カヴァッリ《カリスト》その2(上演について)
前項の続き。カヴァッリのオペラ《カリスト》(川口、リリアホール)。
今回の上演、オケも歌手の演奏レベルが非常に高く音楽的に大いに楽しめたのは濱田芳通の指揮によるところも大きいだろう。
彼は、リズムといいテンポといい自由自在に変化させ切れ味のよい音楽を聴かせるのだが(弾き振りならぬ、吹き振りである)、劇の場面の表情に合わせているので、楽員たちも心得たもので、表情の変化に難なくついていくし、むしろそれを楽しんでいるようだった。特に注目すべきは、レチタティーヴォの表情づけで、シリアスなものと、コミカルなニュアンスが入り込んでいるものとのコントラストを思い切りつけているのでレチタティーヴォで音楽が弛緩しない。このあたりの劇と音楽の運びに関しては、指揮者と演出の中村敬一の息が合っているのだろうと推測する。
歌手たちも、上記の音楽上、演出の意図を踏まえ、非常に明確なキャラクター作りが出来ていて、それが音楽劇を理解し味わうのをおおいに助けていたと思う。カリスト=中山美紀(ソプラノ)は、ジョーヴェ=坂下忠弘(バリトン)にだまされてしまうのだが、ジョーヴェがディアナに変身した際に坂下はファルセットでディアナを演じきっていた。場合によっては変身した後はディアナ役の歌手と入れ替わることもあるわけだが、今回はジョーヴェの歌手がそのまま声域を変えて歌ったわけである。また、坂下は若いのでフレッシュなジョーヴェで、一年前に観たスカラ座の《カリスト》ではジョーヴェはベテラン歌手だったのと対照的だった。ベテラン歌手も神々の王ジョーヴェらしくて良いのだが、清新なジョーヴェも次々に女性・ニンフに惹かれる若々しさが自然な感じでよかった。ディアーナの中川詩歩(ソプラノ)、エンディミオーネの新田壮人(カウンターテナー)のやりとりもしっとりとした叙情的表現が素晴らしかったが、とりわけ新田の声の響き渡る声は嬉しい驚きだった。彼の舞台は何度か観ているが今回歌手としての器が一回り大きくなった感がある。ジョーヴェについてくるメルクーリオは中嶋克彦、ジョーヴェの妻ジュノーネは野間愛。ディアーナに仕えるニンフのリンフェアはカウンターテナーの真弓創一。コミカルな役どころをよくこなし、会場を何度も沸かせていた。リンフェアと掛け合いのある森の三人がパーネの田尻健、シルヴァーノの松井栄太郎、サティリーノの彌勒忠史。
以上の全員が歌唱の部分のみならず、レチタティーヴォの部分まで実に劇の表情を効果的に伝えていて、だから劇として観ていて退屈しないのだった。
実はこれには、隠し味的な工夫もあって、指揮の濱田がプログラムに書いているのだが、彼はかなりカヴァッリのスコアに手を入れている。この時代のスコアで、オーケストレーションが不完全でたとえば木管楽器のパートを補う必要があったり、アリアの部分でオブリガート的な弦楽パートを付加したりというのは通常行われることだろう。それだけではなく、カヴァッリと同時代の作曲家バルトロメオ・デ・セルマ・イ・サラヴェルデやピアージョ・マリーニ、フィリッポ・ファン・ヴィッヒェル、マリーニなどなど数多くの作曲家の曲を挿入し、かつカヴァッリのオリジナルをきめ細かくカットしたという。そのせいか、以前に聴いた時より、音楽が色彩に富み、表情の変化に富んでいると感じた。これも濱田の聴衆を楽しませる工夫なのだと思う。
前半と後半に別れた上演(リブレット的には3幕構成)。後半の始まりには、例の森の3人の日本語での掛け合いの漫談があって笑いをとっていた。
こうした数多くの工夫により、《カリスト》は実に生き生きとしたエンターテイメントに仕上がっており、なおかつ17世紀オペラの音楽様式の自由闊達さを深く感じさせる上演となっていた。
実にレベルの高い上演で慶賀すべきことだ。
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