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2023年9月24日 (日)

『キリスト教会の社会史』(2)

『キリスト教会の社会史』(彩流社)の第2章について。

第二章は塚本栄美子著「宗教改革期ドイツにおける儀礼ー心のよりどころの行方」である。ルターによる宗教改革の衝撃について述べた上、秘跡の捉え方がカトリックとプロテスタントで異なることについて触れる。カトリック教会では、正式にはトレント公会議(ドイツ式にはトリエントだが、当ブログではトレントと表記する)で7つの秘跡が定められたが、実際には12世紀ごろほぼ固まっていた。

中世後期の人は通過儀礼としての色彩の強い洗礼、堅信、婚姻、終油の秘跡に加えて、少なくとも年に一度復活祭のときに、悔悛の秘跡と聖体の秘跡を受けるように勧められた。

1215年のラテラノ公会議で、司祭の聖別によってパンと葡萄酒が本質的にキリストの身体と血に変わるという聖変化(化体説)が正式の教義にとりいれられた。12−13世紀には聖なるパンが、14−15世紀には聖なる葡萄酒のはいったカリスが高くかかげられるようになり聖体奉挙がミサの最も大切な瞬間となった。

こうした秘跡のあり方に異議を唱えたのがルターだった。1520年に「教会のバビロン捕囚について」で、7つの秘跡は否定し、「洗礼、悔い改め、パンのサクラメント」の三つを支持しなければならないとしている。後に悔悛はルター派では秘跡からはずした。ルターは、カトリックでは一般信徒がパン(ホスチア)にのみあずかることを批判し、一般信徒にもパンと葡萄酒による二種陪餐を認めた。聖職者と一般信徒の区別をなくしたのである。

しかし評者が驚いたのは、この時代の洗礼では、いわゆる洗礼の前に悪魔払いをしていたことだ。司祭は子どもに息を吹きかけ、悪魔に生きた神に場所を譲って出て行くように命じた。こどもの額と胸の上で十字を切り、右手をこどもの頭の上において祈りを捧げる。こうして悪魔に打ち勝ったことを示した後、神と人を仲介し洗礼を施したのである。この悪魔払いの部分はルターも受け継いで変更はしていないのである。しかし急進的な改革者カールシュタットによる騒動が起こった後1526年により大胆な改革をルターは提案した。大胆な改革をしたものの悪魔払いの必要は認めていた。

 ところが改革者マルティン・ブツァーは悪魔払いの全廃を求めた。しかし領民の考えは異なる。1580年代に即位したザクセン選帝侯のクリスティアン1世はカルヴァン派に依拠する典礼改革に乗り出した。ドレスデン聖十字架教会では、ある肉屋が包丁をもって現れ、ルター派のやり方で洗礼をやってもらうことを主張し、洗礼の式次第から悪魔払いを省略したら牧師の頭を切り開くと脅したのである。こうした実態から悪魔祓いがカトリックとプロテスタントの区別ではなく、むしろルター派と改革派を区別する指標として機能していたことがわかる。同様に「聖体奉挙」や「パン裂き」などの儀礼が宗派に対する忠誠心、ルター派と改革派を区別する指標として機能した(時期があった)ことは注目に値いしよう。

 

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