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2023年8月 8日 (火)

ヴィヴァルディのオペラ《オリンピアデ》

ヴィヴァルディのオペラ《オリンピアデ》を観た(チロル州立劇場、インスブルック)。

周知の如く、このオペラの台本(リブレット)はメタスタージオが書いたもので、数多くの作曲家がそれに曲をつけている。初演以外は、劇場が雇う歌手の都合などでリブレットの細部に手が入ることが多い。ある歌手のアリアの数が増え、別の歌手のアリアの数が減ったりするのである。あるいは、レチタティーヴォが簡略化されたりすることもある。

日本で最も上演された《オリンピアデ》はペルゴレージ作曲の版であろう。これが傑作であることは言うまでもないが、ヴィヴァルディの《オリンピアディ》も聴けば聴くほど優れた曲なのだ。ペルゴレージ−はイェージで開催されたペルゴレージ音楽祭の際の録画が、ブルーレイでもDVDでもCDでも手に入る。指揮はデ・マルキ。

今回、指揮者は同じくデ・マルキでヴィヴァルディの《オリンピア》を観ることができるのは幸運といわねばなるまい。ヴィヴァルディの《オリンピアデ》はCDのみが発売されている。

そもそもこのチロル州立劇場は2021年の夏には大劇場が修復中で使用できなかった。ネットを見ると、2021年の秋から新装なった大劇場が再開したのかもしれない。ともかく2023年の夏現在、真新しい劇場が使われている。客席のイス一つ一つ大きめになったのは嬉しい。

また、字幕が変化した!ドイツ語字幕と英語字幕が舞台右側にも、左側にも表示される。しかも数行表示されるのだ。これは相当わかりやすい。

今回の演奏は、指揮がデ・マルキ。今年がインスブルック古楽音楽祭音楽監督の最後の年である。これまで彼は、17世紀のものや、18世紀でもめったに演奏されない珍しいものを積極的に取り上げてきたが、今年はヴィヴァルディにフォーカスしている。オーケストラは、インスブルック祝祭管弦楽団。このオケを聴くのは初めてだが、イタリア人が多かった。デ・マルキの指揮のもと、時にいきいきと、しかし安定感のある伴奏をしていた。

歌手は王のクリステーネがクリスティアン・ゼン。王女のアリステアはマルゲリータ・マリア・サーラ。彼女の歌唱は格調高いのだが、この劇場の大きさからすると声量にややのもの足りなさを感じた。以前にインスブルックの別の劇場で聴いた時にはまったく声量不足を感じなかったので、たまたま今回のどの調子が十全でなかったのか、それとも劇場の大きさがクリティカルに作用しているのか。

我がままな求愛者リチダにはベジュン・メータ。その友人で彼に尽くすために自分の恋人を断念するつらい役のメガークレにはラッファエーレ・ペ。この二人のカウンター・テナーは快調そのものだった。今回の演出は、オリンピックというより、現代のジムのようなところで男たちが身体を鍛えているといった体の演出だったが、ペは何度も体操器具を実際に操ったり、縄跳びをしたり、腹筋運動をしてみせ、そのまま歌にはいっていくというなかなかの苦行を背負っていたが、それを感じさせない歌い振りだった。

王女の相談役(羊飼いの格好をしているが実はクレタの貴族の娘)アルジェーネは、ベネデッタ・マッツカート。以前にカールスルーエで聴いた時には声が細いと思ったのだが、今回は何の不足も感じず、実に堂々としたものだった。

本来メタスタージオのリブレットを読むと端役なのだがリチダの家庭教師にアミンタという男がいる(ソプラニスタのブルーノ・デ・サが歌う)。ペルゴレージの場合にはさほど目立たず、静かでいい曲があるなあ、という感じなのだが、ヴィヴァルディ版では最も派手で聴かせどころの多い第二幕のアリア 'Siam navi all'onde algenti' (われわれは銀色の波に翻弄される船)というメタスタージオのリブレットで盛り上がる場面では定番の隠喩アリア。われわれの人生は嵐の海の小舟のようなものなのだ。人生・運命が荒波。われわれは小舟。盛り上がるべくして盛り上がり、この日一番大きな拍手をデ・サは受けた。CDで聴いてもそうなのだが、アミンタのアリアはストーリー展開や、役柄を越えて聴きごたえのある特上のアリアが振られているのである。デ・サは軽やかに跳ね踊る演技も含め、楽々と出る高音を活かしてこれらのアリアの魅力を十分に伝えたのだった。

ペルゴレージの場合、第一幕でどんどん魅力的なアリアを繰り出しているが、ヴィヴァルディの場合はむしろ第二幕になってからとっておきのメロディー、アリアを出している。ペルゴレージの場合、若かったし、ナポリからローマに出てきて日が浅く、初っ端から聴き手の心をつかむ必要があったのだろう。ヴィヴァルディの場合は、この曲を書いたときにすでにベテランで地元ヴェネツィアで書いているので、魅力的な曲はあとから出すという戦略をとったのだろう。

第三幕になって、人物がこの人は実はこう(羊飼いかと思ったら貴族だった、など)あるいはクレタの王の息子かと思ったら、王クリステーネの息子だったなど、種明かし的な場面があるわけだが、このあたりはレチタティーヴォが続く。モーツァルトやロッシーニに慣れていると、大団円が重唱で盛り上がっていくというパターンに慣れてしまうわけだが、この時代はまだそうではない。複雑な糸の縺れをほぐす時には歌ではなくレチタティーヴォなのである。それが音楽的にはもの足りなく感じてしまうこともあるのだった。言うまでもないことだが、これはデ・マルキの演奏には何の責任もない。この時代の様式、作曲の仕方と現代の我々の耳の問題である。

とは言え、すこぶる高レベルかつ充実した歌唱、オケによるヴィヴァルディのオペラ。至福の時である。

ペルゴレージとの比較で言えば、リチダに死刑が迫り、何か最後の望みはと問われるとメガークレに会いたい、という。友情の極みであり、アリステアはどうでもよかったの?という場面だが、ペルゴレージの方が友情の強さが感じられる展開になっており、ヴィヴァルディではそのあたりはほとんど台詞で流してしまいあっさりしている。

同じリブレット(アリアの出入りはあるので細部の変更(Baltolomeo Vitturi による)はある)だが、味わいのポイントが微妙にずれてくるのであり、そこがまた味わい深く、面白みのあるところとも言えよう。

 

 

 

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