ヘンデル《トロメーオ》
ヘンデル作曲のオペラ《トロメーオ》を観た(上野・東京文化会館)。
日本ヘンデル協会のオペラシリーズVol.21で、創立25周年記念公演である。コロナ禍のため、今回は5年ぶりの公演とのこと。
ヘンデル協会のオペラは、音楽監督・演出・指揮の原雅巳(敬称略、以下同様)によるバロックジェスチャーが一大特徴だと思う。バロック・オペラにふさわしいバロック・ジェスチャーを、歌手の一人一人に原が指導するのである(ツイッターでその様子を一部公開している)。バロック・ジェスチャーには身分の高い人や正義の人はどちらから出てくるとか、二人の間からが調和的か対立的かで、どう向き合うかが変わる。アリアを歌う人のポジションと歌わない人の位置などなど。19世紀後半・末以降のリアリズム重視とは異なる。これはやるなら全員がこの動きをする必要があるので、歌手のコミットメントが通常の演出以上に大きくなると思う。
ここまで動きが徹底しているものは、ヨーロッパでも観られないのではないだろうか?衣装も、現代服ではなく、時代を感じさせる衣装となっている。もちろん、歌手個人個人によって、バロックジェスチャーが板についている人と、ほのかにぎこちない人もいる。新田壮人のアレッサンドロなどは後者のくちであったが、それが逆にユーモラスな雰囲気を醸し出し、いい味を出していたと思う。
トロメーオの中村裕美は、響き渡る声ではないのだが、表情のメリハリが利いており、劇の展開の要所、要所を締めていた。セレーウチェの村谷祥子は、叙情性豊かな歌唱をきかせた。一カ所器楽奏者のトラブルに端を発して進行に苦慮するところがありハッとしたが、バ
ロック・ジェスチャーだとこういう時に、すっと動いて歌いなおした時に驚くほど違和感 が少ないのだった。歌手も指揮・オケも見事な対応であったと思う(最後の一文、筆者の勘違いに基づいた論評を書いていましたが、適切なご指摘をうけ訂正しました)。
アラスペの望月忠親は、朗々と響く声で、キプロス王の堂々とした感じを巧みに出していた。エリーザの小倉麻矢は、このオペラの中で場面によって曲想が大きく変化する唯一の役柄だ(他の役柄は嘆いてばかりとか一貫性があるといえばあるが、変化に乏しい)。変化に富んでいる分、歌い甲斐もあるが、表情をどうつけるかが難しくもあるだろう。エリーザは横恋慕をする女性で、権力(王の妹)をかさにきて、意地悪なことも言うので、もっと憎々しげに歌ってもよいのではと思うところもあったが、全体的に安定感があって、役柄から想定するより品のよい歌い振りだったと言えよう。
オケは12人ほどだが、文化会館小ホールなのでまったく不足はない。最近のバロック・オーケストラだとオケによっては相当大胆な表情づけをする(弦楽器の弓の使い方なども、時に荒々しく弦にたたきつけるような奏法をとることがある)が、今回のヘンデル・インスティテュート・ジャパン・オーケストラは、穏やかに、インテンポで劇を進めていく。
ストーリーが結構入り組んでいて、トロメーオとアレッサンドロが兄弟なのだが、エジプトから追放されている。アレッサンドロは母から兄のトロメーオ殺すよう命じられるが、殺したくないし、彼は兄が王になる(復位する)のがふさわしいと思っている。という状況にトロメーオの妻や彼らが流されているキプロス島の王アラスペとその妹エリーザが絡む恋愛模様が絡む。
こうした人間関係を理解するのに大いに役立っているのは字幕である。ヘンデル協会の字幕には通常のオペラの字幕と異なる特徴がある。まず、字幕を表示する面積が大きくて、三行とか四行をいっぺんに映すことが出来る。その結果、たとえばデュエットで二人がどういうやりとりをしているのか、一気にわかる。さらに、台詞・歌を発している登場人物の名前が書かれているので、この人がこの役というのが幕毎に定着していく。これは、通常の字幕だと、はじめて観る(聴く)歌手が数人もいるとどれが誰だかなかなか頭に入らない。顔なじみの歌手が多ければ多いほど、この人がこの役柄というのは頭に入りやすい。
こうしたいくつもの工夫が相乗効果を発揮して、《トロメーオ》の世界に入っていきやすくなる。大いに楽しめた。
ヨーロッパでも滅多に上演されない演目である。
筆者も絡んでいるので、手前味噌のそしりを免れないかもしれないが、プログラムも大変充実したものだ。リブレットについても、ヘンデル作品と当時の政治の関係についても、それぞれの論者が詳しく論じている。ヘンデルのこの作品の先行作がD.スカルラッティ作曲のオペラで、それは未亡人となったポーランド王妃がローマに小さな宮廷を開いていてそこで上演されたのだ。しかも彼女の息子はアレッサンドロ(アレクサンデル)という名前だった、などという事も書かれている。
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