ユーバは、ホセ・アントニオ・ロペス(バリトン)で、声も舞台での振る舞いも堂々としており安定感があった。

ジュノーはJone Martinez.金色の衣装でちゅうずりでの歌は、冒頭からわれわれの度肝を抜くもので、実に素晴らしい歌唱・演出だった。

アカテス(アエネアスの友人)はホルヘ・フランコ(テノール)。アエネアスとの掛け合いでユーモラスな二重唱もあるのだが、楽しく聞かせていた。

指揮はアンドレア・マルコン。オケは、チェトラ・バロック・オーケストラ。非常に明快な指揮で、オケもそれに応えて、場面に応じて表情、リズムを自在に変える。変える時の運動神経が良い。敏捷でありつつ、迫力があるときはあり、しんみりした曲では、ヴァイオリンソロや、オーボエが情感たっぷりに聴かせる。グラウプナーの曲づくりで、曲と曲とのコントラストをつくる巧みさは、ヘンデルを想起させるものがあった。

全体として、極めて満足度の高い上演で、しかもグラウプナーという上演頻度の稀な作曲家の作品であるところに深い感銘を覚えた。

| | コメント (0)

グラウプナー《ディドー》その2

前項の続きです。

ハンブルクに来て、グラウプナーは3年間鍵盤楽器奏者として働く。当時のゲンゼマルクト劇場に出入りする人の振る舞いは勝手放題だった。カイザーやその周辺の人たちは、言いたい放題、快楽をむさぼることにも遠慮がなかった。グラウプナーより3年前にハンブルクにやってきたヘンデルも快楽を忌避していたわけではないが、さっさとここを立ち去ったのだった。

ハンブルクでは常に新しいオペラが求められていた。ハインリッヒ・ヒンシュ(1650−1712)というリブレッティスタは、すでにカイザーやマッテゾンのためにリブレットを書いていたが、ウェルギリウスの『アエネーイス』を原作にしたリブレットを書いた。トロイが焼け落ちるとそこから逃れたアエネイスはカルタゴに着く。ディドーに求愛するものは複数いたのだが、アエネイスに恋してしまう。しかし神々は彼に別の使命を与える。ローマ建国である。彼はディドーを捨て、ディドーは死を選ぶ。

カヴァッリがヴェネツィアで1641年に《ディドーネ》を作曲して以来、この主題は人気があった。1688あるいは1689年に、ヘンリー・パーセルはこのエピソードに曲を付けた。1724年にメタスタージオは、彼流のディドーをリブレットにした。

ヒンシュがなしたのは、サブプロットを加えたことだ。新たな登場人物を増やして、葛藤や情熱の場面を増やした。ディドーの妹のアンナは、登場場面が多く、姉と異なり、愛の神キューピッドのいいなりにはならない、あるいはその力に屈しかけるのだが、はねのけたりという一連の葛藤が複数の場面で見られる。彼女を愛するユーバは一貫して彼女に愛を捧げようとしていてアンナのような揺らぎはない。

ヒンシュのリブレットではユノー(ジュノー)やヴェネレ(ヴィーナス)など神々が出てきて、ディドーやアエネアスの個人的な思い、愛情のままに行動することは許されないのだということが繰り返し告げられる。

《ディドー》はグラウプナーにとって初のオペラで様々な工夫を凝らしている。旋律が進んでいくのに、オケはオスティナートで元のところに留まるので両者にわざと乖離を起こす、など。この作品がどう受容されたかはわかっていない。

やがてダルムシュタット方伯にスカウトされ、1709年以降ダルムシュタットで働く。彼は1450ものカンタータと112のシンフォニア、85の組曲を残した。

| | コメント (0)

2024年8月27日 (火)

グラウプナー《ディドー》その1

グラウプナーのオペラ《ディドー》を観た(州立劇場、インスブルック)。

素晴らしい公演だった。曲良し、演奏良し、演出良しと黄金の3拍子?がそろっていた。

ディドーのストーリは、パーセルやレオナルド・ヴィンチのオペラでもよく知られているところだろう。今回の《ディドー》で大きく異なるところが一つある。ディドーがアエネアスに捨てられて自決する悲劇的最後は同じなのだが、その後があって、ディドーの妹アンナが新しいカルタゴの女王に選ばれめでたしめでたしという話なのだ。彼女は途中ではなかなか愛する気持ちを打ち明けられなかったティロスの王子ユバとも結ばれる。

例によってプログラムの解説、Christian Baier および Hansjorg Drauchke により説明を加えていく。

このオペラの初演は1707年ハンブルクのゲンゼマルクト劇場なのだが、この劇場のオペラ上演では典型的だったのだが、リブレットは基本的にドイツ語で書かれており、いくつかのアリアはイタリア語で書かれている。

グラウプナーは、前の項目でも書いたが、1722年にテレマンにうながされてライプツィヒのトーマス教会のカントールに応募している。しかし彼の当時の雇い主が認めなかったので、この職はヨハン・セバスティアン・バッハにまわっていったのだった。

グラウプナーの雇い主であるダルムシュタット方伯は、グラウプナーに多くのことを命じた。

クリストフ・グラウプナーはライプツィヒから南に60キロほどいったところのツヴィカウの近郊のキルヒェバークで1683年に生まれた。バッハやヘンデルより二歳年上になる。父は仕立て屋で七歳か八歳のころに鍵盤楽器に親しんだ。

1696年にライプツィヒの聖トマス学校に入り、歌をヨハン・シェレに作曲をヨハン・ダヴィド・ハイニヒェンに学んだ。1706年、音楽を一通り学んだ後、彼は法律の道に進むか真剣に悩んだ。収入の確実な道への欲求が強かったのである。

当時は大北方戦争(1700−21年)の最中だった。グラウプナーが将来を思いあぐねるちょうどその時、カール12世率いるスウェーデン軍がザクセンに侵入し、アウグスト2世はアルトランシュテット条約をカール12世との間に結び、アウグストは選帝侯となり、ポーランド王の地位を断念した。グラウプナーは兵隊にとられ、ハンブルクに赴いた。

ヘンデルの伝記作者クリサンダーによれば、「帝国自由都市で、ハンブルクほど音楽が確固たる地位を占めているところはなかった。あらゆる種類の最もすぐれた奏者がここにはいたし、優れた歌手もいた」。ゲンゼマルクト劇場は、ドイツ帝国の宝石であった。

1675年、ゲルハルト・ショットが今日のハンブルク州立歌劇場の礎を築いた。歌劇場は、宗教的オペラで幕を開けたが、やがてレパートリーは変化した。ハンザ都市ハンブルクは豊かだったし、作曲家ラインハルト・カイザーのもと、古代神話、土地の海賊、快楽主義的な話と次々にレパートリーが開拓された。舞台装置も、ヨハン・オズヴァルト・ハルムズにより新しい装置が生み出された。

 

| | コメント (0)

2024年8月26日 (月)

標高の意外

この記事、音楽とは関係ありません。

ミュンヘンとインスブルックの標高についての話です。

長年の無知、勘違いに気づいたので記しておく。

インスブルックから電車で移動すると北のミュンヘン方面に行くときも、南のイタリア方面(ボルツァーノ、トレントそしてヴェローナ)に行くときも、長いトンネルにすぐに入る。そのため、思い込みがあって、インスブルックは、ミュンヘンやボルツァーノ、トレントよりも数百メートル標高が高いのだと思っていた。

これは半分あたりで半分間違いだ。たしかにイタリア方面は数百メートル低いのである。しかし、北に向かうとき、標高は意外なほど変わらないのだ。インスブルックの標高が574メートル。ミュンヘンに向かう途中のクフシュタインの標高が504メートル。ミュンヘンの標高は519メートルなのである。山地から平野の開けたところに出たのだから、標高が数百メートル下がっているはずだ、と思っていたのは大間違いで、ずっと500メートル台なのだ。インスブルックとミュンヘンの標高はわずか55メートルしか違わない。

インスブルックのまわりを囲む山々は2000メートル前後あるのだが、町は案外標高の低いところにあるわけだ。

アルプス山脈が標高が高いのは当たり前だが、ドイツがおおまかにみて、北部が低地で南部がやや高くなっていることに驚いた次第である。

 

| | コメント (0)

2024年8月25日 (日)

中世の『カルミナ・ブラーナ』

『カルミナ・ブラーナ』の演奏会を聴いた(アンブラス城スペインの間、インスブルック)。演奏はTeatrum instrumentorumという団体。珍しい中世の楽器と歌による演奏。

ただし、カール・オルフの『カルミナ・ブラーナ』ではない。まったくこれまでに聴いたことのない新しい音楽であった。

当日の演奏とオルフの関係を少し説明しておこう。例によってプログラムの解説(Danilo Prefumo, Christian Moritz-Bauer, Aleksander Sasha Karlic) と演奏会一時間前のレクチャーでAlexander Sasha Karlic が語ったことに基づいている。

1803年に、名前のついていない写本が発見された。13世紀前半のもので、オーバーバイエルン(バイエルン州南部)のベネディクト会の修道院で見出された。写本には、ラテン語、中世ドイツ語、フランス語で約250の詩がかかれており、いくつかのものには音楽がついていた。当時、修道院は世俗化されていたものが多く、写本の見出された修道院もそうであったので、写本は王立中央図書館(現在のバイエルン州立図書館)に運ばれた。そこで、ミュンヘンの司書ヨハン・アンドレアス・シュメラーによって研究され、最終的に1847年に出版された。シュメラーが『カルミナ・ブラーナ』という名をつけた。

長い間、この写本は、中世音楽や中世文学の愛好家・研究者にのみ知られていた。しかしそれが大きく変化したのは、ドイツの作曲家カール・オルフが1935/36年に25編を選んで曲をつけた時からだ。こちらは世界中で人気を博した。その際にオルフはテキスト(言葉)は、写本のテクストを採用したのだが、曲は写本とはまったく関係なく、それを再構成することもなく、まったく新しい音楽を付したのだった。彼独自の音楽である。この写本の存在が注目されるようになったのはオルフのおかげと言ってよい。今日では、この写本は、中世ヨーロッパの音楽と文学を伝承するもっとも貴重な証言と考えられている。

もともとの写本が作られたのは、発見されたベネディクト会の修道院ではなくて、ティロルかケルンテン(オーストリア南部)と考えられている。書かれた作品は11世紀末から13世紀前半に及ぶ。ヨーロッパの様々な地域からもたらされたと考えられる。フランスの北部および南部、カタロニア、イングランド、スコットランド、イタリア、ドイツ語圏。作品のほとんどは世俗的作品で、ほとんどがラテン語で書かれている。

『カルミナ・ブラーナ』写本の一部には楽譜がついているのだが、当時の楽譜なので、それを解読するのは至難の技だ。たどれるのは、シンプルなメロディの動きのみであり、一つ一つの音の長さやリズムは示していないのである。しかしながら、いくつかの曲は、同時代の他の写本に含まれている。とりわけノートルダムやサン・マルシャル(南フランスのリモージュにあった修道院)の写本と突き合わせることで研究が進んでいった。しかし『カルミナ・ブラーナ』の現代の奏者は、歴史的、文献学的なアプローチで、曲を再構成する必要がある。

演奏団体主催者のKarlic の言うところによると、その再構成の際や、そもそもどんな発声法で歌っていたのかを考える際に参考になるのは、スペイン南部、イタリア南部、バルカン半島の一部に古くから伝承されている歌の歌い方だという。ほとんどは近代化とともに消失してしまったのだが、一部にそういった歌が歌い継がれているのである。そこでは、往々にして、二つおよびより沢山の複数の曲が、一つの曲として歌われることがあるとして、当夜の演奏会でも一曲を独立して演奏するのもあれば、複数の曲をあたかも一曲のように聞かせる演奏もあった。

楽器もこの音楽祭で見慣れているバロック××ではなく、バグパイプのようなもの、チターのような音のするリュートともギターともつかない楽器、あるいは口に糸をたててビヨン、ビヨンと音を出すもの、右手で取っ手を回転させて左手をつかってメロディを奏でるギローネ、素朴な笛の数々など中世の楽器はこんなものであったかと目に新しかった。 Karlic の話では、中世ヨーロッパの楽器は8割以上が中東由来のものとのことで、当夜聴いた響きも、かなりアラブ風の響きだった。

音楽としては同じ旋律を繰り返しながら、少しずれていったり、伴奏の楽器が変化をつけたりすることが多い。内容は、まれには宗教的なものもあるのだが、たいていは世俗的で、酔っ払いの歌などもある。歌うのは女性二人が中心だったが、複数の男性も時おり参加し、男性ソロになることもあった。そのあたりは、裁量の範囲なのかもしれない。

これが中世の音楽だったのかと印象的だった。ここから理屈っぽいポリフォニーの世界までの距離は大きいように思う。13世紀前半がこうだとすると、1265年、13世紀後半に生まれたダンテが聴いた音楽もそう遠くはなかったはずだ。特にフィレンツェから追放されて放浪中に地方でたまたま聴いた音楽は。ダンテについては、筆者がたまたま浮かんだ連想でプログラム解説とは無関係である。

| | コメント (0)

2024年8月24日 (土)

バッハ・カンタータ

バッハ・カンタータと題したコンサートを聴いた(インスブルック、シュティフツ教会)。

バッハのコラール・カンタータ四曲を集めたコンサート。演奏は鈴木雅明指揮バッハ・コレギウム・ジャパン(敬称略以下同様)。

独唱者は、ソプラノが Carlyn Sampson (ドイツ語の発音とビブラートがやや気になった)。アルトはカウンターテノールの Alexander Chance. テノールは Benjamin Bruns. バスは Christian Immler. 

練り上げられた真摯な演奏に、会場からも拍手は鳴り止まなかった。

この演奏会の背景について少し書く。例によってプログラムの解説(Bernhard Achhorner) とバッハ・コレギウム・ジャパンのホームページの鈴木雅明の解説に依拠しています。

2024年はバッハのコラールカンタータにとって特別な年なのだ。ルターによる宗教改革が始まったのが1517年、そこから7年経過した1524年に最初のプロテスタントの賛美歌集が出版された。だからそこから数えると今年は500周年。

しかしそれだけではない。1724年のバッハにも注目しよう。この当時、賛美歌集出版から200周年だったわけだ。それを記念してライプツィヒに前年に赴任したバッハに、コラールをもとにしたカンタータを作ってみたらといったのがアンドレアス・ステューベルという人で、この人は聖トマス教会の学校の副校長だった。それと前述の賛美歌集出版200周年を記念する意味もあって、バッハは賛美歌、コラールをもとにしたカンタータを作った。

そこから300年たった2024年にバッハ・コレギウム・ジャパンはコラール・カンタータを全部演奏するという企画を立てたのだが、それと並行してヨーロッパ各地でコラール・カンタータの演奏会のツアーをしていて、その最終地がインスブルックだったらしい。ヨーロッパ各地での演奏会では無論、いくつかのコラール・カンタータを選んで演奏したわけで、インスブルックでは4つのカンタータであった。

内容は、1.BWV20 「おお永遠よ、雷の如くとどろく言葉よ」、2.BWV94「なぜ私は世界について問うのか」、3.BWV93「ただ愛する神にのみ支配をさせる人は」、4.BWV78 「イエス、汝、我が魂を」である。アンコールは、四番目のカンタータのコラールを歌った。

最近バロック・オペラを聴いている身からすると、宗教カンタータもつくづく世俗カンタータひいてはバロックおぺらと同じ構成をしていることに気づく。コラールカンタータでは最初と最後にコラールを合唱が歌う点が異なってはいるが。それ以外のところではテノールなり、アルトなり、ソプラノ、バスが出てきてレチタティーヴォとアリアがあるわけで、これはオペラと同じい。バロック・オペラやイタリアの世俗カンタータと比較すると、バッハの宗教カンタータは歌手のアジリタはおとなしい、地味、歌手によってはほとんどないということが一見してわかる。これはこの時代、自分の曲を歌う歌手はほぼわかっていてその人の音域、アジリタ等に関する技量がわかって書いているためだろう。歌手によっては音域が狭く、狭い音域をいったり来たりしている場合があるのだが、これもおそらくバッハが想定している歌手の音域が狭かったためだろう。

バッハは自分が鍵盤楽器の名手だったため、オルガンやチェンバロ曲では、思いの限り超絶技巧を開陳し、華やかな技巧的フレーズ、早いパッセージも惜しげ無く披露している。それに対し、宗教カンタータでは、そういう傾向はみられない。ソプラノが登場しても、コロラトゥーラはほぼないのだ。ヘンデルやポルポラといった作曲家がオペラを書く場合には、少年時から徹底的な訓練を積んだカストラート歌手や技量の優れた女性歌手を起用することが前提とされているため、音域もはるかに広く、アジリタ、即ち敏捷な動き、装飾的な動きも場面に応じて書いたし、それが見事に演奏されたことと考えられる。

バッハの生涯をひもとけば、歌劇場のあるところに就職活動もしているのだがもろもろの事情でうまくいっていない。ライプツィヒでさえ、テレマンが蹴ったり、他の作曲家が元の雇い主が手放さなかったためにようやくバッハにまわってきた具合だ。今から考えれば信じがたいことだが、同時代の評価は決して高くはなかったのだ。だからライプツィヒのカントールに甘んじなければならなかったわけで、彼にオペラを書く機会があれば、と思わずにはいられない。しかし与えられた環境で充実した宗教カンタータを次々に作曲したバッハは、別の意味で立派だとも思う。

さて、宗教カンタータとオペラの類似点に気がつくと、字幕がないのがさみしく感じるのであった。教会は照明を落とさないので、客席のオーストリア人はプログラムに掲載されたドイツ語の歌詞を見ることができるのだが、ドイツ語が不自由な人間には英語字幕でもあれば、あるいはプログラムの歌詞が対訳になっていればと思った。インスブルック古楽音楽祭のホームページにはバッハのカンタータを演奏するとのみ書かれていて何番かは判らなかったので予習は不可能だったからだ。

バッハ・コレギウム・ジャパンの日本での演奏会の予定をみると何番を演奏するかは、あらかじめ掲載されているので上記の問題は解消されるだろう。

もう一点、宗教的なことについて。

会場は、シュティフツ教会なのだが、外はそれほどでもないのだが、中が極めて壮麗な装飾に満ちている。聖母が描かれた壁画があちこちにあり主祭壇も宙にうく聖母に鳩の聖霊から光りがさしている。そしてその祭壇画の上に箱のようなものがあって、箱の奥、突き当たりに彫像にイエス像が鎮座している。イエス像の前には金色の並木道?のように木が並んでいる。このイエス像の前の並木道は、今まで見たことのない図像なので、どういう図像学的な意味があるのか、ご教示いただけると大変ありがたいです。

ともかく、すこぶるカトリック的、聖母マリア崇敬に満ちた教会で、ルター派バッハのカンタータが演奏されるのは、エクメニカルな観点からは非常に好ましいことだろうと思う。

まったく個人的な関心なのだが、同じ演奏が、たとえばドイツのプロテスタントが主流の都市と、カトリックが主流の都市と、オーストリアのカトリックが主流な都市では、聴衆の受け止め方に変化があるのかどうかが知りたかった。つまりコラール、賛美歌にどれくらい接しているかが、相当異なると思われるからだ。それによって、聴衆の反応に違いはあるのか、どうか。熱量のようなものにどれくらい違いがあるのかが知りたいと思った。それはバッハ・コレギウム・ジャパンの人々だけが知ることなのだろう。

素晴らしい音楽会を日本の音楽団体による演奏で聴けたことは、率直に嬉しいことだった。

 

 

| | コメント (0)

ランチコンサート

インスブルック古楽音楽祭のランチコンサートに行った(Hofgartenのパヴィリオン、インスブルック)。

もともと宮廷の庭園だったものが今は市民に開放されている。そのなかのパヴィリオンで13時から1時間強のランチコンサートが催された。

楽器はバロックハープとヴィオラ・ダ・ガンバ。無料である。12時半頃会場につくと、すでにかなりの人が並んでいる。

このコンサートは質が高く、しかも無料で市民に開放されていて文句なく素晴らしい。それを断ったうえでなのだが、東屋(パヴィリオン)の四方のドアと窓を開け放つので、座席によっては強い直射日光があたるのと、インスブルックは空港が近いので今回も数回飛行機の音がした。

とはいえ、緑に囲まれてリラックスして聴く古楽のコンサートは、真の意味で贅沢なものだろう。

以前にも書いたがここの市民に開放されたコンサートは、無料だから古楽の中ではポピュラーなものを演奏するということは微塵もない。プログラムはたとえばアンブラス城や小さな教会の有料コンサートのそれとまったく遜色ない。

この日のプログラムは、Henrietta Urban のバロックハープ演奏で

Ascanio Mayone (1565−1627)のトッカータ

Giroramo Frescobaldi (1583-1643)の Partite sopra passacagli

Benardo Pasquini (1637-1710) のトッカータ

Antonio Vivaldi (1678-1741) のフルート協奏曲の編曲

そのあと奏者が入れ替わり Lucile Boulanger のヴィオラ・ダ・ガンバ演奏で

Sieur Dubuisson (ca.1622-ca.1681) のプレリュード

Nicolas Hotmann (ca.1610-1663) のバレエ、クーラント、サラバンド、ジーグ

Marin Marais (1656-1728) のアラベスク

Philippe Hersant (1948-  ) のL'ombre d'un doute  この曲に対しては

奏者から現代曲ですが、短いのでご安心ください。曲はオルフェオを扱ったものだという説明があった。ファンファーレや亡霊やオルフェオのハープが描写される。

Antoine Forqueray (1672ー1745)の Le Carillon de Passy

Sieur de Sainte Colombe (ca. 1640- ca.1700) 奏者から作曲者はマラン・マレの先生だったという紹介があった。彼のプレリュード、アルマンド、サラバンド、ガヴォット、シャコンヌ

最後は二人で

Arcangelo Corelli (1653-1713) ヴァイオリンのトリオ・ソナタ3番を編曲。

ハープもヴィオラ・ダ・ガンバもおおむね音楽史を辿っている。しかも一カ所現代曲をいれて、さりげなく聴衆に現代曲に触れる機会を設けてもいる。よく考えられた知的なプログラムなのだが、個々の演奏はのびのびとそれぞれの楽曲の特徴を歌いあげるものだった。

| | コメント (0)

2024年8月22日 (木)

ヘンデル《アリアンナ》その2

ヘンデルのオペラ《アリアンナ》を再び観た(音楽堂、インスブルック)。

この日の方が、テゼオ役の歌手アンドレア・ガヴァニン(カウンタテナー)は調子がよかった。このオペラ、圧倒的にテゼオ役に派手なアジリタのあるアリアが振られている。ペアとなるアリアンナ役のアリアはさほど派手なアリアがない。叙情的に自分の心情を歌いあげるアリアが多い。

それには理由がある。

長年ヘンデルのオペラの主役を歌っていたカストラート歌手のセネジーノがヘンデルのもとを去り、当時結成されたいわゆる貴族オペラの方に行ってしまったのだ。その結果、ヘンデルは新しい歌手と組んで《アリアンナ》を上演する必要があり、そこでスカウトされたのがカレスティーニというカストラート歌手だった。

《アリアンナ》の初演は1734年1月21日、ロンドンのキングズ・シアターでのことだったから、1733/34年のシーズンということになる。貴族オペラの連中は、セネジーノをはじめとしてこれまでヘンデルのオペラを歌っていた歌手を引き抜いてしまいヘンデルのもとに残ったのはアンナ・マリア・ストラーダのみだった。彼女がタイトル・ロールのアリアンナを歌ったのである。

ヘンデルの《アリアンナ》のリブレットは、例によって大陸で上演されたものに手を加えたものだった。ピエトロ・パリアーティというリブレッティスタが書いたリブレットにフランシス・コールマンが手を加えたものである。ピエトロ・パリアーティのリブレットにはポルポラが1727年に曲をつけている。

ただし、少しややこしいのだが、1733/34年に貴族オペラは、ヘンデルに対抗して作曲家としてはポルポラを採用し、アリアドネの神話を用いたオペラを上演したのだが、リブレットはパオロ・ロッリによるもので、《アリアンナ・イン・ナッソ》(ナクソス島のアリアドネ)で、ストーリとしてはヘンデルの話の続編にあたる。ヘンデルのオペラでは、アリアンナとテゼオが結ばれるハッピー・エンドだが、続編のポルポラでは、テゼオがアリアンナを捨て去るのだ。

アリアドネ(アリアンナ)の神話は、当時の観客にはプルタルコスやオウィディウスの著作を通じてよく知られていたと思われる。

クレタの将軍タウリデ(今回歌ったのはMathilde Ortsheidt) は、二組目のカップルのカリルダに言い寄り拒絶され、最後にはテゼオと戦う役だが、これを初演の時に歌ったのはマルゲリータ・ドゥラスタンティで、彼女はもともとローマでヘンデルと知り合い、ヴェネツィアでの《アグリッピーナ》(1709)ではタイトル・ロールを歌ったのだった。長いつきあいだったのである。

 

| | コメント (0)

2024年8月20日 (火)

ヘンデル《アリアンナ》

ヘンデルのオペラ《アリアンナ》を観た(音楽堂、インスブルック)。

音楽堂は州立劇場の隣の建物で、ここの地下の小劇場で若手オペラを上演するのが通例で今年もそうだった。去年もそうだったのだが、字幕が2つ左右に並んでいるのだが、まったく同一のドイツ語字幕で、片方を英語か原文のイタリア語にしてくれるとよいのだが。お隣の州立劇場でのジャコメッリの《チェーザレ》ではイタリア語とドイツ語の字幕があった。

歌手によって、イタリア語がそうきっちりとは聞き取れないのである。イタリア語の発音がしっかりしていたのは、クレタ王ミノスと眠り(擬人化して登場する)の二役を歌ったジャーコモ・ナンニとカリルダ役(アリアンナが誤解して嫉妬する)のエステル・フェッラーロ。二人は演技においても、落ち着いた振る舞いで役を堂々とこなしていた。ミノスはバスで、カリルダもセコンダ・ドンナの役柄なので、二人とも派手なアジリタの場面がないのが残念だったが。

《アリアンナ》は正式には《クレタのアリアンナ》で、クレタ島の王ミノスおよびその義理の息子(妻が牛と交わって産んだ半獣半人)のミノタウロスが出てくる。アテネの王子テゼオ(ちなみにイタリア語での発音はギリシア語源を尊重したテゼーオとラテン語の発音を尊重したテーゼオの両方がある)が、クレタに生け贄を連れてやってくる。以前からの取り決めで、7年に一度、アテネは7人の男と7人の乙女を生け贄としてクレタに差し出さねばならないのだった。彼ら・彼女らはクレタの迷宮に住むミノタウロスの餌食となるのである。アリアンナの設定が少しやっかいで、彼女はテーバイの王女とされているが実はクレタ王ミノスの子で、テゼオと恋仲である。しかしオペラの進行中、いっかんして彼女は嫉妬深く、テゼオがカリルダのことを本当は好きなのではないかと疑い、テゼオを責めたり嘆いたりする。たしかにカリルダはテゼオが好きなのである。しかしカリルダにも思いを寄せる男が二人いて、一人はテゼオの友アルチェステであり、もう一人はクレタの将軍タウリデ(ズボン役で歌ったのは Mathilde Ortscheidt)であるが、カリルダはどちらに対してもつれない。最後の最後でアルチェステと結ばれる。

演出は、クレタ島にいる王や将軍は軍服に近い現代的な制服を着ていて、やってきた生け贄は、むしろ難民が国境コントロールを受けているような感じに見える。、カリルダが入れられる部屋も鉄条網で囲われ、収容施設に見える。古代の神話的世界が、現代と切り結ぶわけで、この思いつきは誰でも考えつく類いのものではあるが、それゆえにか案外素直に受け入れられた。なかなかユーモラスだったのは、テゼオが迷宮にはいってミノタウロと戦おうとする場面では勇猛な歌をコロラトゥーラ全開で歌うテゼオは、後ろをミノタウロが何度も通るのに全く気がつかない。テゼオを歌うアンドレア・ガヴァニンは、結構アジリタもまわるし、必要に応じて声量もあるのだけれど、アジリタのところでは歌うのに精一杯で、ヘンデルの音楽は長いアジリタの中にややスイングして表情を変化させるところがあるのだが、その変化を楽しませるところまではいっていなかった。

神話がもとで、生け贄の話、半獣半人の怪物など荒唐無稽な要素にはことかかないのだが、意外なほど滑稽感がなく、むしろ何度言ってもアリアンナに自分の愛の誠実さを信じてもらえぬテゼオに同情してしまう。ミノタウロスとの戦いは一瞬緊張をはらんだものとなるが、テゼオが勝つ。そして皆がハッピーになる。現実もこうならぬものかと、二つの戦争(状態)地域に思いが飛ぶ。怪獣やその不条理な犠牲になる者に、終止符が打たれるのか。長い長い拍手が続いた。

若手オペラなので、歌手は未完の部分が濃淡の差はあれど見られる。オケは Barockorchester:Jung という名前なので、常設ではなくて、音楽祭のためのものだろうが、メンバーを見ると8割以上がイタリア系の名前だった。指揮者アンジェロ・ミケーレ・エッリコもイタリア人である。バロックではよくあるが、指揮兼チェンバロで、チェンバロは計2台だった。テオルボ、チェンバロ、チェロ、コントラバスが良く鳴るオケで、その分、渋い大人のサウンドを聴かせた。

このオペラのアリアは、戦う人が多いので、恋愛感情や情念に満ちあふれたものよりも、むしろ自分はこうせねばならないと宣言したり、自らを鼓舞するものが結構ある。その中で、たまにオケが静まり、たとえばチェロ一丁とほんの少しの弦の支えで、登場人物が歌う場面がある。ヘンデルではよく見られる場面ではあるが、そういう場面は、人物の心の奥を吐露する場だということが一聴明らかになる。これがヘンデルの上手さの一つだなあとあらためて感心。そういうしんみりとしたアリアのあとには、ブラブーラの効いた派手なアリアがきて、観客に変化の悦びを与えることも忘れない。ヘンデルは巧みなのである。

 

 

| | コメント (0)

ヤーコブ・フッターについて

前項でインスブルックのプロテスタントについて書いたので、ヤーコブ・フッターについて記しておく。

インスブルックはウィーンについでハプスブルク家にとって重要な都市で、宮殿も王宮教会も存在する。宗教改革が起こったときに、カトリック側が力を入れたことは疑いないだろう。

しかしティロルにもプロテスタントの教えを広める人はいた。ヤーコブ・フッターは Jacob Hutter (またはHuter, Hueter)は南ティロルのMoos (大雑把に言えば、インスブルックとボルツァーノの山中の村)に生まれた。生年は判らず1500年ごろでブルニコで教育をうけた。オーストリア東部のクランゲンフルトで再洗礼派に改宗した。1529年からは説教師となって生まれ故郷の周辺で布教活動を始めた。しかしその活動が当局の知るところとなり迫害が始まる。モラヴィアでは、再洗礼派の状況がましだと言うので、フッターらが調べにいき、情勢はたしかに有利なのでモラヴィアに少しずつ移住した。1531年には彼自身もモラヴィアのアウステルリッツに移住した。

しかし、オーストリア大公のフェルディナンド1世は早くも1527年には再洗礼派は許容されるべきでない、と宣言している。

フッターらは、フッターのもとでいくつかの再洗礼派がまとまりフッター派と呼ばれるようになった。しかしモラヴィアの議会が1535年にモラヴィアから再洗礼派の追放を決めたので、彼らは周辺の国々に散っていった。フッターはティロルに戻った。彼は妻のカタリーナとともにクラウゼンで1535年11月30日に逮捕された。12月9日にフッターはインスブルックに移送された。彼は尋問され棄教を迫られたが、棄教もせず、他の再洗礼派信者の名も告げなかったので拷問をうけたが屈しなかった。最終的に火刑の宣告をうけ、1536年2月25日に、黄金の屋根(インスブルックの旧市街の中心部)の前で処刑された。彼の妻は最初は逃げたが再び捕まり1538年にシェーネク城で処刑された。フッター派の記録によると、ティロル地方だけで360人のフッター派が処刑された。

フッター派は、原始共産制的な考えをもち、個人所有は認めなかった。個人は、持ち物は管理する権限があるのみとされた。

2006年から2007年にかけてインスブルックにワーキング・グループができ、フッター派との和解がすすめられた。ワーキング・グループにはカトリックの代表もプロテスタントの代表も参加し、2007年に黄金の屋根の前にプレートがかかげられ、フッターが信仰ゆえに処刑されたことが記された。2004年には、フッターとフッター派をめぐるドキュメンタリー映画(82分)も製作されている。

| | コメント (0)

2024年8月19日 (月)

Continuumのコンサート

室内アンサンブルのContinuum のコンサートを聴いた(Christuskirche, インスブルック)

会場は、インスブルックの中心部から10数分歩いたところにある教会。教会は福音派、つまりプロテスタントの教会である。教会の前の広場はその名もマルティン・ルター広場という。中に入ると十字架(イエスの像がともなっている)やステンド・グラスがあるのだが、ステンド・グラス3枚にルター、メランヒトン、ツヴィングリの肖像が描かれている。

教会の案内によると、ティロル地方に教会改革の教えや著作が伝わったのは1520年のことだという。しかしカトリック教会側の強い抵抗があって、プロテスタントの信者は秘密裡に信仰生活を送る必要があった。公にプロテスタントの組織が出来たのは1869年でしかもザルツブルクの支部だった。1876年に組織は独立した。

ドイツなどからの支援をうけて今回の会場のクリスト教会が建設されたのは1905−06年のことだった。なお、念のために言えば、インスブルックのプロテスタントの教会は複数あり、この教会だけではない。言うまでもなく、市内に最も多いのはカトリック教会である。

この日のコンサートの会場にこの教会が選ばれたのには理由があると思う。いくつか珍しい仕掛けのあるコンサートなのだが、中心となるのは、バッハのオルガン曲を室内楽に編曲したものの演奏だったのだ。バッハとルター、福音派の関係は明らかだろう。

そして、編曲されたバッハの楽曲の演奏の合間に、コラール(Georg Neumark 1621-1681)が舞台の袖から聞こえてきたり、ビート派詩人として有名なアレン・ギンズバーグの 'Transcription of Organ Music' (オルガン音楽の編曲)という詩の朗読が何度か入った。さらにはCaroline Shaw (1982) の ’Plan and Elevation: The Grounds of Dumbarton Oaks'という曲の一部が演奏される。

バッハの編曲だけ聴いている時には、ちょっと変わった演奏会と思っていたが、ギンズバーグの詩が英語のまま何度か朗読されるのを聴いて、これはプロテスタント教会の礼拝のパロディだと考えるようになった。プロテスタント教会の礼拝は、カトリック教会のミサに相当する。信者がコラールを歌ったりする合間に牧師が聖書を引用したりして説教をする。そういう構造をこのコンサートは引き受けていると思う。パロディというのは、別に揶揄の意味だけが存在するのではなく、モデルとして使用しているのであり、元になるものへの敬意を示している場合も多々ある(リンダ・ハッチョンの『パロディの理論』を参照されたし)。この場合もそうだと思う。

バッハを現代に再生するのに古楽器を用いたり、当時の演奏習慣を探り忠実に再現するという方向性もあるが、Continuum の主宰者Elina Albach は、楽曲を不思議な楽器編成で編曲すること(バイオリン、フルート、ツィンク、ヴィオラ・ダ・ガンバ、チェロ、チェンバロ、アコーディオン)や、ギンズバーグの詩を挿入すること、現代作曲家の作品を挿入することで、それを成し遂げようとしているのだと思う。

アコーディオンはこの編成の中で聴くと、妙にオルガン的な響きがするし、ツィンク(縦笛のような形で金管楽器のような音色がする)の響きが全体を突き抜けしみてくる。既知のものずらし、未知のものを加えるというやり方で、バッハに現代性を蘇らせようとしているのだろう。

聞き進めるうちに説得力あるかも、という思いに誘われていくのだった。ルター、バッハが信じたように音楽の力は大きい。

コンサートのタイトルは Wandlungen というもので調べてみると文語で変化という意味で、第一義的には、バッハのオルガン曲を室内楽編成に編曲したことを指しているのだろう。ただし3つめぐらいの意味で「聖変化」もあった。カトリックのミサでワインとパンがという聖変化である。ルター派でも、ワインとキリストの血が共存するということになっているはず。Wandlungen は音楽的な意味と宗教的な意味の双方をかけてともに響かせているのだと考える。

| | コメント (0)

ペーザロからインスブルックへの移動

今回蛮勇をふるって、インスブルックとペーザロを電車で往復した。

インスブルックからの電車は、駅へつくと5分遅れの掲示があり、待っているうちにその掲示が10−15分遅れに変わった。嫌な予感。

電車が到着して乗り込んだがなかなか発車しない。テクニカルな問題があるので30分以上遅れるというアナウンス。電車はなぜかしばらく逆方向に走り、そこでストップ。また駅に戻るという不思議な動き。ようやく動きはじめたが、約1時間遅れてボローニャに着いたので、乗り換えの電車には乗り損ない、駅でもとに切符に裏書きをしてもらい次の電車に乗る。こうなると乗車券は有効なのだが、座席は確保されていない。もともと乗るはずだった電車の座席は予約してあったわけだが、次の電車の座席は当日なので予約出来ないのだ。乗り込んで、空いている座席に座っていたが、しばらくして、その席を予約していた人がやってきて、移動して空席を探した。

ペーザロからインスブルックへの復路はほぼ定刻で動いた。が、やはり普通に疲れることは疲れるのだった。ホテルを9時にでて、インスブルックのホテルに着いたのは17時少し前である。

往路と復路で6日が経過したのだが、インスブルックはその間に、というか復路当日に急に気温が下がったのだった。山の天気は変わりやすい。ペーザロでのうわさでは、ペーザロからインスブルックまでバスで行く人もいるとのこと。さらに時間がかかるので体力があり、またうねうねする山の中を走るので景色に興味がある方なのであろう。思えば、モーツァルトは、ザルツブルクからインスブルックそしてイタリアへの山道を馬車でわれわれの何倍もの時間をかけて通っていったのだ。感慨深い。

| | コメント (0)

日本女性の活躍

ペーザロで若手歌手による《ランスへの旅》には2人の日本人女性が出演していて、お二人とも昭和音大の関係者であることがわかった。さらに、昭和女子大からは、ピアニストの男性も舞台作りに参加したとのことである。また、上記の方とは別にペーザロの音楽院に留学中の人もいたし、それ以外にも熱心にオペラや演奏会を聞いている昭和音大関係者がいた。ヴィヴァルディで博士論文を書こうとしている方がいるのは嬉しい驚きだった。

昭和音大関係者ではないのだが、オペラのアート・マネジメントを座学とインターンシップで勉強中・研修中のOさんにもお目にかかり、勝手に将来を期待してしまうのだった。

先にあげたピアニストの男性以外は、昭和音大の先生も含め、みな女性であった。

日本の経済状況が少しでも良くなって、オペラ界も元気になり、聴衆も若者が増えることを願うばかりである。

 

| | コメント (0)

ロッシーニ《エルミオーネ》

ロッシーニのオペラ《エルミオーネ》を観た(ペーザロ、アレーナ)。

二度目なのだが、今回は UNITEL が録画をしていたようだ。

テノールは前回より声の状態が良かった。

作品として、ラシーヌの内向的に情念がにじみ出る世界と、ロッシーニの外向的な世界がどうもしっくりいっているのかが疑問なのだ。

ラシーヌの原作をリブレットも反映しているように思う。その結果だと思うが、今回字幕を追っていったロッシーニのオペラ《とんでもない誤解》、《ビアンカとファッリエーロ》、《セビリアの理髪師》の三作と比較して、圧倒的にリブレットのイタリア語が難しい。一文が長かったり、そこに挿入句がはいり、しかもそれが詩的な表現なので要するに何が言いたいのかは頭をひねらないといけないっといった具合である。プログラムであらすじは確認ずみなのだが、それでも一つ一つの台詞の中身を追っていくのが最も困難だったのがこのオペラだ。

てごわし、ラシーヌ。

エルミオーネの屈折した情念、裏切り者を殺せと命じておきながら、なぜ私の本心がわからなかったのかと後からなじると言ったねじれ屈折した情念とロッシーニの音楽は合っているのか。

今回の上演、オケも指揮も、個々の歌手の熱量、技量に文句はない。むしろそれが高度な達成を見せているので、作品の問題点が露わになっているのかもしれない。

作品として、より深掘りしていけば、こちらの理解も深まり、味わいどころが増えていくのかもしれないが。

| | コメント (0)

2024年8月17日 (土)

ロッシーニ《ランスへの旅》

ロッシーニのオペラ《ランスへの旅》を観た(ペーザロ、アウディトリウム・スカヴォリーニ)。

例年、若手歌手のアッカデーミアの人たちが出演する《ランスへの旅》を上演しているが今年は若手のものと、アライモらが出演する《ランス》もあるのだが、私が観たのは若手の方。

出演者をみると Nanami Yoneda (敬称略、以下同様)と Kilara Ishida というお二人が日本風のお名前である。東洋系の人はこの二人の他にも女性も男性もいた。

何年ぶりか久しぶりに来たROFで変わったことの一つに字幕がある。イタリア語と英語が上下になって舞台上方にある。私は、職業的関心もあって、ずっとイタリア語字幕を読み、わからないところを英語でチェック、しかしアリアでなくてレチタティーヴォだと読み切る前に次の画面に行ってしまったりという具合。字幕、指揮者、歌手と観ているので、演出の細部には気がついていないこともあると思う。

演出を中心に観る人がいてもよいのだし、歌手中心で観るひともいてよいのだし、オケや指揮に興味をもって観るひとがいてもよいであろう。だから(なんでだからか?)、今回は思いっきり字幕中心で観ていて、それはそれでいろいろ発見があるのだった。

バロックオペラを最近は中心に観ている身からすると、ロッシーニのオペラ・セリアやカンタータではバロック時代の表現(言語表現)と共通するところがかなりある(詩語の多用や、韻を踏むために構文が倒置することなど)。一方、オペラ・ブッファになると、口語的になるのだが、それでもアリアによっては(セビリアのアルマヴィーヴァの最後のアリアなど)セリア的表現が出てくるのだった。

そういう文体の変化に応じて、ロッシーニが音楽の表情をどう変えているかいないのかも、字幕を観ながら聴く醍醐味である。ロッシーニ自身はリブレッティスタと同時代のイタリア人なので、文体の相違はぼくの何倍も何十倍も敏感に感じたはずだ。逆に言えば、文体や登場人物のキャラクター、場面に応じてそれにふさわしい音楽がかける作曲家の技が、あらためてすごいことだと感ずる。

《ランスへの旅》は、おおむね面白おかしいオペラなのだが、最後は子どものシャルル10世が登場するし、戴冠を祝する音楽であったので、オペラ・セリア的要素がにじんでくる場面もあるのだ。登場人物の国籍が複数にわたり、それぞれがお国ぶりを発揮する場面も愉快であるわけだが、これも祝祭的な意味合いもあろう。

指揮はダヴィデ・レーヴィで、指揮で強引にオケを引っ張るというよりは、穏やかめな指揮で、歌手にも歌いたいテンポで歌わせる感じだった。

| | コメント (0)

ロッシーニ《ビアンカとファッリエーロ》

ロッシーニのオペラ《ビアンカとファリエーロ》を観た(スカヴォリーニ劇場、ペーザロ)。

上演の珍しいオペラで、僕は初めて観たのだが、ROF(ロッシーニ・オペラ・ファスティヴァル)の常連の方々は、何年の上演はどうだったと話しておられる。ROF自体が1980年創設なので、40年以上の歴史があり、1980年代から観ているひと、1990年代から観ている人などがヴェテランとしておられ、かつての演奏、演出を教えてくださるのはありがたい。

ROFに最後に来たのはパンデミック前だったのだが、その頃と比較すると《ビアンカとファッリエーロ》にせよ、《エルミオーネ》にせよ、《セビリアの理髪師》にせよそこそこ空席があった。演奏のレベルは高いのであるが。日本人で言えば、かつて毎年来ていた熱心なROFファンがかなり引退されたように思われる。パンデミックで海外渡航ができなくなり数年が経過し、往来は再開したが、なんらかの理由で来なくなってしまった方が相当数いるようだ。気力の問題(数年海外に行かないと、再び行こうというのがおっくうになるとは多くの人が口にするし、実感としてもある)、経済的問題(円安、再開した航空会社のチケットが高め、ホテル代も上昇)、あるいは健康問題もあるかもしれない。ROFに参加する海外の観客の国別データがあるのだが、日本人の参加者は順位が落ちているとのこと。無論、空席が散見されるのが日本人客減少だけのはずはなく、上記のようなことがたとえばアメリカ人にも多少は生じているのかもしれない。

今さらではあるが、ヴァーグナーのバイロイト、ロッシーニのROF は特別な音楽祭で、一人の作曲家をとことん追求するので、観客の耳も越えている。加えて ROF はロッシーニの新しいエディションができるとそれに基づいて上演がなされる点でアカデミズムとの連携が濃い。さらに若手歌手のためのアッカデーミアと彼らによる《ランスへの旅》の上演が毎年恒例になっているので、若手の育成、登竜門の役割も果たしている。さらにロッシーニ協会会長水谷氏からご教示いただいたのだが、三年前から Il Belcanto ritrovato という新たなフェスティヴァルが生まれている。19世紀前半のベルカントオペラの作曲家で埋もれている人を発掘していく方針のようだ。今年オペラが取り上げられるのはLauro Rossiという作曲家である。

長々脱線してしまったが、《ビアンカとファッリエーロ》に話を戻そう。舞台は17世紀のヴェネツィア。名門のコンタレーナ家の当主は娘ビアンカをカペッリオ家の当主に嫁がせることを決める。それによって継承財産問題が解決するからだ。しかしビアンカにはファッリエーロ将軍という恋人がいてという話。第二幕では駆け落ちしようとし失敗したファッリエーロが逮捕され審問にかけられるのだが、その3人の審問官のうち2人はコンタレーナとカペッリオなので、ファッリエーロは絶望するのだが、審問は意外な展開をみせる。

ビアンカを歌うのはジェシカ・プラット(敬称略、以下同様)。以前に《バビロニアのチーロ》をROFでは歌っている。ファッリエーロは脇園彩。コンタレーノはコルチャック。カペッリオはジョルジ・マノシュヴィリ。

プラットと脇園は、声質も容貌も対照的で大変よかった。プラットは以前よりさらにふくよかになり堂々たる体躯の女性。脇園はいわゆるズボン役で将軍であるが、すらっとし身のこなしも軽い武将である。声は、プラットがいざとなると大音声を張り上げるのに対し、脇園はつねにベルカントを保ち、決して叫ぶような発声に陥らないので音量は比較するとほんの少し控えめである。しかし歌の様式感、様式美があるので、観客の拍手が多かったのは当然と言えよう。アジリタの際の処理も二人は対照的で、ジェシカ・プラットは、大音声でタカタカいく音型をやや崩しながらも必要に応じてテンポをあげていく。脇園は、細かい音型を丁寧に形を崩さずに歌いあげるので、テンポをあげるのが難しいところも見受けられた。一長一短なのである。あるいはどちらも聴きごたえがあり、二重唱の時には息のあった重唱を見事に聴かせていたのはプロフェショナルだし、ペーザロの観客は音楽性を重視しスタンドプレイは受けないのが、奏者にもわかっていて相乗効果をあげていると思う。

コルチャックも立派な歌だった。オケについては前項で書いたので省略するが、ロベルト・アッバードの指揮は、ベテランの味わいがあり、細かすぎずに楽員の自発性を引き出すところが素敵で、しかし必要があると、アリアのあとで遅めのテンポを巻き上げる時などは必死の形相でテンポを回復させていくのだった。すみずみまで丁寧というよりは、ツボを心得た指揮ぶりと言えよう。どちらのタイプの指揮も聴けるのが、ROFの贅沢と言えるかもしれない。

演出では、17世紀ではあるが、コンタレーノたちは背広。ファッリエーロは鎧らしきものを身につけているので、時代は曖昧。ビアンカの衣装も20世紀という感じであった。驚くアイデアではないが、歌を味わう妨げにはなっていなかったと思う。

 

| | コメント (0)

マリオッティとロベルト・アッバードの指揮

ペーザロでマリオッティの指揮で《エルミオーネ》を、ロベルト・アッバードの指揮で《ビアンカとファリエーロ》を聞いた、観た。

前者は、郊外のアレーナで、後者は改装なったスカヴォリーニ劇場(ここはもともと体育館だったそうで、音はよいのだが、階段状の座席は、つかまる手すりなどなくて、怖い感じもある。ただし、この劇場がアレーナより大分小ぶりなので、音は良いし、階段の傾斜が急なので、前席の人の頭が邪魔になることは全くない。

という曲目と会場の違いがあることを踏まえたうえでだが、マリオッティの指揮とアッバードの指揮の違いが印象的だったので、記しておく。

マリオッティは、最近の若い指揮者には珍しいことではないが、細かいフレージング、アクセントまで細かく指揮をする。ロッシーニの音楽は、ところどころギアが変わるように、テンポも曲想も変わることがあるが、その変化に至る過程まできっちり指定して独自のエレガントな感じを作りだしている。さらには、劇的に盛り上げるところも彼独特の柔軟な表情付けがともないオケの響きが荒くなることがない。見事なものである。

一方、ロベルト・アッバードは、要所、要所を締めていく感じで、マリオッティと比較するとフレーズの細かいところまで指定する感じは弱い。その結果、要所要所で彼が表情づけをしたり、テンポを指定(変化させ)たりするところ以外は、楽団員の自発性にまかせているようで、ときに楽器間のテンポが微妙にずれたり、同一楽器の中でも揺らぎがあったりするのだが、それが聴いていて心地よいのだ。一糸乱れぬマリオッティか、一見(一聴)気楽な感じ、リラックスした感じのアッバードか。マリオッティの精妙な指揮ぶりの優秀さをみとめつつ、少しの乱れを許容して楽団員一人一人が走りだす自発性が強く感じられるアッバードに、ロッシーニらしさを感じたりもするのであった。

 

| | コメント (0)

ロッシーニ《エルミオーネ》

ロッシーニのオペラ・セリア《エルミオーネ》を観た(ヴィトリフリーゴ・アレーナ、ペーザロ)。

会場は以前はアドリアティック・アレーナと呼ばれていたが、名前が変わった。ペーザロからは、オペラの時には特別バスが出るが、海際は走行する道が変わったので注意が必要である(今は Via Trento) を通る。

《エルミオーネ》は、台本の原作はラシーヌの『アンドロマック』である。ラシーヌ自身は古代ギリシアのエウリピデスの作を自由に翻案している。ラシーヌの世界が、ロッシーニの音楽に接続される。とんでもないことが起こったのだ。あまりに大胆すぎて、当時不評だったのだろう。ロッシーニはナポリ時代に9つオペラ・セリアを書いているが、本作が6作目だった。

プログラムの解説に、この作品がナポリ以外で、ごくわずかの例外を除いて再演されなかったのは、王政復古期なのに王殺し(王ピッロがオレステに殺される、それを命じるのがエルミオーネである)があったからではないかとしていたが、同感である。音楽自体は、実験的なところがあるというが、それが主要な理由とは思えないのだった(この部分、あくまで個人の感想ですが)。

| | コメント (0)

2024年8月15日 (木)

ラモン・バルガスのリサイタル

ラモン・バルガスのリサイタルを聴いた(ロッシーニ劇場、ペーザロ)。

昔、この人が日本でオペラで歌うのを観たと思うのだが何であったか思い出せない。久しぶりに聞いて、ずいぶんと歌の形や音程が、柔軟で自由で、ベルカントの枠をはみ出ているのではないかと思った。情熱を伝えようという意欲は感じるのだが。。。なぜか観客も少なかった。ピアノ伴奏はMzia Bakhtouridze.

| | コメント (0)

ピエトロ・スパニョーリのリサイタル

ピエトロ・スパニョーリのリサイタルを聴いた(ロッシーニ劇場、ペーザロ)。

パイジェッロ、ベッリーニの歌曲の後に、ロッシーニの《チェネレトラ》や《イタリアのトルコ人》などのアリアになると俄然生き生きとして、登場人物になりきっている。パルランテも歌い上げるのも自由自在、皮肉な調子も、なだめすかすような調子も。達者なものである。ヴェルディのファルスタッフも素晴らしかった。ニノ・ロータのアリアも皮肉が効いていて面白かった。

ピアノ伴奏はジュリオ・ザッパ。

| | コメント (0)

2024年8月14日 (水)

ロッシーニ《とんでもない誤解》

ロッシーニのオペラ《とんでもない誤解》を観た(ペーザロ、ロッシーニ劇場)。

ロッシーニの第二作で、1811年にボローニャのコルソ劇場で初演だから彼はまだ19歳の若者だった。しかし音楽は全編、ロッシーニらしさに満ちている。ストーリが痛快と言えば痛快で、成り上がりの富農ガンべロット(ニコラ・アライモ)の娘エルネスティーナ(マリア・バラコヴァ)をめぐる三角関係。彼女には親の決めたいいなずけブラリッキ—ノ(Carles Pachon) がいるが、貧乏青年エルマンノ(ピエトロ・アダイーニ)も彼女に心を寄せている。召使いたちは、エルマンノに味方していて、フロンティーノ(マッテオ・マッキオー二)が一計を案じ、秘密の手紙がブラリッキーノの手に入るように画策する。その手紙には、エルネスティーナは実は子どものときにカストラート歌手になるべく去勢された男である。その後、歌手にはならなかったのだが、女のフリをして兵役を逃れている、という内容で、ブラリッキーノはその内容をすっかり信じ、ショックを受け、エルネスティーナを避けるようになる。手紙が読まれるところは会場で何度も笑いがはじけた。ブラリッキーノは兵役逃れを告発したので、エルネスティーナはいきなり逮捕されてしまう。エルマンノの助けで脱獄。すべての誤解は、フロンティーノのにせ手紙からと判りめでたしめでたし。

初演は好評だったのだが、セクシュアルな冗談や状況設定に問題ありということで、三回で上演禁止となり、イタリア全体でも演奏が禁止され、蘇演されたのは、1965年シエナのアカデミア・キジャーナでのことだった。

現代でのほうが、この台本を楽しむ土台ができているのではないだろうか。

指揮はミケーレ・スポッティ。自分のやりたい音楽を明快にオケに伝える若々しい指揮ぶり。歌手のなかではアライモが貫禄も歌も飛び抜けていた。演出も、台本の面白さを活かした穏当なものだった。

| | コメント (0)

ジャコメッリ《チェーザレ》その9

ジャコメッリのオペラ《チェーザレ》の2024年蘇演の上演演奏について。

僕が観たのは初日ではなく、2回目と3回目である。前項まで1735年当時の歌手について紹介したが、この項は今年の上演の指揮、歌手、演出についてである。

指揮はオッタヴィオ・ダントーネ。前述のように、彼が今年からインスブルック古楽音楽祭の音楽監督になったデビュー作となる。彼は長年アッカデーミア・ビザンティーナを率いており、指揮とオケは一体化している。特に、アレッサンドロ・タンピエーリというコンサート・マスターが悪魔的に上手い。リズム感といい、音楽的センスといい抜群なのだ。さらに彼は音程にも神経質で、まわりの弦楽奏者と音程調整にいつも余念がない。それは他の奏者にも行き渡っていて、ホルン奏者の二人は上演前に何度も音程を調節していた。

歌手は、チェーザレがアリアンナ・ヴェンディテッリ。若々しい野心的政治家で、ローマ人らしく生きることと寛容な態度を示すこと、そして愛という様が曲にあり、その内実を見事に表現していた。

クレオパトラは、エメーケ・バラート。クレオパトラとしての威厳(アキッラの求愛は王族でもないくせにと一蹴する)、弟トロメーオとの駆け引き、チェーザレとの恋愛感情をふくんだ駆け引きがあり、場面に応じて色合いが変わるのだが、一幕と二幕で髪型を変え、二幕の方が曲想も、彼女の歌も女性としてのクレオパトラが出てくるのが興味深かった。

トロメーオは、テノールのヴァレリオ・コンタルド。バロックのテノールにも優れた歌手がどんどん出てきて欲しいのは言うまでもないが、相当に健闘していると思う。トロメーオも、部下とともに策略をめぐらしつつ、コルネリアに迫る人物である。

ポンペオを裏切りにより殺された未亡人コルネリアは、マルゲリータ・マリア・サーラが歌った。パルランテなアリア、歌い上げるアリアを表情豊かに歌った。創唱した歌手テージの特徴のせいで、コロラトゥーラがほぼないのが残念な面はあるが、十分に存在感のある歌、演技だった。

レピドはフェデリコ・フィオーリオ。この人はソプラノのカウンターテナーなのでソプラニスタである。背が高く舞台映えのする容姿だが、この《チェーザレ》では、この人物が一番恋愛一筋でそれがコミカルに描かれている(他の人物は恋愛と同時に、政治や策略が頭にある)。純朴な感じをよくあらわしていた。

トロメーオの部下で策士のアキッラは、フィリッポ・ミネッチャが歌った。ミネッチャはもともと知的な歌を歌う人だと思うが、役柄もそれにぴったり。彼はクレオパトラを熱烈に愛し、そのためにトロメーオのために戦い手柄をたて、その功績でクレオパトラと結ばれることを夢見て、チェーザレを殺す陰謀も企てるが、クレオパトラからは身分差ゆえにさげすまれる。そういった社会性がこのオペラには音楽によっても表現されている点が面白い。ミネッチャは、屈折した感じを歌でも演技でも見事に表現していた。

6人の歌手は粒ぞろい。それがこのオペラには必要なのだ。通常のバロック・オペラのようにプリモ・ウオーモ、プリマ・ドンナにアリアの数も多くという具合でなく、6人が相当に均等に扱われているのは前項までの解説に書いた通り。

演出は、ローマ軍を多数の人間で表現する代わりに、大きなガンダム的ロボット?のようなもの数台が舞台を動くということで表現していた。何より素晴らしかったのは、ある歌手がアリアを歌っている時に、他の歌手やモック役が動き回ったり、思わせぶりな仕草をしないこと。アリアに集中できる演出だった。音楽に対するリスペクトが十分に感じられた。衣装は、ガンダム・ロボットにあった感じのチェーザレ。エジプト勢は、簡略化されてはいるが、それなりに古風な衣装かな、といった具合であった。

聴衆全員がはじめて聞く曲なので、でしゃばりすぎない演出は好ましかった。

それにしても、ロマン派に毒されている聴衆が世の中全体では多いと思われる中で、このように感情移入、没入が容易なアリアの少ないきわめて個性的なオペラをデビューに取り上げたダントーネは勇気があると考える。案の定、ネット上のドイツ語の批評(グーグル翻訳で解読)には、つまらない作品を聞かされたという批評があった。ポルポラのカンタータやオペラ・セリアもそうなのだが、セリアの度合が高まれば、感情におぼれる人物ではない人物が重要になってくるし、それを音楽で表現することの難しさ、それが達成できた時の素晴らしさもあると考える。今回のジャコメッリの《チェーザレ》は作品自体も、上演演奏自体も、それを高度に達成していたと考える。

 

| | コメント (0)

ジャコメッリ《チェーザレ》その8

ジャコメッリ《チェーザレ》の初演歌手の続きであり最後(前項までと同じくプログラムのHolger Schmitt-Hallenbergの解説を参照している)。

最後の歌手は、コルネリアを歌ったヴィットリア・テージである。彼女はいろいろな意味でこれまで紹介した歌手と異なる。他の歌手は、《チェーザレ》初演の時点でみな25歳以下だった。それに対し、フィレンツェで1700年に生まれたテージは、16歳の時にパルマでデビューしているので、1735年当時およそ20年のキャリアがあったわけで別格の貫禄があっただろう。テージのあだなは La Moretta といい、肌が黒かったのだと思われる。彼の父親がアフリカ系であるとされており、彼女はヨーロッパで最初の白人以外の歌手の一人だった。彼女はクッツォーニやボルドーニと並び賞せられるが、派手なコロラトゥーラは持っていなかった。それは《チェーザレ》の彼女のアリアを聴くと判る。彼女は劇的表現と舞台上の存在感で観客を魅了したのだ。

《チェーザレ》におけるコルネリアは、夫がトロメーオの裏切りによって殺されたことに対する復讐を訴えつづけ生きている。それが極端なのは、夫を殺したのがチェーザレの歓心を買うためであったが、チェーザレは少しもそれを喜ばなかったし、むしろ不快に思ったのをコルネリアは知っているのに、チェーザレも復讐の対象で、彼を亡き者にしようとする。トロメーオからもレピド(ローマの元老院議員)からも求愛されるが、私は寡婦になったばかりなのよ!と怒りまくる。男たちも、彼女の夫が死んだ日に、というのは極端ではないか。しかし、彼女の復讐心は激しく、子どものセストの命を脅迫されても態度がゆるがない。これにはトロメーオもたじろぐのであるが。

コルネリアのアリアは、テージの特性を活かしてか、短い言葉を重ね、パルランテで、レチタティーヴォに近い瞬間も多くある。しかも通常のレチタティーヴォよりずっと激しい勢い、強い表情を帯びているので、演じる歌手の舞台上の存在感が重要なアリアだ。

全体を通じ、《チェーザレ》の登場人物のアリアは、しんみりとしたり、嫋々たる情緒に溺れるものは、ほとんどない。つねに恋愛が政治的駆け引きとセットになっていて、愛と計算が同時進行の人物にぴったりの音楽が奏でられるのだ。ロマンティックな愛の表現に慣れて、あるいは慣れすぎていると、感情移入、感情の没入はむずかしい音楽かと思う。しかし、登場人物を考えてみれば、チェーザレも、クレオパトラ、トロメーオも一国、あるいは帝国を率いるリーダーたちであり、個人レベルの恋愛感情のみに浸っているというのはむしろリアリティに欠けるだろう。政治家、リーダーも、権力闘争や政治を忘れることなく、恋愛もすると言う感じがみごとに描写される音楽劇なのだ。だから音楽は複雑な味わいに富み、一方的な感情移入をゆるすアリアは少ない。愛を訴えるかと思えば、皮肉な響きや、跳躍する音楽が感情と観客に距離をもたらす。きわめて独自な複雑な味わいをもったオペラ・セリアで、何度も聞き込むことでより面白くなるだろうと思った。

| | コメント (0)

2024年8月13日 (火)

ジャコメッリ《チェーザレ》その7

ジャコメッリ《チェーザレ》の初演歌手の続きです(相変わらず、プログラムのHolger Schmitt-Hallenbergの解説を参照している)。

ジャコメッリの《チェーザレ》ではトロメーオ(クレオパトラの弟)がテノールなのだが、これを創唱したのはアンジェロ・アモレーヴォリだった。彼は早熟で、13歳でボーイ・ソプラノとしてデビューしている。ハッセ作曲の《ダリーゾ》の皇帝オットーネ役だった。アモレーヴォリは18世紀の最も偉大なテノールと呼ばれるが、彼の声域の広さとアジリタは、多くのカストラート歌手やソプラノをしのぐほどだったという。ジャコメッリが彼のために書いた音楽も、彼の音域の広さと表情豊かで繊細な表現力を示している。三連音符や音の跳躍が得意で、それは第二幕の幕切れアリア Scende rapito spumante によく現れているーこのアリアが作品全体の中でも最も技巧的に困難なアリアなのだ。このアリアではオーケストラにも激しい濁流を模す音楽で演奏困難なものになっている。

ソプラノ・カストラート(カストラートにも音域がソプラノの人もアルトの人もいる)のロレンツォ・サレッティは、支配人ミケーレ・グリマーニの要請で、ヴィヴァルディの《グリゼルダ》ではオットーネを歌い、ジャコメッリの《チェーザレ》ではレピド(ローマの元老院議員で、コルネリアに何度も求愛する半ばコミカルなキャラクター)を歌ったが、当時はまだ若手だった。ヴィヴァルディはサレッティに高度な要求をしている。もっともそれは高度すぎて書き直すはめになったのだが。《チェーザレ》の第二幕四場の Vendetta mi chiede は歌手にもオーケストラにも聞かせ映えのする曲となっている。

アキッラ(トロメーオの部下で、クレオパトラと結婚することを夢見ている)を歌ったのは、アルトのアンナ・カタリーナ・デッラ・パルテだった(今回の上演ではフィリッポ・ミネッチャが歌っている)。彼女はローマ生まれだが、ヴェネツィアで活躍し、ズボン役を得意として主役を歌うことはまれだったが、ヴィヴァルディは1734年のオペラ《Dorilla in tempe》で彼女を主役にした。ジャコメッリはここで4つの歌いがいのあるアリアを彼女のために書いている。

以上のように、ジャコメッリは6人の登場人物に注意深く、質の高いアリアを、アリアの数の配分が偏らないようにして書いている。

| | コメント (0)

2024年8月12日 (月)

ジャコメッリ《チェーザレ》その6

《チェーザレ》初演当時の様式の変化について、同じくプログラムのHolger Schmitt-Hallenbergの解説に基づき記す。

ジャコメッリの《チェーザレ》の初演は1735年であるが、その当時、オペラ様式の移行期で、ヴェネツィア・オペラのスタイルは、より近代的でより名人芸を披瀝するナポリ・オペラのスタイルに取って代わられつつあった。ヴェネツィアの地元の作曲家、ロッティやアルビノーニ、ポッラローロも18世紀の最初の頃は活躍していたが、徐々にヴェネツィアの外で音楽的訓練を積んだ作曲家(ジャコメッリを含む)や歌手が雇われるようになっていた。18世紀の半ばに向けて(盛期バロックが、ギャラント様式やプレ古典様式に移り変わっていく)、ヴェネツィア・オペラの質は総じて下降気味であった。

しかし1730年代前半には、まだファリネッリもボルドーニもヴェネツィアで歌っていた。ジャコメッリの《チェーザレ》は、極めて名人芸的な、後期バロックオペラの一例なのである。グリマーニが起用した歌手は若手で、新しいナポリオペラのスタイルをマスターした歌手たちだった。ソリストのうち2人はミラノ上演から継続された。有名なヴィットリア・テージ(彼女はミラノ、ヴェネツィア、双方でコルネリアを歌った)とテノールのアンジェロ・アモレーヴォリは、エントゥーロ役からトロメ—オ役に昇格した。

声の配置は次のようになっている。チェーザレとクレオパトラは第一のカップルで、ソプラノで歌われる(当時は、カストラートのフェリーチェ・サリンベーニとソプラノのマルゲリータ・ジャコマッツィが歌った)、一方、心理的にはより複雑な敵対的なカップルは、トロメーオとコルネリアで、テノールとアルトによって歌われた。

初演時の歌手たち

フェリーチェ・サリンベーニ(1712年ミラノ生まれ)は、作曲家で声楽教師のポルポラにナポリで徹底的な訓練を受け、時代を代表するカストラートとなっていく。彼はその声だけでなく、演技や容姿も称賛の的となっている。カサノヴァは、「去勢が彼を化け物としたが、その他の全ての特徴は、彼を天使にした」と述べている。ジャコメッリとゴルドーニが作ったチェーザレ役用のアリアは、彼を若く、尊大な勇士として描いている。唯一 Bella tel dica amore だけが愛のアリアである。

ヴェネツィア出身のマルゲリータ・ジャコマッツィも有望な若手だった。ヴィヴァルディは有名なアリア Agitata da due ventiを1735年の同じシーズンに彼女のために書いているのである(オペラ《グリゼルダ》)。ジャコメッリも、ジャコマッツィの声楽的な可能性をフルに活用している。第一幕の幕切れアリア Chiudo in petto では、クレオパトラは自信に満ちた女王として現れる。ヘンデルの官能的で誘惑的なクレオパトラとは対照的である。ジャコメッリの音楽は、声楽のメロディも巧みに作り込まれたオーケストレーションも、しばしばこうした登場人物の性格を大きな音の飛躍や、表情に満ちた不協和音や、シンコペーション付きのアクセントや独立した第二ヴァイオリンで描き出す。これは第三幕四場の彼女のアリア Son qual nave da due venti (ファリネッリの有名なアリアとは全く別物)にあてはまる。これらのアリアは、若手でテクニックは素晴らしいのだが、まだ深い情緒をたたえた曲にはふさわしくない若手向きに書かれたアリアと言えよう。

それ以外の歌手は次項で。

 

| | コメント (0)

2024年8月11日 (日)

ジャコメッリ《チェーザレ》その5

さて、いよいよジャコメッリのヴェネツィア版である(前項の続きです)。

劇場支配人のミケーレ・グリマーニは、ヴェネツィアのライバル劇場を蹴落として、ジャコメッリのオペラ上演にこぎつけた。

ヴェネツィアでは他の都市とは異なり、劇場は君主の専有物ではなく、民営化していて、桟敷をサブスクライブしたり、ギャンブルやチケットの売り上げで財政的に運営していた。ヨーロッパ中からの旅行客の多さもこの方式を可能にしていた。ただし、この方式ゆえに、聴衆の趣味の変化には非常に敏感に反応せざるをえなかった。

1710年の時点で、ミケーレ・グリマーニはサン・ジョヴァンニ・グリゾストモ劇場だけではなく、より小ぶりなサン・サムエーレ劇場も所有していたのだが、ドメニコ・ラッリ(1679−1741)を副支配人兼座付きリブレッティスタとして採用した。ラッリは、宮廷詩人アポストロ・ゼーノの推奨により採用されたのであり、劇場の組織的なことも芸術的なことも担当した。彼は二つの歌劇場の必要に応じ、他人のリブレットを改作することもあり、オリジナルの作品をレオナルド・レオ、アレッサンドロ・スカルラッティ、ニコロ・ポルポラなどのために書いている。

1735年のジャコメッリ作品のリブレットに長々しい献辞(Salburug伯爵ルイージあて)の後にラッリは自分の名をサインしている。通常はサインしている者が、リブレットの改作者なのだが、この場合は違う。ミラノ版のテクストをヴェネツィア用に書きかえたのは当時若手のカルロ・ゴルドーニ(1707−1793)だった。彼はサン・ジョヴァンニ・グリゾストモ劇場の座付きリブレッティスタになったばかりだった。ミケーレ・グリマーニはラッリの助手としてゴルドーニを採用したのだ。

ゴルドーニによる改作

ゴルドーニが最初にグリマーニのためにした仕事は、1735年ヴィヴァルディのために《グリゼルダ》のリブレットを改作することだった。オリジナルはアポストロ・ゼーノによるもの。同様のことがジャコメッリの《エジプトのチェーザレ》でも生じた。

1737年、ゴルドーニは正式に2つの劇場の支配人の一人になったが、ラッリの助手である間は、リブレットに自分の名を記すことは出来なかった。《グリゼルダ》も《チェーザレ》も、リブレッティスタの名はラッリになっており、ゴルドーニの名はない。ゴルドーニはそのことを完全に了承していたようだ。その間の事情はゴルドーニ自身が回想記に記している。

この回想から、名前が表に出る前からリブレット書きに彼が関わっていたことと、もう一つ重要なことがわかる。即ち、ヴェネツィアにやってくる貴族にリブレットを献上することで、経済的に大きな見返りを期待できるということである。ラッリの経歴は終わりに近づいていた。1735年に彼は故郷のナポリに職を得ようとしていた。しかしラッリは経済的苦境にあった。それがゴルドーニではなく、ラッリの名をリブレットに記した理由であろう。

《エジプトのチェーザレ》では、ゴルドーニはジャコメッリのミラノ版のテクストをモデルとして使用したのだが、自分で多くのアリアを書いた。ゼーノやメタスタージオの作品から借用した形跡はないのである。楽譜はきわめて均一性が高く、ジャコメッリ特有のスタイルを示している。

| | コメント (0)

ジャコメッリ《チェーザレ》その4

ヘンデルの《ジュリオ・チェーザレ》のリブレットについて(前項からの続きで、プログラムのHolger Schmitto-Hallenberg の解説に基づいています)。

ヘンデルの《ジュリオ・チェーザレ》(1724年、ロンドンのキングズ・シアターで初演)は、ブッサーニのリブレットの痕跡をとどめる最後の作品である。この時、すでにリブレット執筆から約60年が経過している。ただし、ヘンデル作品においてブッサーニのオリジナルをとどめているのは5つのアリアとわずかなレチタティーヴォのみで、あとはニコラス・ハイムにより大々的に書き直されている。

ジャコメッリのオペラにつながっていくのは、むしろ1728年に初演されたルカ・アントニオ・プレディエーリの《エジプトのチェーザレ》であったが、リブレッティスタが誰なのかは明らかでないが、おそらくはカプラニコ劇場の劇場支配人だったジュゼッペ・ポルヴィーニ・ファリコンティによるものであろう。このテクストは、初めてジャコメッリのオペラと登場人物が同じになっている。加えて、このオペラで初めてセスト(コルネリアの子ども)がモック役となっている(ヘンデル版では雄弁に彼が歌うのは周知の通り)。勇ましい若者ではなく、幼子なのである。このリブレットがジャコメッリの1735年のカルネヴァーレのシーズンにおけるミラノ初演の際には、採用され手が加えられた(そのリブレッティスタが誰かは不明)。

ミラノで、ジャコメッリの作品が成功したのに刺激をうけた劇場支配人が二人いる。一人はフィレンツェのペルゴラ劇場の有名な支配人ルカ・デッリ・アルビッツィである、もう一人がヴェネツィアのサン・ジョヴァンニ・グリゾストモ劇場のミケーレ・グリマーニであった。

フィレンツェ版の行方

アルビッツィは、ジャコメッリの楽譜をミラノから送らせ、それをジュゼッペ・マリア・オルランディーニ(ペルゴラ劇場の座付き作曲家)に渡し、リブレッティスタのダミアーノ・マルキが劇場や歌手の事情にあわせて変更を加えた。音楽史的に興味深いのは、この作品上演にヴィヴァルディが関わっていることで、アンナ・ジロ—がコルネリアの役を担当したのだ。1735年7月1日の初演にアンナ・ジローは歌ったし、大成功だった。アルビッツィは手紙で全体としてうまくいったし、素晴らしいバレエも伴った、と書いている。

 

 

| | コメント (0)

ジャコメッリ《チェーザレ》その3

《チェーザレ》のリブレットの来歴について、プログラム(Holger Schmitt-Hallenberg)によって紹介する。

もともと《エジプトのチェーザレ》のモトになるリブレットを書いたのは、ジャーコモ・フランチェスコ・ブッサーニ(クレモナ生まれ、生没年不明)だった。彼が最初に《エジプトのチェーザレ》を書いたのは1676年、ヴェネツィアのサン・サルヴァトーレ劇場のためで作曲家はアントニオ・サルトーリオだった。

カエサルとクレオパトラの恋愛物語はプルタルコスやスエトニウスによって古くから知られていたしヴェネツィアの聴衆にも知られていた。ブッサーニはそこに何人かの想像上の人物を加え、コミカルなサブプロットを加えた。その結果、歌う登場人物は9人、アリアと重唱は短いものも含め65にも達した。にもかかわらず、丁寧に作られたレチタティーヴォも音楽的重要性を保持していた。サルトーリの音楽は、モンテヴェルディやカヴァッリと、それ以降の音楽の中間的スタイルであったとされる。このオペラは成功し、他の町でもサルトーリの音楽または別の作曲家の音楽で上演された。

主なものは、メッシーナでのドメニコ・スコルピオーネ作曲(1681年)。ミラノ、1685年。ベルガモ、1689年。ブルンシュヴィック、1690年(《クレオパトラ》で作曲はシジスムント・クッセル)、リヴォルノ、1697年。ロンドン、1724年(ヘンデル作曲)。ブルンシュヴィック、1725年(ヘンデルの音楽にもとづく)。ローマ、1728年(プレディエーリ作曲、トロメーオの役をファリネッリが歌った)。ヴィーン、1731年(ヘンデルの《ジュリオ・チェーザレ》、《アドメート》、《ロデリンダ》によるパスティッチョ)。リヴォルノ、1734年。

サルトーリオの同時代人とヘンデルの間隔が約25年空いていることに注意。1700年頃にオペラ・セリアは重大な変容をとげたのだ。それまでは、喜劇的要素も悲劇的要素も含み、貴族も庶民も出てきてすべてを包含する劇であったものが、ほぼ様式化された貴族のオペラ・セリアになったのだー内容的にも音楽的にも。聴衆も作曲家も、アリアに注意を集中させるようになり、アリアは長くなって、ダ・カーポ・アリアのような様式をまとうようになる。これは一面では進歩であるが、他方、初期バロックが持っていたより自由で多様なスタイルを失うことにもなった。

ヴィーンの宮廷詩人だったアポストロ・ゼーノやピエトロ・メタスタージオによるリブレット改革が、登場人物を標準化し、コミカルな登場人物を排除した。コミカルな登場人物は、インテルメッツォやオペラ・ブッファに移転したのだ。その結果、ブッサーニの《エジプトのジュリオ・チェーザレ》は、新たな様式にあわせて大幅に書きかえる必要が出てきたのである。

 

 

| | コメント (0)

ジャコメッリ《チェーザレ》その2

作曲者のジェミニアーノ・ジャコメッリは、あまり知られていないと思うのでプログラム(執筆者は Holger Schmitt-Hallenberg) を参照しつつ紹介しよう。ジェミニアーノ・ジャコメッリは1692年3月28日、コロルノに生まれた。コロルノというのは聞かない地名なので調べてみるとパルマの北10数キロに位置する小さな町である。当時、パルマのオペラ劇場は、イタリアで最も重要な歌劇場の1つだった。パルマはファルネーゼ家が支配していた。そこの宮廷音楽家だったのがジョヴァンニ・マリア・カペッリで、彼のオペラ I fratelli riconosciuti (再会した兄弟)は、カストラート歌手のファリネッリとカレスティーニが舞台上で共演した唯一のオペラだった。このカペッリがジャコメッリの音楽上の先生で、彼はジャコメッリに、歌唱、対位法、チェンバロなどを教えた。

ジャコメッリは1719年から1727年、パルマの宮廷楽長となった。1728年にフランチェスカ・マルキと結婚し、9人の娘を得たがその一人にはファリネッリが代父となった。オペラ作曲家としての名声が高まると、活躍の場は海外に拡がり、1737年にはオーストリアのグラーツですでに人気作品となっていた《チェーザレ》を上演、自ら指揮したことがわかっている。イタリアに帰ってくるとロレートのサンタ・カーザの楽長となり、1740年1月25日に亡くなるまでそのポストにあった。ロレートのサンタ・カーザというのは聖なる家という意味で、聖母マリアの家が海を越えて飛んで来てロレートにやってきた、という奇跡の家がロレートにあり、その小さな家を取り囲んで巨大な教会が建っていて、重要な巡礼地となっている。マルケ州の風光明媚なのどかな場所にある。

ジャコメッリの同時代での名声は彼の約20のオペラにあった。最初は1724年作の Ipermestra でヴェネツィアの最も壮麗な劇場サン・ジョヴァンニ・グリゾストモで上演された。その時からファウスティーナ・ボルドーニという大物歌手が加わっていたのは注目すべきことだろう。成功したのだが、その当時からジャコメッリの音楽は複雑であるとも表されている。たしかに彼の音楽においては、一方向に感情が突き進んでいくのではなくて、むしろ様々な感情が一人の中で交錯したり、感情と理性が葛藤したりする様を描くことに長けているような気がしないでもない。その後もヴェネツィアで Gianguir (1729), Epaminonda (1732), Adriano in Siria (1733), そしておそらく今日彼の作品で最も有名な Merope (1734)を世に出した。

《エジプトのチェーザレ》もここに加えてもよさそうなものだが、これを初演したのはミラノのテアトロ・ドゥカーレだった(1735年1月)。残念ながら、この時のスコアは現存していない。このオペラは同年11月24日に、ヴェネツィアのサン・ジョヴァンニ・グリゾストモ劇場で再演された。ミラノ上演とヴェネツィア上演のリブレットを比較すると重要な相違点がある。レチタティーヴォは半分ほどしか同じでなく、アリアは一つ(コルネリアの Lusinga un tiranno)のみしか引き継がれていない。ヴェネツィア上演ではアリアの数が増やされ、6人の主要キャラクターにほぼ均分に配分されているー当時としては異例なことだが。

ミラノ版の特徴

ミラノ版では、ポンペオの扱いが違う。ポンペオは妻コルネリアの手から毒入りワインを受け取るのだ。それに対しヴェネツィア版は(ヘンデル版同様に)ポンペオの死は間接的に描かれる。その首がトロメオの部下アキッラによりチェーザレに献上される。支配者や王の死というのは、検閲にひっかかりやすいので、それを避けたとも考えられよう。

ミラノ版作成に関し新たなアリアやレチタティーヴォを書いたのは、当時新進気鋭だったカルロ・ゴルドーニだったと考えられている。彼はここから数年のうちにイタリアで最も重要な喜劇作家、オペラ・ブッファのリブレッティスタになっていく。

 

 

| | コメント (0)

ジャコメッリ《チェーザレ》(1)

ジェミニアーノ・ジャコメッリ作曲のオペラ《チェーザレ》を観た(ティロル州立劇場、インスブルック)。

現代での上演は初であるらしい。ジャコメッリの音楽は、ヨーロッパでもなかなか接する機会はなく、最近になって再発見されたようだ。しかし、実際にすぐれた演奏で観てみると、非常に興味深かったので、何回かにわけてこの上演、作品、演奏者について書いていこうと思う。

去年までデ・マルキ(敬称略、以下同様)がインスブルック古楽音楽祭の総監督であったのに代わり、今年からはEva-Maria Sens が芸術監督でオッタヴィオ・ダントーネが音楽監督となった。この音楽祭は1976年から48年、つまり半世紀近く続く古楽音楽祭であり、古楽のなかで埋もれたものを再発掘する(蘇演する)傾向が強い。

今回、ダントーネがこの音楽祭に音楽監督としてデビューするに際して用意したのがジャコメッリの《チェーザレ》で、曲目自体は去年から決まっており出演者(コーネリア役)のマルゲリータ・マリア・サーラに話を聞く機会があったが、誰もこの作品を観たことも聞いたこともないのだと言っていた。

上演の一時間前にレクチャーがあり、ドイツ語通訳つきでダントーネとクリスティアン・モーリッツ=バウアーが対談していたのだが、ダントーネによるとこの作品は改訂されており、ただし楽譜は改訂後のものしか残っていないとのことだった。リブレット作者はカルロ・ゴルドーニとドメニコ・ラッリ。

ヘンデルの《ジュリオ・チェーザレ》との関係が気になる人もいるであろうから、最小限のデータを。ヘンデルの《ジュリオ・チェーザレ》の初演は1724年、ロンドンのキングス・シアターである。それに対し、ジャコメッリの《チェーザレ》は、1735年11月24日、ヴェネツィアのサン・ジョヴァンニ・グリゾストモ劇場で初演された。ヘンデルのリブレットは、例によって、元ネタはあるもののニコラ・ハイムが大々的に手をいれたものなので詳細は後述する。冒頭でクレオパトラの弟トロメーオが、チェーザレ(アリアンナ・ヴェンディッテッリ)の歓心をかおうとして部下アキッラ(フィリッポ・ミネッチャ)にポンペオの首をもってこさせるが、チェーザレはトロメーオがポンペオを裏切ったことをよしとせず、喜ばないのは両者に共通している。ポンペオの未亡人コルネリア(マルゲリータ・マリア・サーラ)とその子セストが登場するが、ジャコメッリではセストはモックで台詞もないし、アリアもない。そこがヘンデル版と大きく異なるところだ。

しかし大きく異なるのは、音楽自体である。ヘンデルの場合、イギリスで上演されたこともあり、レチタティーヴォが短く、アリアの歌詞も短い。登場人物の心情を音楽が描写する必要があり、ヘンデルは見事にその要請に応えている。それに対しジャコメッリではレチタティーヴォが長く、そこで登場人物は自分の考えや感情を表出できるので、アリアはヘンデルのそれに較べ、はるかに自分の考えを叙述することに重きがあり、そこに彼・彼女の感情やキャラクター描写が加わる。登場人物によって、威風堂々としていたり、皮肉な感じを与えるリズム、音型が繰り返されたりする。コルネリアの場合には、怒りの表現が多い(彼女は未亡人になったばかりなのに、次々に男たちが求愛するので、彼女は怒って拒絶する)。それをオッタヴィオ・ダントーネ指揮するアッカデーミア・ビザンティーナのオケは実に見事に描きわけていた。それはロマンティックな感情移入を要求するというよりは、感情も伴いつつ知的に味わう趣のある音楽で、軽やかで洗練されている。良くも悪くもヘンデルとは相当に異なる音楽で、ダントーネは2つの宇宙でまったく別物なのだと対談で述べていた。

 

| | コメント (0)

ハープとホルンのコンサート

Klangfarben (音色)と題するハープとフレンチ・ホルンのコンサートを聴いた(アンブラス城のニコラウス礼拝堂、インスブルック)。ニコラウス礼拝堂は、アンブラス城の中にある小さな礼拝堂で30人ほどしか座席はない。

プログラムの解説によると、ハープもホルンも1700年頃に音の出し方にかかわるメカニズムに大きな改変が加わった。それに深く関与した作曲家たち(その楽器の奏者でもある)の作品を集めたもの。

Johann Sebastian Demar (1763-1832)

Francois-Joseph Naderman (1781-1835)

Frederic Duvernoy (1765-1838)

Louis-Francois Dauprat (1781-1868)

楽曲のおおまかな感じとしては、ハイドン、モーツァルト、ロッシーニを平明にした感じと言えばよいだろうかーその三者に大きな差異があることは認めつつ、彼らの書いたディヴェルティメントや何かの祝祭を機に書かれた軽やかな曲を想起させるものであった。

ハープとホルンという二重奏は珍しいので、これらの楽曲ははじめて聴いたものばかりだったが、ホルンを口の調整でトリルも含め音程を吹き分ける技術の高さに感心した。ホルン奏者Claudia Pallaver も ハープ奏者 Reinhild Waldek も裸足であることも印象的だった。当日使用されたホルンは1840年Halary 製のもので、ハープはピアノで有名なエラール製のものであった。 

| | コメント (0)

2024年8月 9日 (金)

2024年夏のフライト

順番が逆になるが今回の日本からミュンヘンへのフライトについて。

ウクライナでの戦争のせいで、シベリア上空が飛べなくなったのは周知の通り。

今回のルフトハンザでは、羽田を出発して北上し、北極海をずっと飛んで、スカンディナヴィア半島を南下してドイツに入る。

そのため距離がかつての1万キロから1万2000キロに増加し、飛行時間も約12時間から14時間に増加している。いつもエコノミーの身としては、14時間は長い。トルコ航空などで、イスタンブール経由で来るのも悪くないのだと感じた。ただしルフトハンザの新しい機体は、前席背中の液晶画面が大きく、しかも映画は多数のものが観られる。

彼我の物価の差は今回も感じる。羽田空港で買ったほうじ茶のペットボトル(コカコーラ)は108円だったが、ミュンヘン駅で買ったコカコーラは3、6ユーロだったので500円をゆうに超えている。

| | コメント (0)

コンサート《ロンド》

Rondeau という名のコンサートを聴いた(インスブルック、アンブラス城、スペインの間)

ロンドは音楽様式ではなく、奏者の名前、Jean Rondeau から来ているのだった。

彼は、強い主張をもったチェンバロ奏者で、プログラムを明かさない。というか、一晩のプログラムは約一時間切れ目なしに続く演奏なのだった。演奏の中に、バッハのシャコンヌがはいってきたり、ラモーがはいってきたりするが、それをつなぐ部分は奏者による即興演奏である。20世紀のチェンバロ楽曲も登場し、響きがまったく新しい。電気楽器のような響きにも聞こえる。それが彼の狙いでもある。演奏前に、ファシリテーターとの40分ほどの対談があり、彼は英語で話したので聞いた。彼はコンサートにプログラムをたてずパフォーマンスだとしている。そのなかでチェンバロの楽器としての可能性、様々な響きを予見なく聞いて欲しいとのことだった。バッハの部分は伝統的なこちらにとって慣れたサウンドだったが、20世紀の作品はインスブルック古楽音楽祭では聞くことは稀なので響きもリズムも和音も斬新に響いた。アンコールはバッハのゴールドベルクのアリアと変奏、2つめはラモーだった。

かれは古楽の演奏法が流派となることを避けたいとしていて、自由な追求を求めているのだった。

コンセプト的におおいに刺激的な演奏会であった。

 

| | コメント (0)

« 2024年7月 | トップページ | 2024年9月 »