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2023年9月24日 (日)

『ヨーロッパの世俗と宗教ー近世から現代まで』

伊達聖伸著『ヨーロッパの世俗と宗教ー近世から現代まで』(勁草書房)を読む。

本書が扱っている範囲は宗教改革期から21世紀にまで及ぶが、ここでは宗教改革や宗教に関するコンセプトについて紹介する。

この本は文系の本にしては珍しく、120ページ以上におよぶ「第一部 総論 世俗の時代のヨーロッパにおける政教関係の構造と変容」が9人の共著であるということだ。一部は第1章ー第3章に時代別に分かれ、各章が各地域(国)に分かれているし、編者によれば、編者が描いた西欧のスケッチに他の筆者が加筆訂正を行い、それを編者がまとめ直したものを執筆者全員がチェックするという流れで進めたという。第二部が各人の執筆した各論となっている。

編者による序論で、評者が重要だと考えたのは次の点。「『宗教』概念の西洋近代性を再把握する必要性である。『宗教』とは古今東西を通じて普遍的なあり方で存在するものではなく、西洋近代の政治的・軍事的・経済的・道徳的・知的覇権のなかで言説として再構成されたもので、それはキリスト教とりわけプロテスタント的な傾向を帯びていた問題含みの概念である」としているが、まったく同感だ。

第一章では、まずスペインのレコンキスタの過程を、宗教的多様性を特徴とし制度を異にする諸王国から構成されていたものを、カトリックを軸とする宗派化が進んだ時代としている。やがて王権による宗教的権威の領域化が進む。

ドイツでは、プロテスタントが唱えた万人司祭説は、教皇庁の決める聖職叙任ではなく、各共同体が司祭を選ぶ発想が宗教的権威を領域的なものにする大きな転機となった。神聖ローマ帝国内の諸侯は各自の領地の「宗派化」を進める。1555年のアウクスブルクの宗教和議はそのような「二宗派主義」を制度化したものだ。

こうしたなか「領邦教会」制度が構築されていく。領主が教会の首長も兼ねる国教制度である。こうして、政治的権力と宗教的権威の緊密な関係が再構築され、「宗派化」あるいは「信仰告白体制化」が進んでいく。

1648年、30年戦争が終結し、ウェストファリア体制が構築される。神聖ローマ帝国ではカトリックとルター派に加え、カルヴァン派も公認される。これにより様々な制限はあるものの、宗教の論理よりも政治の論理の方が優位なものとなった。

 

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『キリスト教会の社会史』(2)

『キリスト教会の社会史』(彩流社)の第2章について。

第二章は塚本栄美子著「宗教改革期ドイツにおける儀礼ー心のよりどころの行方」である。ルターによる宗教改革の衝撃について述べた上、秘跡の捉え方がカトリックとプロテスタントで異なることについて触れる。カトリック教会では、正式にはトレント公会議(ドイツ式にはトリエントだが、当ブログではトレントと表記する)で7つの秘跡が定められたが、実際には12世紀ごろほぼ固まっていた。

中世後期の人は通過儀礼としての色彩の強い洗礼、堅信、婚姻、終油の秘跡に加えて、少なくとも年に一度復活祭のときに、悔悛の秘跡と聖体の秘跡を受けるように勧められた。

1215年のラテラノ公会議で、司祭の聖別によってパンと葡萄酒が本質的にキリストの身体と血に変わるという聖変化(化体説)が正式の教義にとりいれられた。12−13世紀には聖なるパンが、14−15世紀には聖なる葡萄酒のはいったカリスが高くかかげられるようになり聖体奉挙がミサの最も大切な瞬間となった。

こうした秘跡のあり方に異議を唱えたのがルターだった。1520年に「教会のバビロン捕囚について」で、7つの秘跡は否定し、「洗礼、悔い改め、パンのサクラメント」の三つを支持しなければならないとしている。後に悔悛はルター派では秘跡からはずした。ルターは、カトリックでは一般信徒がパン(ホスチア)にのみあずかることを批判し、一般信徒にもパンと葡萄酒による二種陪餐を認めた。聖職者と一般信徒の区別をなくしたのである。

しかし評者が驚いたのは、この時代の洗礼では、いわゆる洗礼の前に悪魔払いをしていたことだ。司祭は子どもに息を吹きかけ、悪魔に生きた神に場所を譲って出て行くように命じた。こどもの額と胸の上で十字を切り、右手をこどもの頭の上において祈りを捧げる。こうして悪魔に打ち勝ったことを示した後、神と人を仲介し洗礼を施したのである。この悪魔払いの部分はルターも受け継いで変更はしていないのである。しかし急進的な改革者カールシュタットによる騒動が起こった後1526年により大胆な改革をルターは提案した。大胆な改革をしたものの悪魔払いの必要は認めていた。

 ところが改革者マルティン・ブツァーは悪魔払いの全廃を求めた。しかし領民の考えは異なる。1580年代に即位したザクセン選帝侯のクリスティアン1世はカルヴァン派に依拠する典礼改革に乗り出した。ドレスデン聖十字架教会では、ある肉屋が包丁をもって現れ、ルター派のやり方で洗礼をやってもらうことを主張し、洗礼の式次第から悪魔払いを省略したら牧師の頭を切り開くと脅したのである。こうした実態から悪魔祓いがカトリックとプロテスタントの区別ではなく、むしろルター派と改革派を区別する指標として機能していたことがわかる。同様に「聖体奉挙」や「パン裂き」などの儀礼が宗派に対する忠誠心、ルター派と改革派を区別する指標として機能した(時期があった)ことは注目に値いしよう。

 

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『キリスト教会の社会史』(1)

指昭博、塚本栄美子編著『キリスト教会の社会史ー時代と地域による変奏』(彩流社)の第1章と第2章を読んだ。

第1章は徳橋曜著「中世末期のキリスト教と市民生活ー北・中部イタリア」で、「体制化した宗教とは空気のようなものである」という一文からはじまり、聖職者への課税の是非を巡る教皇とフランス王の対立から教皇庁がアヴィニョンへ移転したこと、しかしこの時代に教皇庁の中央集権化が進んだことがまず語られる。1377年に教皇庁がローマに帰還するとフランス側は翌年アヴィニョンに対立教皇をたてシスマ(教会大分裂)が生じる。これが収拾されたのは1417年、コンスタンツ公会議の場においてであった。

これと並行して語られるのがこの当時のフィレンツェの都市民の蔵書リストだ。15世紀前半に申告された全書物(779冊)のうち、宗教関係は28%(219冊)、ラテン古典が19%、実用書12%、ギリシャ古典1%、14世紀までの著作が24%、書名不明のものが16%であった。

洗礼については知らないことが多かった。中世のいたりあでは、小教区きょうかいは必ずしも洗礼をさずける権限を持たず、中教区(pieve)

が授洗権限を持っていた。ところが11世紀頃から小教区が授洗権限を持つ事例が見られるようになる。また、14世紀ごろまでは、洗礼は一年に1度または2度まとまって実施した。聖土曜日とペンテコステ(復活祭から50日目の日曜日)の前日である。ところがそれだと生後まもなく

死んでしまう赤ん坊は洗礼を受けずして亡くなることになる。15世紀にかけて、生後まもなく洗礼を受けるという習慣が成立してくる。

ドミニコ会とフランチェスコ会の性格の違いも興味深い。ドミニコ会は都市の上層の間にねづいており、フランチェスコ会は相対的に下層の支持を多く集めていた。

中世末期の信仰は必ずしも救霊と直結せず、現世的利益を期待することがしばしばだった。と同時に、教皇庁や教会に対する批判者が何人もでて追随者を集めた。ベルガモのドミニコ会士ヴェントゥリーノは、真の教皇はローマにあるべしとしてアヴィニョンの教皇の正統性を脅かした。極端な清貧を主張しフランチェスコ会を離脱したフラティチェッリと呼ばれる人々は1380年代に異端と断じられた。一方でフランチェスコ会厳格派(オッセルヴァンティ)は教会全体に清貧の問題を突きつけていた。15世紀にはいるとドミニコ会士だったヴェルチェッリのマンフレーディが反キリストはもう生まれている、終末が近いと説いて回った。

ルター以前にも、こういった教会批判、改革への叫びがあったことがわかった。一方、徳橋は、1399年にイタリア各地に広まったビアンキ運動は教会体制内の運動であったとしている。ビアンキの信徒は赤十字をつけた長い白衣を身につけ、十字架を先頭に街から街へと行列を繰り広げたのである。ジェノヴァ大司教やモデナ、ボローニャなどの司教がビアンキを先導している。ビアンキを警戒したのは世俗権力だった。しかしビアンキ運動は1399年のうちに終息した。

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2023年9月 9日 (土)

タベルナコロ未満

インスブルックの歴史的中心地区からイン川を渡った住宅街には、外壁に聖母子像を描いた家、聖母子像の小さな立像のある家が多い。イタリアの街角で見るタベルナコロほどは祭壇の形を取らず単に聖母子の絵が家の外壁に描かれている感じである。しかしこの地区では2、3軒に1つは聖母子があるのに気づき写真に撮ってみたが、なかなかこのブログに貼り付けられない。うまくいったら貼り付けるつもりである。

インスブルックでも宗教改革の波はやってきたし、それに対するカトリック側の対抗運動もあった。それが現代にも受け継がれているのか、とも思う。

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2023年9月 8日 (金)

ルーカス・クラナッハ父

ルーカス・クラナッハ父は、ルターや彼の妻、メランヒトンら宗教改革を推進した人たちの肖像画でよく知られている。また、ルターが翻訳した聖書(ドイツ語訳聖書)の版画挿絵を制作したのもクラナッハである。

クラナッハは、ルターの宗教改革開始となる1517年よりも前にヴィッテンベルクにやってきて工房を開いている。ルターのためにやってきたのではなく、ザクセン選帝侯にこわれて宮廷画家となるべくやってきたのだ。ザクセン選帝侯賢候フリードリヒは、ザクセンの首都をヴィッテンベルクにし(つまりこの時期は首都はドレスデンではなかったわけだ)、この地に宮廷を置き、ここに大学も開いて、開校まもないその大学の教師となったのがマルチン・ルターであった。

ヴィッテンベルクは候の居城であった城(今は城教会=シュロス・キルヒェが残るのみ)からルターの住んだルターハウス(もとは修道院だった)まで2キロもない小さめの街である。クラナッハはルターやその仲間と知り合い、彼らの肖像画を描いている。

宮廷画家であったクラナッハがルターらの肖像画を次々と何枚も描いたのは、選帝侯フリードリヒがルターを支持し、匿っていたことが大きな要素としてあるだろう(この点確認必要)。

しかしその一方で、彼は聖母子像を何枚も描いている。実はルターにも所望されて聖母子像を描いている。ルターは元々カトリックのアウグスティヌス派の修道僧であり、聖母子に崇敬の念を抱いていても不思議はないのであるが、後々のプロテスタント教会の進んでいった方向を考えると、十字架やイエス像でなく聖母子像であったのは、時期や前後関係についてより突っ込んで調べてみる必要を感じる。

また、一層重要と思われるのは、彼の聖母子像で Maria hilf (前項を参照)と呼ばれる像がオーストリアで広く崇敬され、その像のある教会への巡礼者も多数に登ったことである。これは明らかにカトリック教会が対抗宗教改革の一環として推進していることなのだ。そのことをクラナッハはどの程度知りうる立場にあったのか、それをどう考えていたのか。

お抱え絵師であったクラナッハの信条を我々はどの程度知りうるのか。調べるべきこと、考えるべきことは多い。



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Maria hilf

Maria hilf と名付けられた聖母子像がインスブルックの大聖堂にはある。ルーカス・クラナッハ父が描いたもので、Maria hilf (英語で言えば Mary help)と呼ばれている。直接的には、16世紀にこれが描かれた時に、オスマン帝国の脅威があった、ということと、ルターによって惹起された宗教改革の影響が指摘されている。

当時の南チロルおよびオーストリアでは、聖母マリア崇拝が盛んになり、このMaria hilf像(複数が製作された)のある教会への巡礼をする人がどんどん増加したし、聖母マリアあるいはマリア像の成したとされる奇跡の話も数多く記録されている。この巡礼や奇跡の記録は、対抗宗教改革という時代背景と密接に関わっているだろう。



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