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2023年9月24日 (日)

『キリスト教会の社会史』(1)

指昭博、塚本栄美子編著『キリスト教会の社会史ー時代と地域による変奏』(彩流社)の第1章と第2章を読んだ。

第1章は徳橋曜著「中世末期のキリスト教と市民生活ー北・中部イタリア」で、「体制化した宗教とは空気のようなものである」という一文からはじまり、聖職者への課税の是非を巡る教皇とフランス王の対立から教皇庁がアヴィニョンへ移転したこと、しかしこの時代に教皇庁の中央集権化が進んだことがまず語られる。1377年に教皇庁がローマに帰還するとフランス側は翌年アヴィニョンに対立教皇をたてシスマ(教会大分裂)が生じる。これが収拾されたのは1417年、コンスタンツ公会議の場においてであった。

これと並行して語られるのがこの当時のフィレンツェの都市民の蔵書リストだ。15世紀前半に申告された全書物(779冊)のうち、宗教関係は28%(219冊)、ラテン古典が19%、実用書12%、ギリシャ古典1%、14世紀までの著作が24%、書名不明のものが16%であった。

洗礼については知らないことが多かった。中世のいたりあでは、小教区きょうかいは必ずしも洗礼をさずける権限を持たず、中教区(pieve)

が授洗権限を持っていた。ところが11世紀頃から小教区が授洗権限を持つ事例が見られるようになる。また、14世紀ごろまでは、洗礼は一年に1度または2度まとまって実施した。聖土曜日とペンテコステ(復活祭から50日目の日曜日)の前日である。ところがそれだと生後まもなく

死んでしまう赤ん坊は洗礼を受けずして亡くなることになる。15世紀にかけて、生後まもなく洗礼を受けるという習慣が成立してくる。

ドミニコ会とフランチェスコ会の性格の違いも興味深い。ドミニコ会は都市の上層の間にねづいており、フランチェスコ会は相対的に下層の支持を多く集めていた。

中世末期の信仰は必ずしも救霊と直結せず、現世的利益を期待することがしばしばだった。と同時に、教皇庁や教会に対する批判者が何人もでて追随者を集めた。ベルガモのドミニコ会士ヴェントゥリーノは、真の教皇はローマにあるべしとしてアヴィニョンの教皇の正統性を脅かした。極端な清貧を主張しフランチェスコ会を離脱したフラティチェッリと呼ばれる人々は1380年代に異端と断じられた。一方でフランチェスコ会厳格派(オッセルヴァンティ)は教会全体に清貧の問題を突きつけていた。15世紀にはいるとドミニコ会士だったヴェルチェッリのマンフレーディが反キリストはもう生まれている、終末が近いと説いて回った。

ルター以前にも、こういった教会批判、改革への叫びがあったことがわかった。一方、徳橋は、1399年にイタリア各地に広まったビアンキ運動は教会体制内の運動であったとしている。ビアンキの信徒は赤十字をつけた長い白衣を身につけ、十字架を先頭に街から街へと行列を繰り広げたのである。ジェノヴァ大司教やモデナ、ボローニャなどの司教がビアンキを先導している。ビアンキを警戒したのは世俗権力だった。しかしビアンキ運動は1399年のうちに終息した。

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