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2023年2月21日 (火)

コルセッリ作曲《シーロのアキッレ》その2(上演および作品)

前項からの続き。

このオペラがスペイン王女とフランス王子の祝婚のためのオペラであることは前項に記した。

しかしここで祝福されたカップルのその後は悲しいもので、二人の仲はむつまじかったらしいのだが、最初の子の出産三日後に王女は死んでしまう。そしてルイ15世の息子である王子はルイ15世より先に亡くなってしまったのだった。

2月19日の上演の歌手は

王リコメーデがミルコ・パラッツィ。リコメーデの役は、ウィーンでカルダーラが作曲したときには カストラートによって歌われたのだが、マドリッドではアントニオ・モンタニャーナという初期のバス歌手によって歌われた。モンタニャーナはヘンデルも彼のためにあてがきをした優れた歌手だった。パラッツィはロッシーニ歌いらしく整った歌唱であった。ウリッセを歌ったのはティム・ミード。イギリスのカウンターテナーらしく劇的というよりは端正な歌いぶり。デイダミアはフランチェスカ・アスプロモンテ。安定したカント・バロッコを聞かせた。テアジェーネのサビーナ・プエルトラスはアリアは3曲なのだが、いずれも華やかな技巧を伴う派手な曲で満場の喝采をさらっていた。アキッレ(ピッラ)は予定ではフランコ・ファジョーリだったのだが病気のためガブリエル・ディアス。7曲もあるアリアを含め大いに健闘していたと思う。アルカーデはクリスティアン・アダム。ネアルコはホアン・サンチョ。最高音はやや苦しそうなのだが、今回、他の歌手と較べレチタティーボが上手いと思った。発音が良いだけでなく、そこに感情がのっていて、それがこちらにも伝わる。

舞台は洞窟のようなゴツゴツとした岩の中にある。もとのリブレットではシーロ島のリコメーデの王宮の内外で展開されるわけだが、今回は大きなグロッタで、演出家によると島と同様に外界から孤立していることが重要で、さらにアキッレが母の配慮により女装させられているわけで、母の子宮を象徴するものであり、さらには女性一般のセクシュアルな象徴でもあるとのことだった。劇場ではパンフレットが無料で配布されており、ページ数はさほどではないのだが、中身は充実している。今回上演されるにあたって当時の手書きの楽譜から印刷楽譜を起こした音楽学者のアルバーロ・トッレンテの楽曲解説や、演出家のマリアム・クレマンが3ページのインタビューに応じ、演出意図を明快に語っている。作品は楽譜とリブレットであるから、どちらも尊重されるべきであるのは言うまでもない。バロック音楽では装飾音符がしばしば自由に付加されるのは当時の習慣だからまったく問題ないわけだが、リブレットにない場所が出てきたり、そこに書かれていない振る舞いをする場合、演出家はそれを正当化する理由を持っていなければならない。音楽では編曲と断っている場合は別として、そして前述の装飾音やカデンツァは別として相当に厳密な対応関係がある。しかし20世紀の後半に読み替え演出が出てくると、勝手な変更が当たり前となり、その変更理由もきちんと釈明されない場合も少なくない。批評家やジャーナリストも演出を紹介し、論じることが第一の仕事のようになっている場合さえある。

今回の演出ではインファンタ(スペイン王女)が舞台に出ずっぱりなのと、インファンタの両親、婚約者が最初と最後に出てくるのは、演出家の創意工夫だと思うが、これはこのオペラが二人の結婚を祝福するために上演された、という事情(この情報もリブレットの解説のあちこちで触れられている)を可視化して表象しているのだということはわかりやすい。

またこのオペラの一番中心のテーマ、アキッレが女装したままで身を潜めているか、ウリッセに刺激されて戦士としてトロイ戦争に加わる決意をするかは、何度も葛藤が明示的に示される。アキッレにとっては深刻な悩みだが、端からみているとウリッセのプレゼントのなかで思わず剣や盾に手が伸び、しまったというしぐさをするところなどはコミカルでもある。演出家が言うように、このオペラの前半は17世紀のカヴァッリの《カリスト》的な世界(男の神ジョーヴェが女神ディアナに変身しニンフ・カリストと仲睦まじくなる)から、話が進展してアキッレが戦士として出征を決意する場面までいくと男女の入れ替えがきかずジェンダーの固定された19世紀的世界に移っていくのだという。クレマンによれば、18世紀半ばに書かれたメタスタージオ+コルセッリのオペラは、17世紀から19世紀の経過過程を見せるオペラでもあるというのだ。この見立てに全面的に同意するかしないかは別として、まことに明快な説明であり、反論をしようとする人がいれば反論がしやすい。何の説明もなく、この部分を取り上げればこうも解釈できるし、あの部分を取り上げるとああも解釈できるという状態のまま放置された演出の何と多いことか。

アイヴァー・ボールトンの指揮とオーケスタ・バロッカ・デ・セビッリャ(セビージャの発音もあり)の演奏。

私の記憶では3年前、2020年3月にこのオペラがマドリッド(発音にこだわるとマドリースの発音もあり、その場合スは英語のth のように上下の歯の間に舌をいれた音)で予定されていた時点では、オケはテアトロ・レアルの座付きのオーケストラが予定されていたと思う。ボールトンは何十年も前からヘンデルなどバロック・オペラを演奏しているヴェテランだが、彼はモダン・オケでもバロック専用オケでも区別なく、あるいは必要に応じて振り分けていたからだ。こちらもそのつもりでいたらオーケスタ(オーケストラではない)・バロッカ・デ・セビッリャの演奏となった。これは私にとっては好ましい変化で、歌手もカント・バロッコ(バロック歌唱)を駆使して歌う人が多いのだから、モダン・オケよりもバロック・オケの方がふさわしい。音量の点でも、音色の点でも。オケのピットを覗くと、チェロはエンドピンのないものだし、管楽器もそれぞれピリオド楽器、テオルボやチェンバロがいて、今回の上演で珍しいのはチターである。二幕でギリシア人を歓待するために、アキッレがチターを奏でつつ歌うことを求められる。そこの部分でオケにチターが加わる。残響の長い、独特の音色が一興。ボールトンの指揮は、非常に精力的で、明らかに曲のダイナミズムを優先的に大事にしている。だからともすれば、叙情的な部分のしっとりとした感じが薄い。これは歌手の歌い方によっても変わってくるわけで、正直なところを言えば、この部分はファジョーリが歌ったらどういう表情を浮かび上がらせるのだろうかと思ったところが数カ所あった。ボールトンの良いところは、テンポ早めで突き進み、ダイナミズムを強調するやり方なので、音楽が間延びして退屈あるいは音楽の推進力が衰弱してしまい音楽が止まりかけるといった場面は皆無だったことだ。そもそもこのオペラは祝祭のためのオペラだし、皆が若い二人の結婚を祝福するたものものなので、曲も元気な(というとあまりに雑ぱくであるが)曲が多いのだろう。

コルセッリの曲は Youtube で序曲があがっているくらいで、事実上初めてだったが大いに楽しめた。この曲はぜひとも繰り返して聴いてみたい、観てみたいと思ったしこれ以外の彼のオペラー彼は祝婚オペラを他に2つ書いているーもぜひ観てみたいものだ。この上演を3年越しで実現させた関係者各位に深い感謝。

 

 

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