コルセッリ作曲《アキッレ・イン・シーロ》の上演評
フランチェスコ・コルセッリ作曲メタスタージオ台本のオペラ《アキッレ・イン・シーロ》を再び観た(マドリッド、テアトロ・レアル)
2回目になると、歌手の動きや演出がどうなるかのあらましが判っているのでより細部により精緻な見方が可能になる。音楽にしてもそうで、
このオペラのように蘇演の場合、予習は不可能なわけで(youtubeに序曲だけが別団体の演奏であがっていた)すべてのアリアが真新しい。その中で、二回目になるとテアジェーネの3つのアリアは技巧的であるし、オーケストレーションも他のアリアより派手だとわかる。デイダーミア(アキッレの恋人)のアスプロモンテの歌唱は素晴らしかったが、役としてはやや損な役回りで、デイダーミアは最初からアキッレの正体がばれてしまう、あるいは出征してしまうことを恐れるという存在で、キャラクターの劇的変化に乏しい。その点、デイダーミア(サビーナ・プエルトラス)は、最初は王からデイダーミアの婚約者として紹介されてその気になっているのだが、男前の娘ピッラ(実はアキッレ)に惹かれていく。アキッレの正体がばれてからは、こんな立派なカップルなら、自分は婚約者としての立場を放棄してこのカップル(アキッレとデイダーミア)を認めるという。デイダーミアは女性歌手が歌っているのだが、アリアの途中で凜々しい服を脱ぎ捨てまとめていた髪をほどき、女性性を強調して退場するアリアがあった。これは演出家クレマンがジェンダーの重層性と戯れ、このオペラにおける性の曖昧さが充満していることを強調したのだと思うが、同時にその後の場面でアキッレが女装をかなぐり捨てる場面の伏線にもなっていたのだろうと思う。ただし、この伏線が必要であったか、効果的であったかは意見が分かれるところかもしれない。
このオペラで案外活躍するのは合唱である。最初は冒頭でバッカスを讃えており、次にはオペラの中盤で退屈を追い払おうと歌い、最後はこのカップルの結婚を祝していた。
全体として個々の歌手は、中3日となったせいか声もよく出ていたし、オケも前回よりまとまりがよくなっていたという印象を受けた。
実に祝祭的な音楽に充ちていて、ストーリーもコミカルな場面、シリアスな場面が交錯する楽しいオペラである。とりわけ18世紀半ばぐらいまでは王、王子、王女の結婚や戴冠など祝賀行事とオペラが結びついていたことを強く認識させるオペラだった。だからホルンやトランペットがたびたび登場した。指揮をみていると、指揮のボールトンはレチタティーヴォになるとチェンバロを弾いていた。このオペラでは、レチタティーヴォとアリアの接続が非常にうまく行っている。コルセッリの作曲の腕なのか、3年越しで作り上げた役作り、曲作りがこういう所に良い意味で反映され歌手がレチタティーヴォまで徹底的にこなした結果が現れているのか、あるいはその両方なのか。ともかく、レチタティーヴォの部分も少しもだれず音楽的なのは素晴らしかった。
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