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2023年9月 8日 (金)

ルーカス・クラナッハ父

ルーカス・クラナッハ父は、ルターや彼の妻、メランヒトンら宗教改革を推進した人たちの肖像画でよく知られている。また、ルターが翻訳した聖書(ドイツ語訳聖書)の版画挿絵を制作したのもクラナッハである。

クラナッハは、ルターの宗教改革開始となる1517年よりも前にヴィッテンベルクにやってきて工房を開いている。ルターのためにやってきたのではなく、ザクセン選帝侯にこわれて宮廷画家となるべくやってきたのだ。ザクセン選帝侯賢候フリードリヒは、ザクセンの首都をヴィッテンベルクにし(つまりこの時期は首都はドレスデンではなかったわけだ)、この地に宮廷を置き、ここに大学も開いて、開校まもないその大学の教師となったのがマルチン・ルターであった。

ヴィッテンベルクは候の居城であった城(今は城教会=シュロス・キルヒェが残るのみ)からルターの住んだルターハウス(もとは修道院だった)まで2キロもない小さめの街である。クラナッハはルターやその仲間と知り合い、彼らの肖像画を描いている。

宮廷画家であったクラナッハがルターらの肖像画を次々と何枚も描いたのは、選帝侯フリードリヒがルターを支持し、匿っていたことが大きな要素としてあるだろう(この点確認必要)。

しかしその一方で、彼は聖母子像を何枚も描いている。実はルターにも所望されて聖母子像を描いている。ルターは元々カトリックのアウグスティヌス派の修道僧であり、聖母子に崇敬の念を抱いていても不思議はないのであるが、後々のプロテスタント教会の進んでいった方向を考えると、十字架やイエス像でなく聖母子像であったのは、時期や前後関係についてより突っ込んで調べてみる必要を感じる。

また、一層重要と思われるのは、彼の聖母子像で Maria hilf (前項を参照)と呼ばれる像がオーストリアで広く崇敬され、その像のある教会への巡礼者も多数に登ったことである。これは明らかにカトリック教会が対抗宗教改革の一環として推進していることなのだ。そのことをクラナッハはどの程度知りうる立場にあったのか、それをどう考えていたのか。

お抱え絵師であったクラナッハの信条を我々はどの程度知りうるのか。調べるべきこと、考えるべきことは多い。



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