《アキッレ・イン・シーロ》の演出家マリアム・クレマン
フランチェスコ・コルセッリ作曲、メタスタージオ台本のオペラ《アキッレ・イン・シーロ》についていくつかの項目を記したが、この項では、演出家マリアム・クレマンの考えを紹介したい。筆者は、オペラを観る時に、どんな演出かが関心の中心であることはほぼない。劇場で拍手をする時も歌手に対する拍手であったり、指揮者・オーケストラへの賞賛であったり、声には出さないがヘンデルやモーツァルト、ポルポラへの賛嘆の気持ちをこめて拍手をしていることが多い。そして時々、台本を書いた詩人(リブレッティスタ)の巧みな言葉遣いにもブラボーを心の中でそっとつぶやく。無論、そういう見方や聴き方が正しいなどというつもりは毛頭ない。ヴェルディやプッチーニ、モーツァルトやワーグナーのしかも人気作品の場合、聴衆の多くはそれを過去に何度も観たり聞いたりしていて、そこに新味を付け加えたいという意図、あるいは現代におけるアクチュアリティを持たせる意図が理解できなくはない。
だから、僕が演出に期待するものは、めったに上演されないものと、毎年のように上演されているものでは期待の方向が異なるのである。
今回の演出家マリアム・クレマンが Youtube で語ったり、プログラムで対話形式で語っていることは共感するところが多かったのである程度まとめて紹介したい。彼女はパリのエコール・ノルマルで文学史・美術史を学び、その後、ベルリンのシュターツ・オーパーでインターンをし、各地の劇場で演出助手をつとめた。演出家としてはローザンヌでロッシーニの《ブルスキーノ氏》、プッチーニの《ジャンニ・スキッキ》でデビュー。その後、ワーグナーのフランス初演もの、まったくの新作、蘇演のものなどを演出している。
以下、今までの項目と一部重複するが彼女の主張をまとめておく。
このオペラを演出するにあたって、彼女は通常は当該のオペラの音楽を何度も聴くという。しかし今回は既録音がないので、リブレットを読んだ。しかしそれだけでは作品の半分なので、楽譜を入手し読み込んでいたところ、コレペティがスコアを全部弾いて歌ったものが配布された。
クレマンによれば、音楽の専門家に尋ねてもコルセッリって誰?と言われることが何度もあり、演出家にとっても、歌手にとっても、聴衆にとっても新しい存在、新しいオペラなわけだ。そのため演出はある意味でシンプルな方向性が打ち出せた。つまりストーリーテリングをすること。皆が知らない作品なのだから、ストーリーを伝えることが大事なわけである(この点大いに賛成)。ただし、メタスタージオの台本のト書きにまったく忠実かというとそうではない。本来、シーロという島で外部から隔絶した世界にアキッレ(アキレス、アキレウス)は閉じ込められている。そこでそれを表象するために洞窟が用いられている。クレマンによれば、洞窟は母の子宮をも意味する。アキッレの母はアキッレが将来トロイ戦争に行き戦死することを予言で知りそれを避けるためにシーロという島の王リコメーデに息子を女装させピッラという名で預けたのである。さらには、洞窟はセクシュアルに女性性も示している。演出家は、この英雄アキッレになる以前の若者アキッレ(ピッラという女性)が描かれているのが興味深いという。ウリッセ(オデュッセウス)がこの島にやってきてアキッレを刺激することにより、アキッレは自分の性的アイデンティティが揺れ動く。これがまさに今日的である。クレマンが注意を喚起しているのは、このオペラの前半では、アキッレ(ピッラ)と王の娘デイダミアは前半では、対等な二人の女性であること。それがウリッセが出てきて介入すると、ピッラがアキッレになって、男性となってしまい、19世紀的な「男は男、女は女」という世界に秩序づけられてしまう。秩序だった世界なのだが、以前にあった性別の自由は消えてしまうのである。だから演出家はこのオペラは17世紀的な性的曖昧さから19世紀的な「男は男、女は女」的世界への移行を示しており、初演は1744年でちょうどその中間点だという。
また、このオペラはスペイン王女とフランス王子の結婚を祝して書かれた。フランスではこのカップルを祝して書かれたのがラモーのオペラ《プラテー》である。そうした性格を反映して《アキッレ》では、最後の場面で王リコメーデが、劇場にいた本物の王に語りかけ祝福する。つまり劇の世界をはみ出て、現実の世界に語りかけるのである。合唱も同様。その場面を演出家として無視することも出来たわけだが、クレマンはあえて残し、むしろ舞台上に祝福されるカップルと花嫁の父であるスペイン王を載せてしまうことにしたのだ。彼女はまた、観客はみなアキッレが出征したあとトロイ戦争で死んでしまうことを知っているわけで、表面的なハッピーエンドの後にアキッレの死があることをどう受け止めたのかと自問している。
音楽に関しては、ダ・カーポ・アリアに関して、クリシェのようにそこで演劇的な動きが止まってしまうと判で押したように言われるわけだが、彼女はそうだろうかと疑問を投げかける。ほぼ一文が繰り返されるダ・カーポ・アリアだが、現実にも一つの文が様々な重みを持つことはあり得るし、五分が何も起こらずにすぎることなどいくらでもある。しかもダ・カーポ・アリアはすべてが同じではなく、一つ一つが異なった個性を持っている。だから、ダ・カーポ・アリアの間に歌手を動かして何かで埋めることは必要なく、音楽を信じることが大切なのである。埋めるよりも、音楽を感じることが重要だ。
以上、演出家クレマンの主張の主な点をまとめてみた。
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