« 2023年2月 | トップページ | 2023年5月 »

2023年3月 4日 (土)

ヘンデル《オットーネ》演奏評

ヘンデルのオペラ《オットーネ》の最終日を観た(カールスルーエ、州立劇場)。

カールスルーエ・インタナショナル・ヘンデル音楽祭の千秋楽である。この音楽祭では、2つのオペラ演目と教会や小ホールでのコンサートが組み合わせられている。一年おきにヘンデル・アカデミーというマスタークラス+シンポジウムが開催される。演目は一つの演目を2年ずつやるのである年がAとBだとすると次の年はBとC、その次はCとDという具合にずれていく。1演目は新作(新プロダクション)でもう1作は再演となるわけだ。

今年の場合、《オットーネ》が新作で、オラトリオ《ヘラクレス》が再演だった。そのせいか《オットーネ》の方が客入りがよかったように見受けられた。

指揮はカルロ・イパータであるが、この人も叙情的な曲と元気な曲のメリハリをつけるのは良い。オケのうまさもあってコントラストは引き立つ。ただし、スローで叙情的な曲をすべてのフレーズを丁寧になぞるし、大きな区切りではリタルダンドまでする。その点には2つ問題がある。1つは音楽の推進力が落ちること。もう一つはリブレットとも絡むのだが、《オットーネ》に出てくる恋愛感情はロマン派のような恋愛感情と区別して考えるべきだということだ。テオーファネにしたところが、そもそもオットーネと名乗った人物が偽物だったわけで、気の毒と言えば気の毒だし、滑稽といえば滑稽なのである。彼女のせつせつと訴える気持ちは見事に音楽的に描かれているが、ドラマとしては第三者的に観るとコミカルな面がある。それは母親にあやつられているアデルベルトについてもそうだし、オットーネも妙に王様らしくない王様だ。ある意味では原作になったロッティの《テオーファネ》のパロディとなっている面がある。バロック・オペラに出てくる恋愛は、ロマン派以降のオペラの恋愛と較べるとずっと技巧的あるいはゲーム的・遊戯的要素の強いものである。だから綺麗なメロディを丁寧に丁寧に楷書的になぞるばかりではなく(そういう時があってもよいが)、時には行書的にさらっと流してほしかった。さらっと流しても、そこに心にふれるメロディーがある、というのも、名脇役がよく考えればこころ打つ台詞をさらっと言うというような感じで素敵ではないか。

しかし場合によって劇場によって観客層によってロマンティックな演奏の方が受けてしまうこともある。カールスルーエの客層は、地元の人が多く、ヨーロッパの他の国(多少はいる)、アメリカ、東洋からの客はごくまばらである。そしてこの劇場は通常はロマン派以降のオペラのシーズンを持っているので、健全なことに多くの観客は、ヴェルディやワーグナーも聴けばヘンデルも聴くという人たちなのだと思う。これが音楽祭でインスブルックやバイロイトのバロック・オペラ・ファスティヴァルになれば、バロック・オペラを好む客が集まっているという可能性がより高くなるだろう。

そういう意味で、カールスルーエという街の規模(人口約30万人)を考えると、実に豊かなオペラ生活が享受できる街なのだと言えよう。

 

 

 

| | コメント (0)

ヘンデル作曲《ヘラクレス》最終日

ヘラクレスのオラトリオ《ヘラクレス》最終日(3月2日)を観た(カールスルーエ、州立劇場)。

この日が筆者はこの上演を観る3回目であったが、この日は指揮がいくつかの点で筆者にとって好ましい方向に変化した。

1.指揮者から見て右手のチェロ、テオルボなど通奏低音への指示が増えた。手振りで指示することもあれば、顔を向けて首を振ることもあったが、何度か明らかに低音弦のエッジが効き(アタック音が明瞭になり)フレーズがより生き生きとする瞬間を確認できた。

2.アリアの途中で歌手がテンポを落としたときに、伴奏部分でレクーペロ(テンポを戻す)をして曲を引き締めるのも何回か確認でき、アリア全体がより均整の取れた音楽になっていた。

指揮者のモーテンセンは、このオラトリオの合唱を重視しており、そのことは前回も今回も共通して感じられ、この点はオラトリオとオペラの違いから来るもので、納得のいくものだ。周知のようにバロック・オペラの合唱は、大抵は曲の最後に登場人物が全員で歌うといった体のものなのだが、オラトリオの場合にはまさにギリシア劇のコーロのようにナレーター的な役割や、その場の情景、情感を描き出す積極的な役割を果たしているからだ。

この日はこの演目の最終日であるからか、カーテンコールで裏方も登場したのが印象的だった。裏方は数十人いて驚くほど多い。オペラの上演というものが、指揮、オーケストラ、歌手、合唱だけでなく多くのスタッフによって支えられてはじめて成り立つことを改めて確認した。

この日の上演が筆者が観た3回の中でもっとも充実した演奏、上演であったと感じる。最終日ということでより熱がこもったのかもしれないし、指揮者モーテンセンは、自分の指揮の細部を改善しつづける稀な資質をもった優れた指揮者であるからなのかもしれない。

こうした素晴らしい上演に巡り会えたことに感謝。

 

 

 

| | コメント (0)

2023年3月 2日 (木)

ヘンデル《オットーネ》の歴史背景

ヘンデル作曲、ニコラ・フランチェスコ・ハイム台本のオペラ《オットーネ》には、歴史上実在の人物が出てくる。オペラのリブレットではそこを忠実になぞるというよりは、いくつかのカップルの恋愛模様を創作し、かつ、歴史上の実在の人物の事跡も適当に変えているのでそのあたりの整理をしてみたい。

10世紀にオットー1世=オットー大帝は実在した。彼はランゴバルドのベレンガリオ2世と西ローマ帝国をめぐり争った。オペラとは異なりテオファネ(歴史的にはテオファノ)と結婚したのはオットー大帝の息子オットー2世である。テオファノは東ローマ帝国の皇女(皇帝の姪という説と別の皇帝の娘という説がある)。オットー大帝が同盟のしるしとして皇女を要求したのである。だから当然だがまったくの政略結婚である。このテオファノは夫の出陣に同行もし、政治にも口を出す積極的な人であるが、彼女は当時のビザンチン文化を西ヨーロッパにもたらした人でもあって、それまで手づかみで食事をしていた西ヨーロッパにビザンチンからフォークという文明の利器をもたらした。

オットー2世は、教皇ヨハネス13世によって共同皇帝として戴冠した。こうしてローマ帝国とドイツ王の結びつきが生まれたのである。神聖ローマ帝国という変なものがあって、なぜいつもドイツ語圏の王なのか、という疑問にこれは答えることになるだろう。そんな帝国は認めないという東ローマ帝国が抗議をし、戦いとなり、講和があって、講和のしるしにオットー2世と東ローマの皇女テオファノが結婚することになったわけだ。

実はその前にややこしい話がある。イタリアの王として支配していたベレンガリオ2世だが、前王ロターリオ王を暗殺した疑惑を持たれており、政治的正当化のため息子のアダルベルト2世とロターリオの未亡人を結婚させようとする。この未亡人がブルグントのアーデルハイトである。彼女は抵抗すると城攻めにあう。そこでオットー1世に助けを求めると彼が駆けつけベレンガリオ父子を追い出し、オットー1世はブルグントのアーデルハイトと結婚する。そこから生まれたのがオットー2世なのだ。

ヘンデルのオペラの方のアデルベルトとジスモンダが奪われた領土回復に執念を燃やすのは、上記のベレンガリオ2世、アダルベルト2世がモデルと言ってよいだろう。オペラも十分人間関係がややこしいが、史実の方がさらにいっそうこんがらがっている感じだ。

エミレーノ(後にバジリオと名乗る)は、東ローマ皇帝のバシレイオス2世がモデル。バジレイオス2世は、ロマノス2世の子でテオファネ(テオファノ)もロマノス2世の子という説もあるので、その説によればこの2人が兄妹ということになる。また東ローマ帝国内の権力闘争のため、バシレイオス2世は、長らくお飾りの存在で、実質的な皇帝になるのは後のことだった。

| | コメント (0)

2023年3月 1日 (水)

ヘンデルとゼレンカ

「ヘンデルとゼレンカ」と題された音楽会を聴いた(カールスルーエ、シュタット教会)。

ゼレンカは、これまであまり馴染みがなかったが、ヤン・ディスマス・ゼレンカという作曲家でボヘミア出身。ザクセン選帝侯に仕え、ドレスデンの宮廷でカトリック教会音楽家として宗教音楽を作った。ゼレンカが宮廷楽長になれるかという時に、ハッセがやってきて宮廷楽長になった。そのせいか作品にオペラは見あたらない。

今回の演奏会では、最初がゼレンカのテ・デウム(神を讃える歌)、ゼレンカのConcerto a 8 concertanti (ざっくり言えば8人の独奏者のいる協奏曲)、最後がヘンデルのテ・デウム。休憩はなしで約1時間半。字幕はない。

これくらいの長さで、宿(家)から近い音楽会というのも気軽な感じでよいものだ。聴衆もオペラ会場よりもより広範囲な社会階層が加わっているように見受けられた。チケット代もオペラの半額以下(もっともオペラも座席によってかなり値段の上下はあるわけだが)である。

今回のプログラムには構成の妙があってカトリックの作曲家ゼレンカのテデウムとコンチェルト、プロテスタントのヘンデルのテデウムという対照が一つ。ゼレンカのテデウムはラテン語で歌われ、ヘンデルのテデウムは英語で歌われた、その対照がもう一つ。それに加えて今日における聴衆への知名度の対照もあるだろう。

ゼレンカは実際に聴いてみると大変面白い作曲家だった。テ・デウムの前半では第一ヴァイオリンだけでなく、第二ヴァイオリン、ヴィオラも忙しく駆け回る、ある一定の音型を執拗に繰り返す。後半にはいって内省的な曲になると複雑な対位法が目立ってきてちょっとバッハ的かと思うと、案の定、ゼレンカはJ.S.バッハと面識があり晩年のバッハはゼレンカを高く評価していたことが記録に残っているのだった。

8人のコンチェルタンティのいる協奏曲も楽しかった。オーボエ奏者は指揮者が想定したテンポについていくのが大変そうだったが、オケはテンポを緩めずなかなかエクサイティングな掛け合いがあった。ヴァイオリンもチェロもトランペットもオーボエもファゴットも活躍する。結構派手だし、中身も詰まっている。音楽のラインは流麗で、テンポを急変(アレグロからアンダンテに急ブレーキをかける)させるところが何度もあって新鮮な驚きもあるのだった。

ヘンデルのテ・デウムはデッティンゲン・テデウムと言うものだった。ヘンデルは何度もテ・デウムを作っているのだが、1743年にイギリスのジョージ2世がデッティンゲンで戦勝したのを記念したテ・デウムなのだ。オーストリア継承戦争でイギリスはオーストリアと組んで、フランスと戦い勝ったのである。前回の教会での音楽会もそうであったが、たしかに宗教音楽を扱っているのだが、戦争とりわけ現在であればウクライナでの戦争を想起させるものとなっており不思議な(という形容がふさわしいのかどうかも疑問だが)アクチュアリティのある演目だった。

ゼレンカは筆者にとっては未知の作曲家だったがもっと聴いてみたいと積極的に思った作曲家である。リズムや対位法、適度な派手さが好ましいと感じる。

テ・デウムには独唱者がそれぞれいたが、もともと教会音楽なのでオペラに比するとそう活躍するわけではない。合唱団がおおいに活躍する。音域的にもオペラと異なりむしろバス歌手(Armin Kolarczyk)が活躍した。思うに、教会音楽の場合、ソプラノで作曲家が想定していたのはボーイ・ソプラノではないか。バスは合唱団のヴェテランで上手な人が受け持ったのかもしれない。当日ソプラノは二人いて、そのうち一人は日本の芸大出身でカールスルーエの音大で研鑽中の竹田舞音さんだった。

プログラムによると、1970年代末にゼレンカの作品は再発見され、これが今日チェコ・バロック音楽の中心となっている。テ・デウムという神をほめたたえる歌は、4世紀ミラノのアンブロジャーノにまで遡れるし、さらに以前という説もある。

 

 

 

| | コメント (0)

ヘンデル作曲《ヘラクレス》の演奏評

前項の続き。

指揮はラース・ウルリク・モルテンセン。コペンハーゲンでコンチェルト・コペンハーゲンを率いバッハの録音などでおなじみかもしれない。

オーケストラは、いつものドイツ・ヘンデル・ゾリステンで、ヴェテラン揃い。このオーケストラは音楽学者や音楽学校・音楽大学の先生などが集まって出来ている。カールスルーエの州立劇場の通常のシーズンのオケとは全く別なオケである。そういうシステムを採用しているのはドイツではカールスルーエのみとのこと。

モルテンセンの指揮は、一つ一つのアリアの中でここといった特徴を際立たせることはまれで、一つのアリアは比較的平坦に進む。旋律を担当するヴァイオリンやオーボエには指示が出るが、チェロやコントラバスにはほとんど出ない。だからアリアによって低音楽器でリズムやアタック音でアクセントをつける指揮者もいるわけだが彼の場合にはそれはほぼない。しかし一つのアリアと次のアリアとのコントラストはテンポといい強弱といい思い切ってつける。その結果、メロディーラインや、曲の大きな流れを聞き取ることは容易になるし、アリアと次のアリアのコントラストがくっきりつくので曲のより大きな構成が前景化する(目立つ)。

歌手はヘラクレスがブランドン・シーデル(バスバリトン)。体格よく(ヘラクレスの場合はこれも重要な要素かと思う)声も朗々と響き立派なヘラクレスであった。妻のデイアニーラはクリスティーナ・ハマーシュトレーム(メゾソプラノ)。メゾらしい大人の色気をたたえた声で嫉妬にもだえ苦しむアリアやアジリタを駆使していた。昨年は同じ役をハレンベリが歌っていたそうだ。オエカリアの王女イオレはローレン・ロッジ=キャンベル(ソプラノ)。小柄だが澄んだ通る声でアジリタもしっかり。ヘラクレスの息子ヒュルスはモーリッツ・カレンベルク(テノール)。英語の発音が妙に二重母音を強調したり強弱を強調して歌として聞き取りにくいのが難であった。従者リカスはジェイムズ・ホール(カウンターテナー)。案外出番が多い役で、演技・歌ともにナチュラルな良さがあった。

このオペラ(オラトリオ)では、合唱も活躍する。ヘンデル音楽祭合唱団が2016年に結成され、2017年の《セメレ》から登場したようである。彼らは歌うだけでなく、デイアニーラの嫉妬を表現するために彼女に密着して取り囲むといったその場その場のエモーションを表現する役割も果たしていた。またある時には舞台の両袖に姿を隠して声だけが聞こえて来たがそれもまた効果的であった。

 

 

 

 

| | コメント (0)

« 2023年2月 | トップページ | 2023年5月 »