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2024年7月25日 (木)

ジネヴラ・エルカン監督『そう言ったでしょ』

ジネヴラ・エルカン監督の映画『そう言ったでしょ』を観た(イタリア映画祭、オンライン上映)。

地球温暖化が進行したローマ。冬なのに30度を超える気温で、画面には黄色がかったもやがずっとかかっており、映画の最終場面ではそのもやはますます濃くなって登場人物は自分がどちらに進んでいるかもわからなくなってしまう。彼ら・彼女らは、最終場面ではあまりの暑さにそこから逃れようと湖に向かっているのだが、もやが深くてそこにたどりつけるかはわからない。まことに寓意的な話である。湖は何らかの救済のシンボルであろう。アレゴリカルな映画だ。

登場人物は何組かいるのだが、みな解決困難な問題を抱えている。ある中年女性(テデスキ)、旧友のポルノスター(ゴリーノ)との間に夫を奪われた確執があってそれがオブセッションになっている。そのオブセッションから妙に信仰にこだわりが強い。その娘は、あきらかに過食症をわずらっているが、母のふるまいに困惑している。また別の女性(ロロヴァケル)はアル中で、子どもと別離を余儀なくされているのだが、無理矢理接近していく。さらに元薬中の神父(なぜかアメリカ出身でイタリアに住んでいる)のところに妹が母親の遺骨を携えやってくる。二人は遺骨をカトリックの教会に埋葬するか、非カトリックの教会に埋葬するかでもめる。

どれも安易な解決方法はなく、ある種の疲労感が漂うのだが、それは異常気象の暑さと妙にマッチしているともいえる。ネガティブな話のなかに不思議な魅力(豪華キャストの達者な演戯もそれに寄与しているだろう)のある映画だった。

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2024年7月24日 (水)

ジェノヴェーゼ監督『人生の最初の日』

パオロ・ジェノヴェーゼ監督の映画『人生の最初の日』を観た(イタリア映画祭、オンライン)。

ジェノヴェーゼ監督の映画は、本人も加わった台本が凝っている場合が多い。これまでの凝り方は、いくつものストーリ・ラインが徐々に折り重なっていって、すべての伏線が回収されるといったようなパターンが印象的だった。今回は、むしろ状況設定自体が意表をつくものだ。

たまたま同じ日に、自殺をしようとした4人が、ある男によって集められ、その男がその4人を一週間ホテルに閉じこめ、行動のすべてをコントロールするという。彼・彼女ら(子どもも一人いる)は、自分の死んだ場面やその後のまわりの人の反応を見せに行かされる。そこで死に対する考えが変わるものもいれば、再び死のうとするものもいる。

一週間が経過した時、4人はどうなるのか。寓意的であるが、意外に暗いばかりではなく、どん底を見たからの希望も存在する映画である。

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2024年7月20日 (土)

リッカルド・ミラーニ監督『別の世界』

リッカルド・ミラーニ監督の映画『別の世界』を観た(イタリア映画祭2024,オンライン)。

ローマ郊外の学校で30年以上暮らした教師ミケーレ(アントニオ・アルバネーゼ)が、自ら転出希望を出してアブルッツォの小さな村(住民300人あまり)にやってくる。冬は雪に埋もれ、狼の鳴き声も聞こえる。小学校は複式学級なわけだが、廃校の話が持ち上がっていることを知る。同僚のアニェーゼ(ヴィルジニア・ラッファエーレ)と廃校阻止に奔走する。

ローマからやってきて観念的に自然を賛美していたミケーレが、過疎の集落の現実を知る過程と、いかにして廃校を免れるか(ウクライナ難民の受け入れや障害児の受け入れ)が絡みあっている。

Benvenuti a Sud という映画と共通しているところもあるが、二時間足らずに巧みに上記の問題をコミカルに語る映画である。

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2024年7月12日 (金)

映画『信頼』

ダニエーレ・ルケッティ監督の映画『信頼』を観た(イタリア映画祭オンライン)。

原題は Confidenza で信頼という意味でもあり、内緒話、打ち明け話という意味でもある。英語でも守秘性の高いものを confidential などというのと同根である。

高校教師のピエトロ(エリオ・ジェルマーノ)は、愛情をもった教育という方針をもち、生徒に慕われている。数学が得意で大学進学後ドロップアウトしてしまったテレーザ(フェデリーカ・ロゼッリーニ)に考え直すように説得するうち二人は恋におちる。その中で、二人はこれまで誰にも語ったことのない秘密を打ち明けようと言い、そうする(打ち明け話の内容は観客にはわからない)。翌日、テレーザは家を出て行き、消息不明となる。ピエトロは同僚のナディアと付き合いはじめ結婚する数日前にテレーザは帰ってくる。その後、テレーザはアメリカに渡りMITで名をなす。ピエトロは役所での仕事もするようになりそれなりのキャリアを築いていく。ジャーナリストになった娘が奔走して父に勲章がもらえるようにしようとする。その時に教え子で出世頭のテレーザがアメリカから招待される。ピエトロは、自分が打ち明けた秘密をテレーザが暴露することを気に病んでいる。

この間に、ピエトロもナディアも第三者との不倫模様があったりするのだが、ともあれ、ピエトロとテレーザの間の秘密の打ち明け話はなんであったのかは気になる仕組みだ。しかしそれは最後まで具体的には明かされない。寓意的にも取れるし、一人一人の解釈に委ねられているとも言えよう。

テレーザを演じたフェデリーカ・ロゼッリーニははじめて観た俳優(女優)であったが、表情がとても個性的で、強く印象に残った。最後に近いところで、ピエトロに向かってテレーザはあなたは表面的だと何度もいうのだが、耳の痛い台詞であった。

 

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短編映画『カンツォーネ』

アリーチェ・ロルヴァケル監督の短編映画『カンツォーネ』を観た(イタリア映画祭、オンライン)。

ルーチェ創設90周年を記念して、アーカイブの資料を用いての創作依頼とのことで、昔のサイエンス映画やインタビューから歌とは何か、かつて人々はもっと歌っていたとか、聞くよりも歌うことが多かったなどの言葉が白黒映像とともに出てくる。

歌というものについて、考える面白い素材である。

 

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短編映画『ゾンビ』

イタリア映画祭(オンライン)では2本の短編映画が無料で観られる。

ジョルジョ・ディリッティの『ゾンビ』はその1本。

マルコ・ベロッキオらによって設立されたファーレ・チネマ財団におけるジョルジョ・ディリッティ監督の脚本・監督コースの最後に、受講生たちとのワークショップで制作された短編。

妻と娘がいるのだが、父は仕事が忙しいといってなかなか家に戻ってこない。母はいらついている。

ハロウィーンの日で、母は娘にゾンビの衣装を買ってやり、町に出て家を訪ねお菓子をもらいに行くのだが。。。。

どこからどこまでがディリッティのアイデアでどこが受講生のアイデアかは判らないが、10分の短編で一つの物語、ドラマが成り立っている。

 

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映画『あなたのために生まれてきた』

イタリア映画祭のオンライン上映でファビオ・モッロ監督の『あなたのために生まれてきた』を観た。

イタリア映画は、実話をもとにして、脚色し、ユーモラスなタッチを加えて社会問題をドラマ化して見せるのが上手い。

障害者施設を舞台にした『やればできる』もそうだったし、女性建築家がコンペで勝つために男性になりすました(選考委員の勘違いをたださなかった)『これが私の人生設計』もそうだ。撮り方によっては重苦しい映画になりかねないものを、ユーモアや恋愛ドラマの要素をまぶすことで、主題となる社会問題に積極的関心をいだいていなかった人をもそこに連れていく。気づきを与える。

この映画では、ゲイのカップルが出てきて、主人公はそのうちの一人で、もともとは神学校に通っていたのだった。養子をとろうとするなかでカップルは別れてしまう。主人公は一人となっても、一時的な里親も含め、機会を得られないかと格闘する。里親でも養子でも、男女の夫婦が優先され、なかなか彼には委ねられない。そこへダウン症の赤ん坊がでてきて、この子は何十組もの里親候補が断ってしまう。そこからチャンスがめぐってくる。彼の考えに共鳴した女性弁護士の助力もある。役所側の人間も、彼らなりの理にかなった論理を持っている。行き詰まって解決策がなさそうに見えるところから、どうほぐれていくのかが見せ所の映画だ。

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映画『まだ明日がある』

イタリア映画祭のオンライン上演が始まっている(6月27日〜7月28日)

映画は映画館で観るのが良いのであるが、コンピュータのイヤフォンジャックなどからアンプへとつなぎスピーカから音を出せば、音声の面では相当に満足のいく結果が得られる。イタリア映画は、派手な特撮ものが少なく人間ドラマが多いので、20数インチのコンピュータ画面を近距離から見ればスクリーンの質にもよるだろうがそれなりに満足はいく。

『まだ明日がある』は、ある意味、衝撃的な映画だった。というのも、この映画は、2023年イタリアで最大の観客動員をなしとげた映画だったのである。どんな映画が多くのイタリア人の心を捉えたのかという興味もあって最初に見たのだが、驚いたのは、地味な作りの映画だということである。

舞台は1946年、第二次大戦が終わったばかりのローマ。下町の家族が半地下に暮らしている。窓を開けると、アパートが面した広場を歩く人の足や散歩する犬が見えるのだ。一家は、夫婦(パオラ・コルテッレージとヴァレリオ・マスタンドレア)と子ども三人(長女が婚約しかかっている)、夫の父が寝たきり状態。この舅はなぜか従兄弟同士の結婚が最上と考えて、自分の息子が「外」から嫁をもらったことを愚痴っている。

子どもたち三人は一部屋で寝ているが、下の二人は一つのベッドで頭と足を互い違いにして寝ている。イタリアでも日本でも戦後すぐは貧しかったのである。この映画の主人公はパオラ・コルテレージ演じる妻だと言ってよいだろうが、妻をとりまく苦難は貧困だけではない。夫がDVなのだ。すぐに手をあげる。そういう場面は、ミュージカル仕立てで歌い踊りながらなのでなんとか苦しい気持ちにならずに見続けられる。夫の暴力の背景には、彼が第一次、第二次大戦の両方に従軍した経験がある。戦争に二度も行ったという台詞は繰り返しあらわれるので、夫が妻にふるう暴力は当時は今より多かったと思われるが、この映画の夫はさらにひどかったということが暗示されているのかと思う。

妻には若いころに付き合っていた男がいて、彼は今でも彼女を慕い、北部でより稼ぎのよい仕事があるので移住するが一緒に来ないかと誘われる。彼女は決意して準備を整えるが、決行の日に舅が死に、不可能となる。『まだ明日がある』というタイトルは、決行のチャンスは延期されてもあるということなのか。

最後の場面は、意外だったのだが、女性に参政権がもたらされた最初の選挙に妻が当票に行くところだ。抑圧だらけ、男に対して不平等だらけの1946年から一歩一歩進んで来たとも言えるし、まだまだ進むべき一歩があるとも言えるだろう。コルテッレージ(彼女の初監督映画兼主役)のこの作品がこれほど人々に支持され、国会でも上映されたことに静かな感動をおぼえた。

 

 

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ヘンデル《デイダミーア》

ヘンデルのオペラ《デイダミーア》を観た(目黒・パーシモンホール)。

パーシモンホールは最寄り駅が都立大駅で、もともと都立大があった跡地に建てられたホールである。

6年前にもここでヘンデルの《アルチーナ》を観た。2021年はイタリアに行く準備に追われてか行かなかった。

《デイダミーア》は、リブレットがパオロ・ロッリが書いたのだが、内容的にはリブレットをメタスタージオが書いた《シーロのアキッレ》と同じ部分が多い。つまり、同じギリシア神話を扱っている。アキッレ(アキレス、アキレウス)の母テティス(ニンフとも海の神ともされる)が、息子アキッレはトロイ戦争に行くと死んでしまうことを予知し、それを避けるため、アキッレを女装させてスキュロス島の王にあずける。アキッレは王の娘デイダミーアと仲睦まじくなる。そこへウリッセがやってきてアキッレがいるのではないかと探しだそうとする。デイダミーアの抵抗むなしく、アキッレは自分の戦士としての使命に目覚めてしまう、という物語だ。

 パオロ・ロッリもメタスタージオもジョヴァンニ・ヴィンチェンツォ・グラヴィーナの弟子、つまり二人は同門なのだ。先生のグラヴィーナは、この時代のイタリアの文学に多大な影響を与えたアッカデーミア・デッラルカディア(アルカディア会)の創設者の一人。モンテヴェルディの頃、17世紀のリブレットがコミカルな要素とシリアス(セリア)な要素が入り交じっていたのを、オペラ・セリアにおいてはシリアスな要素のみにすっきりさせるという方向に、彼らの運動は進んでいった。フランスのラシーヌらの古典主義に影響を受けたものである。

 ここで両者を比較してみると面白いかもしれない(《シーロのアキッレ》についてはごく最近『バロックオペラとギリシア神話』(論創社)で一章まるまる割いて論じているのでご覧あれ)。

演奏は、若手にとって貴重な機会となっているようで、レチタティーボもかなり練り上げられていたが、さらに向上する余地はあると思う。バロック歌唱は、それを専門とする人が日本の中からもっと出てきても良いのにと思う。原曲からはかなり曲が間引かれていて、演奏時間が3時間ぐらいかかるところが2時間くらいになっていた。バロックオペラははじめてという人にはこれくらいの長さの方が見やすい、聞きやすいかもしれないとも考えた。この企画は是非続けて欲しいし、さらに言えば、頻度があがるとなお一層よいと思う。

 

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